第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
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→第1部 3章 泥沼の日中戦争(10/10)共産化を防ぐための孤独な戦い
5.日本はなんのために戦ったのか
5-1.三国同盟に託した日本の行く末
その1.日本のおかれた状況とは
第三帝国の興亡〈3〉 第二次世界大戦 [ナチ/ヒトラー] より引用
1939年9月1日、ドイツは突如ポーランド国境を越え、侵攻を開始した
1939年9月、ナチスドイツのポーランド侵攻から第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされました。次から次へと激変する世界情勢のなかで、日本は何を目指しどこへ向けて舵を切るべきなのか、私たちの父祖は大いに悩みました。
その後の歴史の経過を知る私たちから見れば、世界大戦という嵐のただ中に放り込まれた日本の舵取りは、あまりにもあやういものに映ります。しかし、今日の時点で明日起こることが予測できないように、当時もまた一寸先の未来を正確に見通すことなど不可能でした。
未来に起きることは知らないものとして当時の日本を取り巻く四囲の状況だけを踏まえ、日本はどのように対処すべきだったのか、あなたならどう考えますか?
ひとつのシュミレーションゲームのように当時の日本の進むべき道を考えてみることで、新たな発見が得られることでしょう。
そこで、当時の日本のおかれた状況について、まずは整理してみましょう。下に掲げたのは当時のアジアの地図です。
https://ameblo.jp/modesty317/entry-12201098736.html より引用
ー 第二次世界大戦前のアジアの状況 ー
現在のアジアの地図とは大きく異なっています。アジアで独立を保っていた国は日本・タイ・中国のみです。その他のアジアの国々はすべて欧米列強の植民地となり果て、現地のアジアの人々は支配者である白人の圧政により、奴隷に近い境遇に苦しんでいました。
イギリス領インドなどで独立を求める運動が起きていましたが、植民地に駐留している列強の軍隊によって武力を背景に押さえつけられていたのです。
中国は独立を守っていたものの、国内の各地に事実上の植民地と言える租界が作られ、半独立といえる状況でした。さらに当時は日中戦争が行われており、中国の主要都市のほとんどは日本軍の占領下に入っていました。
当時の日本は朝鮮と台湾を併合し、日本国の一部としていました。現在からは想像しにくい状況ですが、当時の朝鮮や台湾は北海道や九州のような感覚で日本の領土の一部として扱われていたのです。たとえば戦前の高校野球大会では、朝鮮と台湾(満州も)代表のチームも甲子園にやって来ました。
朝鮮を覆うように位置する満州国も日本の勢力圏でした。欧米諸国のブロック経済に苦しめられた日本は、死中に活を求めるように満州を中国から切り離しました。当時の日本国民は満州こそが日本の生命線だと信じ、すがったのです。
その満州を守るために日本は、日中戦争を余儀なくされます。日中戦争は複雑な経過をたどりましたが、日中が全面戦争へと至る第二次上海事変は中国側が仕向けたものであり、日本が一方的に中国を侵略したとはいえない面があります。
軍事力において日本軍は中国軍を圧倒しました。日本軍は中国全土の三分の二を占領し、蒋介石の国民政府は重慶に押し込められていました。本来であればとっくに勝敗はついています。勝者と敗者がはっきりした以上は、講和条約を結ぶことで戦争を終わらせるのが普通です。
しかし、蒋介石は降伏を認めませんでした。なぜならイギリスやフランス、アメリカやソ連が多額の資金や軍需物資・武器を提供し、蒋を支えていたからです。
