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    #04 インディアン・アボリジニの悲劇

    白人による有色人種殺戮と略奪の500年シリーズ

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    2章 白人による有色人種殺戮と略奪の500年

    前回の記事の続きとなっています。前回の記事はこちらから。
    第1部 2章 2/7 欧州に繁栄をもたらした奴隷貿易とそれを支えたキリスト教

    2-7.インディアン虐殺の歴史

    その1.イギリスの植民地時代

    ヨーロッパの人々による北米の征服は、中南米より一世紀遅れて始まりました。南北アメリカ大陸には紀元前4万年から2万5千年前に、当時はアジアと陸続きだったベーリング海峡を渡って住み着いた人々が、現在の私たちと同様に平和に暮らしていました。このうちメキシコ以北の諸民族をインディアンと呼びます。人種的には日本人と同じ黄色い肌をもったモンゴロイドです。

    先祖代々受け継いできた自由の大地で、幸せに暮らしていたインディアンの人々の暮らしが激変したのは、コロンブスの上陸以来のことでした。

    当初、西欧の人々が新天地を求めて北米にたどり着いた頃は、白人とインディアンの交流が友好的に進められた例もあります。インディアンたちは食べるものさえ尽きて困っている白人たちを助け、それまで西欧には知られていなかった作物の育て方などを伝授しました。

    トウモロコシ・タバコ・ピーナツ・ココア・ジャガイモ・かぼちゃ・メロン等々です。アメリカは現在、世界最大の農産物輸出国ですが、その農産物の7分の4はインディアンに教えられたものです。

    白人とインディアンの友好関係は長くは続きませんでした。白人の移民者はフロンティアを求めて続々と上陸し、インディアンたちが先祖から受け継いだ土地を奪っていったからです。立ち退きを求められたインディアンたちは、自分たちの生存をかけて抵抗を強めるよりありませんでした。

    北米においても南米で起きたことと同様に、白人の征服者たちはインディアンを次々に虐殺していきました。イギリスの植民地時代だけでも、インディアンによる4つの大きな抵抗戦争が起きています(インディアン戦争)。

    第1部 2章 3/7 インディアン・アボリジニの悲劇

    よく西部劇を見ていると、大勢のインディアンに対して少数のガンマンがヒーローのように立ち向かう姿が描かれていますが、これは完全なフィクションです。実際には近代兵器を手にした白人たちが、少数で立ち上がったインディアンを無差別に虐殺することが繰り返されました。

    西部劇ではインディアンの抵抗を白人に都合の良いように正義の戦いとして描いていますが、約束を何度も裏切ったのは白人のほうです。1789年以降、アメリカ政府はインディアンとの間に370もの条約を締結しましたが、そのなかでアメリカ政府が最後まで守った条約はひとつもなかったと、歴史家は綴っています。

    フロンティア・開拓という響きのよい言葉で進められた領土拡大は、武力にものを言わせてインディアンから土地を略奪することに他なりませんでした。

    ここでも、初期においてインディアンから命と土地を奪う上で利用されたのは宗教です。清教徒たちはインディアンを改宗させ、キリスト教の恩恵を与えることこそが自分たちの崇高たる使命だと考えました。

    たとえば、1620年にプリマスに上陸したピルグリム・ファーザーズの指導者ブラッドフォードは、自分たち清教徒を神の選民と捉え、野蛮なインディアンをサタンの弟子とみなしました。サタンを打ち破ることは神の摂理にかなう善行だったのです。

    一方インディアンにとっては、昨日まで平和と愛に満ちた暮らしをしていた土地に武器を携えて現れ、仲間や家族を有無を言わさず見つけ次第撃ち殺していく白人たちは、悪魔そのものでした。

    その2.平和共存への願いと涙の道

    やがて、イギリスの植民地から独立してアメリカ合衆国が誕生しました。各地で仲間や家族を殺されながらも、インディアンの首長や代表者は大統領に面会を求め、白人との平和共存を必死に求めました。

