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    レキシジン3章「人種差別と世界大戦」1904年 世界史の分岐点「日露戦争」#14 日露戦争の勝利がどれだけ世界に衝撃を与えたのか

    #14 日露戦争の勝利がどれだけ世界に衝撃を与えたのか

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    第1部 3章 日露戦争(2/4)国家の存亡をかけた日露戦争 ロシアの誇るバルチック艦隊出動

    第3章.大東亜戦争への道筋 -日露戦争がもたらしたもの-

    2-3.日露戦争が世界を変えた

    その1.世界は日露戦争をどう受け止めたのか

    日露戦争の勝利がどれだけ世界に衝撃を与えたのかについて、今日の教科書ではほとんどふれられていません。しかし世界史の流れを見たとき、日露戦争で日本が勝ったという事実は、極めて大きな意味をもっています。

    思えばコロンブスによる新大陸の発見以来、世界の歴史は西欧の白人による有色人種の支配という一方向の流れのみで綴られてきました。4世紀に及ぶ、その絶対的な流れを日露戦争は断ち切りました。

    日本海海戦の前と後では、世界の景色は一変しました。日本海海戦の勝利は単に日本がロシアに勝ったというだけではなく、有色人種が白人の命じるままに隷従するという時代に確実に終止符を打ったのです。

    有色人種の国が白人国家のなかでも最強と目されていたロシアを倒したことにより、それまでの世界を支えていた白人優位という価値観・秩序は音を立てて崩れ去りました。有色人種の逆襲という新たな大波が、世界を呑み込んだことはたしかです。

    海外の人々がどのように日露戦争を捉えたのか、紹介しましょう。

    ロシアは最後のあがきとしてパルチック艦隊をヨーロッパからアフリカを回ってアジアまではるばる派遣したが、一九〇五年(明治三十八)に結局対馬海峡で日本海軍によって海底に沈められてしまった。この海戦のニュースは世界を唖然とさせた。

    当時オックスフォード大学の新進の講師、だったアルフレッド・ジンマーンは教室に入ると、その日の朝のギリシャ史の講義を中止すると発表した。

    その理由は、現代の世界で起こった、ないしはこれから起こると思われる歴史的に最も重要な大事件について話をしなければならないからである。非白人が白人に勝ったのだ」

    国家と人種偏見』ポール・ゴードン ローレン著(阪急コミュニケーションズ)より引用

    「ロシア人の捕虜が日本に上陸するのを目撃したフランスのジャーナリストのルネ・ピノンは『ちっぽけな日本人が、憎しみをあらわに、大いなる白人』を侮辱する、身の毛もよだっ光景を次のように報じた。

    『敗北し、捕虜となった白人が、なんの制約もなく勝利に酔いしれる黄色人種の前を行進する情景――、これは単に、日本に敗れたロシア、一国に敗北した相手国の図ではない。何か新しい、言い知れぬ、物凄いことだった。それは一つの世界に対する別の世界の勝利だった。

    それは数世紀にわたる侮辱を拭いさる報復だった。それはアジア民族のめざめゆく希望だった。それは西洋という別の人種、呪うべき人種に対する一大痛棒だった』」

    国家と人種偏見』ポール・ゴードン ローレン著(阪急コミュニケーションズ)より引用

    アメリカの作家ロスロップ・ストッダードは恐怖に駆られて、「大いなる白色大国の一つに対するあの黄色人種の勝利のこだまが地球の果てまで轟いた」と書いた。言うまでもなく、日露戦争は「数千万の有色人種の心の中で半ば無意識に発酵しつつあった観念を現実化し、明確化した。

    アジアもアフリカも歓喜と希望に胸をときめかせた。なによりも、不敗の白人の神話は、落ちた偶像となって泥にまみれた」。これは「有色人種の上げ潮」の恐るべき兆候であり、将来世界各地で人種戦争が発生するおそれを拡大した。

