レキシジン第1部「大東亜/太平洋戦争への流れ」2章「大航海時代と奴隷商人コロンブス」#03 欧州に繁栄をもたらした奴隷貿易(三角貿易)とキリスト教

#03 欧州に繁栄をもたらした奴隷貿易(三角貿易)とキリスト教

白人による有色人種殺戮と略奪の500年シリーズ

→「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

2章 欧米列強の侵略と植民地支配の500年

前回の記事の続きとなっています。

前回の記事はこちらから。
→第1部 2章 1/7 コロンブスの「発見」から始まる奴隷の歴史

2-4.欧州に繁栄をもたらした奴隷貿易

征服者たちは新大陸で金銀の鉱山を開発し、砂糖やコーヒー、タバコなどの嗜好品(しこうひん)の農園経営に没頭しました。

しかし、征服戦争や過酷な強制労働に加えて、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病や飢餓によって先住民人口は激減し、鉱山や農園では深刻な働き手不足に陥ります。

そこで征服者たちは新たな労働力を求めました。

アフリカから黒人奴隷を大量に連れてきて、新大陸の鉱山や農園へ送り込んだのです。

アフリカから黒人奴隷を連れ出すために拉致・誘拐も行われましたが、大西洋奴隷貿易では、ヨーロッパの奴隷商人がアフリカ側の商人や支配者から奴隷を買い付ける取引も大規模に行われました。

