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    #05 なぜアジアは狙われたのか?欧米列強のアジア侵略

    白人による有色人種殺戮と略奪の500年

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    2章 白人による有色人種殺戮と略奪の500年

    前回の記事の続きとなっています。前回の記事はこちらから。
    第1部 2章 3/7 インディアン・アボリジニの悲劇

    2-9.ヨーロッパ列強によるアジアの山分け

    その1.なぜアジアが狙われたのか

    欧米列強の魔の手はアジアにも及びました。アジアが狙われた一番の理由は、アジアには豊富な香辛料があったからです。香辛料を独占するために、欧米列強はアジアを舞台に血眼になって派手な領土分捕り合戦を繰り返しました。

    たかが香辛料のために、なぜ戦争まで辞さなかったのかと言えば、大航海時代は香辛料の価格が驚くほど高かったためです。たとえばコショウには、金と同じ価値がありました。そのため香辛料の貿易を独占できれば、莫大な財を得ることができたのです。

    香辛料の価格が高かったのは、単に貴重品だったからではありません。香辛料は当時、「万能の薬」と信じられていたため、どれだけ高価でも買い手が後を絶たなかったのです。

    中世の頃は天然痘やコレラ、チフスなどの死病は臭いがもとで広がると考えられていました。香辛料にはそれらの臭いを消してくれる作用があると、人々は信じていました。

    また、香辛料は領主が領民を支配するための道具としても用いられました。領主が領民に貴重な香辛料を分け与えることが自らの権威を高め、領国の安定と富の集中をもたらしたのです。

    当時、ヨーロッパに香辛料を運んだのはイスラム商人でした。アジアで安く買い付けた香辛料を法外な値段でヨーロッパ各国に売りつけることで、イスラム商人は大きな利益を得ていました。

    そこでヨーロッパ列強は、イスラム商人を介すことなく直接アジアに赴いて香辛料を手に入れようとしたのです。

    かくして「魔法の粉」と呼ばれた香辛料を求めて、欧米各国はアジアを次々と侵略していくことになります。

    スパイス 第1部 2章 4/7 なぜアジアは狙われたのか?欧米列強のアジア侵略

    その2.アジア侵略の大まかな歴史

    - ポルトガルの東洋貿易独占時代 -

    ポルトガル 第1部 2章 4/7 なぜアジアは狙われたのか?欧米列強のアジア侵略

    15世紀の東南アジアに、現在の世界地図を重ね合わせるわけにはいきません。当時の東南アジアはいくつもの小国が分かれて存在しており、日本のような統一国家はまだ誕生していませんでした。

    現在のフィリピンにしてもマレーシアにしてもインドネシアにしても、当時はまだそのような国家はなく、小国がそれぞれに覇を競い合っていたのです。

    アジア侵略の一番手はポルトガルでした。インド航路をはじめて開いたのはポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマです。アジアに最も早く到達したポルトガルは、以後およそ百年にわたり、莫大な利益を生む東洋貿易を独占しました。

    1505年にはセイロン島を侵略し、1510年にはインドのゴアを、その翌年にはマラッカ王国を征服しています。マラッカ王国はマレー半島の南半分と対岸のスマトラ島バレンバン、さらにジャヴァ島を支配していた国です。ポルトガルに征服されるまでは、交易の中心国として大いに栄えていましたが、近代兵器を擁したポルトガル軍との戦いに敗れ、滅亡しています。

    ローマ法王から東洋に関する政治的・経済的・宗教的な絶対優越権を与えられていたポルトガルは、東洋貿易を独占することで国力を大きく伸ばしました。他国がこの独占権を脅かそうとすれば海軍力を盾に武力で排除する姿勢を見せ、利権を守り抜いたのです。

    - スペインによるフィリピン侵略 -

    スペイン 第1部 2章 4/7 なぜアジアは狙われたのか?欧米列強のアジア侵略

    ポルトガルと並ぶ強い海軍をもっていたスペインも、マゼラン船団が大西洋を西に向かうことで太平洋に出ることに成功します。マゼランもコロンブスと同じように、上陸した各地で虐殺と略奪を繰り返しながらフィリピンに到達しました。

