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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1940年 日独伊三国同盟の功罪#38 欧米に頼らない生存圏をアジアに!大東亜共栄圏が掲げた理想

    #38 欧米に頼らない生存圏をアジアに!大東亜共栄圏が掲げた理想

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    (3/5)驚異的なナチスドイツの快進撃。合言葉は「バスに乗り遅れるな!」

    5.日本はなんのために戦ったのか

    5-1.三国同盟に託した日本の行く末

    ー 大東亜共栄圏の始まり ー

    大東亜戦争 三国同盟
    大東亜共栄圏:LONELY SOLDIER ~孤高の兵士~より引用
    1940年に大東亜共栄圏の範囲とされた地域、「大東亜共栄圏」はオーストラリアを含む広大なエリアを内包する構想だった

    この頃から「大東亜共栄圏」という言葉が登場するようになります。第二次近衛内閣が定めた「基本国策要綱」には、「大東亜新秩序」の建設が掲げられていました。「大東亜新秩序」をもっとわかりやすい言葉に置き換えたのが、「大東亜共栄圏」です。

    初めて公式に「大東亜共栄圏」という言葉を用いたのは松岡洋右外相です。1940(昭和15)年8月1日、政府の外交方針についての記者会見にて、松岡外相は次のように述べました。

    「我国現前の外交方針としてはこの皇道の大精神に則り、先ず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図るにあらねばなりませぬ。(中略)更に進んで我に同調する友邦と提携、不退転の勇猛心を以て、天より課せられたる我が民族の理想と使命の達成を期すべきものと堅く信じて疑わぬものであります」

    松岡が用いた「大東亜共栄圏」は、その後の日本の国是となっていきます。もっとも「大東亜共栄圏」という言葉を使ったのは松岡がはじめてでも、その構想自体は開国より日本が持ち続けてきた「汎アジア主義」として連綿と受け継がれてきたものです。

    関連リンク:2-2.国家の存亡をかけた日露戦争 – その5.アジアは一つ ー 日本を盟主とするアジア主義

    欧米列強の植民地となって苦しんでいる東亜から欧米列強を追い出し、アジアの民族がそれぞれの国を自ら統治できるように協力し合うことを目指す汎アジア主義は、明治・大正・昭和に渡って堅持されてきた日本の目指す理念です。

    汎アジア主義の発祥の地は日本ですが、その構想は孫文をはじめアジア各地の多くの独立革命家を魅了し、民族自決の願いとなってアジア全土を覆っていました。

    抽象的な理念に過ぎなかった汎アジア主義が「大東亜共栄圏」として、具体的にその姿を現したと言えるでしょう。

    実際に「大東亜共栄圏」という理想を実現できそうな国は、当時は日本のみでした。
    第二次大戦勃発時において、アジアで独立を保っていたのは日本・タイ・中国の3カ国のみです。そのなかで欧米に対抗できるだけの軍事力を持っている国は、日本だけでした。

    となれば、欧米列強の帝国主義からアジア人によるアジアを取り戻すためには、日本が盟主となって欧米列強に対抗するよりありません。大東亜共栄圏の実現は、日本の使命と考えられたのです。

    ー 大東亜共栄圏の理念とは ー

    大東亜共栄圏の理念の礎を築いたのは、陸軍の武藤章でした。武藤は今や世界は歴史的な「一大転換期」にあると考えました。世界が今、戦国乱世のような混迷した状況に陥っているのは、現状を維持しようとする国と現状を打破しようとする国が争っているからだと捉え、ここから新たな政治・経済・文化が生まれるのだと断じました。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:武藤章 より引用
    【 人物紹介 – 武藤章(むとう あきら) 】1892(明治25)年 – 1948(昭和23)年
    大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件では参謀本部作戦課長として拡大論を主張し、不拡大派の石原莞爾を中央から追った。中支方面軍参謀副長になり南京攻略を指導。のち参謀本部作戦課長となり、大東亜共栄圏の理念の礎を築いた。統制派の軍人として知られ、軍務局長となり東條英機の腹心として活動。

