第2部.レイテ沖海戦から地上戦まで、かく戦えり
第2章.レイテ沖海戦
10月10日に米機動艦隊によって行われた沖縄への空襲は、日本軍の予期していない奇襲でした。
続いて11日にはルソン島北端が空襲され、12日早朝には台湾が空襲されています。
3.台湾沖航空戦の罪と罰
その1.幻の大戦果
アメリカ空母に魚雷を投射した後、超低空で避退する艦上攻撃機天山。1944年10月14日、空母エセックス(CV-9)艦上より撮影 台湾沖航空戦:wikipediaより引用
上陸前に大規模な空襲を繰り返すことは米軍の定跡でもあるだけに、日本軍としてもいよいよ米軍が本格的に動き出す前触れと判断し、豊田連合艦隊司令長官は「捷一号及捷二号作戦発動」を発しました。
豊田副武:wikipedia より引用
【 人物紹介 – 豊田副武(とよだ そえむ) 】1885(明治18)年 – 1957年(昭和32年)
明治-昭和時代前期の軍人。最終階級は海軍大将。連合艦隊参謀長・軍務局長などを歴任。昭和19年5月に古賀峯一の後任として連合艦隊司令長官に推されるも、兵学校1期後輩の古賀が先に選任された事にこだわり続け、当初は「今さら任されても自分にできる事は何もないし気力もない」と突っぱねた。連合艦隊司令長官としてレイテ沖海戦を陸から指揮するが、指導不足を指摘する声は多い。沖縄戦にて戦艦大和を含む第二艦隊による海上特攻への許可を参謀長を通さずに与えた。「大和を有効に使う方法として計画。成功率は50%もない。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」と語ったことで批判を浴びた。昭和20年5月に軍令部総長に着任。その際、昭和天皇は「司令長官失格の者を総長にするのは良くない」と豊田の総長就任に反対する旨を海軍大臣米内光政に告げているが、米内は「若い者(本土決戦派)に支持がある豊田なら若い者を抑えて終戦に持っていける」という意図を天皇に告げ押し切った。しかし、ポツダム宣言の即時受諾に反対し、率先して徹底抗戦を主張することで米内の期待を裏切った。昭和天皇は「米内の失敗だ。米内のために惜しまれる」と述懐している。終戦直後の幣原内閣発足時に海軍大臣に推されるも、海軍部内の猛反対により実現しなかった。その後、戦犯容疑で逮捕されたが極東国際軍事裁判では不起訴、GHQ裁判(豊田裁判)では無罪判決を得た。海軍内での評判は悪く、罵倒に近い評価を下す将校もいた。
「捷一号及捷二号作戦」とされたのは、この段階では米軍が上陸を狙っている地点が台湾なのかフィリピンなのか、まだはっきりしていないためです。
この時点の捷号作戦は大本営によって全軍に出されたわけではなく、連合艦隊によって航空部隊のみに発動されたものです。
ハルゼー率いる米機動部隊を壊滅させるべく、陸海軍の総力を結集した航空兵力により決戦を挑むことになったのです。航空戦力を束ねるのは、第二航空艦隊司令長官の福留繁中将です。
福留繁:wikipedia より引用
【 人物紹介 – 福留繁(ふくとめ しげる) 】1891(明治24)年 – 1971(昭和46)年
大正・昭和期の軍人。最終階級は海軍中将。海大の成績優等卒業生であり、「戦略戦術の神様」と称えられていた。軍艦長門艦長を経て連合艦隊参謀長となった後、軍令部作戦部長となり真珠湾攻撃作戦計画に参画。空母機動部隊の活躍後も決戦主力は戦艦の大艦巨砲であり、機動部隊はその補助に過ぎないと主張した。そのことはミッドウェー作戦でも変わることがなく、連合艦隊敗因の一つとされる。戦時中は連合艦隊参謀長に復帰するも、戦艦至上主義から抜け出せず、敗戦を重ねた。海軍乙事件発生によりフィリピンゲリラの捕虜となり、数々の最重要軍事機密を奪われた。