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    レキシジン第2部「フィリピン レイテ島の戦い」3章「レイテ陸上戦」#116 ブラウエン飛行場奪還作戦 レイテ島で日本軍の将兵が死んでいった本当の理由

    #116 ブラウエン飛行場奪還作戦 レイテ島で日本軍の将兵が死んでいった本当の理由

    第2部.レイテ沖海戦から地上戦まで、かく戦えり

    第3章.レイテ陸上戦3.ブラウエン飛行場奪還作戦

    リモン峠で第1師団が米軍と死闘を繰り返していた間、レイテ決戦のための2個師団半の兵員と資材をマニラから輸送するために、陸海空が協同してあたる作戦が進められました。これを「多号作戦」と呼びます。

    神風特攻隊の襲撃に脅える米機動艦隊による捜索網の間隙を縫うように第1師団の輸送が成功を収めたことは、前回紹介したとおりです。

    今回は、その後の多号作戦にふれながら、レイテ決戦において日本軍が乾坤一擲(けんこんいってき)の思いを込めて企図したブラウエン飛行場奪還作戦を追いかけてみます。

    1.前途多難な多号作戦

    レイテ陸上戦(3/4)の12
    オルモック湾口で米爆撃機B25の直撃弾を受けたことで、船体が真っ二つに割れ沈没寸前の海防艦第11号。マニラ~レイテ間を航行する輸送船は、米軍によってことごとく撃沈された。
    フィリピンの戦い (太平洋戦争写真史) 』西本正巳著(月刊沖縄社)より引用

    第1師団以降の輸送は困難を極めました。レイテ島の補給基地のあるオルモックまで、兵員と荷物を満載した20万トンの船舶で輸送することは、制空権と制海権を失った状態の日本軍には不可能に近い無理難題だったのです。

    マニラからオルモックまでは720キロの距離があり、高速の軍艦で17時間、低速の輸送船では1日以上を要します。

    輸送中は米潜水艦の魚雷と米機動艦隊の艦載機にいつ襲われてもおかしくなく、レイテ島周辺に近づけば、今や米軍に占領された飛行場から飛び立った基地航空機が待ち構えています。

    第14方面軍の山下将軍らがレイテまで兵員と武器弾薬や食糧などの資材を安全に届ける術はないとレイテ決戦に異を唱えたのは、現地の状況を考えれば、もっともなことといえるでしょう。

    そもそも大型の輸送船自体が不足していました。9月21日に米軍による初めての空襲が行われて以来、15万トン級の大型船はことごとく撃沈され、フィリピン海域から姿を消していたのです。

    それでも大本営がレイテ決戦を決定したため、上海からマニラに来る船舶を徴発することで、多号作戦が実施に移されました。

    第1師団がほぼ無傷でレイテに着いたことを知った米軍は衝撃を受けます。マッカーサーはこれ以上の輸送を妨ぐために、ハルゼー機動艦隊に対してマニラの日本軍基地を叩くよう協力を求めました。

    レイテ陸上戦(3/4)の11
    wikipedia:ウィリアム・ハルゼー・ジュニア より引用
    【 人物紹介 – ウィリアム・ハルゼー・ジュニア 】1882年 – 1959年
    アメリカの軍人。最終階級は海軍元帥。太平洋艦隊空母部隊を指揮していたが、真珠湾攻撃の際には空母エンタープライズとともにパールハーバーを離れており、難を逃れた。1942年に空母から発進した艦載機によって初めて日本本土空襲を行う。のち第3艦隊の司令官となり
    史上最大の海戦となったレイテ沖海戦にて日本連合艦隊を撃破した。その際、囮役となった小沢機動艦隊に吊られて全軍で北上したことの是非は、今も繰り返されている。自分が騙されたこと、および過失があることは、ついに死ぬまで認めなかった。沖縄戦の途中から指揮官となり、日本の降伏まで第一線艦隊の司令長官を務めた。猪突猛進の性格から「猛牛」のニックネームをもつ。

    ハルゼーは予定していた日本本土空襲を延期し、11月5日と6日にかけてルソン島のクラーク基地とリンガエン湾、マニラ湾、ベルデ海峡にある船舶に対して艦載機による空襲を敢行しました。

