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    レキシジン第1部「大東亜/太平洋戦争への流れ」5章「日本はなぜ戦争をしたのか」#101 愛する人、生まれ育った郷土を守る。大義が切り開いた人種平等の世界

    #101 愛する人、生まれ育った郷土を守る。大義が切り開いた人種平等の世界

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    5.日本はなんのために戦ったのか

    前回はアジアの解放と復興に対し、日本が大東亜戦争を通して果たした役割について、功罪両面の論があることを紹介しました。

    最終回となる今回は、日本がなんのために戦ったのか、その核心について迫ります。

    5-4.大義が歴史を作る

    その4.世界は大東亜戦争をどう見ていたのか

    - アジアから見た大東亜戦争 -

    もとより、アジア解放に果たした日本の役割については、アジアの人々が実際にどう感じているのかが問われるべきです。

    ただし、日本国内でも見解が分かれているように、アジア各国においても、その評価は一定ではありません。「日本をアジア解放の殉教者とはしない」との合意で構築された戦後の国際秩序は、戦後七十年以上を経て、すでに既成事実と化しています。

    現在は独立を果たしたアジア各国にしても、そうした歴史認識のもとで歴史を紡いできただけに、歴史の修正を期待することには無理があります。

    それでもアジア各国の要人が戦後まもなく残した言葉には、日本の掲げた大義を評価する声も少なからず見られます。

    そのなかのほんの一部を、以下に紹介します。

    ● ククリット・プラモート(後のタイ首相)

    「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。我々はこの日を忘れてはならない」(現地の新聞サイアム・ラット紙、昭和三〇年十二月八日)

    日本国紀』百田尚樹著(幻冬舎)より引用 <注釈- 5-4-1>

    <注釈- 5-4-1>
    この言葉がはじめて紹介されたのは名越二荒之助著『大東亜戦争を見直そう』であるとされています。しかし、どこからの引用なのかが明記されていなかったため、長い間、ククリット・プラーモートが本当に語った言葉なのかどうかをめぐり、論争がありました。

    百田尚樹著『日本国紀』によって、はじめて引用元が特定され、真実であったことが確定しました。

    なお、ククリット・プラーモートがタイ国の首相に就任したのは 1975(昭和50)年であるため、この発言当時はタイ語日刊新聞『サヤーム・ラット』の創刊者に過ぎませんでした。

    ククリット・プラモート
    wikipedia:ククリット・プラモート より引用
    【 人物紹介 – ククリット・プラモート 】1911年 – 1995年
    タイ王国の政治家・小説家・ジャーナリスト・映画俳優。タイ王族の出身。第18代タイ王国首相。イギリスのオックスフォード大学卒業後、大蔵省に入省。のち下院議員を経て1950年『サイアム・ラット』紙を創刊し、自ら主筆となって軍事政権批判を続けた。その間、タイで名著として名高い『王朝四代記』などを著し、さまざまな賞を受賞している。1974年には18名しか党員のいない社会行動党を結成し、党首となり、続く1975年にはタイ王国首相に就任した。政治活動中は雄弁家として知られた。

    以下は、吉本貞昭著『世界が語る大東亜戦争と東京裁判』(ハート出版)より引用します。

    ● アブドゥル・ハリス・ナスティオン(インドネシアの陸軍大将・国防軍参謀長)
    独立できた要素の第一は、日本軍が植民地政治体制を粉砕したことです。植民地体制の粉砕なくして独立はありえません。第二は、日本軍の猛烈な軍事訓練です。オランダはやってくれませんでしたし、我々自身がやろうと思ってもできるものではありません。日本軍時代の三年半でインドネシア人はすっかり変わったが、こんなに変わったことをイギリス軍やオランダ軍は分かっていませんでした。・・・・・・日本は、歴史に残ることをしてくれました。誰にも変えることのできない真実です。それを解釈するのは政治家やマスコミや学者ですから、今、いろいろに言われていますが、歴史に残る金字塔を打ち立てたということは間違いのない事実です。

