第1回 カンギポット周辺を往く
マクタン空港を飛び立ったセスナ機は眼下に広がる波のない穏やかな内海を横切り、かつて日米両軍が死闘を繰り返したレイテ島へと向かいます。
セブからレイテ島までフェリーだと3時間はかかりますが、セスナ機をチャーターすれば45分ほどのため日帰りも十分可能です。
今回は「マナビジン」の斉藤さんとともに、セスナ機による遊覧飛行や体験操縦を生業とするセブトップの代表でもあり元セブ日本人会会長の石田武司氏にガイドと慰霊をお願いし、レイテ島に残る慰霊碑を駆け足で回ってきました。セスナ機のパイロットはセブ日本人会理事メンバーの櫻井哲也氏です。
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今回より3回に分けて、レイテ島慰霊の旅の紀行文を掲載します。
元日本人会会長の石田武司氏(左)とパイロットの櫻井哲也氏(右)
ヘリコプターには取材で何回か乗っていますが、セスナ機は今回がはじめてです。私の席は機長の座るコックピットの隣でした。体験操縦もできるセスナ機のため、クルマの教習と同じように私の席にも操縦桿がついています。
クルマと異なるのは、セスナの操縦桿は左右ばかりでなく前後にも大きく動くことです。操縦桿がぐっと前に突き出てくると、腹にめり込むことで操縦不能に陥り墜落するのではないかと気が気でなく、思わず息を吸い込みお腹を引っ込めましたが、さすがにそんな心配はいらなかったようです。
1.あの日のレイテ
レイテ上空を飛びながら操縦桿を見つめていると、およそ75年の歳月を飛び越え、思いは1944(昭和19)年へと向かいました。その年の10月20日から25日にかけて、日本連合艦隊は残っている戦力のすべてをつぎ込み、米機動艦隊と最後の決戦をレイテ沖にて展開しました。
軍の記録上、米艦艇への体当たり攻撃を敢行する神風特別攻撃隊が出撃したのも、レイテ沖海戦がはじめてです。まだ二十歳そこそこの若者たちは、上空から一気に下降し、米空母の甲板を目がけて突撃しました。急下降のために、操縦桿を一気に押し倒すときの彼らの心境はいかばかりであったことか……。
平和な時代を生きる私たちには、その当時の彼らの思いを正確に感じとることなど、とてもできそうにありません。それでも、国を守るため、ひいては故郷に暮らす父母や兄弟姉妹、妻や子供を守るためとはいえ、死に際した彼らの思いが、そのような英雄譚(たん)だけで語り尽くせるほど単純なものでなかったことだけは想像に難くありません。
家族に向けた哀切の情、生への執着、使命感と共に内在する自分が犠牲になることへの理不尽な思い、そうした諸々の思いが交錯するなか、それでも操縦桿を一気に押し倒し、彼らは自らの一命をかけて敵艦を屠(ほふ)ることに身を捧げました。
自己の命を犠牲にしてまでも他を生かすという発想は、日本の古(いにしえ)の時代より培(つちか)われてきた崇高な理念です。しかし、彼らをそうせざるを得ないほどに追い詰めたものは明治以降、無理を重ねて富国強兵につとめた日本の歴史そのものであったともいえるでしょう。
当時の世界を支配していたのは欧米の白人です。白人が有色人種を支配するという世界秩序が、すでに完成していました。
そうした世界の趨勢(すうせい)に、有色人種の国家としてただ一カ国抗ったのが日本でした。経済的に立ち後れた日本が欧米列強に追いつき、追い越すためには、無理を通さなければいけないことが多々ありました。
資源に恵まれず、経済規模の小さな後進国に過ぎない日本が、白人優位の世界秩序に異を唱え軍事的に対抗するためには、国民一人ひとりの忠誠心や精神力に頼らざるを得なかったのです。
十死零生という世界の軍事史にも例のない特攻が繰り返されたのは、刀折れ矢尽きた挙げ句に「最後に残された頼みの綱が精神力よりない」、といった刹那的な状況に追い込まれたからこそです。