    国家と人種偏見』ポール・ゴードン ローレン著(阪急コミュニケーションズ)より引用

    世界中で隷属状態にある人々は、日本の勝利がもたらした道徳的かつ心理的な意味合いを、夢中になって理解しようとした。彼らのバックグラウンドは驚くべき多様性を呈している。(略)

    ロシアの敗北に狂喜した大勢のアラブ人、トルコ人、ペルシア人、ベトナム人、インドネシア人のなかには、さらに多様な背景を持つ人々がいた。だが、彼らには共通体験があった。

    彼らは長いあいだ、野蛮人とはいわぬまでも、成り上がり者と見なしてきた西洋人から服従を強いられてきた。

    そして彼らは皆、日本の勝利から同じ教訓を得た。世界を征服した白人といえども、もはや無敵ではない。今や無数の夢が――国家の自由、人種の誇り、あるいは単に復讐の夢が――自分たちの国にのさばるヨーロッパの権威に、いやいやながら耐えてきた心に花聞いたのであった。

    アジア再興 帝国主義に挑んだ志士たち』パンカジ ミシュラ著(白水社)より引用

    上記の『アジア再興 帝国主義に挑んだ志士たち』のなかには、インドの村々で赤ん坊に日本の海軍大将の名前をつける人が相次いだこと、のちにノーベル賞を受賞する平和主義者の詩人ラビーンドラナート・タゴールが対馬海峡からのニュースを聞くや、ベンガル地方の田舎にある学校構内で学生たちを率い、にわかづくりの戦勝行進を行ったことなども紹介されています。

    日露戦争

    wikipedia:ラビンドラナート・タゴール より引用
    ラビンドラナート・タゴール1861年 – 1941年

    インドの詩人・思想家・教育者。長編小説『ゴーラ』や愛国的な詩を発表。詩集『ギーターンジャリ』を刊行し、英訳してイギリスで発表したところ非常な賞賛を博し、東洋で初めてのノーベル文学賞を受賞した。東西文化の融合と思想の交流に着目し、世界各国を歴訪。日本にも3回来訪している。独立運動を支援する愛国者としても知られる。

    その2.世界は白人のものだけにあらず

    有色人種の国としてアジアで唯一近代国家としての道を歩いている日本は、アジアの人々にとっての希望でした。しかし、インドネシア人をはじめ日本に好意を寄せている多くのアジアの人々は、巨大なバルチック艦隊が海峡を通って行くのを見て、もうこれで日本はおしまいだと涙を流したと伝えられています。

    ところが予期せぬ日本大勝利の報告が寄せられると、アジア中が沸き返りました。有色人種が白人に打ち勝ったという感動にアジアは満たされたのです。

    船でアジアの港に立ち寄る日本人は誰もが大歓迎を受け、関税の役人や現地の人々から握手攻めにあいました。熱狂はたしかにアジアを包み込みました。
    もう少し紹介を続けましょう。

    吉本貞昭著『世界史から見た大東亜戦争-アジアに与えた大東亜戦争の衝撃』より抜粋します。
    ビルマ首相のバー・モウ
    「この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった。それはすべての虐げられた民衆に新しい夢を与える歴史的な夜明けだった」

    日露戦争

    wikipedia:バー・モウ より引用
    バー・モウ1893年 – 1977年

    ビルマ(現ミャンマー)の独立運動家・政治家。ビルマ国元首。名門の家に生まれ、フランス留学。帰国後、弁護士として政治に身を投じる。第二次大戦が始まると、ビルマがイギリス軍の一員として参戦することに反対し、民衆扇動の罪で逮捕された。同志のアウン・サンらとバンコクに「ビルマ独立義勇軍」を創設。日本軍と共にイギリス軍と戦い、ビルマからイギリス軍を駆逐することに成功。

    日本の支援を受けてビルマ国の独立を宣言。国家元首に就任した。東京で開かれた大東亜会議にビルマ国代表として参加。ビルマ国崩壊後は日本へ亡命。ビルマ独立後に一時政界に復帰した。