戦争で捕らえられた捕虜をはじめ、さまざまな事情で奴隷化された人々が、銃器や織物、金属製品、酒などの商品と交換され、奴隷船へと送られたのです。

第2章 欧米列強の侵略と植民地支配の500年

奴隷商人や会社の所有物であることを示すため、腕や胸などに焼印を押された人々もいました。

奴隷は人間でありながら、商品として売買されたのです。

奴隷たちは鎖につながれたまま、暗い船倉に押し込まれました。

できるだけ多くの奴隷を運ぶため、船内はひどく狭く造られ、立つことができず、体を自由に動かすことさえ難しかったという記録が残されています。

排泄用の桶が置かれていた船もありましたが、ギュウギュウ詰めの船倉では移動することすら困難でした。

換気も悪く、排泄物や嘔吐物、病気が広がる過酷な環境のなかで、大西洋を渡らなければならなかったのです。

では、いったいどれほどの人々がアフリカから連れ出されたのでしょうか。

現在では、数万件に及ぶ奴隷船の航海記録を集積した「SlaveVoyages」によって、その規模がかなり詳しくわかっています。

1501年から1866年までに、アフリカから奴隷船に乗せられた人はおよそ1250万人。

そのうち主に南北アメリカ大陸へ到着し、下船したのはおよそ1070万人と推計されています。

単純に差し引けば、乗船した人々のうち約180万人が、主な到着地であるアメリカ大陸まで生きて下船できなかった計算になります。

しかし、犠牲になったのは奴隷船に乗った人々だけではありません。

奴隷を捕らえるための戦争や襲撃、内陸から海岸までの強制移送、その途中で命を落とした人々まですべて正確に数えることはできません。

奴隷貿易がアフリカから奪った命の総数は、奴隷船の記録だけではわからないのです。

鎖に繋がれた奴隷

鎖につながれた19世紀のアフリカ人奴隷

ようやく生き残った黒人奴隷たちは奴隷市場に引き立てられ、家畜のように売り出されました。

親子や兄弟が引き離され、それぞれ別の買い主のもとへ売られることも珍しくありませんでした。

長期間にわたる奴隷貿易は、当時の人々だけを苦しめたわけではありません。

多くの人々が故郷から連れ出され、奴隷狩りをめぐる戦争や社会の分断が繰り返されたことが、その後のアフリカの経済発展にも長期的な悪影響を与えたとする研究があります。

何世紀も経った現在にまで、その傷跡は残っているのです。

16世紀から18世紀にかけては奴隷貿易を重要な一角とする三角貿易によって、ヨーロッパに莫大な富がもたらされました。

三角貿易の典型的な流れは次のようなものでした。

レキシジン
引用:wikipedia三角貿易

ヨーロッパから銃器や織物、金属製品、酒などを積んだ商人たちはアフリカ沿岸へ向かい、それらと引き換えに黒人奴隷を購入します。

そのあとブラジルや西インド諸島などへ向かい、奴隷を求める鉱山や農園の経営者に運んできた黒人奴隷を売りました。

次に、奴隷を売って得た金で砂糖や綿花・タバコ・コーヒーなどの商品を大量に積み込み、ヨーロッパに戻ってからそれを売却します。

実際の大西洋貿易がすべてこの三角形を一周したわけではなく、ブラジルとアフリカを直接結ぶ交易なども大規模に行われました。

それでも、奴隷制を重要な一角とする大西洋貿易によってヨーロッパの商業は大きく発展しました。

その一方で、アフリカの人々や新大陸の先住民たちは故郷や家族を奪われ、強制労働に従事させられたのです。

新大陸からは大量の金銀もヨーロッパへ運ばれました。

それらの鉱山では先住民への強制労働が広く行われ、地域によってはアフリカ人奴隷も労働力として使われました。

さらに砂糖や綿花などのプランテーションでも、大勢の奴隷の労働が利用されました。

こうした植民地交易や奴隷制によって蓄積された富が、ヨーロッパの資本形成や産業革命にどの程度寄与したのかについては、現在も歴史学・経済史上の議論があります。

しかし、奴隷制に支えられた大西洋経済が、ヨーロッパの商業や金融、製造業の発展と深く結びついていたことは確かです。

非白人たちの労働力や土地、資源から得られた富が、ヨーロッパの繁栄の一部を支えたのです。

欧州のアジア進出そのものは、産業革命よりも前から始まっていました。

しかし産業革命によって大量生産が進むと、産業に必要な原料の供給地と、工業製品を販売する市場の重要性はさらに高まります。

19世紀になると欧州列強による植民地争奪競争はいっそう過熱し、その牙はアジア・アフリカ各地へと向けられることになります。

2-5.有色人種の奴隷化を支えたキリスト教

それにしてもヨーロッパの人々は、どうしてここまで残酷に異民族の命を奪い、自らの繁栄のためには非白人を奴隷化し、犠牲にしても構わないと考えることができたのでしょうか?

私たちが知っているキリスト教は、隣人愛や慈愛を説いている宗教のはずです。

熱心なキリスト教徒でもあった欧州の人々は、なぜキリスト教の教えと、征服や奴隷化を両立させることができたのでしょうか?

その背景の一つに、キリスト教世界と異教徒の世界を分け、異教徒を「正しい信仰」へ導くことを正義とする考え方がありました。

そして、その宗教的な大義が軍事的征服と結びつくこともありました。

象徴的なのが15世紀の教皇勅書です。

1455年、教皇ニコラウス5世が発した「Romanus Pontifex」は、ポルトガルによるアフリカ方面への進出と交易上の権利を認めるとともに、それ以前に与えられていた権限として、サラセン人や異教徒などを征服し、その人々を「永久奴隷状態」に置くことまで認めています。

宗教的権威が、征服と奴隷化を正当化するために現実に利用されたのです。

これまで紹介した経過を見れば明らかなように、植民地化を進めた大きな目的の一つは、土地や労働力、資源、交易から富を得ることでした。

しかし、いつの時代も力尽くで他の民族を支配するためには、国内外に対して示す大義名分を必要とします。

非キリスト教徒の住む土地へ進出する大義名分の一つとして利用されたのが、キリスト教への改宗でした。

スペインやポルトガルによる海外進出でも、先住民をキリスト教へ改宗させ、正しい信仰へ導くという使命が掲げられました。

ローマ教皇庁から出された複数の教皇文書によって、両国による海外進出や征服地をめぐる権利にも宗教的権威が与えられていきます。

ただし、キリスト教そのものが一貫して奴隷制度を支持していたわけではありません。

1537年、教皇パウルス3世は「Sublimis Deus」において、アメリカ先住民をはじめキリスト教徒によって新たに発見された人々について、たとえキリスト教徒でなくても自由や財産を奪われるべきではなく、奴隷化されるべきではないと表明しました。

後の時代にはキリスト教の教えを根拠として奴隷制廃止を訴える人々も現れます。

つまりキリスト教は、征服や奴隷化を正当化するためにも利用され、その一方で奴隷制に反対するためにも使われました。

それでも、中世末期から近世にかけて、宗教的な優越意識が征服を正当化する論理の一つとして使われたことも事実です。

森羅万象に神が宿るとするアニミズムや多神教など、キリスト教とは異なる信仰を「異教」「未開」とみなし、キリスト教文明へ導くことを使命とする考えが、植民地征服と結びついたのです。