    その際、神風特攻隊による反撃を極度に恐れたため、80カイリ以上、陸に近づくことは控え、黎明時に絞った奇襲にとどめています。今日では神風特攻隊はたいした戦果を残していないとも言われていますが、特攻が開始された直後のフィリピンの戦いにおいて、特攻隊の存在は米軍に多大な恐怖心を植え付け、そのことが様々な恩恵を日本軍にもたらしました。

    ハルゼー機動艦隊による空襲は限定されていたものの、日本軍の被害は甚大でした。大岡昇平著『レイテ戦記』によると、志摩艦隊で生き残っていた「那智」をはじめとする多くの艦船がマニラ湾に沈められ、日本の航空機439機が撃破されています。台湾から新たに派遣されていた航空隊T部隊は、あっさりと全滅に至りました。

    ハルゼー機動艦隊による奇襲は、日本軍が多号作戦のために苦労して用意した航空兵力と船舶を一瞬にして奪ったのです。

    2.レイテ決戦は続行

    レイテ陸上戦(3/4)の10
    小磯首相が「レイテ島は天王山」と語り、国民を鼓舞した新聞記事。
    フィリピンの戦い (太平洋戦争写真史) 』西本正巳著(月刊沖縄社)より引用

    連合艦隊がフィリピン沖にない今、ハルゼー機動艦隊による空からの攻撃を防ぐ手立てなど日本軍にはありません。そのことは、ハルゼー機動艦隊がその気になれば、いつでも同じ程度の空襲を再現できることを意味していました。

    このような状況のなか、多号作戦を継続できないことは明らかです。11月7日の連絡会議の席上において、第14方面軍の山下大将と武藤参謀長は南方軍の寺内元帥に対し、レイテ島増強の即時打ち切りを提案したとされます。

    10月20日以降にも山下大将がレイテ決戦に反対したことは先に紹介しましたが、当時と今回では戦況に大きな違いが生じていました。レイテ湾に敵上陸部隊が大軍にて押し寄せていることは確実であり、飛行場が落ちたことで制空権は完全に米軍に握られています。我が軍はリモン峠で苦戦しており、もはやカリガラ平野を奪還する望みは、ほぼ絶たれたといってよい状況です。

    連合艦隊がレイテ沖海戦で惨敗を喫した今、陸軍だけがどれだけ頑張ろうとレイテ制圧の見込みは立ちません。これ以上、レイテに兵員と資材を注入しても、無駄に終わることは目に見えています。そうであれば面子をかなぐり捨てて補給を打ち切り、既存兵力のみでレイテの米軍を釘付けにするための持久消耗戦を行うように指示を与え、ルソン島決戦の準備を進めるべきだと、山下将軍らは主張したのです。

    しかし、またも現場の意見は大本営に無視されます。11月8日、東京で最高戦争指導会議が開かれ、「レイテ戦続行」の方針が堅持されることが決まったのです。

    小磯国昭総理大臣が「レイテ島は天王山」と叫び、国民に向けて拳を振り上げたのは、この直後のことです。台湾沖航空戦の戦果が幻だったことが判明し、現地軍がレイテ増強の即時打ち切りを進言しているにもかかわらず、大本営はあくまでレイテ決戦に固執しました。

    レイテ陸上戦(3/4)の9
    小磯国昭:wikipedia より引用
    【 人物紹介 – 小磯国昭(こいそ くにあき) 】1880(明治13)年 – 1950(昭和25)年
    明治-昭和時代前期の軍人・政治家。最終階級は陸軍大将。第41代内閣総理大臣。日露戦争に従軍の後、軍務局長となり三月事件や十月事件に関与。陸軍次官・関東軍参謀長・第5師団長・朝鮮軍司令官を歴任後、予備役となる。平沼・米内両内閣で拓相を務め、朝鮮総督となる。東条内閣が倒れた後を受け組閣。最高戦争指導会議を設置するなど戦争の継続に努めるも有効な戦局打開策を講じえず、沖縄戦の最中に総辞職に至った。戦後はA級戦犯として終身刑となり、服役中病没。その容貌から「朝鮮のトラ」と呼ばれた。

    11月8日の総軍、方面軍連絡会議において飯村参謀長は大本営の決定を受け「レイテ決戦は続行される」と淡々と答えました。武藤参謀長は納得できず食い下がりましたが、飯村参謀長は「レイテ決戦は大本営命令であるから遂行されねばならぬ」と繰り返すばかりです。

