More

    #26 盧溝橋に鳴り響いた一発の銃弾

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    第1部 3章 泥沼の日中戦争(1/10)日中戦争は何を語るのか

    5.泥沼の日中戦争へ

    5-3.コミンテルンの謀略が生んだ抗日戦線

    その1.西安事件から一致抗日へ

    ー 抗日民族統一戦線の結成 ー

    ロシア革命によりソ連邦が誕生して以来、資本主義の国家にとって共産主義は大いなる脅威でした。その中核を担っていたのが、モスクワに創設された各国共産主義政党の国際統一組織「コミンテルン」でした。

    中国においても、コミンテルンの支援を受けた中国共産党(中共)が1931(昭和6)年11月に江西省瑞金(ずいきん)において、毛沢東を主席とする中華ソビエト共和国臨時政府を樹立しています。

    日中戦争

    wikipedia:毛沢東 より引用
    毛沢東(もう たくとう、マオ・ツォートン) 1893年 – 1976年

    中国の政治家・思想家。中国共産党創立に参加。農村から都市を包囲する戦略で党と紅軍の指導権をにぎる。江西省瑞金において中華ソビエト共和国臨時政府を樹立。長征を開始、革命根拠地を陝西省に移動。日中戦争では国共合作を成し遂げ、抗日戦を指導。戦後は蒋介石の国民党軍を破り、中華人民共和国を建国、初代国家主席となる。党・国家の官僚化を批判して中国文化大革命を発動。全国的に過激な運動を展開した。

    多くの犠牲者を生んだこの運動は、毛の死後に完全な誤りであったと認められた。文化大革命によって、世界で最も多くの人間を殺した独裁者として名前が挙げられることが多い。天安門事件の発生により鄧小平の解任と華国鋒の総理就任を提案した後、84歳にて死去。

    これに対し、1933(昭和8)年の春、蒋介石率いる国民政府軍は135万に及ぶ兵力をもって瑞金を包囲し、その息の根を止めるべく追い詰めました。日本との関係が改善していたため、中共の討伐に集中できたためです。

    たまりかねた中共軍(紅軍)は瑞金を捨て、十万の兵を率いて西方へと脱出しました。彼らは1万2千5百キロをひたすら逃げ走り、陳西(せんせい)省延安に落ち延びます。いわゆる長征です。

    当初、十万いた兵は延安にたどり着いたときには6千人にまで減っていました。あとから駆けつけた兵を併せても3万ほどです。

    風前の灯火となった中共はコミンテルンの指導の下に八一宣言を発表し、「抗日救国のために全同胞に告げる書」として内戦停止と一致抗日を呼びかけました。

    中国の民衆は中共の叫ぶ「抗日」の理念に酔いました。蒋介石がいくら排日を禁じたところで、中国の民衆のなかに脈打つ反日の思いはくすぶり続け、中共が軽くマッチを擦っただけで燎原(りょうげん)の火の如く燃えさかったのです。

    満州事変から華北分離工作への流れは中国人のナショナリズムを呼び起こし、日本を中国から追い出すという目標に向けて中国人を結束させるに十分でした。

    学生たちが内戦停止を要求して参加者十万と称せられるデモを起こしたことを皮切りに、抗日救国運動は全国的に広がりました。中国各地に抗日を目的とする救国会や救国連合が成立しています。

    ー 「最後の5分間」からの大逆転 ー

    八一宣言後も国民政府軍は中共に対して、軍事的な圧迫を緩めてはいませんでした。12月に入り、蒋介石は遅々として進まない中共討伐に業を煮やし、げきを飛ばすために張軍のいる西安を訪れました。

    蒋は手記に中共の息の根を止めるまで「最後の5分間」のところまで来ていたと綴っています。もし、蒋が最後の5分間の仕上げを行っていたとしたなら、その後の世界の歴史は大きく変わったことになります。蒋自身も中共に追われて台湾に逃げ込むこともなければ、中国が共産党に支配されることもなかったことでしょう。