    アブドゥル・ハリス・ナスティオン
    wikipedia:アブドゥル・ハリス・ナスティオン より引用
    【 人物紹介 – アブドゥル・ハリス・ナスティオン 】1918年 – 2000年
    インドネシアの軍人。最終階級は陸軍大将。戦後、スカルノがインドネシア独立を宣言すると、発足したばかりの正規軍に参加し、オランダとの独立戦争に身を投じる。大統領スカルノと副大統領モハマッド・ハッタがオランダ軍に捕らえられたため、インドネシア共和国非常事態内閣 (PDRI) が設立され、陸軍司令官およびジャワ管区司令官となる。独立後は2度にわたり陸軍参謀長に就任。民主主義期のスカルノ内閣では国防治安大臣を務めた。

    1965年の9月30日事件では暗殺されかけたがその難を逃れ、その後のスカルノからスハルトへの政権委譲の過程では、暫定最高国民協議会 (MPRS) で議長を務めた。のちにスハルトに政治上のライバルと見なされたことで失脚。和解後は「大将軍」に進級した。これはインドネシア陸軍の階級格付け制度では最高の位で、他の国でいう元帥に相当する。ナスティオンはスディルマン、スハルトに続き3人目の、そして今のところ最後の大将軍である。

    ● ゴ-・チョクトン(シンガポールの第二代首相)
    (「日本軍の占領は残酷なものだった。しかし、」の文言が省略されています。筆者注)日本軍の緒戦の勝利により、欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は自分たちも欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後十五年以内に、アジアの植民地は全て解放された。
    (一九九二年二月十一日の国立博物館戦争展の開会式にて)

    ゴ-・チョクトン
    wikipedia:ゴ-・チョクトン より引用
    【 人物紹介 – ゴ-・チョクトン 】1941年 –
    シンガポールの政治家。第2代首相(在任:1990年11月 – 2004年8月)。赤字だった国営船会社ネプチュン・オリエントの経営立て直しで認められ、国会議員となる。貿易工業大臣・保健大臣などを経て副首相兼国防大臣となり、リー・クアンユーの後継者候補の筆頭と目される。リー・クアンユーの引退により首相に就任。身長190センチの長身で温厚な性格として知られ、首相在任中は国民に高い人気を得たが、リー初代首相の影響力を受け続け、民主化を推進することはなかった。日本の首相による靖国参拝には強く反対している。

    ● グラバイ・デサイ(インド弁護士会会長)
    日本がこの度の大戦に敗れたことは、真に痛ましい。・・・・・・しかしどの民族でも、幾度もこの悲運を経験している。一旦の勝負の如き、必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国民においておやである。私は日本が極めて近い将来に、必ず、アジアの大国として、再び復興繁栄することを信じて疑わない。

    印度は程なく完うする、その独立の契機を与えたのは、日本である。印度の独立は、日本の御蔭で三十年早まった。これは印度だけではなく、ピルマ、インドネシア、ヴェトナムをはじめ、東南亜諸民族共通である。印度四億の国民は、これを深く肝銘している。

    印度国民は、日本復興に、あらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様と信ずる。

    ● ラダビノッド・パ-ル(東京裁判判事)
    私は一九二八年から一九四五年までの十八年の歴史を二年八ヶ月かけて調べた。とても普通では求められないような各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中には、おそらく日本人も知らなかった問題もある。それを私は判決文の中で綴った。この私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることが分かるはずだ。然るに日本の多くの知識人たちは、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に「日本は罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙をあえてしたのだ」と教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分に研究していただきたい。
    (昭和二十七年十一月六日の広島高等裁判所での講演より)

    ラダ・ビノード・パール
    wikipedia:ラダ・ビノード・パール より引用
    【 人物紹介 – ラダ・ビノード・パール 】1886年 – 1967年
    インドの法学者・裁判官。コルカタ大学教授・国際連合国際法委員長を歴任。極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国(インド)が派遣した判事の一人。日本では「パール判事」と呼ばれることが多い。国際法の専門家としての立場から被告人全員の無罪を主張した「パール判決書」は、よく知られている。米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであると主張した。

