前回の記事では、欧米列強がどのようにアジアを植民地化していったのかを見てきました。今回はさらに踏み込み、実際に植民地となったインドネシアとインドで、人々の暮らしや産業がどのように変えられていったのかを見ていきます。
戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は、いわゆる「GHQ焚書」と呼ばれる出版物の没収を行いました。正確には、GHQの指示によって多数の「宣伝用刊行物」が流通停止・回収の対象となったものです。現在では国立国会図書館などに、当時の没収刊行物の目録や資料が残されています。
本稿では、こうした戦前・戦中の資料だけでなく、現在確認できる研究や史料も照合しながら、植民地支配の実態を見ていきます。
植民地支配というと、外国の軍隊が土地を占領する姿を想像しがちです。しかし実際には、それだけではありません。土地の使い方、農民の働き方、何を生産するのか、誰に売るのか、税を誰が取り立てるのか。
現地社会の仕組みそのものが、宗主国へ利益をもたらす方向へ組み替えられていきました。
インドネシア植民地化――ジャワ戦争と強制栽培
現在のインドネシアが一つの独立国家として成立したのは第二次世界大戦後のことです。それ以前、この地域の大部分は「オランダ領東インド」として支配されていました。
ただし、少数のオランダ人だけで数千万もの住民を直接統治することはできません。オランダはジャワにもともと存在していた地方有力者や村長などを植民地統治へ組み込み、現地社会の権力構造を利用しながら支配を広げていきました。
1825年、ジャワ戦争――ディポネゴロの抵抗
1825年、ジャワでディポネゴロ王子を中心とする大規模な戦争が始まりました。背景には単純な「白人への反感」だけでなく、オランダによる支配拡大、土地をめぐる問題、ジャワ王権内部の政治、イスラムをめぐる宗教的要素などが複雑に絡んでいました。
王族や宗教指導者だけでなく、多くの農民も戦いに加わります。戦争は1830年まで約5年間続き、最終的にディポネゴロはオランダ側に捕らえられ、流刑となりました。
ジャワ側では、戦闘だけでなく戦争に伴う飢餓や疫病なども含め、約20万人が死亡したと推計されています。
ジャワ戦争の敗北は、大きな転換点となりました。
大規模な抵抗を鎮圧したオランダは、ここからジャワをより本格的に植民地経済へ組み込んでいきます。
1830年、ジャワをオランダの収益源にした強制栽培制度
ジャワ戦争はオランダ側にも巨額の戦費を負担させました。その直後の1830年、総督ファン・デン・ボスのもとで本格的に導入されたのが「強制栽培制度(Cultivation System)」です。
農民たちはコーヒー、砂糖、藍など、ヨーロッパ市場で利益を生む輸出作物の生産へ組み込まれていきました。生産された農産物はヨーロッパへ運ばれ、その利益はオランダ本国へ流れます。
その規模は非常に大きなものでした。最盛期の1850年代には、オランダ領東インドから本国への純移転額が、オランダ政府歳入の半分以上に相当したとする研究があります。
ジャワの土地と労働が、遠く離れたオランダ国家の財政を支えるほどの収益源となっていたのです。
村長まで組み込まれた植民地支配
強制栽培制度を実際に動かしたのは、オランダ人だけではありませんでした。植民地政府は現地の摂政や村長などを利用して、農民の土地と労働を動員しました。生産量を増やした現地有力者側にも報酬が与えられる仕組みがありました。
つまり、「オランダ人 対 インドネシア人」という単純な構図ではありません。既存の地域社会や権力関係そのものが、植民地支配の仕組みとして利用されたのです。
そして大きな負担を受けたのは、実際に土地を耕し、作物を生産する農民たちでした。近年の研究では、強制栽培制度のもとで労働動員の負担が大きかった地域ほど、死亡率が高かったことも示されています。
従来の記事では「数十万人から数百万人が餓死した」といった数字も紹介されていましたが、その総数を正確に確定することは困難です。しかし、不確かな数字を使わなくても、強制的な労働動員が人々の生命にまで影響したことは確認できます。
19世紀後半になると強制栽培制度への批判が高まり、制度は1860年代以降、段階的に縮小されていきました。1870年はその大きな転換点となりましたが、強制的な生産・供出が一度にすべて消えたわけではありません。西ジャワではコーヒーをめぐる強制的な制度が1917年まで残りました。
イギリス支配下のインド――農村と飢饉はどう変わったのか
インドでも、植民地化によって農業や社会の仕組みが大きく変化していきました。ただし、広大なインド全域で同じ土地制度や徴税制度が使われたわけではありません。