    ところが歴史は、最後の5分間から中国共産党を蘇生させます。その発端となったのは、西安事件です。西安事件とは 12月12日の早朝、西安の温泉地に滞在していた蒋介石一行が南京政府を裏切った張学良軍によって逮捕監禁された事件です。

    日中戦争

    wikipedia:張学良 より引用
    張学良(ちょう がくりょう) 1901年 – 2001年

    中華民国の軍人・政治家。張作霖の長男。張作霖が日本軍により爆殺されると、後継者として東北の実権を掌握。蒋介石の国民政府と提携するにいたり、東北全土で青天白日旗を掲揚した。満州事変で地盤を喪失後、内戦停止と抗日を主張して蔣介石と対立し、西安事件を起こした。第二次国共合作後、蒋によって監禁され、台湾に幽閉された。1990年軟禁を解かれ、長寿を全うしてハワイ州ホノルルにて没。

    中共はコミンテルンが命じるままに、周恩来らを派遣して蒋の説得に当たりました。そこでどのような合意が為されたのかは今日でもはっきりしていません。しかし、蒋と中共の間で内戦の停止と一致抗日についての了解が為されたことは間違いありません。

    日中戦争

    wikipedia:周恩来 より引用
    周恩来(しゅう おんらい) 1898年 – 1976年

    中国の政治家。日本に留学後、天津で五・四運動に参加し投獄された。フランス留学中に中国共産主義青年団の創立に加わり、翌年中国共産党に入党。帰国後、黄埔軍官学校政治部主任。北伐の時に上海で活躍。

    四・一二クーデタで逮捕されたが脱出し南昌蜂起に参加。のちソ連に赴く。革命軍事委員会副主席として長征に参加。西安事件の際には国共合作に尽力し、抗日戦中は重慶にあって抗日民族統一戦線の結成に尽くした。晩年には対米政策の調整にも努力し、国務院総理在職のまま死去。

    西安事件は南京政府と中共との間で繰り広げられていた内戦を終結させ、中国人が一致団結して抗日戦線を張る礎となったのです。

    西安事件後の中国大陸に漂っていたのは、対日憎悪の激しい炎だけでした。

    日本と中国が手を携えて欧米列強に対抗しようとした東亜連盟の夢は、ここについえました。日中の対立は、もはや避けられない運命にあったといえるでしょう。

    5-4.すべては盧溝橋事件から始まった

    その1.近衛首相の登場

    1937(昭和12)年6月、近衛文麿内閣が誕生しました。

    近衛の人気は異常なほどでした。政界や軍人、財界、右翼も左翼も、そして国民も、近衛内閣の誕生を熱烈に歓迎したのです。

    日中戦争

    wikipedia:近衛文麿 より引用
    近衛文麿(このえ ふみまろ) 1891(明治24)年 – 1945(昭和20)年

    大正-昭和時代前期の政治家。第34・38・39代内閣総理大臣。五摂家の筆頭の家柄に生まれる。パリ講和会議には西園寺公望らの全権随員として参加。貴族院議長を経て以後三度組閣。第一次内閣にて日中戦争中に「国民政府を相手にせず」の近衛声明を発表し和平の道を閉ざした。

    東亜新秩序声明を出す。第二次内閣では武力南進方針を採用し、日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会の創立を行う。第三次内閣で日米交渉に当たるも東条英機と対立して総辞職。敗戦後に国務相として入閣、憲法改正などにあたった。戦犯に指名され、服毒自殺を遂げた。

    近衛は議員に当選したこともなければ、閣僚としての経験もまったくありません。その能力は未知数です。それにもかかわらず近衛が国民の期待を一身に背負ったのは、近衛の家柄にあります。

    近衛家は代々の朝廷に使えた公卿(くぎょう)の家系です。しかも近衛家と言えば、由緒正しい五摂家の筆頭にあたる家柄です。つまり天皇家に次ぐ名門の出身なのです。

    しかも、身長180センチの長身で容姿端麗、一高・京大・東大で学んだインテリであり、まだ45歳という異例の若さの首相です。これだけ条件が揃うと、さすがに庶民から見ればまぶしいほどの貴公子です。当時の新聞は「未知数の魅力」と近衛を持ち上げています。

