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    レキシジン第1部「大東亜/太平洋戦争への流れ」1章「戦争前後で何が変わったのか」#01 大東亜/太平洋戦争前後の2つ地図は何を語るか?第二次世界大戦という人種戦争

    #01 大東亜/太平洋戦争前後の2つ地図は何を語るか?第二次世界大戦という人種戦争

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    1章 ふたつの世界地図はなにを語るか

    1-1 70年ほど前に戦争があった

    「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」

    1941年12月8日の午前7時のラジオ放送にて、日本が米英との戦争に踏み切ったことが日本中のお茶の間にはじめて知らされました。

    街中で配られる号外に、人々は我先にと飛びつきました。やがて「万歳!」という歓呼が至るところで沸き上がりました。皇居前広場にも人々が続々と押し寄せ、ついに開戦の火ぶたが切られたことを互いに喜び合ったのです。

    文化人や知識人も一斉に喜びの声を上げています。

    たとえば、智恵子抄で名高い詩人の高村光太郎は次のように綴っています。

    「記憶せよ、12月8日、
    この日世界の歴史あらたまる。
    アングロ サクソンの主権、
    この日東亜の陸と海とに否定さる。

    (略)

    強豪米英一族の力、
    われらの国に於いて否定さる。
    われらの否定は義による。
    東亜を東亜にかへせといふのみ。

    (略)

    老若男女みな兵なり、
    大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
    世界の歴史を両断する
    十二月八日を記憶せよ。

    高村光太郎全集第三巻 筑摩書房 より引用

    太宰治は「十二月八日」と題した小説のなかで、主人公に次のように語らせています。

    「日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。(略)目色、毛色が違うという事が、之程までに敵愾心(てきがいしん)を起こさせるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい」

    高村光太郎や太宰治が特別に好戦的だったわけではありません。多くの文化人が似たような言葉を残しています。開戦を否定的に捉えた文化人は、ごく少数に限られていました。

    当時の日本人の多くが開戦を喜び、興奮を抑えきれずにいたのです。76年の時を隔てた現代から振り返ると、こうした当時の世論には狂気さえ感じられます。

    しかし、あのとき日本国民の大半が開戦を望み、弱腰外交を続ける政府を批判していたことは歴史的な事実です。

    ではなぜ、多くの日本人は日米の開戦を支持したのでしょうか?

    その答えは「怒り」です。米英に対する日本人の積もり積もった憤りが、開戦へと日本人を駆り立てました。

    私たちの父祖は、いったい何に対してそれほどまで大きな憤りを感じたのでしょうか?

    1-2 侵略と解放の狭間

    現在、日本の教育機関で教えられている大半の歴史認識は、一般に「自虐史観」と呼ばれているものです。

    私たちは時間切れのために近現代史をほとんど教わらないか、近現代史を教えることに特別に熱心な教師から自虐史観を教わるかの、どちらかが圧倒的に多いようです。

    私もまた日教組の教師を通して、ごく自然に自虐史観を教わりました。夏休みには推薦図書として上がっていた本多勝一氏の「中国の旅」を貪るように読み、日本軍の残虐さに怒りを募らせたものです。

    自虐史観、あるいは東京裁判史観と呼ばれている歴史認識は、次のようなものです。

    明治維新で輝かしい近代化を成し遂げた日本は、日清・日露戦争で勝利を収めたことにおごるあまり軍国主義に傾倒し、アジア諸国を侵略した。日本の近現代史とは侵略の歴史である。日本軍は中国や朝鮮、東南アジアを侵略する過程で残酷な殺戮(さつりく)を繰り返した。だからこそ、世界に向けて謝罪し続けなければならない。

    また、戦争を起こした責任は領土的野心をもった日本の軍部と指導者にあり、国民はだまされていただけだ。太平洋戦争とは日本の軍国主義とアメリカの民主主義との戦いだった。アメリカが勝利を収めることで、日本も今日のような民主主義国家になることができた。二度と侵略戦争の過ちを起こさないために、日本は永久に武力の行使を放棄する平和国家に生まれ変わった。