wikipedia:蒋介石 より引用
【 人物紹介 – 蒋介石(しょう かいせき) 】 1887年 – 1975年
中華民国の政治家・軍人。日本留学後、孫文の革命運動に加わり、中国国民党の軍事指導者として頭角を現す。革命軍を養成して北伐を成功させた。その後、国民政府主席となり、反共政策を推進。
あと一歩の状況まで中国共産党を追い詰めるも、抗日戦争では国共合作により共産党と協力した。戦後、国共内戦に敗れ、1949年台湾に退き、死ぬまで中華民国総統を務めた。
そのため日中戦争は長期化し、一向に出口は見えませんでした。どこまで行っても泥沼です。もはや日本の国力も限界に来ていました。日中戦争をなんとか早期に終わらせる必要に日本は迫られていました。
ー 第二次世界大戦前のヨーロッパの状況 ー
ヒトラーの野望 ―― 第2次世界大戦前夜までの歴史 ―― より引用
これより第二次世界大戦を迎え、ヨーロッパの版図はドイツによって大きく塗り替えられることになる
一方、アジアから離れて世界に目を向けてみると、ヨーロッパを震源地に世界は不穏な空気に包まれていました。その発火点となったのは、世界大恐慌から生じた欧州各国が抱える経済事情です。
植民地をもつ国はブロック経済を敷くことによって恐慌を脱することができましたが、植民地をもっていない国は為す術がありませんでした。大恐慌とブロック経済という二重の苦しみに息も絶え絶えとなっていたのです。
世界大恐慌を乗り越えるために列強の進めたブロック経済が日本の首を絞め、満州事変を起こさざるを得なかったように、ヨーロッパにおいても似たような状況が生まれていました。
日本と同じような苦境に立たされたヨーロッパの国は、ドイツです。第一次大戦に敗れて植民地を失ったドイツ経済は、世界大恐慌と金融恐慌、そして列強のブロック経済によって壊滅的な状況に陥りました。失業率は40%に達し、庶民の暮らしぶりは悲惨の一語に尽きました。
そのとき政権を担ったのは、アドルフ・ヒトラー率いるナチスでした。ヒトラーは政権をとると自由主義を否定し、一党独裁による専制主義・国粋主義を敷きました。ヒトラーに対する絶対の服従と反対者に対する過酷な弾圧を徹底するとともに、産業と商取引を制御する全体主義を前面に押し出し、対外的には侵略政策をとりました。このような政治体制を一般に「ファシズム」と呼びます。
wikipedia:アドルフ・ヒトラー より引用
【 人物紹介 – アドルフ・ヒトラー 】1889年 – 1945年
ドイツの政治家。オーストリア生まれ。第1次世界大戦に志願して出征した後、ドイツ労働者党に入党、党名を国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と改称して党首となった。ミュンヘン一揆に失敗して入獄。出獄後は合法活動によって党勢を拡大し、1933年に首相、翌年大統領を兼ねて総統となり全体主義的独裁体制を確立。いわゆる第三帝国を建設した。
反ユダヤ主義とゲルマン民族の優越性を主張、ユダヤ民族撲滅を目指してホロコーストを実行した。強硬外交と軍備拡張により近隣諸国を次々に侵略し、第2次大戦を引き起こす。ベルリン陥落直前、官邸にて自殺を遂げた。
ヒトラーによって1937年にはほぼ完全雇用が実現し、ドイツ経済は奇跡的に回復しました。やがてナチスドイツは侵略政策を露わにします。1938年にはオーストリアを併合し、チェコスロバキアにズデーテン地方を割譲させ、1939年9月にはポーランドに侵攻しました。ここに至って、ここまでドイツの拡張に目をつぶっていた英仏がドイツに宣戦布告を行い、第二次世界大戦が始まったのです。
次期大戦がヨーロッパから始まるだろうことは、予め予測されていました。では第二次大戦の勃発に際し、日本はどうしたでしょうか?
