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    レキシジン3章「人種差別と世界大戦」1931年 満州国建国と崩壊の因果#21 満州は中国なのか?満州事変までのいきさつ

    #21 満州は中国なのか?満州事変までのいきさつ

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    第1部 3章 満州事変(1/5)満州は唯一の希望だった

    4.満州事変はなぜ起きたのか

    4-2.満州は中国なのか?

    その1.万里の長城の内と外

    教科書では満州事変から日本による中国の侵略が始まったとされています。一方、「満州事変は起きたものの、それは中国の侵略にはあたらない」とする論もあります。

    両者の違いは一点に絞られます。それは、満州は中華民国の一部なのか否かという問題です。

    現在、あの当時「満州」と呼ばれていた地域は、中国の東北地方として遼寧(りょうねい)・吉林・黒竜江省の3省となっています。そのため現在の世界地図を眺める限り、満州が中国の一部であったと考えるのは、ごく普通の感覚です。

    しかし、歴史を振り返ってみると、満州は中国の一部であるとは必ずしも言えない状況がたしかにあります。
    清朝の頃、満州が清朝の一部であったことは間違いありません。問題は辛亥革命によって清朝が滅亡した後です。

    辛亥革命の本質は、漢民族による清朝からの独立運動です。独立運動に成功して清朝から念願の独立を果たした中華民国は、清朝が支配していた地域をすべて中国固有の領土であると宣言しましたが、その正当性には疑問が残ります。

    なぜなら古来より中国固有の領土は、万里の長城の内側に限られていたからです。有史以来、中国は「万里の長城」をもって北の国境線と定めてきました。漢や唐の時代に支配を長城外に拡げた時代もありましたが、ほんの一時的な期間に過ぎません。

    満州は万里の長城の外に広がっています。その意味では、満州は中国固有の領土とは認められません。
    でも、清朝から中華民国に切り替わったのだから、清朝の領土をそのまま引き継ぐのは当然ではないか、と思うかもしれません。

    ですが、清朝の滅亡と中華民国の誕生は、単に豊臣政権から徳川の時代へと切り替わったような単純なものではありません。中国の大地という受け皿には変わりがなくても、その大地を支配する民族がそっくり入れ替わったのです。

    私たちは通常、中国の伝統的な服装と言えばチャイナドレスを思い浮かべます。漫画やアニメに登場する中国人男性はといえば、ちょび髭を生やし、髪の毛は頭の上に少し残してあとは全部剃り上げ、残した髪の毛を三つ編みに長く伸ばしています。

    実はこれらはすべて、現在の中国を支配している漢民族の習慣ではありません。漢民族にはチャイナドレスを着る習慣もなければ、髪の毛を三つ編みにして伸ばす習慣もありません。これらは清国を支配していた満州族の習慣です。

    その2.清朝とはなにか

    中国の大地を支配する王朝は度々切り替わっています。遣唐使や遣隋使でなじみのある「唐」や「隋」をはじめ、「漢・元・明」など歴史の授業で習ったいくつかの国名を覚えている方も多いことでしょう。

    その間、中国を支配していたのは漢民族だけではありません。中国と国境を接する異民族が建てた王朝も多々あります。たとえば鎌倉時代に日本を襲った「元寇」を起こしたのは「元」の国ですが、元はモンゴル族が打ち立てた王朝です。

    清朝も漢民族が開いた王朝ではありません。清朝は満州から起こった満州族によって樹立された王朝です。清朝の前身は1616年に明から独立し、ヌルハチによって建国された後金です。

    満州事変
    wikipedia:アイシンギョロ・ヌルハチ より引用
    アイシンギョロ・ヌルハチ 1559年 – 1626年
    清王朝の初代皇帝。女真族の一集団から台頭して後金を建国し、後に270年続く清の礎を築いた。

    明との戦闘中にヌルハチは命を落とし、息子のホンタイジが跡を継ぎます。ホンタイジは山海関以北の明の領土と南モンゴルを征服すると国名を「清」に改め、皇帝の座に就くとともに、自分たちの民族名を「女真」から「満州(manju)」に改めました。

    満州事変

    wikipedia:ホンタイジ より引用

    ホンタイジ 1592年 – 1643年
    清(後金)の第2代皇帝。即位後ただちに八旗制度の改革に着手し、皇帝の独裁権力の強化に努めた。国号を大清と定め、満州人・漢人・モンゴル人をあわせた、明に対立する小中国としての清朝を発足させた。朝鮮を親征し臣属させ、外モンゴルの諸部も服属させる。しばしばモンゴル高原より長城を越えて華北に侵入したが、山海関を落とすことはついにできなかった。

    順治帝のとき、中国では漢民族の李自成の乱が起こり、明国が滅亡しています。このとき、明国の遺臣であった呉三桂は清朝に派兵を要請しました。その要請に応えて万里の長城を越えた清軍は李自成の軍を打ち破ると、そのまま北京に入り、1644年にここを清の首都に定めるとともに中国支配を開始したのです。

    こうした事情からは、清朝は漢人の暮らす中国を植民地支配していたに等しい実態が見えてきます。漢民族からすれば、清朝は外来からやってきた征服王朝だったのです。

    以来、1911年の辛亥革命によって滅びるまで、清朝は267年の長きにわたって中国を支配し続けました。その間、清朝は近隣諸国を侵略することによって、次第に領土を広げていきました。

    清朝になってから新たに加わった領土は、明の時代における中国領土のおよそ2倍半です。しかも名目だけではなく、広大な領土の隅々に至るまで清朝の主権は及びました。

    中国に栄えた歴代王朝のなかで、清朝ほど広大な領土を誇った王朝はありません。清朝は満州族・モンゴル族・漢民族・チベット族・トルコ族の5つの民族からなる世界帝国を築き上げたのです。もちろん、中国史上はじめての快挙です。

    満州事変
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85 より引用
    清朝の最大領域(1820年)
    現在の中国は、中国史上最大となった清朝の時代の版図をもって中国固有の領土と主張しています。果たしてそれを「固有」と言えるのかどうかは、判断が分かれるところです。

    その3.清朝の遺産は誰のものか

    さて、清朝が滅亡したとき、清朝に征服されていた国はどうなるのでしょうか?

    チベットもモンゴルも清軍を追い払い、独立を宣言しています。中国にも中華民国が建国されました。それぞれの国家が清朝の征服前に戻るのが、ごく自然な流れです。

    中華民国は清を滅亡に追い込み建国されましたが、その実態は清に占領されていた一カ国が独立したに過ぎません。その中華民国が今までの支配者の国である満州を自国のものだと主張することには、論理的に見ても無理があります。

    支配されていた国が支配していた国の領土をすべて引き継げるなどという無茶が通るのであれば、現在の世界地図はかなり違ったものにならざるを得ません。

    あるいは、かつて明国が満州を支配していたのだから満州は中国固有の領土であると主張するのであれば、かつて中国を支配していたモンゴルは、中国はモンゴル固有の領土であると主張できることになります。

    中国が満州を自国領であると主張する正当性は、案外薄いと言えるでしょう。それは現在の中国が領有しているチベット自治区、新疆(しんきょう)ウイグル自治区、内モンゴル自治区にも当てはまります。それらの地域を中国固有の領土とすることには、大きな問題があります。

    満州事変
    https://blog.goo.ne.jp/ta6323blue/e/fde5d5548ceb0954065fe0ea48d7e99c より引用
    中国とチベット自治区・新疆ウイグル自治区・内モンゴル自治区

    満州にも同じことが当てはまります。少なくとも満州事変が起きたときには、満州が100%中国の領土であるとは言えない状況でした。

    ところが列強は、満州を含めた清国の版図を中華民国が継承することをあっさりと認めました。なぜなら、それによって清国に持っていた列強の権益が保障されるからです。

    清国が消滅したからには、本来であれば列強が清にもっていた権益もすべて失われます。それでは困るため列強は、中華民国が清のすべてを受け継ぐことを望みました。認められるはずもない無理が、列強の国益を確保するために認められたのです。

    そのことがチベットやウイグルの独立問題として、現在にまで禍根(かこん)を残しています。チベットとウイグルでは、中国人による民族浄化が今この瞬間も推し進められています。

