第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
2章 欧米列強の侵略と植民地支配の500年
前回の記事の続きとなっています。前回の記事はこちらから。
→第1部 2章 3/7 インディアン・アボリジニの悲劇
狙われたアジア
その1.なぜアジアが狙われたのか
欧米列強の魔の手はアジアにも及びました。アジアが狙われた大きな理由のひとつが、莫大な利益を生む香辛料です。コショウ、クローブ、ナツメグなどの香辛料を独占するため、欧米列強はアジアを舞台に、血眼になって領土と交易拠点を奪い合いました。
たかが香辛料のために、なぜ戦争まで辞さなかったのか。
大航海時代のヨーロッパでは、香辛料はきわめて高価な交易品でした。料理や薬用、贅沢品など幅広い用途があり、長い交易路を経てヨーロッパへ運ばれる頃には価格が大きく膨れ上がっていました。そのため香辛料貿易を握ることができれば、莫大な富を得ることができたのです。
当時、アジアとヨーロッパの間にはイスラム圏や地中海世界を結ぶ巨大な交易ネットワークがありました。ヨーロッパ諸国は、こうした既存の交易網を経由するのではなく、自ら海路を切り開き、香辛料の産地と直接交易することを目指します。
かくして香辛料を求めて海へ乗り出したヨーロッパ諸国は、やがて交易だけでは満足せず、港を奪い、要塞を築き、軍事力によってアジア各地へ進出していくことになります。

その2.アジア侵略の大まかな歴史
- ポルトガルの東洋進出 -

15世紀の東南アジアに、現在の世界地図をそのまま重ね合わせることはできません。現在のフィリピン、マレーシア、インドネシアと呼ばれている地域には、多数の王国や港市国家、地域勢力が存在し、交易をめぐって互いに競い合っていました。
欧州列強によるアジア侵略の一番手となったのが、ポルトガルでした。
1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってインドへ到達すると、ポルトガルはインド洋交易へ急速に食い込んでいきます。1505年にはポルトガル船団がセイロン島、現在のスリランカに到来。その後、沿岸部に拠点を築きながら影響力を拡大しました。
1510年にはインドのゴアを攻略し、その翌1511年には東西交易の要衝だったマラッカを征服します。マラッカは中国・東南アジア・インド・イスラム世界を結ぶ巨大な交易拠点でした。そこをポルトガルが武力によって奪った意味は大きなものでした。
ポルトガルは海軍力と要塞を背景にインド洋各地へ交易拠点を築き、16世紀のアジア海域で大きな影響力をもつようになります。他国や現地勢力がその利権を脅かせば、海軍力を用いて排除する。
交易と軍事力が、最初から切り離せない形で結びついていたのです。
- スペインによるフィリピン侵略 -

ポルトガルと並ぶ海洋国家スペインも、アジアへ進出します。スペイン王室の支援を受けたマゼラン船団は大西洋から南米大陸の南端を抜け、太平洋を横断して1521年、フィリピン諸島へ到達しました。
セブ島では現地首長フマボンらとの関係を築き、キリスト教への改宗も進めます。しかし、すべての首長がマゼランに従ったわけではありません。マクタン島の首長ラプラプは服従を拒否しました。
マゼランは武力によってラプラプを屈服させようとしますが、1521年4月、マクタン島の戦いで現地勢力に敗れ、命を落とします。
マゼランを失った船団は、それでも航海を続けました。モルッカ諸島までたどり着き、香辛料を積み込んだビクトリア号一隻がエルカーノの指揮のもとスペインへ帰還。こうして史上初の世界周航が完成します。
そして香辛料を満載して帰還したビクトリア号は、ヨーロッパに大きな利益への期待を抱かせました。たった一隻の船が持ち帰った香辛料。それだけでも、なぜヨーロッパ諸国が危険を冒してまでアジアを目指したのかがわかります。
スペインはその後もフィリピンへの遠征を続けました。1540年代には、ビリャロボスの遠征隊がスペイン皇太子フェリペ、後のフェリペ2世にちなんで一部の島々を「フィリピン」と呼び、その名称がやがて諸島全体へ広がっていきます。そして1571年、スペインはマニラを支配下に置き、ここを植民地経営の中心としました。
以後、フィリピンはスペインの植民地とされ、1898年まで約330年にわたる支配を受けることになります。スペインにとってフィリピンは、アジア経営の重要な拠点となったのです。