開戦直後の9月4日、阿部信行内閣は欧州大戦不介入の声明を早々に発表しました。陸軍中央も日中戦争の解決を基本とし、欧州大戦には「中立的態度」を維持する方針を固めています。
ただし、激変する世界情勢は日本にも大きな変革を迫りました。今次の大戦には無関係とばかりに日本だけが平穏にやり過ごせるような状況にはなかったのです。
wikipedia:阿部信行 より引用
【 人物紹介 – 阿部信行(あべ のぶゆき) 】 1875(明治8)年 – 1953(昭和28)年
陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。第36代内閣総理大臣。1939年、平沼内閣のあとを受けて組閣。第二次大戦への不介入と日中戦争の早期解決を声明したが、国内外の混乱に対応できず、4か月余りで内閣総辞職。後に中国大使・翼賛政治会総裁・朝鮮総督を務めた。
ー 国防国家体制を目指して ー
世界大戦という渦中にあって、列強諸国はいずれも競って国防国家の体制を作りつつありました。「国防国家」とは「国家総力戦」に向けた体制を整備し、軍事・政治・外交・経済、さらに思想等物心両面での挙国一致態勢にある国家を指しています。
戦時という非常事態にあっては、どの国であれ国防国家としての体制を整備するのは当然のことでした。実際に戦場で戦う兵士ばかりでなく、国家の総力を挙げて戦わなければ近代戦に勝ち残ることはできなかったのです。
しかし、列強諸国が国防国家へ向けて歩み出したのは、第二次大戦が起きたからとも言えない状況でした。世界大恐慌が各国の経済をどん底へと誘うなか、ただ一カ国のみが恐慌の影響を受けることなく国力を増大させており、世界の耳目を集めました。
その1カ国とは、ソ連です。ソ連は五カ年計画によって着実に国力を増長させ、経済の面でも軍事の面でも他国を圧倒していました。自由経済の国が皆倒れ、挙国一致体制によって計画経済を進めたソ連だけが一人勝ちとなった世界にあっては、ソ連の成し遂げた国防国家体制の優秀さばかりが目立ちました。
ソ連の成功が呼び水となり、各国の政策も次第に統制経済へと流れていきました。このような世界情勢のなか、日本もまた国防国家体制の確立を目指しました。
国防国家を目指しつつ、激動の世界情勢に対応するためにも日中戦争の泥沼から抜け出す必要がありました。日中戦争のために約85万の兵力が中国大陸に張り付けとなっている現状は、けして好ましい状況ではありません。
第二次大戦がどのように発展しても素早く対応できるように行動の自由を確保しておくことが求められました。日中戦争を早期に終わらせること、なおかつ資源の取得と一部の日本軍の駐留を認めさせる講和を結ぶことが、日本が目指すべき当面の指針でした。
その2.三国同盟はなにをもたらしたか
No.155 日独伊三国同盟より引用
1940(昭和15)年9月27日、日本・ドイツ・イタリアの間で日独伊三国間条約が締結された
当時の世界の状況は、まさに弱肉強食の戦国時代そのものでした。すでに多くの植民地を抱え世界に秩序を築いていた英仏蘭の列強に対し、新たな秩序を打ち立てようと戦いを起こしたドイツにイタリアが追随し、軍事大国のアメリカとソ連が様子見を決め込んでいる状況です。
日本の戦国時代は戦国武将たちが誰と同盟を組み、誰と戦うかで領国の命運が大きく左右されました。当時の日本も同じです。戦乱が世界を覆っているなか、アメリカやソ連のような大国であればまだしも、日本のような資源に乏しく、経済力の小さな国がいつまでも孤立を貫くには無理がありました。
はじめは中立を表明していた日本ですが、日中戦争を早期に解決するためにもいつまでも孤立を決め込むわけにもいかず、いずれかの国と組む必要に迫られたのです。
いくつかの選択肢のなかから、日本が組む相手として最終的に選んだのはドイツとイタリアでした。かくして1940(昭和15)年9月、日独伊三国同盟が結ばれることになります。
なぜドイツ・イタリアとの同盟を選んだのか、その経過については、このあと追いかけていきます。ここではまず、三国同盟の結果について先に記しておきましょう。
ー 三国同盟が日米開戦の原因だったのか? ー
今日では三国同盟は天下の愚策であったとして非難されています。三国同盟締結の中心人物であった松岡洋右は、国際連盟脱退を決めた際の日本全権としてかつては英雄のようにもてはやされた人物です。
ところが三国同盟を推し進めた罪によって戦後は評価が180度変わり、今日に至るもその評判は地に落ちたままです。ここまで評判の悪い人物も、そうそういません。

wikipedia:松岡洋右 より引用
【 人物紹介 – 松岡洋右(まつおか ようすけ) 】 1880(明治13)年 – 1946(昭和21)年
明治-昭和時代前期の外交官・政治家。苦学の末アメリカ留学を果たし、外交官となる。国際連盟特別総会に首席全権として出席し、連盟の満州国批判決議に抗議して退場。連盟脱退の英雄となる。
満鉄総裁を経て、第二次近衛内閣の外相となり、日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結。訪欧から帰国後は親独になびき、日米交渉に異を唱えた。戦後、A級戦犯として起訴されたが裁判中に獄中にて病没。
いったい三国同盟は日本になにをもたらしたのでしょうか?