    自虐史観と呼ばれる歴史認識では、侵略戦争を始めた日本が一方的に悪であり、それに対抗した米英を中心とする連合国は正義を行使したように捉えられています。米英側から見た歴史の見方をそのまま受け継いでいることは明らかです。

    こうした自虐史観に対して、最近ではネットを中心に「それは正しい歴史認識ではない」と異議を唱える声が大きくなっています。

    その要旨はおおむね次のようなものです。

    明治以来、日清・日露から先の大戦まで日本は自存自衛のために戦った。先の大戦は東南アジア諸国を欧米の植民地から解放するための戦いであって断じて侵略ではない。日本軍による残虐な殺戮や慰安婦問題は、その多くが日本をおとしめるためのねつ造に過ぎない。

    日本は力及ばず戦争には敗れたが、日本が戦った結果として東南アジア諸国は次々と独立を果たした。その意味では先の大戦の本当の勝者は日本である。

    こうした歴史認識では日本は善と捉えられ、欧米が悪と見なされています。

    果たしてどちらの歴史認識が正しいのでしょうか?

    書籍にしてもネット界隈にしても、ふたつの歴史認識が激しくぶつかり合い、論争を繰り広げています。わかりやすく分けるなら、自虐史観とは左翼史観であり、日本の正義を振りかざす史観は右翼史観と見なすことができるでしょう。

    はじめに断っておくと、私たち「レキシジン」ではどちらか一方が絶対に正しいという結論は出しません。先の大戦には、2つの側面が同時に存在しているからです。

    フィリピンをはじめとする東南アジア諸国の立場から見たとき、先の大戦において日本軍は初期においては解放軍でしたが、その後の占領政策の失敗から侵略軍と見なされても仕方ない悲劇が多々起きました。

    しかし、その一方で日本が日本なりの大義を掲げて戦ったことも、また事実です。先述の通り、当時の日本国民はひとつの激しい憤りを抱え、開戦を支持しました。その憤りとは、いわれなき人種差別に向けられたものです。

    こうした世論をあおったのは当時のマスコミであり、その背景に軍部や右翼団体の圧力がかかっていたことも一部には認められます。

    たとえば、満州事変に際し軍部を公然と批判していた大阪朝日新聞に対し、不買運動を始めたのは軍部や在郷軍人会、右翼団体です。ただし、それが朝日新聞社の経営を圧迫するまでの全国的な広がりを見せたのは、純粋に国民の意思に基づきます。

    不買運動を静めるためか、朝日新聞は180度方針転換を行い、以後は日米開戦を熱心にあおる役割を果たしました。「鬼畜米英」というスローガンを作ったのは、アサヒグラフです。

    マスコミは世論に迎合し、世論はマスコミによってますます戦争へと流される悪循環が生じていたといえるでしょう。

    マスコミが先か世論が先かは意見が分かれるところですが、先の大戦が日本国民の大義に基づいて始まったことを、一人でも多くの方に知っていただきたいと思うのです。

    フィリピン留学をする人の多くは、先の大戦がなぜ始まったのかをほとんど知らないか、学校教育の影響から日本の侵略戦争としての面しか理解していないように見受けられます。

    そこで今回私たちは、左翼史観だけが真実ではないこと、日本がどのような大義を掲げて戦争を行ったのか、それをフィリピンがどのように受け止めたのかを紹介したいと思い筆をとりました。

    そのため、左翼史観を否定するような論を掲げることもあります。でも、だからといって右翼史観を全面的に支持するわけではありません。先の大戦がアジア解放を目指した聖戦であり、手放しに正しかったと断定するつもりなど毛頭ありませんので、ご理解下さい。

    1-3 太平洋戦争か、大東亜戦争か

    先の大戦について学校では「太平洋戦争」と教えられます。しかし、先の大戦が行われていた最中にそのような呼称は使われていませんでした。

    当時は「大東亜戦争」と呼ばれていました。

    1941年12月12日に情報局が発表しています。

    「大東亜戦争と称するは、大東亜新秩序を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあらず」

    「大東亜戦争」という呼び方には、アジアが一体となって欧米に対抗するために、大東亜共栄圏を力ずくで創るのだという日本政府の意志が込められています。

    「大東亜共栄圏」とは、当時欧米の植民地化として隷従させられていたアジアから欧米の軍隊を追い払い、アジア諸民族の共存共栄を成し遂げようとする構想です。

    ところが、日本が戦争に敗れGHQ(*連合国軍最高司令官総司令部)が進駐してくると「大東亜戦争」の呼称と理念は否定され、使用されることさえ禁じられました。

    戦時中は言論が統制されており、戦後になってようやく自由になったと一般的には思われがちですが、事実は違います。GHQによる7年弱にわたる占領時代こそ厳格な情報統制と検閲が行われ、表現の自由は奪われていました。