    アメリカのジャーナリスト、ノエル・F・ブッシュ
    「あの海域で、アジアの一小国が、地上最大のヨーロッパの帝国を、わずか一時間たらずでうち負かしたあの勝利は、アジア人とヨーロッパ人には質的なひらきがあるという長いあいだの神話を、永久に破壊してしまった。そして、むしろ、質的な差があるとすれば、アジア人のほうに分があるとさえ、この勝利は示唆したのである」

    元宮内省御用掛のドイツ人内科医エルウイン・フォン・ベルツ
    「かくてまたもや世界歴史の一ページが――それも、現在ではほとんど見透しのつかない広大な影響を有する一ページが――完結されたのである。
    今や日本は陸に、海に、一等国として認められた。われわれが東亜において、徐々ではあるが間断なく発展するのを観たその現象が、今や近世史の完全な新作として、世界の注視の的になっている――アジアは世界の舞台に登場した。

    そしてこのアジアは、ヨーロッパ諸国の政策に、従ってわれわれの祖国の政策にもまた、共通の重大な影響を及ぼし得るのであり、また及ぼすはずだ。ヨーロッパだけの政策は、もはや存在しない。世界政策があるのみだ。東亜の出来事は、もはや局部的な意義をもつものではなく、今日ではわれわれにとって極度に重要な関心事である。
    これらすべての意義を、世人はいまだに気付かないが、しかし時がこれを教える、だろう」

    日露戦争

    wikipedia:エルヴィン・フォン・ベルツ より引用
    エルヴィン・フォン・ベルツ1849年 – 1913年

    ドイツ帝国の医師。明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、日本の医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ。明治天皇の侍医に就任。東大を退官後は、宮内省御用掛を務める。蒙古斑の命名者としても知られる。

    次に『黄文雄の大東亜戦争肯定論』黄文雄著(ワック)からの抜粋です。

    インドの初代首相ネルー
    「小さな日本が大きなロシアに勝ったことは、インドに深い印象を刻み付けた。日本がもっとも強大なヨーロッパの一国に対して勝つことができたならば、どうしてインドにできないといえようか」

    「インド人はイギリス人に劣等感をもっていた。ヨーロッパ人は、アジアは遅れた所だから自分たちの支配を受けるのだと言っていたが、日本の勝利は、アジアの人々の心を救った」

    日露戦争

    wikipedia:ジャワハルラール・ネルー より引用
    ジャワハルラール・ネルー 1889年 – 1964年

    インドの政治家。独立インド初代首相(在職1947‐64)。ガンジーとともに反英独立運動に参加。国民会議派の中心指導者となり、しばしば投獄され、約10年間を獄中でおくった。インド独立後は初代首相となる。社会主義型社会を目標に五ヵ年計画を推進。国際的には非同盟主義外交を提唱。民主的な政策によりインド国民の熱烈な支持を得、終身首相を務めた。

    中国革命の父・孫文
    「日本は不平等条約を廃除して独立国となった時、日本に非常に接近している民族、国家は大なる影響を受けたことは受けたが、アジア諸民族をして全体的
    にそれ程大なる感動を受けさせることができなかった。

    しかしそれより十年を過ぎて日露戦争が起こり、その結果日本がロシアに勝ち、日本人がロシア人に勝った。これは最近数百年間におけるアジア民族のヨーロッパ人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアで影響を及ぼし、アジア全体の諸民族はみな有頂天になり、そして極めて大きな希望を抱くに至った」

    日露戦争

    wikipedia:孫文 より引用
    孫文(そん ぶん)1866年 – 1925年

    中国の政治家・革命家。中国国民党の創設者・指導者。中華民国の創始者として「国父」と称される。初め医師となったが、救国の志を抱き革命運動に入る。東京で中国同盟会を結成し、民族・民権・民生の三民主義を掲げた。

    辛亥革命の際、臨時大総統に就任したが、まもなく袁世凱に譲る。清朝を打倒しただけで革命は失敗に終わった。袁世凱の独裁化に抗して第二革命を開始。国共合作を成し遂げ国民革命を志向したが、実現をみないうちに没した。「大アジア主義」を唱え、後世に多大な影響を与えた。

