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    #34 共産化を防ぐための孤独な戦い

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    第1部 3章 泥沼の日中戦争(9/10)なぜ日本は大東亜経済共栄圏を築く必要に迫られたのか?

    5.泥沼の日中戦争へ

    5-13.共産化を防ぐための孤独な戦い

    その1.世界に理解されなかった防共の戦い

    日中戦争
    ウィキペディア より引用
    赤の広場を行進するボリシェヴィキ軍

    満州事変にしても日中戦争にしても、今日では日本の侵略性ばかりが批判されることが多いようです。しかし、満州事変と日中戦争には共産化を防ぐための戦いとしての側面もあったことは、あまり知られていないようです。

    ロシア革命によって世界初の共産主義国家であるソ連が誕生したことは、日本にとって大きな脅威でした。日本にとっては極めて近い地域で起きた革命であり、共産主義というイデオロギーが飛び火してくる可能性も高かっただけに、けして対岸の火事ではありません。

    ロマノフ王朝の皇帝一家殺害は、天皇を中心とする立憲君主国である日本にとって、軽視することのできない脅威だったのです。

    1918(大正7)年7月17日深夜、ロシア革命によって囚われの身となっていたロシア帝国皇帝ニコライ2世と夫人、5人の子供たちは、ボリシェヴィキ(レーニンが率いたロシア社会民主労働党の多数派)の命により家族全員が銃殺されています。

    日中戦争
    wikipedia:ニコライ2世 より引用
    ニコライ2世1868年 – 1918年
    帝政ロシア最後の皇帝 (在位 1894~1917) 。即位当初はロシア資本主義の確立期にあたり経済的繁栄を誇った。20世紀に入る頃から不況が進み、諸列強との帝国主義的対立も顕著となった。やがて労働運動が激化。農村にもロシア国内の被抑圧民族にも動揺は拡大した。日本訪問時に襲われて負傷(大津事件)。朝鮮への勢力拡大によって極東へ進出し、日露戦争を起こすも敗れる。

    極東での相次ぐ敗戦と戦費の増大による大衆生活の圧迫により、「血の日曜日」事件に始まる革命を招く。バルカン半島への進出を企て第1次世界大戦に突入。軍部の反対を押切ってみずから戦線を指揮したが戦況はふるわなかった。皇太子アレクセイが血友病であったことが怪僧 G.E.ラスプーチンの皇室と国政への干渉を許し、市民の怒りを買う。二月革命を受けて退位。家族とともに逮捕された後、妻・子供たちと共に処刑された。

    日中戦争
    ウィキペディア より引用
    ニコライ2世とその家族、全員が惨殺された

    まだ幼い子供を含め、皇帝一家がたどった悲劇的な最期は、世界中に衝撃を与えました。

    共産主義を恐れたのは日本ばかりではなく、ヨーロッパ諸国やアメリカにとっても国家の存続を揺るがす脅威として受け止められていました。資本主義諸国の政府を転覆させる共産革命の飛び火を、どの国も恐れたのです。

    そうした恐れがけして的外れではないと証明されたのは、第二次大戦後でした。東ヨーロッパはソ連の武力制圧のもとで次々と共産革命が起こり、ソ連の衛星国となり果てました。衛星国とソ連の関係は、けして民主的なものではなく、自主権を奪われた奴隷的ともいえる服従を強いられました。共産国の人民には自由がなく、共産党による恐怖政治が行われていたのです。

    日中戦争
    twitter.com/mayumi3141 より引用

    アジアも中国をはじめ、北朝鮮・ベトナムが共産国となりました。すべてはマルクス・レーニンの世界革命の一環として為されたことであり、それ自体が侵略戦争としての側面も持ち合わせていたといえるでしょう。

    それにもかかわらず、戦後の日本の多くの知識人はソ連や北朝鮮に理想郷をあてはめ、人民は幸福に包まれているとの幻想を抱きました。当時の知識人の多くが共産主義を思い違いしていたことは、アメリカが中国を見誤ったことと本質的な違いはありません。

    ロシア革命の直後から、日本は防共のための戦いを始めていました。革命が起きた翌年にはアメリカとともにシベリア出兵を行ったのも、列強が引き上げた後に日本のみが残ったのも、防共に備えるためです。地理的にソ連に近い日本は、常に欧米以上に共産主義の脅威を感じていました。

    満州事変もまた、満州の共産化を防ぐために必要なことでした。そのことは欧米列強には理解されませんでしたが、防共のために日本が戦っていると指摘する声も少数ながら上がっています。たとえばグルー駐日大使は、次のように述べています。

    「日本はおそらく、満州に、この不幸な国がかつて経験したことのない平和と繁栄の政治をもたらすだろう……さらに日本は、現在の重大の問題であるボルシェヴイズム(共産主義)の東方への蔓延に対して、堅固な緩衝装置の役割を果たしている。たとえ日本に何も取り柄はなかったとしても、現在、中国を山火事のように席捲し、もし日本が手をつけなければ満州をもすぐに侵しかねない共産主義に対して日本が挑んでいる戦いについて、少なくともその功を認めなければならない」

    満州事変とは何だったのか 下巻』クリストファー・ソーン著(草思社) より引用

    もちろん満州事変は防共のためだけに起きたわけではありません。それでも複雑な要因のなかのひとつに、防共という骨太な筋が日本軍の行動には常に通っていたことはたしかです。

    日中戦争にしても同じです。防共を唯一の目的として起きた戦争ではないものの、日中戦争は中国で勢力を伸ばしつつある共産主義を根こそぎ排除するための戦いでもありました。

    実際、日本はドイツに対し、日中戦争は防共のための戦いであることを説明し、ドイツによる蒋介石政権への支援を中止するように訴えています。ドイツは中国で産出されるタングステンを必要としていたため、日本側の度重なる要請を拒否しました。

    タングステンは戦車などの装甲や砲弾に使用される金属で、軍事上は欠かすことのできない重要資源です。現代でもタングステンの産出量は中国が全世界の8割以上を占めています。

    防共協定を交わしていたドイツでさえ、防共の戦いという日本の掲げた大義については理解を示しませんでした。

    かくしてドイツも、欧米列強もソ連もこぞって蒋介石政権の支援に回ったのです。日本は孤立無援のまま、共産主義との孤独な戦いを続けるよりありませんでした。

    そんな日本に対して唯一理解を示してくれたのは、思いもかけない方面からでした。

    その2.全世界のカトリック教徒よ、日本軍に協力せよ!

