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    レキシジン第1部「大東亜/太平洋戦争への流れ」5章「日本はなぜ戦争をしたのか」#99 アジア解放の理想と現実 大義はプロバガンダに過ぎなかったのか?

    #99 アジア解放の理想と現実 大義はプロバガンダに過ぎなかったのか?

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    5.日本はなんのために戦ったのか

    前回はリスクを伴う戦争という行為を父祖たちがなぜ積極的に支持したのかについて、父祖たちの思いに焦点を当てて追いかけました。

    今回はアジア解放の大義のなかにも理想と現実という超えられない壁があり、数々の矛盾をはらんでいたことを見ていきます。

    5-4.大義が歴史を作る

    その1.アジア解放の大義は後付けに過ぎないのか

    日本の掲げた「アジア解放」の大義については、現代でもさまざまな議論があります。アジアの解放について、日本がどれだけ本気で取り組んでいたと考えるのかは、人によって大きな温度差があるためです。

    利他の精神から自らの犠牲を省みることなくアジアの解放のために尽くしたとする論もあれば、アジア解放は日本が欧米諸国に代わってアジアを支配するための詭弁に過ぎないとする論もあります。

    後者を裏付けるために、アジアの解放は戦局が煮詰まってきてから後付けされた言い訳に過ぎないと斬り捨てる指摘も、頻繁に為されています。

    先に重光外相が日本の戦争目的としてアジアの解放をあげたことを紹介しましたが、声明が出されたのは戦争が始まって2年ほどが経過した後のことです。

    その頃、戦局はすでに日本に不利に傾いていました。開戦後すぐにアジア解放の大義を掲げたのであればまだしも、形勢が悪くなってから降って湧いたようにアジア解放の大義を持ち出すのでは、信頼度が下がるのは当然です。

    戦後から、つい最近まで、そのように言われてきましたが、開戦日に当たる1941(昭和16)年12月8日の新聞各紙に掲載されている「帝国政府声明」には、日本の戦争目的として自存自衛と並び、アジアの植民地を解放することが宣言されていることが、今日では判明しています。

    「帝国政府声明」のなかから、該当部分を現代の言葉に置き換えて以下に引用します。原文は<注釈- 5-4-1>を参照してください。

    「そのため、今回帝国は東南アジア地域に武力進攻せざるを得なくなったが、それは決して東南アジア住民に対して敵意を持つからではない。ただ、米英から東南アジア住民に対し加えられてきた暴政を排除し、東南アジアを白人によって植民地化される前の、明白なる本来在るべき姿へ戻し、ともに協力して繁栄することを願うからである。大日本帝国は東南アジアの住民たちがこの戦争目的を了解し、東亜に新たなる政治経済体制の構築を目差し共に行動することを疑わない」

    大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった―帝国政府声明の発掘』安濃豊著(展転社)より引用

    <注釈- 5-4-1>
    「而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る、なんらその住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して、東亜を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽を分かたんと祈念するに外ならず。帝国は之ら住民が我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり」

    すでに開戦日にアジア解放の大義が声明としてはっきり打ち出されていることから、それを苦し紛れの後付けとみなすことはできません。

    しかし、日本の開戦経緯を振り返れば明らかなように、開戦か避戦かをめぐって激論が繰り広げられた連絡会議において、アジアの解放について話し合われたことなど一度もないことも事実です。

    議論の中心にあったのは、常に日本の自存自衛についてのみでした。日本という国家の生存のみが関心の的であり、アジアの解放が省みられることはなかったのです。

    そのことは、日本の戦争目的が自存自衛にあったことを明確に物語っています。

    ただしアジアの解放を、日本が資源を奪取するために持ち出した見栄えの良いプロバガンダに過ぎない、と決めつけることは早計です。

    開戦間際ではなく、少なくとも明治以降からの歴史を振り返ったならば、日本のなかに大アジア主義が脈々と流れていたことがわかります。

    「大アジア主義」とは、西洋列強のアジア侵略に対抗するために、アジア諸民族の連帯と団結によって新しいアジアを築こうとする思想と運動のことです。

    明治維新以降、アジアの同胞とともに植民地からの解放を目指そうとする動きは、日本の悲願として命脈を保ち続けてきました。

    日英同盟があったことから、政府が公に「アジアをアジア人の手に取り戻そう」と呼びかけことはできなかったものの、主に民間人を通してアジアの民族自決と復興を求める運動は、辛抱強く続けられてきました。

    ことに有色人種がはじめて白人を打ち破った日露戦争後は、アジア各地から多くの留学生が日本に集って学び、帰国を果たした後、自国にて民族自決の運動を展開しています。

    実質的にアジアで唯一自由を謳歌する日本を中心に、「白人のためのアジア」ではなく「アジア諸民族のためのアジア」を目指す機運は、確実に高まっていました。

    アジア解放の大義は、けして単なる後付けとして持ち出された軽々しいものでないことは、歴史を見れば一目瞭然です。前章まで大東亜戦争へと至った長い物語を綴ってきたのは、そのことを明らかにしたかったからこそです。

    その2.理想と現実の狭間で

    - 大義と国益 -

    日本にとって大東亜戦争は、アジアに支配者として居座る欧米諸国に向けて明治以降、我慢に我慢を重ねて引き絞り続けてきた弓から、ついに渾身の力を解いて矢を放ったも同然です。