ヨーロッパ勢力の進出は日本にも及びました。1543年にはポルトガル人を乗せた船が種子島へ漂着し、鉄砲が伝来します。1549年にはナバラ出身のイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、ポルトガル王権の東方布教事業のもと鹿児島へ上陸しました。
しかし日本は、東南アジアの多くの地域とは異なる道を歩むことになります。日本がなぜ植民地化されなかったのかは、後の回で紹介します。
- オランダによるインドネシア侵略 -

やがてポルトガルとスペインの優位を突き崩しながら、アジアへ進出してきたのがオランダです。オランダがことに重要視したのは、ナツメグやクローブなど香辛料の一大産地だった現在のインドネシア周辺でした。
1602年、オランダでは東インド会社、VOCが設立されます。「会社」と聞けば、商品を売買する商社のような姿を想像するかもしれません。しかし実態はまったく異なりました。
VOCには交易独占権だけではなく、軍隊をもち、戦争を行い、現地勢力と条約を結び、領域を統治する権限まで与えられていたのです。1619年にはジャワ島のジャカルタを破壊して、その地にバタヴィアを建設。ここをアジア経営の中心としました。
さらに香辛料貿易を独占するため、VOCは各地で軍事力を行使し、現地勢力を従わせていきます。
もっとも、17世紀の時点で現在のインドネシア全域が征服されていたわけではありません。オランダの支配は、その後19世紀から20世紀初頭にかけて地域ごとに拡大していきました。
よく「インドネシアは350年間オランダの植民地だった」といわれますが、実際には地域によって支配された期間は大きく異なります。それでも数世紀をかけ、現在のインドネシアにあたる広大な地域が植民地支配のもとへ組み込まれていったのです。
- イギリスのアジア侵略 -

東南アジアではオランダが勢力を拡大する一方、イギリスはインドへ進出します。インド産の綿織物はヨーロッパで大流行し、莫大な利益を生みました。イギリスもまた、東インド会社を先兵としてインドへ食い込んでいきます。
18世紀にはフランスとの植民地戦争を制し、プラッシーの戦いなどを経て、インドにおけるイギリスの政治的・軍事的影響力は急速に拡大していきました。
カリブ海、新大陸、インドなどに広大な植民地と交易圏を築いたイギリスには、海外から巨額の富が流れ込みました。その富の一部を生み出していたのが、奴隷制と植民地貿易です。
奴隷労働によって生産された砂糖などの商品は巨大な市場を生み、大西洋貿易は商業・金融・港湾都市・製造業の発展を促しました。そこで蓄積された資本もまた、イギリス経済の成長を支える力となっていきます。
もちろん、産業革命は奴隷制だけによって起きたわけではありません。技術革新、豊富な石炭、高い農業生産性、発達した市場や金融制度など、複数の条件が重なった結果です。しかし、忘れてはならないことがあります。
技術が産業革命のエンジンだったとすれば、蓄積された資本はそれを動かす燃料でした。そして、その資本と市場を生み出した大西洋経済の重要な一角を、奴隷制と植民地貿易が占めていたのです。
つまり、イギリスの繁栄や産業革命を、単なる自助努力の成功物語として見ることはできません。工場の煙突が立ち並び、富が積み上がっていくその裏では、奴隷として働かされた人々や、植民地支配のもとで富を奪われた多くの人々の犠牲が積み重なっていました。
イギリスの繁栄は、技術と努力だけで築かれたものではない。その足元には、帝国の拡大によって生まれた無数の犠牲があったのです。
一方のフランスも、相次ぐ植民地戦争によって巨額の負債を抱えます。さらにアメリカ独立戦争への援助、不公平な税制、凶作や物価高などが重なり、国家財政は行き詰まりました。こうした複数の危機が積み重なった末に、1789年のフランス革命が起きます。
ヨーロッパ列強は互いに戦いながら、同時に世界各地の富と領土を奪い合っていたのです。
ナポレオン戦争後、1814~15年のウィーン会議によってヨーロッパには一定の国際秩序がつくられます。しかし、平和はあくまでヨーロッパ内部だけの話です。
アジアとアフリカでは、むしろ植民地分捕り合戦が激化していきました。
1796年、イギリスはセイロン島の旧オランダ領沿岸部を占領。さらに1815年には内陸部のキャンディ王国を支配下に置き、島全体へ支配を拡大します。
19世紀にはインド、ビルマ、マレー半島でもイギリスの植民地支配が広がっていきました。三次にわたる英緬戦争の末、1885年にビルマのコンバウン朝は滅亡。翌年、ビルマ全土は英領インドへ編入されます。
そして、そのさらに先には巨大な中国市場がありました。