    孫文は大正13年に神戸で行われた「大アジア主義」と題した講演においても次のように述べています。

    「ヨーロッパの文化は進歩し、科学も進歩し工業生産も進歩し、武器もすぐれているし兵力も強大で、わがアジアにはとりえがないと考えた。どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えたのであります。

    ――きわめて悲観的な思想だったのであります――ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります。」

    世界から見た大東亜戦争』名越二荒之助著(展転社)より引用

    白人の支配に苦しめられていた世界各地の有色人種の人々は、日本がロシアを打ち破ったことを我がことのように喜び、自分たちも白人に勝てるかもしれないという思いを新たにしたのです。

    その3.民族独立への大きなうねり

    これまで有色人種はどんなにあがいても欧米列強に負け続け、白人に仕える奴隷同様の毎日を強いられてきました。そこにあったのは、深い絶望とあきらめの境地です。

    しかし、日本が大きな戦争でロシアに勝ってみせたことにより、そうした絶望やあきらめの境地は希望へと塗り変わりました。実際に日露戦争以降、白人の支配を断ち切り民族自決を求める運動は世界各地で巻き起こるのです。

    再び孫文の講演会から引用します。

    「日本がロシアに勝ってからは、アジア全体の民族は、欧州を打ち破ろうと考え、盛んに独立運動を起こしました。すなわち、エジプト、ペルシャ、トルコ、アフガニスタン、アラビア等が相次いで独立運動を起こし、やがてインド人も独立運動を起こすようになりました。即ち日本が露国に勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望を抱くに至ったのであります」

    韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する』勝岡寛次著(小学館)より引用

    フィリピン・ベトナム・ビルマ・インドネシアにおいても独立運動家を勇気づけた結果として、民族主義が盛んとなりました。

    日露戦争の勝利は、まさに世界を変えたのです。欧米の白人のものだった世界、白人のものだった歴史を、アジア・アフリカをはじめとする虐げられてきた有色人種の手に戻したことにおいて、日露戦争ほど世界に大きな影響をもたらした戦争はなかったといえるでしょう。

    その4.アジアの目覚め - 日本から学べ!

    日露戦争における歴史的な勝利は、日本を民族運動の聖地にしました。ビルマ・ベトナム・インドなどから白人の支配を覆し民族独立を目指す多くの若者が、宗主国の追及を逃れながら日本に留学に訪れるようになったのです。東京はアジア中からやってきた民族主義者のメッカとなりました。

    なかでもことに多かったのが、清からやって来た留学生です。日清戦争では敵として戦ったものの、日露戦争での日本の勝利はそうした恩讐を越えて、清の人々を一気に日本へと引き寄せました。

    その原因として、日露戦争での日本の勝利が朝鮮を守ったのみならず、ロシアの中国侵略をも防いだことをあげられます。もし日本が敗れていれば、中国の北半分はロシアに占領されていたに違いないと、中国でも認識されていました。日本の勝利は中国人にとっても喜ばしいことだったのです。

    日露戦争後まもなく清では科挙の制度を廃止し、日本式の教育プログラムを取り入れています。「科挙」とは中国で長いこと続けられていた高級官僚の登用試験です。身分や生まれに関係なく試験に受かりさえすれば誰でも高級官僚になれる道を開いたことにおいて、科挙は画期的でした。

    しかし、科挙の試験科目は「四書五経」といわれる儒教の経典が中心であり、数学や自然科学などの知識はまったく無視されていました。近代国家を造る上で四書五経はなんの役にも立ちません。

    そこで清は科挙を廃止し、西洋の知識・文化を奨励することで、日本のような近代化を目指そうとしたのです。日本の制度を参考にして学校制度を改めるとともに、日本への留学を奨励しました。

    科挙に代えて日本留学を経て帰国した者に試験が科され、資格が付与されるように改められました。日本での在学年数や留学先の学校のレベルも考慮されました。

    日露戦争をきっかけとして、明治の初めから日本が望んでいたように、中国もようやく近代化へ向けて歩き始めたのです。

    国ぐるみで日本への留学が奨励されたため、東京には一時、一万五千人を超える中国人留学生がいたとされています。後に中国をリードする孫文や蒋介石も、そうした留学生の一人です。

