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    #27 日中全面戦争と南京事件の真実

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    第1部 3章 泥沼の日中戦争(2/10)盧溝橋に鳴り響いた一発の銃弾

    5.泥沼の日中戦争へ

    5-5.ついに日中全面戦争へ

    その1.華北から上海への戦線拡大

    日中戦争

    図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用 後方に20万を擁する3万の中国軍に囲まれ、防戦に徹する海軍陸戦隊。陸軍の援軍部隊が到着するまで苦戦したが、わずか4千の兵で日本人居留民を守り抜いた。

     
    大山大尉殺害事件によって日中間に漂う不穏な空気はさらに高まり、中国軍は続々と上海に集結し始めました。12日には、その数12万に達しています。
    その頃、日本政府は揚子江沿岸に住む日本人に引き上げを訓令していたため、上海には3万人の日本人が集まっていました。

    ところが日本人を保護する海軍陸戦隊の兵力は、わずか2千5百に過ぎません。当時は陸軍と海軍で保護にあたる地域が分かれていました。華北は陸軍、華中・華南は海軍の担当です。上海を守るのは海軍の役目でした。

    日中戦争

    アジア観光インフォメーション より引用
    華北・華中・華南の位置を表す地図

     
    海軍は揚子江に駐留する第三艦隊を上海に急行させ、万が一に備えて陸戦隊千名ほどを上陸させました。それでも兵力は4千にも満ちません。

    12日未明、中国軍屈指の精鋭部隊を中心に、約3万の中国軍が国際共同租界の日本人区域を包囲しました。夕刻になり、第三艦隊は軍令部に陸軍の派兵を要請する電報を打っています。これに対して「動員が下されても到着まで2週間かかる。なるべく戦闘正面を拡大しないように」との指示が下されました。

    13日午前10時半頃、中国軍は租界を守る陸戦隊に対し、機関銃による射撃を開始しました。やむなく陸戦隊も応戦したものの、不拡大方針に基づき、できる限り交戦回避の努力を続けました。

    しかし夕刻になり、中国軍が砲撃を開始したため、ついに本格的な戦闘へと至ったのです。どれだけ多く見積もっても陸戦隊は5千ほどです。それが3万の中国軍精鋭部隊に包囲され、さらに上海周辺の無錫(むしゃく)・蘇州(そしゅう)などには、すでに20万以上の中国軍が待機していたのです。状況は絶望的でした。

    14日には中国空軍によって第三艦隊旗艦「出雲」に対する先制爆撃が行われたことに続いて、フランス租界および共同租界に対する盲爆が行われ、外国人を含む千数百人が死亡しています。

    日中戦争

    ウィキペディア より引用 中国軍機の爆撃による大世界前の惨状。中国軍機による上海租界の爆撃により、千人以上の犠牲者が出た。

     
    中国空軍による爆撃に対抗するために、やむなく日本海軍航空隊は14~16日にわたり、台湾・九州・済州島の各基地から東シナ海を越えて上海や蘇州にある中国軍の飛行場や基地を爆撃しました。

    この海を越えての長距離爆撃は「渡洋爆撃」の名で、世界的にセンセーショナルに報道されました。それは当時の軍事常識を打ち破るものでした。爆撃による戦果は大きかったものの被害も大きく、わずか3日の攻撃により65名もの搭乗員の命が失われています。

    日中戦争

    yahooブログ・日本無責任時代 より引用
    渡洋爆撃を敢行した海軍航空隊の九六式陸上攻撃機。中国大陸上空で撮られた白黒画像をCG(コンピュータグラフィック)で着色し、当時のままを再現した画像。

     
    こうして第二次上海事件が始まりました。東京裁判では、この上海事件は日本が一方的に攻撃を開始したとして断罪されています。東京裁判の見解と歴史的な事実とは、大きく異なるようです。

    日本人居住区を包囲し、一方的に攻撃を仕掛けてきたのは中国側です。日本人を守ろうとした5千にも満たない日本軍を3万の中国精鋭軍で攻撃し、さらに20万を超える部隊が後詰めに入るという状況をもって日本の侵略とみなすのは、あまりにも不可思議です。

    ニューヨーク・タイムズ特派員のH・アーベンドは、記しています。

    「一般には…日本が上海を攻撃したとされている。が、これは日本の意図からも真実からも完全に外れている。日本は長江流域における交戦を望まなかったし、予期もしていなかった。8月13日の時点でさえ、日本は…この地域に非常に少ない兵力しか配置しておらず…19日には長江のほとりまで追いつめられて河に転落しかねない状況だった」 

    マオ―誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン著(講談社)より引用

    8月30日付けの『ニューヨーク・タイムズ』では、「北京での戦闘の責任については見解がわかれるかもしれないが、上海での戦闘に関する限り事実はひとつしかない。日本軍は戦闘拡大を望まず、事態悪化を防ぐためにできる限り全てのことをした。中国軍によって衝突へと無理矢理追い込まれてしまった」と報じられています。

    日本軍を上海におびき寄せ、華北から華中へと戦場を広げたのは中国の戦略です。その戦略に日本は無理やり引き込まれることになったのです。

    その2.上海での苦戦と石原の失脚

    日中戦争

    大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用
    当時の上海の地図

     
    上海から派兵の要請を受けた近衛内閣は、上海居留民保護のために陸軍部隊の派遣を決定しました。対して石原はかねてより出兵は北支のみに限定し、上海に派兵すべきではないとしていましたが、本格的な戦闘が始まったことを受け、13日の閣議にて陸軍三個師団の派兵を決定しました。

    圧倒的に不利な状態であったにもかかわらず、援軍が来るまで陸戦隊は必死に抵抗を続け、10倍以上の兵を擁する中国軍から日本人居留民を守り抜きました。それを支えたのは、通州事件の二の舞だけは避けたいという個々の兵士の強い意志です。

    蒋介石は世界各国の租界が集中する国際都市上海での対日抗戦に兵力を集中させました。欧米列強が中国に関心を寄せ、支援してくれることを狙ったためです。

    上海を中心に兵力は増強され、8月20日頃には上海方面の中国中央軍は15個師団、30万前後に膨れあがっていました。中国軍の兵力投入はその後も続けられ、最大70万の大軍に達したとされています。

    8月21日には中ソ不可侵条約が締結され、10月からはソ連による対中武器援助が開始されています。ソ連にとっては日中戦争が長期化することで日本の軍事力が削られていくことは好都合でした。将来の日ソ戦を見据え、中国を支援したのです。

    松井石根を軍司令官とする日本陸軍部隊6万の上海上陸は、8月23日に行われました。陸戦隊がわずかな兵力で持ちこたえていただけに、待ちに待った援軍の到着に上海の日本人居留民は沸きました。

    日中戦争

    図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
    瓦礫(がれき)のなかを進む上海上陸を果たした日本軍

     

    日中戦争

    wikipedia:松井石根 より引用
    松井石根(まつい いわね) 1878(明治11)年 – 1948(昭和23)年

    明治-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍大将。中国通として知られ、陸軍内で誰よりも中国を愛していたと伝えられる。大アジア主義を唱え「日中提携」に生涯を尽くした。ハルビン特務機関長・軍事参議官・台湾軍司令官など歴任後、予備役となる。