    すべての新聞・出版物・テレビやラジオは事実上GHQの管理下に置かれ、GHQの意向に反する情報を発信することは許されなかったのです。

    GHQによる検閲は、手紙などの私文書にさえ及んでいます。

    占領期間を通してGHQは、いわゆる「ウォー・ギルト・インフォメーションプログラム(略称WGIP = 戦争罪悪感情報プログラム)」を日本人に対して徹底的にすり込んだとされています。もっともWGIPは文芸評論家の江藤淳が「閉ざされた言語空間」のなかで主張したものであり、それがたしかに存在していたという証拠はありません。

    しかし、当時GHQが特定の書物を廃棄することで国民に読ませないようにしたり、ラジオ番組「真相はこうだ」などを通して世論を操っていたことは否定できない事実です。そこにGHQとしての一定の思惑があったことはたしかであり、WGIPを単なる陰謀論のひとつとして片付けるわけにはいきません。

    「大東亜戦争」という言葉自体を消し去ったことにも、GHQの意図が明らかに感じられます。

    あらゆる出版物は事前検閲を受け、「大東亜戦争」はすべて「太平洋戦争」に書き換えられました。同時に、アジア諸民族が自分たちの国を自分たちで治めるという日本の目指した理想もまた失われ、侵略としての面だけが強調されるようになったのです。

    こうした背景があるため、先の大戦を「大東亜戦争」と呼ぶのか「太平洋戦争」と呼ぶのかによって、その人自身の戦争観が明らかにされる面があります。

    そこで、今回より先の大戦とフィリピンとの関わりをシリーズとして追いかけるにあたり、どちらの呼び方に統一するべきか悩みましたが、レキシジンではあえて「大東亜戦争」とメインで呼ぶことにしました。

    英米の思惑はどうあれ、戦時中の日本人は「大東亜」という理想を胸に戦ったからです。たとえ戦後になって大東亜共栄圏(この言葉を使うこともGHQにより禁止されました)が偽善に過ぎなかったと否定されようとも、少なくとも戦時中は幾百万・幾千万の人々が大東亜共栄圏を信じ、あの時代を必死に生き抜きました。

    大東亜戦争に侵略的な側面があったことは否定できないとしても、欧米の白人が有色人種を虐げる世界の秩序を変えようと、日本が立ち上がったこともまた事実です。

    また東南アジア各地においても、年輩の人々の間では未だに「だいとうあせんそう」が語り継がれています。「たいへいようせんそう」と言って通じなくても、「だいとうあせんそう」であれば通じることが多々あるのです。

    アジアに暮らす多くの人々の記憶に刻まれているのは、太平洋戦争ではなく大東亜戦争です。

    こうした事情を汲み取り、レキシジンでは「大東亜戦争」という呼称を用いますので、ご了承下さい。

    1-4 ふたつの地図をどう解釈するのか

    大東亜戦争がなぜ起きたのかを考えるとき、当時の時代状況を知ることは極めて大切です。大東亜戦争にて日本軍が東南アジア圏域に攻撃を仕掛けたことはたしかですが、その際、現在の世界地図を頭に描いたのでは、なにも見えてきません。

    当時はフィリピンやマレーシア、インドネシアといった国は存在しませんでした。そこにあったのは、欧米の植民地です。

    「植民地」と聞いても、現在ではほとんど見られない制度のため、どのようなものかイメージできないかもしれません。

    簡単に言えばこういうことです。東南アジアの諸地域には古くからその地に住んでいる人々がおり、それぞれに王国などが繁栄していました。しかし、15世紀の大航海時代以降、ヨーロッパの勢力が次々と東南アジア地域を侵略していきました。