特攻が行われたのは空だけではありません。海では人間が魚雷に乗り込んで敵艦に体当たりする回天特別攻撃隊が組まれ、陸では弾薬が尽きた日本兵が銃剣を手に米軍の陣地に突撃するという斬り込み隊による特攻が繰り返されました。
1944年後半以降、日本軍の作戦のことごとくは陸海空からの特攻がなければ成り立たない惨憺(さんたん)たる状況を呈していました。そこには数え切れないほどの悲劇の物語が織り込まれています。
そんなことに思いを馳せていると、早くもレイテ島が見えてきました。上空から見下ろすレイテ島は、深緑に包まれた神秘的な佇(たたず)まいをたたえています。
上空から見たレイテ島、脊梁山脈が島を分かつ様相がはっきり見てとれる。
しかし、今から75年前、レイテ島はまさに地獄でした。日本兵にとっても米兵にとっても、そしてレイテに暮らすフィリピン人にとっても、当時のレイテは地獄の島以外のなにものでもありませんでした。
レイテの戦いに投入された日本兵は、およそ8万4000人です。そのうち生きて日本に戻れた将兵は、わずか2400人ほどに過ぎません。実に8万人以上、率にすれば97%の日本兵が、レイテ島にて散華したのです。
「あれがカンギポット山です」と、セスナの進路の左手を石田さんが指し示します。頂上に裸岩が剥き出しとなったカンギポット山は、日本軍が最後に集結した場所です。
やがてオルモック平野が眼下に広がり、北には第一師団が激闘を繰り広げたリモン峠の山並み、南に日本軍と米軍が揚陸したオルモック湾が開け、正面に視線を戻せば島の南北を貫く脊梁山脈がはっきりと見渡せます。
山脈の東側は厚い密林に覆われ、人の侵入を拒んでいるかのようです。第16師団はこの脊梁山脈を彷徨い、次々に飢えと病に倒れていきました。密林の中には、今も日本兵の多くの遺骨が取り残されたままです。
上空から見下ろすオルモック湾、第1師団や第26師団はこの湾から上陸した。後に米軍が上陸し、日本軍と激しい戦闘が繰り広げられた。
2.世界慰霊平和公園の碑
まだ真新しいオルモック空港の滑走路にセスナは滑らかに着地し、レイテ慰霊の旅がはじまりました。
今回はオルモック空港を起点とする日帰り旅のため、移動できる範囲はレイテ島西北部に限られます。カンギポット山の麓にあるビリヤバ地区からはじめ、リモン峠を回って再びオルモックに帰着する間にある慰霊碑をめぐることになりました。
まずはじめに向かったのは、ビリヤバのカタグバカン地区にある「世界慰霊平和公園の碑」です。この慰霊碑は、オルモックからクルマで1時間半ほど行った山の奥に位置します。レイテに数ある慰霊碑のなかでも、もっとも険しい場所に建立されていると聞いていましたが、たしかに細くうねった山道を駆け上るさまは、4WD車によるオフロード走行会を思い起こさせるに十分でした。
それでも最近になって途中までは道路が舗装されていることは幸いでした。かつては未舗装であったため雨が降ると道がぬかるみ、クルマが立ち往生することが頻繁にあったそうです。
途中からは舗装も途切れ、道とは思えない山中を上ることになります。案内人がいなければ独力でたどり着くことはまず不可能と思える険しさです。そのため「世界慰霊平和公園の碑」を訪れたくても、断念する日本人が多いようです。
柵に近づくとどこからともなく管理人が現れ、柵を開けてくれます。一応道になっていますが、画像で見れば明らかなように、まさに道なき道を進む感じで不安を拭えません。
私有地のため、碑にたどり着くまでは二重に柵が設けられており、敷地に入るためには管理人に管理料を支払う必要があります。
ようやくたどり着いた「世界慰霊平和公園の碑」は静寂に包まれていました。碑の背後には、カンギポット山を仰ぐことができます。