    日中戦争の開始により召集され、上海派遣軍司令官・中支那派遣軍司令官となり、南京攻略の指揮をとる。南京攻略にあたっては、略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む「南京城攻略要領」を兵士に示した。復員後は熱海伊豆山に隠棲し、観音堂戒壇を建立し日中両国の犠牲兵を合祀した。敗戦後、南京大虐殺の責任を問われ、B級戦犯として処刑。

    しかし、日本軍は予期しない苦戦を強いられました。上海近郊に堅固なトーチカ陣地が重層的に張り巡らされており、日本軍の侵入を阻んだためです。これらのトーチカは、ドイツ軍事顧問団の援助によって築かれたものでした。

    実は中国では軍の近代化を急ぎ、1934(昭和9)年からドイツ人顧問団を招き入れ、入念な準備を進めていたのです。それとともにドイツから大量の最新兵器を輸入していました。1936(昭和11)年の時点で、ドイツの武器輸出総量の実に57.5%を中国が占めています。

    蒋介石が日本軍を上海に呼び寄せたのも、上海をドイツの援助のもとに要塞化したからこそでした。この要塞に日本軍を誘い込み、大軍をもって一挙に壊滅させようと図ったのです。

    日中戦争

    図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
    9月13日、ようやく上海市政府を占領し、万歳をする日本軍。

     
    そんな事情も知らずに上海に飛び込んだ日本軍は、多勢に無勢であったこともあり、多くの戦死者を出しました。上海戦が落ち着く11月初旬までに、日本軍の戦死者は 9115名、戦傷3万余名に達しています。

    多くの犠牲者が出たことで、非難の矢面に立たされたのは石原でした。石原は上海事変に至ってもなお戦線が拡大することに反対していました。そのため、結果的に兵力を小出しすることになり、戦局を不利に導くことで多くの犠牲者を生んだと叩かれたのです。

    陸軍省軍事課長であった田中新一は日記に記しています。

    「上海戦は初期大失敗を演じたために諸外国を反日侮日に追いやり遂に長期持久戦に陥らしめたり。その責任は(中略)不拡大政策の負うべきものなり」(12月31日)

    日中戦争

    wikipedia:田中新一 より引用
    田中新一(たなか しんいち) 1893(明治26)年 – 1976(昭和51)年

    大正-昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校では武藤章と同期。ソ連・ポーランドに駐在後、関東軍参謀に就く。盧溝橋事件発生に当たり、武藤と連携して不拡大を唱える石原を押し切り5個師団10万人規模の北支増派を決定させた。駐蒙軍参謀長を経て参謀本部第1部長に就任。対米関係が悪化するや交渉の中止と開戦を強硬に主張し、慎重派の武藤と対立。ガダルカナル戦で東条英機陸相の撤退論と対立、第1部長を解任された。プノンペン付近で飛行機事故のため重傷を負い敗戦を迎える。戦後、朝鮮戦争にて作戦のエキスパートとして米軍に協力、日本再軍備計画に参画した。

    石原は拡大と不拡大で対立する参謀本部内の抗争に敗れ、9月27日、作戦部長を辞任し、関東軍参謀副長として満州に転出しました。事実上の左遷(させん)です。

    以後、石原は参謀本部に復帰することはありませんでした。関東軍では東条英機参謀長と対立し、それが原因となって東条が陸軍大臣であった1941(昭和16)年3月に予備役に編入され、陸軍を去っています。

    日中戦争

    wikipedia:東条英機 より引用
    東条英機(旧字体では東條英機)(とうじょう ひでき) 1884(明治17)年 – 1948(昭和23)年

    大正-昭和時代前期の軍人・政治家。最終階級は陸軍大将。第40代内閣総理大臣。参謀本部第1課長・陸軍省軍事調査部長などを歴任し、永田鉄山らとともに統制派の中心人物となった。関東軍参謀長・陸軍次官を経て、第2次・第3次近衛内閣の陸相となり日独伊三国同盟締結と対米英開戦を主張。首相に就任後、陸相と内相を兼任、対米英開戦の最高責任者となり大東亜戦争へと踏み切った。

    「大東亜共栄圏」建設の理念を元に大東亜会議を主催。サイパン陥落の責任を問われて総辞職。敗戦後、ピストル自殺未遂。東京裁判にてA級戦犯とされ、絞首刑に処せられた。東京裁判にて「この戦争の責任は、私一人にあるのであって、天皇陛下はじめ、他の者に一切の責任はない。今私が言うた責任と言うのは、国内に対する敗戦の責任を言うのであって、対外的に、なんら間違った事はしていない。戦争は相手がある事であり、相手国の行為も審理の対象としなければならない。この裁判は、勝った者の、負けた者への報復と言うほかはない」と、アメリカの戦争犯罪を糾弾した。

    しかし、石原が去っても石原が残していった戦略構想は陸軍のなかに生き続け、大東亜戦争を流れる底流として、大きな役割を果たすことになります。

    その3.上海から日中全面戦争へ

    上海事変を契機として、日中両国は戦火を華北から華中・華南に拡大し、中国全土に及ぶ日中全面戦争へと至りました。

    それに伴い日本政府は、盧溝橋事件から始まった「北支事変」が中国全土に広がったことで「支那事変」へと名称を変更しました。

    当時は「日中戦争」とは呼ばれていません。なぜなら日本にしても中国にしても、宣戦布告を行わなかったからです。

    その理由は宣戦布告を行うと、アメリカの中立法の適用を受ける恐れが生じるためでした。中立法が適用されるとアメリカからの兵器・弾薬・軍用機材の輸入が禁止されるほか、一般の物資や原材料についても輸入制限が為され、金融上の取引制限も課されると定められていました。

    当時の日本は全輸入額の約34%をアメリカに頼っていました。特に石油は80%をアメリカに依存していただけに、日本としては中立法の適用だけはなんとしても避けたいことでした。中国側にしても事情は同じです。ことに軍需物資の提供をアメリカから受けていた中国としては、それなしでは戦線を維持することすらおぼつかなくなります。

    両国の思惑が一致したことで宣戦布告が為されないまま、日中戦争へと突入したのです。

    その4.深まる国際的孤立と拡大する戦線

    ー 中国は正義、日本は悪というイメージ ー

    激化する上海での戦いにより、日本は次第に国際的に孤立していきました。日中戦争に至った理由はどうであれ、諸外国からは「軍事的に優れている日本が中国に攻め入り、弱小に過ぎない中国軍が本土を防衛しようと必死に努めている」ように見えたことは間違いありません。国際連盟は、「非はことごとく日本にある」と見ていました。

    そのことを象徴する一枚の写真があります。1938年(昭和13)年11月14日にアメリカの写真雑誌「ライフ」に掲載された写真です。

    日本軍の爆撃で瓦礫(がれき)の山になった上海駅付近の線路の上で泣き叫ぶ赤ん坊の写真は、中国への同情を一気に引き上げました。

    日中戦争

    ウィキペディア より引用
    「上海南駅の赤ん坊」LIFE誌1937年10月4日号

     
    まだテレビのない時代です。一枚の写真が発するメッセージは、幾万の言葉よりもはるかに雄弁に人の心に染み入ります。

    ただし、爆撃後の市街に赤ん坊が1人だけ取り残された、このような画像が自然に撮れたと考えるにはあまりにも不自然です。欧米の同情を引き出すために中国側で仕掛けたプロパガンダの一種とも見られています。

