#06 欧米列強はこうして植民地を支配した

白人による有色人種殺戮と略奪の500年シリーズ

欧米列強はこうして植民地を支配した

これまで見てきたように、欧米列強は圧倒的な軍事力を背景にアジア各地へ進出していきました。しかし、ここで一つ疑問が残ります。

ヨーロッパから遠く離れたアジアで、数千万、時には億単位の人口を抱える地域を、なぜ少数のヨーロッパ人が長期間にわたって支配することができたのでしょうか。

もちろん、植民地支配の方法は国や時代、地域によって異なります。ただ実際の統治を見ていくと、いくつか共通する特徴が見えてきます。

軍事力によって征服する。抵抗を抑える。現地の民族や地域の違いを利用する。さらに、他の植民地から兵士や労働者を動員し、現地の有力者や教育制度まで統治機構へ組み込んでいきました。

植民地とは、単に「外国の軍隊が国を占領した」というだけの話ではありませんでした。

その1 まずは圧倒的な軍事力で支配する

もっともわかりやすい例が、イギリスによるビルマ支配です。イギリスとビルマは19世紀に三度戦争を行いました。1824~26年の第一次英緬戦争、1852~53年の第二次英緬戦争を経て、1885年に第三次英緬戦争が勃発します。

このときイギリスが上ビルマ攻略のために編成したUpper Burma Field Forceは、兵站・工兵・医療部隊などを含め、イギリス兵とインド兵を合わせて約1万人でした。

イギリス人だけの軍隊ではありません。すでに支配下に置いていたインドの部隊も、新たな地域の征服に投入されていたのです。

1885年の第三次英緬戦争で降伏するビルマ軍
1885年11月27日、第三次英緬戦争で降伏するビルマ軍。撮影:Willoughby Wallace Hooper。出典:Wikimedia Commons / British Library(Public Domain)

イギリス軍は約50隻の浅喫水蒸気船などを使ってイラワジ川を一気に北上し、1885年11月28日に首都マンダレーを占領しました。ティーボー王は降伏し、1752年以来続いてきたコンバウン朝は滅亡します。

王とその家族はインドへ追放され、最終的にインド西部のラトナギリで暮らすことになりました。1886年には上ビルマがイギリスへ併合され、旧ビルマ王国の領域は英領インドへ組み込まれていきます。

1885年に英軍占領後のマンダレー王宮
1885年12月、ビルマ降伏後のマンダレー王宮。出典:Wikimedia Commons(Public Domain)
インドのラトナギリで暮らすビルマ最後の王ティーボー王
1885年に王位を失いインドへ追放されたティーボー王。1890年頃、ラトナギリ。出典:Wikimedia Commons(Public Domain)

征服しても、抵抗は終わらなかった

しかし、王を追放したからといって、ビルマの人々がすぐにイギリス支配を受け入れたわけではありません。旧王国の兵士や地方勢力などによる抵抗が各地で続きました。

イギリス側はこうした抵抗勢力を「dacoits(盗賊)」と呼びましたが、その多くには反植民地主義的な動機があったとみられています。抵抗はその後も長く続きました。

しかも、その鎮圧に投入された兵力は侵攻時よりはるかに大きなものでした。1887年2月には、ビルマで戦っていたイギリス兵・インド兵は約4万500人。1890年になっても、上ビルマでは兵士とインド人警察など約3万人、下ビルマでも約5300人が治安維持にあたっていました。

首都を落とすだけなら短期間でもできる。しかし、一つの国を支配し続けるには、その後も数万人規模の軍隊や警察を配置しなければならなかったのです。

現地人を使って現地を支配する「分割統治」

とはいえ、いつまでも数万人の外国兵を送り続けるだけでは、巨大な植民地を維持することはできません。そこで重要になったのが、「現地人を使って現地を支配する」という仕組みでした。