右手奥に見えるのが日本軍が最後に立て籠もったカンギポット山
レイテの戦いを指揮した第35軍の鈴木中将は、カンギポット山を「歓喜峰」と呼びました。その名の通り、レイテ各地で米軍に敗れた日本軍が最後に希望をつないだのが「歓喜峰」ことカンギポット山でした。
「カンギポット山に集結せよ」の命を受け、すでに軍隊としての機能を失っていた日本兵は、一人、また一人と、カンギポット山を目指しました。
フィリピン全体を統轄する山下司令官がカンギポット集結を命じたのは、「地号作戦」に基づき、できるだけ多くの兵をレイテからセブ島やミンダナオ島へと撤退させるためでした。もっとも日本軍は、敗北を意味する「撤退」という言葉をけして使いません。「撤退」の代わりに使われたのは「転進」という言葉です。
レイテ沖海戦にて連合艦隊は壊滅し、もはや制空権も制海権も米軍の手中に帰していました。レイテ島に上陸した米軍は20万を上回り、圧倒的な火力の前に日本軍は各地で撃滅され、8万4000の日本兵のうち生き残っていたのは、この時点でわずか2万人ほどであったと言われています。
「日米の天王山」と鼓舞されたレイテの戦いにて日本軍が敗北を喫したことは、もはや歴然としていました。生き残った2万人がどう頑張ったところで、戦局を挽回できるはずもありません。
残された彼らの望みは、地獄のレイテから抜け出すことでした。「カンギポットにたどり着けば友軍が待っている、そこから船でセブ島へ脱出できる」と彼らは信じ、ひたすらカンギポット山を目指したのです。
苦労の末に密林を横断し、およそ1万人の兵がカンギポット山周辺に集結しました。
ドローンにより上空から撮影したカンギポット山、その周辺の緑は深く、日本軍が身を潜めるのに適していたことがわかる
しかし、彼らのうち幸運にもセブ島に逃れることができたのは、第1師団を中心とするわずか800人に過ぎません。彼らを輸送するために用意された大発(大型発動機艇の略称=陸軍の上陸用舟艇)が米機と魚雷艇の攻撃により失われたためです。
レイテからの脱出もままならず、食料や武器弾薬の供給も閉ざされ、カンギポット山周辺に取り残された日本兵に下った命令は、「自戦自活永久抗戦」でした。
つまり、「もはや食料も武器弾薬も送ることができなくなったから、あとは自分たちでどうにか食いつなぎ、死ぬまで永久に戦い続けよ」ということです。
現代を生きる私たちから見れば、理不尽としか言いようのない非情な命令です。それでも米軍の進撃を妨げられない形勢となっていた当時、徹底抗戦を続けることで米軍を釘付けにし、米軍による本土上陸を一日でも遅らせることが、日本陸軍に課せられた使命でした。
日本軍の敗残兵がカンギポット周辺に集まっていることを知った米軍は、激しい攻撃を繰り返しました。慰霊碑が建立されている辺りでも死闘が展開され、多くの日本兵が息絶えています。
米軍に追い詰められた日本軍は、いよいよカンギポット山に逃れ、なおも徹底抗戦を続けました。数少ない生存者の証言によると、一時はカンギポット山周辺の山稜はあまねく敵影で埋まるほどに、接近包囲されたことがあったとのことです。
頂上は岩が剥き出しとなったカンギポット山、てっぺんに見えるのはフィリピン国旗。
米軍とフィリピン人ゲリラの猛攻に、日本軍は次第に追い詰められていきました。もはや歓喜峰には何一つ希望はなく、日本兵はカンギポット山を死後の世界へと繋がる「三途の川」と呼びました。
1945(昭和20)年の4月から5月にかけ、飢えと疾病に悩まされながらも生き残った将兵たちはカンギポットを北方に逃れ、カルパゴス山へ向けて山嶺一帯を彷徨(ほうこう)するなかで力尽き、次々と倒れていきました。
フィリピンに限らず、大戦中に激しい戦闘が行われた多くの地域では、終戦後に生きて収容された兵が何人かいることが普通です。しかし、カンギポットだけは例外でした。