    こうした報道を通じて「中国は正義、日本は悪、可愛そうな中国人は日本人に虐げられている」といったイメージが、欧米の人々にすり込まれていったことは事実です。

    ルーズベルト大統領は10月にシカゴで「隔離演説」を行っています。

    「世界の九割は道徳的平和的共存を願うのに、他の一割は好戦的で、他国の内政に干渉し、領土を侵し、国際法を破壊しつつある」と日本(及びドイツ・イタリア)を批判した後、「侵略国を隔離室内に入れて消毒するがいい」と言い放ったことに、多くの日本人が怒りを感じました。

    日本政府はルーズベルトの「隔離演説」を受け、アメリカ国民の反日感情を鎮めるために毎日新聞主筆の高石真五郎が、日本の立場を説明するための親善大使としてアメリカへ赴きました。

    日中戦争

    wikipedia:高石真五郎 より引用
    高石真五郎(たかいし しんごろう) 1878(明治11)年 – 1967(昭和42)年

    明治-昭和時代のジャーナリスト・新聞経営者。大阪毎日新聞社に入社後、外国通信部長・政治部長を経て主筆となり、英文毎日主筆も兼ねる。日米開戦前、国民使節として渡米、全米放送・演説会などを通じて親善関係の回復に努めた。後に社長となるも2ヶ月で辞任。IOC委員を務め、戦後の東京五輪・札幌冬季五輪の招致に貢献した。

    その航海の途上にあって、高石は随行員に向かって次のように述べています。

    「モンロー主義を看板にして、アメリカは自らの四半球支配を天輿の權利と考へてゐる。それだけならいゝが、他の國がそれぞれの地域に自主的な共存圏を建設しようとすれば、直ちにそれを全世界支配の前提であるかのやうに、または全人類奴隷化の野心のやうに考へる。
    自己の世界四半だけが、世界の平和を保障するもので、これを承認しない一切のものを不正義、不道德と非難するのだから、その獨善と驕慢とは、およそ度し難いものかも知れぬ」

    『フランクリン・ローズヴェルト大統領の「隔離」演説』西川秀和著 より引用

    モンロー主義とはアメリカがとった孤立主義のことです。アメリカ大陸については他国の干渉を許さない代わりに、アメリカもヨーロッパのことには干渉しないという方針を指します。

    つまり高石が言ったのは、こういうことです。日本が地理的に近い極東において満州を中心とする共栄圏を作ろうとしたことは、アメリカのモンロー主義をアジアで実行したまでのこと。しかしアメリカは他国が共栄圏を作ろうとすると、それを世界すべてを征服しているかのように、あるいはすべての人類を奴隷化しているかのように騒ぎ立てる、と皮肉を飛ばしています。

    そうした日本の弁明は、アメリカに聞き入れられることはありませんでした。日本の国際的孤立は、日中戦争から深刻化したといえるでしょう。

    ー さらに拡大する戦線 ー

    石原が参謀本部を去った後は拡大派の武藤章が主導権を握りました。武藤は華北方面に7個師団、華中方面に9個師団を派遣し、一挙に中国側に大打撃を与えようと動きました。

    しかし上海方面では未だ中国精鋭部隊を粉砕できずにいたため、部隊を杭州湾から上陸させ、中国軍の背後を突くことにしました。武藤は自らこの作戦を指揮するために、上海に向かっています。

    11月5日から始まった杭州湾上陸作戦は大成功を収め、上海付近の中国軍はついに総退却することとなりました。

    日中戦争

    図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
    日本陸軍第10軍の杭州湾上陸、ほとんど抵抗を受けることなく上陸に成功した。

     
    問題はこの後です。陸軍中央は今後の戦争指導方針をめぐって激しく対立しました。石原の方針を受け継ぐ不拡大派は戦線の拡大には慎重な姿勢を貫き、拡大派は中国軍に決定的な打撃を与えるまでは戦線の拡大もやむをえないとする強硬な姿勢を崩しませんでした。

    一方現地軍は、南京に向けて撤退する中国軍の追撃を求めました。しかし、参謀本部は作戦課主導により、蘇州─嘉興(かこう)の線以東への進出を禁じました。戦闘地域を上海に限定することで、その間に南京政府と和平交渉を進めようとしたのです。

    ところが11月19日、第十軍が蘇州─嘉興線を越え、南京に向けて勝手に進軍を始めてしまいます。満州事変から続く、いわゆる「石原現象」です。軍上層部の意向を無視してでも結果さえよければ立身出世に繋がるという悪しき習慣が、ここでも現れたのです。

    現地軍を率いる松井軍司令官はこの進軍を抑えようとしましたが、すでに快進撃を続ける第十軍を押し止めることはできませんでした。やむなく松井は参謀本部に進軍が始まってしまったことを告げ、南京攻略の許可を求めました。

    現地軍の強い要望と多数の陸軍中央幕僚の意見に押し切られ、11月24日、参謀本部はついに南京攻略を容認します。大本営も12月1日に正式に南京攻略を命令することになりました。

    こうして南京攻略への道が開かれたのです。

    5-6.南京事件の真実とは

    その1.南京陥落

    日中戦争

    ウィキペディア より引用
    日本陸軍の軽装甲車が南京城へ迫るなか、南京中華門爆破の瞬間を捉えた画像

     
    日本軍による快進撃を受け、蒋介石は幕僚会議にて南京を固守する方針を決めました。その一方で11月20日には首都を南京から重慶に遷すことを宣言し、暫定(ざんてい)首都と定めた漢口に向けて軍の移動を開始しています。その際、南京防衛司令官に唐生智を任命し、南京を死守するように伝えています。

    日中戦争

    wikipedia:唐生智 より引用
    唐生智(とう せいち) 1889年―1970年

    中国の軍人。はじめ武漢政府に仕え、同政府が南京政府と合体後に蒋介石に追われて日本へ亡命。帰国後、反蒋戦に加わったが失敗して香港へ逃れた。その後広東政府に加わり、広東政府と南京政府の合体後は軍の幹部となる。南京防衛戦の総司令として日本軍と戦う際、首都と共に存亡を共にすることを公言し、南京から長江以北に通じる道路を封鎖するよう命令を下し、渡し船を破壊することで市民の多くが避難できないようにした。

    しかし、実際に日本軍の攻撃を受けると撤退命令を下し、いち早く逃亡。その際、撤退命令を下すことなく軍隊を放棄して逃げたとの説もある。戦後は人民解放軍へ寝返り、全国人民代表大会代表・湖南省副省長などを歴任。

    移動する中国軍は日本軍が物資を調達できないように、村や民家を焼き払う作戦を実行しました。

    一方、日本軍は第十軍の独断によって南京に向けて進軍したため、食糧の補給が確保できていません。そのため、途中の農村地帯で食糧を調達する必要があり、略奪も行われました。

    日本軍が南京に迫るなか、蒋介石ら中国首脳部は12月7日には南京を脱出しました。南京には唐生智司令官と防衛軍が残るのみです。

    日本軍は12月8日に南京城を包囲しました。「南京城」と聞くと日本の城を想像するのが普通ですが、中国と日本では「城」のイメージが大きく異なります。日本の城はあくまで砦であり、攻城戦の折りに城内に農民や町民がこもることは一部の例外を除いてありません。

