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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1940年 日独伊三国同盟の功罪#36 ユダヤ人を救え!6千人を救った杉原千畝の『命のビザ』

    #36 ユダヤ人を救え!6千人を救った杉原千畝の『命のビザ』

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    (1/5)なぜ日本はナチスドイツに並ぶ悪の帝国と見なされたのか?

    5.日本はなんのために戦ったのか

    5-1.三国同盟に託した日本の行く末

    ー 杉原千畝の「命のビザ」 ー

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:The Holocaustsより引用
    1943年5月のワルシャワゲット ー 暴動の間にドイツ人によって捕らえられたポーランドのユダヤ人、ナチス・ドイツによって多くのユダヤ人が児童に至るまで虐殺された。ドイツ側の資料によると250万人のユダヤ人が殺害されたとされる。

    三国同盟の記述からは少々はずれますが、先にふれた「日本人によるユダヤ人救出活動」については知らない方も多いようです。日本がユダヤ人虐殺に与しなかった一つの証左として、ここで軽く紹介しておきます。

    日本人によるユダヤ人の救出は数多く行われていますが、ことに有名なのはリトアニアの領事館にて大量のピザを発給し、およそ六千人のユダヤ人を救った杉原千畝です。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:杉原千畝 より引用
    【 人物紹介 – 杉原千畝(すぎはら ちうね) 】 1900(明治33)年 – 1986(昭和61)年

    昭和時代の外交官。早稲田大学を中退後、外務省留学生としてハルビンに留学、のち外交官となる。リトアニアの首都だったカウナスの領事館領事代理としてユダヤ人の難民に日本通過のビザを独断で発給し、2139家族の命を救ったことで知られる。

    領事館封鎖後はチェコスロバキア・ソ連・ルーマニアの在外公館に赴任。赴任先でもユダヤ人に「命のビザ」を発給したとされる。日本降伏後、ブカレストの捕虜収容所に収監された後に帰国を果たすが、独断で査証を発給した責任をとらされ外務省を退官。退官後は商社などに勤務したが、旧外務省関係者からは悪意のある中傷を受けるなど不遇の晩年を送った。

    1969年イスラエルの宗教大臣から勲章を、1985年イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を授与され「日本のシンドラー」として世界的に名声を得た。没後、1991年になり、外務省により名誉回復がなされた。2015年には『杉原千畝 スギハラチウネ』が映画化されている。

    1940年7月、リトアニアはソ連軍の占領下にありました。リトアニアにはナチス・ドイツ占領下のポーランドなどから逃亡してきたユダヤ人難民があふれていました。ユダヤ人難民たちはさらに安全な国に逃れるためにビザの発給を待ち、各国の領事館に押し寄せていたのです。

    しかし、各国の領事館はさまざまな事情からユダヤ人救出に非協力的でした。難民の受け入れが簡単でないことは、現在のヨーロッパ各国を見ても明らかです。ましてユダヤ人問題の根は深く、ユダヤ人迫害の歴史は程度の差こそあれ、ドイツ以外の欧州各国やソ連でも繰り返されてきました。

    その点、ユダヤ人との接点が少なく、キリスト教も広がっていない日本には、ユダヤ人を差別する発想そのものがありません。1938(昭和13)年12月6日の五相会議において日本では、「猶太(ユダヤ)人対策要綱」が決定されています。

    ナチス・ドイツをはじめとするユダヤ人に対する極端な排斥について、日本が長年に渡って主張してきた人種平等にはそぐわないため、日本・満州・中国のユダヤ人については「特別に排斥するが如き処置に出づることなし」と定めています。

    この「猶太人対策要綱」を提案したのは、当時の陸軍大臣を務めていた板垣征四郎でした。

    大東亜戦争 三国同盟
    ウィキペディア より引用
    【 人物紹介 – 板垣征四郎(いたがき せいしろう) 】 1885(明治18)年 – 1948(昭和23)年

    陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行。のちに関東軍総参謀長となり、華北分離工作を推進した。大東亜戦争においては第7方面軍司令官として終戦を迎えた。戦後は東京裁判にてA級戦犯とされ、死刑判決を受け絞首刑となった。