米軍の記録には、次のように記されています。
「終戦の日よりあと、生きて投降収容された者なし」
カンギポット山に集結した日本兵は、文字通り「全滅」して果てたのです。
慰霊碑を前に、石田さんの唱える般若心経が静寂に包まれた深緑のなかに染み渡っていきます。「経文は言葉をなくした死者との会話である」と石田さんは語っています。
カンギポット山で亡くなったおよそ1万の将兵は、後世を生きる私たちに何を語りかけているのでしょうか。読経にあわせて顕彰の思いを寄せ、カンギポット山に向かって深く頭を垂れました。
3.平和の塔(京都垣兵団の碑)
次に向かったのは、ビリヤバとサントロサリオを結ぶハイウェイ沿いに立つ「平和の塔」です。京都の垣兵団の生存者によって建立された碑です。碑の右手には個人の墓標が4つ並んでいました。
道沿いに立つ平和の碑。碑に寄り添うように、右手には4つの墓標がある。
この場所からもカンギポット山を仰ぐことができます。カンギポット周辺では米軍との戦闘によってあまたの将兵がレイテの土に還ったのです。
かつて、この場所の周辺には多くの慰霊碑が建っていたそうです。しかし、2013年にレイテを襲った台風ヨランダによって壊れたり飛ばされたりしたことで、現在では画像の碑を残すのみとなっています。
慰霊碑の保存にあたっては難しい問題が横たわっています。慰霊碑はたいていの場合、地主の好意によって建てられています。戦後75年の歳月のうちには、土地の所有権が移り変わることも当然あります。新たな地主が、慰霊碑に理解があるとは限りません。
地主によっては慰霊碑のある場所への立ち入りを禁じる場合もあります。そうなると私有地である以上どうにもなりません。そのまま撤去される慰霊碑も、数多くあります。
また、日本から慰霊に訪れる生存者や遺族が減る一方であることも、深刻な問題を投げかけています。慰霊に訪れるのは遺族の代へと移っていますが、長い歳月のなかで戦争の記憶は次第に薄れ、慰霊者の足も遠のきつつあります。
慰霊碑の管理は地元のフィリピン人に寸志を渡すことで成り立っていますが、慰霊する人が少なくなれば管理が滞ることも、やむを得ないことです。
石田さんによると、大阪府で建立したレイテの慰霊碑が府の意向によって埋められ、今では更地になっているそうです。おそらくは慰霊者が少なくなったことにより、予算の関係で慰霊碑の維持が取りやめとなった結果だと思われます。
こうした様々な事情により、慰霊碑は年々その数を減らしています。さらに歳月が流れれば、レイテから慰霊碑がひとつもなくなる日がいつか訪れるのかもしれません。
残念なことですが、長い歳月のなかで慰霊碑が失われていくのは仕方のない面があります。ちなみに次に訪れる第一師団の慰霊塔は木で造られています。
石ではなく、あえて木で造られているのは、故片岡師団長の意を汲んだためです。
片岡師団長は生前、次のように語ったそうです。
「慰霊の印は木で作り、朽ちるときが来たら朽ちたらいい。リモン峠からカンギポットにいたる山野全体が日本軍の慰霊碑なのだから」
黙視できる慰霊碑がレイテからひとつもなくなったとしても、日本本土を守るためにレイテで戦った日本兵の記憶は、後世を生きる私たちが忘れない限りけして消えることはありません。
レイテ島の悠久の大地には、75年前に起きた日米の激しい死闘もそれにともないフィリピン人を襲った悲劇も、しっかりと刻み込まれています。
私たちにできることは、あのとき何があったのかを語り継ぐことといえるでしょう。
このあと私たちは、第1師団が米軍と激しい対峙し、レイテの戦いでもっとも激しい死闘が繰り広げられたリモン峠へと向かいました。
この続きは次回にて。
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