    しかし、日中の全面戦争へと発展していった歴史的な経過を振り返るとき、近衛文麿という人物が為したことの数々は、そのことごとくが毒を含むものでした。歴史を冷静に振り返ったとき、政治家としての能力と才能に近衛が恵まれていなかったことが浮き彫りになります。

    国難の降りかかる時期、明治の頃のような有能な政治家に恵まれなかったことは、昭和の日本にとっての悲劇でした。

    その2.盧溝橋事件とは

    日中戦争

    図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用

    慮溝橋事件の第一報。1937(昭和12)年7月9日付『東京朝日新聞」夕刊。「北平」は現在の「北京」のこと。当時は中国のことを「支那」と呼んでいた。

    盧溝橋(ろこうきょう)は現在の北京の西南およそ18キロにある由緒ある石橋です。盧溝橋畔に何万坪かの不毛の荒れ地があり、日本の駐屯兵は中国側の許可を得た上で、ここを練兵場として使っていました。毎年7月が中隊の教練検閲期にあたるため、日本軍はその荒れ地で日夜教練を行なっていたのです。

    事件は1937(昭和12)年7月7日の夜半近くに起きました。いつものように夜間訓練を行っていた日本軍に対して、どこからか小銃弾が撃ち込まれたのです。この銃撃が発端となり日中両軍が衝突し、双方に数名の死者が出ることになりました。これを「盧溝橋事件」と呼びます。

    最初の銃弾が中国側から撃たれたことは通説となっています。また、そのときの中国軍のなかに共産党の工作員が潜り込んでおり、日中戦争が起きるように画策したとの説もありますが、確証には至っていません。

    ただし、周恩来が首相として次のような公式な発言をしています。

    昭和十二年七月七日【盧溝橋事件】(支那事変勃発)
    あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、
    日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、
    日華両軍の相互不信を煽(あお)って停戦協定を妨害し、
    我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ
    周恩来(昭和二四年「中華人民共和国」成立の日、首相として発言)

    一気に読める「戦争」の昭和史1937~1945』小川榮太郎著(扶桑社) より引用

    少なくとも盧溝橋事件に関しては、日本側に満州事変のような謀略はなかったと考えてよいでしょう。

    日中戦争

    大東亜戦争への道」中村粲著(展転社)より引用

    闇夜を切り裂いた銃弾からすべては始まりました。小さな紛争に過ぎないと思われていた盧溝橋事件が日中間のすれ違いから全面戦争となり、やがて日米戦争へと発展していくことになったのです。

    その意味ではあの夜、盧溝橋に鳴り響いた一発の銃弾こそが、1945(昭和20)年8月6日の広島、8月9日の長崎を呼び寄せたといえるでしょう。
    大東亜戦争は、その一発の銃声から始まったのです。

    その3.盧溝橋事件はなぜ起きたのか?

    盧溝橋事件は日中間の軍事的緊張が張り詰めたなかで起きました。日中の対立が深まったのは、日本が1771人だった支那駐屯軍を5774人に増兵したことがきっかけです。

    日中戦争

    図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
    日本の支那駐屯軍は条約に基づき配置されていた

     
    支那駐屯軍は一般に「天津(てんしん)軍」と呼ばれています。増兵の背景には、関東軍の暴走を抑えたいという石原たち参謀本部の思惑が絡んでいました。

    当時は天津軍の兵数が少ないため、関東軍が北支に度々ちょっかいを出す状況が生まれていました。このままでは、いつまた関東軍が暴走を始めるかもしれないと危惧した参謀本部は、天津軍の兵数を増やすことで関東軍を力尽くで抑えようと図ったのです。

    しかし、そんな事情が中国側に伝えられるはずもありません。不測の事態が起きているわけでもないのに突然増兵に踏み切った日本軍の不気味な行動は、中国の人々に「満州のように、日本軍が北支を侵略しようとしているのではないか」という疑念を抱かせました。