    とはいえ、日本全体が一丸となってユダヤ人の救出に動いたわけではありません。前述のごとく、ナチスが民族浄化を狙い、ユダヤ民族の抹殺に着手していると世界が気づいたのは1942年に入ってからのことです。

    リトアニアのユダヤ人難民の窮状を千原がいくら本省に訴えようとも、日本の外務省との温度差は埋めようもなく、ビザの発給に当たっては事務的な手続きを優先するようにと繰り返すばかりでした。

    ユダヤ人であるかどうかに関係なく、ビザの発給条件として日本を経由して行くべき国が決まっていること、渡航や日本滞在に当たって十分な資金をもっていることが要求されました。

    しかし、ナチスの迫害を逃れ裸同然で逃げてきた大半のユダヤ人難民にとって、その条件を満たすことはできません。本来であれば、ビザが発給されることはあり得ないことでした。

    それでも人道的見地からユダヤ人難民を見殺しにすることはできず、千原は本省の指示に背き、明らかに条件にそぐわない際にも独断でビザを発給したのです。

    杉原の発給したビザは『命のビザ』と呼ばれました。そのビザによって日本を経由してアメリカなどに逃れ、命を救われたユダヤ人は6千人に上るとされています。

    大東亜戦争 三国同盟
    Righteous Among the Nations: Chiune (Sempo) Sugiharaより引用
    難民たちにビザを発給する杉原千畝

    まもなくソ連政府の圧力によってリトアニアの各国領事館が次々と閉鎖に追い込まれるなか、千原のいたカウナス領事館も閉鎖され、本省からはベルリンへの移動命令が下されました。

    千原はそれでもユダヤ難民の救出をあきらめませんでした。領事館の閉鎖によりビザを発給できなくなると、ホテルから仮通過証を発行し、ビザの代わりとしました。いよいよベルリンへ旅立つために駅へ向かう車に乗り込んだ際も、クルマを取り囲むように押し寄せる難民たちのために、仮通過証を発行し続けたのです。

    こうして千原の英断によって多くのユダヤ人の命が救われました。一方、命のビザを受け取れなかった多くのユダヤ人難民は、その後の独ソ戦によってリトアニアがナチス・ドイツに占領されると組織的なユダヤ人迫害に巻き込まれ、移動殺戮部隊に襲われたりアウシュビッツなどの強制収容所に送られ、命を落としたのです。

    今日、千原の名は世界的に知られ英雄視されています。しかし、千原がビザを発行しても、それだけでユダヤ人難民が救われたわけではありません。実際にユダヤ人難民を移送するだけでも大変な難事業でした。

    命からがら逃げてきたユダヤ人難民の多くはパスポートさえ持っていなかったのです。ビザを手にしたユダヤ人難民はシベリヤ鉄道を経由してウラジオストクへ逃れ、そこからフェリーで福井県敦賀に向かいました。そのなかには鉄道やフェリーの代金さえ払えない難民も、当然ながら混じっています。

    難民を救出するために、東亜旅行社(現在のJTB) や日本郵船の職員、敦賀や神戸の人々などが尽力した結果として、ユダヤ難民は無事移送され、救われたのです。

    千原の「命のビザ」を支えたのは、多くの日本人の無償の善意であることを記憶に留めておきたいものです。

    千原以外にもスウェーデン駐在陸軍武官の小野寺信少将など多くの日本人が、ユダヤ人救出に動いています。1940年から41年にかけて、ウラジオストクから日本を経由して世界各地に逃れたユダヤ人はおよそ1万5千人を数えると言われています。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:小野寺信 より引用
    【 人物紹介 – 小野寺信(おのでら まこと) 】 1897(明治30)年 – 1987(昭和62)年

    陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。諜報活動に従事し、連合国からは「欧州における枢軸側諜報網の機関長」と恐れられた。陸軍の諜報機関とユダヤ人救出活動には密接な関係性があった。杉原千畝に対し、本省の命令に背いてユダヤ人にビザの発給を勧めたとされる。のちスウェーデン公使館附武官となり、ユダヤ人の救出活動を行った。