地域によって異なる制度が導入され、東インド会社と、その後の植民地政府は土地から安定した収入を確保しようとしました。徴税の負担や土地所有をめぐる制度変更によって農民が土地を失う例も生まれ、農村社会には大きな変化が起こりました。
さらにインド農業は、地域住民の生活だけではなく、イギリス帝国の世界貿易へ深く組み込まれていきます。藍、原綿、そしてアヘンの原料となるケシなどが重要な商品となりました。
とくにアヘンは、中国から輸入する茶などの代金を補う貿易商品として重要な役割を果たします。東インド会社はアヘンの生産・流通を強く統制し、地域によっては農民に対する強い圧力を伴う栽培制度も存在しました。
植民地インドは単なる領土ではありません。
イギリス帝国の巨大な経済システムの一部となっていったのです。
1770年ベンガル飢饉――自然災害だけでは説明できない
インドでは植民地期にたびたび大規模な飢饉が発生しました。1770年のベンガル飢饉では、当時の人口の約3分の1が死亡したとも推計されています。ただし、この数字は当時から伝えられてきた推計であり、正確な死者数を確定することは困難です。
もちろん、飢饉の直接的な引き金には干ばつや降雨不足などの自然要因があります。しかし、人間の被害は自然条件だけでは決まりません。
税制、市場、食料の流通、農民の購買力、そして政府がどこまで救済を行うのかによって、同じ凶作でも犠牲の規模は変わります。
1874年には救えた――その数年後に起きた大飢饉
1873〜74年、ビハール地方で深刻な飢饉の危険が高まりました。このとき植民地政府はビルマなどから大量の米を輸入し、積極的な救済活動を行いました。その結果、大規模な餓死を回避することに成功します。
ところが、この救済は多額の費用を使ったとして批判されました。
そして1876〜78年、今度はマドラス、マイソール、ハイデラバード、ボンベイなど南・西インドを中心に大飢饉が発生します。このときの救済政策には財政支出を抑えようとする姿勢や自由放任主義、当時の人口論などが影響し、後世の研究でも植民地政府の対応は厳しく批判されています。
ここで注意したいのは、「イギリスが干ばつそのものを作った」という話ではないことです。問題は自然災害が起きたとき、植民地政府がどのような政策を選択したのかです。
わずか数年前には積極的な食糧輸入によって多くの命を救えた一方、その後の大飢饉では救済がより厳格に制限されました。
植民地支配の影響を見るうえで、この違いは重要です。
世界有数だったインド綿工業はなぜ衰退したのか
植民地化以前のインドを、「産業のない貧しい地域」と考えてはいけません。17〜18世紀のインドは、世界有数の綿織物生産地でした。
モスリンやキャラコなどのインド製綿布はアジアだけでなくヨーロッパでも高い人気を誇り、イギリスでは国内産業を保護するため、インド綿製品の輸入や使用を規制した時期さえありました。
ところが18世紀後半、状況が大きく変わります。
イギリスで産業革命が進み、その中心産業の一つとなったのが綿工業でした。
産業革命で世界の流れが逆転した
紡績や織布の機械化によって、イギリスでは綿製品を大量に生産できるようになりました。さらに植民地インドは、英国製の糸や布を販売する巨大な市場へと変化していきます。
植民地支配下ではインド側が自由に貿易政策を決定できたわけではなく、イギリス本国の産業や貿易政策の影響を強く受けました。その結果、インドの伝統的な繊維産業は大きな再編を迫られます。
特に大きな打撃を受けたのが、人の手で糸を紡いでいた手紡ぎです。一方で、手織りまで短期間に完全消滅したわけではありません。英国製の安価な機械紡績糸を利用したり、高級品などへ活路を求めたりすることで、形を変えながら存続した地域もありました。
つまり、「イギリス製品によってインドの綿工業が一瞬で完全に壊滅した」と説明するのも正確ではありません。
それでも、世界有数の綿製品輸出地域だったインドが、英国製工業製品を大量に受け入れる市場へ変化していったことは、世界史上の大きな転換でした。
長いあいだアジアからヨーロッパへ高価な商品が流れていた世界から、ヨーロッパで大量生産された工業製品が植民地市場へ流れ込む世界へ。
産業革命と植民地支配は、世界経済の流れそのものを変えていったのです。
「イギリス人が織工の指を切った」という話は史実なのか
ここで、元の記事でも大きく扱っていた有名な逸話について触れておきます。「イギリス人がインドの織工の指や手首を切り落とし、インドの綿工業を破壊した」という話です。