    セブ島に上陸したマゼランは、圧倒的な武力を背景に小高い丘に十字架を立てました。スペイン国王のためにこの地を占拠したという証です。フィリピン最初の福音の伝導は中南米の島々と同じく、武力を前面に押し出した威嚇(いかく)とともに行われたのです。

    ところがマゼランはマクタン島の首長ラプラプとの戦闘中に、命を落としてしまいます。規模こそ小さいものの、この戦いは有色人種が白人を打ち破った史上初めての快挙ともいわれています。

    マゼランを失った船団は大慌てで本国に逃げ帰りましたが、それでもたった一隻に積み残っていた香辛料を売ることで、全船隊の費用を差し引いてもなお利益が残ったと記録されています。香辛料の売買がどれだけ儲かったのかをしのばせるエピソードです。

    スペインはマゼランが発見したフィリピンに遠征隊を送り、1571年にはマニラを占領し、スペイン国王フェリペ二世の名にちなんで「フィリピン」と命名しました。これより後、フィリピンはスペインの植民地とされ、以後330年にわたり支配を受けることになりました。スペインにとってフィリピンは、アジア侵略と経営の根拠地となったのです。

    ポルトガルとスペインは日本にも侵略の手を伸ばしています。1543年には種子島にポルトガルが到達し、1549年にはスペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しています。日本がなぜ侵略されなかったのかは、後の回で紹介します。

    - オランダによるインドネシア侵略 -

    オランダ 第1部 2章 4/7 なぜアジアは狙われたのか?欧米列強のアジア侵略

    やがてポルトガルとスペインに代わってアジアに侵略してきたのはオランダです。オランダはインド洋の沿岸地域にあったポルトガルの貿易拠点を次々に奪い取っていきました。ことにオランダが重要な拠点として目をつけたのは、現在のインドネシアの領域です。

    そこには当時、小さな国が乱立していました。オランダは香辛料を求めてそれらの国に立ち寄りましたが、交易関係を築くことに失敗したため、住民を殺害しては香辛料を力尽くで奪っていました。

    しかし、それでは本格的な貿易ができないため、ジャワにオランダ東インド会社を設立し、アジア侵略の拠点としました。「オランダ東インド会社」は世界初の株式会社といわれています。会社組織であるため、ビジネスに特化した平和なイメージを抱きがちですが、実態は異なります。

    会社とはいえ軍隊をもち、貿易・軍事・外交・行政の独立権を本国から与えられていました。インドネシア領有をめぐってポルトガル・イギリス・フランスの軍と戦って打ち破り、その地に栄えていたイスラム王国を次々と征服し、オランダ東インド会社は17世紀中頃にはインドネシアの植民地化に成功しています。

    その後オランダ東インド会社からオランダ政府へと引き渡され、インドネシアはこれ以降330年もの長期にわたりオランダの植民地支配を受けることになったのです。

    - イギリスのアジア侵略 -

    イギリス 第1部 2章 4/7 なぜアジアは狙われたのか?欧米列強のアジア侵略

    東南アジアをめぐるオランダとの戦いに敗れたイギリスは、矛先をインドへと変えました。インド産の手織り綿布がヨーロッパにもたらされると大流行となり、各国は競ってインド侵略を始めました。オランダと同様にイギリスもまた、イギリス東インド会社がインド侵略の母体となっています。

    英蘭戦争で勝利したイギリスは、18世紀にさらにフランスを打ち破り、インドでの覇権を確立しました。

    カリブ海と新大陸、インドに多くの植民地を得たイギリスは略奪と搾取で富を蓄えることにより、産業革命を成し遂げました。一方、イギリスとの植民地獲得競争に敗れたフランスは経済的に行き詰まり、民衆の不満を抑えることができないままフランス革命を呼び込むことになります。植民地を得られるか否かが両国の明暗を分けたのです。