    盧溝橋事件が起きた1937(昭和12)年の10月、ローマ法王ピウス11世は日中戦争について次のような声明を出しました。

    「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」

    日中戦争
    wikipedia:ピウス11世 (ローマ教皇) より引用
    ピウス11世 1857年 – 1939年
    カトリック教会の司祭。ローマ教皇(法王)(在位:1922年-1939年)。多くの図書館長を歴任。古文書学の権威。枢機教及びミラノ大司教を経て、教皇に任命された。イタリア政府とラテラノ条約を結んでバチカン市国の法的地位を確立。

    海外布教、特に極東における活動を強化した。第一次大戦で荒廃したヨーロッパにキリスト教的平和をもたらすべく尽力。日中戦争では全世界のカトリック教徒に日本軍に協力するよう呼びかけた。晩年はナチズムと無神論的共産主義に敵対した。教皇庁の科学アカデミーを創設。

    全世界のカトリック教徒を束ねるローマ法王が、防共のために孤独な戦いを続けている日本の行動に対して理解を示してくれたのです。「日本軍に協力せよ」とローマ法王が呼びかけたところで、実際になにかが変わったわけではないものの、法王の声明がキリスト教を文化の土台とする西欧社会に衝撃を与えたことは間違いありません。

    思いもかけないローマ法王からの支援の声は国内でも報道され、反響を呼びました。同年10月16日および17日の『東京朝日新聞』の夕刊は、次のように報じています。

    「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」

    日中戦争
    ローマ法王ピオ11世。全カトリック教徒は日本軍へ協力を (「東京朝日新聞」夕刊、昭和12年10月16日) より引用

    欧米からは一方的な侵略として非難されていた日本にとって、その欧米の人々の精神的な支柱であるローマ法王自らが「日本は侵略したのではない、中国を救うために防共の戦いをしているのだ」と日本の行動に対して賛意を表明してくれたことは、大きな意味のあることでした。

    ローマ法王の声明の背景には、キリスト教と共産主義との根深い対立が横たわっています。
    共産主義とマルクス主義とは必ずしも同一ではないものの、マルクス主義は「無神論」を強調します。キリスト教にとって最大の敵と見なされたのは、この無神論です。

    キリスト教から見て邪教の神を信じていようとも、神を信じる心をもっているだけに、まだ救いようがあります。ところが無神論にこり固まっていると神そのものを否定するため、救いようがありません。人から神を信じる心さえ奪う共産主義は、キリスト教にとって許すことのできない悪魔の教えだったのです。

    ことにカトリックは、反共産主義の姿勢を貫きました。そのためにナチスと接近したのも歴史的な事実です。ヒトラーが政権を握った直後にナチスが勢力を伸ばした背景として、カトリック教会の支援がひと役かっています。

    もっとも当時はまだ、ナチスが危険であるとの認識は欧米社会にはほとんどありませんでした。

    ナチスがその正体を次第に露わにするとともに、ローマ法法ピウス11世はナチスとの対立を深めていきました。1937(昭和12)年にはナチスを「新興異教」として非難しています。

    しかし、ピウス11世は1939(昭和14)年に世を去ってしまいます。ピウス11世の死は後ろ盾をなくした日本にとっても痛恨事でしたが、後を引き継いだピウス12世によってカトリックとナチスの対立軸が以前よりも弱まったことにより、カトリック教会としても後世に汚名を残す結果を招きました。

    日中戦争
    wikipedia:ピウス12世 (ローマ教皇) より引用
    ピウス12世 1876年 – 1958年
    イタリアの聖職者。ローマ教皇(法王)(在位:1939年 – 1958年)。第二次世界大戦前後という困難な時代に教皇庁の外交担当や教皇を務めた。その間の対応には批判的な評価もある。ことにバチカンがナチス・ドイツのユダヤ人迫害に対してはっきりと非難しなかったことは、戦後激しく批判された。ただし、イタリアの敗戦によりドイツ軍がローマを占領すると、多くのユダヤ人をバチカンでかくまったとされる。

    これによって戦後、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」賞を贈られている。ナチスを公然と非難しなかったのは、ヒトラーを怒らせて、より残虐な行為を招きかねない刺激を避けたためとする説もあり。

    キリスト教を公然と迫害し、宗教を抹殺しようとする共産主義に対抗することは、ピウス12世のもとで反ナチスよりも優先されました。

    そのため、ナチスによるユダヤ人大虐殺、いわゆるホロコーストに際してバチカンは沈黙を守り続け、結果的に多くのユダヤ人の命が奪われることになったのです。ただし、命を賭してユダヤ人の救出に尽くしたカトリックの神父も少なからずいます。

    カトリックによる日本の支援は、戦後も行われたとされています。占領軍によって軍国主義の象徴とされた靖国神社を、取り除くべきか残すべきかで迷っていたマッカーサーに対し、ローマ教皇庁代表であったビッテル神父らが靖国神社存続のための懇願を行っています。

    そのことが占領軍の政策にどの程度の影響を及ぼしたのかは不明ですが、靖国神社は取り壊しを免れ、今日も存続しています。

    1980(昭和55)年5月21日には、A級戦犯・BC級戦犯として処刑された人々へのミサがサン・ピエトロ大聖堂にて法王ヨハネ・パウロ2世のもとで行われました。その際、1618柱の位牌が納められた五重塔(仏教的には位牌ではないとされる)がヨハネ・パウロ2世に奉呈されています。

    日中戦争
    wikipedia:ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇) より引用
    ヨハネ・パウロ2世 1920年 – 2005年
    ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年 – 2005年)。カトリック教会の聖人としてヨハネ23世とともに、ピウス10世以来60年ぶりに列聖された教皇。ハドリアヌス6世以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラヴ系教皇。全世界を訪問し「空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)」と呼ばれる。冷戦末期において、世界平和と戦争反対への呼びかけと、数々の平和行動を実践。他宗教や他文化との交流にも非常に積極的で、プロテスタント諸派との会合や東方正教会との和解に尽力。晩年は暗殺未遂事件に何度か巻き込まれる。

