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    レキシジン3章「人種差別と世界大戦」1931年 満州国建国と崩壊の因果#24 なぜ満州国は崩壊したのか?開拓史上最大の悲劇

    #24 なぜ満州国は崩壊したのか?開拓史上最大の悲劇

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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    第1部 3章 満州事変(4/5)国際連盟からの脱退と満州の見果てぬ夢

    4.満州事変はなぜ起きたのか

    4-10.満蒙開拓団は語り続ける

    その1.500万人移住計画

    満州については功罪様々な論がありますが、満州国が短期間のうちに近代的な国家として栄えたことは、日本にとっての功であったといえるでしょう。

    その一方、満蒙開拓団のたどった悲劇は、日本にとっての罪です。満蒙開拓団とは、満州事変の後、日本が満蒙地区に送りこんだ農業移民団のことです。

    日本が本土だけでは抱えきれないほどの多くの人口を抱えていたことは、先に紹介しました。日本人が移民できる土地を、政府は必死に探していました。欧米列強は人種差別を露わにし、黄色人種の移民を認めません。そんなときに日本人移民の受け入れを表明してくれたのは南米のブラジルでした。日本は1907年からブラジルへの移民を開始しています。

    満州の開発が進むにつれ、日本人の移民先として満州が候補にあがるようになりました。しかし、当初は満州への移民は不可能であるとする論の方が主流でした。温暖な気候に慣れた日本人には、寒冷地の満州は不向きとされたのです。

    農本主義指導者として知られる加藤完治と、京都帝国大学教授で農業経営学者であった橋本傳左衛門が中心となり満州移民を推し進めようとしましたが、これを一蹴したのが高橋是清蔵相です。

    高橋蔵相は満州移民に異を唱えました。それでも昭和恐慌が続くなか、農民の惨状が広がるにつれて農民からも満州への移民を希望する声が強くなり、試験移民が開始されました。

    満州事変
    満洲 NHK特集ドラマ『どこにもない国』を巡る (洋泉社MOOK) より引用
    水曲柳(すいきょくりゅう)開拓団の人たち

    満洲国吉林省野藺県水曲柳にあった。937年から長野県下伊那・飯田近辺の人たち千数百

    人が入植し、引き揚げ時に多くの犠牲者を生んだ。

    転機となったのは、1934(昭和9)年にブラジルで「移民二分制限法」が公布され、日本移民は年間3千人以下に制限されたことです。そのことは満州移民へと世論を動かしました。

    国家政策による満州移民へと大きく舵を切ることになったのは、1936(昭和11)年2月26日、高橋蔵相が暗殺された 2・26 事件が起きたからです。満州移民の防波堤だった高橋蔵相の死により、満州移民は一気に動き出します。

    広田弘毅を首班とする内閣は、「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に500万人の日本人の移住を計画するとともに、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画も立てられ、実行に移されました。

    満州事変
    wikipedia:広田弘毅 より引用
    広田弘毅(ひろた こうき) 1878年(明治11)年 – 1948(昭和23)年

    明治-昭和時代前期の外交官・政治家。駐ソ大使・外相を歴任、二・二六事件の直後に第32代内閣総理大臣に就任。日独防共協定に調印。第一次近衛内閣の外相となり、終戦直前にソ連の仲介による和平交渉にあたるも失敗。「エリート外務官僚であったが静観主義をとり、軍部に追随した」と評価されている。戦後、A級戦犯として南京虐殺事件の外交責任を問われ、文官中ただ一人絞首刑となる。

    当時の日本の人口は約7千万人です。500万人が移住するとなると、日本人100人のうち7人が満州に渡ることになります。あまりにも現実味に欠ける計画でした。

    ブラジル移民とは違い満州移民は国策として実行されるだけに、渡航費は全額補助される他、開田費や建築費、農具・家畜などの購入に対しても一定額の補助金が交付されました。希望すれば誰でも身一つで移民に参加できたのです。

    食べるものを数日間口にできず、娘の身売りさえしなければならない貧苦に喘ぐ農民にとって、満州への移民は生きるための選択でした。長野県や東北地方をはじめ、多くの農民たちが、満州に骨を埋める決意をしました。