    その後、ナポレオン戦争によって動乱に巻き込まれたヨーロッパ各国は、1814~15年のウィーン会議を契機としてヨーロッパでの争いを避けるようになります。ヨーロッパ内での国境は固定化され、安定がもたらされました。

    ただし、平和はあくまでヨーロッパ内だけのことであり、アフリカとアジアを舞台に植民地分捕り合戦が激化することになるのです。

    1796年にスリランカを併合したイギリスは、19世紀を通じてインド・ビルマ・マレー半島の植民地化を進めました。

    三次にわたるイギリス・ビルマ戦争に敗れたビルマのコンバウント朝は1885年に滅亡しています。ビルマ全域を支配下におくことで一気に中国へのアクセスが開けました。イギリスが本当に狙っていたのは、広大な中国でした。

    イギリスが中国を侵略するための足がかりとして利用したのがアヘンです。アヘンとは、いわゆる麻薬です。イギリスは政府の名のもとにアヘンの密輸を中国に行いました。中国ではアヘンの取り締まりが行われていたため、当然これを規制します。

    すると、イギリスは貿易の自由が侵されたと言いがかりをつけ、中国(清朝)に戦争を仕掛けました。これが1840年に起きたアヘン戦争です。アヘン戦争に敗れた中国はこれ以降、欧米列強への従属を深めていくことになります。

    イギリスは東南アジアでも巻き返しを図り、オランダとの取引により1824年にペナン・シンガポール・マラッカのマレー半島に英領植民地を確立しました。マレー半島全域の植民地化に成功したのは1896年です。

    植民地争奪戦に遅れをとったフランスは、現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域を侵略し、19世紀後半にそれらの地域をまとめて仏領インドシナとして支配下に治めました。

    - アメリカによるハワイ侵略 -

    アメリカ 第1部 2章 4/7 なぜアジアは狙われたのか?欧米列強のアジア侵略

    1870年以降はイギリス・オランダ・フランス・スペインに加えてアメリカも植民地分捕り合戦に加わってきます。アメリカのアジア侵略はハワイから始まりました。

    当時、ハワイには憲法を有する近代国家としてハワイ王国が栄えていました。アメリカはハワイを侵略するために、まず移民を大量に送り込みました。移民を素直に受け入れてしまったことが、ハワイ王国滅亡の第一歩でした。

    異変を察知したのか、カラカウア王は世界旅行の傍らに日本を公式訪問して明治天皇に秘密裏に謁見すると、皇室との縁組みを提案し、アメリカの脅威にさらされるハワイ王国を援助してほしいと申し出ました。しかし、まだ国力が弱かった日本は、この切実な願いを受けることができませんでした。

    ハワイのアメリカ移民は度々武装蜂起しては、憲法の修正を国王に迫りました。武力による脅しに屈し、国王は改正憲法に署名をするよりありませんでした。

    改正憲法には「国王は議会の承認無しに政治に関与できない」こと、及び「アジア人には選挙権を与えない」こと、「先住ハワイ人は高収入の者しか選挙権を得られないこと」などの条項が盛り込まれていました。ハワイ人の多くは貧しかったため、実質的に選挙権を得たのは裕福な白人ばかりでした。

    アジア人から選挙権を取り上げたのは、日本人移民を警戒したからです。アメリカの影響力が増していくことに危機感を募らせたハワイ王朝は、国策として日本人移民を奨励したため、1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどでした。

    こうして全人口の比率からすればわずかに過ぎなかった白人が、ハワイの実権を握ったのです。これこそが武力を背景に成し遂げたアメリカの「民主主義」です。

    1891年、カラカウアの後任として妹のリリウオカラニが王位に就きました。多くのハワイ人は、理不尽な改正憲法に変えてハワイ人のもとに実権を取り戻すための新憲法の制定を画策します。

    こうした動きに危機感を募らせたアメリカは、米人保護を口実についに軍をホノルルに上陸させました。ホノルルに停泊していた米軍艦ボストンの主砲がイオラニ宮殿に向けられたまま、女王は幽閉されました。軍をもたないハワイ人には抵抗する術がなかったのです。ハワイには戒厳令が敷かれ、暫定政府が樹立されました。世にいうハワイ事変です。