    対米開戦の回避に尽くした。開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條らと対立。太平洋戦争中はスマトラ・フィリピンで指揮をとる。終戦後、A 級戦犯として死刑。東京裁判で死刑判決を受けた軍人のなかで、中将の階級だったのは武藤だけだった。なぜ死刑となったのかについては諸説あり。

    そのような世界情勢のなか、大東亜生存圏を建設することこそが日本の使命だと武藤は言い切ります。ここでいう「生存圏」とは、ヒトラーがその著書『我が闘争』のなかで用いた言葉です。

    「生存圏」とは国家にとって生存(自給自足)のために必要な地域とされています。私たちが生きている現代から見ると、生存と自給自足がイコールで結ばれていることには違和感を感じます。

    その理由は今日では経済が国際化され、自由貿易を通して必要な資源を楽々と入手できるからです。ですが、第二次大戦が始まった頃の世界は、そうではありません。

    ブロック経済が端的に示すように大国の思惑一つで極端な保護貿易が行われ、資源を有しない国は国家の存亡にかかわるほどの不利益を被ったのです。このような世界にあっては、必要な資源は自らの力で確保しなければ国民の生存さえ危うくなります。

    それゆえに国家が自給自足を確保するために国境を拡張することは、国家の権利とされたのです。ここでの「拡張」は「侵略」と同義です。

    国家が発展するとともに、生存権も広がると考えられていました。

    ですから「大東亜生存圏」という言葉には、日本が自給自足を行えるだけの生存圏を東亜に築くという意味が込められています。

    ただし、日本が目指したものはナチスドイツがゲルマン民族だけの生存を目指していたこととは異なり、アジアに暮らす諸民族すべてにとっての生存圏でした。

    武藤は次のように述べています。

    「帝国の国策が日満支を枢軸とする大東亜生存圏の結成に指向せられ、挙国一体不動の決意を以て、是が遂行に邁進しつつある所以のものは……外国の圧迫の為めに奴隷的境遇に呻吟しつつあった東亜民族全体を解放し、之を日本を盟主とする一大家族的関係に導いて、有無相通じ緩急相救い、共存共栄以て大東亜の自力更生の実を挙げんとするに外ならない」
    (武藤「時局の展望と国防国家確立の急務に就て」)

    昭和陸軍全史』より引用

    欧米列強の植民地支配によって奴隷的境遇に苦しんでいる東亜の民族全体を解放し、日本を盟主として家族のように助け合い、大東亜の自力更正を実現しようと呼びかけています。

    東亜の解放は、武藤ばかりでなく日本国民の大半が共有する思いでした。植民地支配を通して東亜の諸民族が塗炭の苦しみに喘いでいる現状は、国民の多くが知るところでした。

    関連リンク:2- 11.アジアの植民地で白人は何をしたのか

    武藤は今こそ日本は大東亜生存圏の確立に向かって立ち上がるべきだと提言しました。東亜全体を白人帝国主義の侵略より救済する「聖戦」を、日本は遂行するのだと理論付けています。

    武藤の構想した「大東亜生存圏」は、言葉を換えて「大東亜共栄圏」にそのまま受け継がれました。

    すなわち「大東亜共栄圏」とは、大東亜を欧米列強の植民地から解放した後、東亜諸民族があたかも家族のように協力し合うことで、欧米に頼ることなく自給自足経済を実現しようとする構想です。いわば大東亜全体の独立自尊を目指した雄大な構想と言えるでしょう。

    大東亜共栄圏の範囲は、東アジアや東南アジアのみならず、東部シベリアやオーストラリア、インドを含むものと定義されています。

    ちなみに大東亜戦争の開戦後、白人の植民地を解放して建設する「東亜共栄圏」の範囲について、藤田元春第三高等学校教授は地理教育の授業において次のように教えるべきと説きました。

    「東経七十度以東換言すれば英領印度以東の熱帯アジア、パミール以東の中華、ウラル以東の厖大(ぼうだい)なシベリアから東経百八十度を東にこえて西経百五十度に達して布哇(ハワイ)を含み北は北極洋から南は南極洋に達する地域が即ち上述した共栄圏に入らざるを得ないのである。だから東亜共栄圏の陸地面積は到底欧羅巴(ヨーロッパ)位な狭いものではなく、アジアの八割と濠洲大陸を含み、海上に於ては太平洋の三分の二と印度洋をも併せ世界海面の二分の一にも達するのである。従って共栄圏の範囲を単に陸地についてのみ考へてはいけぬ。」