拘束時に抵抗や自決、機密書類の破棄をしなかった不手際を後に糾弾される。ゲリラから解放され帰国を果たすと機密書類紛失の容疑を否定した。その後、第二航空艦隊長官に任命され、1944年10月に実施した台湾沖航空戦にて誤認戦果をそのまま報じたため、大成果を信じた陸軍のレイテ決戦を招き、多くの人命が失われた。大西中将の説得を受け福留が指揮官、大西が参謀長となり、第二神風特別攻撃隊を編制して出撃させて以降、次々と特攻隊を送った。中央に対して特攻攻撃をすすめる意見を具申し、練習航空隊から零戦隊150機の抽出が決定されている。シンガポールで終戦を迎える。東京裁判において戦犯に指定され、英軍戦犯として禁固三年の後、復員。天寿を全うし80歳にて没。
捷号作戦の発動に伴い、小沢長官の率いる機動艦隊の艦上機も第二航空艦隊に編入されることになり、空母を離れて航空基地に配されました。まさにすべての航空兵力をかき集めての大決戦です。
こうして台湾沖を舞台に、ハルゼーの米機動艦隊と日本の航空兵力とが激しい空の戦いを繰り広げることになりました。
台湾沖航空戦において注目されたのは海軍選抜パイロットによって編成されたT攻撃部隊です。「台風=”typhoon”」の頭文字をとったT攻撃部隊は、夜間攻撃と悪天候下での攻撃に向けて訓練を繰り返してきた部隊でした。
折しも12日の夕刻は台湾東方海面に台風があり、T攻撃部隊の真価を問う絶好の機会です。鹿屋・宮崎の基地を飛び立ったT攻撃部隊は、16時30分頃米機動部隊を発見して攻撃を加え、空母2隻を撃沈したと報告しました。
他の航空部隊からも続々と米空母を撃沈、または大破と報告が寄せられ、海軍も大本営も喜びに沸き返りました。
連日繰り返される航空戦において、日本の戦果はますます膨らむ一方です。日本側も多大な航空機を失ったものの、その戦果は損失を補って余りあるものでした。
10月15日、大本営は軍艦マーチが高らかに流れるなか、台湾沖航空戦において合計53隻の米艦艇を撃沈破し、そのうちの11隻は空母であると発表しました。
一気に11隻の空母を撃沈したとなれば、世界の海戦史上例を見ない最大の戦果です。開戦以来のアメリカが国力のすべてを注いで建造してきた空母のほぼすべてが、一瞬で失われたことになります。
大本営の発表を受け、日本中がお祭り騒ぎとなったのも無理はありません。サイパン陥落など日本軍の劣勢をうかがわせる報道が続いていただけに、米機動艦隊殲滅という日本軍の大勝利に国民は狂喜しました。各地で提灯行列が連なり、万歳と叫ぶ声が響いたのです。
天皇からも連合艦隊に対してよくやったとねぎらう勅語が下されています。小磯首相は「勝利は今やわが頭上にあり」と拳を振り上げました。
連合艦隊はほぼ壊滅した米機動艦隊に止めを撃つべく、水上部隊に対しても追撃を命じました。
「敵機動部隊はわが痛撃に敗退しつつある。基地航空部隊と第二遊撃部隊は全力を挙げて残敵を殲滅せよ」
この追撃戦においても日本軍は戦果を上げ、10月19日の大本営発表では撃沈破は57隻に増え、そのうち空母は19隻と修正されています。
台湾沖航空戦での大戦果を伝える新聞
大本営は「真珠湾攻撃、あるいはマレー攻略をはるかに凌ぐ大勝利である」と、台湾沖航空戦の総括を行いました。
大本営の発表によれば 50万トン以上の米艦艇を撃沈したことになり、米海軍のおよそ60パーセントの戦力を葬ったことになります。
まさに日本軍が渇望していた奇跡的な勝利が舞い込んだのです。ところが、実際には……。
その2.台湾沖航空戦の空しい真実
- 敵に向かって退却中 -
10月19日、米太平洋艦隊司令部はハルゼー提督がニミッツ提督に対し次の電報を送ったと発表しました。
「最近、東京のラジオが撃沈したと報じた第三艦隊の船はすべて引き揚げ、目下敵に向かって退却中」