    武藤参謀長はついに怒声を張り上げました。

    「大本営も総軍も戦局を見る限を失っている。多くの将兵を無駄死させてよいのか。方面軍はもうルソン島防衛の責任を持てないが、それでもよろしいか」

    黙って聞くことしかできない飯村参謀長でしたが、恐らくは同じ思いを抱いていたことが、次のエピソードからうかがえます。ハルゼー機動艦隊によるマニラ空襲の戦況を南方総軍から大本営に報告する際、「英断を望む」の一言を、あえて付しているからです。

    レイテ陸上戦(3/4)の8
    飯村穣:wikipedia より引用
    【 人物紹介 – 飯村穣(いいむら じょう) 】1888(明治21)年 – 1976(昭和51)年
    昭和初期の陸軍軍人。最終階級は中将。開戦前、総力戦研究所において研究生とともに日米開戦となった場合のシミュレーションである「総力戦机上演習」を行い、日本の敗北という結論を出した。この演習ではソ連とアメリカが軍事的に協力することなど実際の太平洋戦争をかなり正確に予測していた。感情に流されることなく、データをもとに理知的に物事を判断できる人物であったとされる。レイテ決戦に当たっては南方軍と方面軍の板挟みとなりながらも、大本営の決定を実行するよりなかった。東京防衛軍司令官として終戦を迎える。

    「英断」がレイテ決戦の打ちきりであることは明らかです。はじめにレイテ決戦を下令した南方総軍としても、思わしくない戦況を目の当たりにすることで、レイテ決戦の愚かさにようやく思い至ったといえるでしょう。方面軍には伝えなかったものの、この頃には南方総軍でさえレイテ決戦に懐疑的な思いを抱いていたのです。

    こうして方面軍も南方総軍も気乗りしないなか、大本営の方針によってレイテ決戦は継続されることとなり、この日以降、レイテ島への兵力補給はさらに強化されることになります。

    3.第26師団のレイテ上陸

    11月8日から11日にわたる多号作戦第三次、第四次輸送によって送られたのは、中国戦線で山西省の八路軍を相手に対ゲリラ戦を重ねてきた第26師団を中心とする兵員と資材です。

    第26師団の司令官には歴戦の将軍として知られる山県栗花生中将が新たに任命されています。「山県」の姓からもわかるように、陸軍の元勲山県有朋の血を引く人物です。

    レイテ陸上戦(3/4)の7
    捷号陸軍作戦〈1〉レイテ決戦』防衛庁防衛研修所戦史室 (編集) 朝雲新聞社出版 より引用
    【 人物紹介 – 山県栗花生(やまがた つゆお) 】1890(明治23)年 – 1945(昭和20)年
    昭和初期の軍人。最終階級は中将。歩兵第11連隊長として日中戦争に出征。開戦後、独立混成第21旅団長として東部ニューギニアの諸作戦に参加。手痛い敗戦を経験した後、第26師団長に親補され、レイテ決戦のためレイテ島に渡航した。上陸時に米軍に襲われ、師団主力の装備が海没するなか、ほぼ手ぶら状態で米軍との戦いに挑む最中に戦死を遂げ、師団は壊滅した。

    レイテ陸上戦(3/4)の6
    wikipedia:山県有朋 より引用
    【 山県有朋(やまがた ありとも) 】1838(天保9)年 – 1922(大正11)年
    明治-大正時代の軍人・政治家。元老。元帥陸軍大将。第3・9代内閣総理大臣。松下村塾門下生として尊攘思想を学び、のちに戊辰戦争に参加。明治維新後、ヨーロッパ諸国の軍制を視察し陸軍創設・徴兵令施行・軍人勅諭の発布など軍制の整備に努めた。日本陸軍の基礎を築いたことから「国軍の父」とも呼ばれている。法相・内相・首相・枢密院議長を歴任。晩年も陸軍のみならず政官界の大御所として「元老中の元老」とされ、隠然たる影響力を保った。「日本軍閥の祖」とも称される。

    この頃の陸軍の人事には明らかな傾向がありました。大きな敗戦の経験者には内地を踏ませないという暗黙の了解です。敗軍の将から日本軍の劣勢が国民に伝わることを恐れたためです。