    アメリカを筆頭に西欧列強が相次いで暫定政府を事実上の政府として承認するなか、ついにハワイ政府庁舎に星条旗が翻りました。

    日本政府はアメリカによるハワイ併合の動きをけん制するために、邦人保護を名目に東郷平八郎率いる軍艦「浪速」と「金剛」をホノルルに送りました。

    浪速と金剛は米軍艦ボストンを挟んで投錨(とうびょう)しました。これは明確な威嚇であり、非情な行いを働く米軍に対するあからさまな抗議でした。女王を支持するハワイ人は、涙を流してこれに歓喜したと記録されています。

    「武力でハワイ王政を倒す暴挙が進行している。我々は危険にさらされた無辜(むこ)の市民の安全と保護に当たる」と東郷艦長は声明を発表し、日本の艦艇は三ヶ月間ホノルルに留まりました。

    日本の抗議も空しく、1894年、ハワイ共和国が樹立されました。その翌年、ワイキキでの小さな衝突が発端となり先住ハワイ人が武装蜂起すると、共和国政府はこれを反乱軍と見なし、武力で鎮圧しました。このとき、多くの先住ハワイ人が虐殺されています。

    さらに米軍は200人の先住ハワイ人を拘束し、女王の退位を迫りました。リリウオカラニ女王は200人のハワイ人の命と引き換えに、退位に同意しました。ここにハワイ王国は名実ともに滅亡したのです。

    東郷艦長の率いる浪速は再びホノルルに寄港しました。折しも新政権1周年の祝いが行われており、ハワイ共和国は浪速に対して祝砲を撃つように命じました。しかし、東郷は「その理由を認めず」として、要求を突っぱねました。

    祝砲を撃つことなく静かにホノルル湾に入港する浪速を見た他国の艦も、一斉にこれにならい祝砲を撃つのを止めました。このことは海外の新聞に「ホノルルの港はハワイ王朝の喪に服すように静寂に包まれた」と報道されています。アメリカとしては大きく面子をつぶされる出来事でした。

    日本はハワイのアメリカ併合に厳重な抗議を行いましたが、1898年、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲されるところとなりました。ハワイはアメリカにとって、太平洋の島々を侵略する上で極めて重要な軍事拠点となったのです。

    - アメリカによるフィリピン侵略 -

    アメリカがハワイの次に狙ったのはフィリピンでした。これについては後日、詳しく紹介する予定ですので、今回は軽く概要のみを追いかけるに留めます。
    アメリカとスペインの間で戦争が起きると、アメリカはスペインの植民地であるフィリピンに食指を伸ばしました。

    フィリピン第一共和国 初代大統領 エミリオ・アギナルド
    wikipediaより引用::フィリピン第一共和国 初代大統領 エミリオ・アギナルド

    スペインからの独立を目指して戦っていた独立軍のリーダーであるアギナルドにフィリピン独立を約束し、アメリカに協力するように求めたのです。

    アギナルドの革命軍は1898年、アメリカの支援を受けながらスペイン軍を打ち破り、ついに独立を宣言しました。フィリピンは喜びに沸き返りました。ところが、スペインによる330年にわたる植民地支配から脱し、アギナルドを初代大統領に迎えて憲法制定を急いでいた矢先……。

    独立を約束していたはずのアメリカが、突然掌を返します。実はアメリカはアギナルドたちの知らない間に、スペインからフィリピンを2千万ドルで買い取っていたのです。

    アメリカはフィリピンの独立を認めませんでした。「フィリピン島民はまだ独立自治の能力をもっておらず、その時期が来るまで指導の任に当たるのはアメリカの義務である」と勝手に断じ、フィリピンの領有を一方的に宣言しました。