「敵に向かって退却中」の意味は、レイテ上陸を目指して進行中ということです。「東京のラジオが撃沈したと報じた第三艦隊の船はすべて引き揚げ」の意味は、米艦艇は1隻も沈んでいない、ということです。
撃沈破57隻、そのうち空母19隻と報じた大本営発表は、真実とはかけ離れていました。
実際には沈没した米艦艇は一隻もなく、巡洋艦2隻を損傷したのみでした。他には戦闘によって失われた航空機が76機、事故によって失われた航空機が13機と、米軍の損害はごくわずかに留まっていたのです。
対して日本軍の損害は甚大でした。米軍の発表によると日本機377機を撃墜、278機を地上で破壊し、合計655機の損害を与えたとされています。日本側の発表によれば 312機が失われたとしています。
多くの航空機を犠牲にして上げた実際の戦果は、90機弱の航空機の破壊と巡洋艦2隻に損害を与えたのみだったのです。
大本営が誇らしげに繰り返す幻の戦果を聞き、ハルゼー提督は笑いが止まらなかったことでしょう。はじめは日本国民の士気を鼓舞するために過大な戦果を捏造しているとばかり思ったハルゼーですが、日本軍が米艦隊を追撃していることを知り、大本営が本気で勝利を信じ切っていることに驚いています。
そんな状況下でウィットに富んだ言葉でニミッツ提督に送ったのが、先の電報です。
戦闘において自軍の上げた戦果を過大に報告することは、日本軍に限らずどの国にも共通して見られます。しかし、台湾沖航空戦ほど発表された戦果と実際の戦果とがかけ離れた例は、類を見ません。大東亜戦争中の最大の誤報でした。
この一件は、後世の歴史家の失笑を買うことになります。
とはいえ、この誤報は大本営が国民を欺くために意図的に流したものではありません。戦場から戻った搭乗員の報告をもとに、海軍が多少間引いた上で大本営に伝えた戦果を、そのまま発表したに過ぎません。
つまり誤報の元は航空戦に参加したパイロットの勘違いであり、その報告をしっかりと確認しなかった海軍上層部のミスです。
- 戦果が過大になった理由とは -
パイロットの勘違いは、経験不足から導かれたものでした。日本海軍が誇った熟練パイロットの多くは、マリアナ沖海戦と度重なる米軍機の空襲によって失われていました。当時の日本の航空兵力の大半は、わずか6ヶ月ほど訓練をしたに過ぎない初心者だったのです。
6ヶ月といっても、けしてみっちり訓練できたわけではありません。訓練をしようにも燃料がないため、実際の飛行時間はわずかでした。
燃料がないのは、南方から運ばれてくる石油を積んだ商船のことごとくが米潜水艦の餌食になり、沈められていたためです。日本本土に無事に届けられる石油は、ごくわずかに過ぎませんでした。
しかも、ほとんどのパイロットにとって実戦を経験するのは台湾沖航空戦がはじめてです。飛行するのがやっとの未熟練のパイロットたちに、戦果を正確に確認できるはずもありません。
さらに夜間攻撃が多かったことも、パイロットを幻惑しました。ハルゼー自身、麾下の空母群が燃えている光景を見て驚いたと後に綴っています。艦上のハルゼーもまた、日本のパイロット同様の幻影を一時的とはいえ、たしかに見たのです。
燃えていたのは実は空母ではなく、撃墜された日本の攻撃機でした。米艦隊の周辺に落ちた日本の攻撃機は、海上で盛んに燃えました。その数があまりにも多かったため、空母自体が燃えているように見えたのです。
こうして多くの空母撃沈の報告が上げられました。得てして人は、自分が見たいと思う景色のみを見ようとするものです。日本を破滅から救うために勝ちたいと願う気持ちが幻影を作り出し、パイロットから海軍上層部、そして大本営へと受け継がれていきました。
- なぜ大敗を喫したのか -