    カトリック教会と日本との戦時中の繋がりは、今日ではほとんど知られていません。

    その3.日本はソ連を侵略したのか

    ー 東京裁判で認定された日本によるソ連侵略 ー

    日中戦争
    ウィキペディア より引用
    東京裁判、公判中の法廷内

    東京裁判にて大東亜戦争は日本による一方的な侵略であると裁かれました。侵略戦争の遂行によって平和に対する罪を犯した者として、当時の政権の中枢にあった政治家や軍人が死刑に処されたことは、広く知られています。

    ですがその際、ソ連のゴルンスキー検事が1904(明治37)年から始まる日露戦争から1936(昭和11)年の日独防共協定、さらに張鼓峰(ちょうこほう)とノモンハンにて起きた日ソの軍事紛争を含め、日本が終始一貫してロシアに対して侵略戦争を遂行したと論告した事実は、あまり知られていません。

    判決文ではソ連の論告がほぼそのまま認められ、裁判所が審理している全期間(1928=昭和3年~1945=昭和20年)を通じて日本は対ソ侵略戦争を企図・計画したと見なされ、張鼓峰とノモンハンの軍事紛争は日本側によって始められた日本のソ連に対する侵略戦争であると認定されました。

    つまり東京裁判史観に従えば、日本はソ連を侵略したことになります。

    しかし、それは歴史的な事実とはあまりにもかけ離れた歴史観といえるでしょう。大東亜戦争中に日ソ間で起きた出来事のみを追いかけても、真実が見えてきます。

    1941(昭和16)年にドイツとソ連の間で独ソ戦争が起きた際、ドイツは日本に対して正式に参戦を要請してきました。しかし、日本は同年4月に日ソ中立条約を結んでいたため、独ソ戦不介入を決めています。

    モスクワやレニングラードがドイツ軍の猛攻の前に陥落寸前の危機に陥った際、日本が背後からソ連に攻め入れば、ソ連にとって致命的となることは明らかでした。日中戦争の最中でも日本はソ連からの侵略に備え、満州に関東軍の精鋭部隊を配置していたため、いつでも参戦しようと思えばできる状況でした。

    それでも日本は条約を守り、関東軍百万の兵は一歩も動きませんでした。

    東京裁判に際してパール判事は、日本がソ連を侵略する意図がなかったことについて次のように述べています。

    「日本は、ロシアが欧州戦争に巻き込まれていた好機を利用しなかった。もし行為が意思を示すものであるならば、これこそソ連に対する陰謀または共同謀議の存在とは、まったく反対の確証である」

    「日本が時に応じてどんなことをいったにしても、また、日本の準備がどんなものであったにしても、証拠は、日本がソ連と衝突することを避けようと念じていたことを十分に示している。日本は常に、かような衝突を恐れていたようである。ドイツの激しい要請さえも、日本に対して行動を起こさせることはできなかった」

    東京裁判 全訳 パール判決書』ラダビノード・パール著(幻冬舎) より引用

    日中戦争
    wikipedia:ラダ・ビノード・パール より引用
    ラダ・ビノード・パール 1886年 – 1967年
    インドの法学者・裁判官。コルカタ大学教授・国際連合国際法委員長を歴任。極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人。日本では「パール判事」と呼ばれることが多い。国際法の専門家としての立場から被告人全員の無罪を主張した「パール判決書」は、よく知られている。米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであると主張した。

    パール判事の弁は明快です。

    ところが立場が逆になったとき、ソ連はどうしたでしょうか?

    日本に原子爆弾が投下され、日本の戦力が完全についえたとき、そして日本政府が最後の頼みの綱として連合国との和平交渉をソ連に託していた最中、ソ連は150万を超える大軍を向けて満州侵略に踏み切りました。その際、婦女子を含め、多くの民間人がソ連軍によって虐殺・暴行・強姦されています。
    ▶ 関連リンク:4-9.満州の見果てぬ夢 – その4.開拓史上最大の悲劇

    日ソ中立条約をソ連は一方的に破棄して満州になだれ込んできたのです。これは明らかな国際条約違反です。

    しかもソ連に対して日ソ中立条約を破棄して参戦するように要請したのは、アメリカとイギリスでした。

    東京裁判に際し、このことをバイロン・ブライス米国陸軍法務官は、1945(昭和20)年12月に『ニューヨーク・タイムズ』紙にて次のように記しています。

    「東京裁判は、日本が侵略戦争をやったことを懲罰する裁判だが、無意味に帰すからやめたらよかろう。なぜなら、それを訴追する原告アメリカが、明らかに責任があるからである。ソ連は中立条約を破って参戦したが、これはスターリンだけの責任ではなく、戦後に千島、樺太を譲ることを条件として、日本攻撃を依頼し、これを共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりして懲罰しても精神的効果はない」

    東京裁判の正体』菅原裕著(時事通信社) より引用

    日中戦争
    wikipedia:ヨシフ・スターリン より引用
    ヨシフ・スターリン 1878年– 1953年
    ソ連の政治家・軍人。ソ連第2代最高指導者。チフリス高等神学校に在学中グルジアの愛国的社会主義団体に加入しマルクス主義に接近。神学校から追放された後、職業革命家となり革命まで逮捕・流刑・逃亡を繰り返す。ロシア革命ではレーニンを助けて活躍。レーニンの死後、一国社会主義論を唱えてトロツキーら反対派を次々に追放し、独裁体制を固めた。

    「スターリン憲法」を定め、膨大な数の党員を投獄・処刑する「大粛清」を実行。第2次世界大戦では国防会議議長・赤軍最高司令官として戦争を指揮。独ソ戦では緒戦で大敗北を喫したが、米英などと共同戦線を結成し対ドイツ戦を勝利に導く。ヤルタ会談に基づき日ソ中立条約を一方的に破棄して満州侵略、多くの日本人民間人を虐殺した。戦後は東欧諸国の社会主義化を推進。