    ところが中国では古来より人民は、周囲を高く厚い壁で囲んだ中に集まって居住していました。遊牧民や匪賊などの略奪や暴行から身を守るために、ひとつの街がそっくり高い壁で囲われていたわけです。たとえば農民であれば朝になると門から出て畑仕事を為し、夕方になると城内に帰ってくる生活スタイルが一般的です。

    南京も同じです。南京市街も高い壁で囲われており、城となっていました。そのなかには多くの南京市民が暮らしていたのです。

    城内には総面積の12.5%ほどの広さにあたる南京国際安全区が設けられていました。安全区とされたのは南京城内の北西部に設置された、外国人の施設や邸宅が多くある地区です。

    安全区からは中国の軍隊と軍事施設を撤去すること、ジョン・ラーべなどの外国人で構成される委員会がその状況を監察すること、日本軍は安全区を攻撃しないとの約束が交わされていました。南京城内にいた民間人は、そのほとんどが安全区に避難しています。

    日中戦争

    wikipedia:ジョン・ラーべ より引用
    ジョン・ラーべ 1882年 – 1950年

    ドイツ人商社員。ナチス党員。シーメンス社の中国駐在員(のち中国支社総責任者)として約30年に渡って中国に滞在。日中戦争の南京攻略戦時には約20万人ともされる中国人避難民が殺到した安全区の代表(南京安全区国際委員会委員長)として、民間人の保護活動に尽力した。のちに『ラーベの日記』を著し、日本軍の残虐行為の数々を伝聞情報として記した。ヒトラーへの報告として民間人5~6万人が虐殺されたとの推測が述べられている。

    しかし、ラーベ自身は実際に虐殺の現場を一件も目撃していない。南京での活動が評価され「南京のシンドラー」とも呼ばれ、後に映画化もされた。映画については皇族についての捏造がひどいことから、日本では一部を除いて上映されていない。帰国後は三国同盟に反対し、日本軍の残虐行為を知らしめる活動を展開。直後にゲシュタポによって逮捕勾留された。戦後は元ナチ党員だったことから非難を受け、貧しい生活を余儀なくされた。

    南京城内に多くの民間人がいることは当然日本軍もわかっています。そこで日本は9日に中国軍に対し無血開城を勧告しました。中国軍が降伏してくれさえすれば城内での無益な戦闘を避けられ、民間人の犠牲も防げます。

    安全区の委員会も唐司令官に対し、三日間の休戦を日本軍に承知させる代りに城内の中国軍を撤退させる案を提案しました。唐司令官は賛成の意を表しましたが、蒋介石を説得してくれと述べたため、ラーべ委員長はアメリカのジョンソン大使を通じて連絡したところ、蒋介石からは拒絶の回答が寄せられました。

    日本の無血開城の勧告に対しても中国軍は応じませんでした。12月10日午後1時、やむなく松井軍司令官は南京城総攻撃をついに下します。

    日中戦争

    図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用

     
    日中の激闘が繰り返され、中国軍は次第に劣勢に追い込まれました。12日、唐司令官は南京撤退命令を下し(撤退命令を下すことなく逃げ出したとの見解もある)、城内の中国軍各部隊は数方向から逃げ出しました。

    ロイター通信のスミス記者は次のようにレポートしています。

    「十二日午後、わたしはイタリア大使館の屋上から日中両軍の激戦を眺めていた。午後四時半、誰かが『日本軍が入城したぞ』と叫ぶや中国兵は中山路を通って続々と下関へ向い退却を始めた。規律は保たれていたが、武器、弾薬を捨て、なかには軍服を脱ぎすてて安全区に逃げこむ者もいた。

    夜十時頃、交通部の建物に火がつき、なかの弾薬が爆発し、火災が広がり、車両と敗兵と難民は進路を断たれてこみあい、大混乱におちいった。下関の入口では死体が累々と重なり、城門が閉まっていたので後から来た兵士は縄バシゴや帯で死体の山を越えてよじ登った。小舟や筏で揚子江を渡ろうとして乗りすぎ沈没、溺死する者もいた。

    翌朝まだとり残されていた兵士たちは、武器を捨てて難民区へ逃げこんだ」

    記事のなかでも明らかにされているように、中国軍の敗残兵のなかには軍服を捨てて安全区に逃げ込んだ者が多数いました。

    同じ日に市内の様子をレポートしたダーディン記者も12月18日、および1月9日付けのニューヨーク・タイムスにて、次のように綴っています。

    「夕方には多数の兵が軍服を脱ぎすてはじめた。通りすがりの一般市民から便服を盗んだり、頼んでゆずってもらったりした。軍服とともに武器も捨てられ、街路は小銃・手投弾・剣・背嚢・軍服・軍靴・ヘルメットでうずまるほどだった。

    記者が日曜日の夕方、市内を車でまわったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃した。多数の兵が安全区委員会の本部をとりまいて銃を渡しており、門から構内に銃を投げ入れる者さえあった。安全区の外国人委員たちは投降する兵士を受け入れ、彼らを地区内の建物に収容した」

    日中戦争

    南京虐殺(5-1)― 欧米人が書き残した殺害数(その1)― より引用
    ティルマン・ダーディン 1907年 – 1998年

    アメリカのジャーナリスト。ニューヨーク・タイムズ海外特派員。日本軍が南京を攻略した際に南京市内に留まり、12月15日に南京を離れた。12月15日までに2万人の捕虜処刑、数千人の民間人殺害があったとする記事を寄せた。この記事は南京事件について最も早く伝えたものであると同時に、最も重要な記事の1つとされている。ただし、ダーディン自身が目撃したのは200人ほどの捕虜の殺害のみ。

    あとは伝聞情報、及び死体が残っていたことから日本軍による蛮行と推測した記事に過ぎない。その後もアジア・アフリカ・ヨーロッパ特派員となり、国共内戦や太平洋戦争、第一次インドシナ戦争などを取材した。

    敗残兵が着替えを行い、民間人を装って安全区に潜り込んだことは、その後の悲劇につながります。

    日中戦争

    図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
    南京城を占領し、万歳を叫ぶ日本陸軍

     
    日本政府の公式見解によると、12月13日午後4時をもって南京陥落としています。城内には日本軍があふれ、以後は南京の占領統治へと移ることになりました。

    その2.南京事件はなぜ論争になっているのか?