    危機感を募らせた中国の民衆は反日への思いを燃え上がらせ、一触即発の暗雲が天津軍を覆っていました。

    日中関係が危険水域に達していることは、海外のメディアから見ても明らかでした。ロンドン・タイムズは伝えています。

    「日本軍が連日敢えて行っている刺戟的な夜間演習によって、何らかの不祥事が起らなければ、これこそは奇蹟というものである」

    日中双方の張り詰めた空気のなかで、事件は起こるべくして起きた結果といえるでしょう。

    はじめは日本にしても中国にしても、盧溝橋事件が大きな紛争に発展するとは考えていませんでした。小さな紛争は今までも繰り返されていただけに、今回もすぐに解決するだろうと互いに軽く考えていた節が見受けられます。

    ところが、日中両政府ともに予期しなかった方向へと、盧溝橋事件は勝手に歩き出したのです。

    その4.近衛の出兵声明

    小競り合いが起きるかもしれないと予測していただけに、盧溝橋で撃ち合いになったとの報せを受け取った参謀本部と陸軍省の対応は冷静でした。8日の午後には「事変拡大すべからず、兵力行使すべからず」の命令が参謀総長から天津軍司令官に発せられています。

    反対派を抑え、事変不拡大の方針を断固として打ち立てたのは参謀本部第一部長の石原莞爾です。石原は終始、日中戦争には反対し続けました。9日には閣議が開かれ、政府も「事件不拡大・現地解決」の方針を決定しています。

    現地の天津軍にも事変を拡大させる気はなく、武力を使うことなくあくまで話し合いによってまとめるべく、中国側(北京政権)に和平案を持ちかけました。その内容は、中国側が非を認めて今後大いに注意するという威圧的なものでした。

    これまで華北で繰り返されてきたように、中国側が折れてすぐに話がまとまるだろうと軍部は高をくくっていました。ところが、予期しない中国側の強い態度に戸惑うことになります。

    中国にしてみれば、これまで日本軍の武力を背景に不利な条件を呑まされ続け、屈辱に耐えてきたのです。もはや我慢の限界でした。抗日への思いは憤怒となり、中国を覆っていたのです。

    満州事変で石原たち若手将校が暴走したように、中国においても若い将校たちは老師団長のいさめる声を聞くことなく、徹底抗戦を叫びいきり立っていました。そのため日中間で小規模の撃ち合いが繰り返されています。

    ついには日本軍がなだれ込むとの憶測も流れ、北京では二個師団が城門を守る臨戦態勢に入るとともに、国民政府は正規軍数万を北上させる動きを見せました。

    これに慌てたのが陸軍と日本政府です。「不拡大」の方針を打ち出したものの、天津軍はわずか5千人ほどです。そこへ数万の中国正規軍に襲いかかられたのではたまりません。北支方面に在留している日本人の生命財産を守るには、援軍を送るよりありませんでした。

    参謀本部は10日に兵力の増派を要すと断定し、関東軍の精鋭を集めた一個旅団を早くも山海関(万里の長城の一部を構成する要塞)に送り、他の一個旅団は長城を越えて北支へ、空軍一部隊も天津へ送りました。

    さらに政府は11日、万が一の事態に備えて「北支派兵」を閣議決定しました。

    不可思議なのは天皇の裁可を受けた後、近衛が政府声明として派兵を派手に公表したことです。

    「政府は本日の閣議において重大決意を為し、北支派兵に関し政府としてとるべき所要の措置をなすことに決せり」

    それは二日前に決した「事変不拡大」の方針が180度変わったことを、内外に知らしめることになりました。

    声明のなかで近衛は、中国側に平和的交渉に応ずる誠意が欠けていること、兵力を増強して武力抗日の意図をあらわにしたことを非難し、「今次事件はまったく支那側の計画的武力抗日なることもはや疑いの余地なし」と断言しました。