    「大東亜戦争」はなぜ起きたのか 汎アジア主義の政治経済史』松浦正孝著(名古屋大学出版会)より引用

    陸地のみを対象とすれば、その範囲はさほど大きくないと感じられますが、海洋を含めると太平洋の三分の二とインド洋が合わさるために世界の海面の二分の一にも達することが強調されています。

    汎アジア主義のうねりは大東亜共栄圏という大河へと合流し、これより大東亜戦争へ向けて奔流のごとく流れ込むことになります。

    その5.三国同盟の成立

    ー 日本とドイツのすれ違い ー

    ナチスドイツ軍の電撃的勝利は、日本国内に「今こそドイツと盟約を交わすべきだ」とする世論を作り上げました。ドイツがヨーロッパで、日本がアジアでともに新たな秩序を打ち立てるというプランは、日本国民を酔わせました。

    行き詰まった日中戦争は南進によって解決できるという雰囲気が日本中を覆い、「仏印取るべし、蘭印取るべし」のかけ声となったのです。

    一方、戦勝に沸くドイツでは、日本との同盟に関してまったく逆の状態を生じていました。快進撃前はドイツの方が日本との同盟に前向きでしたが、望外の勝利に自信を強めたドイツでは、もはや日本との同盟など必要ないとの空気がみなぎっていたのです。

    この頃は、かつての恋人に再び言い寄るけれども袖にされる、といった状態が続いていました。

    しかし、程なくドイツ側に再び日本との同盟を待望する声が沸き上がってきます。7月から始まったイギリス空軍との戦いにおいて、ドイツ空軍は思わぬ苦戦を強いられたからです。

    電光石火の侵攻によりオランダやフランスを降伏に追い込んだドイツ軍の勢いをもってすれば、イギリス上陸も成功するだろうと見られていました。ところがイギリスは瀬戸際で踏みとどまり、空軍同士が激しく争ったバトル・オブ・ブリテンにてドイツ空軍を撃退します。

    制空権を確保することに失敗したドイツは、イギリス上陸作戦を断念せざるを得ませんでした。ドイツ軍の失速はナチス内にアメリカを牽制する必要性を再び浮上させ、日本との同盟を支持することとなったのです。

    さらにドイツには、日本との同盟を急ぎたいもうひとつ別の狙いがありました。それがわかるのは後日のことです。

    同盟を組みたいという日本とドイツの思惑が一致したことで、交渉がもたれることになりました。ことに松岡外相は三国同盟に積極的でした。

    ー 三国同盟は日米不戦の保証なり ー

    大東亜戦争 三国同盟
    Twitter:ヒトラーと松岡洋右より引用
    日独伊三国同盟は松岡洋右によって推進された、後ろで手を上げているのはヒトラー

    1940(昭和15)年9月4日、近衛首相・松岡外相・東条陸相・豊田海相代理で行われた第二次近衛内閣初の四相会議にて、松岡は何の打ち合わせもなしに突如、機密原案を3名の手許に配布しました。

    日独伊三国同盟の議でした。ドイツとの同盟は第二次近衛内閣における基本的な国策ではあったものの、事態の進展があまりにも早いことに3相は驚きます。

    三国同盟が「米英との関係を悪化して容易ならぬ結果を来たすおそれはないか」との論もありましたが、松岡には頑とした信念がありました。「米国に対しては毅然たる態度を取ることが危機を防ぐ要訣(ようけつ)である」との信念です。

    こうした信念は13歳にてアメリカに渡り、苦学の末にオレゴン大学を卒業した松岡の経験に基づいています。

    アメリカ滞在中に度々人種差別にさらされていた松岡は「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる」といった信条をもつに至りました。