    たとえば1793年、ポタワトミ国の首長コモがワシントン大統領に面会し語った記録が残されています。

    「私はいま心を開いてあなたに話しかけようとしています。だからあなたも心を開いて私の言葉を受け止めてください。……私は戦う斧を永久に大地に埋めました。だからあなたの国の人たちも、そうしなければいけません。私は真実を話しますから、あなたは私を信じてください。」

    物語アメリカの歴史 超大国の行方」 猿谷要著(中公新書)より引用

    その他にも、友好の気持ちを表すとともに、平和を求めるインディアンの代表者の記録がいくつも残されています。もう殺さないでほしい、子供たちを守りたい、自分たちが生きていくための土地を取り上げないでほしい、インディアンは必死に白人たちの善意にすがりました。

    しかし、インディアンの願いが聞き入れられることはありませんでした。征服者たちはインディアンとの間に交わされた約束をいつも一方的に破り、虐殺と土地の収奪に明け暮れたのです。

    インディアンのなかには武力抵抗をやめて、文化的にアメリカ政府と対等になろうと努めた部族もありました。たとえば、チェロキー族です。

    チェロキー族はアメリカ文明を学び実践することで、短期間のうちに独自の政府を設立しました。チェロキー文字を作り出し、新約聖書のチェロキー語訳を完成させ、週刊新聞も発行しています。やがて憲法を制定してチェロキー国を宣言し、大統領も選びました。自ら文明国となることで、自分たちの生存の権利をアメリカ政府に認めてもらおうとしたのです。

    チェロキー族にとって不幸だったことは、1829年に彼らの土地で新たな金鉱が発見されたことでした。こうなるとアメリカ人にとって、チェロキー族は邪魔なだけの存在です。

    1830年、アメリカ大統領ジャクソンはインディアン移住法を無理やり成立させると、当時は荒野が広がるだけの西部へとインディアンを強制移住させることを決めました。

    これによってチェロキー族とクリーク族1万5千人が、はるか西のオクラホマへと追いやられました。女性と子供を引き連れての1300キロの旅は、想像を絶するほどに過酷でした。

    移動の過程で4千人(1984年調査では8千人)のインディアンが倒れ、息を引き取っています。死者を出さなかった家族はひとつもなかったと伝えられています。インディアンは家族や仲間の死体が連なるこの進路を「涙の道」と呼びました。

    ワシントンの国会では、ヴァン・ビューレン大統領が報告を行っています。

    「現地の米軍司令官とチェロキーとの間の了承にもとづいて、移住はもっぱら彼等自身の指導のもとに行われ、チェロキー達はいささかのためらいを示すことなく移住をいたしました」

    チェロキーの人々が寒風吹きすさぶ灰色の荒野を進みながら流した嗚咽(おえつ)は、白人の耳に届くことはありませんでした。

    レキシジン
    wikipediaより引用:涙の道の経路

    チェロキー族以外にも多くのインディアンがそれぞれに涙の道をたどり、父祖から伝わる豊かな地を捨て荒野の広がる西部へと移動させられました。インディアンたちは屈辱を飲み込み、征服者たちに命じられるままに新たな地で平和に暮らすことを選んだのです。

    その3.良いインディアンは、死んだインディアンだけだ!

