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    レキシジン第2部「フィリピン レイテ島の戦い」1章「レイテ決戦までの道のり」#103 絶対国防圏を死守せよ!国運をかけたフィリピンを守るための戦い

    #103 絶対国防圏を死守せよ!国運をかけたフィリピンを守るための戦い

    第2部.レイテ沖海戦から地上戦まで、かく戦えり

    第1章.レイテ決戦までの道のり

    2.東条内閣崩壊、新体制へ

    その1.倒閣への動き

    開戦阻止の大命を受けて内閣を組織した東条英機ですが、その意とは裏腹に任期中に開戦を決意するに至りました。

    東條英機
    wikipedia:東条英機 より引用
    【 人物紹介 – 東条英機(旧字体では東條英機)(とうじょう ひでき) 】1884(明治17)年 – 1948(昭和23)年
    大正-昭和時代前期の軍人・政治家。最終階級は陸軍大将。第40代内閣総理大臣。参謀本部第1課長・陸軍省軍事調査部長などを歴任し、永田鉄山らとともに統制派の中心人物となった。関東軍参謀長・陸軍次官を経て、第2次・第3次近衛内閣の陸相となり日独伊三国同盟締結と対米英開戦を主張。首相に就任後、陸相と内相を兼任、対米英開戦の最高責任者となり大東亜戦争へと踏み切った。「大東亜共栄圏」建設の理念を元に大東亜会議を主催。サイパン陥落の責任を問われて総辞職。敗戦後、ピストル自殺未遂。東京裁判にてA級戦犯とされ、絞首刑に処せられた。東京裁判にて「この戦争の責任は、私一人にあるのであって、天皇陛下はじめ、他の者に一切の責任はない。今私が言うた責任と言うのは、国内に対する敗戦の責任を言うのであって、対外的に、なんら間違った事はしていない。戦争は相手がある事であり、相手国の行為も審理の対象としなければならない。この裁判は、勝った者の、負けた者への報復と言うほかはない」と、アメリカの戦争犯罪を糾弾した。

    いざ開戦と決したからにはもともと陸軍大臣であるだけに、勝利に向かって邁進していったのは当然と言えるでしょう。東条には一本気なところがあり、大東亜共栄圏の大義を純粋なまでに信じていました。日本のためにもアジアに暮らす有色人種のためにも、東条にとって大東亜戦争は、なんとしても勝たなければならない戦いだったのです。

    今次の大戦が国家総力戦であるだけに、国家の持つあらゆる資産を総力戦の遂行に振り向けられるかどうかが、勝敗の鍵を握っています。総力戦遂行のためには、巨大な権力を一手に握る必要がありました。

    その結果、当時の日本には「東条独裁」ともいわれる政治状況が生まれました。出所が不明な巨額の政治資金をばらまくことで、東条は権力の集中を計ることに成功しています。

    ことに1942(昭和17)年、東条がかつて満州の関東憲兵隊司令官の職にあった際に副官を務めた四方諒二大佐が東京憲兵隊長に就任すると、憲兵隊による東条の政敵の監視や弾圧が始まり、東条には逆らえない空気が政界を支配しました。

    このような横暴が許されたのは、東条が国民の支持を得ていたからこそです。真珠湾攻撃に始まる日本軍の連戦連勝に国民は酔いしれ、東条を熱狂的に支持したのです。

    しかし、1943(昭和18)年末ともなると、様相が変わってきました。戦況については厳重な言論統制が敷かれていたものの、南方からの帰還兵の口まで完全に封じることなどできません。

    戦況の悪化は国民にも次第に漏れ伝わり、国民の東条支持は急速にしぼんでいきました。

    マリアナ沖海戦に敗れて機動艦隊が壊滅し、サイパンまで陥落するに至り、亡国の危機にあることを自覚した重臣たちが、民心が東条から離れたことを好機と捉え、ついに動き出します。

    その中心となったのは岡田啓介元総理です。海軍大将でもあった岡田は、戦力に決定的な差がついた今、もはや戦局を盛り返す望みは皆無だと確信しました。このまま戦争を続けて国力を最後まで使い果たし、徹底的に破壊された末に無残な亡国のときを迎えることを、岡田は恐れました。

    おかだけいすけ
    wikipedia:岡田啓介 より引用
    【 人物紹介 – 岡田啓介(おかだ けいすけ) 】1868(慶応4年)年 – 1952(昭和27)年
    明治-昭和時代前期の軍人・政治家。最終階級は海軍大将。第31代内閣総理大臣。第1次大戦中より海軍中枢部の要職を歴任。田中・斎藤両内閣の海相を経て、組閣。軍部の進出をおさえられないまま二・二六事件で首相官邸を襲撃されたが、あやうく難を逃れた。事件後に内閣は総辞職した。アメリカとの戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である伏見宮博恭王の威光もあって思うようにいかなかった。重臣会議のメンバーとして首相奏薦に当たる。
    戦中はミッドウェーでの敗退後、もはや対米戦争に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、東条内閣打倒の運動を行う。マリアナ沖海戦の大敗により海軍大臣・嶋田繁太郎の責任を追及、その辞任を要求し東条内閣の切り崩しを図った。東条は岡田に自重を求め、逮捕拘禁も辞さないとの態度に出たが、岡田はびくともしなかった。宮中や閣内にも倒閣工作を展開、まもなくサイパンが陥落し、東条内閣は総辞職を余儀なくされた。東条内閣倒閣の最大の功績は岡田にあるとされる。終戦工作にも大きく貢献した。戦後は公職追放・解除を受け、85年の生涯に幕を閉じた。