    日中戦争

    ウィキペディア より引用
    日本軍による南京城への入城式(1937年12月17日)

     
    南京陥落後に起こったとされるのが、世にいう「南京大虐殺」です。12月13日の南京陥落から三ヶ月にわたり、日本軍は南京を軍事占領しました。中国側の見解によるとその間、日本軍により組織的な大虐殺が行われ、死者は30万人に達したとされています。これを中国では「南京大屠殺」と呼び、日本では「南京大虐殺」と呼んでいます。

    しかし、最近では「南京事件」と呼ばれることが多くなっている印象を受けます。「南京事件」という言葉には「南京で行われたのは民間人を対象とする組織的な大虐殺ではない」といった言外の意味が含まれているようです。

    「大虐殺」と聞くと、多くの人々が一箇所に集められて一斉に殺害されたようなイメージを抱きがちですが、もちろんそのような事実はありません。南京市内、あるいは市外も含め、広い範囲にわたって散発的に虐殺が行われたとされています。

    それだけにひとつの虐殺の真偽をめぐって複雑な対立が生まれており、事件の全体像はなかなか見えてきません。

    南京事件をめぐっては今日に至るも様々な見解がありますが、その土台となるのは戦後に東京と南京で行われた戦犯裁判です。東京裁判の判決では「最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上」と断定されています。

    南京事件をめぐる論争は現在も盛んに続けられており、未だ収束の見込みはまったくありません。

    いわゆる南京事件論争では、南京事件をどう捉えるかをめぐり、3つの派が対立しています。虐殺派・まぼろし派・中間派の3つです。

    「虐殺派」は、南京と東京で行われた戦犯裁判の判決を受け入れる人々です。したがって大虐殺があったと主張しています。

    「まぼろし派」は、南京と東京の戦犯裁判の判決を不当であるとして否定する人々です。したがって大虐殺はなかったと主張しています。

    「中間派」は、「虐殺派」にも「まぼろし派」にも分類できない人々です。

    ただし、「まぼろし派」にしても虐殺自体がまったくなかったと主張している人はわずかに過ぎません。民間人はともかく、捕虜に対する虐殺は数百から数千単位あったとしています。

    一般に「虐殺派」の人々は10万~20万人の虐殺があったと考え、中間派の人々は数万から数千、まぼろし派の人々は数百から数千人、まれにゼロと捉えているようです。

    中国側の主張する30万人説を支持する日本の学者は、現在のところ皆無ととらえてよいでしょう。その根拠が見当たらないのだから当然と言えます。

    恐らく実際に何人が虐殺されたのかは、この先も解明されることはないように思われます。まさに「神のみぞ知る世界」です。

    では、なぜ不毛とも思える虐殺人数をめぐって、これだけの論争が続いているのかと言えば、南京事件こそは日本近現代史における歴史観を象徴しているからです。

    南京大虐殺は明治から始まる日本の軍国主義が抱える侵略性と暴力性の象徴であり、ひとつの帰結点であったと捉えられています。そのため「虐殺派」の人々は中国に同情を寄せ、日本が中国を侵略したことを批判し、それに関する中国の政治姿勢を基本的に支持します。

    一方、「まぼろし派」は虐殺派の主張は連合国に押しつけられた東京裁判史観をそのまま受け入れるものであり、自国民の歴史の歩みを一方的に卑下する「自虐史観」であるとして批判しています。真実に基づかない歴史観を振りかざし、過去の侵略への反省を繰り返し要求してくる中国への反発を「まぼろし派」の人々の多くが共有しています。

    対して中間派の歴史観は、両者の中間に位置するわけではありません。歴史観に関して中間派の人々は、まぼろし派に親近感を抱いていると言えそうです。

    歴史観が対立するゆえに、虐殺された人数に対してもこだわることになります。日本の抱える侵略性と暴力性を白日の下にさらすためには、あくまで組織的な「大虐殺」と感じられるほどの被害が必要になります。

    ところが「大虐殺」が否定され、敵国の首都を陥落させる際に通常起こり得る程度の虐殺であったとすれば組織的な虐殺があったとは言えなくなり、話は根本的に違ってきます。

    人数については人権派の人々によって「30万人の大虐殺が否定されても、では何人からが大虐殺なのか? 1万人、あるいは数千人が殺されても大虐殺ではないのか?」といった反論がよく聞かれますが、もとより虐殺が行われたことにおいて人数は問題ではありません。

    しかし、歴史観や政治の上では、人数の違いは大きな意味をはらみます。

    つまり、南京事件がここまで大きな論争に発展しているのは、学術的に真実を追究するという側面とは別に、歴史観および政治的な問題へと広がっているためです。

    その3.南京事件の真実はなぜわからないのか?

    ー 悪魔の証明の難しさ ー

    日中戦争

    『アサヒグラフ』1938(昭和13)年3月23日号 より引用

     
    日本軍占領下の南京にて露店を移動中の中国人親子。当時撮影された、のどかな南京の風景が何百枚あっても、虐殺の否定にはつながらない。
    それにしても不思議だと思いませんか?

    事件が起きたのは1937(昭和12)年のことです。なにも数百年も前に起きた事件ではありません。今からたかが80年ほど前のことに過ぎません。それなのに、当時の南京で何が起きていたのかが、はっきりとはわからないのです。

    今からではさすがに当時の生き証人を探すことは難しいでしょうが、南京事件をめぐる論争が起きたのは1970年代に遡ります。その時点では日本にも中国にも、生き証人となる人々が多く存命していました。

    実際、多くの証言が書籍としてまとめられています。日本側からは南京陥落戦に従軍した将兵にインタビューした記事も多々残されています。

    それでもなお真実が見えてこないのは、虐殺などなかったとする声もあれば、実際に捕虜の虐殺を行ったとする声もあるからです。まぼろし派のなかにもある程度の捕虜虐殺があったことを認める論者が多いのは、こうした証言や残された手記に基づいています。

    証言が食い違うからといって、どちらかが嘘をついていると決めつけることは早計です。

    ただ一般的にどちらが容易く証明できるのかと言えば、虐殺があったとする論です。ある事実があったことを証明することは、比較的簡単です。よく引用されるたとえ話ですが、「アイルランドに蛇はいる」ことを証明するには蛇を一匹捕まえるだけで事足ります。

    ところが「アイルランドに蛇はいない」ことを証明することは厄介です。アイルランド全土を掘り起こして、蛇はいなかったと証明することなど事実上、不可能だからです。このように「ある事実がまったくなかった」ことを証明することを「悪魔の証明」と呼びます。

    南京での虐殺がなかったことを証明することも同じく「悪魔の証明」に属します。当時、南京にいた人々が「自分は虐殺の現場など一切見ていない」といくら証言したところで、南京市内のすべてを見ていたわけではない以上、その証言は「なかった」ことの証明にはつながりません。

    南京攻略戦に従軍した日本人ジャーナリストにしても事情は同じです。同盟通信社だけで33人、カメラマンや地方新聞の特派員まで加えると、各社あわせて百人を越えるジャーナリストが虐殺が行われたとされる当時、南京にいました。そのなかには大宅壮一や西条八十、石川達三のような著名人も加わっています。

    日中戦争

    wikipedia:石川達三 より引用
    石川達三(いしかわ たつぞう) 1905(明治38)年 – 1985(昭和60)年

    昭和時代の小説家。ブラジル移民での体験をもとに執筆した『蒼氓(そうぼう)』で第1回芥川賞受賞。南京占領後の1937年12月下旬、中央公論会の特派員として上海・蘇州・南京を訪れた。中国戦線での取材をもとに『生きている兵隊』を発表。南京での日本軍の残虐さを露わにした作品とされている。この作品により後に新聞紙法第41条の容疑で起訴され、禁固4か月、執行猶予3年の判決を受けた。

    作品がフィクションなのかノンフィクションなのかは争いあり。直後に海軍報道班員として東南アジアを取材している。戦後は社会派作家として活動し、『人間の壁』『金環蝕』などを著した。第17回菊池寛賞を受賞。亡くなる前のインタビューにて「私が南京に入ったのは入城式から2週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても2、3週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」と語ったとされているが、真偽は不明。