    ところが、なにもない荒野が広がっているだけと思われていた西部各地で金や銀の鉱脈が新たに発見されると、欲に目がくらんだ白人たちは、インディアンの土地を再び力尽くで奪っていきました。

    一時的な休戦協定を結ぶことで油断したインディアンの村を襲撃し、老人から子供まで情け容赦なく殺しまくっては女たちに暴行を加えるという残酷なインディアン狩りが、広範囲で行われたのです。この民兵隊がデンヴァーに帰還すると、輝かしい勝利を祝う住民の歓呼の声に迎えられたと記録されています。

    度重なる白人側の約束違反と卑劣な虐殺の横行を受け、ついにインディアンたちは複数の部族を結集させ、武装蜂起しました。それでも数の上でも兵器の上でも合衆国軍に適うはずもなく、インディアンは各地で敗走を続けました。

    唯一の例外は1876年、モンタナ南部の高原においてカスター隊長率いる第七騎兵隊がインディアン連合軍に包囲され、全滅したことです。白人がインディアンに対して行った数え切れないほどの残虐な行為は棚に上げたまま、この事件はインディアンの残酷さ、野蛮さをアピールするための宣伝に大いに利用されました。

    この事件をきっかけに、合衆国内にわずかに残っていたインディアンに対する同情の声もかき消され、「良いインディアンは死んだインディアンだけだ」とばかりに軍によるインディアンの虐殺はますます過熱していったのです。

    インディアン最後の武力抵抗となったのは、1890年、サウス・ダコタのウンデッド・ニーのスー族の戦いです。スー・インディアン350人ほどが軍に包囲されたのがはじまりでした。

    この集団のなかに戦士は100人ほどしかおらず、残りは女性と子供ばかりでした。食糧を受け取るために移動していただけの集団だったのです。

    ところが軍の要求に従って武装解除をしている最中に発砲事故が起き、白人兵の一人が射殺されると、米軍はスー族に対して無差別攻撃を始めました。銃に加えて丘の上からは速射砲に狙われ、スー族は逃げ出しました。

    逃げ惑うスー族に対して、およそ3キロに渡り米軍は追撃しています。そのときの様子を、兵士の一人は次のように回想しています。

    「ホッチキス山砲は1分間で50発の弾を吐き、2ポンド分の弾丸の雨を降らせた。命あるものなら何でも手当たりしだいになぎ倒した。この(子供に対する3キロ余りの)追跡行は、虐殺以外何ものでもない。幼子を抱いて逃げ惑う者まで撃ち倒された。動くものがなくなってようやく銃声が止んだ」
    後日、埋葬が行われましたが、そのなかには多くの乳飲み子が混じっていました。埋葬隊の一人も証言しています。

    「この幼子達が身体中に弾を受けてばらばらになって、穴の中に裸で投げ込まれるのを見たのでは、どんなに石のように冷たい心を持った人間でも、心を動かさないではいられなかった」

    それでも母親たちは、降り注ぐ銃弾から必死になって我が子を守りました。虐殺を知って駆けつけたスー族の戦士たちは、砲撃でばらばらになった遺体の中に、こときれた母親の胸で乳を吸おうと泣き叫ぶ赤ん坊や、死んだ母親のショールに包まって生きていた赤ん坊3人を発見しています。

    この戦いで300人近いスー族が命を落としました。軍は戦闘だったと主張していますが、インディアン側は虐殺だったと証言しています。この戦いこそ、アメリカによるインディアン征服の実態をまさに象徴するものでした。なお、虐殺を実行した第7騎兵隊には、のちに名誉勲章が送られています。

    第1部 2章 3/7 インディアン・アボリジニの悲劇
    引用wikipedia:ウーンデッド・ニーの虐殺の後、死亡したスー族を埋める民間人アルバイト

    この戦いを最後に、インディアンの組織的抵抗は幕を閉じます。もはや抵抗できる力が残らないほど殺しまくることで、インディアンに対する迫害はようやく止むことになりました。

    コロンブスが到達したとき、北米には200万から500万のインディアンがおり、その8割から9割が現在のアメリカ合衆国の地に暮らしていました。しかし、白人による殺戮と伝染病のために1890年頃にはわずか35万人に減っています。

    天然痘などの免疫をもたなかったインディアンは、白人のもたらした伝染病に対する抵抗力がまったくなく、所によっては死亡率が9割にも上りました。伝染病のために全滅に至った部族もあります。