    独ソ開戦の情報や独ソ戦でドイツが不利なこと等々の適確な情報を日本に伝達し、「日米開戦不可ナリ」と何度も訴えたが大本営は小野寺情報を信用しなかった。1945年のヤルタ会談後に情報をつかみ、「ドイツ降伏から3ヵ月後にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦を行なう」との極秘情報を日本に送った。

    しかし、親ソ派によって握りつぶされ、情報が活かされることはなかった。戦後、戦争犯罪人として巣鴨プリズンに拘留された後、釈放。戦後は妻・百合子と共にスウェーデン語の翻訳業に従事した。なお百合子は児童文学『ムーミン』の翻訳者として知られている。

    ー 満州国が助けたユダヤ人難民 ー

    大東亜戦争 三国同盟
    歴史捏造の検証:リトアニア領事官杉原のユダヤ難民救助ビザより引用
    オトポールと満州国の地図

    上記ルートとは別に、満州国を経由しておよそ2万人のユダヤ人が救出されています。

    1938(昭和13)年2月、ナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ人難民がシベリア鉄道を経て満州国に近いソ連領オトポールに到着しました。ソ連は難民の受け入れを拒否し、満州国でも当初は門を閉ざしていたため、難民たちは行き場を失い困窮していました。

    大東亜戦争 三国同盟
    樋口季一郎 陸軍中将(2)-ユダヤ難民の救済より引用
    昭和13年3月12日、ハルビン駅に到着したユダヤ難民たち。

    極東ハルビン・ユダヤ人協会の要請を受け、ユダヤ人難民救出のために立ち上がったのは、関東軍特務機関長の樋口季一郎少将でした。樋口は難民に対して給食と衣類・燃料の配給、及び必要とする者への医療の提供を行い、ビザを与えるように指示すると特別列車を手配し、難民たちを満州国のハルビンに受け入れたのです。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:樋口季一郎 より引用
    【 人物紹介 – 樋口季一郎(ひぐち きいちろう) 】 1888(明治21)年 – 1970(昭和45)年

    陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。ハルピン特務機関長のとき、オトポール事件に遭遇。ユダヤ人難民にビザを発給し、満州国を経て上海へ抜ける逃走路を確保した。「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、2万人前後が利用したとされる。

    後に第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官となり、アッツ島玉砕・キスカ島撤退を指揮した。キスカでは自ら立案した作戦により、5200人の軍人を奇跡の無血撤退に導いた。敗戦後の1945年8月18日以降、占守島と樺太に侵攻してきたソ連軍への戦闘を指揮し徹底抗戦を敢行、ソ連軍の北海道上陸を阻止した。

    そのため、極東国際軍事裁判において戦犯とされ、ソ連への身柄引き渡しを求められたが、世界中のユダヤ人コミュニティーが樋口救出に動き、マッカーサーによって保護された。

    ユダヤ民族に貢献した人、ユダヤ人に救いの手を差し伸べた人達を顕彰するためにエルサレムの丘に立つ黄金の碑「ゴールデンブック」に、モーゼ・メンデルスゾーン・アインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人達に混じり、上から4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」と刻まれている。

    これに協力したのが当時の満鉄総裁であった松岡洋右と関東軍参謀長だった東条英機です。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:東条英機 より引用
    【 人物紹介 – 東条英機(旧字体では東條英機)(とうじょう ひでき) 】1884(明治17)年 – 1948(昭和23)年

    大正-昭和時代前期の軍人・政治家。最終階級は陸軍大将。第40代内閣総理大臣。参謀本部第1課長・陸軍省軍事調査部長などを歴任し、永田鉄山らとともに統制派の中心人物となった。関東軍参謀長・陸軍次官を経て、第2次・第3次近衛内閣の陸相となり日独伊三国同盟締結と対米英開戦を主張。首相に就任後、陸相と内相を兼任、対米英開戦の最高責任者となり大東亜戦争へと踏み切った。