三国同盟の最大の罪は、第二次大戦を仕掛けたドイツ・イタリアと日本が手を組むことによってイギリス・アメリカとの対決が鮮明となり、日米開戦へ向けて時が刻み始めたことです。
ただし、アメリカと対立することになったのは、あくまで結果論です。前章でも見てきたように、日本はいずれイギリスとの対決は避けられないものと覚悟していました。東亜新秩序を打ち立てるためには中国に多くの租界をもち、アジアに豊富な植民地を有するイギリスを排除することが絶対に必要だったからです。
問題は日本とイギリスが戦うことになったときに、アメリカがイギリスに味方をして戦いに介入してくるか否かでした。つまり、アメリカとイギリスは行動を共にするのか、それとも個別に行動するのかの違いです。前者を英米不可分論、後者を英米可分論と呼びます。
英米不可分か英米可分かをめぐっては、陸軍と海軍で意見が対立していました。それでも三国同盟を結んだ時点では、英米可分とする論が大勢を占めていました。イギリスと戦争になったとしても、アメリカは中立を守り介入してこないと予測されたのです。
しかし、その後の歴史の経過が示すように、これは完全な読み違いでした。アメリカは常にイギリスに寄り添い、イギリスと敵対する日本に対しても、ためらうことなくその牙を向けてきたのです。
結果的に三国同盟は、イギリスとアメリカに向けた日本からの「果たし状」としての役割を全うしたと言えるでしょう。
ただし、巷でよく言われるように「三国同盟を結んだから戦争になったのだ」とする論は、大いに疑問です。なぜなら大東亜戦争は、日本側の意思と行動によってのみ起きたものではないからです。
従来からの既得権益(秩序)を守ろうとする米英と、東亜に新たな秩序を打ち立てようとする日本の利害は到底一致するはずもなく、いずれかの時期において衝突は不可避であったと考えられます。その意味では三国同盟という選択がなかったならば対米戦争を避けられたとする考え方は、成り立ちません。
三国同盟があってもなくても、日米が互いの目指すものを取り下げない限りは、いずれ開戦へと至ったことでしょう。
三国同盟はあくまで当時の世界情勢から導き出された結論であり、それが直ちに対米戦争の原因となったわけではないのです。
ー ナチスドイツに並ぶ悪の帝国としてのイメージ ー
How Did Hitler Come to Power?より引用
ナチスの持つ悪のイメージは三国同盟によって、そのまま日本にも投影された
三国同盟の第二の罪は、ナチスドイツと並ぶ悪の帝国として大日本帝国が位置づけられてしまったことです。
三国同盟を結んだことにより、日本はドイツやイタリアと同類の国としてのイメージを世界に与えてしまいました。ドイツやイタリアの政治体制は、いわゆるファシズムです。ドイツではヒトラー、イタリアではムッソリーニという独裁者が君臨し、全体主義の名のもとに国家を統制していました。
wikipedia:ベニート・ムッソリーニ より引用
【 人物紹介 – ベニート・ムッソリーニ 】 1883年 – 1945年
イタリアの政治家。小学校教員を経て社会党左派に属するも、第一次大戦にて主戦論を採ったことにより除名。大戦に従軍して負傷。戦後、武装私兵として知られる黒シャツ隊を組織し、社会主義者を襲撃した。国会議員当選後、ファシスタ党を結成し党首となる。ローマ進軍により政権を掌握、ファシズム体制を確立して独裁者となった。
その後はイタリア・エチオピア戦争、スペイン内乱介入など対外侵略を推進。独日と結び第二次大戦に突入。連合軍のイタリア上陸で失脚し、一時はドイツ軍に救出されるも、のちパルチザンに捕らえられ銃殺。
