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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1940年 日独伊三国同盟の功罪#39 消えたソ連との四国同盟。自ら自滅に導いたヒトラーのその決断

    #39 消えたソ連との四国同盟。自ら自滅に導いたヒトラーのその決断

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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    (4/5)欧米に頼らない生存圏をアジアに!大東亜共栄圏が掲げた理想

    5.日本はなんのために戦ったのか

    5-1.三国同盟に託した日本の行く末

    ー 四国同盟に向けたドイツからの誘い ー

    三国同盟にソ連を加えて四国同盟とすることは、日本とドイツ双方からの要望でもありました。

    ドイツのリッベントロップ外相はかねてより、ソ連と提携してイギリスに対抗するユーラシア大同盟構想をもっていました。そのため、日本側が主張する四国同盟については前向きな姿勢を見せています。

    三国同盟について松岡と交渉をした際にスターマーは、次のように述べています。

    「先ず日独伊三国間の約定を成立せしめ、然る後、直ちにソ連に接近するに如かず。日ソ親善に付きドイツは正直なる仲買人たるの用意あり。而して両国接近の途上に超ゆべからざる障害ありとは覚えず。従ってさしたる困難なく解決し得べきかと思料す。英国側の宣伝に反し独ソ関係は良好にしてソ連はドイツとの約束を満足に履行しつつあり」

    増補 日独伊三国同盟と日米関係 太平洋戦争前国際関係の研究』義井博著(南窓社)より引用

    まずは日独伊三国同盟を結び、そのあとソ連と同盟を組めるようにドイツが支援すると約束しています。独ソ関係は良好だからソ連との同盟はけして難しくはないとの誘いは魅惑的でした。スターマーの言葉に松岡が歓喜したことは、想像に難くありません。

    海軍が三国同盟に同意した背景にも、実はスターマーのこの言が大きく影響しています。海軍は三国同盟締結に当たり、2つの条件を出していました。ひとつは先に説明した通り自動参戦は認めないこと、もうひとつはソ連を加えた四国同盟を組むことでした。四国同盟の見通しが明るくなったことで、海軍はゴーサインを出したのです。

    つまるところ、日本が三国同盟を締結したのは、その先にあるソ連を含めた四国同盟を前提としていたことがわかります。

    実は三国同盟には松岡とオット独駐日大使の秘密交換文書にて、三国とソ連との関係を親善化するよう努力する諒解が付帯していたのです。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:オイゲン・オット より引用
    【 人物紹介 – オイゲン・オット 】1889年 ‐ 1977年

    ドイツの軍人・外交官。駐日ドイツ大使館付き武官となり、日独防共協定締結に尽力。のち日本駐在特別全権大使となり、日独伊三国同盟成立の推進者となる。ゾルゲのスパイ活動発覚により、ゾルゲを顧問とした責任を問われ駐日大使を解任された。戦後は戦犯に問われることもなく、隠棲して長い余生を送る。

    ー 失敗に終わったソ連との交渉 ー

    大東亜戦争 三国同盟
    モロトフ hashtag on Twitterより引用
    ソ連は四国連合に前向きだったが過大な要求を突きつけたことがヒトラーの不興を買い、四国連合構想は頓挫した、前列左から二人目がモロトフ、その右がスターリン

    ドイツは日本との約束に基づき、ソ連に対してモロトフ外相のベルリン訪問を要請しました。11月12日と13日の2日間、リッベントロップとモロトフ両外相の間で4回にわたる独ソ会談がもたれ、ドイツより四国同盟の提案が為されました。いわゆるリッベントロップ腹案です。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:ヴャチェスラフ・モロトフ より引用
    【 人物紹介 – ヴャチェスラフ・モロトフ 】1890年 – 1986年

    ソ連の政治家・革命家。スターリンが共産党書記長に就任すると、党内闘争においてスターリン派に属し、スターリンの政敵排除に大きな役割を果たした。のち人民委員会議議長(首相)に就任し、以降11年間にわたってその座を占め続けた。外相も兼任し、いわゆるモロトフ外交を十年にわたって展開した。その間、独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)を締結し世界中を驚愕させる。

    ソ連空軍がフィンランドの市街地を空爆した祭、フィンランド政府が抗議をすると「ソ連機は(民間人を攻撃しているのではなく)空からパンを投下しているのだ」と発言した。フィンランド人はこれを皮肉って、焼夷弾のことを「モロトフのパン籠」と呼ぶようになった。フィンランド戦には勝利したが、小国フィンランド相手に多大な損害を出し苦戦したことでソ連の威信は大いに傷つき、一方的な侵略と見なされたことで国際連盟からも追放された。