    - 欧米から見た大東亜戦争 -

    次にアジア以外の声も紹介します。

    ● ピータ-・F・ドラッカー(クレアモント大学社会科学部教授)
    結局のところ、最後に勝ったのは日本だった。日本のとった道、つまり自らの主権のもとに、近代化すなわち西洋化をはかるという道が、結局西洋を打ち負かした。日本は、西洋を取り込むことによって、西洋の支配を免れた。

    軍事的には、日本は第二次世界大戦において、歴史上もっとも決定的な敗北を喫した。自ら植民地大国たらんとする政治的野望は達せられなかった。しかし、その後の推移では、政治的に敗北したのは西洋だった。

    日本は、西洋をアジアから追い出し、西洋の植民地勢力の権威を失墜させることに成功した。

    その結果西洋は、アジア、ついでアフリカからの西洋化された非西洋世界に対する支配権を放棄せざるをえなくなった。

    ピーター・ドラッカー
    wikipedia:ピーター・ドラッカー より引用
    【 人物紹介 – ピーター・ドラッカー 】1909年 – 2005年
    オーストリア・ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人経営学者。
    「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management) の発明者として知られる。ナチスの政権掌握に伴い、渡英。ロンドンの日本画展を訪れたことをきっかけに、日本社会とりわけ明治維新に関心を抱くようになる。その後、米国に移り、ファシズムの起源を分析した『経済人の終わり』を著したことで多くの注目を集め、チャーチル首相からも絶賛された。ニューヨーク大学やクレアモント大学などで教授を務めた。

    ● クリストファ-・ソ-ン(サセックス大学教授・英国学士院特別会員)
    一九四〇年の情況に親しく接した者が、その後一九四八年まで同地を訪れることもなく、その間いろいろな報告を調べて最新の事情にふれることもなかったとしたら、おそらく自分の目を信じることができなかっただろう。この目覚しい進展は、一つには日本が直接、意識的にもたらしたものだった。しかしそれは、日本の意図をはるかに超えていた。

    一九四一年の末から四二年の初めにかけて、日本軍は劇的な圧倒的勝利をおさめました。そのとき、日本が白人の威信に与えた衝撃は、一九〇四-〇五年の日露戦争でのロシアに対する勝利よりもずっと大きなものでした。

    太平洋戦争の直接の原因はたしかに人種的なものではありません。しかしその勃発は、直接間接にこの戦争に巻き込まれた多くの人々の人種的自覚を高めたのでした。日本の緒戦の勝利、特にマレ-作戦とシンガポール作戦での勝利は、相手側に大きな屈辱を与えました。

    ● ルイス・アレン(ダ-ラム大学フランス語教師・ビルマ戦線情報将校)
    ビルマの戦時の首相バ-・モウは、日本がその軍国主義と彼らの人種的幻想によって裏切られたことについて述べ、もし日本が開戦当時宣言したアジア人のためのアジアの政策に最後まで忠実であったならば、アジアの半分の信頼と感謝を失うことはなかったであろう、と述べている。一九四二年と一九四五年の間の、日本の国民としての過(あやま)ちがいかようであれ、歴史はこの信頼と感謝を回復するであろう。永い見通しとして、ヨーロッパ人にはこれを認めることがむずしく、苦々しいことでさえあろうが、アジア数百万の民族をその植民地の過去から解放したことは、日本の永続的な業績である。

    ● マウントバッテン元帥(連合国軍東南アジア最高司令官)
    かつて不敗を誇った日本軍も、半年の死闘に、衣服も靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だった。指揮の崩壊と飢餓に追い詰められたとき、前途に横たわるのは生き地獄だった。日本軍はインパ-ルにおいて、また全ビルマにおいて敗れるべくしてついに敗れた。

    兵理である。しかし、そこには何かが残った。それは史学の権威トインビーが、いみじくも喝破した通りである。もし、『日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』