    その2.開拓という名の略奪

    満州事変
    図説 写真で見る満州全史』平塚柾緒著(河出書房新社) より引用

    千振村の開拓団親子。千振には多くの開拓団が入植していた。

    こうして満蒙開拓団は新天地を求めて満州へと渡ったのです。ほとんどの農民たちは、「開拓団」の名の通り、満州の荒野を開拓する覚悟でした。ところが満州に着いてみて、農民たちは驚きました。

    荒野を開拓するどころかすでに広大な田畑が用意されており、家屋まであてがわれたのです。

    現地召集され、シベリア抑留を経て帰国した男性団員は「行ってみると、すでに、もう土地、家屋、全て関東軍の方から買収済みで、農地から住宅全部買い上げてあるもんですから、もうそのままの形で入植するということで、びっくりしたとですよ」(『赤き黄土』)と語った。

    移民たちの「満州」』二松啓紀著(平凡社)より引用

    農民たちはすぐに気がつきました。ここには少し前まで中国人の農民が家族とともに生活を営み、田畑を耕していたに違いないと……。

    事実、その通りでした。関東軍は日本人の入植地として、一つの村を丸ごと中国人から買い取っていたのです。土地の買収といっても、それは武力で脅して略奪したも同然の行為でした。

    地域によって異なるものの、土地の買値は時価の3割から1割程度という不当な金額でした。しかも支払いは遅れ、中国人の農民たちはなかなか現金を手にできませんでした。立ち退き料は1人あたり5円ほどです。5円は日本人移民1人に支払われた1ヵ月分の食事代に相当しています。

    ただし、そこは中国人農民が先祖代々暮らしていた土地ではありません。先にもふれましたが、満州は清朝によって長いこと封禁の地とされていたため、不法に入居して不法に土地を開墾した農民を除けば、中国人農民が入植したのは日本人移民がやってきた一世代前あたりです。

    それでも荒野を耕し、村を作ったのは中国人の農民です。日本人が来るまでは、幼い子供たちとともに平穏な暮らしをしていました。ところが武力を背景に無理やり田畑と住居を奪われたのです。

    中国人農民たちにとって昨日までの我が家に住み着き、彼らの田畑を耕す日本人移民は、憎悪の対象でしかありません。中国人農民は彼らの土地と家を取り戻すために、度々日本人移民を襲撃しました。

    清朝の歴史を振り返っても明らかなように、中国という国家に対して満州国の建国が一方的な侵略であったと断じることには疑問が残ります。しかし、満州に暮らす農民にとって、日本人が彼らの生活の基盤を根こそぎ奪ったことは、侵略以外のなにものでもなかったのです。

    現地に来てはじめて入植地が中国人農民から奪ったものだと知った開拓団の人々は、少なからぬショックに襲われました。されど武器を手に襲撃された以上は、家族の身を守るために戦うよりありません。多額の借金を抱えて満州に来た開拓団の人々には、もはや日本に帰る場所はありませんでした。満州での生活を成り立たせなければ、生きてはいけなかったのです。

    開拓団が最初に手にしたものは農機具や種子ではなく、銃と弾薬でした。こうして負の連鎖が始まりました。

    その3.満州の平和神話

    開拓団が入植した先々で、中国人農民と開拓団による武力闘争が繰り広げられました。いつからか日本人に逆らう中国人はすべて匪賊とみなされ、虐げられるようになりました。

    満州国が建国の際に掲げた「五族協和」の理念は、近代国家の建設時にはまだしも発揮されていたものの、農業政策においては完全に破綻(はたん)していました。

    それでも満州への移民は続けれました。若年層の徴兵や軍需産業への動員によって深刻な労働力不足に悩まされるなか、満州への移民を希望する農民の数は減少しましたが、500万人を目標に掲げた満州移民計画はそのまま維持され、市町村ごとに移民の戸数が割り当てられました。

    割り当てられた戸数を満州へ積極的に送ることを条件に市町村への補助金が交付されたため、地方公共団体ごとに村人を無理やり満州へと追いやる動きも見られました。戦後になって満州移民をすすめた過ちを悔い、自殺した市町村長や役人もいます。