    1945(昭和20)年2月に行われたヤルタ会談にてアメリカ・イギリス・ソ連が密約を交わし、ソ連による満州と北方領土への侵略がなされたことは、今日では歴史的な事実として確定しています。

    日中戦争
    https://blogs.yahoo.co.jp/tatsuya11147/57962461.html より引用
    密約を交わすルーズベルト・スターリン・チャーチルの画

    こうした歴史を検討してみると、ソ連が中立条約を一方的に破り日本を侵略したとしか考えようがありません。それにもかかわらず、東京裁判では事実が 180度ひっくり返り、日本が一方的にソ連を侵略したとして裁かれたのです。

    東京裁判がいかに真実を歪めるものであったのかを明らかにするために、裁判にて争点となった日独防共協定と張鼓峰・ノモンハン事件について、簡単に振り返ってみます。

    ー 日独防共協定は侵略か ー

    日中戦争
    https://blogs.yahoo.co.jp/gauss0jp/65219424.html より引用
    1938(昭和13)年、日独防共協定締結に伴い、ドイツに向けて神戸港を出発する大日本青少年独逸派遣団

    日独防共協定は1936(昭和11)年11月に日本とドイツの間で調印された協定です。「共産インターナショナルに対する日独協定」が正式名です。

    防共協定の目的は共産主義の破壊活動に対する防衛にあります。そのための情報交換を行い、必要な防衛措置について協議することが協定の骨子でした。

    問題となったのは、この協定に附属する秘密協定です。その内容は二つあり、ひとつは一方の国がソ連と開戦に至った場合には、他方の国はソ連に有利となるいっさいの行動を控えること、もうひとつは両国は相互の同意がないまま防共協定に反する条約をソ連と結ばないこと、の二つです。

    その内容から見てもわかるように、防共協定は日独の軍事同盟とはとても呼べない条約でした。日本とドイツの反共政策が、たまたま一致したことで協定が成立したに過ぎません。日本としてはイギリスをはじめ各国に防共協定への参加を呼びかけましたが、応えてくれたのがドイツだけだったのです。

    広田首相は枢密院審査委員会にて「決して我国がドイツの内政上の主義方針に賛意を表し、これと行動を共にすることを意味するものでないことは無論」と述べ、けして軍事同盟ではないことを表明しています。

    しかし、アメリカとイギリスは防共協定を反米・反英の軍事協定と曲解し、日本に対する疑念を募らせました。

    それゆえに東京裁判においても、防共協定をソ連への侵略を意図するものであると、あえて真実をねじ曲げたといえるでしょう。

    日中戦争
    https://jaa2100.org/entry/detail/045575.html より引用
    1936(昭和11年)、日独防共協定の締結後の祝賀会

    防共協定についてパール判事は「共産主義に脅威を感じていたのは、日本の軍国主義者のみではなかった」と述べたのち、それがソ連への侵略とする見解が間違いであることを理路整然と指摘しています。

    パール判事は、アメリカのヒューズ国務長官が1922(大正11)年に語った次の言葉を引用しました。

    「もっとも重大なことは、モスクワにおいて支配権を握っている人びとは、世界中のいたるところで、できるなら現存の諸政府を破壊しようとする彼らの最初の目的を放棄していないという決定的な証拠がある」

    日中戦争
    wikipedia:チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ より引用
    チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ1862年 – 1948年
    アメリカの政治家・法律家。ニューヨーク州知事を経てアメリカ合衆国最高裁判所判事を務める。大統領選に出馬したがウィルソンに敗れた。国務長官を務め、ワシントン会議を主宰して9ヶ国条約を結び、門戸解放主義を列強に認めさせた。のち、合衆国最高裁判所長官。

    アメリカでさえ共産主義の脅威について備えることをすすめておきながら、日本とドイツが防共のための協定を結んだからといって、どうしてそれが「侵略行為」になるのかと、疑問を投げかけたのです。

    パール判事は綴っています。

    「ともあれ、全世界は、共産主義およびその勢力の発展に対する恐怖に脅やかされていた。日本もまた、たんにその感を共にしたにすぎない。今日でさえも、世界はこの実際上、あるいは想像上の恐怖心からのがれることができないでいる。全世界は、共産主義および共産国家によってもたらされるおそれのある侵略に対し、過去においても準備をなしつつあったし、なお現在においてもその準備をしているのである。本官はとくに選び出して、日本の準備だけが、侵略的なものであった、といわなければならない理由を見出すことはできない」

    東京裁判 全訳 パール判決書』ラダビノード・パール著(幻冬舎) より引用

    パール判事の弁は極めて論理的で正当なものといえるでしょう。日独防共協定を日本がソ連を侵略しようとした証と見るのは、どこからどう見ても無理があるようです。

    ー どちらが軍国主義国か ー

    ソ連の軍事力は日本軍をはるかに圧倒していた

    東京裁判にて日本はナチスと並ぶ軍国主義国としての烙印(らくいん)を押されました。それ以降は世界的に、明治以降の日本は軍国主義国であったと見なされるようになりました。

    戦後教育を受けている私たちの多くは、それを疑うことなく素直に受け入れています。日本において昭和初期に軍部が台頭していたことはたしかです。しかし、歴史を振り返ったとき、帝国主義の時代にあって日本だけが軍国主義国であったと非難されるのも不可思議なことです。

    下の図は1931(昭和6)年から1939(昭和14)年までの日本とソ連の師団数・戦車数・飛行機数を比較したデータです。

    日中戦争
    『大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

    「ソ連軍の狙撃師団」は日本陸軍の歩兵師団にあたります。表を見れば一目瞭然ですが、師団数においてソ連は日本陸軍を圧倒しています。しかも、ソ連の狙撃師団と日本の師団では定員数が異なります。

    日本陸軍の一個師団の定員は1万名ですが、ソ連の狙撃師団は1万8千名です。一師団の定員数だけでも1.8倍の差があることに注意してください。

    ロシア革命により誕生したソ連軍は、日本をはるかに超えるスピードで軍拡へと走りました。日本がシベリア出兵を行った 1918(大正7)年8月の時点のソ連軍の兵力は33万です。