    その4.満州は誰のものか

    ー 満州封禁 ー
    満州は古来より万里の長城をはさみ、南北諸民族が抗争を繰り広げた地です。12世紀よりは女真族が金を建国し、中国の北半分を支配しています。

    17世紀に女真族から満州族へと名称が変更されたことは、すでに紹介しました。清朝を支配した満州族にとっての故郷が満州です。

    満州事変

    http://enjoylog.eromedayo.com/thread?b=13&nid=51897&db=0 より引用
    万里の長城を境に漢人・満州族・蒙古族は本来、別々の国家を形成していた

    清朝が都を北京に遷したことにともない、兵士はもちろんのこと、満州人は老若男女を問わず万里の長城を越えて中国へと移り住みました。広大な中国を支配するためには、多くの満州人を必要としたからです。

    一斉に満州族が移動したため、満州は過疎地となりました。そこへどっと入り込んできたのが漢民族です。
    故郷の地を漢民族に奪われたのではたまったものではありません。清朝は先祖から受け継いだ満州の地を守るために漢民族の移住を禁止する政策をとり、満州全体を封禁の地としたのです。

    こうして満州は無人に近い荒野へと、その姿を変えていきました。

    しかし、満州はほぼ無人であっただけに、漢民族や朝鮮人の流入、勝手に田畑を耕し密猟を行うことが繰り返されました。そこで清朝は朝鮮国境と併せて中国と満州を結ぶ山海関の監視を強化し、満州全域の山野への立ち入りを禁止しました。

    それでも中国に大規模な飢饉が発生すると、満州へ不法に移り住む漢民族や朝鮮人は後を絶ちませんでした。
    清朝が方針を変えたのは、1878(明治11)年にイスラム教徒の反乱を平定してからです。列強の中国侵略が始まると、もはや満州の地を立ち入り禁止にしておくよりも、むしろ人を移住させた方が安全になります。

    とはいえ満州人を満州に帰そうと強引に連れ戻しても、すでに北京での快適な暮らしに慣れている満州人は、すぐに北京に戻ってしまいます。やむなく清朝は民族融和へと切り替え、満州人と漢民族との結婚禁止を解きました。

    ー 満州人の帰るべき場所 ー
    満州封禁が全面解禁されたのは義和団の乱以降のことです。莫大な賠償金を背負わされた清朝は、これまでの方針を180度変え、満州への漢人農民の移住を奨励したのです。

    清朝の統治下で中国の人口は急増し、4億人を越えていました。そこまで人口が増えると、土地を持てない貧乏な農民が増え、国家の税収も悪化します。そこで漢人農民を満州に行かせることで、税金を取ろうと画策したわけです。

    満州の封禁が解除されたもう一つの狙いは、ロシアの侵略を抑えることにありました。

    満州はロシアと国境を接しているだけに、常にロシアの脅威にさらされていました。もっとも17世紀までは清朝の方がロシアより強く、1689年にロシアとの間で交わされたネルチンスク条約では、外満州(北満州)は清の領土として国際的にも認められました。

    しかし、19世紀に入ると清朝の国力は衰え、アイグン条約と北京条約によって国境線はロシアに有利になるよう変更され、外満州をロシアに奪われました。これによりロシアは念願の不凍港を得て、日本海への出口を確保することになりました。

    満州事変

    http://www.geibundo.com/mizuhonokuni/mi20110117.html より引用
    本来の満州は内満州と外満州を併せた地域を指す。外満州はロシアに奪われたまま、今日に至っている。

    逆に清朝は日本海への出口を失い、その状態は現在の中国にも受け継がれています。日本海へ出るために、中国は北朝鮮の羅津港を租借しています。

    義和団の乱によりロシアは満州へとなだれこみ、実質上、満州全域を支配しました。清朝にはロシアに対抗するだけの力はなく、やむなく漢人農民を満州へと送り込むのがやっとでした。

    この時点で満州人は、帰るべき故郷を失ったといえるでしょう。

    その後、日露戦争により日本が南満州の権益を得ることになりました。やがて1911(明治44)年の辛亥革命により清は滅亡します。
    これにより、モンゴル人は北走してモンゴルの大地に帰りましたが、満州人には帰るべき場所がすでになくなっていました。満州は北をロシア、南を日本が支配していたからです。

    歴史の闇に埋もれ、はっきりとはわかっていませんが、辛亥革命後に満州人の虐殺が行われたとも伝えられています。満州人の多くは迫害を避けるために彼らの文化を捨て、漢民族になりすまして生きる道を選びました。

    1912(大正元)年と1916(大正5)年には、満州人グループによる武装蜂起事件も起きています。
    満州事変から満州建国へと至る流れは、満州人が帰るべき場所を見出したことにおいて、満州人にとっては救いであったと言えるでしょう。

    4-3.満州事変までのいきさつ

    満州事変がなぜ起きたのかを知るために、満州事変が起こるまでの大まかな歴史の流れについて見ていきます。

    その1.満州をめぐるアメリカとの対立

    ー 鉄道王ハリマンの提案 ー
    日本は日露戦争に勝利したことで、ロシアが持っていた関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権と東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線、および付属地の炭鉱の租借権を譲り受けることになりました。

    その直後、アメリカとの間に満州の権益をめぐる対立が生じました。先にもふれましたが、中国での権益はアメリカが強く欲していたことでした。帝国主義に出遅れたアメリカは、西欧列強に中国での権益を独占され、進出したくてもその足がかりさえ得られずにいました。

    日本が満州での権益をロシアから奪ったことは、アメリカにとっても中国進出のための絶好のチャンスでした。アメリカが目を付けたのは満州の鉄道の権益です。

    アメリカの鉄道王E・H・ハリマンは、南満洲鉄道と東支鉄道を買収することを目論み、ポーツマス講和会議が始まるとともにアメリカを発って来日すると、1億円の資金援助と引き替えに南満洲鉄道を日米で共同管理したいと申し出ました。

    このとき桂首相はハリマンの提案を承諾し、南満州鉄道の日米共同経営の覚書に調印しています。ポーツマス講和会議を終えて帰国したばかりの小村寿太郎外相がこれを知ると、政府の愚かな対応に激怒しました。

    満州事変

    wikipedia:エドワード・ヘンリー・ハリマン より引用
    エドワード・ヘンリー・ハリマン 1848年 – 1909年
    アメリカの実業家・鉄道業者。株式仲買人から鉄道業に進出。ユニオン・パシフィック鉄道を手中に収め、後サザン・パシフィック等を統合、巨万の富を得た。日露戦争中には日本の戦時公債500万ドル分を引き受けた。日露戦争後の南満州鉄道の日米共同経営を提唱し、桂太郎首相との間で予備協定覚書を作成、桂・ハリマン協定とよばれた。外相小村寿太郎の強硬な反対により無効となった。

    満州事変

    wikipedia:小村寿太郎 より引用
    小村寿太郎(こむら じゅたろう) 1855(安政2)年 – 1911(明治44)年
    外交官・政治家。外務大臣、貴族院議員(侯爵終身)などを務めた。対英米協調を主軸に大陸進出を図る小村外交を確立。日英同盟締結、日露戦争の戦時外交処理にあたり、ポーツマス講和会議の日本全権として講和条約を結んだ。第2次桂内閣の外相として韓国併合を行い、関税自主権の回復に成功した。

    小村は「12万の同胞の命と20億円の国費を犠牲にして得た満鉄を結局は米人に売却し、南満の権益を放棄するのはポーツマス条約の真髄に反する」と訴え、覚書を取り消すことに成功しました。

    アメリカ資本の満州鉄道への介入を阻止できたのは、アメリカの中国に対する野望を見抜いた小村の信念があったればこそです。

    満州事変
    満州事変(まんしゅうじへん)の背景 より引用
    日露戦争が終わった頃の中国大陸の様相。中国における列強の鉄道の権利と勢力範囲は密接に関連していた。

    歴史家や評論家のなかには、このときのハリマンの提案を日本が受け入れていたならば、大東亜戦争は起きなかったと指摘する論もあります。

    たしかに大東亜戦争への軌跡をたどってみると、中国の門戸開放を求めたアメリカの極東政策と、満州の特殊権益を主張する日本との対立が大きな軸になっていることがわかります。

    人種戦争以外にも多くの要因が複雑に絡み合うことで大東亜戦争へと至りました。そのひとつが満州をめぐる日米の対立です。

    アメリカの提案した満州の日米共同開発に踏み切っていれば、歴史の流れが変わったのかもしれません。されど、共同開発をしたからといって日米の抱える事情の違いが、埋まるわけではありません。

    アメリカにとって満州は経済的な利権にかかわるだけの場所ですが、日本にとって満州は歴史的にも政治的にも経済的にも地理的にも特殊な場所であり、最終的にはアメリカとの対立は避けられなかったことでしょう。