すでにビルマ侵攻の段階から、多数のインド兵が投入されています。つまりイギリスは、一つの植民地から得た兵力を、別の地域の征服や治安維持にも利用していたのです。

その2 民族や地域の違いを利用する

さらに植民地政府は、現地社会に存在していた民族・宗教・地域の違いも統治に利用しました。一般に「分割統治」と呼ばれる方法です。

ただし、ヨーロッパ人が来るまでアジアの人々が民族ごとに完全に分かれ、争いもなく暮らしていたわけではありません。ビルマを含む東南アジアには、植民地化以前から多様な民族・言語・宗教・政治勢力が存在していました。

問題は、こうした既存の違いを植民地政府が軍・警察・行政制度のなかへ組み込み、特定の集団を選択的に登用したことです。

イギリス統治下のビルマでは、人口多数派のバマー人が植民地軍で長く過少代表となる一方、インド人に加えてカレン、カチン、チンなどが治安組織で大きな比率を占め、民族別の部隊も編成されました。

こうした制度は独立後にも影響を残します。植民地時代に異なる軍事組織へ組み込まれていた集団を、独立後には一つの国家・一つの軍隊へ統合しなければならなかったからです。

「民族対立をイギリスがゼロから作った」と考えるのは正確ではありません。しかし、もともと存在した違いを統治制度のなかへ組み込み、その境界や相互不信を強める一因になったことまで無視することもできません。

100万人を超えた「インド人」人口

イギリス統治下のビルマを大きく変えたもう一つの要因が、英領インドとの大規模な人の移動でした。ビルマは英領インドの一部として統治され、労働者、兵士、警察官、官吏、商人、金融業者など、多くの人々がインド各地からビルマへ移動しました。

1931年の国勢調査では、ビルマの総人口は1466万7146人。そのうち国勢調査上「Indians」に分類された人口は101万7825人で、全体の約6.9%を占めていました。

ただし、この約102万人全員を「インドから新たに移住してきた人々」と考えるのは正確ではありません。1931年国勢調査では、アキャブ地区などに長く定住していた集団も確認されています。

それでも英領インドとの一体的な統治や、米の輸出・港湾都市の発展を背景に、人の大規模な移動が進んだことは間違いありません。その急速な社会変化は、都市の人口構成や職業構造を大きく変え、民族間の緊張にも影響を与えていきました。

農地の4分の1を握ったチェッティヤール

さらに象徴的なのが、南インド出身の金融業者チェッティヤールです。19世紀後半以降、ビルマ南部では米の生産と輸出が急拡大しました。

農地を開墾し、種籾や農具を購入するためには資金が必要になります。しかし農村部には十分な銀行網がなく、農民への融資でチェッティヤールが大きな役割を果たしました。

ところが1929年からの世界恐慌で米価が暴落すると、多くの農民が借金を返せなくなります。その結果、担保となっていた農地が金融業者へ移っていきました。

ビルマ政府の1935~36年度行政報告によれば、下ビルマの主要13地区では、1931~32年に約140万エーカーだったチェッティヤールの占有地が、1935~36年には約240万エーカーへ増加しています。この地域の占有農地全体に占める割合は、約15%から25%へ上昇しました。

つまり、対象となった主要地域では農地の約4分の1です。

植民地支配とは、ヨーロッパ人が直接すべての土地を奪うという単純な構造ではありません。世界市場、金融、移民、土地制度まで一つの植民地経済へ組み込まれることで、現地社会そのものが大きく変化していったのです。

武力だけでは支配できない――懐柔と教育

軍事力だけで何千万という人口を支配し続けることはできません。そのためヨーロッパ列強は、現地社会の一部を自分たちの統治機構へ取り込んでいきました。

その3 現地エリートを取り込む

官僚、教師、法律家、軍人など、巨大な植民地を運営するには現地人の協力が必要でした。学校や高等教育機関も設けられ、その中から欧米式教育を受けた現地エリートが生まれていきます。