    ルイス・マウントバッテン
    wikipedia:ルイス・マウントバッテン より引用
    【 人物紹介 – ルイス・マウントバッテン 】1900年 – 1979年
    イギリスの海軍軍人。最終階級は海軍元帥。ビクトリア女王の曾孫。大戦中、1943年5月に連合軍東南アジア最高司令官に任命され、日本に占領されたビルマの奪還作戦を成功させた。1947~48年インド総督を務め、インドとパキスタンの分離・独立への移行を実現。アイルランド共和軍 IRAによって休養中のヨットに時限爆弾を仕掛けられ、暗殺された。

    ● ミルトン・オズボ-ン(オーストラリア国立大学国際関係学科主任研究員)
    日本の東南アジアへの進出は、この地域のナショナリストたちが長年主張し続けていた議論、つまり、東南アジアの植民地権力とその代理人たちをアジア人が打ち破ることができるという議論を力強く説得力のあるものにした。しかも、彼らは単に敗れただけではなかった。

    その敗北に続いて、白い膚(はだ)の外国人は社会における特権的な地位から引きずり降ろされ、平和的な時代に植民地社会の骨組みを維持するために精出して働いてきた下層労働者と暮らし向きが変わらなくなった。

    東南アジアの社会的内部の関係の、このような根本的な変容の重要性については、おそらくいくら強調しても、し過ぎることはないだろう。東南アジア人でナショナリズムに強く傾倒することがなかった人々にとってさえも、ヨーロッパ人の優越性という神話が、ほとんど一夜にして崩壊させられたという事実は、この上なく重要なことであった。東南アジアの世界は、二度と同じものにはなりえないのであった。

    その5.大義が人種平等の世界を切り開いた

    - 大義が歴史を創る -

    これらの発言からもわかるように、大東亜戦争の前と後とで、アジアが確実に変わったことは間違いありません。

    日本は資源を確保することを第一の目的として、アジアに居座る欧米諸国の軍を蹴散らしました。

    しかし、日本が為したことは、単に欧米の軍を撃破したことに留まりません。数世紀にわたって維持されてきた「白人の優越性」を覆したことこそが、アジア復興の嚆矢(こうし)となりました。

    アジアの解放と復興は、白人の優越性の神話が崩壊することで、はじめて為せたのです。

    日本の掲げたアジア解放の大義は、日本の思惑を超えて一人歩きをはじめ、日本が敗れてもなお命脈を保ち続け、ついには現実の世界を変革することに成功しました。

    まさに大義が歴史を創った、といえるでしょう。

    - 邪悪な日本のイメージとアメリカの戦争犯罪 -

    だからといって大東亜戦争に対してなんの反省もなく、手放しで賞賛し、正当化することには問題があります。大戦中に多くの人命が失われたことも事実であり、アジア解放の美名のもとに数々の蛮行が為され、数え切れないほどの悲劇も生まれました。できることならば、避けるべき戦いであったことは間違いありません。

    されど、「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と置き換え、日本の掲げた大義を否定し、欧米諸国からの視点のままに戦前・戦中の日本がすべて悪だったと貶(おとし)めることは正しいのでしょうか?

    戦前・戦中の日本の邪悪さを強調することが、アメリカの戦争犯罪に対する免罪符になっていることも知っておいた方が良いでしょう。

    東京大空襲をはじめとする非戦闘員の殺傷を狙った日本の各都市への無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、明確な戦争犯罪です。これについて責められるべきは、日本ではなくアメリカです。

    しかるに日本の邪悪さを言い立てることが「無差別爆撃を受けたり、原爆を落とされても仕方ない、日本はそれだけの悪いことをしたのだから」とのロジックにより、アメリカの免罪符に使われれているのが実状です。

    戦後の日本占領下において、GHQが日本人に対する洗脳を徹底的に行ったのは、原爆投下の非人間性を問う国際世論の矛先をかわすためでした。日本人が自ら反省し、原爆を投下されてもやむを得ないと納得することが、アメリカの戦争犯罪を隠蔽(いんぺい)する一番の近道だったのです。