この逸話は長く紹介されてきましたが、現在確認できる史料では、イギリス当局がインドの織工の親指や手首を組織的に切断した事実を裏付ける十分な証拠は確認されていません。そのため本稿では、この逸話を史実として採用しません。
しかし、この話を外したからといって、植民地支配がインド産業へ与えた影響まで消えるわけではありません。
産業革命、貿易政策、原料供給、植民地市場。
これらが組み合わさることで、インドの産業構造そのものが大きく変化したことが重要なのです。
インド人は黙って支配を受け入れたわけではない
植民地支配によって大きな社会変化を経験したインドですが、人々が黙って支配を受け入れていたわけではありません。
1857年、インド大反乱
1857年、東インド会社軍に所属していたインド兵の反乱をきっかけに、大規模な蜂起が始まりました。反乱は兵士だけにとどまらず、旧支配層や農民などさまざまな集団へ広がり、北・中部インドの広い地域を巻き込みました。
イギリス側は最終的に反乱を鎮圧しましたが、その過程では双方による残虐行為が発生し、鎮圧後にはイギリス側による激しい報復も行われました。
元記事では当時の著作を引用して、老人や女性、子どもまで犠牲となった残酷な報復を詳しく紹介していました。ただし、そこで示されていた個別の人数や逸話には確認が難しいものもあるため、本稿では確定的な数字として採用しません。
反乱を受け、1858年には東インド会社によるインド統治が終わりました。
以後、インドはイギリス王室による直接統治へ移行します。
1919年、ローラット法とアムリットサール虐殺
第一次世界大戦後の1919年、イギリス植民地政府は反政府活動を取り締まるため、ローラット法を成立させました。これは戦時中に認められていた強力な治安権限の一部を平時にも継続するもので、裁判を経ない拘禁などを可能にする内容を含んでいました。
これに対し、インドでは大規模な抗議運動が起こります。
同年4月13日、パンジャブ地方アムリットサールのジャリアンワーラ・バーグには、多くの住民が集まっていました。ローラット法への抗議や地元指導者の拘束に対する反発が続く一方、この日はシク教徒などにとって重要な祭日バイサーキーでもあり、集まった人々すべてが政治集会への参加者だったわけではありません。
ダイヤー准将の指揮する部隊は、この群衆に対して発砲しました。
英国側の公式調査では379人が死亡し、約1200人が負傷したとされています。ただし実際の犠牲者はさらに多かったとする推計もあります。
いずれにしても、非武装の群衆に軍が発砲したこの事件はインド社会に大きな衝撃を与えました。イギリス帝国内で改革を求めるだけではなく、植民地支配そのものからの独立を求める流れはさらに強まっていきます。
インドネシアとインドの悲劇が示す植民地支配の本質
イギリスによるインド統治だけが、特別な例だったのでしょうか。
そうではありません。
オランダ領東インド、イギリス領インド、フランス領インドシナなど、制度や支配方法には大きな違いがありました。しかし、多くの植民地で共通していたのは、現地の土地、労働、農業、税制、産業、市場を、宗主国の利益を生み出す仕組みへ組み込んでいったことです。
インドネシアでは、ジャワの農民がコーヒーや砂糖などの輸出作物の生産へ動員され、その収益がオランダ国家の財政を支えました。インドでは農業や貿易がイギリス帝国の世界経済へ組み込まれ、世界有数だった繊維産業も産業革命と植民地市場の形成によって大きく変化しました。
そして飢饉や反乱が起きたとき、その犠牲を最も重く背負ったのは、そこで暮らしていた普通の人々でした。
植民地支配の悲劇とは、戦場で何人が殺されたかだけではありません。
人々が長い時間をかけて築いてきた社会の仕組みそのものが、遠く離れた帝国の利益を生むために変えられていったこと。
そこまで見て初めて、植民地支配が何だったのかが見えてきます。
そして20世紀初頭、アジアの多くが列強の植民地・勢力圏へ組み込まれていたなか、日本は独立を維持していました。
では、なぜ日本は植民地化を免れることができたのでしょうか。
次の記事では、その理由を見ていきます。
















いつも拝読させていただいております。
記載間違いの箇所があると思われます。
第1部 2章(6/7)植民地化されたインドネシアとインドの悲劇
ところがオリエントの人々が欲するものは、ヨーロッパにはほとんどなかったのです。そのため、物品は常にヨーロッパからオリエントへと一方的に流れていくばかりでした。
オリエントからヨーロッパへが正しいものと思われます。
ご指摘いただき、ありがとうございます。たしかに記載ミスでした。先ほど修正させていただきました。
ご指摘いただけたことに感謝いたします。今後ともよろしくお願いいたします。