    しかし、伝染病が広がった背景にも、白人の悪意が介在しています。物々交換の際に、白人たちは天然痘患者が使用して汚染されている毛布等の物品をインディアンに贈り、意図的に発病を誘発したことがわかっています。

    アメリカは建国にあたり「すべての人間は平等に造られている」と唱え、誰もが「生命・自由・幸福の追求」の権利を有すると高らかにうたいあげました。
    しかし、ここでも「人間」が意味するものは白人のみであり、先住民であるインディアンや黒人奴隷にそれらの権利が認めることはありませんでした。

    インディアンがようやく人間と認められるようになったのは、1924年のことでした。

    イギリス植民地時代はキリスト教の教義に基づき、インディアンへの迫害が正当化されました。アメリカ合衆国時代に迫害の拠り所となったのはマニフェスト・デスティニー(明白な天命)です。

    1845年、「USマガジン・アンド・デモクラティック・レヴュー」誌上にてジョン・オサリヴァンがはじめて唱えたのが「マニフェスト・デスティニー」です。
    同時期に進められたメキシコへの侵略も、インディアンの虐殺も、デモクラシーという崇高なる理念を広めるためであり、それは神から選ばれたアメリカ人に与えられた明白な天命だとしたのです。

    こうした使命感に酔いながら合衆国の人々は、西部全域でインディアンを虐殺しました。デモクラシーを広げるという使命感は、さらに太平洋の島々にも及び、やがてアジアに飛び火することになります。

    2-8.アボリジニの悲劇と白豪主義

    北米アメリカの先住民であるインディアンが虐殺されたように、オーストラリアにおいても4万年も前に東南アジアから移住したとされる先住民族アボリジニが、西欧の征服者たちによって絶滅寸前まで追い込まれました。

    ジェームズ・クック アボリジニの悲劇と白豪主義
    クックの公式肖像画 海軍博物館(ロンドン)所蔵

    オーストラリアにイギリス人のキャプテン・クックが到来したのは1770年のことでした。当時はオーストラリア全土にアボリジニが30万人ほど平和に暮らしていました。

    しかし、先に紹介したように西欧列強は西欧化していない文明を一切認めません。先占の権限に基づきオーストラリア大陸を主のいない土地とみなすと、いち早く到達したキャプテン・クックによってイギリス領であると宣言されました。オーストラリア大陸は本国で重犯罪を犯した者たちの流刑地として、植民地にされたのです。

    1788年、イギリスから流刑囚1473名がシドニーに近いボタニー湾に上陸したことを皮切りに、多くの流刑囚が続々とオーストラリアに押し寄せました。アボリジニの暮らしぶりは石器時代に近いものでしたが、争いを好まず、極めて平和で善良な民族であったと伝えられています。

    初期においては友好的に接する白人も多かったようですが、移民が増えてくるとともにアボリジニを邪魔者扱いするようになります。

    白人とアボリジニの闘争が起こった際に、それをいさめたデーヴィー総督の言葉が残されています。

    「すこぶる野蛮にして非道な行為、すなわち英人が原住民の子供を拉致することによって、これらあわれむべき未開の黒人の怒りが爆発したのは当然である。誰でも胸に手を置いて、原住民の両親から子供を拉致した英人と、この無情な迫害を憤り、その盗まれた子供を取り返さんと勇敢に英人に向かった黒人と、いずれが野蛮人であるかを、自問して見よ」

    GHQ焚書図書開封1: 米占領軍に消された戦前の日本」西尾幹二著(徳間書店)より引用

    総督の言葉も空しく、移民たちはアボリジニへの憎悪を募らせました。移民たちは現地のアボリジニを人間とは認めず野獣と同様にみなし、アボリジニ狩りに興じました。おびただしい数のアボリジニが征服者たちに虐殺されたのです。