    日中戦争

    wikipedia:大宅壮一 より引用
    大宅壮一(おおや そういち) 1900(明治33)年 – 1970(昭和45)年

    昭和時代の評論家・ジャーナリスト・ノンフィクション作家。東大在学中に日本フェビアン協会創立に参加。大学中退後、社会主義的文芸評論家として評論活動を開始。当初は「左翼のパリパリの評論家」として知られていた。「翻訳工場」を組織し、多くの翻訳書を刊行。自宅を非合法下の日本共産党の秘密集会に提供。南京攻略戦では現地を取材しており、南京事件については規模に議論があるとした上で日本軍による虐殺の存在自体には肯定的証言をしている。

    しかし、実際には虐殺の現場は目撃していないとされている。戦後は「厳正中立、徹底した是々非々主義」の立場で軽妙多彩な社会評論を展開。「マスコミの三冠王」として活躍した。晩年は「大宅マスコミ塾」を開くなど、後進の育成にも力を注ぐ。

    日中戦争

    wikipedia:西條八十 より引用
    西條八十(さいじょう やそ) 1892(明治25)年 – 1970(昭和45)年

    大正-昭和時代の詩人・仏文学者。『赤い鳥』に童謡「かなりあ」を発表、日本最初の芸術童謡と称された。北原白秋と並び注目を集め、繊細な叙情詩人として好評を得た。『主婦の友』と読売新聞に派遣され、南京入城式の日に南京に入り取材を行った。ソルボンヌ大学に留学後、早大仏文科教授となる。歌謡曲の作詞家として活躍。「お富さん」「愛染桂」「青い山脈」「王将」など、多くの流行歌を手掛けた。

    軍の検閲が入っていただけに、当時はもし虐殺を目撃していたとしても、虐殺に関する記事を書けなかったことでしょう。戦後になり、何人かは証言を残していますが、虐殺などなく平和だったとする声も多くあります。しかし、それだけでは虐殺がなかったことを証明できません。

    「虐殺の現場など見ていない、街は平和そのものだった」とする証言がどれだけ多く残っていたところで、虐殺があったとする証言ひとつを覆すことができないジレンマを、虐殺否定派は抱えています。

    ー 写真が語る真実とは? ー

    では、写真や映像として証拠となるものは残っているのかと言えば、これまたはっきりしません。中国側が南京大虐殺の証拠としてあげた写真の多くは、日本の研究家によって合成写真であったり、通州事件の際の日本人が虐殺された写真であったり、南京事件とはまったく関係のない写真であったことが次々に暴かれています。

    たとえば下記の写真です。日本で出版された書籍において「婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵たち。強姦や輪姦は七、八歳の幼女から、七十歳を越えた老女にまで及んだ。」とキャプションがつけられた有名な一枚です。

    その割に中国人女性には笑いがこぼれているようにも見え、なにやら不自然です。少なくとも写真からは、絶望感や悲壮感などまったく感じられません。

    日中戦争

    ひと目でわかる日韓・日中 歴史の真実』水間政憲著(PHP研究所)より引用

     
    後に、この写真は南京事件とはなんの関係もないことがはっきり証明されました。キャプションは完全な事実誤認でした。

    この写真は、実は1937年11月10日の『アサヒグラフ』に掲載されていた写真であり、上海付近での戦闘に際し、中国人の農民が畑と集落の行き帰りや稲刈り綿摘みなどを安全に行えるように、日本軍が保護していたことを示す写真だったのです。

    キャプション一つで事実がまったく逆になっていることには、注意を要します。だからといって虐殺派の人々は写真がフェイクだと知って掲載したわけではありません。あくまで中国側の資料に基づいて掲載したところ、その資料自体に間違いがあったのです。

    されど証拠とされた写真がフェイクに過ぎないことが証明されても、だからといって虐殺がなかったと証明することにはつながりません。大虐殺派は、写真が残っていないのは日本軍によって厳しい検閲を受けたからだと主張しています。

    南京虐殺の証拠とされたフェイク画像とは逆に、従軍カメラマンによって当時の南京の平和な画像が何枚も撮影されています。

    下の写真は従軍カメラマンがカメラを向けると、父親らしき男性が子供を抱きかかえて見せている街角スナップです。周囲の子供たちも大人たちも、笑顔を浮かべ、たおやかな時間が流れているように感じられます。

    日中戦争
    ひと目でわかる日韓・日中 歴史の真実』水間政憲著(PHP研究所)より引用

     
    「まぼろし派」はこれらの写真を、当時の南京が平和であった証拠としています。対して「虐殺派」は、これらの写真は日本軍によるやらせに過ぎないとしています。

    カメラマン自身はやらせであることを否定しました。また、写真から伝わるほのぼのとした雰囲気からは「やらせ」のような不自然さは、まったく感じられません。

    とはいえ、ほのぼのとした写真が何百、何千あろうとも、そのことが虐殺の否定につながらないことも論理的に明らかです。

    写真に写っていない路地の向こう側で、今にも虐殺が行われていたかもしれないことを否定できないからです。

    ー フィルムの証明するもの ー

    では、映像はないのでしょうか?

    南京大虐殺を捉えた唯一の証拠映像とされている16ミリフィルムがあります。2015年にユネスコの記憶遺産に南京虐殺が登録されましたが、その際、登録された資料の一つが米国人ジョン・マギー牧師が撮影したとされる16ミリフィルムです。

    日中戦争
    John Gillespie Magee より引用
    ジョン・マギー 1884年 – 1956年

    アメリカの米国聖公会牧師。1912年から1940年まで中華民国にて、米国聖公会伝道団の宣教師として活動。南京下関地区で教会を主催してキリスト教布教と医療活動を行った。

    日本軍による南京占領期間中は、南京国際赤十字委員会委員長・南京安全区国際委員会委員を務め、外国人の大邸宅を借用して難民を収容した。極東国際軍事裁判では南京事件の証人として証言台に立ち、日本軍による殺人・強姦・略奪事件について被害者からの直接聴取、自ら行った被害調査などを基礎に証言を行った。

    ただし、マギーが実際に目撃した殺人は、日本兵が不審者を銃殺した一件のみ。南京事件の犠牲者・被害者を撮影したと解説する8リールの16ミリフィルム(通称「マギーフィルム」)でも名が知られている。

    フィルムはその多くが南京難民区内の病院で撮影されたものです。怪我をした幼い子供や女性、中国兵や民間人の死体等が映し出され、日本軍の暴行によるものと字幕がつけられています。

    しかし、先ほどの写真のキャプションと同じく、字幕だけではその真実性は担保されていません。日本軍による虐殺の現場はなにひとつ映し出されていないだけに、記録映像として成り立ってはいないと批判する声も数多くあります。

    日本軍によって殺されたのか、中国軍によって殺されたのかが、映像だけではわかりません。中国軍による虐殺や略奪が行われていたとする証言も数多く残されているからです。

    その4.南京事件はあったのかなかったのか

    ー プロバガンダとしての南京事件 ー

    南京事件から真実を遠ざけている主因として、中国側が南京事件をプロバガンダとして利用していることが、まぼろし派や中間派からは指摘されています。

    いわゆる戦争プロバガンダは、戦時中であればほとんどの国が仕掛けます。ことに軍事的に劣る国にとって、戦争プロバガンダは戦術的に極めて重要です。

    戦争プロバガンダとは、戦時中に敵の士気をくじくとともに、自国の国民世論を参戦に同意させることで自国の軍隊の士気を高め、国外に対して戦争の正統性を主張し、味方してくれる国を獲得することなどを目的とするプロパガンダ(宣伝)のことです。