    アメリカをよく知っているはずの松岡が主張するだけに説得力がありました。毅然とした態度を貫くことが、アメリカに自省を促す唯一の途だと松岡は説きました。そして日本がドイツと盟約を交わすことこそが、アメリカに対する毅然とした態度の表明なのだと言い切ります。

    日本とドイツが軍事同盟を結べば、アメリカにとっては太平洋と大西洋の二方面から挟撃されることになります。そうなるとアメリカは日本と戦争を起こすことができなくなる、つまり日独伊三国同盟は日米不戦の保証になるのだと松岡は熱く語りました。

    この時期、三国同盟は陸軍が主導したわけではなく、あくまで文官の松岡外相によって主導されたものでした。

    実は陸軍内は東条が陸相に就任する際、第一次近衛・平沼・米内の三内閣において陸軍がドイツとの軍事同盟を強く主張するあまりに政局を混乱におとしめたことを反省する空気が広がっていました。そのため、世論が「バスに乗り遅れるな」と号令をかけている最中、陸軍はドイツとの軍事同盟については当分の間、沈黙を守ることで一致していました。

    そこへ松岡外相が軍事同盟を結ぶべきと主張したからには、もとより歓迎の意を示すのは当然です。東条は驚きながらも、松岡の提議に同意しました。

    松岡とドイツ特使スターマーとの会談は東京で進められ、あっという間に試案がまとめられると9月19日には条約文が完成し、御前会議が開かれています。

    四相会議で初めて同盟の議が出てから、わずか半月で最終段階といえる御前会議にまで上がるとは、誰一人予想できない速さでした。日本の運命を決定付ける重大案件が決議されるには、あまりにも急すぎる動きでした。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:ハインリヒ・ゲオルク・スターマー より引用
    【 人物紹介 – ハインリヒ・ゲオルク・スターマー 】1892年 – 1978年

    ドイツの外交官。第一次世界大戦の従軍で鉄十字勲章を受章。非公式な外交機関として設立されたリッベントロップ機関に加わり、日独防共協定締結に関わる。のち外相となったリッベントロップの側近として日独伊三国同盟の締結に関わり、特派公使として来日。オイゲン・オット駐日大使とともに親ドイツ派として知られた松岡洋右外相との交渉にあたった。

    のちドイツ敗戦まで駐日特命全権大使を務めた。戦後、アメリカ軍によって逮捕されるもドイツへ送還された後、釈放。

    ー 三国同盟の内容とは ー

    日独伊三国同盟は6項からなる明白な軍事同盟でした。その6項目とは以下の通りです。わかりやすくするために、現代語に置き換えて紹介します。

    1.日本はドイツ及びイタリアのヨーロッパにおける新秩序の建設に関し、指導的地位を認め、かつこれを尊重する
    2.ドイツ及びイタリアは日本の大東亜における新秩序の建設に関し、指導的地位を認め、かつこれを尊重する
    3.三条約国中いずれか一国が、現に欧州戦争または日中戦争に参入していない一国によって攻撃されたときは、三国はあらゆる政治的・経済的およぴ軍事的方法によって相互に援助すべきことを約する
    4.本条約実施のため遅滞なく混合委員会を開催すること
    5.前記諸条項は、三締約国の各々とソ連邦との間に現存する政治的状態に影響を及ぼさないことを確認する
    6.有効期間を十ヵ年とする

    条約からも明らかなように、ドイツ・イタリアによるヨーロッパでの新秩序の建設と日本による大東亜での新秩序の建設を、相互に認め合うとされています。

    先にも記した通り、アジアにある欧米列強の植民地にドイツが入れ替わりに入ることだけは避けたい日本にとって、第1項と2項は極めて重要な条文です。この条文によって日本が南進によってアジアから欧米列強を駆逐しても、ドイツとイタリアはそれを容認することになります。

    外交的に孤立していた日本にとって、ドイツとイタリアは心強い支援国でした。

    ー 海軍はなぜ同意したのか ー

    大東亜戦争 三国同盟
    昭和の選択 第1回 三国同盟 開かれた戦争への扉 日独伊三国同盟の誤算より引用
    三国同盟を推し進める松岡(外務省)と陸軍に対し海軍は反対を主張したが、条件付きでついに譲歩した