「ビルマの竪琴」の作者である竹山道雄も、「妄想とその犠牲」などの文章で、ユダヤ人迫害や西洋一神教の歴史が生んだ暴力について論じています。

力尽くで他民族を支配するとき、人は自分たちの行為を「正しいこと」に変えるための大義名分を求めます。

大航海時代から植民地時代にかけて、異教徒の改宗や文明化というキリスト教的な使命は、その大義名分の一つとして利用されたのです。

2-6.有色人種の奴隷化を支えた科学

その1.文明進化論と白人の重荷

オランダやイギリス、フランスによる海外進出の時代を迎えると、人種支配を正当化する論理に新たな力が加わります。

科学です。

宗教的な正当化がなくなったわけではありません。

しかし18世紀から19世紀にかけて、人間を身体的特徴によって分類し、さらには民族や人種の間に優劣があるかのように説明する学説が現れました。

そして19世紀には、生物進化論の影響も受けながら、世界の諸民族や社会もまた「野蛮」から始まり「半開」となり、やがて「文明」を持つに至ると考える社会進化論や文化進化論が広まります。

人類の文化は段階を追って進歩し、その文明進化の頂点には西欧文明が位置すると考えられたのです。

文明進化論は「進化の遅れた野蛮人や未だに文明開化を迎えていない人々に、有り難い西欧文明の恩恵をもたらすことこそが西欧の白人たちが担う使命だ」とする考え方を助長しました。

こうした考え方は、植民地支配を正当化する強力な盾となりました。

西欧文明以外はすべて野蛮、あるいは半開。

そう位置づけてしまえば、そこに独自の文明や社会、文化が栄えていようとも尊重する必要はありません。

野蛮な民族を征服して西欧文明を教えることは侵略ではない。

むしろ彼らのためなのだ。

そう説明することができたのです。

たとえば、1911年のフランスの新聞には、フランスを象徴する女性像とモロッコの人々を描いたイラストとともに、こんな言葉がつけられていました。

モロッコに文明、富、平和をもたらすフランス

「フランスは今や、モロッコに自由に文明と富と平和をもたらすことができる」

1911年11月19日付「Le Petit Journal」に掲載されたものです。

植民地支配が、「文明」「富」「平和」を現地にもたらす行為として描かれています。

教科書や新聞、小説、広告などを通して、西欧文明によって救われるアフリカやアジアの現地人というイメージも繰り返し広められていきました。

その思想を象徴する言葉の一つが「白人の重荷」です。

イギリスの作家キプリングは1899年、詩「The White Man’s Burden(白人の重荷)」を発表しました。

そこでは、白人が非白人社会を統治し、「文明化」することを白人が背負う責務として描いています。

「白人の重荷」という言葉はその後、帝国主義や植民地支配を正当化する考え方を象徴するフレーズとして広く知られるようになりました。

その2.非白人を虐げるための科学的根拠

さらに科学が、人種差別を正当化するために利用されました。

18世紀、スウェーデンの博物学者リンネは人類を地域や身体的特徴によって分類しました。

リンネ自身は人間について「人種(race)」という言葉を使ったわけではなく、「変種(variety)」としてヨーロッパ人、アメリカ先住民、アジア人、アフリカ人の四つに分類しています。

当初は地理的な分類でしたが、1758年の『自然の体系』第10版では、ヨーロッパ人を「賢明・創意に富む」、アジア人を「高慢・貪欲」、アフリカ人を「怠惰」などとする性格的特徴まで付け加えました。

現在から見れば科学的根拠のない分類です。

しかし、このような人類分類は、その後の科学的人種論へ大きな影響を与えることになります。

ドイツの解剖学者ヨハン・フリードリッヒ・ブルメンバッハは、人類そのものは一つの種としながらも、人類を複数の「変種」に分類しました。

そのなかでコーカサス型を原初的な形態とみなし、他の人類集団はそこから環境などの影響によって変化していったと考えました。

19世紀になると、人種の違いをさらに露骨に人間の能力や文明と結びつける学説が現れます。

スコットランドの医師ロバート・ノックスは著書「The Races of Men」で、人種によって人間の性質や民族の運命が決まるとする強い人種決定論を展開しました。