    ニューギニア戦線で敗戦を経験した山県中将も、その一人です。釜山から内地へ戻ろうとしていたところへ指令が届き、再び前線へと引き返すことになったのです。すでに高齢の将軍にとって、第26師団を率いてレイテに赴けとの命令は過酷でした。

    第26師団を乗せた第3、第4次輸送船を間接的に支援するために、戦艦大和をはじめとする栗田艦隊の残存部隊もまたブルネイ泊地を出ています。スリガオ海峡からレイテ湾に再び突入するかのような動きを見せることで、ハルゼー機動艦隊を引きつけ、その隙に輸送を成功させようとの陽動作戦です。

    この陽動作戦が功を奏したのかどうかは不明ですが、ハルゼー機動艦隊の関心はマニラ湾に向けられており、戦艦大和の動きにも輸送船団の動きにも、反応を示していません。

    輸送船団が初めて襲撃を受けたのは 9日の夕刻、タクロバン飛行場から飛び立った米機によってです。ちょうどそのとき、命令を受領するために各隊の将校が輸送船の艦橋に集合していたことは、第26師団にとって不幸なことでした。米機の銃撃により、多数の将校が戦死を遂げています。隊を率いる将校の死は、第26師団のレイテでの戦いぶりに大きな悪影響を及ぼしました。

    さらに輸送船の船底に穴を空けられたことにより、港まであとわずかであったにもかかわらず、ほとんどの積荷の揚陸をあきらめるよりない状況に陥りました。それでも機転を利かして兵員だけは無事に上陸させたものの、それが限度でした。米機の再襲撃により、武器弾薬もトラックも食糧も、海中へと没したのです。

    このため第26師団の兵1万が上陸を果たしたものの、兵士1名あたりが携行できたのは明治時代に造られた旧式の三八銃に弾薬は130発のみ、食糧一週間分のみでした。

    このような貧相な装備でレイテの戦いに投入された第26師団の将兵は、不運であったとしか言いようがありません。

    第26師団から内地へ生還を果たせたのは、わずか300余名に過ぎないという事実が、その過酷さを物語っています。

    しかも300余名のうちの200名は、レイテに向かう途中で輸送船が米機によって撃沈されたため、沈没地点に近いマスパテ島へと退避し、そのまま山中に籠もって終戦を迎えた兵です。残る100余名の大半は諸般の事情からマニラに残存していた隊です。

    結局のところ第26師団のうち、レイテ島から生きて帰ることができたのは、将校1名、兵士22名の計23名に過ぎません。第26師団の将兵のほとんどはレイテにて散華したのです。

    4.日本軍の将兵が死んでいった本当の理由

    第3次輸送が7割方失敗に終わったことを受け、11月9日、山下大将は南方総軍の飯村参謀長に多号作戦の打ち切りについて再考してくれないかと改めて申し入れています。翌10日、武藤参謀長はレイテ作戦の続行がルソン島防衛力を弱め、無益の将兵の犠牲を増すだけであると力説しました。

    しかし、寺内元帥は大本営の意向を受け「レイテ戦は依然続行する」と答えています。事態は方面軍の危惧した通りに進んでいましたが、一度定まった大本営の方針は依然として堅持されたのです。

    11月17日、南方総軍はマニラを離れ、サイゴンへと引き揚げていきました。その際、南方総軍は東南アジア全域を管轄するためフィリピンばかりにかまっていられない、との表向きの大義とは裏腹に、もはやレイテ決戦の悲観的観測が広がったことにより、責任を問われることを恐れて逃げ出したのではないかとの噂が、フィリピンに残る将兵の間でささやかれています。

    多号作戦は12月9日の第9次輸送まで繰り返されました。大型船舶による兵員輸送が行われたのは2回に過ぎず、その他は小型快速輸送艦による補給物資の輸送が実施されました。裸同然で戦場に赴いた第26師団に兵器弾薬を持たせ、強力な兵団に仕立てることが優先されたためです。

    物資の輸送に成功した艦もあれば、失敗した艦もあります。しかし、成否にかかわらず共通していたのは、輸送に使われた船舶は帰途、あるいはマニラ湾にて必ず米機の襲撃によって沈められたことです。制空権を確保できないゆえの悲劇は、延々と繰り返されました。