    その矢には、アジア解放の大義が宿っていました。

    しかしながら、日本がアジア解放だけを目指して聖戦を敢行したとする論には、現実を無視して、あまりにも日本を美化しすぎているきらいがあります。

    勧善懲悪の美しいだけの物語は、たいていは映画やドラマ・小説などの虚構のなかでのみ存在するに過ぎず、現実的とはとても言えません。

    先に「トゥキュディデスの三要素」を紹介したように、日本はけして大義のためだけに戦ったわけでもなければ、アジアを救う大義のために自ら犠牲になる覚悟で戦ったわけでもありません。

    開戦経緯を振り返れば明らかなように、日本が大東亜戦争を戦った一番の目的は自衛のためであり、国家が生存するために不可欠な石油などの資源を獲得するためでした。

    植民地化されて喘ぐアジア諸国を解放しようとする政治的な意図のために、戦争へと踏み切ったわけではありません。

    まずはじめに自存自衛という切羽詰まった目的があり、その目的を利するためにアジア解放の大義が掲げらました。

    虐げられたアジアの同胞を助けたいという義憤がアジア解放の大義に込められていたことはたしかですが、アジアの解放が日本の国益に利すると冷静に判断されたことも事実です。

    日本から距離的に近い南方のアジア地域は、石油を含めて日本が生きていくために必要な重要物資の宝庫でした。ですが、そのアジア地域はすべて欧米諸国の植民地とされ、ブロック経済圏に取り込まれていたため、日本が通常の貿易をどれだけ望んでも、自由な商取引ができない状況にありました。

    アジアから欧米諸国の軍を追い出し、ブロック経済圏を打破することは、それらの地域と日本が自由に貿易できることを意味しています。

    日本から見て、戦前はタイを抜かせばアジアに独立国はひとつもありません。民族自決によって独立国が誕生し、互いの利益となる自由な貿易が成立すれば、日本の国益にも大いに適います。

    アジアの解放は、日本の国益そのものでした。

    欧米諸国の支配を断ち切り、アジアをアジア人に取り戻すために大東亜共栄圏を構築し、日本をリーダーとして欧米諸国に対抗しようとする構想は、日本の国益に直結していました。
    ▶関連リンク:第1部 4章 日独伊三国同盟(4/5)欧米に頼らない生存圏をアジアに!大東亜共栄圏が掲げた理想

    そのことをあげつらい、日本を盟主に据えること自体が欧米諸国に代わって日本がアジアの支配者になることを目論んだものだ、と批判する論もあります。

    しかし、アジアで欧米諸国に対抗できる国が日本以外にはなかったこともたしかです。戦後、敗戦によって日本軍が去った後、日本統治下において独立を果たした国や、独立を約束されていた国に対して、かつての宗主国が再び軍を差し向け植民地支配を続けようとしたことからも明らかなように、パリ不戦条約の高邁な理念とは裏腹に、欧米はアジア諸国の独立を認めようとはしませんでした。

    日本が盟主となって大東亜共栄圏を欧米の侵略から守ることには、現実的に見てやむを得ない面があったのです。

    - アジア解放の理想と現実 -

    まして当時は戦時中です。

    日本は電光石火の勢いを得て、たちまちアジアから欧米諸国の軍を追い出し、武力をもってアジアの解放を成し遂げました。すると立場はすぐに入れ替わり、今度はアジアを連合国の軍から守る役割を負うことになりました。

    その際、重視されたのは重要物資の確保です。石油をはじめとする資源を本土に送り届けることが、なによりも優先されました。

    その一方、後回しとされたのが民族自決です。たとえば1943(昭和18)年5月31日の御前会議において、「マレー、スマトラ、ジャワ、スマトラ、セレベスは帝国領土と決定する」とされました。インドネシアの独立は許さず、日本の領土に組み入れることが決定されたのです。

    独立を認めなかったのは、インドネシアには日本がもっとも欲していた石油資源があったからです。戦時中の日本は石油を渇望していました。石油を確実に本土に送り届けるという国益を優先するために、インドネシアの人々が願ってやまない独立は見送られるよりありませんでした。

    このことは日本の掲げたアジア解放の大義と明らかに矛盾します。

    さらに日本軍政下の現地支配は、過酷を極めました。資源の確保を優先する日本の統治は、欧米諸国による植民地支配よりも厳しかったとの証言も、多々寄せられています。

    こうしたことから、日本の掲げたアジア解放の大義はプロバガンダに過ぎず、日本が本気で取り組んだわけではなかったと決めつける論もあります。

    されど、当時が平時ではなく、戦時中であったことを無視することもできません。戦時中は日本国内においても、国民の暮らしは困窮を極めました。列強を追い出した後のアジア諸国の管理が過酷を極めたことも、戦時下ゆえのやむを得ない面がありました。

    日本は本土から豊富な資金を注ぎ込むことで台湾・韓国・満州の近代化に尽力し、インフラ整備や教育の充実、現地の産業育成などを行ってきました。ところが戦時下の日本には、さすがにそれだけの余裕はありません。

    占領下の人々に我慢ばかりを強いたことにより、現地の人々の反発を招いたことも、否定できない事実です。

    しかし、すべては戦時下という非常事態で行われたことを考慮する必要があるでしょう。

    もし仮に大東亜戦争が日本の勝利で終わり、平和な時代が到来したのであれば、日本が戦時の占領体制を続ける必要などありません。平時であれば、アジア諸国の独立は加速したことでしょう。

    以上のことを考慮すれば、戦時下において日本がアジア諸国の独立を阻んだからといって、そのことをもって日本のアジア解放の大義がまやかしであると言い切ることはできません。

    理想を実現するためには、段階を踏む必要がありました。

    次回はアジア解放に日本がどのような役割を果たしたのかについて、相反する論を紹介しながら検証してみます。

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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