とりわけサクソン人を強力で勤勉な人種として高く位置づけています。

アメリカの医師ジョサイア・C・ノットとジョージ・グリドンは1854年、『Types of Mankind(人類の諸類型)』を出版しました。

この本では人類を異なるタイプに分類し、人間の頭蓋などを比較しながら、人種の違いを生物学的な違いとして説明しようとしました。

さらに博物学者ルイ・アガシーも、人類が一つの共通祖先から生まれたのではなく、人種ごとに異なる起源を持つとする「多元発生説」を支持しました。

現在では否定されている学説ですが、当時は「科学」の名のもとに人種の違いを説明する理論の一つとして扱われました。

人種差別を正当化する科学の一翼を担ったのが、1863年に設立されたロンドン人類学協会です。

創設者ジェームズ・ハントは「On the Negro’s Place in Nature(自然界における黒人の位置)」において、黒人とヨーロッパ人には本質的な違いがあると主張し、黒人を白人より劣った存在として位置づけました。

こうした人種論は、奴隷制度や人種的支配を擁護する論拠としても利用されました。

科学者ばかりではありません。

哲学者として高名なデイヴィッド・ヒュームも「Of National Characters」の注釈において、黒人は白人より生来的に劣っているのではないか、という明確な人種差別的見解を残しています。

現在では到底科学的とは呼べない考え方です。

しかし当時は、著名な哲学者や科学者たちによってこうした人種論が語られ、「学問」の名前を与えられていました。

それが重要なのです。

人種差別は、単なる一部の人間の偏見として存在しただけではありません。

宗教。

哲学。

人類学。

生物学。

さまざまな権威が利用され、人種の上下関係がもっともらしく説明されていきました。

「白人と非白人は同じではない」

「文明化された民族が未開の民族を支配するのは当然である」

「支配することこそ、彼らのためなのだ」

そうした考え方が、植民地支配を正当化する思想の一部となっていったのです。

もちろん、当時の欧米人や科学者すべてが同じ人種観を持っていたわけではありません。

人種差別や奴隷制度に反対した人々も存在しました。

しかし、人種に優劣があるとする思想が欧米社会に広く影響を与え、植民地主義や奴隷制を正当化するために利用されたこともまた事実です。

新大陸の先住民もオーストラリアのアボリジニの人々も、植民地拡大のなかで甚大な暴力を受けました。

その背景には土地や資源をめぐる欲望、植民地支配そのものとともに、人種的な偏見や優越思想もありました。

「自分たちとは同じ人間ではない」

そう思い込むことができれば、奪うことへの罪悪感は薄れます。

殺すことへのためらいも消えていきます。

宗教によって。

そして、やがて科学の名によって。

非白人を支配するための理屈は、時代とともに姿を変えながら作られていったのです。

参考資料

・SlaveVoyages「The Trans-Atlantic Slave Trade Database」
https://legacy.slavevoyages.org/blog/methodology-trans-atlantic

・Smithsonian National Museum of American History「The Middle Passage」
https://americanhistory.si.edu/explore/exhibitions/on-the-water/online/living-atlantic-world/forced-crossings/middle-passage

・U.S. National Park Service「The Middle Passage」
https://www.nps.gov/articles/the-middle-passage.htm

・Nathan Nunn「The Long-term Effects of Africa’s Slave Trades」Quarterly Journal of Economics
https://academic.oup.com/qje/article-abstract/123/1/139/1889789

・Pope Nicholas V「Romanus Pontifex」(1455年)
https://www.papalencyclicals.net/nichol05/romanus-pontifex.htm

・Pope Paul III「Sublimis Deus」(1537年)
https://www.papalencyclicals.net/paul03/p3subli.htm

・The Linnean Society「Linnaeus and Race」
https://www.linnean.org/learning/who-was-linnaeus/linnaeus-and-race

・Library of Congress『Types of Mankind』(Josiah C. Nott / George R. Gliddon, 1854)
https://www.loc.gov/item/49043133/

・David Hume「Of National Characters」
https://davidhume.org/texts/empl1/nc

・国立国会図書館『竹山道雄セレクション 2 西洋一神教の世界』
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I027778254

・昭和館デジタルアーカイブ『竹山道雄と昭和の時代』
https://search.showakan.go.jp/search/book/detail.php?material_cord=000056741

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ドン山本
ドン山本
タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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