    日本人のなかにはアジアの復興、解放という大義のために、頭山満など諸民族の独立運動・革命運動に私財を投げ打って支援を行う人々もいました。

    日露戦争

    wikipedia:頭山満 より引用
    頭山満(とうやま みつる) 1855(安政2)年 – 1944(昭和19)年

    明治〜昭和戦前期の国家主義者・右翼の巨頭。自由民権運動に参加後、国家主義に転じ、玄洋社を創立、大アジア主義を唱えた。孫文の辛亥革命を支援し、朝鮮の金玉均、インドのビハリ=ボースら亡命家を保護した。政界の裏面で日本の対外進出のために画策を続けた。

    アジア復興へ情熱を傾けたが一貫して政治の裏舞台に身を置き、公職につくことはなかった。右翼の草分け的存在として各界に隠然たる勢力をもち、多くの国家主義者を育てた。

    中国をはじめ、「日本から学べ!」の合い言葉はアジア中に鳴り響きました。この時期、日本を中心にアジアは一つという機運は、たしかに燃え上がっていたのです。

    その5.アジアは一つ 日本を盟主とするアジア主義

    「アジアは一つ」は、岡倉天心が英語で著した「東洋の理想」の冒頭に出てくる有名な言葉です。

    天心は「ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱である」と述べ、「戦争は絶やされなければ行けない。己を守る覚悟のないものは奴隷にされなければならないが、他国を侵略するような道義のない国民もまた哀れである。個人の道徳からして発達していない者たちである」と、白人によるアジア侵略を批判しています。

    日露戦争

    wikipedia:岡倉天心 より引用
    岡倉天心(おかくら てんしん)1863(文久2)年 – 1913(大正2)年

    明治時代の美術評論家・思想家。幼時から英語を学び、東京大在学中からフェノロサの通訳として頭角を現し、東京美術学校長を経て日本美術院を創設。新日本画運動を展開し、明治日本画家の指導者として活躍。その後ボストン美術館中国日本美術部長。英文著書による日本文化の紹介者としても知られる。

    独特のアジア観に立脚する文明批評を内外に広めた。「アジア主義」思想の父としても有名。著書に『東洋の理想』『日本の覚醒』『茶の本』等がある。

    当時の日本には大きく二つの思想がありました。ひとつは天心に代表される「アジア主義」、もう一つは福沢諭吉が唱えた「脱亜入欧論」です。

    日露戦争

    wikipedia:福澤諭吉 より引用
    福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)1835(天保5)年 – 1901(明治34)年

    幕末・明治時代の啓蒙思想家・教育者。大坂で蘭学を緒方洪庵に学び、江戸に蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設ののち、独学で英学を習得。三度幕府遣外使節に随行して欧米を視察。維新後、新政府の招きを辞退し、教育と啓蒙活動に専念。脱亜論を説く。『学問のすゝめ』は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」で知られ、ベストセラーとなる。国家、及び日本人ひとりひとりの「独立自尊」の実現を目指した。民権運動には当初から批判的で、富国強兵を支持した。

    日本がアジアと連携して欧米に対抗すべきであるという主張が「アジア主義」、日本がアジアから抜け出し、欧米の仲間入りをすべきであるという主張が「脱亜入欧論」です。

    福沢はもともとはアジア主義者でしたが、支援していた朝鮮改革派の志士・金玉均が暗殺されるなど近代化に背を向ける中国・朝鮮に絶望し、もはや二カ国の悪友との付き合いを謝絶すべしと主張したのです。

    日露戦争

    wikipedia:金玉均 より引用
    金玉均(キム・オッキュン、きん ぎょくきん)1851年 – 1894年

    朝鮮李朝末期の政治家。開化派(独立党)の指導者。親清派の閔氏政権打倒を計画して甲申政変を起こしたが、失敗して日本に亡命。頭山満や福沢諭吉の保護を受ける。日本で十年を過ごした後、朝鮮の工作員に誘い出されて上海に渡った後、暗殺された。遺体は朝鮮に送還され、「大逆無道」の罪人として死体を引き裂く極刑に処された。日清戦争勃発後に名誉が回復された。