    持てる国と持たざる国の抱える事情の違いは、両国の対立以外にたどり着く場所はなかったのかもしれません。

    ー 挫折したドル外交 ー
    ハリマンの計画は失敗に終わったものの、アメリカは満州への進出をあきらめませんでした。アメリカが仕掛けた第二の矢は、1909(明治42)年にノックス米国務長官によって為された全満洲鉄道の中立化提案です。

    その内容は、満州の全鉄道を国際シンジケートで買収して所有権を清国に移し、借款継続中は国際シンジケートで運営する、それが不可能であれば列国共同で錦愛鉄道を建設し、満洲の中立化を実現する、というものでした。

    ノックス提案とはドルの力によって満洲を門戸開放しようと企てるものです。当時のアメリカはタフト大統領のもとで、ドル外交を積極的に推し進めていました。ノックス提案もまた典型的なドル外交です。

    満州事変

    wikipedia:ウィリアム・ハワード・タフト より引用
    ウィリアム・ハワード・タフト 1857年 – 1930年
    アメリカの政治家。第27代大統領。第10代最高裁判所長官。フィリピン植民地総督を務め、ルーズベルト政権下で陸軍長官となる。桂‐タフト協定や日米紳士協約を締結し、ルーズベルトの後継者として共和党より第27代大統領に当選。「ドル外交」を推進した。

    しかし、その提案は満州のおかれた現実を無視した身勝手な理念でしかありません。門戸開放に道を開くだけにアメリカにとっては大きな国益に繋がりますが、満州に切実な利害を持つ日本とロシアにとってはまったく歓迎できない提案です。

    イギリス・フランスも同意しなかったため、ノックス提案は葬られました。最終的にアメリカの野望は実らなかったものの、一企業家のハリマンが矢面に立った前回とは異なり、今回はアメリカ政府自身が公式に満州に介入しようと謀ったことにおいて重要です。

    その意味では満州をめぐる日米の抗争が幕を開けたのは、このノックス提案がはじめてと言えるでしょう。アメリカが日本を仮想敵国としてロックオンしたのも、満州を舞台にした日米の対立構造が大きく影響しています。

    1913(大正2)年に、前大統領セオドア・ルーズヴェルトは「不幸にして余の退任後、日本に対して徒(いたず)らに刺激多く効果少なき、極めて不賢明で誤れる政策が採られるに至った」と、タフト大統領による満洲介入政策を批判しています。

    満州事変

    wikipedia:セオドア・ルーズベルト より引用
    セオドア・ルーズベルト 1858年 – 1919年
    アメリカ合衆国の軍人・政治家で、第25代副大統領および第26代大統領(在職1901~09年)。中国市場に参画するためにハワイとフィリピンの領有を画策し、アメリカが対外的に膨張していく基礎を築いた。日露戦争では調停役をつとめ、1906年のノーベル平和賞を受賞。白船艦隊(グレート・ホワイト・フリート)を日本に寄港させ、強大化しつつある日本を牽制した。

    満州こそが、日米対立の源流だったのです。

    その2.満鉄による満州開発

    満州鉄道を得た日本は、期せずして大陸経営に乗り出すことになりました。その際、問題となったのは開発資金をどうやって工面するかです。

    ロシアから賠償金を取れなかった日本政府には、開発に回せるような資金はどこにもありません。そこで政府は南満洲鉄道を半官半民の会社にすることにしました。運営自体は国が責任をもつものの、資金の半分は民間に売り出す株を通して賄うことにしたのです。

    総資本2億円で設立されたのが「満鉄」です。政府が1億円を出し、もう半分は満鉄株を売りに出しました。政府が後ろに着いているだけに満鉄株の信用度は高く、株式募集の倍率は一千倍に達し、瞬く間に売り切れました。

    政府の捻出する1億円は、すべて現物支給です。ロシアから受け継いだ鉄道や炭坑の土地などが充てられました。政府は満鉄の設立に対し、1円の現金も出していません。

    さらに、満鉄の初代総裁に就いた後藤新平はのちにロンドンで社債を発行し、2億円を調達しています。こうして合計4億円の資本金で満鉄による満州開発事業が始まったのです。

    満州事変

    wikipedia:後藤新平 より引用
    後藤新平(ごとう しんぺい) 1857(安政4)年 – 1929(昭和4)年
    明治 – 昭和初期の政治家・医師。南満州鉄道初代総裁として数々の事業を軌道に乗せた。逓信大臣・鉄道院総裁・内務大臣などを歴任。東京市長。関東大震災直後に帝都復興院を創設し、被災した東京の復興に尽くした。その際の東京復興計画は「大風呂敷」と評されるも、現在でも有効だとして高く評価されている。

    満州事変
    ウィキペディア より引用
    南満洲鉄道株式会社の社屋

    4億円は当時の日本の国家予算と同額です。失敗すれば国家の経済が傾くかもしれないほどの巨額の資金が投入されただけに、満州開発は日本の国運をかけた一大事業といえます。

    満鉄が誕生した頃はハルビンの南の長春郊外から大連に至る鉄道と、日露戦争中に物資輸送のために建設された、安東と奉天の間にあった軽便鉄道である安奉線の2つの鉄道、およびその附属地の開発のみが日本に許されていました。

    もっとも附属地といっても鉄道に沿う細長い土地ばかりでなく、停車場のある地方ごとの従業員の居住区と商人のために広い市街地も含まれていました。

    鉄道が敷かれていたとはいえ、まだ満州は未開発地域でした。広大な荒れ地が広がるだけで緑がなく、半ば砂漠地帯でした。

    満鉄は鉄道が通る大連・奉天・長春などの近代的都市計画を進め、上下水道や電力・ガスのインフラを整備し、学校や図書館・病院を造りました。湾岸の整備と炭鉱の開発を行い、製鉄業を興し、食糧供給のための農林牧畜も管理しました。品種改良を重ね、満州大豆を国際的な商品として販路を広げたのも満鉄です。

    満州事変
    世界の歴史まっぷ より引用
    満鉄設立時の鉄道網と関東州

    満鉄は単なる鉄道会社ではありません。警察・税金・水道・電気事業などを直接管理していました。つまり満鉄は、日本政府に代わって満州開発のすべてを取り仕切るミニ政府としての役割を果たしていたのです。

    多くの日本人が情熱を傾けただけに満州の開発速度は凄まじく、1907(明治40)年には全中国において10位の貿易港に過ぎなかった大連が、1917(大正6)年には上海に次いで第2位に躍進しています。

    中国本土が乱れに乱れ、日本における戦国時代のように群雄が割拠して相争うなか、満州だけは近代都市として順調に発展を遂げました。

    その3.満州をめぐる日清条約

    ポーツマス条約によるロシアからの権益移譲には、清国の承認が必要でした。そこで日本はポーツマス条約を交わした年に清国と日清条約を結び、ロシアから遼東半島の租借権と南満州鉄道の支配権を得たことの承認を清国から取り付けました。

    その際、重要な取り決めを清国との間で交わしています。それは、日本の南満州鉄道と並行する幹線や支線を建設しないことを清国が承認したことです。

    日本の満州開発の基盤となるのは南満州鉄道です。南満州鉄道のもたらす利潤こそが、満州開発の元手です。もし清国が南満州鉄道と並行して走る鉄道を新たに設けるとなると、南満州鉄道の利潤は吹き飛び、日本の満州開発はたちまち滞ってしまいます。

    日本が清国に対して南満州鉄道と並行する幹線や支線を建設しないことを約束させたのは、当然のことといえるでしょう。

    ところが中国は、のちにこの約束を勝手に破ります。そのことは、満州事変が起きたひとつの要因です。

    その4.満州をめぐるロシアとの蜜月時代と鉄道浪漫

    意外に思うかもしれませんが、日露戦争後に日本とロシアは急接近し、満州を二分して互いの権益を相互に認め合うようになりました。いわゆる日露協定です。

    長春から南の南満州が日本、長春から北の北満州がロシアの勢力圏であることを、日露は清国には黙って秘密裏に確認し合いました。

    南満州にも北満州にも鉄道はありますが、線路は続いています。ロシア側から長春に着いた列車は、乗客も貨物もそのままで運転手と車掌が交代し、食堂車がロシア式から日本式へと入れ替わりました。

    満州
    ウィキペディア より引用
    満州国の鉄道路線図(赤-社線、緑-北鮮線、青-国線)