中国への進出で、イギリスが利用したもののひとつがアヘンです。英領インドで生産されたアヘンは、中国への密輸によって大量に流入しました。清朝はアヘン中毒の拡大と銀の流出を深刻な問題と見なし、1839年、林則徐が広州でアヘンを没収・処分します。
これに対してイギリスは軍事行動に踏み切りました。1840年、アヘン戦争が始まります。戦争に敗れた清朝は南京条約を結ばされ、香港島の割譲や港の開放などを迫られました。
ここから中国は、欧米列強によるさらなる圧力を受ける時代へ入っていきます。
イギリスは東南アジアにも重要な拠点を築きました。ペナンを獲得したのは1786年、シンガポールに拠点を築いたのは1819年。そして1824年、英蘭条約によってマラッカがイギリス側へ移ります。1826年には、この三地域をまとめた海峡植民地が成立しました。
さらに19世紀後半からマレー諸国への介入を深め、1896年にはペラ、スランゴール、ヌグリ・スンビラン、パハンからなるマレー連合州を成立させます。ただし、この時点でマレー半島全域が植民地化されたわけではありません。北部諸州へのイギリスの影響力が決定的に強まるのは、さらに後のことです。
一方、植民地争奪戦に遅れて参入したフランスは、ベトナム・カンボジア・ラオスへ進出。19世紀後半には、これらの地域を仏領インドシナとして支配していきました。
- アメリカによるハワイ侵略 -

19世紀末になると、ヨーロッパ列強に加えてアメリカも太平洋へ本格的に進出してきます。その重要な転機のひとつとなったのがハワイでした。当時ハワイには、国王と憲法をもつ独立国家、ハワイ王国が存在していました。
19世紀を通じてアメリカ人を中心とする外国人移住者や砂糖農園経営者の経済的影響力が急速に増大していきます。カラカウア王は1881年に日本を訪れ、明治天皇と会見しました。日本との関係強化を模索し、皇室間の縁組まで打診したことで知られています。
しかし、その後ハワイ国内では王権と欧米系政治勢力の対立が激化します。
1887年、武装した政治勢力から圧力を受けたカラカウア王は、新憲法への署名を迫られました。いわゆる「銃剣憲法」です。この憲法によって王権は大幅に制限されました。
さらに投票資格には人種・国籍や財産・所得に関する制限が設けられ、アジア系住民は選挙から排除されました。特に貴族院議員を選ぶ選挙には、3,000ドル以上の財産、あるいは年間600ドル以上の所得という高い条件が設けられました。こうして政治権力は、欧米系の富裕層や農園経営者へ大きく傾いていきます。
その一方、日本からハワイへ渡る移民は急増しました。19世紀末には日本人はハワイ社会において無視できない人口集団となっていきます。
1891年、カラカウア王の死後、妹のリリウオカラニが王位に就きました。女王は1887年憲法によって制限された王権と先住ハワイ人の政治的権利を回復するため、新憲法の制定を模索します。
ところが1893年1月、これに反対する欧米系住民を中心とした勢力が政変を起こしました。当時のアメリカ公使ジョン・L・スティーブンスは「米国人の生命と財産の保護」を理由として、巡洋艦ボストンから海兵隊をホノルルへ上陸させます。米軍が展開するなか、反王政派は暫定政府の樹立を宣言しました。
ここでリリウオカラニ女王は武力衝突を選びませんでした。流血を避けるため、アメリカ政府が事態を正すことを期待して権力を譲ったのです。
しかし女王は、その抗議文にはっきりと書き残しています。
「アメリカ合衆国の優越する武力に屈する」と。
つまり、自ら進んで王位を投げ出したわけではありません。なお、この時点で女王が幽閉されたわけではありません。女王が実際に拘禁されるのは、1895年の王政復古派による蜂起の後です。
そしてアメリカ軍の存在が政変へ与えた影響は大きく、後にクリーブランド大統領のもとで行われた調査でも、アメリカ公使と海兵隊の関与が重大な問題として取り上げられました。
日本政府は、現地に約2万人いた日本人居留民を守るため軍艦を派遣しました。金剛に続いて、東郷平八郎艦長率いる軍艦「浪速」もホノルルへ入港します。ただし、日本政府の公式な派遣目的はあくまで邦人保護であり、ハワイ革命そのものへ軍事介入する方針は採りませんでした。
そして1894年、サンフォード・ドールを大統領とするハワイ共和国が成立します。その翌1895年、王政復古を目指す勢力による武装蜂起が起きました。ハワイ共和国政府はこれを鎮圧し、多数の王党派を逮捕。リリウオカラニ女王も反乱への関与を疑われ、イオラニ宮殿に拘禁されます。
女王はその後、正式な退位文書へ署名しました。
そして1898年、米西戦争が進むなか、アメリカ議会はニューランズ決議を可決し、ハワイをアメリカへ併合します。こうしてハワイ共和国を経て、独立国家としてのハワイは完全に姿を消しました。