    ところが同年末には80万に増強され、1920(大正9)年1月には300万に膨れあがっています。それでも兵力の増強は止まることがなく、年末には550万もの大軍隊がロシアの地に誕生しています。

    ソ連の国家元首にあたる最高会議幹部会議長を務めたクリメント・ヴォロシーロフは、1930(昭和5)年から1939(昭和14)年までの10年間に、ソ連軍がどれだけ強くなったのかについて、次のように報告しています。

    「ソ連軍の戦車は四十三倍、飛行機は六・五倍、砲は七倍、対戦車・戦車砲は七十倍以上、機関銃は五・五倍、兵一人当りの機械力馬力数は三馬力から十三馬力に増強された」

    大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

    日中戦争
    wikipedia:クリメント・ヴォロシーロフ より引用
    クリメント・ヴォロシーロフ1881年 – 1969年
    ソ連の軍人・政治家。ツァーリツィン(のちのスターリングラード)防衛の最中、スターリンと緊密な関係を築く。その後、ウクライナ・ソビエト共和国内務人民委員・党中央委員・北カフカーズ軍管区司令官・陸海軍人民委員を経て、ソ連軍事革命評議会議長に就任し、翌年には政治局員となった。1930年代の大粛清では、いわばスターリンの執行者として中心的な役割を果たす。

    後に国防人民委員(国防相)に就任し、ソ連邦元帥の称号を得る。独ソ戦ではドイツ軍によるレニングラード包囲を許す結果をもたらし、北西方面軍司令官を解任される。スターリンの死後、ソ連の国家元首にあたる最高会議幹部会議長に選出される。ソ連邦英雄の称号を2回受賞。

    ソ連軍は短期間のうちに、まさに異常とも思えるほどの膨張を遂げたのです。

    このような軍拡を可能にしたのは、1928(昭和3)年から開始された「五カ年計画」の成果です。五カ年計画によってソ連は、半封建的農業国であったロシアを近代的な大工業国へと飛躍的に変身させました。

    ヴォロシーロフがソ連の工業化を急いだのは、ソ連の戦争能力を向上させるためです。「国の工業化がソ連の戦争能力を決定する」とヴォロシーロフは何度も繰り返しています。

    国家の総力を挙げて軍事大国化を急ぐソ連こそは、まさに軍国主義国そのものです。ところが世界は軍国主義国日本とは呼んでも、軍国主義国ソ連とは呼びません。不思議な話です。

    では、なぜソ連は異常なまでに軍拡に走ったのでしょうか?

    それはマルクス・レーニン主義では、一般大衆を搾取し続ける階級が存在する限り、国内においては闘争、国家間においては戦争を継続すべきものとして捉えたからです。

    レーニンは次のように述べています。

    「戦争は偉大な災厄である。もし戦争がプロレタリアの利益に役立ち、資本主義との闘争のためのものであるなら、かかる戦争はそれがもたらす犠牲や被害に拘らず進歩である。革命階級は革命戦争を放棄し得ない。なぜならそれは嗤(わら)うべき平和主義のための自己否認を意味する」

    ソヴィエト外交史研究 』田村幸策著(鹿島研究所出版会) より引用

    日中戦争
    wikipedia:ウラジーミル・レーニン より引用
    ウラジーミル・レーニン 1870年 – 1924年
    ロシアの革命家・政治家。学生時代から革命運動に参加、流刑・亡命生活を経て、二月革命後帰国。ボリシェビキを率いて十月革命を成功させ、史上初の社会主義政権を樹立。人民委員会議長としてソビエト連邦の建設を指導した。建国直後の干渉戦争と闘い、第三インターナショナル(コミンテルン)を組織して国際革命運動を指導、国際共産主義運動に多大な影響を与えた。

    晩年は病に倒れるなか、民族問題における大ロシア排外主義をきびしく戒め、スターリンを党書記長から解任するよう求める遺言を起草した。マルクス主義を帝国主義の条件にあてはめて創造的に発展させた革命家と評されている。政治・経済の分析から哲学に至るまでさまざまな著作を残し、その思想はレーニン主義として継承されている。

    階級をなくして社会主義をうちたてない限り、この世界から戦争をなくすことはできないとレーニンは考えました。だからこそソ連は、世界を平和にするためにこそ戦争を行う必要があるのだと主張しました。

    「ソ連の平和への努力は最高度の軍事的準備を伴はねばならない」とレーニンが語った通りに、ソ連はひたすら軍拡を推し進めたのです。

    ソ連は誕生の瞬間からすでに、軍国主義の申し子としての宿命を負っていたといえるでしょう。

    ソ連がどれだけの犠牲者が出ようと「進歩」とみなす「他国の階級を倒すための戦争」は、共産主義の立場から見れば解放であり、共産主義に属さない側から見れば純然たる侵略です。

    このようなソ連と日本と、果たしてどちらが真の軍国主義国に値したかは、それほど難解な問いかけではないでしょう。

    ー 日本の軍事力は他国に比べて強かったか ー

    日本軍国主義の象徴ともされる学徒出陣

    当時のソ連と日本の軍事力を比べてみると、ソ連の方がはるかに日本を上回っています。ロシア革命以降、急激に軍備を増強するソ連軍に対し、地理的に近い日本が脅威を感じたのは当然のことです。

    ソ連に対抗するために、日本もまたソ連の五カ年計画を参考に、産業の近代化と軍備増強を計ることになったのです。

    そのことをもって日本の軍備増強のみを世界の平和に対する脅威であると、アメリカやイギリスは見なしました。

    では、当時の主要国における陸軍の兵数を比べてみましょう。下の図は、満州事変と日中戦争直前の主要国の兵力数を表しています。

    日中戦争
    『大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

    軍事的な脅威とされた日本軍の兵数は欧米諸国や中国と比べてかなり巨大かと思いきや、表を見比べる限り、もっとも兵数が少ないことがわかります。

    八カ国中の八位という有り様です。表だけを見て「どの国が果たしてもっとも平和主義の国か」と問われたなら、兵数がもっとも少ない日本と答える人が、きっと多いことでしょう。