    多号作戦が失敗した背景には、帝国海軍の歴史と伝統が大きく影響しています。大艦巨砲主義に凝り固まった帝国海軍は、巨大戦闘艦の建造と乗員の養成ばかりに力を入れ、近代戦を遂行する上で必要不可欠な輸送と護衛を軽視してきました。そのツケは物資の補給を断たれた兵士たちに重くのしかかったのです。

    第26師団の上陸によってレイテ島の陸軍兵力は4万5000となり、一日に必要とする食糧・弾薬・ガソリン等の総量は450トンと見積もられました。

    しかし、多号作戦は米機の襲撃に阻まれ、12月までに、第1師団が揚陸に成功した際の物量の 65%を揚陸することしかできていません。

    ことに食糧の補給は悲惨の一語に尽きます。マニラから積み出した白米7000トンのうち、揚陸できたのはわずか1000トンに留まっています。

    しかも、その1000トンの白米のほとんどは、前線まで届きませんでした。トラックが揚陸できなかったため、陸上輸送力が極度に不足していたためです。苦労して揚陸した大半の物資はオルモックに集積されたまま、米機による爆撃の目標になるだけでした。

    やがてオルモックに米軍が上陸すると、残されていた物資のことごとくは米軍に奪われています。

    レイテの戦いにおいて日本軍が対峙したのは米軍ですが、日本軍には米軍以外に戦わなければならない強敵がいました。それは、飢餓です。

    食糧がほとんど届かないなか、深刻な飢餓に襲われた兵士たちは密林のなかで病に倒れたり、餓死するよりありませんでした。その結果、レイテ島における日本軍の戦死者のうち、米軍に殺された将兵の数よりも病死、あるいは餓死を遂げた者の数が上回るという悲劇が起きています。

    レイテばかりではありません。ニューギニアなど他の太平洋の島々の戦いにおいても、食糧が欠乏し体力を失った揚げ句の病死、あるいは餓死者が、戦闘による戦死者を上回る現象に見舞われています。

    明治以降、輸送と護送を軽視してきた日本軍の悪しき伝統が、数多の日本兵を死地に追いやったのです。

    5.高砂族「薫空挺(くうてい)団」による斬り込み

    レイテ決戦の行方は多号作戦の成否にかかっていました。陸軍としてはレイテ島への補給作戦をなんとしても成功させなければ、戦線を維持することさえできません。

    そのために必要なことは、東海岸の飛行場から発進する米軍機による攻撃を防ぐことでした。オルモックに近づいた輸送船を襲撃したのも、揚陸を終えた帰途、輸送船が護衛艦共々沈められたのも、ブラウエン方面の飛行場から飛び立った米軍機が原因です。

    もともとは日本軍が造成した飛行場を米軍が占領し、逆利用されたために起きている悲劇でした。

    となれば、陸軍のとるべき作戦は一つです。レイテ島で死闘を繰り返している部隊への補給を成功させるために、ブラウエン方面の敵の飛行場に奇襲をかけて制圧し、その勢いをかってタクロバンに迫ろうと構想したのです。

    こうして、レイテの戦いでの劣勢を挽回するための一大作戦が敢行されることになりました。「ブラウエン飛行場奪還作戦」が、これです。

    第1次ブラウエン飛行場奪還作戦として企図されたのが、台湾の山岳民族である高砂族の志願兵から成る遊撃隊「薫空挺隊」による斬込隊の派遣です。

    当時の台湾は日本国の一部です。本土では徴兵制が敷かれていたことに対し、台湾では1941(昭和16)年より志願兵制度が実施されました。台湾で徴兵制が始まるのは、終戦間近の1944(昭和19)年になってからのことです。

    台湾の人々の大東亜戦争に寄せる関心は高く、アジアを白人の支配から解放するために共に戦おうとする気概にあふれていました。そのことは陸軍特別志願兵制度が実施されると、多くの応募者が押し寄せたことからも明らかです。

    1942年に第1回の応募が行われた際、定員1,000名に対し42万5千人を超える台湾青年が志願しています。この数字は、当時の台湾青年の14%にあたります。第2回も同じく1,000名の定員に対し、60万を超える応募者がありました。

    当時の台湾の人々が日本人と志を一つにして戦いに殉じたことは、否定できない事実です。

    山岳地帯に適応した高い身体能力を有する高砂族のなかから、さらに精鋭ばかりを選出して編成されたのが遊撃第1中隊と第2中隊です。彼らはジャングルでのゲリラ戦専門部隊でした。