    第3項では「現に欧州戦争または日中戦争に参入していない一国」と遠回しの表現を使っていますが、その「一国」がアメリカを指していることは明らかです。

    独ソ不可侵条約の締結前に日本が三国同盟に踏み切れなかったのは、アメリカを三国同盟の対象に含めることに海軍が激しく抗ったからです。

    ドイツの快進撃という世界情勢の変化はあったものの、海軍の不安が取り払われたわけではありません。海軍が恐れたのはヨーロッパの戦争にアメリカが介入することでドイツとアメリカが開戦した際、軍事同盟に基づいて日本がアメリカに宣戦布告しなければならず、日米戦争に否応なく巻き込まれることでした。

    実際には日米の開戦が先に行われ、ドイツとイタリアが三国同盟によってアメリカに対して宣戦布告を行う(独伊には参戦の義務はなかった)という歴史的経過をたどりますが、当時はまさかそのような事態が起きるとは予想されていませんでした。

    ドイツとアメリカの戦争に日本が巻き込まれる心配はされたものの、その逆については初めから想定さえされていなかったのです。

    では、今回はなぜ海軍が三国同盟に反対しなかったのかと言えば、松岡とスターマーとの交渉の過程で、条約本文ではなく付属交換公文において「第三条の対象となる攻撃かどうかは、三国で協議して決定する」ことが決められたからです。

    「協議」とあるのはあくまで建前であり、その意味するところは「参戦の有無は各国が独自に判断できる」ということです。これにより、もしドイツとアメリカの間で戦争が起きても、日本が自動参戦することは避けられます。つまり第3項が空文化したことになるため、海軍としても強硬に意を唱える必要はなかったのです。

    「これ以上海軍が条約締結反対を唱え続けることは、もはや国内の情勢が許さない、ゆえに賛成する」と、及川海相は消極的ながらも三国同盟に同意しました。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:及川古志郎 より引用
    【 人物紹介 – 及川古志郎(おいかわ こしろう) 】1883(明治16)年 – 1958(昭和33)年

    大正・昭和期の海軍軍人。最終階級は海軍大将。日露戦争に「千代田」乗組で参戦。各艦の艦長を歴任後、海軍兵学校長・航空本部長などを経て第2次近衛文麿内閣の海相となり、三国同盟条約締結に踏み切った。対英米開戦の路線を進めた後、辞任。

    大戦中は軍令部総長としてレイテ沖海戦などを敢行したが、戦況を好転するには至らなかった。軍令部総長時代に神風特攻隊による攻撃が始まっている。戦後、公職追放となるも後に解除。75歳にて病没。

    海軍首脳会議において山本五十六連合艦隊司令長官は「条約が成立すれば米国と衝突するかもしれない。現状では航空兵力が不足し、陸上攻撃機を二倍にしなければならない」と発言することで三国同盟に反対の意を示したものの、すでに海軍の大勢は決していました。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:山本五十六 より引用
    【 人物紹介 – 山本五十六(やまもと いそろく) 】1884(明治17)年 – 1943(昭和18)年

    明治-昭和時代前期の軍人。最終階級は元帥海軍大将。日露戦争に従軍し日本海海戦で戦傷を負う。海軍大学卒業後、アメリカに留学。ハーバード大で学ぶ。のちアメリカ駐在大使館付き武官を長く務め、ロンドン軍縮会議の随員でもあったことから海外の事情によく通じていた。いち早く航空機の将来性に着目し、帰国後は海軍航空本部技術部長となり、部品の国産化・海外新技術の吸収など航空工業の再編に尽力。

    海軍航空本部長となってからは航空兵力を主体とした対米迎撃戦を構想し、攻撃力に重点を置いた航空機開発、部隊編制に努めた。のち海軍次官として日独伊三国同盟に反対、対米戦にも作戦的見地から勝算なしと反対した。 平沼内閣の総辞職に伴って中央を離れ、連合艦隊司令長官に就任。大戦が始まると自ら立案したハワイ・真珠湾攻撃の指揮をとり、成功に導いた。続いてミッドウェー海戦の指揮をとるも大敗を喫し、戦局の逆転を招く。のち前線視察中に米軍機に待ち伏せ攻撃され、南太平洋ブーゲンビル島上空で搭乗機が撃墜され戦死。