    アジアとの連携を図るか、それとも欧米との協調を図るのか、それは今日の日本にも通じる重要なテーマです。

    当時の日本人はアジアを欧米列強の植民地から救出しなくてはならないとする使命感をもっていました。明治初期のまだ日本が小国であった頃から、道義的に見て白人がアジアで為している暴虐の数々は許せないとする空気は日本中を覆っていました。

    敬虔(けいけん)なクリスチャンであり、普通選挙権や女性の権利獲得に尽くした永井柳太郎は、「一人種だけがすべての富を使う権利を得たならば」と疑問を呈し、「ほかのすべての人種が、虐待されていると感じて抗議するのは当然ではないか? もし黄色人種が白人から迫害を受け、身動きのとれぬ状態を回避し生存維持のために反抗しなければならないとしたら、それは迫害者の過失でなくして誰の過失であろうか?」と白人による「白禍」について警告を発しました。

    日露戦争

    wikipedia:永井柳太郎 より引用
    永井柳太郎(ながい りゅうたろう)1881(明治14)年 – 1944(昭和19)年

    大正-昭和時代前期の政治家。早大教授。大隈重信の雑誌「新日本」の主筆として政治・社会批評を書く。憲政会から代議士となり、のち立憲民政党代表となる。拓相・逓相・鉄道相を歴任、普通選挙法・電力法・育英会法の通過に尽力。大政翼賛会で東亜新秩序論を唱え、雄弁家で知られた。

    ただでさえ道義に反する白人の暴虐ぶりに怒りをためていた多くの日本人が、日露戦争に勝ったことで一躍欧米列強と対等な立場を得たからには、アジアの解放を模索し始めるのは当然のことでした。

    その意気込みは思想家の徳富蘇峰の次のひと言に集約されています。

    「極東の国々が欧州列強の餌食(えじき)になるような事態をわが国は座視するわけにはゆかぬ。われわれには東亜の平和を維持する義務がある」

    日露戦争

    wikipedia:徳富蘇峰 より引用
    徳富蘇峰(とくとみ そほう)1863(文久3)年 – 1957(昭和32)年

    明治-昭和時代のジャーナリスト・評論家・史学家。月刊誌「国民之友」を主宰、「国民新聞」を発刊。当初は平民主義を主張していたが、日清戦争を機に皇室中心の国家主義思想家に転じる。

    『皇道日本之世界』『興亜之大戦』などを著し、大日本言論報国会会長につくなど盛んに文章報国を唱えた。アジア・モンロー主義の主張は有名。第2次大戦後公職追放。『毎日新聞』の社賓となって代表作『近世日本国民史』(100巻)を連載した。文化勲章を受けるが後に返上。

    アジア主義、あるいは大アジア主義・汎アジア主義と呼ばれるこうした論は、多少の差はあるものの「アジアはひとつ」との信念の下で、日本を盟主として
    アジアの団結を主張するものです。

    今日では「日本を盟主とする」ことを問題視し、日本によるアジア支配を美化するための隠れ蓑(みの)に過ぎないとの主張が多く為されていますが、当時の情勢を冷静に見たならば、その他に選択肢がなかったことは明らかです。

    日露戦争が終わった頃のアジアは、その大半が欧米列強の植民地であり、わずかに残った独立国にしても近代国家としての体裁を保っていたのは日本のみです。当時のアジアには「日本に学べ」という風が吹き抜け、実際に民族主義者の多くが日本に留学に訪れています。

    日本がアジア各国のまとめ役を引き受け、経験を活かして近代国家へと導く使命を負うのは極めて自然なことでした。

    アジア主義を唱えたのは日本人ですが、その思想は孫文などアジア各民族の革命・独立運動の志士たちを魅了し、日本を中心とするアジアの復興へと、大きなうねりを生み出したのです。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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