    マニラに残留していた遊撃第1中隊に対し、ブラウエンの飛行場への攻撃命令が下ったのは11月22日のことです。

    第1中隊のなかから中重夫中尉率いる80名の遊撃隊員が選抜され、「薫空挺隊」と名付けられました。

    多号作戦の第6次輸送が11月27日にマニラを出港する予定に合わせ、40名の薫空挺隊が26日の夕刻にブラウエンの飛行場を襲撃しました。彼らは目標とする米軍飛行場に胴体着陸を敢行し、地上にある敵機と施設を焼き払ってから山中に退き、第16師団の残存部隊と合流する手はずになっていました。

    しかし、薫空挺隊が具体的にどのような戦いぶりを示したのかはわかっていません。薫空挺隊は一人残らず戦死を遂げたため、証言する者がいないためです。戦後に公開された米軍の資料によると、一機は飛行場に突入する前に対空砲火によって墜落炎上し、残る機はそれぞれ異なる海岸に着陸し、生き残った隊員は内陸に消えたとされます。

    そのため、残念ながら戦果は上げられなかったとされています。ただし、翌27日、オルモック港に米機の飛来は一機もなく、第6次輸送が成功したことは事実です。そのことに薫空挺団がどの程度の影響を及ぼしたのかは不明ですが、当時の陸軍はこれを薫空挺隊の戦果によるものと捉えました。薫空挺団の生存者はブラウエン飛行場近くの林に身を潜め、その後も米軍の隙を突いて斬り込みを行ったと信じられています。

    手ぶら同然だった第26師団のうちの一部は第6次輸送の成功により、上陸28日目にして、ようやく弾薬と食糧を手にできたのです。

    6.「天号作戦」と「和合作戦」の発令

    薫空挺隊によるブラウエンの飛行場襲撃が実施される前の11月23日、すでに第2次作戦の実施が決定されています。第4航空軍による「天号作戦」です。

    「天号作戦」も薫空挺隊と同じくブラウエンの飛行場への殴り込み作戦であることに変わりありませんが、異なるのは胴体着陸による奇襲ではなく、落下傘部隊の降下による正攻法であることです。

    落下傘部隊としての任務に携わったのは陸軍の空挺部隊である第2挺進(ていしん)団です。彼らは「高千穂空挺隊」と呼ばれました。

    落下傘部隊はヒトラーがベルギー・オランダ侵攻作戦において初めて実戦に投入して大成功を収めて以来、アメリカもソ連も力を入れて育ててきました。しかし、実戦に投入した時点での損害があまりにも大きいため、各国とも落下傘部隊に早々に見切りを付ける状況でした。

    そんななか、落下傘部隊によって華々しい戦果を上げた唯一の国が日本です。開戦後まもなく、インドネシアのパレンバンに降り立った落下傘部隊はオランダ軍の虚を突き、石油施設をほぼ無傷で占拠するという快挙を成し遂げました。彼らは「空の神兵」と呼ばれ、オランダの圧政から解放されたインドネシア人から熱烈な歓迎を受けています。

    落下傘部隊が実践に投入されるのは、パレンバン以来2年ぶりのことでした。

    さらに「天号作戦」には、残存する地上軍をあげて協力することが決まり、これを「和合作戦」と呼びます。第4航空軍による「天号作戦」と陸軍地上軍による「和合作戦」が結合することで第2次ブラウエン飛行場奪還作戦が企図されたのです。

    レイテ陸上戦(3/4)の5
    「和合作戦」全般図
    捷号陸軍作戦〈1〉レイテ決戦』防衛庁防衛研修所戦史室 (編集) 朝雲新聞社出版 より引用

    地上軍としてブラウエンへの進出を命じられたのは脊梁山脈にあった第16師団の残存兵と、第26師団の兵です。決行日は12月5日と定められました。

    「和合作戦」実施の命を受けた第35軍はオルモックにあった戦闘司令所を、作戦の指揮を直接とるためにブラウエン方面の山間にあるルピへと進出させることとなり、12月1日夕刻に行軍を開始しました。

    第35軍司令長官である鈴木中将にしても、第14方面軍がレイテ決戦に前向きでないことは、この頃には十分わかっています。それにもかかわらず、陸軍の総力を結集してのブラウエン飛行場奪還作戦の司令が届いたため、なんとしても一矢報いたい思いに駆られ、54歳の老体に鞭打ち、自ら前線に出て陣頭指揮をとる決意を固めたのです。