皮肉なことに、その教育を受けた人々の中から、後に民族運動や独立運動を率いる人物も現れました。植民地政府が統治のために作った制度が、逆に植民地支配へ抵抗する思想や人材を生み出すこともあったのです。

ただし、ここで重要になるのが「誰が教育を受けることができたのか」という点です。

その4 教育は誰のためのものだったのか

ヨーロッパ諸国は植民地支配を正当化する際、「文明化」という言葉を使うことがありました。もちろん、植民地政府が学校教育をまったく行わなかったわけではありません。

しかし、宗主国と植民地では教育の普及状況に大きな差がありました。その代表例がオランダ領東インド、現在のインドネシアです。

1905年頃、オランダ本国では6~12歳の子供の約95%が学校へ通っていました。一方、オランダ領東インドで数年間の公教育を受けていた現地人児童は5%以下でした。

20世紀初頭から「倫理政策」によって学校は増えていきますが、1930年代になっても初等教育を受けていた子供は4人に1人未満でした。

教育制度は確かに存在しました。しかし、それが植民地住民全体へ平等に行き渡っていたわけではありません。

オランダ領東インドの学校で授業を受ける生徒
1880~1910年、オランダ領東インド・バンドンの学校で授業を受ける生徒。出典:Wikimedia Commons(Public Domain)

後のインドネシア語の基礎となるマレー語は、植民地時代にも行政や教育、交易などで広く用いられていました。植民地政府が教育や行政制度を整える一方、その制度や言語が、後には民族運動の広がりにも利用されていきます。

インドにはもともと教育がなかったのか

インドについても同様です。「イギリス以前のインドには教育がなく、イギリスが教育を与えた」と単純に説明することはできません。

19世紀前半にイギリス当局自身が行った調査からも、マドラスやベンガルなどに多数の在来学校が存在していたことが確認されています。

一方で、植民地化以前のインド全体の識字率を正確に示す統計は残っていません。地域によって教育状況は大きく異なっており、在来教育が広く存在していたことと、インド全体で高い識字率があったという話は分けて考える必要があります。

「文明化」という言葉の裏側

もちろん、すべての植民地でまったく同じ政策が行われたわけではありません。植民地時代に鉄道、港湾、行政組織、学校などが整備され、それらが独立後の国家にも引き継がれたことも事実です。

しかし、それだけを見て植民地支配を「文明化」と呼んでよいのでしょうか。

ビルマでは約1万人の英印軍が王国へ侵攻し、その後の抵抗を抑えるため、1887年には約4万500人のイギリス兵・インド兵が投入されました。植民地軍では民族によって採用に大きな偏りがあり、英領インドとの一体的な統治のもとで100万人を超える人口が国勢調査上「Indians」と分類される社会へ変化しました。

世界恐慌後には、下ビルマ主要13地区の占有農地の約4分の1をチェッティヤールが占めるまでになります。そしてオランダ領東インドでは、20世紀初頭になっても数年間の公教育を受けた現地人児童は5%以下でした。

こうして具体的な数字を並べてみると、植民地支配の姿は「文明を教えてあげた」という単純な物語とは大きく異なって見えてきます。

植民地支配は、単に軍事力で国を奪うだけでは成立しませんでした。軍隊と警察、民族や地域差を利用した統治、他の植民地からの兵士・労働者・官吏の動員、金融と土地制度、そして現地エリートや教育制度。

こうした仕組みを組み合わせることで、少数のヨーロッパ人が圧倒的多数の現地住民を支配する巨大な植民地帝国が維持されていたのです。

だから植民地支配を見るとき、「鉄道を作った」「学校を作った」という結果だけを見るのでは十分ではありません。その制度が誰のために作られ、誰が兵士として動員され、誰が土地を失い、誰が教育を受けることができたのか。

そこまで見て初めて、「文明化」という言葉の裏側にあった植民地支配の実像が見えてくるのではないでしょうか。

主要参考資料

ドン山本
ドン山本
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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