    面白いのはまだ飛行機がなかった時代にもかかわらず、1913(大正2)年にはベルリン・パリ・ロンドン行きの一枚の切符が東京・横浜・京都・大阪の各駅で購入できたことです。

    たとえば東京からパリまでは、まず東京から下関まで鉄道で向かい、下関で関釜連絡船に乗って朝鮮半島へ渡ります。そのまま鉄道で満州に入るとハルビン経由でモスクワを通り、ヨーロッパへと抜けるのです。

    一枚の切符だけで東京からパリまで14日間で到達しました。鉄道好きにとっては、なんともいえない浪漫を感じさせます。ちなみに運賃はロンドンまで大人294円11銭だったそうです。現在の料金にして30万円ほどです。

    日露協定は4回におよび、先述のノックス米国務長官による満州への介入を日露で協力して防ぐなど、蜜月時代は1917(大正6)年のロシア革命まで続きました。

    しかし、ロシア革命後はボリシェビキ(ソ連共産党の前身)によって日露の密約が中国にばらされ、中国の反日感情を高めることになりました。

    その5.辛亥革命から中華民国へ

    満州事変

    http://hankaku.main.jp/ より引用
    辛亥革命マップ

    満州の歴史を語る上で欠かせないのが、1911(明治44)年に中国で起きた辛亥革命です。この革命の中心となったのが、中国革命の父と称される孫文です。翌1912(大正元)年、孫文によって中華民国が建国され、清朝は滅亡しました。

    満州事変

    wikipedia:孫文 より引用
    孫文(そん ぶん) 1866年 – 1925年
    中国の政治家・革命家。中国国民党の創設者・指導者。中華民国の創始者として「国父」と称される。初め医師となったが、救国の志を抱き革命運動に入る。東京で中国同盟会を結成し、民族・民権・民生の三民主義を掲げた。辛亥革命の際、臨時大総統に就任したが、まもなく袁世凱に譲る。清朝を打倒しただけで革命は失敗に終わった。袁世凱の独裁化に抗して第二革命を開始。国共合作を成し遂げ国民革命を志向したが、実現を見ないうちに没した。「大アジア主義」を唱え、後世に多大な影響を与えた。

    教科書ではそのように教えられるため、中華民国があたかもひとつの国のように思われがちですが、その実態は国家とは呼べないものでした。中華民国は軍閥(ぐんばつ)の袁世凱に乗っ取られ、中国は「軍閥混戦」と呼ばれる大動乱時代に入ります。

    満州事変

    wikipedia:袁世凱 より引用
    袁世凱(えん せいがい) 1859年 – 1916年
    清朝末期の軍人・政治家。甲申事変(1884)の際、清国軍をひきいて朝鮮に武力介入し日本と対立。のち北洋軍閥の総統となり、辛亥革命後は清帝の退位を実現し、孫文に替わり中華民国臨時大総統となる。初代中華民国大総統に就任後、帝政実現をはかるが対華21ヵ条要求受諾による反日気運と反袁運動のなかで病没。

    この頃の中国の状態をイメージするには、漫画とアニメで流行った「北斗の拳」を思い浮かべるとよいかもしれません。北斗の拳では各地で無法者が街を乗っ取り、その地に暮らす人々を苦しめていました。当時の中国も同じで軍閥が各地で幅を利かせ、その地で暮らす住民に重税を課すなど、まさに無法地帯と化していました。

    国内の治安を維持できるだけの力をもった中央政府はなく、軍閥が抗争を繰り返していたのです。

    「軍閥」といっても日本にはなじみがないため、イメージしにくいものがあります。「軍閥」とは、ひとつの小さな軍事独裁国家のようなものです。
    日本の戦国時代と同様に、中国統一を目指して軍閥が争ったわけです。日本の京都に当たるのが中国では北京です。戦国大名が上洛を目指したように、軍閥も北京制圧を目指しました。北京を制圧する軍閥は目まぐるしく移り変わっています。

    軍閥による内戦が激化するなか、軍閥はそれぞれに外国の援助を仰ぎました。列強にしても支援する軍閥が中国を統一すれば大きな見返りを得られるため、積極的に資金や武器を支援しました。日本も、そうした列強の一カ国です。

    日本が支援したのは、満州で力を付け始めていた張作霖です。張作霖は満州の馬賊を従えている漢人でした。
    満州は関東軍が来る前までは、徒党を組んで略奪や殺人を行う盗賊集団である匪賊(ひぞく)が暗躍していました。そうした匪賊から民衆を守るために武装した騎馬集団が「馬賊」です。

    日本の支援を受けることで張作霖は満蒙を地盤とする軍閥のリーダーとなりました。

    満州事変

    wikipedia:張作霖 より引用
    張作霖(ちょう さくりん) 1875年 – 1928年
    中華民国初期の馬賊出身の軍閥政治家。日本軍と結び東北の全権を掌握、奉天軍閥を形成して首領となる。北京政界に進出後、1926年北京政府を支配し、翌年陸海軍大元帥を称した。国民党軍の北伐にあい奉天へ逃れる途中、関東軍の謀略による列車爆破で死亡したとされる。

    清朝は周辺民族を侵略し従えていましたが、清朝滅亡後は中国本土でさえ乱れていたため、周辺民族を統治できるはずもありません。チベットはイギリスの勢力圏、ウイグルはイギリスとロシアが勢力を争い、モンゴルはロシアの勢力圏、満洲はロシアと日本が二分して勢力圏としました。すでに中央政府がなくなったため、各国は自国の力で各々の勢力圏を守る必要があり、特定の軍閥を支援する動きも活発化しました。

    その6.「二十一か条要求」の波紋

    ー なぜ悪名高いのか ー
    清朝が滅び、中華民国が建国されたことで、日本は中国に対して「二十一か条要求」を突きつけました。第一次世界大戦の最中にあたる1915(大正4)年のことです。

    この「二十一か条要求」はとても悪名が高く、中国ではのちの日中戦争の根本原因としてあげられているほどです。
    5項と21条からなる条文の細かな内容まで説明していると相当の文字数になるため、ざっくばらんにまとめると、日本から中国政府に対して「国際法を守れ」との要求です。

    問題となったのは第5項です。そこには中国政府の政治・軍事の顧問として日本人を招くこと、警察を日中合同とするか、または警察官に日本人を雇うこと、台湾の対岸に当たる福建省の鉄道・鉱山・港湾に関する外資導入の際は日本に優先権を与えることなどが掲げられていました。

    この第5項が列強に知らされると、日本は一斉に批判を浴びることになりました。第5項は中国を日本の保護国のように扱う内容であったため、列強にしてみれば自分たちが持っている中国での権益を日本に奪われるかもしれないと、危機感を募らせたのです。

    日本は結局、第5項を削除した上で最後通牒を突きつけ、中国政府が認めたことで調印されました。5月9日のことでした。以来その日は中国の国辱記念日とされています。

    最後通牒を突きつけられ、軍事力を背景に無理やり「二十一か条要求」を認めざるをえなかったことが中国人の誇りを傷つけ、対日憎悪へとつながっていきました。中国人からすれば強迫を受けて、泣く泣く要求を受け入れたも同然でした。中国人の反日感情に火がついたのは、このときからです。

    ただし、反日感情が高まったのは「二十一か条要求」が歪曲して伝えられたことも大きく影響しています。中国側は「二十一か条」の内容を誇張し、「中国の学校では必ず日本語を教授すべし・中国に内乱ある時は日本に武力援助を求め、日本また中国の秩序維持に当るべし・中国陸海軍は必ず日本人を教官とすべし・中国全部を開放し、日本人に自由に営業させるべし・中国の石油特権を譲与する」などの要求があったと、中国内外に向けて宣伝しています。

    もちろん、そこまでの要求を日本がしたことはなく、まったくの事実無根です。しかし、中国のプロバガンダの巧みさは、この頃からずば抜けており、日本のイメージは地に落ちることになりました。

    これより中国での反日運動は高まり、日本人が中国人に襲われる事件が相次ぎます。こうした日中の対立が満州事変へと至った大きな要因の一つです。

    さらに「二十一か条要求」は、アメリカの対日憎悪をあおることになりました。中国の門戸開放を目指していたアメリカにとって日本の「二十一か条要求」は、見過ごすことのできないものでした。

    「日本は中国を属国化するつもりか」と、アメリカの世論は日本叩き一色に染まりました。このときの在華米国公使がポール・ラインシュであったことも、日本にとっては悲劇でした。