    しかし、「和合作戦」は始まりからして既にほころびが生じていました。脊梁山脈を横断してブラウエンに駆けつけるはずの第26師団が大雨と悪路に阻まれ、行軍が大幅に遅れたためです。

    このとき、第26師団の将兵が雨降る脊梁山脈の中で飢餓に襲われ、あたかも幽鬼の如く彷徨っていた実態については、別記事にて詳しく紹介しています。
    【レイテ島慰霊の旅2/3】リモン峠を往く。50日間米軍の猛攻に耐えた第1師団の戦い

    決行日である12月5日までに第26師団がブラウエンに到着する見込みは最早絶望的であったため、鈴木中将は決行を7日に延期することを方面軍に対して懇願しています。

    しかし、第4航空軍司令官の富永中将は地上軍のブラウエン進出が遅れていることに苛立ち、延期は士気に関わるとして却下しました。6日には第68旅団を乗せた第8次輸送船団がマニラを出港する予定であったため、その安全確保のためにも5日に決起する必要があったことも影響しています。

    レイテ陸上戦(3/4)の4
    wikipedia:富永恭次 より引用
    【 人物紹介 – 富永恭次(とみなが きょうじ) 】1892(明治25)年 – 1960(昭和35)年
    大正・昭和期の軍人。最終階級は陸軍中将。関東軍参謀・近衛歩兵第2連隊長・参謀本部第4部長などを歴任後、参謀本部第1部長に就任。北部仏印進駐に際して現地に出張し、参謀総長の命令と偽って軍司令官の間で合意した西原・マルタン協定に違反して強引に軍を進め、数百人の死傷者を出したことで停職処分となる。のちに陸軍省人事局長として中央に復帰。「東條英機の腰巾着」と周囲から皮肉られた。東條内閣総辞職と共に失脚。のちフィリピンに赴任。神風特攻隊の出撃命令を下すと、無情な命令により、志願した全パイロットを戦死させたとされる。マニラ撤退に際しては部下を置き去りにして逃亡。直前までマニラ死守を呼号していた軍司令官が単独逃亡した事実に、南方軍と第14方面軍の憤激をかった。その責により予備役編入の処置がとられたが「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのではないか」との声が上がり、再び召集され第139師団の師団長として満州へ送られる。終戦の後、ソ連軍に捕らえられシベリア抑留となる。陸軍史上最悪の軍人だと批判する声もある。

    こうして主力部隊であった第26師団の参戦なしで「和合作戦」を決行することとなりました。

    ところが決行期日は結局、1日延期されることになります。富永中将が気候状況の都合により「天号作戦」に基づく落下傘部隊の降下を1日延期し、6日の夜に決行すると言ってきたためです。

    この1日の延期により第26師団は参戦の可能性が増したことになります。一方、不運に見舞われたのは第16師団の残存兵たちでした。

    7.高千穂空挺隊、かく戦えり

    レイテ陸上戦(3/4)の3
    12月6日、ブラウエン飛行場奪還作戦の最中にタクロバン飛行場にて撃墜された日本軍爆撃機。
    フィリピンの戦い (太平洋戦争写真史) 』西本正巳著(月刊沖縄社)より引用

    5日の決行に向けて第16師団はすでに行動しており、無線での連絡がつかない状況に陥っていました。ただし、5日夜の決行は何らかの都合により、6日の未明に変更されています。

    第16師団の将兵は、その多くが脊梁山脈に逃れた後に遊兵となり、雨と霧の中で病死、あるいは餓死しています。それでも日本軍がレイテ決戦の命運をかけてブラウエン飛行場に殴り込みをかけると聞き、1千名の将兵が集結したとされます。

    もっとも1千名はあくまで帳簿上の数に過ぎず、実際に戦闘に参加できそうな兵は500名ほどでした。そのうちの半数以上は飛行場にたどり着く前に米軍のパトロール隊と遭遇して果て、実際にブラウエン北飛行場に斬り込んだ兵は150名ほどです。

    実は米軍はブラウエン飛行場を狙って日本軍が大がかりな作戦を準備している情報を掴んでいました。そのため前日までは日本軍による襲撃を警戒して厳戒態勢にありましたが、米軍の上層部は空と陸から大規模な作戦を展開する余力など日本軍には残っていないと判断し、作戦が実行に移されることはないと高を括り、警戒を解いていたのです。