    人心掌握の心得を示した「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」の言葉は有名。山本の死は1ヶ月秘匿された後に公表され、国葬に付された。皇族・華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前戦中唯一の例。

    同盟締結の奏上を受けた昭和天皇は「今しばらく独ソの関係をみきわめた上で締結しても遅くないのではないか」と危惧を表明したと伝えられています。

    歴史を振り返ってみたとき、昭和天皇のひと言は当時の日本にとっての最善手であったことがわかります。日本がもうしばらく様子見に徹していたならば、三国同盟を結ばない選択を下した可能性が高いからです。このことについては、後に詳しく紹介します。

    ー 世界史転換の夜と西園寺の予言 ー

    大東亜戦争 三国同盟
    検証・戦争責任:読売新聞より引用
    ベルリンでの三国同盟調印式、ついに三国同盟は締結された

    陸海軍の思惑が一致するなか、9月19日の御前会議にて多少の慎重論は出たものの、三国同盟の締結は正式に決定されました。

    その一週間後の9月27日、ベルリンにて三国同盟が調印され、三国の軍事同盟が即日、その効力を発生することとなりました。

    日本国民のほとんどは三国同盟の締結を支持しました。三国同盟締結の感動を、朝日新聞は次のように伝えています。

    「『天皇陛下万歳……』『ヒトラー総統万歳!』『イタリア皇帝万歳!ムッソリ-二首相万歳!』−降る様な星月夜、露もしめやかに落ちる麹町区三年町の外相官邸には感激の声がこだました二十七日の夜であった。三国同盟締結の夜である。まさしく歴史に残るこの夜の情景ーー決意を眉宇に浮べて幾度か万歳を唱へて誓ひの盃をあげる日独伊三国の世界史を創る人々、紅潮する松岡外相の頬、高く右手をあげて『ニッポン!ニッポン……』と叫ぶオット独大使、大きな掌で固い握手をして廻るインデルリ伊大使、条約の裏に”密使〃として滞京中のスターマ独公使がけふは覆面を脱いでにこやかに盃を乾す。”世界史転換”の夜の感動であった−−−」

    大東亜戦争 三国同盟
    日独伊三国同盟成立:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(154-139)より引用
    「日独伊三国同盟成立 大詔を渙発あらせらる 昨日、ベルリンで条約調印」大阪朝日新聞 1940.9.28 (昭和15)の紙面

    一方、朝日新聞が主張する世界史転換に沸き返る夜にあって、三国同盟の締結を大いに嘆いた人物がいます。最後の元老、西園寺公望です。

    西園寺は三国同盟締結の報せを聞くと、「これで日本は滅びるだろう。これでお前達は畳の上で死ねないことになった。その覚悟を今からしておけ」と憤ったと伝えられています。

    西園寺の言は、的を得ていたと言えるでしょう。近衛や東条がこれからたどる過酷な運命を、西園寺の言葉はあたかも予言のごとく、見事に言い当てていたのです。

    その6.なぜ三国同盟を結んだのか

    ー 真意は四国同盟にあり ー

    大東亜戦争 三国同盟
    https://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/63784805.htmlより引用
    日本の真の狙いは日ソ独伊による四国連合構想(地図上の赤いエリア)にあった、四国連合が実現すればその国力は英米をも凌駕した

    それにしても、当時の激動する世界情勢のなかにあって、日本はなぜ三国同盟に踏み切ったのでしょうか?