    もちろん、兵力の差のみが軍事力を決定付けるわけではありません。しかし、日本の人口は中国・アメリカ・ソ連には及ばないものの、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアを上回っています。それなのに総人口に比して兵数が少ないという事実は、日本の軍備増強が「日本軍国主義」と叩かれるほどには膨大でなかったことを物語っています。

    「日本軍国主義」のイメージは、膨れあがった虚像といえるかもしれません。

    軍事力の強大さからみても、他国への侵略を露わにする国家の体質から見ても、少なくとも日本は軍国主義国家ソ連の足下にも及ばなかったといえるでしょう。

    その4.専守防衛に徹した張鼓峰事件

    ー 張鼓峰事件のあらまし ー

    次に、東京裁判にて日本軍によるソ連への侵略とされた張鼓峰事件について振り返ってみます。

    張鼓峰は満州国東部とソ連が国境を接している山の一つです。満州国とソ連との国境線は清国とロシアが交わした条約に基づいていますが、ロシア語と漢文で国境線が異なっている箇所もあり、国境線が定かでない場所もいくつか存在していました。

    日中戦争
    http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/futuin/nomon.htm より引用
    張鼓峰とノモンハンの位置を表す地図

    そのため日本とソ連の間で国境紛争が数多く発生していました。日本側はソ連に対して話し合いによって国境線を明確にすることを幾度となく提案してきましたが、ソ連側はこれを拒否し、紛争が発生した場合のみ討議すべきであるとの主張を繰り返しました。

    国境線が曖昧(あいまい)なことは、侵略意図をもっている側にとって好都合であることは、説明するまでもないことです。国境線を明確に定めることを拒否したのは、いつもソ連側でした。

    張鼓峰も国境線がはっきりしていない場所です。ロシアと清国が交わした条約によるとロシア語では張鼓峰とそれに連なる丘陵の東側がロシア領であると主張し、漢文では頂上を越えて高地帯の東側である張鼓峰と長池(ハーサン湖)の中間に国境線を引いていました。

    日本は国境をめぐってソ連と紛争が起きることを恐れ、1936(昭和11)年3月以来、「国境不明確地域には配兵しない」方針をとっていました。張鼓峰にはも一兵も出していません。

    ソ連も張鼓峰の頂上には、これまで兵を進めることはありませんでした。

    ところが1938(昭和13)年7月9日、突然ソ連軍が張鼓峰の頂上に姿を現し、満州国側である西側斜面に陣地を構築し始めたのです。ロシア語の条約に従えば張鼓峰の頂上まではソ連領になりますが、頂上から西側は明らかに満州国領です。

    つまりソ連側は国境線を越え、満州国内に勝手に陣地を築いていることになります。これは日本側から見て明らかな国境侵犯行為でした。

    日本側はあくまで外交交渉で事態の解決を図る方針をとりました。西春彦駐ソ代理大使がソ連のストモニャコフ外務次官に抗議し、ソ連軍の撤退を求めています。

    しかし、ソ連側は事件発生地点はソ連領だと主張し、撤退を拒否しました。そこで日本は万一の事態に備え朝鮮軍(張鼓峰は朝鮮国境に近いため、関東軍ではなく朝鮮軍が防衛にあたっていた)を張鼓峰の正面に展開させますが、武力行使は中央の指令があるまで行ってはならないと厳命しました。

    日本側は重光駐ソ大使がソ連に対して重ねて張鼓峰での「不法行為」について抗議しましたが、ソ連側にまたも拒絶されます。

    そんな折り、7月29日にソ連軍が今度は張鼓峰の北方約二キロにある沙草峰に進出し、再び陣地を作り始めたのです。ソ連軍による度重なる国境侵犯に危機感を強めた日本軍は、沙草峰へのソ連軍の侵攻を張鼓峰とは別の新たな侵攻であると判断し、ついに反撃を開始しました。

    かくして日本軍とソ連軍は交戦状態に入りました。張鼓峰からも砲撃を受けたため、沙草峰と張鼓峰のソ連軍に対しても日本軍は反撃し、夜襲の成功によって翌朝には両嶺を占領しました。

    それでも日本は漢文で示された国境線を越えてソ連領に入ることはしませんでした。国境線を一歩も超えてはならないとの陸軍中央の支持を守ったのです。

    張鼓峰事件において、日本軍は一度たりとも国境線を越えませんでした。

    ー 圧倒的な戦力差なれど、国境侵犯を許さず ー

    日中戦争
    『張鼓峰事件 1938』山崎雅弘著(六角堂出版)より引用
    張鼓峰事件のあらましを表す地図

    8月1日からソ連軍による猛攻が始まりました。ソ連は張鼓峰と沙草峰を取り返すために、100機を超える空軍機を戦場に送り、日本軍を爆撃しました。

    さらに戦車150両も投入され、日本軍に襲いかかりました。戦力の差は歴然としていました。ソ連軍がもっている大砲は60門、対して日本軍はその3割にも満たない17門を有するのみです。

    戦局の拡大を防ぐため、軍中央は航空部隊も戦車もいっさい投入することを禁じました。現状のまま専守防衛に徹するようにと命じたのです。それは現地軍からすれば、あまりにも過酷な命令でした。

    張鼓峰事件において、ソ連軍と日本軍で投入された戦力を比較したのが下の表です。

    日中戦争
    大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

    歩兵の数は常にソ連軍が日本軍の2倍から3倍、大砲の数でも3倍、戦車と飛行機に関しては日本軍がまったく投入しなかったにもかかわらず、ソ連軍は大量に戦場に送り込んでいます。

    客観的に見て、これだけ戦力に差が付いてまともに戦えるとは考えられません。ソ連軍の戦車に対して、日本軍は体当たり覚悟で近づき、爆雷を投げつけるなど肉はく戦に活路を見出すよりありませんでした。あまりの激戦に日本軍は手榴弾さえ事欠く有り様でした。