    大東亜戦争に勝ち目がないとわかった以上は、一刻も早く戦争を終結させる道を考えた方がよいと決断したのです。

    その上で最大の障害となるのが東条内閣でした。東条が求めているのは大東亜戦争での勝利だけです。東条には戦争の終結を考える気などまったくなく、最後まで徹底的に抗うつもりでいることは明らかでした。

    そこで岡田は木戸内大臣と通じながら、近衛や平沼・米内など総理経験者と計り、東条内閣の倒閣を画策しました。

    この動きを察知した東条は反東条側の重臣を入閣させることで、この危機を乗り越えようとします。

    しかし、新たに重臣を入閣させるためには現在の閣僚の誰かを辞任させ、空席をつくる必要があります。

    白羽の矢が立ったのは岸信介国務大臣でした。ところがここで、東条にとって思いがけないことが起きます。

    きしのぶすけ
    岸信介:wikipedia より引用
    【 人物紹介 – 岸信介(きし のぶすけ) 】1896(明治29)年 – 1987(昭和62)年
    昭和時代の政治家。第56・57代内閣総理大臣。農商務省に入省後、満州国実業部次長となり、満州産業開発五ヵ年計画を推進し実績を残す。東条内閣のもとで商工大臣を務める(のちに国務大臣に格下げ)も、国政の行方を憂い、東条内閣打倒に動いた。戦後、A級戦犯に指名されると「今次戦争の起こらざるを得なかった理由、換言すれば此の戦は飽く迄吾等の生存の戦であって、侵略を目的とする一部の者の恣意から起こったものではなくして、日本としては誠に止むを得なかったものであることを千載迄闡明することが、開戦当初の閣僚の責任である」と日本国としての大義を獄中から堂々と主張した。反東条内閣に動いていたことが考慮され、起訴には至らず釈放される。公職追放の解消とともに政界に復帰し、日本民主党結成に携わる。保守合同により自由民主党となると総裁選に出馬。石橋湛山に敗れ外務大臣となる。内閣成立2ヶ月後に石橋が病で倒れると首相臨時代理を務め、そのまま石橋内閣を引き継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。1960年に日米安全保障条約改定を強行して退陣。その後も反共・親台湾、憲法改正論者として隠然たる勢力をもちつづけた。そのため「昭和の妖怪」とも呼ばれた。第61・62・63代内閣総理大臣を務めた佐藤栄作の実兄、第90・96・97・98代内閣総理大臣を務める安倍晋三の叔父にあたる。

    実は岸は岡田たちと意志を同じくしており、首相官邸に赴くと東条に対してきっぱりと辞職勧告を断ってみせたのです。

    もし、このとき岸が、これまでの誰もがそうしたように東条の言うがままに国務大臣の職を辞していたならば、重臣を入閣させることで東条内閣が続いていたことでしょう。

    そうなると、その後の日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

    その意味では岸の英断こそが、戦争の終結へと向かって日本が舵を切る分水嶺になったと言えるでしょう。

    東条のいつもの手口により、憲兵が岸のもとへやって来ては半ば脅し、半ばすかしては辞任を迫りましたが、岸はこれを突っぱねました。

    さらに国務大臣として入閣してほしいと打診されていた米内光政元総理が拒否を表明するに至り、東条内閣内にも総辞職をした方がよいとの意見が出されるようになります。打つ手がなくなり四面楚歌に陥った東条は、ついに 7月18日に内閣総辞職を上奏しました。

    よないみつまさ
    wikipedia:米内光政 より引用
    【 人物紹介 – 米内光政(よない みつまさ) 】1880(明治13)年 – 1948(昭和23)年
    明治-昭和時代前期の軍人・政治家。最終階級は海軍大将。第37代内閣総理大臣。日露戦争の際は日本海海戦に従軍。佐世保・横須賀等の司令長官を経て、連合艦隊司令長官に就任。林銑十郎・第1次近衛文麿・平沼騏一郎各内閣の海相を務め、日中全面戦争の開始に際しては不拡大論を唱え、陸軍の進める日独伊三国同盟締結に終始反対した。1940年1月に首相となり組閣するも、三国同盟に反対したため陸軍により半年で辞職に追い込まれる。東条内閣崩壊後、小磯・鈴木・東久邇・幣原の各内閣で海相を歴任、終戦の難局に善処した。穏和な人柄の人物であり、海軍穏健派のエース的存在であった。いわゆる陸軍悪玉論・海軍善玉論が昭和史として定着する上で、大きな役割を果たした。