そのドイツとイタリアと同盟を結んだ日本もまた、ファシズムの国として位置づけられることになったのです。日本のファシズムは天皇制ファシズムと呼ばれています。
しかし、「天皇制ファシズム」と称されるようなファシズムが戦前の日本に定着していたのかどうかについては、研究者の間でも多くの疑問が提起されています。そのことは前章にて紹介していますので、参照してください。
→ 5-11.アメリカの中国観~可哀想な中国を助けることは正義! – その2.世界帝国を目指す日本の野望 ー 軍事独裁国か民主主義国か? ー
当時の日本は日中戦争という戦時下にあり、戦時体制をとっていました。戦時体制は戦時に伴う一時的な処置であり、ファシズムや全体主義とはまったく異なります。
ところが三国同盟によってドイツ・イタリア・日本は悪の枢軸と見なされ、恐ろしいファシズムの国としてのイメージを世界に向けて発信することになってしまいました。
戦前の日本はナチス・ドイツのような全体主義体制ではなかったにもかかわらず、日本もナチスと並ぶファシズムの国であり、周辺諸国を侵略した悪の帝国であるといったストーリーが作られ、東京裁判史観の下敷きになっていったのです。
このようなストーリーはアメリカ・イギリス・ソ連を中心とする当時の連合国側によって創られたものです。連合国側は第二次世界大戦は「ファシズムと民主主義の戦争」だと規定しました。民主主義の側が勝利を収めたことによって今日の平和がもたらされたのだとするストーリーは、戦後の常識になっています。
しかし、アメリカやイギリスはともかく、共産党が支配するソ連や蒋介石が専制をふるった中国を民主主義の国とすることには、天地がひっくり返るほどの無理があります。同様に、議員が選挙によって自由に選ばれていた日本をファシズムの国とすることにも、無理があります。少なくとも当時のソ連や中国よりも、日本ははるかに民主的な国家でした。
結局のところ「ファシズム対デモクラシー(民主主義)」のスローガンは単なるプロバガンダに過ぎず、実態を反映したものとは言えそうにありません。万人が納得しやすい耳当たりの良いストーリーによって、連合国側のそれぞれの国の利益を守っただけのことです。
真実はどうであれ、定着したイメージを覆すことは容易なことではありません。昭和天皇崩御に際して、西側のメディアの多くは昭和天皇とアドルフ・ヒトラーとの関連を示唆する記事を寄せました。
エンペラー・ヒロヒトの名は海外の多くの教科書でヒトラーやムッソリーニ、スターリンと並ぶ独裁者として教えられています。
The Rise of Dictatorsより引用
「エンペラー・ヒロヒトは中国へのいくつかの攻撃と太平洋支配の夢で軍事増強を始め、軍国主義政府を設立した」と解説されている
wikipedia:昭和天皇 より引用
【 人物紹介 – 昭和天皇(しょうわてんのう) 】1901〈明治34〉年 – 1989〈昭和64〉年
第124代天皇(在位: 1926〈昭和元〉年12月25日 – 1989〈昭和64〉年1月7日)。名は裕仁(ひろひと)。日本の皇太子として初めての外遊でヨーロッパを訪問。帰国後、大正天皇重病のため摂政宮に就任し、代わって公務につく。大正天皇崩御により践祚(せんそ)、「昭和」と改元。
大東亜戦争の開戦に際し「宣戦の詔書」を発する。多くの歴史学者が「当時の憲法で天皇は最高決定権をもっていたが、実際には政府や軍が決定した方針を承認するにすぎなかった」と指摘している。日中戦争についても日米開戦についても、強く躊躇(ちゅうちょ)の態度を表明するも、正規の手続きによって裁可を求められたものについては、最終的に裁可を与えるよりなかった。