    日中戦争
    ウィキペディア より引用
    沙草峰にてソ連軍戦車に肉迫攻撃する川村上等兵等。日本軍は戦車に対して肉はく戦で戦うよりなかった。

    五二高地と名付けられた陣地には200両もの戦車が押し寄せ、3倍から4倍のソ連兵が100機から150機の航空戦力による支援を受けて襲いかかってきました。戦車も飛行機も投入していない日本軍は裸同然です。

    しかし、数時間の激闘に耐え、日本軍は五二高地を守り抜きました。ただし、被害は甚大でした。この戦いだけで、戦闘についた3400人の兵のうち戦死者300人、負傷者700人に達しています。まさに死闘でした。

    圧倒的な戦力差があるにもかかわらず日本軍は専守防衛に徹し、張鼓峰と沙草峰の頂上を守り抜いたのです。

    8月10日、重光駐ソ大使によるソ連との停戦協定がついに成立し、10日の夜12時の時点で停戦となることが決まりました。停戦時間まであとわずかとなり、最後にソ連軍は火力を集中させ猛攻撃に出ましたが、日本軍は頂上を占拠し続けました。

    日中戦争
    wikipedia:重光葵 より引用
    重光葵(しげみつ まもる) 1887(明治20)年 – 1957(昭和32)年
    第二次世界大戦期の日本の外交官(外相)・政治家。満州事変当時は駐華公使。1943年11月の大東亜会議を開くために奔走した功績は高く評価されている。敗戦後は日本政府の全権として降伏文書に署名した。東京裁判ではA級戦犯として起訴され、禁固7年の有罪判決を受ける。釈放後は外相として日本の国連加盟を成功させた。

    ソ連軍による国境侵犯をついに許さなかったのです。

    こうして張鼓峰事件は終わりました。総動員兵力はソ連軍3万人に対して日本軍9千人。死傷者は日本軍1,500名、ソ連軍3,500名でした。

    ところが……。停戦を受けて日本軍が全軍撤退した後、あろうことかソ連軍は初めに陣地を構築した場所に20キロに渡って鉄条網を張り、野戦陣地を構築してしまいました。根拠が不明なまま、ソ連は自らが一方的に主張する国境線を力尽くで確保したのです。

    それは完全なだまし討ちでした。

    ー 侵略したのはどちらか ー

    日中戦争
    ウィキペディア より引用
    ソ連軍機による張鼓峰爆撃。空からは爆撃機、陸からは戦車を用い、圧倒的な戦力で攻撃された。しかし、歴史はこれをもって日本軍によるソ連侵略と断定した。

    以上が張鼓峰事件の概略です。張鼓峰事件は東京裁判にて次のように判決されました。

    「裁判所は、日本側の攻撃を正当化する唯一の理由となるソ連が口火を切ったといふことの証拠を少しも見出すことができない。すべての証拠から見て、本裁判所は、ハサン湖に於ける日本軍の攻撃は、参謀本部と陸軍大臣としての板垣とによって故意に計画されたといふ結論に到達した。その目的は同地区のソビエト側の勢力を打診してみるか、ウラヂオストアクと沿海洲への交通線を見下す高台の戦略上重要な地点を奪ふかのどちらかであった。

    相当の兵力を基にして計画され実行された攻撃なので、これを国境警備隊間の単なる衝突と見倣すことはできない。日本側が先に敵対行為を開始したといふことも本裁判所が満足するところまで立証されてゐる。当時存在してゐた国際法と、予備的外交交渉で日本側代表がとった態度とを考慮すれば、日本軍の作戦行動は明白に侵略的なものであった」

    大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

    戦略的価値のまったくなかった張鼓峰から日本軍がソ連を侵略する周到な計画を立てていたとの判断は、もはや滑稽(こっけい)としか言いようがありません。

    紛争が拡大しないように戦車も飛行機さえも投入しなかった日本軍と、惜しみなく戦車も飛行機も大量に注ぎ込み、圧倒的な兵力で押し寄せたソ連軍と、果たしてどちらが侵略する側であったのか、あまりにも明らかです。

    張鼓峰事件の判決は、茶番劇としての東京裁判を象徴しています。

    その5.ノモンハン事件の真相とは

    ー ノモンハン事件とは ー

    張鼓峰事件よりもさらに大きな武力紛争に発展したのが、ノモンハンです。ノモンハンは外モンゴルと満州国が接する地域です。草原と砂漠が続くだけに、もともと国境線が定かではなかった場所でした。

    日中戦争
    愚かさの序章 第2次大戦の始点となった「ノモンハン事件」』(朝日新聞社)より引用

    事の発端は満州人とモンゴル人による草原の奪い合いです。満州国の後ろに控えていたのは日本の関東軍であり、モンゴル国の後ろに控えていたのはソ連軍でした。満州人は関東軍に訴え、モンゴル人はソ連軍に訴え、子供の喧嘩に親が出ていくように関東軍とソ連軍が血を流す結果となったのです。

    かくして1939(昭和14)年の5月から9月までの約4ヶ月にわたり、日満(日本と満州)軍とソ蒙(ソ連とモンゴル)軍との間で激しい戦闘が繰り返されました。局地的な戦闘というよりは、「戦争」と呼んだ方がふさわしい激闘でした。

    日中戦争
    ウィキペディア より引用
    ノモンハンの広大な平原を進軍する日本陸軍第23師団の兵士

    陸軍中央は張鼓峰事件と同じく不拡大方針をとり、「侵されても侵さないこと」を望みました。一方、関東軍は張鼓峰事件にて朝鮮軍が専守防衛に徹したことで苦境に立たされ、結局のところ国境線を侵犯された過程を見ているため、「侵さず侵されず」を軍の方針としました。

    中央の命令を無視したまま、戦線は拡大しました。張鼓峰事件のときのように「何があっても絶対に国境線を越えてはならない」とする原則も守られることはなく、戦略上必要であれば一時的に国境線を越えてもよいとされました。

    ソ連軍に対抗して、今回は戦車も飛行機も投入されました。しかし、ソ連の近代化された機械化軍団の前に日本の軽戦車はたちまち撃破され、ノモンハンの守備にあたった師団は全滅に近い損害を出し、日本軍は大敗したとされています。