    よもや日本の部隊が攻めてくるとは夢にも思わず眠っていた米兵は、不意を襲われてパニックに陥ります。第16師団は小部隊に分かれて飛行場を三方向から包囲する態勢をとり、午前中には飛行場の半分を制圧しました。

    制圧後、第16師団の兵は空を見上げ、高千穂空挺隊の降下を今や遅しと期待して待っていたことでしょう。予定ではすでに空の神兵が降り立っていなければならない時間です。

    しかし、落下傘部隊はついに現れませんでした。高千穂空挺隊の降下がその日の夕刻に変更になったことを、第16師団の斬り込み隊は知らずにいたのです。

    多大な犠牲を払い、数時間にわたって飛行場を占拠した第16師団ですが、米軍の反撃に耐えかね、ついに北方の森へと空しく撤退するよりありませんでした。戦死を遂げた第16師団の兵は、なぜ落下傘部隊が現れないのかと、最期まで疑念を拭えなかったに違いありません。

    その日の夕刻、高千穂空挺隊462名は第16師団が去った後のブラウエン北飛行場をはじめ、サンパブロさらにドラッグにわたる諸飛行場に降下しました。

    レイテ陸上戦(3/4)の2
    高千穂空挺隊が落下傘にて降下して始まったブラウエン地区戦闘図
    捷号陸軍作戦〈1〉レイテ決戦』防衛庁防衛研修所戦史室 (編集) 朝雲新聞社出版 より引用

    高千穂空挺隊は当時の日本軍の最精鋭部隊です。通常の部隊と比べ、装備も別格でした。兵員が装備している100式短機関銃は第26師団が装備していた明治時代に造られた三八式銃とは比較にならない最新鋭の機関銃です。

    1分間に900発の弾丸を発射できる100式短機関銃は接近戦において無類の強さを誇りました。米軍は、この機関銃を持った日本兵を見ただけで恐怖に襲われ、逃げ出したとされています。高千穂空挺隊が「空の神兵」と恐れられた由縁です。

    レイテ陸上戦(3/4)の1
    高千穂空挺隊が常備していた100式短機関銃の破壊力は米軍を恐怖に陥れた。
    フィリピンの戦い (太平洋戦争写真史) 』西本正巳著(月刊沖縄社)より引用

    高千穂空挺隊の降下は米軍をさらなるパニックに突き落としました。ブラウエン北飛行場に降り立った高千穂空挺団は米軍の救援に駆けつけた戦車大隊とも互角に渡り合い、6日の夜を徹して戦闘を続け、7日の朝には飛行場を完全に制圧しています。

    サンパブロ飛行場でも米軍が混乱したことに乗じ、高千穂空挺隊の兵は飛行場内に火をつけて回り、米機を炎上させることに成功しました。

    高千穂空挺隊の勇猛無比な戦いぶりは、レイテ決戦における日本軍の「華」と言ってもよいでしょう。日本軍は米軍に対して、ようやく一矢報いることができたのです。

    しかし、一時的に飛行場を制圧したところで、米軍の部隊が救援に駆けつければ不利に陥ることはわかりきっています。もともと高千穂空挺隊に与えられた任務は、神風特攻隊と同じ「特攻」です。

    落下傘降下によって米軍を攪乱(かくらん)し、米軍の反撃を封じるために米機を破壊したあとは飛行場を制圧し、第26師団が到着するまで持ちこたえる必要がありました。生きて帰ってこられる可能性は、初めからほぼゼロに近い特攻作戦です。

    第26師団の主力は飛行場まで、あと10キロの距離に迫っていました。米軍の大部隊が集結したことで次第に劣勢に陥る高千穂空挺隊ですが、第26師団が到着すれば戦局を逆転できると信じ、必死の抵抗を続けたのです。

    ところが9日、ルピに司令部を構えていた鈴木中将の元に、山下将軍から命令が下ります。直ちに「和合作戦」を打ち切り、オルモックに戻って同地を防衛せよ、との下令でした。

    日本軍の総力をあげたブラウエン飛行場奪還作戦のさなか、日本軍がまったく予想していなかった事態が生じ、ついに作戦の打ち切りが決定されたのです。

    この続きは次回にて。

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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