    アメリカであればCIA、イギリスであればMI6などの情報機関が、こうした工作活動に従事します。

    たとえば日清戦争の折りに日本軍が旅順を陥落させた際にも、日本軍による旅順虐殺報道が起きています。そのときは日本軍が6万人を虐殺したと報道され、世界的にちょっとした騒ぎになりました。アメリカ人のフリージャーナリストが報じた1本の記事が騒動の火元ですが、その背景には中国によるプロバガンダが介在していたとされています。

    記事はまったくの捏造であり、そのような事実はなかったことがまもなく明らかにされましたが、その構造は南京事件とよく似ています。それでも未だに旅順虐殺が真実であるかのように語る左翼系の言論も存在するだけに、プロバガンダは一度仕掛けられると、一人歩きを始めるものと言えそうです。

    南京事件を中国側の仕掛けたプロバガンダと見るかどうかで、南京事件に対する考察も大きく変わってきます。まぼろし派と中間派は南京事件を中国のプロバガンダと捉え、虐殺派はそのような見方を全面的に否定します。

    そのため南京事件の資料の解釈をめぐっても、両派は対立しています。たとえば南京事件を世界に知らしめたとされるイギリスの日刊紙『マンチェスター・ガーディアン』特派員のティンパーリーの著書「戦争とは何か」は、東京裁判においても大きな影響を及ぼしました。

    日中戦争
    http://spysee.jp/ より引用
    ハロルド・J・ティンパーリ 1898年 – 1954年

    オーストラリアのジャーナリスト。中国国民党国際宣伝処の顧問。香港の新聞社に勤務するために中国に渡る。AP、ロイター通信社北京支局記者など様々な新聞の特派員となった後、マンチェスター・ガーディアン紙特派員となる。南京事件の最中には南京に滞在していなかったが、伝聞情報をもとに『What War Means: The Japanese Terror in China(戦争とは何か-中国における日本の暴虐)』を著し、南京大虐殺を世界に知らしめた。

    この書籍は第三者的なジャーナリストによるものとして認識され、「客観的な資料」として扱われてきた。

    しかし、近年の研究でティンパーリはイギリス共産党をはじめとする当時の国際的な共産主義運動に関与していたほか、国民党中央宣伝部の下部組織である国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」として月額1千ドルの活動費を得て、宣伝工作活動を行っていたことが判明している。このことはティンパーリの著書の信頼性を大きく揺るがしている。

    海外のジャーナリストという第三者的立場から日本軍による虐殺の実態を告発したことで、虐殺派はこの著書を信頼できる第一級の証拠としてあげています。

    ところがティンパーリーの著書は、実際には国民党国際宣伝処の要請と資金提供のもとで書かれたことが中間派の学者の研究によって明らかにされています。興味のある方は北村稔著『「南京事件」の探究―その実像をもとめて』を一読することをオススメします。

    ティンパーリーの著書については正確性についても数々の批判があり、虐殺派はそれを否定することを繰り返しています。

    プロバガンダとしての南京事件を語る上では、中国の仕掛けた南京事件という虚構にアメリカが便乗したことも指摘されています。それは、次のような論です。

    東京裁判には連合国の正義と日本の悪を浮き彫りにするためのショーとしての要素が多分に含まれています。日本の悪がことさら強調された背景には、アメリカの戦争犯罪が大きく絡んでいます。アメリカが東京をはじめとする都市部を標的に民間人の殺傷を目的とした空爆を繰り返し、原爆を投下したことは、明らかな戦争犯罪です。

    アメリカの悪をごまかすためには、原爆を投下されてもやむをえないと世界が納得するような理由が必要です。そのためには日本の側にナチスのホロコーストに匹敵するような邪悪さがあれば、好都合です。そこでクローズアップされたのが、南京事件でした。

    東京裁判で認定された南京事件の死者20万人は、原爆による死者数とほぼ並んでいます。つまり南京事件は、アメリカによる原爆投下の免罪符としての役割を担っていると考えられます。

    戦後、ラジオ『眞相はかうだ』で南京事件は告発されました。それを聞いた当時の人々は、日本も大戦中にこんなひどいことをしていたのだと初めて知り、大きなショックを受けました。これでは東京大空襲や原爆を投下されても仕方がない、と考えるのは自然な感情です。

    そのような状況に日本の世論を誘導することこそが、アメリカによる洗脳であったとされています。

    以上が米中合作によるプロバガンダとしての南京事件の概略です。もちろん、それを米中が認めるはずもないため、ひとつの推論に過ぎません。

    しかし、南京事件がもつ政治的な意味合いは、今日においても極めて重要であることは間違いありません。

    その真偽はともかく、南京事件がプロバガンダとして政治的に利用されている側面があることは、知っておいたほうが良いでしょう。

    ー 民間人の虐殺はあったのか? ー

    南京事件における虐殺に関しては、一般市民と敗残兵に分けて考える必要があります。まず一般市民の殺害ですが、虐殺派・まぼろし派・中間派を問わず、南京城内での民間人の殺害数は中国兵に比べるとはるかに少ないことで一致しています。

    少なくとも民間人に対しては、日本軍が組織的な虐殺を行っていないことは共通認識となっています。民間人の犠牲者が少なかったのは、欧米の宣教師らが組織した安全区の治安が守られていたためです。

    このことは安全区の委員長であったジョン・ラーベより、日本軍に対して次のような感謝状が出ていることからも明らかです。

    「拝啓 私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美学に対して、また同地区における中国民間人の援護にたいする将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」(東京裁判速記録二一〇号)

    民間人の殺害数については研究者によって異なりますが、虐殺派を代表する学者は 1万2千人としています。まぼろし派・中間派のなかには、限りなくゼロに近いとする論もあります。

    民間人が殺害された最大の理由は、安全区に中国兵が軍服を脱ぎ捨て、あるいは着替えて紛れ込んだことにあります。中国軍は正式に降伏していなかったため、戦闘はまだ継続していました。そのため、日本軍としては安全区に逃げ込み、民間人に混ざって隠れている中国兵を見つける必要がありました。

    しかし、すでに民間人のなかに紛れ込んでしまった中国兵を見つける作業は、簡単ではありません。確とした証拠もないまま中国兵と間違われて処刑された民間人がいたことは、常識的に考えても起こり得ることです。

    実際にどれぐらいの数の民間人が犠牲になったのかは定かではありませんが、少なからぬ民間人が間違って殺害されたことは否定できそうにありません。

    中国兵か否かの選別の方法や裁判なしに処刑を急いだことにおいて、日本軍には重大な過失があります。

    ー 便衣兵の殺害は合法か? ー

    次に中国兵の殺害についてですが、便衣兵と捕虜に分けて考える必要があります。便衣兵とは、一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人のことです。いわゆるゲリラ兵のことです。

    日中戦争
    ウィキペディアより引用
    南京城内で避難民にまぎれて逃亡を企てた中国軍正規兵を調べる憲兵(毎日新聞昭和13年1月1日発行)

     
    南京事件においてたしかなことは、便衣兵と捕虜の殺害は相当な規模で行われたことです。人数についてはばらつきはあるものの、殺害されたという事実については虐殺派・まぼろし派・中間派とも認めています。ただし、殺害に至る経過については見解に相違があります。