    ー 停戦をめぐる駆け引き ー

    日中戦争
    https://ameblo.jp/jtkh72tkr2co11tk317co/ より引用
    ノモンハンにて日ソの停戦が成立

    そこへ9月1日、世界を揺るがすニュースが駆け巡りました。ドイツがポーランドに侵攻したことにより、第二世界大戦がいよいよ始まったのです。

    これを受けて大本営は関東軍に対して攻撃中止を命じました。それでも関東軍がなお攻勢を主張したため、ついに関東軍司令官をはじめ参謀長などを更迭するに至りました。

    ソ連側の主張する国境線を認めることで、ノモンハン事件の停戦協定が成立したのは9月15日でした。

    その2日後、またも電撃的な報道が世界を震わせました。ソ連軍もポーランドに侵攻したのです。実はドイツとソ連との間で秘密協定が交わされており、ポーランドを分割して統治する取り決めが予め為されていました。ソ連はさらに、ポーランドの北方にあるフィンランドへも11月に侵攻しています。

    もちろん、ノモンハンの停戦協定を結ぶ時点で日本側がそのような計画について知るはずもありません。されどもし日本側が停戦を望まず、停戦協定が結ばれていなかったとしたなら、果たしてソ連によるポーランドとフィンランドの侵攻が行われていたかどうか、疑問が残るところです。

    ノモンハン事件の責任をとるかたちで、参謀本部でも稲田正純作戦課長などが更迭となり、新たに武藤章が陸軍省軍務局長に就任しています。武藤の登場により、大東亜共栄圏の構想は次第に具体化されることになります。

    日中戦争
    wikipedia:稲田正純 より引用
    稲田正純(いなだ まさずみ) 1896(明治29)年 – 1986(昭和61)年
    大正-昭和時代の軍人。最終階級は陸軍中将。フランス陸軍大学に留学後、参謀本部作戦課長となり、日中戦争の拡大を成し遂げた。ノモンハン事件の処理に当たる。大東亜戦争勃発時は第5軍参謀副長。その後南方を転戦、インパール作戦実施に強硬に反対し更迭された。

    第六飛行師団長心得としてニューギニア島のホーランディアに駐屯していた際、米軍の奇襲上陸を受け、大部分の部下を見捨てて後方に脱出したことで停職二か月の処分に付された。敗戦時は本土決戦の主戦場に予定された九州地区の第16方面軍参謀長。九大における捕虜の生体解剖事件と敗戦時の米軍機乗員の捕虜殺害事件の責任を問われ、B級戦犯として巣鴨拘置所に収容、のちに釈放。

    日中戦争
    wikipedia:武藤章 より引用
    武藤章(むとう あきら) 1892(明治25)年 – 1948(昭和23)年
    大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件では参謀本部作戦課長として拡大論を主張し、不拡大派の石原莞爾を中央から追った。中支方面軍参謀副長になり南京攻略を指導。軍務局長となり東條英機の腹心として活動。対米開戦の回避に尽くした。開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條らと対立。太平洋戦争中はスマトラ・フィリピンで指揮をとる。終戦後、A 級戦犯として死刑。

    ー ノモンハンの勝敗が分けた日本の運命 ー

    日中戦争
    ウィキペディア より引用
    壊れて動けなくなったソ連軍装甲車の横で九二式重機関銃を撃つ日本兵、ノモンハン事件で有名な写真の一つ

    ノモンハン事件のあらましについて紹介しましたが、今日では新たな発見により、ノモンハン事件の評価が大きく塗り変わっています。

    ソ連崩壊に伴いノモンハン事件の秘密資料が公開されたことで、ノモンハン事件の真相が明らかになりつつあるからです。

    ノモンハンに投入された日本軍は3万、そのうち戦死傷者は1万7千人とされています。従来まではソ連軍の戦死傷者が8千人と発表されていたため、ノモンハンで日本軍は大敗したと見なされていました。

    そのため、近代化されたソ連の軍備と日本の貧相な軍備が槍玉に挙げられ「ノモンハンでの反省を活かせないまま大東亜戦争に突入して、日本はまたも大敗した」と一般的には総括されていました。

    ところが、公開されたソ連の資料によると、参戦した7万7千人のうち戦死傷者が 2万6千人にも上ることが判明したのです。

    さらに、日本軍の戦車の損失が 29台、飛行機の損失が 179機であったのに対し、ソ連は戦車・装甲車両 800台以上、飛行機 1673機を失っていることがわかっています。

    こうなるとノモンハンで大敗したという従来の通説は覆ってしまいます。当時の参謀本部はノモンハンでソ連に大敗したという認識のもとで、その後の方針を定めています。

    日中戦争
    ウィキペディア より引用
    ソ連軍の戦車・装甲車を捕獲して万歳する日本軍兵士

    当時の日本の仮想敵国はアメリカとソ連でした。ソ連軍が強いという認識の上でソ連との戦いを避け、南進へと大きく傾いていくことになったのです。日本軍の南進はアメリカ・イギリスとの対立を招き、大東亜戦争へとひた走る結果となりました。

    もし、ノモンハンにてソ連軍は大したことがないという認識に立っていたならば、日本は南進ではなく北進を選び、戦う相手をアメリカではなくソ連に据えていたのかもしれません。

    ノモンハンの勝敗の行方は、日本の進むべき道を180度変えたといえるでしょう。

    ともあれノモンハンで大敗したと日本側が受け止めたことで、歴史は日米開戦へ向けていよいよ動き出すことになります。

    なぜ日米開戦へと至ったのか、その詳細については章を改め、第4章としてお届けします。

    ここまで大航海時代から始まるヨーロッパ列強による侵略の実態から始め、明治以降の日本の軍事大国化の過程を追いかけてきました。そのすべての流れがひとつとなり、奔流となって日米開戦へと流れ込むことになります。

    従来の通説である「日本が一方的に侵略した」という固定観念で歴史を見つめるのであれば、日米開戦に至る事情は簡単に説明できます。

    しかし、日中戦争をつぶさに検討してみれば明らかなように、日本の侵略だけでは片付けられない複雑な背景が、歴史には埋もれています。

    教科書には載っていない日米開戦の物語を、次回より紐解いていきます。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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