    大東亜戦争末期になっても、なお満蒙開拓団は市町村によって送り出されました。その背景には、空襲を受ける本土の混乱とは打って変わり、満州には戦禍がまったく及んでいなかったことが影響しています。満蒙開拓団には徴兵の義務がなかったため、徴兵を逃れるために満州に渡る人々もいました。

    満州はなにがあっても平和であると、多くの人々が信じたのです。

    ところが終戦間際になると精鋭の大半が南方戦線に割かれたため、関東軍は戦線を維持することさえ危うくなり、18歳から45歳までの在満日本人男子約25万人に対して「根こそぎ動員」をかけました。

    満州事変
    図説 写真で見る満州全史』平塚柾緒著(河出書房新社) より引用

    男性が動員された後に残されたのは、写真のような子供たちや女性・老人ばかりだった。中国人に比べて日本人の子供たちの服装はきれいだった。そのことが余計に中国人の怒りを買った。

    昨日までは田畑を耕していた農民が関東軍に編入されてソ連と国境を接する前線に送られました。まともな武器さえ事欠く有り様で、竹槍や木銃で武装するよりなかった農民も多々います。

    そして、1945(昭和20)年8月9日未明、日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は精鋭157万以上の大軍をもって怒濤(どとう)の如く満州に押し寄せました。

    その4.開拓史上最大の悲劇

    満州事変
    朝日新聞 より引用
    ソ連の侵攻経路と旧満州国

    満州事変
    https://www.dhm.de/fileadmin/lemo/suche/search/SolrQueryProxy.php?q=Ostfront&h=80& より引用
    ソ連軍による満州侵攻

    ソ連の満州侵攻と関東軍劣勢の情報をつかんだ関東軍将校と日本人官僚、満鉄社員とその家族は、南部の安全地帯へといち早く避難しています。

    悲惨を極めたのは、取り残された開拓団の人々です。男は動員されており、残っていたのは子供と女性、老人ばかりです。

    関東軍はすでに敗れて退却し、ソ連の侵攻を食い止める者は誰もいません。ソ連兵は逃げ惑う開拓団の人々を無慈悲に虐殺していきました。白旗を揚げても攻撃はやむことなく、戦車は日本人の女性や子供をひき殺しました。

    満州事変
    選報日本 より引用
    目黒五百羅漢寺の本堂に掲げられている「葛根廟(かっこんびょう)事件邦人遭難の図」

    1945年8月14日、ソ連軍の満州侵略を受け、満州国興安総省の葛根廟に避難していた約千数百人(9割以上が婦女子)がソ連軍と遭遇した。浅野参事官は白旗を掲げたが、機関銃で射殺され、戦車による避難民ひき殺しが行われた。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。200名を超える児童を含む避難民1,000名以上が虐殺された。民間人を故意に狙った虐殺は明らかな国際法違反。こうしたソ連軍による虐殺は満州各地で起きた。▶関連リンク:葛根廟事件 wikipedia

    生き残った女性は陵辱され、略奪も横行しました。ソ連兵から逃げたのも束の間、次に襲いかかってきたのは中国人です。

    田畑と家を奪われた積年の恨みは、開拓団の人々に一斉に向けられました。虐殺と暴行、強姦と略奪のなかで、多くの開拓団の村では集団自決が相次ぎました。

    逃げても地獄でした。鉄道も爆破され、船もないなか、泥道を歩くしか逃げ出す術はありません。逃避行は人目に付かない夜に行われました。食糧は尽き、体力の劣る老人と子供から次々に倒れていきました。川に流されていった子供たちも大勢います。

    集団から離れ、逃げ遅れた日本人の運命は過酷でした。暴徒化した中国人に襲われ、荷物も着ている服も下着まですべて奪い取られました。やむなく麻袋に首と手を通す穴を空けて服代わりにした女性も数多くいました。麻袋さえ手に入れられない人は裸のままです。

    逃げる間に産気づく女性もいました。赤ん坊を育てたくても母親は食べるものを口にできないため、母乳はまったく出ません。赤ん坊の泣き声は、中国人に見つかる危険を高めます。