    この声明により、中国に渦巻く抗日の機運に火に油を注ぐ結果となったことは指摘するまでもありません。

    歴史家の多くは、このときの近衛の出兵声明を解せないとしています。出兵はやむを得ないとしても、機密にしておけばよい話だからです。

    実はこの声明の数時間前、現地で懸命に和平への努力を続けていた天津軍と中国軍の間に、ついに調印が交わされ、停戦協定が成立していたのです。

    声明を出した後にこれを知った近衛は内地からの派兵を差し控える決定を下しましたが、後の祭りです。

    物々しい近衛の派兵声明を中国は、日本による高圧的な脅しと受け取りました。日本に対して安易な妥協策をとるべきではないとする強硬論が、大勢を占めるに至ったのです。

    12日、蒋介石は「中央政府の同意のない現地協定は無効である」と日本大使館に通知してきました。

    中国側への配慮に欠けた近衛の出兵声明が、現地の停戦協定を吹き飛ばしたといえるでしょう。もし出兵声明がなければ、このときの停戦協定により、事件は早々に解決していたかもしれません。

    その5.蒋介石の「最後の関頭演説」と師団単位の初衝突

    関東軍の出動と近衛の出兵声明は、中国側の神経を逆なでしました。第二の満州事変を恐れた蒋介石は、大至急正規軍の北上を開始させています。北京政権に対しては、不利益な停戦条件を受け入れないように厳命しました。

    もはや中国内にあふれる抗日への思いは止めようもなく、7月17日、蒋介石は慮山(ろざん)にて歴史に名高い「最後の関頭演説」を行いました。

    日中戦争

    大紀元時報 より引用
    「最後の関頭演説」を行う蒋介石

     

    「蘆溝橋事変発生前の日本側の態度や種々の風説から、この事件は決して偶然のものではないと考えられる。満州が占領されてすでに六年、それに続いて塘沽停戦協定を強制され、今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。

    もし蘆溝橋が占領されれば、北京は第二の瀋陽(奉天)になってしまうし、そうなれば河北省、察哈爾省も東北四省(満州国)になるであろう、さらに南京が北京の二の舞を演じないわけがあろうか。この事変をかたづけるかどうかが、最後の関頭の境目である。

    我々はもとより弱国ではあるが、わが民族の生命を保持せざるを得ないし、祖宗・先人が残してくれた歴史上の責任を、背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望しているが、ひとたび最後の関頭に至れば徹底的に抗戦するほかない。」

    日中戦争への道 満蒙華北問題と衝突への分岐点』大杉一雄著(講談社)より引用

    「関頭」とは、物事の大きな分かれ目、瀬戸際のことです。中国からすれば、北京があたかも満州の二の舞となるように見えたことは無理もないことです。
    中国は国家の存亡をかけて、日本に抗おうと決意を固めました。民意を反映した蒋介石のこの名演説は中国人の心の琴線を震わせ、眠れる大衆を呼び覚ますに十分なものでした。

    7月25日、北京─天津間の廊坊(ろうぼう)において日本の軍用電線が切断されたため、北京政権の承諾をへて電線修理にあたっていた日本軍が中国軍に攻撃される廊坊事件が起きました。

    さらに26日には北京政権の了解を得て北京の広安門を通って帰還しようとしていた日本軍に対し、その半分ほどが通過したところで突然門を閉ざし、場外に残った部隊に対して城壁から攻撃を加える広安門事件が発生しました。

    こうした事件は中国から見れば愛国的な行動ですが、事変の不拡大に努めていた日本から見れば明らかな挑発行為でした。ことにだまし討ちともとれる広安門事件は、軍部のなかに「中国軍を懲(こ)らしめるべし」といった空気を作り出しました。

    現地の日本軍から武力行使を求める声がいよいよ強くなり、不拡大と自重を訴えてきた参謀本部もついに手綱を放し、中国軍を北支から追い出す方針を決定するに至りました。

    27日の夕刻、内地からの派兵を押し止めていた政府も、三個師団の動員をついに承認しています。

    日中戦争

    図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
    ついに日中両軍が激突! 北京の正陽門から入城を果たす日本軍