    「大東亜共栄圏」建設の理念を元に大東亜会議を主催。サイパン陥落の責任を問われて総辞職。敗戦後、ピストル自殺未遂。東京裁判にてA級戦犯とされ、絞首刑に処せられた。東京裁判にて「この戦争の責任は、私一人にあるのであって、天皇陛下はじめ、他の者に一切の責任はない。

    今私が言うた責任と言うのは、国内に対する敗戦の責任を言うのであって、対外的に、なんら間違った事はしていない。戦争は相手がある事であり、相手国の行為も審理の対象としなければならない。この裁判は、勝った者の、負けた者への報復と言うほかはない」と、アメリカの戦争犯罪を糾弾した。

    難民の受け入れを知ったナチス・ドイツは、日本政府に対して猛烈な抗議を行い、大きな外交問題に発展しています。日本政府はあわてふためき関東軍司令部に問い合わせますが、東条は「難民たちがドイツから追放された以上、ドイツ人には彼らに対して何の権限もない。日本はドイツの属国ではなく、満州も日本に属していない。したがって、満州帝国は誰を受け入れようと自由なのである」とし、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」とドイツからの抗議を決然と撥ね付けています。

    樋口や東条の決断がなければ大半のユダヤ人難民はドイツに送り返され、命を落としていたことでしょう。その後も2万人ほど(数については諸説あり)のユダヤ人難民が満州に避難し、命を救われています。

    樋口はその後、北方軍司令官を拝命し、終戦時は千島列島東端に位置する占守(しゅむしゅ)島にて陸軍第5方面軍の司令官を務めています。停戦後にもかかかわらず 8月18日、ソ連軍が占守島への攻撃を開始すると、樋口は徹底抗戦を指示しました。

    終戦時のどさくさに紛れ、ソ連には北海道北部の占領計画がありました。北方領土への侵攻は、北海道上陸の拠点を確保するために行われたのです。樋口の率いた占守島の戦い、及び樺太の戦いにて日本軍が徹底的に抵抗したことにより、ソ連軍の暴走は食い止められ、北海道をソ連軍から守ることができたと評価されています。

    樋口に野望をくじかれたソ連の怒りは収まらず、終戦後に戦争犯罪人として樋口をソ連に引き渡すように求めてきました。

    そのとき、樋口をソ連へ引き渡さないようにとアメリカ国防総省に働きかけたのが、世界ユダヤ協会です。「彼は多くのユダヤ人を助けてくれた恩人である」とユダヤ協会が呼びかけたことで、マッカーサーはソ連の要求を拒んだのです。

    樋口が助けたユダヤ人によって、樋口の命もまた救われたことになります。まるで映画か小説のような数奇な運命と言えるでしょう。

    このように千原や樋口をはじめとして多くの日本人がユダヤ人の救出に動き、実際に多くの命を救ったのです。千原を含め、ユダヤ人救出の核を為したのは陸軍の諜報部でした。

    今日でも日本はホロコーストを実行したナチス・ドイツの同盟国として、ユダヤ人迫害に加担していたかのように語られることがあります。

    しかし、三国同盟を締結しても日本はユダヤ人差別には与しませんでした。むしろドイツと対立してまでも、人道的見地から多くのユダヤ人の命を救ったのです。

    その3.他に選択肢はあったのか

    ー 米英との協調という選択 ー

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:日独伊三国同盟より引用
    三国同盟の締結は、英米との対立を招いた

    日独伊三国同盟が結果的に日本を敗戦国に導いたことは、否定することのできない事実です。三国同盟を結ばない方が良かったことは、間違いありません。

    しかし、それは結果を知っているからこそ導き出せる正解に過ぎません。後出しじゃんけんが許されるのであれば誰でも百戦百勝できることと同じです。

    未来のことが何もわからない状況で時計の針を戻したとき、果たして三国同盟以外の選択肢を選ぶことが私たちにできたでしょうか?