    結局のところ主な争点となっているのは、その殺害が合法であるのか、それとも違法であるのか、という法律解釈の部分です。

    便衣兵と捕虜の殺害については、それぞれについて虐殺派と否定派では合法か否かをめぐり、見解が異なっています。あくまで合法の範囲であれば、それは虐殺ではありません。法に基づく死刑の執行を虐殺と呼ばないことと同じです。

    まぼろし派が南京事件での虐殺数を低く見積もるのは、これらを合法と捉えるからです。

    一方、虐殺派は便衣兵と捕虜の殺害を非合法であるとし、それゆえに虐殺された人数は十万を超えるとしています。

    このあたりの法解釈をめぐる議論は、あまり面白いものではないでしょうから、語弊覚悟でざっと説明します。

    降参して捕虜と認められると、「ハーグ陸戦法規」という条約によって様々な恩恵を受けることができます。捕虜を殺したり虐待することは禁じられています。

    ただし、便衣兵については厳しく、便衣兵となった時点で捕虜となることはできません。そのため、便衣兵として捕まった場合は、占領軍の定めた規則である軍律に従い、軍事裁判を経て処刑することが許されています。このときの処刑は合法です。

    まぼろし派は、それゆえに便衣兵の即時処刑は合法であるとしています。対して虐殺派は南京占領前に定めた軍律において、軍律違反があった場合は審判を経ること、および長官の許可を得た上で死刑にすべきことが明記されているのだから、正規の手続きを踏むことなく便衣兵を処刑したことは非合法であり、虐殺にあたるとしています。

    また、便衣兵の解釈をめぐっても対立があります。軍服を脱いで民衆に紛れようとしただけでは便衣兵とみなさない、とする法解釈もあるからです。便衣兵とは民衆に紛れ込むことで戦闘行為やテロ行為を行おうとする者であり、南京事件の場合は敗残兵は安全区に逃げ込んだだけで戦闘の意思などなかったとする弁です。

    法解釈をどう行うかで、便衣兵の処刑が合法なのか非合法なのか、処刑なのか虐殺なのか、見解が180度変わることになります。

    日本にとって不幸だったことは、ハーグ陸戦法規にしても国際法にしても、中国兵のように集団で民間人になりすますような事態を想定していなかったことです。まだ人類が経験したことのない事態を目の前に法的な手続きを省いてしまったことは、日本軍にとって取り返しの付かない失態といえそうです。

    形式上でも軍事裁判を行ってさえいれば、南京事件は今日のような大きな騒ぎにはなっていなかったかもしれません。

    ー 捕虜の殺害は合法か? ー

    日中戦争
    http://www.geocities.co.jp/ より引用
    虐殺されたとされる幕府山の捕虜

     
    南京事件において、もっとも多いとされる殺害が、日本軍による中国人捕虜の組織的殺害です。軍服を着たまま戦闘現場で降伏した中国兵を、いったんは捕虜として収容しながら、数日後に処刑することが繰り返されました。

    戦争捕虜として認め、受け入れたからには、ハーグ陸戦法規により捕虜を保護する義務が日本軍にはありました。ところが日本軍は捕虜の大量処刑を行ったとされています。

    法律上、捕虜の処刑が許されるのは「これを殺さざれば自らの安全を保障しがたい場合に限る」との解釈が一般的です。

    虐殺派は、当時の日本軍はそのような切羽詰まった状況にはなかったのだから、捕虜の処刑は国際法違反であり、虐殺であると批判しています。

    対して非虐殺派は、14777名以上の捕虜が殺害されたとされる幕府山事件など個別の事件について、自衛による発砲に過ぎなかったと弁明するに留まっています。

    捕虜殺害についての法解釈については、虐殺派の方が優位に立っているといえそうです。

    ここまで見てきたように、便衣兵の処刑や捕虜の殺害を非合法であったとする見解をとるのであれば、中間派の指摘する数千から4万人ほどの虐殺が南京であったとする説に落ち着くと言えそうです。

    ー 南京大虐殺はあったのか? ー

    日中戦争
    人民日報 より引用
    侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館(中国南京大虐殺記念館)

     
    結局のところ、南京大虐殺と呼ばれるような大虐殺はあったのでしょうか?

    それに対する答えは、一人ひとりが自ら考えるよりありません。ただし、気を付けるべきことは、世界的な意味での「南京大虐殺」は、東京裁判で語られたことが共通認識になっていることです。

    したがって、便衣兵や捕虜の殺害があったことは否定できないのだから「南京大虐殺はあった」と安易に認めることは、東京裁判史観に基づく南京大虐殺を認めたと見なされかねないことに注意を要します。

    東京裁判にて南京大虐殺がどう語られたのかを知ることが、まずは必要です。「最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上」といった判決文だけでは語り尽くせない残虐さが、南京大虐殺には潜んでいます。

    ここまで、誤解を避けるためにあえて詳細についてはふれずにきました。ここまで読み進めることで、南京事件の輪郭が見えてきたことと思います。そこで、最後に南京大虐殺が世界ではどのように語られているのかを、東京裁判を通して振り返ってみます。

    同市(南京)は捕へられた獲物のやうに日本人の手中に帰し、日本軍はその獲物に飛びかかって際限ない暴行を犯したことが語られた。兵隊は個々、または集団で全市内を歩き回り、殺人・強姦・掠奪・放火を行なった。中国人の男女子供を無差別に殺しながら歩き回り、遂には通りに被害者の死体が散乱したほどであった。

    ある証人によると、中国人は兎のように狩り立てられ、動くところを見られた者はだれでも射撃された。南京占領後、最初の二、三日の間に少くとも一万二千人の非戦闘員の中国人男女子供が死亡した。幼女と老女さへも多数強姦された。多くの婦女は強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後一カ月間に約二万の強姦事件が市内に発生した。

    日本兵は欲しい物は何でも住民から奪った。兵は道路で一般人の身体を調べ、価値ある物が何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。(略)
    大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

    このような地獄絵図とともに南京大虐殺が語られていることは、知っておいた方がよいでしょう。

    結局のところ、一般的に「南京大虐殺」と言われたときには、東京裁判史観に基づく上記のような状況を指します。

    そのため、「南京大虐殺はあったのか?」と聞かれたならば、虐殺派に立つ人は「あった」と答えれば事足りますが、まぼろし派・中間派に立つ人は「なかった」と答えるよりありません。

    こうした言説がテレビ番組や雑誌などで繰り返されるため、あのとき南京で何が起きたのかが、さらにわかりにくくなっているといえるでしょう。

    南京事件については虐殺派・まぼろし派・中間派の研究家や学者の手によって、すでに何十冊もの専門書が出版されています。論点は多岐にわたっています。その膨大さゆえに、この場でその是非を語ることは、とてもできそうにありません。

    また、ネット上においても、南京事件を深く研究する優良サイトがいくつも立ち上げられています。興味がある方は覗いてみるとよいでしょう。

    真実はいずれにあるのか知りたい方は、専門書やwebの情報を手引きとして、南京事件の深き森へと立ち入ってみてください。

    なお、これまでも指摘しているように、南京事件はもはや学術的な真実の探求を離れ、政治的な意味合いが強くなっています。その意味では歴史観を含め、政治的な視点から南京事件を捉えることも必要です。

     
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    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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