    戦時中から戦後にかけてアメリカ・イギリスを相手にしたたかな外交交渉を展開し、スターリンとともにソ連の国益を十二分に実現し、冷戦期の共産圏の基礎を作った。戦後はスターリンに警戒され、妻が粛清され収容所送りとなる。スターリンの死後、外相に復帰するもフルシチョフと対立し失脚。不遇の晩年を過ごした後に復権を果たし、96歳にて死去。

    その主要な条文は以下の通りです。
    1.ソ連は三国同盟の目的に同調し、政治的に三国と協力して、目的達成のために努力する決意のあることを宣言する
    2.四国中の一国に敵対して結成された他の諸国間の結合協定には参加せず、かつ、これを支持しない

    その内容は四国の軍事同盟と呼ぶには、あまりにも弱いものでした。これでは日独伊の三国同盟にソ連が加わるのではなく、三国同盟の外からソ連は政治的な同調者として協力するのみに留まっています。

    リッベントロップ腹案は日本が期待するような四国同盟ではありませんでした。日本側には失望が広がるばかりです。

    さらに条約の他に秘密議定書が交わされていました。四国が目指す世界新秩序における各国の勢力範囲についての取り決めです。それによるとドイツは中部アフリカ、イタリアは北部および東北部アフリカ、ソ連は南方インド洋方面を勢力圏とすることが定められていました。日本の勢力範囲とされたのは東南アジアです。

    リッベントロップ腹案に対し、ソ連から11月25日に回答が寄せられました。ソ連はいくつかの条件を掲げ、それらの条件に同意するのであればリッベントロップ腹案を受諾する用意があると伝えてきたのです。

    条件は思いの外、厳しいものでした。ドイツ軍にはフィンランドからの即時撤退やペルシア湾に至る全地域をソ連の勢力圏に含めることなどを求め、日本に対しては北樺太における石炭石油採掘権の放棄を要求してきました。

    条件は厳しいものの、スターリンが条約締結に前向きなことは明らかでした。日本政府はソ連の条件を呑むことを受諾し、四国同盟の成立を待ちました。

    ところが一人の人物が、あともう少しで成立しかかっていた四国同盟を白紙に戻してしまいます。その人物とは、アドルフ・ヒトラーです。

    ヒトラーはソ連の過大な要求に不信感を強め、四国同盟に向けての交渉を完全に閉ざしてしまいました。ヒトラーが真剣に四国同盟を望んでいたのであればソ連との交渉の余地はまだ十分に残されていただけに、残念な結果と言えるでしょう。

    リッベントロップ外相や日本政府が要望して止まなかったソ連との四国同盟は、ヒトラーによって永遠に葬り去られたのです。

    ヒトラーのその決断は、自らの滅亡とナチスドイツの敗戦を導くことになります。

    ー 日ソ国交調整も果たせず ー

    日本にとっての理想は軍事的な四国同盟の締結ですが、それが無理であれば次善の策は日ソの国交調整です。その橋渡しをドイツ側が請け負ってくれる約束してくれたからこそ、三国同盟を結んだのです。

    しかし、日本側の期待に反してドイツは動こうとしませんでした。バルカンを巡ってドイツとソ連で利害が衝突し、両国の仲は次第に険悪なものへと移りつつあったからです。

    もっともバルカンでのドイツの動きは三国同盟締結以前に決定されていたものであり、ドイツ側としては日ソの国交調整を仲介できる見込みなどないことを予め自覚していたものと考えられます。

    松岡は「他国を利用するに長じ、自国を他国に利用されることを欲しないヒトラーの本性は、はじめからこちらの計算に入れてかからなければならぬ」と警戒していたものの、結果的にはヒトラーの掌の上で踊らされる羽目に陥ったと言えそうです。

    後日、ドイツから日ソ国交調整を断られ、日本側のもくろみはすべて水泡に帰すことになりました。

    ソ連を招き入れた四国同盟に失敗し、日ソ国交調整さえ仲介できなくなったドイツとの同盟は、日本にとって早くも無益有害なものになり果てていたのです。

    その7.日本はなぜ間違えたのか

    大東亜戦争 三国同盟
    日独伊三国軍事同盟で日本はどうすべきだったのか? @ [世界史板]より引用
    三国同盟は大東亜戦争へと至る大きなターニングポイントだった

    これまで見てきたように、三国同盟の締結は日本にとって劇薬を飲み込むようなものでした。もちろん、初めから劇薬と知って飲んだわけではありません。

    良薬と信じて飲み込んではみたものの後から劇薬であったことがわかり、苦しむことになったのです。

    アメリカを牽制するための国防の礎として三国同盟に期待した日本ですが、かつての日英同盟に比べると、はるかに実りの少ない条約でした。ともに皇室を戴(いただ)く日本とイギリスとは国体の面からも共通項がありました。