    満州事変

    wikipedia:ポール・ラインシュ より引用
    ポール・ラインシュ 1869年 – 1923年
    アメリカの政治学者・植民政策学者。ウィスコンシン大学マディソン校教授から北京駐在のアメリカ公使となり、後に北京政府の最高顧問となった。日本を徹底的に嫌い、悪の体現者、自由と民主主義の敵、そして将来のすべての世界紛争の原因と見なしていた。「日本は世界戦争を利用して中国を財政的に従属国にしようとしている」と主張した。

    彼は親中反日派の権化ともいえるほどの偏見をもった人物でした。ポール・ラインシュは日本非難を繰り返し、日本に一方的にいじめられる可愛そうな中国人のイメージを米国民に植え付けました。

    このときから親中反日の世論は、アメリカの空気になりました。アメリカ人の多くは日本が中国侵略を企てており、虐げられる中国人を助けることはアメリカにとっての正義であると考えるようになったのです。

    その意味では「二十一か条要求」は、大東亜戦争へと日米を駆り立てる道標としての役割を果たしたともいえます。
    中国には甘く、日本には厳しいというアメリカのあからさまな姿勢は、日本を絶望の淵へと追い込むことになるのです。

    ー「二十一か条要求」を巡る日本の弁明ー
    日本が一方的に悪いと断罪されることが多い「二十一か条要求」ですが、日本側の弁明が取り上げられる機会は少ないようです。

    「二十一か条要求」で問題とされた第5項は7つの条文から成っています。その内容があまりにも行き過ぎだと批判を浴びたわけですが、日中の交渉の過程では、本来、この7条文は要求ではなく単なる希望であることが確認されていました。あくまで交渉の過程での希望であり、交渉の場から外には一切漏らさないとの約束が交わされていたのです。

    その約束を一方的に破り、希望であったことは伏し、要求されたのだと国際社会に訴えたのが中華民国の大統領であった袁世凱です。

    さらに、日本が一方的に最後通牒を突きつけたことが国際社会の不興を買いましたが、これにも実は事情があります。

    袁世凱は外交ルートを通じて、最後通牒を出すように自ら日本側に働きかけたことがわかっています。要求の受諾は避けられないものの、安易に受け入れたのでは中国の人民が黙っているはずもなく自身の立場が悪くなります。そこで袁世凱は自らの保身のために、日本から最後通牒を突きつけられ、やむなく受け入れたように装いたかったのです。

    外務大臣・加藤高明はなんの疑いもなく、これを受け入れ、袁世凱の望み通りに最後通牒を突き付けました。

    満州事変

    wikipedia:加藤高明 より引用
    加藤高明(かとう たかあき) 1860(安政7)年 – 1926(大正15)年
    明治-大正時代の外交官・政治家。第24代内閣総理大臣。岩崎弥太郎の女婿。三菱社員から官僚を経て代議士となり、外相。第2次大隈内閣外相として中国に対華二十一ヵ条要求を受諾させた。憲政会を組織して、第二次護憲運動に参加。護憲三派内閣として第一次加藤高明内閣を組織。普通選挙法・治安維持法を制定した。第二次内閣の在任中に過労がもとで急死。「頑固(がんこ)一徹・剛腹」の人として知られる。

    すると袁世凱は、最後通牒を突きつけられ日本に強迫されたと中国人民と国際社会に対して、日本の非道ぶりを訴えたのです。
    袁世凱のずる賢さに、まさに一杯食わされたようなものです。見事に手玉に取られた加藤外相を批判する論は多々あり、日本外交史上の汚点ともいわれています。

    日本外交の失敗から生じた「二十一か条要求」をめぐる波紋は、日本を孤立化へと導くことになりました。

    その7.幣原外交の明と暗

    ー 理想を追い求めた幣原外交 ー

    ワシントン会議から満州事変が起こるまでの間は、2年間の例外はあるものの、外務大臣幣原喜重郎による幣原外交が展開されました。幣原外交とは、幣原外相の理想主義に基づく平和外交のことです。

    満州事変

    wikipedia:幣原喜重郎 より引用
    幣原喜重郎(しではら きじゅうろう) 1872(明治5)年 – 1951(昭和26)年
    大正・昭和期の外交官・政治家。第1次世界大戦後のワシントン体制のもとで外相を歴任し、国際協調主義的な政策を推し進め「幣原外交」と呼ばれた。第2次大戦後2代目の内閣総理大臣に就任し、天皇の「人間宣言」をみずから起草。マッカーサーの指示のもとに憲法改定にあたる。第九条を発案して日本国憲法に加えたとされている。衆議院議長に就任し、在職のまま没す。

    このときの日本はワシントン会議で定めた九カ国条約を律儀なまでに守り、国際協調・経済外交優先・中国に対する内政不干渉を3本柱とする「協調外交」を推し進めました。

    その頃、中国は内戦で混乱し、高まる一方の排日運動は中国と満州に居住する日本人を危険にさらしていました。しかし、幣原外相は中国への不干渉主義を貫きます。

    幣原外相は語っています。

    「今や世界の人心は一般に偏狭かつ排他的なる利己政策を排斥(はいせき)し、兵力の濫用に反対し、侵略主義を否認し、万般の国際問題は関係列国の了解と協力とを以て処理せんとするの気運に向って進みつつあるのを認め得らるるのであります」

    幣原外交の根底に流れるのは人間の善意に対する絶対的な信頼です。世界各国が兵力を安易に使うことを良しとせず、侵略主義を否定しつつあるとする見解は、第一次大戦後の世界を覆っていた平和主義に基づくものです。

    幣原外交は欧米との協調を第一としました。アメリカで排日移民法が成立し、日本国民が怒りの声を上げたときには次のように演説しています。

    「畢寛(ひっきょう=「要するに」)米国国民一般の我が国民並びに我が主張に対する正当なる理解に侯(ま)つ外はありません。性急なる態度感情に囚はれた言論は決して国際的了解を進むる途ではありませぬ。米国国民の血管の中には正義を愛する建国当時の精神が依然として流れてゐることは疑ひを容れませぬ。私はその事実が実際に証明せらるる時期の来るべきことを期待するものであります」

    まさに底抜けの善意のかたまりです。

    ワシントン会議で合意した九カ国条約を、日本は欧米以上に守りました。

    1924(大正13)年、日本が支援していた満州の軍閥である張作霖が戦いに敗れ、敵が今にも満州に侵入してきそうな形勢になったとき、満州にいる日本人居留民と日本の満州での権益を守るために出兵を求めるデモ隊が外務省に押し寄せるまでの事態となりましたが、幣原は政治生命をかけて不干渉主義を貫き、兵を出しませんでした。

    このときは関東軍が謀略活動を行い、敵側に寝返りが出るように仕向けたことで事なきを得ています。
    幣原外相はその後も中国の立場を尊重し、中国の内政問題に関しては一切干渉する意思はないと宣言しました。

    大陸からはロシア共産党と中国との急接近を警告する声が絶えず寄せられていましたが、幣原外相は耳を貸しません。

    「世上には支那が共産主義の国家となるかも知れないとか、自国に不利と認むる国際条約を破棄する計画があるとか云ふが如き臆説もあるやうでありますが、私はこれを信ずることが出来ませぬ。

    我々は常に希望と忍耐とを以て支那国民の政治的革新の努力を注視しなければなりません。要するに我々は支那に於ける我が正当なる権利利益をあくまでもこれを主張するときに、支那特殊の国情に対しては十分に同情ある考慮を加へ、精神的に文化的に経済的に両国民の提携協力を図らむとするのであります」

    中国の共産化はあり得ない、中国と日本との間で結ばれた不平等条約を中国が一方的に破棄することなどありえないと、幣原外相は中国に信頼を寄せています。

    こちらが誠意を尽くせば相手も歩み寄ってくれるに違いないという信念を、幣原外相は最後まで持ち続けたのです。

    歴史を振り返るとき、幣原外相が中国に寄せた信頼は、残念ながら完全な過ちであったことがわかります。幣原外交の理想とは異なり、現実は余談の許さない状況へと日本を追い込んでいきました。

    中国にしてみれば幣原外交のおかげで日本の報復を恐れる心配がないため、あえて日本人居留民を挑発するような行動に出ることが度々繰り返されました。日本人居留民が危険にさらされても、幣原外相は中国への軍事介入を許しませんでした。