     
    武力行使の許可を得た現地軍と関東軍は北京の南郊に位置する南苑に陣取っていた中国軍に対して猛攻をかけ、これを敗走させました。これが師団単位での初めての戦闘でした。

    29日、北京政権の委員長であった宋哲元は停戦交渉をあきらめ、軍とともに北京を去りました。北支の北京政権は事実上、消滅したことになります。

    日中戦争

    wikipedia:宋哲元 より引用
    宋哲元(そう てつげん) 1885年 – 1940年

    中国の軍人。北伐に参加後、張学良の指揮下に入る。日本と国民政府との交渉で冀察政務委員会が成立するとその委員長となり、河北省主席を兼ねた。盧溝橋事件が起ると抗日戦を展開したが日本の華北侵入を阻止できず、のち四川で病死。

    その日の夜、日中関係に最後のくさびを打つ事件が起きました。通州事件の悲劇です。

    その6.憎悪の連鎖を生んだ通州事件

    日中戦争

    ウィキペディア より引用
    東京日日新聞(後の毎日新聞)に掲載された通州事件の記事

     
    通州は日本軍の傀儡政権であった冀東防共自治政府の首都です。27日に日本軍の爆撃機が冀東保安隊幹部訓練所を誤爆したことが、事件の発端になったとされています。この誤爆により保安隊員の数名が爆死し、数名が重傷を負いました。

    日本軍はすぐに誤爆を陳謝し、爆死者の遺族への補償と負傷者への医療の提供を申し出ています。誤爆が冀東保安隊を刺激したことはたしかですが、通州事件の根はもっと深いところにあります。

    冀東保安隊に対し、北京からは抗日決起の働きかけが行われていました。冀東防共自治政府は日本の傀儡政権であったため、冀東保安隊は日本の同盟軍にあたります。しかし、中国人である彼らが折からの抗日の機運に反応しないはずもありません。保安隊は密かに中国軍と通じていました。

    27日には中華国民政府によるデマ報道が、ラジオ放送を通じて流れました。「盧溝橋で日本軍は二十九軍に惨敗し、豊台と廊坊は中国軍が奪還した」との事実に反する報道がこれです。デマ報道を信じた保安隊は中国側に寝返りました。

    29日午前2時を期して冀東各地の保安隊は一斉に蜂起し、日本側に攻撃を仕掛けました。通州においても三千の保安隊が兵営・警察・特務機関などを包囲急襲したのです。

    日中戦争

    http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-191.html より引用
    通州の位置を表す地図

     
    通州の日本軍守備隊は南苑の中国軍攻撃のために出兵していたため不在でした。そのとき通州に残っていたのは、110人ほどに過ぎません。日本軍守備隊は襲撃を受けてまもなく全滅しました。

    問題はその後です。保安隊の中国人は日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行いました。さらには文字通りの虐殺が行われたのです。

    その虐殺のあまりの猟奇性や残酷さは、ここではとても語れません。そのような虐殺が子供に対しても行われたことは、これが同じ人間の為せることなのかと、疑問に思わずにはいられません。wikipediaに画像とともに詳細な記載があります。耐えられる方は確認してみてください。

    通州事件:wikipedia

    死者数については諸説ありますが、wikipediaによると通州在留邦人385名のうち223名が虐殺されたと記されています。そのうち、およそ半数は朝鮮人でした。

    通州事件は教科書にさえ取り上げられていません。日本の歴史教科書には加害者としての記述ばかりを強調し、被害者としての歴史を隠そうとする偏りが見られます。

    少なくとも教科書だけを信じて学んでいたのでは、通州事件のことはなにも知らずに終わります。通州事件の果たした役割を知らなければ、その後の日中関係もわかりません。南京事件が起きた背景として、通州事件の報復であるとする論もよく耳にします。