    第二次世界大戦が始まった当時の日本には、主として4つの選択肢がありました。1つ目は米英との協調を図る路線、2つ目はドイツと協調する路線、3つ目はソ連に接近して協調を模索する路線、4つ目は様子見に徹して孤立を貫く路線です。

    歴史を知る私たちは米英との協調を図るのが正解であると、すぐに答えることができます。されど当時の状況からして、その選択は極めて難しかったといえるでしょう。

    満州事変から日中戦争へと駒を進める過程で、米英との関係は冷え込んでいました。「冷え込んでいる」はかなり遠回しの表現に過ぎず、実際には敵対関係にあると言った方が正しいかもしれません。

    イギリスもアメリカも蒋介石政権を陰で支えていました。戦争をしている一方の国に資金や軍需物資を大量に与えておきながら、中立とはとても呼べません。米英の行動は日本から見れば明らかに敵を利する行為であり、完全な敵対行為です。

    そのような米英と日本が協調するためには、日本が一方的に譲歩するよりありません。日中戦争を直ちに中止し、中国から日本軍すべての撤兵を迫られるのは当然です。さらに米英は満州国さえ認めていないだけに、満州国の存続さえおぼつかなくなります。そうなると日本が追い求めた東亜新秩序の夢にしても、もはやあきらめるよりありません。

    妥協して米英に従うと言うことは、この先もずっと米英の意のままに身を処することを意味します。アメリカに深く依存したままの経済では、アメリカに逆らうことなど、とてもできません。開国以来の日本が目指してきた独立自尊さえ守り切れるかどうかあやしいものです。

    当時の日本がそのような悲壮な覚悟をもって米英と協調を図るとは、考えられません。

    現にアメリカは日米通商航海条約を一方的に破棄し、屑鉄(くずてつ)の輸出禁止など、日本に対して経済的圧力を強化していました。

    このような苦境のなか、アメリカの軍門に屈することなく、だからといってアメリカと対決するのではなく、これ以上関係が悪化しないようにアメリカを牽制(けんせい)する手段を模索するのは、当然と言えるでしょう。

    ー アメリカを牽制するためにできること ー

    なんら対策を立てることなく様子見をしている余裕など、日本にはありませんでした。アメリカの経済圧力が次第に強まるなか、日本が最も恐れたのは石油の輸出禁止です。

    日本は石油の75%をアメリカに依存していました。もしかしたら明日にはアメリカが石油の輸出を禁止するかもしれないという恐怖に、当時の日本はさらされていました。

    このまま何ひとつ対策を立てることがないうちに石油を止められたなら、日本の命運は尽きてしまいます。

    このような状況で孤立主義を通すには無理があります。資源に恵まれず、なおかつ貿易に頼らなければ生きていけない日本が孤高を決め込める状況ではありませんでした。

    アメリカが石油を止めて日本に対してあからさまな敵対行為を仕掛けてこないように、アメリカの動きを牽制する必要があったのです。

    そうなるとドイツかソ連と手を組むという発想は、ごく自然です。ドイツと手を組めば大西洋と太平洋の二方面からアメリカの動きを封じることができます。ソ連は当時、アメリカと対抗できるだけの強力な軍事力をもつ唯一の国でした。ソ連と日本が同盟を結ぶとなると、アメリカも安易に日本に手を出せなくなります。

    とはいえソ連と日本は日露戦争以来、国境を通して対立していた関係にあり、いきなり同盟を結べる状況にはありません。共産主義は長らく日本にとっての敵でした。現に第二次大戦が勃発した際にも、日本軍はノモンハンでソ連軍と衝突している最中でした。その時点では、ソ連との同盟など夢のまた夢です。

    結局のところ、当時の状況から推し量るならば、日独伊三国同盟は極めて自然な選択肢であったと言えそうです。結果論から三国同盟が間違いであったと批判することは簡単ですが、その代替案となると極めて難しいことがわかります。

    当時の日本の指導者たちは悩み抜いた果てに三国同盟へと走りました。なぜ、そうなったのか、その経過をさらに深めて追いかけるために、時計の針を大戦前に戻しましょう。

    その4.三国同盟締結までの道のり

    ー 初めの一滴 ー

    大東亜戦争 三国同盟
    【アート】ポーランド系ユダヤ人の描いた枢軸国【アーサーシイク】より引用
    三国同盟の風刺画、ドイツと日本に挟まれ、なぜか鎖に繋がれたイタリア