その島々は、アメリカの太平洋戦略におけるきわめて重要な軍事・海軍拠点となっていくのです。
- アメリカによるフィリピン侵略 -
アメリカはさらに西へ向かいます。次にその運命を大きく変えられたのがフィリピンでした。
1898年、アメリカとスペインの間で米西戦争が始まります。その頃フィリピンでは、エミリオ・アギナルド率いる革命勢力がスペインからの独立を求めて戦っていました。

アメリカ側は亡命中だったアギナルドの帰国を支援し、革命軍とスペイン軍は再び戦います。アギナルド側は、スペインが敗北した後にはフィリピンの独立が認められるものと期待していました。ただし、アメリカ政府がフィリピン独立を正式に約束したかどうかについては、当時から双方の主張が食い違っています。
1898年6月12日、アギナルドはフィリピン独立を宣言しました。ところがアメリカは、その独立を承認しませんでした。同年12月、アメリカとスペインが結んだパリ条約によって、スペインはフィリピンをアメリカへ割譲。アメリカはスペインに2,000万ドルを支払いました。
フィリピン人がスペインからの独立を宣言したその裏で、フィリピンの帰属がアメリカとスペインの間で決められたのです。スペインから独立したはずのフィリピンが、これを黙って受け入れるはずもありません。
1899年2月、米軍とフィリピン軍が衝突。米比戦争が始まりました。
当初、正規戦で戦ったアギナルド軍は圧倒的な軍事力をもつアメリカ軍に押され、やがてゲリラ戦へ移行します。これに対して米軍も、住民の強制移住、集落や食料の破壊などを含む苛烈な対ゲリラ作戦を展開しました。
なかでも悪名を残したのが、サマール島での報復作戦です。
1901年、バランギガでアメリカ兵多数がフィリピン側の攻撃によって死亡すると、ジェイコブ・H・スミス准将は苛烈な報復を命じました。スミスは部下に「捕虜はいらない」「殺して焼け」と命じ、さらに殺害対象となり得る年齢の下限を問われると「10歳」と答えたことが、後の軍法会議で問題となりました。
この命令はアメリカ国内でも大きな批判を浴び、スミスは軍法会議にかけられます。サマール島で実際に何人の民間人が犠牲になったのかについては、現在も推計に大きな幅があります。だからこそ、ここでは根拠の定まらない「10万人」という数字は使いません。
しかし、米軍が集落や食料を破壊し、苛烈な対ゲリラ作戦を行ったことまで消えるわけではありません。
日本でもフィリピン独立を支援しようとする動きが起きました。アギナルドが日本へ送った使者マリアノ・ポンセは、日本の有志らの協力を得て武器弾薬を調達し、それを布引丸でフィリピンへ運ぼうとします。
ところが1899年7月、長崎を出航した布引丸は暴風雨に遭い、東シナ海の寧波沖で沈没しました。大量の武器は、フィリピンへ届くことはありませんでした。
1901年、アギナルドは米軍に捕らえられ、アメリカへの忠誠を宣誓。1902年、アメリカ政府は戦争終結を宣言しました。しかし一部地域では、その後も抵抗が続きます。
その犠牲は決して小さなものではありません。
米国務省歴史局によれば、米比戦争では4,200人を超えるアメリカ兵と、2万人を超えるフィリピン兵が死亡しました。さらにフィリピン民間人も、戦闘だけでなく飢餓や疾病によって最大約20万人が死亡したとされています。
こうしてスペインから独立したはずのフィリピンは、その夢を踏みにじられ、今度はアメリカの統治下へ組み込まれていったのです。フィリピンがアメリカから完全に独立するのは、第二次世界大戦後の1946年のことです。
こうして20世紀初頭までに、東南アジアの大部分は欧米列強による植民地支配のもとへ組み込まれていました。東南アジアで唯一、正式な植民地化を免れたのがタイ、当時のシャムです。
ただし、タイが独立を維持できた理由を単純に「イギリスとフランスが欲しがらなかったから」と考えることもできません。タイはイギリス領ビルマとフランス領インドシナの間に位置し、両列強の勢力圏を隔てる緩衝地帯としての意味をもちました。
同時にタイ王国は近代化改革を進め、領土の一部を譲歩しながらも、イギリスとフランスの間を巧みに渡る外交を展開します。
列強同士の力の均衡と、タイ側の外交努力。その両方が重なったことで、タイは独立国家として生き残ることができたのです。
なお今回ひとつひとつは取り上げていませんが、南太平洋の島々もまた欧米列強によって次々に植民地化されていきました。参考までに東南アジア・南太平洋地域の分割図を下に掲げておきます。

「侵略の世界史」清水馨八郎著(祥伝社)より引用