しかし、ポツダム宣言受諾か本土決戦かをめぐり内閣と統帥部が分裂し、態度決定ができなかった際は、はっきり受諾の意思を表明し、最終決定に決定的な役割を果たし、日本を終戦に導いた。8月15日の玉音放送は国民一般が天皇の生の声を聞いた最初であり、これによって円滑な降伏が実現した。戦後は「人間宣言」を発することで天皇の神格を否定し、全国各地を巡幸して再建に働く国民を激励。
日本中で熱烈な歓迎を受けた。日本国憲法にて「国民統合の象徴」と位置づけられ、以後その役割を忠実に果たした。生物学者としても知られる。87歳で逝去。在位期間は62年で歴代最長。天皇として最も長命だった。
海外ではナチスドイツと軍国日本は世界に害を及ぼした悪の帝国として、同列に扱われていることには注意が必要です。
ちなみにユダヤ人の大虐殺、いわゆるホロコーストを行ったナチスドイツと日本がなぜ同盟を組んだのかといぶかしがる方もいるかもしれません。
ドイツ国内でナチスのユダヤ人迫害が始まったとされる「水晶の夜」は1938年11月に起きています。三国同盟を結んだ時点においてユダヤ人の迫害が始まっていたことはたしかですが、ユダヤ人の迫害自体はドイツ特有の現象ではなく、ヨーロッパでは昔から広く行われていたことです。
ナチスがアウシュビッツ収容者などを作りユダヤ人の絶滅に乗り出すのは、三国同盟を結んだ後のことです。三国同盟の時点ではホロコーストは始まっていません。
まして、ドイツ占領下にある地域のユダヤ人が大量に消息を絶ったことが次第に明るみになり、初めて世界に向けて報道されたのは1942年5月のニューヨーク・タイムズ紙からです。
三国同盟の時点では、まさかナチスドイツがホロコーストのような蛮行を犯すとは、日本側で予測できるはずもありません。
また同盟を組んだからとはいえ、日本はホロコーストに手を貸すような真似は一切していません。むしろ多くのユダヤ人難民を救ったことは歴史が証明する事実です(次の記事でご紹介)。
されど世界の見方は違います。ユダヤ民族の絶滅というホロコーストを実行したナチスドイツは、誰から見ても悪の帝国として位置づけられますが、軍国日本はその内在する「悪」についてナチスドイツと同列に処されています。
そうした「大日本帝国=悪の帝国」としてのイメージは東京裁判史観によって強化され、真実がねじ曲げられたまま今日の世界が共有する歴史認識として定着しています。
その端緒は三国同盟にこそ求められます。
「悪の帝国であった日本だからこそ原爆が落とされても仕方ない」とのコンセンサスが、世界で共有されているのは事実です。
三国同盟を主導した松岡は後に「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったことを、いまさらながら痛感する。これを思うと、死んでも死にきれない」と語ったとされていますが、後の祭りです。
三国同盟がもたらした悪の帝国としての汚名は、日本の国益を大きく損ないました。今日に至るも三国同盟は、東京裁判史観に名を変えて日本を呪縛し続けています。
(2/5)ユダヤ人を救え!6千人を救った杉原千畝の『命のビザ』
(3/5)驚異的なナチスドイツの快進撃。合言葉は「バスに乗り遅れるな!」
(4/5)欧米に頼らない生存圏をアジアに!大東亜共栄圏が掲げた理想
(5/5)消えたソ連との四国同盟。自ら自滅に導いたヒトラーのその決断