    日中戦争の思いがけない長期化により、日本の国力は限界に来ていました。兵士を補充して師団は増やせても、砲弾さえ足りない状況に陥っていたのです。砲弾の蓄積や兵器の充実が追いつかず、日本軍は明らかに疲れ果てていました。

    戦前の日本は軍事大国としてのイメージが強いため、最新鋭の強力な武器を備えていたと思うかもしれませんが、それは幻想に過ぎません。戦前の日本は今日のような経済大国ではありませんでした。経済的には貧しい発展途上国に過ぎなかった日本が、独立自尊のために無理して軍事大国化を急いだため、他国の軍隊に比べると軍装では明らかに劣っていました。

    司馬遼太郎の『この国のかたち』のなかに、当時の日本軍は「元亀天正の軍隊」であったと語る元大佐の言葉が紹介されています。つまり、当時の日本軍の軍装は、織田信長の頃とほとんど変わりなかったという意味です。

    もちろん、「元亀天正の軍隊」という表現は一つの比喩(ひゆ)に過ぎませんが、悲しいほどに貧相な軍装のままで日本軍は中国と戦争を行い、そのままアメリカとも戦わざるを得なかったのです。

    軍装さえ満足に揃えられないなか、軍部のなかには焦りが生まれていました。実際に前線で戦っている陸軍ほど、日本の経済力では日中戦争の継続さえ危ぶまれるという現状に、戦々恐々としていました。

    現状を打開する鍵を握っているのは、ソ連でした。当時はソ連軍がいつ国境を接する満州に攻め込んできても、おかしくはない状況でした。現に張鼓峰とノモンハンで日本軍とソ連軍は交戦しています。そのため日本軍は日中戦争を戦っている間もソ連軍の侵略に常に備え、兵員や砲弾・武器を満州に残しておかなければなりませんでした。

    もしソ連から満州への侵略がないとわかれば、満州に張り付いている精鋭軍を日中戦争に投入することで、蒋介石政権の本拠地である重慶を一気に攻略し、日中戦争を力尽くで終わらせることができるかもしれません。

    そこで軍部のなかには「ドイツをしてソ連の後方を牽制させる手はないものか」といった戦略が、ささやかれるようになりました。そうすればソ連の満州侵略を防げます。

    こうした情報がベルリンの駐在武官大島浩少将に伝わりました。すると大島は軍上層部から指示があったわけでもなく、単に一個人の茶話としてドイツ外相のリッベントロップに「こんな話がある」と紹介しました。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:大島浩 より引用
    【 人物紹介 – 大島浩(おおしま ひろし) 】 1886(明治19)年 – 1975(昭和50)年

    陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務める。大使就任後はリッベントロップに接近し、日独伊三国同盟締結のために奔走した。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けるも、後に釈放された。

    赦免後には自民党から国政選挙への立候補を度々要請されたが、「自分は国家をミスリードした。その人間が再び公職に就くのは許されない」として断り続けた。

    大島としては他愛のない雑談のつもりだったのでしょう。ところが、何気ない茶話が日本の運命を大きく左右する大事へと繋がっていくことになります。

    数日後、リッベントロップ外相から「私見によれば、ソ連だけに限らず各国を目標とする相互援助条約を結べば世界平和に貢献すると思う」との思いがけない返事を、大島は受け取ることになったからです。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:ヨアヒム・フォン・リッベントロップ より引用
    【 人物紹介 – ヨアヒム・フォン・リッベントロップ 】 1893年 – 1946年
    ドイツの実業家・政治家・外交官。最終階級は親衛隊名誉大将。第一次世界大戦に従軍し、戦後はぶどう酒商人として成功を収める。ナチス入党後、ヒトラーの目に止まり高く評価される。そのため、古参の幹部達からは妬まれることになった。敵対勢力と対抗するために、狂信的と言われるほどの強固なナチズム信奉者・反ユダヤ主義者になっていった。