    射殺のほかにも数千のアボリジニを離島に送り餓死させたり、水場に毒を流して虐殺することも行われました。

    最初の船隊が来たときには30万から100万人はいたと推定されるアボリジニは、1920年には約7万人にまで減少しています。ここでも白人による無慈悲な虐殺と、白人がもたらした伝染病が人口の急激な減少へとつながりました。

    四国と九州を合わせたような広さのタスマニア島においても、上陸した征服者たちによってタスマニア・アボリジニはハンティングの標的にされ、その多くが射殺されました。

    原住民の捕獲に際し懸賞金もかけられました。子供一人につき2ポンド、大人一人につき5ポンドの賞金がかかると、原住民狩りの団体がいくつも組織され、大がかりな「人間狩り」が催されたのです。

    1788年からのイギリスによる植民地化によって、初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを虐殺した。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に実際に残されている。

    引用:wikipedia アボリジニより

    島に3万7千人(諸説あり)はいた先住民族は、1847年にはわずか44人しか生き残っていませんでした。

    はからずも白人による自民族の絶滅に加担させられ、タスマニア・アボリジニの最後の一人となった女性トルガニーニは、人類学上の貴重な資料としてオーストラリア政府に保護されました。

    彼女の遺骨は遺言に従って山奥に埋められました。彼女の死をもって、純粋なタスマニア・アボリジニは絶滅したのです。しかし、無法者の白人によって墓を暴かれ、その遺骨は考古学上の珍品として高値で取引され、博物館にも陳列されました。

    親兄弟も親族も友もすべて白人に殺され、だまされたとはいえ自らの手で民族の絶滅に手を貸してしまったトルガニーニの思いは、いかばかりであったことでしょうか。しかも死んでもなお、白人たちに侮辱され続けたのです。

    その後、トルガニーニの遺骨は取り戻され、その灰はタスマニアの海にまかれました。彼女の死から100年を経た1976年のことでした。

    タスマニア原住民の民族抹殺の悲劇は、白人たちによる紛れもないホロコースト(大虐殺)です。

    20世紀前半にオーストラリア政府のアボリジニ対策は、暴力による鎮圧から保護による統制へと切り替わりました。このとき広範囲に行われたのが、アボリジニの子供たちを親から引き離し、白人宿舎や寄宿舎で養育する政策です。

    法律でアボリジニの親権は完全に否定され、アボリジニの子供たちは「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきと一方的に定められたのです。1997年の報告書によれば、1910年から1970年までの間にアボリジニの子どもの10分の1から3分の1が、親元から引き離されたとされています。

    この政策は政府と教会が主導したものですが、実際の目的はアボリジニの文化を絶やし、アボリジニの存在自体を消滅させるためのものと考えられています。

    ほとんどの子供たちが連れて行かれたのは白人宿舎でも寄宿舎でもなく、監獄のような強制収容所や孤児院などの隔離施設でした。そこで育児放棄や虐待を受けた子供たちは少なくありません。

    子供たちを守るべくアボリジニは各地でデモや暴動を起こしましたが、それらの抵抗が白人の敵がい心をより強める結果になりました。白人に対する抵抗は厳罰に処せられました。逮捕されたアボリジニのなかには裁判を受けることも許されずに、死刑に処される者もいたのです。

    ここで今一度、デーヴィー総督の言葉を掲げておきます。

    「誰でも胸に手を置いて、原住民の両親から子供を拉致した英人と、この無情な迫害を憤り、その盗まれた子供を取り返さんと勇敢に英人に向かった黒人と、いずれが野蛮人であるかを、自問して見よ」

    こうした所業はオーストラリアが国是として掲げていた白豪主義に基づいて為されました。白豪主義とはオーストラリアにおける白人最優先主義と、それに基づく非白人の排除政策のことです。

    こうして欧州から来た征服者たちは北米大陸も豪州も、太古から住み着き平和に暮らしていた有色人種である先住民族を抹殺することで、白人だけの占有地とすることに成功したのです。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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