    ー 幣原外交のもたらしたもの ー

    1925(大正14)年に孫文が亡くなると、孫文の率いた国民党内の権力争いが起き、内戦へと発展しました。内戦の結果、孫文の跡を継いだのが軍人である蒋介石です。蒋介石は中国を統一するために北伐を開始しましたが、その途上で欧米諸国や日本と数々の衝突事件を起こします。

    満州事変

    wikipedia:蒋介石 より引用
    蒋介石(しょう かいせき) 1887年 – 1975年
    中華民国の政治家・軍人。日本留学後、孫文の革命運動に加わり、中国国民党の軍事指導者として頭角を現す。革命軍を養成して北伐を成功させた。その後、国民政府主席となり、反共政策を推進。あと一歩の状況まで中国共産党を追い詰めるも、抗日戦争では国共合作により共産党と協力した。戦後、国共内戦に敗れ、1949年台湾に退き、死ぬまで中華民国総統を務めた。

    1927(昭和2)年1月、北伐の最中、国民党は漢口のイギリス租界を突然接収し、さらに数日後には九江のイギリス租界も接収しました。この行為は明らかに、中国による九カ国条約違反です。列強の中国での権益を侵すことはしないと、中国は九カ国条約にて約束していたからです。

    イギリスは漢口や九江など中国奥地に大軍を派遣することができないため、日本に共同出兵を求めてきましたが、幣原外相は拒否しています。

    3月には南京事件が起きます。北伐途上の国民革命軍は日本とイギリスの領事館とアメリカの金陵大学などに侵入すると、掠奪・暴行・殺戮を行いました。これに対してイギリスとアメリカは軍を送っています。イギリスは日本にも出兵を求めてきましたが、幣原外相はまたも拒否を貫いたばかりか、逆に英米に対して「内政不干渉」「円満解決」を説いています。

    これに対し「幣原男爵の楽観主義は救いがたい」と天を仰いだのは、イギリスのオースティン・チェンバレン外相です。

    満州事変

    wikipedia:オースティン・チェンバレン より引用
    オースティン・チェンバレン 1863年 – 1937年
    イギリスの政治家。大蔵財務次官・郵政長官・財務相・インド事務相・外相などを歴任。ドイツの国際連盟加盟に道を開いたロカルノ条約締結に成功してガーター勲章を授けられ、ノーベル平和賞を受賞。国際連盟を強力に支持して軍縮に尽力した。

    南京事件は英米の軍艦から砲弾を浴びせることで鎮静化しました。自国の勢力圏にある領事館や租界が襲撃を受けたとき、武力をもって取り除くことは国際的に認められています。英米が自国民の生命と財産を守るために軍を派遣したことは当然であり、国際法に照らしてもなんら非はありません。

    むしろ一兵も派遣しなかった日本の対応の方が、国際社会から見れば異常です。日本領事館は占拠され、略奪にあい、もう少しで大惨事が起きるところでした。このときの様子は『南京事件警備記録』に次のように記されています。

    「婦女子に対して幾度となく忍ぶべからざる身体検査を強要しまさに陵辱に及ばんとしたる者さえあり、或いは男子を罵言乱打する等暴行言語に堪えず、居合わせたる官民はいずれも極力婦女子の安全に努めたり、然れども支那兵の暴力は停止する所なく自動車よりガソリンを持ちだし当館に放火し一同を焼き殺さんと放言するに至りたるを以って在留官民一同は本館裏空き地に集まり何れも死を覚悟す」

    このとき領事館の警備に当たっていた一中尉は領事に制止され、抵抗することなく居留民とともに暴行を甘んじて受けました。帰艦後、中尉はこのような屈辱は帝国軍人として耐えられるものでないと割腹しましたが、一命を取り留めています。

    中国側の度重なる横暴に対して、黙って耐えるよりない現地にいる軍人の不満は、もはや抑えがたくなっていました。満州事変にて関東軍が政府の意向を無視して暴走したのは、こうした積もり積もった堪忍袋の緒がついに切れたからこそです。

    暴行され、略奪され、ときには命さえ奪われても、それでも相手を信頼して黙って耐えて抵抗しないことが正義なのか、それとも日本人居留民を守るために武力をもって自衛することが正義なのか、幣原外交の真価が問われました。

    国内の世論は幣原外交を一斉に批判しました。中国や満州にいる日本人を見殺しにするかのような幣原外交は「幣原軟弱外交」と罵倒され、政権は退陣へと追い込まれました。

    その8.排日運動の原点となった済南事件

    田中義一内閣が発足すると幣原外交を批判し、打って変わって積極外交が展開されました。現地の日本人を保護するために陸軍の派兵も行われています。

    満州事変

    wikipedia:田中義一 より引用
    田中義一(たなか ぎいち) 1864(元治元)年 – 1929年(昭和4)年
    明治-昭和時代前期の陸軍大将・政治家。長州閥最後のリーダー。第26代内閣総理大臣。原敬内閣の陸相としてシベリア出兵を強行。幣原外交を排難し、組閣後は中国に対する強硬外交を展開した。張作霖爆殺事件の責任を負って辞職。昭和天皇へ極秘に行ったとされる田中上奏文によって世界的に知名度があるが、田中上奏文は偽書として確定している。

    1928(昭和3)年4月、蒋介石の率いる国民革命軍(南軍)は第二次北伐を始めました。対する北軍の大元帥は張作霖です。

    南軍は4月中旬には洛南を包囲しました。このとき、洛南は交通の要所であったため多くの外国人が居住しており、日本人も1810人いました。

    満州事変

    Google map より引用 済南の位置を表す地図

    南京事件のような外国人排斥が起きることを恐れた日本は、悩んだ末に洛南への出兵を決めました。市内の警備に当たっていた日本軍は5月2日、南軍総司令官蒋介石より、治安は中国側が絶対に確保するので日本軍の警備を撤去されたいとの要請があったため、それを信じ警備を撤去しました。

    ところがその直後の5月3日早朝、ついに悲劇が起きてしまいます。南軍の兵が新聞販売店を襲撃したことを発端に、救援に駆けつけた日本軍と南軍の間で交戦状態に入りました。日本軍と南軍はまもなく停戦の申し合わせを交わしましたが、南軍の兵はこれを無視して市内で暴動を起こしたのです。

    東京朝日新聞は「日本人は狂暴なる南軍のため盛んに虐殺されつつあり」と、このときの緊迫した様相を伝えています。南軍によって12名の日本人が虐殺されました。虐殺の現場はあまりにも凄惨だったと克明に記されています。他にも殺害・暴行・陵辱・略奪の被害にあった日本人は百名を越えています。

    日本軍は済南事件に関与した高級武官の処刑などを求めましたが、革命軍は回答を拒否したため、済南城を砲撃し山東を制圧しました。このとき中国側の死者は3600人に達したと中国は主張しています。また、中国は済南事件を北伐を阻止しようとする日本軍の計画的な挑発であるとして、5月3日を国辱記念日としています。

    満州事変

    ビジュアルワイド図説日本史』(東京書籍株式会社) より引用
    済南城を占領した日本軍

    日本の教科書では中国側の主張を全面的に受け入れ、済南事件が起きたのは日本軍が北伐に干渉したからだと日本側に非があるように記述していることが多いようです。しかし、日本軍が出兵したのは邦人保護のためであり、北伐に関してはなんら干渉していません。

    事実をねじ曲げてプロバガンダとして利用するのは、現代にも通じる中国の常套(じょうとう)手段のようです。中国側の主張を一方的に受け入れる日本の教科書の在り方に対する批判は、今も根強くあります。

    これまで中国の外国人排斥運動は、もっとも広大な勢力圏を持つイギリスに向けられていました。しかし、済南事件以降はその矛先が日本に向けられるようになります。中国のナショナリズムは、反日の炎を燃え上がらせたのです。

    海外のマスメディアは、済南事件に際して日本に好意的に報じました。

    英紙デイリー・テレグラフは「中国人は掠奪と殺人を天与の権利であるかの知く暴行を繰返してゐる」と非難し、「日本人の忍耐にも限度がある」と述べ、日本軍の行動を「正当防衛」と論じた。
    仏紙ル・タンは「日本の行動は居留民保護に過ぎず、何ら政治干渉の意味はない。日本の自衛行動に憤慨するのは理由のないことだ」と、これまた日本を弁護した。
    北支の代表的外字紙である京津タイムスは「日本軍が居なければ済南の外人は悉(あまね)く殺戮されたに違ひなく、この点大いに日本軍に感謝すべきだ。日本軍は山東省を保障占領して惨劇の再演を防止すべし」とまで論じた。
    大東亜戦争への道」中村粲著(展転社)より引用