    子供が生まれると、赤ん坊は母親に見せることなく草むらに捨てることが、女性たちにとって暗黙の了解でした。暗闇にいつまでも響く産声に耳をふさぎながらも、前に進むよりありませんでした。

    我が子の命を助けたい一心で、心ある中国人夫婦に子供を預ける母親も多くいました。それが残留孤児です。敵国である日本人の子供を養育することは、中国人にとっても命がけの行為でした。

    のちにスパイ容疑で投獄された中国人養母もいます。拷問を受けながらも小さな命を守ろうと、日本人の息子の身をひたすら案じ、死んでいった養母もいました。文化大革命の最中に日本人の子供を育てた罪で拷問を受けた養父もいます。

    人間としての情愛が、民族の壁を越えることもあったのです。

    満州事変
    http://dametv2.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/70-ec38.html より引用
    逃避行を続ける開拓団を襲った寒さと飢え

    やっとの思いで収容所にたどり着いても、そこからまた生きるための戦いが始まりました。まともな食糧は配給されず、多くの日本人が餓死しました。

    ソ連は満州のすべてを略奪していきました。略奪は「工場のトタン屋根一枚、柱一本、ネジ一本にまで至った」と綴られています。収容所の建物の多くは略奪により、窓ガラスや畳がなく、廊下の板さえないほどでした。

    寒さと不衛生のなか、チフスなどの伝染病が流行り、多くの子供たちの命を奪いました。開拓団の人々は帰国までの間、飢えと寒さと病の三重苦に苛まれたのです。

    やがて収容所にソ連兵が押し寄せ、「男は全員外へ出ろ」と銃を向けました。家族と別れを惜しむ間もないまま多くの男性が連行され、そのままシベリアへと送られました。

    開拓団から動員されて関東軍に編入された人々も、捕虜となった後、その多くがシベリアに送られています。シベリア抑留は完全なる国際法違反です。57万5千人が極寒のなか強制労働に従事させられ、そのうち5万5千人が亡くなっています。

    戦地の日本兵の引き上げが始まっても、満州に取り残された民間人の引き上げはなかなか始まりませんでした。1946(昭和21)年、ソ連が撤退し国府軍が東北に進駐を開始することで、ようやく引き上げが始まっています。

    満州にいた155万人の民間人のうち、17万6千人が帰らぬ人となりました。そのうちの4割以上を開拓団の人々が占めています。

    終戦時、根こそぎ動員された4万7千人を除くと、開拓団の総人数は22万3千人とされています。そのうちの8万人が逃避行と収容所の暮らしのなかで命を落としました。

    満蒙開拓団は、世界の開拓史上最大の悲劇といわれています。満州国が滅び行くなかで、その大地に8万に及ぶ開拓団の人々の血が流れたのです。

    もし、2・26 事件で高橋是清蔵相が暗殺されていなければ、大規模な満州への移民は避けられたことでしょう。国策として満州への移民を推し進めた日本政府と、それに加担した地方自治体の責任は問われるべきです。

    こうして多くの日本人が満州に寄せた希望は、陽炎のようにはかなく絶ち消えたのです。

    ここまで満州事変から筆を起こし、満州について追いかけてきました。満州とは日本人にとって何であったのか、あなた自身で考えていたければ幸いです。

    ただひとつ指摘しておきたいことは、戦後の日本が短期間のうちに復興を遂げ、奇跡とも称される経済発展を成し遂げた背景として、満州国での経験の蓄積が大きな影響を及ぼしているという事実です。

    満州の地で官民が一体となって取り組んだ経済運営による成功体験は、戦後の日本においてより大規模に活かされ、世界第二位の経済大国にのし上がる原動力となりました。

    その意味では今日の日本の繁栄は、満州があったからこそもたらされたともいえるでしょう。

    満州には陰もあれば、光の射す部分もあります。陰ばかりを見つめても、光ばかりを見つめても、真実は見えてきません。

    織りなす陰影を見極めながら満州について思いを馳せることも、後世に残された私たちの義務なのかもしれません。

    満州事変については以上です。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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