    そこには、「アメリカの自由平等をフィリピンに及ぼすことはフィリピンの利益であり、ひいては世界人類の幸福をもたらす」とするアメリカ流の正義の論理が働いています。

    されど、表現は違えども、言っていることは「進化の遅れた野蛮人や未だに文明開化を迎えていない人々に、有り難い西欧文明の恩恵をもたらすことこそが西欧の白人たちが担う使命だ」とする大航海時代の白人優越主義となんら変わりません。

    独立を果たしたはずのフィリピンがアメリカの勝手な領有宣言に従うはずもなく、米比戦争がはじまりました。圧倒的な軍事力を誇る米軍の前にアギナルドら独立軍は各地で撃破され、山にこもってのゲリラ戦を余儀なくされました。

    このときアメリカ軍の主力を占めていたのは、アメリカ本土で残虐なインディアン狩りをしていた部隊です。彼らは祖国の独立をかけて抵抗するフィリピン人をインディアンになぞらえ、虐殺していきました。

    彼等は言いました。「良いフィリピン人は死んだフィリピン人だ」と。

    ことに悲惨を極めたのはサマール島とレイテ島です。サマール島で米兵38人がゲリラの待ち伏せにあい殺された報復として、アーサー・マッカーサーはサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じました。アーサー・マッカーサーは、大東亜戦争で日本と戦ったマッカーサー司令官の父親です。

    マッカーサーは10才以上の島民の殺戮を無慈悲に繰り返しました。この虐殺で何万人が殺されたのかはっきりした数字はわかっていませんが、10万人以上が殺されたとする説もあります。

    さらにマッカーサーは見せしめのために、アギナルドの出身地の家も畑も家畜もすべて焼き払いました。これにより、多くのフィリピン人が餓死しています。

    米比戦争の最中、アギナルドは要人を日本に送り、フィリピン独立軍のための援助を申し出ました。しかし、政府自らが動けば国際法の下ではアメリカへの宣戦布告と見なされてしまいます。そこで、有志が個人の名で援助することとなり、大量の武器弾薬とフィリピン独立革命に参加を希望した志士を乗せて、布引丸と名付けられた船がマニラを目指して出港しました。

    ただ残念なことに布引丸は暴風雨のため、途中で沈没してしまいます。武器弾薬も義憤に駆られた志士たちも、フィリピンにたどり着くことはかないませんでした。

    1901年、アギナルドは米軍に捕らえられ、独立軍に停戦と降伏を命じました。しかし、独立軍はなおも戦い続け、1902年になってようやくアメリカはフィリピン平定を宣言します。

    こうしてフィリピンは独立の夢を踏みにじられ、アメリカの植民地とされたのです。米比戦争でのフィリピン側の民間人の死者は、20万人から150万人とされています。

    ちなみにドゥテルテ大統領の反米発言は、米比戦争でのアメリカの残虐ぶりに根差しています。反米の思いは、今も多くのフィリピン人の間で共有されています。

    こうして20世紀初頭までに、東南アジア全域は欧米列強による植民地として分割されるに至りました。東南アジアで唯一植民地化を逃れたのは、タイだけでした。

    タイが植民地にならなかったのは、タイが欧米の侵略に抗するだけの軍事力をもっていたからではありません。仏領インドシナとイギリスの植民地ビルマに挟まれたタイは、イギリスとフランスの植民地が直接には接しないための緩衝(かんしょう)地帯としての役割を果たしていました。

    領地が隣り合っている国同士で戦争が起きることは、歴史が証明しています。そのためイギリスもフランスもタイを自国の植民地にすることを、積極的には望みませんでした。

    さらに当時のタイの政治家には、類い希な外交能力が備わっていました。絶妙な外交バランスの上に、タイの独立が守られたのです。

    なお、今回ひとつひとつは取り上げていませんが、南太平洋にある島々もまた欧米列強に侵略されています。参考までに東南アジア・南太平洋地域の分割図を下に掲げておきます。

    大東亜戦争

    侵略の世界史」清水馨八郎著(祥伝社)より引用

    20世紀初頭、そこには現在とはまったく異なる世界地図があったのです。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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