20世紀初頭、そこには現在とはまったく異なる世界地図が広がっていたのです。
参考資料・URL
- U.S. Department of State, Office of the Historian「The Philippine-American War, 1899–1902」
米比戦争の経緯と、米兵・フィリピン兵・フィリピン民間人の犠牲者数。 - U.S. Department of State「Hawaii, 1893 / Blount Investigation」
1893年のハワイ王政転覆と、米国公使・米軍の関与に関する史料。 - U.S. Department of State「Protest of Queen Liliuokalani」
リリウオカラニ女王が「アメリカ合衆国の優越する武力に屈する」と記し、流血を避けるため権力を譲ったことを示す抗議文。 - U.S. Department of State「Hawaii – A Guide to the United States’ History of Recognition」
ハワイの独立承認、1898年の米国併合と独立終了について。 - U.S. National Archives「Joint Resolution for Annexing the Hawaiian Islands」
ハワイ王政転覆、ハワイ共和国、米国併合に関する米国立公文書館資料。 - U.S. Department of State「Constitution of the Hawaiian Islands, 1887」
1887年憲法の選挙資格、財産・所得要件など。 - 外務省「外交史料 Q&A 明治期」
ハワイの日本人居留民と軍艦派遣、布引丸事件についての外交史料館による解説。 - Philippine Department of Foreign Affairs「About the Philippines」
1565年のスペイン植民地政府成立から1898年まで、スペイン支配が333年間続いたことについて。 - Library of Congress「Negotiating Empire, Part II」
1565年から1898年まで300年以上に及んだスペインによるフィリピン支配について。 - U.S. Department of State「Treaty of Paris negotiations, 1898」
フィリピン割譲と2,000万ドルの支払いに関する史料。 - U.S. National Park Service「Jacob Smith」
サマール島でのジェイコブ・H・スミス准将の命令と軍法会議について。 - Rijksmuseum「The Dutch East India Company (VOC)」
VOCの設立、軍事・外交・統治権限、1619年のバタヴィアを中心としたアジア経営について。 - Library of Congress「Straits Settlements」
ペナン、シンガポール、マラッカ、海峡植民地などイギリスのマレー半島進出について。 - Oxford University Research Archive「Slavery, the British Atlantic economy and the industrial revolution」
カリブ海の奴隷植民地を中心とした大西洋貿易と、イギリスの輸出型経済・製造業・都市化・商人階級の成長について検討した研究。 - Cambridge University Press「Slavery and the new history of capitalism」
奴隷制を産業革命の単一原因とする見方には慎重である一方、植民地貿易と英国工業化の関係を検討した研究。 - Oxford University, Robert C. Allen「Capital accumulation, technological change, and the distribution of income during the British Industrial Revolution」
産業革命における技術革新と資本蓄積の関係についての研究。 - UK Parliament「Parliament and commerce」
大西洋貿易と英国の金融、銀行、保険、港湾、製造業などの発展について。 - UK Parliament「Trade routes and the slave trade」
砂糖プランテーション、奴隷労働、大西洋奴隷貿易と植民地経済について。