    通州事件の残虐さは日本でも報じられ、中国人に対する激しい怒りを煽りました。事変の不拡大に努めてきた石原たちにとって、もっとも手強い敵は日本の世論でした。通州事件をきっかけに「中国を懲らしめろ」とする世論が爆発的に広がり、それが結果として事変を拡大させることに繋がったのです。

    そのような日本の世論の盛り上がりを、中国の民衆が黙って見過ごすはずもありません。中国の世論もまた、対日憎悪をより強めていきました。

    こうして通州事件は、日中間に憎悪の連鎖を生むことになったのです。

    日中戦争

    図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用

    事件翌日、日本軍救援部隊により安寧を取り戻す通州。前日の夜、ここで日本人居留民223名が中国軍に虐殺された。

     
    なお、公平性を期す意味では満州国が誕生して間もない 1932(昭和7)年9月16日に起きた平頂山事件をあげておきます。

    平頂山事件:wikipedia

    この事件は、日本軍が撫順炭鉱近くの平頂山集落の住民の多くを殺傷したものです。犠牲者数については中国側は3000人、日本側は400~700人としています。

    人間の剥き出しの憎悪がぶつかり合う戦争の過程において、民間人の虐殺は今も昔も繰り返されています。殺す側の論理と殺される側の論理は常に平行線をたどり、混じり合うことはありません。

    通州事件にしても平頂山事件にしても、風化させることなく語り続けていく義務が私たちにはあります。

    その7.幻に終わった日中首脳会談

    日中の世論が互いに憎悪感を募らせていくなか、石原は事変の拡大を防ぐために南京での日中首脳会談を画策しました。日本軍を全軍満州まで撤退させ、中国と戦う意思がないことを示した上で、中国と和平を結ぼうとしたのです。

    しかし、はじめは前向きだった近衛も、軍部内の強硬派が反対していると知ると次第に意欲を無くしていきました。すでに南京に飛ぶための飛行機の準備まで済んでいましたが、結局近衛は動きませんでした。

    石原が画策した史上初の日中首脳会談は、幻に終わったのです。そのとき石原は「2000年にも及ぶ皇恩を辱(かたじけの)うして、この危機に優柔不断では、日本を亡ぽす者は近衛である」と激怒したと記されています。

    その8.絶ち消えた「船津工作案」

    8月に入っても、事態は悪化の一途をたどりました。それでも和平のための努力は続けられました。もはや現地に任せていたのでは駄目だと見切った陸軍・海軍・外務の三省首脳は密かに連絡を取り合い、解決策を探りあいました。それが8月6日にまとめられた「船津工作案」です。

    それは、「日本の最小限の要求にして、支那側の納得し得る最大限の妥協案」でした。ここで日本は信じられないような譲歩を見せます。

    なかでも華北分離工作の果てに打ち立てた冀東の傀儡政権を解消し、南京政府が行政を行うことに同意すると譲歩したことは画期的なことでした。塘沽停戦協定をはじめ、華北に関する従来の軍事協定をすべて解消することも掲げています。

    つまり、華北で獲得したすべての権益を放棄するも同然の内容です。公平に見て日本の全面譲歩であり、日本が兵乱の不拡大解決を真剣に望んでいることを十分に表す解決案でした。

    日本がこれだけ誠意を見せたからには、蒋介石もきっと同意してくれるに違いないと、停戦に向けた期待感が高まっていたのですが……。

    日中戦争

    ウィキペディア より引用
    大山事件の現場

     
    8月9日の午後5時頃、上海で大山大尉と斉藤一等兵が中国保安隊に惨殺される事件をきっかけに第二次上海事変が起こり、「船津工作案」は砲煙とともに葬られることになりました。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

    メルマガのお知らせ

    ドン山本の最新メルマガ公開中!
    誰が得して、誰が損した世界情勢(まぐまぐ版)
    誰が得して、誰が損した世界情勢(note版)
    世界情勢の裏がわかるメルマガです。ぜひこちらもご覧ください!

    返事を書く

    あなたのコメントを入力してください。
    ここにあなたの名前を入力してください

    カテゴリーリスト

    人気記事

    最新記事