    サイパン玉砕の大本営発表が為されたのは、その5時間後のことでした。

    ここに、1941(昭和16)年10月の大命降下より約3年続いた東条内閣は、ついに崩壊したのです。

    その2.早期講和へ向けた動き

    600px Koiso cabinet photo op #103 絶対国防圏を死守せよ!国運をかけたフィリピンを守るための戦い
    総理官邸で記念撮影に臨む小磯内閣の閣僚
    小磯内閣:wikipedia より引用

    盤石と思われていた東条内閣が瓦解し、岡田たち重臣を中心とする反東条グループは、早期講和を模索する方向へ向けて動き出しました。

    とはいえ、戦争継続に血眼になっている陸軍を牽制するのは至難の業です。重臣たちは陸軍を説得して早期講和を結ぶためには、皇族を首班とする和平内閣を成立させるよりない、との意見で一致しました。

    しかし、いくら和平を模索するとはいえ、現実的にはしばらく戦争を継続せざるを得ません。そうなると皇族が首班であった場合、戦後に皇族への戦争責任が及ぶ危険がありました。

    そこで近衛と木戸が中心となり、東条の後にワンポイントリリーフのような内閣を置き、その後に皇族を首班とする和平内閣を成立させる運びとなりました。

    重臣たちの戦争終結の願いを受けて組閣の大命を受けたのは、小磯国昭陸軍大将でした。ただし、内閣首班は小磯だったものの、大命は小磯と米内光政海軍大将の二人に降下する形をとっています。

    490px Kuniaki koiso #103 絶対国防圏を死守せよ!国運をかけたフィリピンを守るための戦い
    小磯国昭:wikipedia より引用
    【 人物紹介 – 小磯国昭(こいそ くにあき) 】1880(明治13)年 – 1950(昭和25)年
    明治-昭和時代前期の軍人・政治家。最終階級は陸軍大将。第41代内閣総理大臣。日露戦争に従軍の後、軍務局長となり三月事件や十月事件に関与。陸軍次官・関東軍参謀長・第5師団長・朝鮮軍司令官を歴任後、予備役となる。平沼・米内両内閣で拓相を務め、朝鮮総督となる。東条内閣が倒れた後を受け組閣。最高戦争指導会議を設置するなど戦争の継続に努めるも有効な戦局打開策を講じえず、沖縄戦の最中に総辞職に至った。戦後はA級戦犯として終身刑となり、服役中病没。その容貌から「朝鮮のトラ」と呼ばれた。

    つまり実質は小磯と米内の連立政権です。連立政権であったために東条内閣のときのような権力の集中は未然に防げ、政権自体の指導力は東条内閣とは比べものにならないほど弱体化していました。

    この頃から政治の実権は軍部から離れ、重臣や政治家へと移っていったのです。表面上は戦争継続への決意をみなぎらせながらも、背面下では戦争終結へ向けて日本は確実に歩み始めていました。

    早期講和のために必要とされたのは、もう一度大きな戦果を上げることでした。日本の敗戦が確実な状況で講和を求めれば、無条件降伏を条件として突きつけられることは目に見えています。

    これを避け、亡国とならないように国体を護持したまま講和を結ぶためには、せめてあと一度、真珠湾攻撃のように米軍を完膚なきまでに叩きのめすことが求められました。いわゆる
    「一撃爾後(じご)講和主義」です。

    もっとも戦争終結のために大きな戦果を目論んだのは、あくまで天皇や重臣、政財界や軍上層部の一部に過ぎません。実際に戦場に送られた指揮官のなかに、そのような空気は微塵(みじん)もありませんでした。

    彼らの思いは、米軍の日本本土への攻撃をなんとしても止めることで一致しています。米軍による本土上陸を一日でも遅らせることが、彼らに課された任務でした。

    マリアナ沖海戦の惨敗とサイパンの失陥は、日本軍が定めた「絶対確保線」の崩壊を意味していました。サイパンが落ちたからには、その飛行場から飛び立つ米軍機による本土空襲を防ぐ手立てがもはやありません。学童疎開が始まったのも、この頃です。

    やむなく日本軍は「絶対確保線」をさらに後退させ、「絶対国防圏」を新たに定めました。「絶対国防圏」とはフィリピン、台湾、南西諸島から日本本土を連ねる戦に沿った地域のことです。

    絶対国防衛
    日本が最後の拠り所とした絶対国防圏
    絶対国防圏より引用

    なかでもとりわけ重要な拠点とされたのが、フィリピンです。フィリピンが米軍の手に落ちるということは、石油などの南方資源ルートが完全に遮断されることを意味していました。そうなればもはや日本の敗戦は、いよいよ必至です。

    残り少ない航空機にしても艦艇にしても、石油がなければ動かすことさえできません。南方資源を確保するために、フィリピンは防衛上の最重要拠点だったのです。

    そもそも日本が大東亜戦争に踏み切ったのは、南方の石油を確保するためでした。その意味では日本軍がどれだけの犠牲を払ってでもフィリピンを死守しようとしたことは当然といえるでしょう。

    日本軍はフィリピンを守るための戦いに、まさに国運を賭けたのです。

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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