    ドイツの快進撃に幻惑された面は強いものの、一時の勢いだけに国家の興亡を委ねるのでは、あまりにも浅薄(せんぱく)過ぎます。もちろん松岡にしても、そのように軽率に三国同盟に走ったわけではありません。

    松岡が三国同盟を急いだ真意は、腹心の斎藤外務顧問に漏らした次の言葉に集約されています。

    「僕の握手しようとする当座の真の相手は、ドイツでなくしてソ連である。ドイツとの握手は、ソ連との握手のための方便にすぎない。それならば、はじめからソ連と手を握ったらよいというかも知れぬが、今日の日、ソ両国の関係は、それを許さない。幸いにして独、ソ両国は、独ソ不可侵条約締結以来、きわめて良好な間柄であるから、ドイツの仲介によって日ソ関係を調整しうる見込みがある。独ソを味方につければ、いかな米、英も、日本との開戦を考えようはずがない」

    欺かれた歴史 松岡洋右と三国同盟の裏面』斎藤良衛著(中央公論新社)より引用

    つまり松岡が真に目指したのは、日独伊の三国にソ連を加えた四国同盟でした。三国同盟はあくまで、四国同盟に至るまでの腰掛けに過ぎなかったのです。

    ー 当時のパワーバランスから見えてくるもの ー

    このあたりの事情を理解するためには、当時のパワーバランスを知る必要があります。下の図は第二次大戦勃発時の各国の軍事力を表した図表です。

    大東亜戦争 三国同盟
    それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子著(新潮社)より引用

    これらのパワーバランスのなかで、第二次大戦の中心となったのは「戦闘機」です。制空権の確保は、戦場での勝利に直結していました。

    日独伊の3カ国の航空戦力は連合国を圧倒しています。もっとも三国同盟を組んだからと言って、この時点で連合国と独伊の間で始まっていた欧州大戦に日本が巻き込まれたわけではありません。ですから、日独伊の併せた戦力と連合国の戦力を比べても、あまり意味はありません。

    問題はアメリカとソ連の動向でした。海軍ではアメリカ、陸軍ではソ連の軍事力がずば抜けています。欧州大戦について米ソ両国は中立を保っていますが、米ソのどちらかの国が連合国側、もしくは三国同盟側に加担するとなると、連合国と三国同盟国の軍事バランスは大きく崩れることになります。

    ただし、アメリカが三国同盟側につくことは、当時の状況からしてあり得ないことでした。注目されたのはアメリカが中立を守り通すのか、それとも連合国側として参戦するのかどうかです。

    こうしたパワーバランスを考慮すると、ソ連の動きが今後の世界情勢に大きな影響力をもっていることがわかります。

    これまで指摘してきたように、当時の日本はアメリカの動きを牽制する必要に迫られていました。

    では、当時のパワーバランスを参考にして、アメリカを牽制するために最も有力な手段は何だと思いますか?

    多くの人が、同じ答えにたどり着くはずです。その答えは、ソ連を抱き込んで四国同盟を結ぶことです。いかに強大な軍事力を擁するアメリカといえども、四国相手に安易に戦争を起こすことはできません。

    四国の軍事力は、連合国にアメリカを加えた軍事力よりも勝るからです。

    松岡が構想したのも、こうしたパワーバランスに基づいた四国同盟でした。だからと言って松岡は、日独伊ソの四国と連合国とで戦争を始めようとしていたわけではありません。

    ー 世界平和の樹立のために ー

    松岡は四国同盟が成れば、連合国側と四国同盟側とで睨み合いが相当長く続くものと見ていました。パワーバランスがほぼ拮抗すれば戦争にならないとする論は、古くからあります。

    松岡は述べています。

    「そこににらみあいの相当期間の継続が見込まれる。その間にあってわれわれは、ソ連といっしょにドイツとイギリス、アメリカに働きかけ、戦争に終止符をつけ得る可能性がある」

    欺かれた歴史 松岡洋右と三国同盟の裏面 』斎藤良衛著(中央公論新社)より引用

    つまり松岡は戦争を起こすために四国同盟を結ぶのではなく、戦争を終わらせるためにこそ四国同盟を結ぶ必要があると考えていたのです。

    そもそも四国同盟が成立すれば、アメリカの欧州大戦への参戦を防げるとの読みもありました。アメリカの参戦がなければ、欧州大戦が世界大戦へと発展することも防止できます。

    四国同盟によって日中戦争を終わらせ、欧州大戦も終わらせ、世界大戦に至ることなく世界平和を樹立するといった大風呂敷を松岡は広げました。

    問題はソ連をいかにして四国同盟に取り込むかにありました。

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    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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