    武力に優れるヨーロッパの国々の軍は強く、東南アジアに点在していた小国の抵抗も空しく、そのことごとくが植民地とされたのです。

    植民地とは、本国の政治的・経済的支配下に置かれた地域を指します。国家としての主権を奪われ、完全に本国の主権下にある領土を意味します。植民地を保有している本国のことを「宗主国」と呼びます。

    小国が大国に組み込まれることは、経済や社会制度などで恩恵を受けるようにも思われがちですが、実態は異なります。植民地では本国と異なる法律が適用され、先住民には国籍や市民権が与えられることもありません。

    植民地となったことで先住民の人々は、宗主国に隷従するよりありませんでした。強制労働を強いられ、まさに奴隷のように扱われたのです。宗主国は植民地から富を略奪することで肥え太りました。

    では当時、アジア一帯がどのような情況であったのか見てみましょう。下に掲げたのは、大東亜戦争が起こる前のアジアの地図です。

    大東亜戦争

    世界が語る大東亜戦争と東京裁判―アジア・西欧諸国の指導者・識者たちの名言集」吉本貞昭著(ハート出版)より引用

    地図上には、フィリピンやインドネシア・マレーシアも、インドやベトナムという独立国も見つけられません。主に欧米各国があたかも国盗り物語のように領土を奪い合っていたことがうかがえます。

    アジアで欧米列強の植民地支配を受けていない国は、日本とタイのみでした。中国は独立は保っていたものの、国土の一部が列強の支配下に入っており半植民地状態でした。あとのアジア地域はことごとく列強によって植民地支配を余儀なくされていました。

    もっとも当時は日本も朝鮮と台湾を併合しています。ただし日本の場合は、「欧米の植民地とは一線を画す」とする反論もよく聞かれます。宗主国を富ますための植民地支配ではなく、共存共栄を目指したとの論です。

    しかし、世界が弱肉強食の帝国時代のまっただ中にあるなか、日本が領土を拡大する側に回ったことは否定できないことです。

    では次に、大東亜戦争以後の世界の地図を見てください。

    大東亜戦争

    世界が語る大東亜戦争と東京裁判―アジア・西欧諸国の指導者・識者たちの名言集」吉本貞昭著(ハート出版)より引用

    欧米及び日本の植民地がすべて消え去り、その土地にもとから住んでいた人々によって独立国が誕生していることが見てとれます。国名の近くに表示されているカッコ内の数字は、それぞれの国が独立した年度を表しています。

    大東亜戦争を境に、その前と後のアジアの地図はまったく様相が変わっています。それはなぜなのかと考えることは、歴史史観に直接つながってきます。

    大東亜戦争の前後でアジアの地図が大きく塗り替えられたことは歴史的な事実です。しかし、そこにどのような意味づけを行うかについては、見解が分かれています。

    それはたまたまなのか、それとも大東亜戦争が直接の引き金になったのか、左翼史観と右翼史観が折り合うことは永久にないでしょう。

    大東亜戦争があったからこそアジア各国が独立できたとする論もあれば、逆に大東亜戦争によってアジアの独立が遅れたとする論もあります。

    果たしてあなたはこの2つの地図に、どんな意味づけを見出すでしょうか?

    地図が塗り変わったのはアジアだけではありません。アフリカもまた、エチオピアとリベリアを除けば欧米各国の植民地でした。アジアの解放よりは遅れたものの、アフリカ各国もまた大東亜戦争後に独立を果たしています。

    それにしても、アジアにしてもアフリカにしても、欧米列強による支配を受ける前には多くの独立国があったにもかかわらず、大東亜戦争前にはどうしてこのような状況になってしまったのでしょうか。

    大東亜戦争とは何であったのかを考える前に、大航海時代から始まる白人による有色人種支配の歴史を振り返ってみることにします。
    ヨーロッパ諸国はなぜ、そしてどのような論理でアジアやアフリカを侵略したのでしょうか?

    そのあたりの事情がわかっていないと、当時の私たち有色人種が何に対して怒りを覚えたのかも理解できません。

    次回より、第2章として「白人による有色人種殺戮(さつりく)と略奪の500年」をお伝えします。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜/太平洋戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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