    なお、日本軍がアジア各地で為した蛮行と原爆投下の関連性については、満州事変を決行した石原莞爾が、戦後に次のように述べています。

    「戦時中、日本の軍隊が多くの悪いことをしたことは否定しない。私は特に東亜諸民族に対しては、平身低頭、謝罪する。しかし、戦場の興奮によって、非戦闘員を侵害することは往々にしてあり得ることだ。むろん忌むべき行為であるが、これらの偶発的な事件と、計画的な大虐殺とは根本的に違う。トルーマンの行為こそ、戦犯第一級中の第一級の行為である。

     今日いかに戦勝国がこれを抗弁しようとも、公正な第三者と、後世の人類によって、歴史的な審判を受けることはまぬがれ得ない。一国の大統領ともあろう者が、かかる野蛮行為をあえてして、しかも少しも恥ずるところがない。我々は、このような者を相手にして戦ったことは、なんとも恥ずかしい」

    アメリカの戦争責任』竹田恒泰著(PHP研究所)より引用

    この石原の発言は、UP通信の記者らを相手に語られたものです。GHQによる厳しい検閲のもとで石原の発言は封印され、当時の日本人が知ることはなかったものの、まさに正論と言えるでしょう。

    石原莞爾(いしわら かんじ)
    wikipedia:石原莞爾 より引用
    【 人物紹介 – 石原莞爾(いしわら かんじ) 】1889(明治22)年 – 1949(昭和24)年
    陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。東亜連盟の指導者。関東軍作戦参謀として、柳条湖事件から満州事変、及び満州国建設を指揮した。これらは軍中央の意向を無視した暴走であったが、実績が認められ参謀本部作戦部長となる。日中戦争に反対し、後に東条英機との対立から予備役に追いやられた。のち、立命館大学国防学研究所長。戦時中は右翼団体東亜連盟を指導。病気及び反東条の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。主著『世界最終戦論』などの思想を含め、今も絶大な人気を誇る。
    ハリー・S・トルーマン
    wikipedia:ハリー・S・トルーマン より引用
    【 人物紹介 – ハリー・S・トルーマン 】1884年 – 1972年
    アメリカの政治家。第 33代大統領 (在任 1945~1953) 。上院議員を経て副大統領となり、ルーズベルトの死に伴い大統領に就任。白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)への加入歴もある。終戦間際、米陸海空軍参謀本部は、首脳会談の前に合同会議を持ち、「ソ連が参戦する予定であることと、天皇制存続を認めれば、日本の降伏は今日にでもありうる。日本はすでに壊滅状態で、原爆を使う必要はなく、警告すれば十分」との結論を出した。

    さらに、後に大統領となったアイゼンハワーやマッカッサーをはじめとする米陸海軍の将軍たち全員が原爆投下に反対する意見を具申したが、トルーマンは反対論を退け、原爆投下を命令した。その後、原爆投下についての正当化を行ったため、アメリカでは未だに「戦争を早期終結に導きアメリカ将兵の命を救った大統領」との評価が定着している。戦後は反ソ・反共のトルーマン-ドクトリンを展開した。しかし中国の共産主義化を背景にマッカーシズムの台頭を許し、1950年には朝鮮戦争に武力介入。88歳にて死去。

    アメリカにとって太平洋戦争とは、邪悪で野蛮な軍国主義国・日本を懲らしめるために戦った正義の戦いです。それゆえに、日本を降伏に追い込んだ原爆投下は正義の鉄槌(てっつい)であり、非難される謂われはない、とされています。アメリカにとって原爆投下は、後世に語り継ぐべき正義の行いなのです。

    しかし、そのことに納得できる日本人は少ないことでしょう。

    米英に正義の視点をおく歴史認識だけが正しく、日本の立場から見た歴史認識は間違っていると一方的に非難されるのでは、釈然としないものがあります。

    東京や大阪をはじめとする日本の諸都市を狙った無差別爆撃や原爆投下については日米双方に言い分があり、相反する見解をどちらかが全面的に認める日など、恐らく永遠に訪れることはないでしょう。