冷静に一歩引いて考えるならば、マリアナ沖海戦で大惨敗を喫した日本の航空兵力が、その教訓を活かさないまま小出しの攻撃を繰り返したところで、大本営発表のような大戦果を上げられるはずもありません。
実際の台湾沖航空戦は、マリアナ沖海戦の惨状を再現したものに過ぎませんでした。マリアナ沖海戦にて日本の攻撃機を次々に捕捉して撃墜していった米軍の高性能レーダーは、今回も日本の攻撃機の行く手を阻みました。
米軍のレーダーは遠距離から日本の編隊を探知できたため、艦隊の前方100マイルに戦闘機多数を上げて、余裕をもって待ち構えることができました。そのため、日本の攻撃機は米艦隊を視認する前に、そのほとんどが撃墜されました。米軍の記録によると、攻撃機の43パーセントは目標に到達する前に撃墜されています。
航空機の性能そのものも、この頃には米軍の方が日本軍を上回っていました。ゼロ戦が優位だった時代は、すでに過ぎ去っています。整備能力の低下も、日本機の質を落とした原因です。熟練パイロットが失われたことと同様に、優秀な整備員の大半は南方の島々に取り残されたまま、引き揚げることができませんでした。日本機の故障が多かったのは、熟練した整備士がいなかったためです。
さらに輪をかけてパイロットの熟練度においても、米軍のほうがはるかに優れていました。米軍のパイロットは2年間をかけ、300時間以上の訓練を終えていましたが、日本では先述の如く、ごく短時間の訓練しか受けていません。
航空兵力の出し方にも問題がありました。各基地から発進した攻撃機が連携して集中攻撃を行うのではなく、基地ごとに少数の攻撃機がばらばらに攻撃を繰り返したため、そのことごとくは空中で待ち受ける米戦闘機の好餌になるばかりでした。
日本はこの一週間で延べ1425機を投入しています。規模から言えば、間違いなく開戦以来最大です。しかし、散発的な攻撃に留まったため米軍の被害はほとんどなく、日本軍ばかりが321機の航空機を失いました。
ことに、航空基地に編入された機動艦隊の艦上機の大半を失ったことは致命的でした。機動部隊から艦上機が失われたため、米軍の上陸時を狙って総力を結集して叩くという捷号作戦の構想そのものが崩れてしまったのです。
- 真実は隠蔽された -
問題は戦果が間違いであったことを、海軍から陸軍へなにも知らせなかったことです。そのため、真珠湾攻撃を上回る大戦果に沸き立つ大本営の発表を、陸軍はそのまま素直に真に受けてしまいました。
海軍はすでに17日には、台湾沖航空戦の戦果が過大であることに気がついていました。フィリピンの東方海上に4つの米機動艦隊を確認したためです。
撃沈したはずの米空母の姿をたしかめた海軍では、戦果を再び見直し、いくら有利に見ても空母4隻を損傷させた程度で、米機動艦隊は確実に健在、との判断を下しました。
それでもまだ実際よりも過大な戦果ですが、米空母11隻の撃沈破が幻であったことは認めざるを得ません。
このことは陸軍に伝えるべき重大情報でしたが、海軍は真実を隠蔽したまま、ついに陸軍に伝えませんでした。全国民を狂喜させ、天皇の勅語まで下されていながら、今さら戦果が間違いであったとは言い出せなかったのです。
そのため、米機動艦隊が壊滅したと信じた陸軍は、米軍との決戦の場を当初予定していたルソン島からレイテ島へと移し、およそ8万の将兵を死地に追いやることになります。これについては、後ほど詳説します。
台湾沖航空戦にて日本の航空兵力の大半を失ったことにより、米軍上陸時を航空兵力の総力を結集して叩くという大本営の立てた作戦は、もはや実行不可能となりました。なにせ捷一号作戦に予定していた航空機の8割を喪失してしまったのです。
それでも日本軍は残りわずかとなった航空兵力に頼りながら、捷号作戦を進めるより他に方法がありませんでした。