    国際社会が非は中国にありと断じたことは明らかです。済南事件によって日本人が虐殺されたことは、日本国民に中国人に対する激しい憤りを抱かせるに十分でした。

    その9.中国による条約違反

    これまで見てきたように、満州事変はさまざまな要因が絡み合うことで起きています。中国による日中間の条約違反も、そのひとつです。
    条約違反とされたのは、1896(明治29)年に結ばれた日清通商航海条約と1903(明治36)年に結ばれた日清追加通商航海条約です。この二つの条約は、いわゆる不平等条約です。

    日本を含め、列強は中国とそれぞれに不平等条約を交わしていました。現在の視点から見れば不平等条約自体が許されないことですが、帝国主義の時代にあっては当たり前のことです。

    この二つの条約は十年ごとに見直すことになっていました。その期限が1926(昭和元)年の10月に迫るなか、北京政府は条約の抜本的な改正を要求し、6ヶ月以内にまとまらなければ失効すると一方的に宣言したのです。

    一度交わした、期限が定められた条約を一方的に破棄することは、国際法から見ても許されません。日本も幕末以来、欧米列強と交わした不平等条約に苦しめられましたが、きちんと条約を守り、長年にわたる交渉の結果として改正を勝ち取っています。

    中国側の失効宣言には驚かされたものの、それでも日本は辛抱強く交渉を継続しました。当時の中国には北京政府と南京政府という2つの政権があったため、日本は双方の政府と交渉するよりなく、時間はいたずらに過ぎていきました。

    ところが1928(昭和3)年、南京政府は改定が所定期間内にまとまらなかったため、両条約は失効したものとみなすと、唐突に宣言しました。日本政府がこれを拒否し、継続を宣言したのは当然のことです。条約が失効するとなると、満州での日本の権益も根こそぎ消えてしまいます。

    条約無視の態度をあらわにする中国に困惑した日本政府は、これを平和的に解決すべく、アメリカ政府に相談しました。中国が不平等条約を一方的に破棄する前例を列強が認めるとなると、やがては自分たちの身にも同じことが降りかかってきます。つまり、列強と日本の利害は一致しています。

    これまで幣原外交によって国際協調路線をとってきただけに、列強も今回ばかりは日本を支援してくれるに違いないという思いが日本政府にはありました。しかし、結果は日本政府を深く失望させるものでした。

    アメリカ政府はあいまいな回答に終始し、日本を支援しようとはしなかったのです。そればかりか、アメリカもイギリスも中国に理解を示すような態度を見せたことで、英米の支援を得たと思った中国政府はますます排日運動にのめり込むことになりました。

    1925(大正14)年から1929(昭和4)年まで、アメリカの駐華公使であったマクマリーは著書のなかで次のように綴っています。

    脅威が顕著となっても、国際協調の枠組みは無力だった。脅威に対抗したり、備えたりするような国際協調行動は、ほとんど行われなかった。その結果、日本は自力で安全を確保しようとしたのであった。〔中国は〕行き過ぎた行動によって、周辺諸国を安心させるのではなく、周辺国の利益と安全を保障していた国際システムを掘り崩していった。それは中国自身の安全と利益を掘り崩すことでもあった。

    満州事変から日中戦争へ』加藤陽子著(岩波書店) より引用

    満州事変以前に九ヵ国条約に違反したのが中国であったことは、紛れもない事実です。

    その10.張作霖爆殺事件

    張作霖ははじめ、日本の支援を受けながら軍閥の頭領へとのし上がりましたが、その一方で私腹を肥やすために日本が満州に有する権益を度々侵していました。日本にとって許せなかったことは、満鉄に平行して走る鉄道建設を張作霖が行ったことでした。

    大正末期から張作霖は日本政府の強い反対にもかかわらず、打通線と吉海線の二つの鉄道の建設を進めました。1927(昭和2)年には打通線が開通しています。

    この当時の張作霖は日本よりも欧米からの支援を受け、抗日寄りの政策を展開していました。鉄道の建設も欧米資本を引き込んで行われたものです。意に沿わない張作霖を、日本側はもてあましていました。

    日本政府がもっとも恐れていたのは、張作霖の北軍と蒋介石の南軍の戦乱により、満州へと戦線が広がることでした。

    日本政府は張作霖と蒋介石に対して「満州の治安維持は日本の最も重視するところであり、もし戦乱が北京・天津方面に進展し、その禍乱が満州に及ばんとする場合は、満州の治安維持のために適当にして有効な処置をとらざるをえない」と警告を発しています。

    蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、日本は国民党寄りの政策へと方針を転換させました。
    その頃起きたのが、1928(昭和3)年6月の張作霖爆殺事件です。満州へ引き上げようとした張作霖を乗せた列車が奉天近郊で爆破され、張作霖が死亡した事件です。

    満州事変

    ウィキペディア より引用
    張作霖が乗車していた爆破された列車

    張作霖を爆殺した犯人は、通説では関東軍の河本大佐による単独説とされています。関東軍の組織的犯行であったかどうかは、はっきりしていません。

    この謀略は昭和天皇の怒りを買い、田中内閣は退陣しています。関東軍の評判を国際的にも大きく落とすことになりました。

    その11.張学良による満州易幟(えきし)

    張作霖が爆死した5日後、国民革命軍は北京に入城を果たし、中華民国は蒋介石によってまがりなりにも統一されました。それでも平安は訪れることなく、翌1929(昭和4)年から中国は再び内戦状態に戻ってしまいました。

    張作霖の跡を継いだのは息子の張学良です。これにより張学良は、満州におよそ20万の兵からなる軍閥を率いる頭領となりました。

    満州事変

    wikipedia:張学良 より引用
    張学良(ちょう がくりょう) 1901年 – 2001年
    中華民国の軍人・政治家。張作霖の長男。張作霖が日本軍により爆殺されると、後継者として東北の実権を掌握。蒋介石の国民政府と提携するにいたり、東北全土で青天白日旗を掲揚した。満州事変で地盤を喪失後、内戦停止と抗日を主張して蔣介石と対立し、西安事件を起こした。第二次国共合作後、蒋によって監禁され、台湾に幽閉された。1990年軟禁を解かれ、長寿を全うしてハワイ州ホノルルにて没。

    12月29日、張学良は満州に翻っていた五色旗をすべて中華民国の青天白日旗に変えました。これを満州易幟(えきし)と呼びます。

    満州事変

    図説 写真で見る満州全史』平塚柾緒著(河出書房新社) より引用
    青天白日旗を掲げる北京市街

    この動きは事前にまったく察知できていなかったため、外務省も日本陸軍も大いに慌てました。青天白日旗を掲げるということは、満州軍閥が中国国民党政府の支配下に入ったことを意味します。

    このことは日本にとって大きな衝撃でした。後ほどふれますが、これまで日本は「満州は中国の領土ではない」と主張してきました。ところが満州の軍閥である張学良が国民党政府に帰順したとなると、満州が中国のものであると主張する絶好の口実になってしまいます。

    このあとも張学良は中華民国が推し進める「国権回復運動」に身を投じ、激しい排日運動を繰り返しました。その原動力となったのは、日本軍に父親を謀殺された恨みです。

    その12.満州の発展

    満鉄による満州開発は順調に推移していました。中国国内は長引く内戦により乱れていましたが、満州は関東軍によって治安が守られていたため、満州に移り住む中国人は後を絶たず、人口は増すばかりでした。

    1928(昭和3)年の秋に満州を視察に訪れた米モルガン財団代表のラモントは、オールズ国務次官にあてた手紙の中で次のように記しています。

    「自分の観た所では、今日満州は全支那で殆ど唯一の安定せる地域である。かつ日本人が存在することによって満州は支那問題に於ける不安定要素であるよりは安定勢力となることが期待される。

    日本は軍事的意昧に於いてのみならず、経済的にも満州を発展せしめつつある。日本がかくするのは、満州に赴く少数の日本人開拓者の利益のためでない。

    実際の話、満州開発は中国人の利益となっているのだ。不安定な戦争状態が中国の広大な部分に拡がっているため、今や中国人は、他の何処に於いても受けねばならぬ匪賊行為や略奪から逃れるために、何千人という単位で南満州に流れ込みつつある」
    大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