    大切なのは相手の理解を求めることではなく、日本なりの正義を語り継いでいくことではないでしょうか。

    だからこそ、先の大戦において米英が大義を抱えたように日本にも大義があったことを、私たちは忘れるべきではありません。

    徴兵され戦地に赴いた一人ひとりの兵士にしても、銃後を支えた人々にしても、その直接的な動機は家族や愛する人、生まれ育った郷土を守るためでした。

    それでも大東亜戦争の大義は、多くの日本人の心に宿っていました。それは人類平等の理念であり、謂われなき人種差別に対する怒りでした。結果的に敗れたとは言え、日本人には日本人なりの大義があったのです。

    - そして、人種平等の世界が訪れた -

    大東亜戦争を起こしたことは間違いであったとしても、戦地も内地も含め、大東亜戦争の大義に殉じた父祖たちの死がけして無駄でなかったことは、戦後の世界に目を移せば明らかです。

    戦前の世界を支配していた「白人の優越性」など、現在の世界には微塵(みじん)も残っていません。

    有色人種だからといって悪びれる必要など、今はありません。大戦前とは異なり、有色人種であろうと白人の前で堂々と闊歩(かっぽ)できるのが今の時代です。

    戦後、アジア諸国が大きな犠牲の上に独立戦争を戦い抜き、次々に独立を果たすと、アフリカ諸国もこれに続きました。その結果、世界から植民地がほぼ一掃され、国家の数は劇的に増えました。

    国家増加
    逆転の大戦争史』オーナ・ハサウェイ, スコット・シャピーロ著(文藝春秋)より引用
    大東亜戦争後に、国家の数が激増していることが明らかにわかる

    大東亜戦争前に日本が提議した人種差別撤廃条項は否決されましたが、現在は「人種差別が悪である」との認識が世界的に定着しています。

    その意味では日本は大東亜戦争に敗れたものの、その目的として掲げた「アジア解放の大義」、引いては人種平等の世界を実現したと言えるでしょう。

    日本帝国史研究で高名なスタンフォード大学名誉教授のピーター・ドウスは、大東亜戦争について次のように語っています。

    「日本人は西洋の脅威から自分を守るために、近代国家の道を歩んだ。白人の奴隷になり、植民地支配を受けることへの恐怖だった。この脅威から多くの日本国民は『白人の優越』を覆さねばならないと、心底から思った。そのスケールは、『平民』を解放したフランス革命や、『労働者』を解放したロシア革命よりもはるかに壮大なものだった。それは、有色の民の解放という『人類史の大革命』だったと呼んでも過言ではない」

    人種戦争──レイス・ウォー太平洋戦争 もう一つの真実』 ジェラルド・ホーン 著(祥伝社)より引用

    日本を一方的に悪とする戦後の世界秩序に縛られている現在においては、ピーター・ドウスやトインビーのような歴史学者の論は異端です。

    ピーター・ドウス
    wikipedia:ピーター・ドウス より引用
    【 人物紹介 – ピーター・ドウス 】 1933年 –
    アメリカの歴史学者。専門は日本近代史、日本帝国史研究。スタンフォード大学名誉教授、同フーヴァー研究所研究員。イギリス帝国史研究で進展した「非公式帝国」論など、帝国史研究における新しい概念を導入することで、戦前日本の帝国史・植民地統治に関する研究の進展を促進した。

    しかし、今から百年後、二百年後の世界において、大東亜戦争に対してどのような意味づけが為されているのかは、わかりません。長期的な視野から振り返ってこそ、はじめて歴史の解釈は為せるものと言えるでしょう。

    大東亜戦争では、直接戦った兵士も銃後を支えた人々も含め、多くの日本人がアジア解放の大義を信じて戦いました。そこに数々の矛盾があったことも事実です。多くの過ちも含んでいます。

    それでも、父祖たちの思いを汲み取り、大義のために殉じたことに対しては素直に顕彰する思いを向けても、よいのではないでしょうか。

    父祖たちによって紡がれた歴史の延長線上に、私たちの今日があるのですから・・・・・・。

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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