    影の外務省と言われる「リッベントロップ機関」を創設。英独海軍協定および日独防共協定の交渉をまとめた。駐英大使を経て外相に就任。独ソ不可侵条約や日独伊三国同盟を成立させた。ヒトラーの死後に外相を解任され、戦後、ニュルンベルク国際軍事裁判で絞首刑に処される。

    はじめから返事など期待していなかっただけに、日本側としては望外の果実を手にしたことになります。

    それが、日本を悲劇へと押し流した三国同盟という奔流に至るはじめの一滴でした。

    ー 近衛内閣の退陣 ー

    大東亜戦争 三国同盟
    歴史捏造の検証:リトアニア領事官杉原のユダヤ難民救助ビザより引用
    三国同盟を巡り五相会議にて意見が対立したまま結論は持ち越された

    日独ともに、先に結んだ防共協定をより強化する方向で一致していました。1936(昭和11)年に締結された日独防共協定は、1937(昭和12)年には日独伊防共協定に発展しています。

    問題は協定の対象とする国を、どこにするかにありました。日本はあくまでソ連のみを対象とする意向でしたが、ドイツが望んだのは英仏をも対象に含めることでした。

    ドイツが恐れたのは英仏との戦争になった際に、軍事力に優れたアメリカが介入してくることです。ドイツはすでに第一次世界大戦においてアメリカに苦汁を飲まされていました。

    当初はドイツ側に有利に展開していた第一次大戦がドイツの惨敗に終わったのは、アメリカの援助と参戦が原因でした。豊富な資源と膨大な工業力、そしてあり余るほどの経済力と強大な軍事力をもったアメリカが今次の欧州大戦に参戦してくるとなると、第一次大戦と同じ経過をたどるのではないかとドイツは恐れたのです。

    そこで、太平洋を挟んでアメリカと対峙する日本を動かすことでアメリカのヨーロッパ戦線への介入を防ぐことが、ドイツの狙いでした。

    そのためには対象国をソ連に限定したのでは意味がありません。

    アメリカの動きを封じたいという日独の思惑は一致していたものの、さりとて日本としては表だってアメリカと敵対するような行動に打って出る気は、この時点ではまだありません。

    対象はあくまでソ連に限定し、先に日中戦争を片付けてから次のステップに進みたいところです。

    五相会議にて議論された結果、「防共協定の延長としてそのほかに逸脱しない」という条件付で「ドイツに対し防共協定の精神を拡充してこれを軍事協定に導くよう交渉する方針」が決定されました。

    「そのほかに逸脱しない」の文言は、対象はソ連に限定され英米仏には及ばないことを意味しています。

    そのような条件をドイツが呑むはずもなく、12月の五相会議では陸軍が「ソ連を主とするが、英仏をも従として対象とする」と主張し、激しい論戦が展開されました。陸軍以外の四相はソ連のみを対象とすると譲らなかったため、会議は未決のまま流会となっています。

    その結果、閣内分裂に嫌気が差した近衛内閣が退陣し、平沼内閣が成立しました。

    大東亜戦争 三国同盟
    wikipedia:平沼騏一郎 より引用
    【 人物紹介 – 平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう) 】1867(慶応3)年 -1952(昭和27)年

    明治-昭和時代前期の司法官・政治家。第35代内閣総理大臣。大逆事件のとき検事を務め、のち検事総長・大審院長を歴任し、司法界最大の実力者となる。第2次山本内閣の司法大臣を経て、枢密顧問官・枢密院副議長を歴任。

    満州事変後には首相候補者として右翼・軍部から期待されたが、元老西園寺公望に右翼に傾倒していることが嫌われチャンスが巡ってこなかった。1939年1月、近衛内閣の後を受けて、ようやく首相に就任するも、独ソ不可侵条約が成立すると国際情勢の見通しを誤ったとして同年8月辞職。

    第2次近衛内閣の国務相・内相、第3次同内閣の国務相を務めた。戦後は極東国際軍事裁判でA級戦犯となり終身刑を宣告されたが、健康上の理由で仮出所を許された後、病死。

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    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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