    しかし、ファシズムが確立したドイツと軍部が台頭していたとはいえ民主主義が守られていた日本とでは、国体に大きな違いがあります。文化や伝統の面においても、まったくと言ってよいほど共通項は見当たりません。

    かといって国境が接するわけでもなく、軍事同盟ではあるものの、いざというときに連携できるかどうかは大いに疑問です。日英同盟ではイギリスが強力な海軍を擁していたため海軍同士の連携が期待できましたが、ドイツは陸軍は強いものの海軍力には劣り、地理的な隔たりを埋めることは困難です。

    そうした事情はドイツ側から眺めれば逆転します。イギリス上陸に苦戦していたドイツは、将来的に日本海軍に助力を頼もうとしていた節が、交渉段階から透けて見えてきます。

    日本の真珠湾攻撃により、欧州大戦が第二次世界大戦へと発展した後も、日独伊三国の連携は形ばかりでした。連合国側はルーズベルトとチャーチル、後にはスターリンも加わった首脳会談が再三行われ、政治的にも軍事的にも連携をとっていましたが、日独伊の首脳はついに一度も直接会うことさえありませんでした。作戦や戦略の打ち合わせも、行われていません。

    つまり三国同盟は、実際には軍事同盟としての体を為さなかったと言えるでしょう。

    そもそも日本が三国同盟に期待したのは、外交的に孤立していた日本がドイツという一大強国と手を結ぶことでヨーロッパとアジアでそれぞれ新たな秩序を築き、アメリカの動きを牽制することでした。

    その意味では日本は三国同盟に軍事同盟としてよりも、外交の一手段としての役割を課していたと言えます。

    ただし、ソ連を抜かした三国同盟では強大な経済力と軍事力を擁するアメリカの国力を上回ることができないだけに、アメリカを牽制するには役不足でした。

    事実、ソ連が日独伊に接近していた間の三国同盟はアメリカにとって脅威であり、アメリカの動きを牽制しました。

    しかし、ソ連が米英側に組するとはっきりしてしまうと、三国同盟はアメリカにとって恐れるに足らないものになり果ててしまったのです。

    破竹の勢いでヨーロッパを侵略するドイツの勢いに幻惑され、その国力を過大評価したのが、そもそもの間違いでした。

    結局のところ、歴史の教訓が教える日本の最大のミスは「バスに乗り遅れるな」と急いでバスに飛び乗る前に、バスの行き先を確かめなかったことにあると言えるでしょう。

    三国同盟締結の前提となったのは、強いドイツがこの先も続き、大戦にドイツが勝利を収めることでした。そのためにはドイツの経済力や軍事力を正確に推し量る情報収集が必要です。

    日本も当然ながらドイツにおいて情報収集活動を始めていました。急がれたのは、ドイツにイギリス上陸を果たすだけの能力があるかどうかです。

    7月から始まったイギリス空軍とドイツ空軍との戦いではドイツ軍が苦戦していただけに、正確な情報収集が求められました。ドイツ軍によるイギリス上陸が果たせずに終わるとなると、イギリスの国力が温存されることになり、日本の描いた南進政策自体の修正が迫られます。

    そうなると三国同盟を結ぶ価値は大幅に下落することになります。

    大東亜戦争 三国同盟
    Media Tweets by 虎落録:twitterより引用
    当時の国際情勢から見てやむを得なかったこととはいえ、三国同盟は結果的に日本を破滅へと導くことになった

    ところがドイツの日本大使館員らが中心となって情報収集をしていた際、駐独大使の大島はこれを職権により中止させました。その理由は「信義を損なう」からでした。

    同盟は一国の命運を左右する大事です。同盟を結ぼうとする相手国のことを調べ上げるのは当然であるにもかかわらず、それを武士道精神にそぐわないとして中止に追い込んだことは、日本の国益を大きく損なうことになりました。

    武士道精神にこだわるあまりに大局を誤るという事例は、この時期に重なります。

    信義を重んじる日本の武士道精神は、互いの国益が激しくせめぎ合い、信義のかけらさえ落ちていない国際社会のなかにあって、翻弄(ほんろう)されるばかりでした。

    行き先さえも定かでないまま三国同盟というバスに乗り遅れるなとばかりに飛び乗ったことにより、日本は奈落への道を突き進むことになります。

    それでも三国同盟が直ちに日米開戦につながったわけではありません。三国同盟を結んだ後、仏印への進駐により南進に踏み切ったことがアメリカによる経済制裁を呼び、日本を徐々に追い詰めていくことになるのです。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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