    辛亥革命が起きた1911(明治44)年には1800万だった満州の人口は、1930(昭和5)年には3000万人に膨れあがっています。
    満州の繁栄ぶりは、満州は日本の生命線であるという日本側の思いをさらに増幅させるとともに、中国側にも満州を奪い取りたいという思いをより強くさせることになりました。

    その13.激化する排日運動と幣原外交の復活

    中国での排日侮日運動はさらに激しさを増し、排日教育が徹底的に行われました。満州事変後に出された国際連盟によるリットン調査団の報告書でも、次のように記されています。

    「学校でつかわれている教科書を読むと、執筆者は憎悪の炎で国粋主義を燃え上がらせ、悲壮感をあおりたてているような印象を受ける。学校に始まり、社会の各層で行なわれている烈しい外国排斥プロパガンダが、学生たちを政治活動に走らせ、ときには官庁や閣僚、高級官僚への襲撃、政府転覆の企みへと駆り立てている」

    済南事件以来、中国の外国人排斥運動は日本一国のみに集中して向けられました。日本人に対する憎悪を募らせる教育が公然と行われ、満州も不穏な空気に包まれました。中国人による暴行、唾を吐きかけるなどの侮辱行為、通学途中の児童に対する投石、日本人に対して野菜などを売らないなどの差別が、繰り返されました。

    当時、排日行為の懸案数は大阪対支経済連盟がまとめた資料によると、500件を超えています。しかし、日本政府は有効な手を打てずにいました。国内では「国家意識が麻痺している」「平和主義への盲信だ」とする批判の声が強まりました。

    1929(昭和4)年7月、浜口内閣が誕生すると、幣原喜重郎は再び外相として入閣します。排日侮日の嵐が吹き荒れているなか、現実を無視した理想主義に基づく外交をまたも幣原外相は推し進めました。

    これを歓迎したのは中国です。幣原外交に戻ったことで中国側はさらに強硬となり、国民党の指導の下、排日の動きを強化しました。
    排日運動の団体である国民外交協会の分会は、幣原外相の就任以来、1931(昭和6)年には40数カ所に広がっています。

    さらに1931(昭和6)年4月には国民外交協会の主催による排日会議が開かれ、旅順・大連の租借地の回収、南満州鉄道の回収などの要求が為されました。

    日本の世論は、これを日本の満州権益に対する中国の官民あげての挑戦と受け止めました。満州は数万を超える日本人の犠牲の上に取得した地であり、日本人にとっては特別な場所です。不毛の地であった満州を近代都市へと成長させたのは日本だという自負もあります。

    そうした背景をすべて無視して一方的に出ていけと言われても、冗談じゃないという思いを多くの日本国民がもっていました。

    国民の間では「満州を守れ」という声が高まるなか、幣原外相の善意あふれる外交は空回りするばかりでした。

    その14.張学良の排日工作と朝鮮人迫害

    国民党に下った張学良は吉海線を1929(昭和4)年に開通させ、打通線と併せた2本の鉄道を満鉄と並行して走らせました。これにより満鉄の営業利益は大幅に減少し、翌年には創業以来の大赤字を出しています。

    日本が恐れていたことが現実になりつつありました。満鉄の経営が傾けば、満州の開発事業がストップしてしまいます。現に経営が悪化した満鉄は、やむなく人員整理に踏み切り、日本側の危機感はより強まりました。

    さらに張学良は日系の工場を襲って閉鎖を命じたり、設備の破壊、鉱山採掘を禁止して坑道を壊すなど、排日運動を指揮しました。また満鉄の附属地に柵を巡らし、通行口に監視所を設けることで付属地から持ち出す物品に勝手に税金を課けるなど、やりたい放題です。

    この頃は、日韓併合により日本人となった朝鮮人に対する事件も増えていました。日本人や朝鮮人に土地を貸したり売ったりした者を処罰する法律があり、満洲に入植した多数の朝鮮人農民が土地を奪われ、抵抗した者は監獄に入れられました。

    1930(昭和5)年には満州南東部の間島で共産党主導による暴動が発生し、領事館や親日朝鮮人家屋が襲撃を受けました。10月には市内を巡察中の日本人警官が中国軍より一斉射撃を受け、2名が即死、1名が重症を負ったため、日本政府は応援警官103名を派遣しています。

    その間、朝鮮人に対するゲリラ攻撃が度々行われたため、現地の朝鮮人は日本の武力行使を求める請願を出しました。

    これに対して幣原外相は警官の増員は日中の対立を深めるとの判断から、武力行使どころか応援警官の引き上げを命令したのです。現地の朝鮮人と日本人からは、幣原外交に対する激しい批判の声が上がりました。

    満州に在住する朝鮮人の迫害やテロが続き、万宝山で事件が起きました。朝鮮人10名が不当に逮捕されたことを受け、このときは朝鮮人保護のために日本側も武装警官を派遣しています。

    事件が朝鮮に伝わると、各地の朝鮮人が一斉に中国人に報復攻撃を開始し、中国人109名が殺害されています。それに対して中国では排日運動が激しくなるという悪循環が生じました。

    その15.満州事変を呼んだ中村大尉殺害事件

    関東軍を満州事変へと暴走させた直接の原因となった事件が、1931(昭和6)年6月に起こった中村大尉殺害事件です。

    満州事変

    ウィキペディア より引用
    中国軍に殺害された中村震太郎(左)・井杉延太郎(右)

    リットン調査団による報告書でも「中村事件は他の如何なる事件よりも一層日本人を憤慨せしめ、遂には満洲に関する日支懸案解決のため実力行使を可とするの激論を聞くに至」と記されています。

    参謀本部の中村大尉が任務中に消息を絶ったため、安否が気遣われていました。そこへ中村大尉が中国軍に捕まり殺害され、死体は証拠隠滅のために焼かれたとの確かな情報がもたらされたのです。

    関東軍は軍を出動させて真相を調査しようとしましたが、幣原外相はこれを押しとどめ、外交交渉での解決をはかりました。しかし、中国側はこれを事実無根と主張したため、外交交渉は行き詰まるばかりです。

    日本の世論が怒りに染まり「武力を使ってでも日中の懸案を解決すべし」という声が高まったことで、事件からおよそ3ヶ月が過ぎた9月18日午後3時に、中国側はようやく全面的に殺害の事実を認めました。

    しかし、すべては遅すぎました。日本国内の世論に押されるように、その日の午後10時20分頃、柳条湖事件から端を発する満州事変が起きたのです。

    その16.そして、満州事変へ

    満州事変

    https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/28854609.html より引用
    「歩武堂々、我が軍の奉天入城」と題された絵葉書

    柳条湖事件が関東軍の謀略によって起こされたことは確かですが、これまでの経過からも明らかなように、満州事変は起こるべくして起こった必然的な流れともいえます。

    中国による組織だった排日運動は満州の存立を脅かすほどでした。満州における日本の権益を守り、朝鮮人を含めた日本人居留民を守るためには、満州から張学良の軍閥を排除する必要に迫られていました。

    満州を守るためには、もはや武力をもって処すよりないという思いを多くの日本人が抱きました。
    加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』のなかに、満州事変の直前に当たる1931年7月に現在の東大にあたる東京帝国大学の学生を対象に行ったアンケート結果が掲載されています。

    「満蒙のための武力行使は正当か」との問いに対し、「はい」と答えた学生は88%に達しています。その内訳を見ると、「直ちに武力行使すべき」と答えた学生52%、「外交手段を尽くした後に武力行使をすべき」と答えた学生36%、「武力行使をしては駄目だ」と答えた学生12%でした。
    戦争も辞さないと答えた学生が9割近くもいることは、現在の感覚からすれば信じがたいことですが、当時の世相を正直に反映しているといえるでしょう。

    日本人の大半が、これまでの中国側の排日運動に反感を覚え、軍事力を行使してでも満州を守ることを是としたのです。力による抜本的な解決を、日本人の多くが歓迎しました。

    その声に応えるように関東軍は、満州事変を起こすに至ったのです。

    幣原外交は理想を追いかけるばかりで、今そこにある危機を直視しようとはしませんでした。もはや幣原外交、および政府に任せていては満州を守れないと判断した関東軍が実力行使に及ぶことで、満州事変という結果が生まれたのです。

    その意味では楽観主義や理想主義ではなく、現実に根差した外交が当時行われていたのであれば、あるいは満州事変は起きなかったのかもしれません。

    日本国民の圧倒的な支持を受け、このあと満州事変はさらなる深みへと日本を引き釣り込んでいくことになります。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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