第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
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→第1部 3章 日露戦争(1/4)中国・朝鮮とともに!アジア主義の始まり
目次
第3章.大東亜戦争への道筋 -日露戦争がもたらしたもの-
2-2.国家の存亡をかけた日露戦争
その1.不平等条約の改正
ロシアのアジア侵略は着々と進んでいました。日清戦争に先立つ1890(明治23)年には、ロシアはフランスから資金を得ることで、シベリア鉄道計画に着手しています。シベリア鉄道が完成するとなると、ロシアはヨーロッパから中国や日本海、さらに北太平洋に抜ける大動脈を得ることになります。
シベリア鉄道は日本にとっても脅威でしたが、ロシアのインド侵略をもたやすくするため、イギリスにとっても大きな脅威でした。この頃からイギリスは日本を侵略するよりも、ロシアをけん制するために日本の軍事力を利用しようと考えるようになります。ロシアの南下を抑えたいことにおいて、日本とイギリスの利害は一致したのです。
イギリスの日本に対する姿勢の変化は、不平等条約改正の機会を日本に与えました。日清戦争の直前に、外務大臣陸奥宗光はイギリスとの不平等条約改正についに成功します。関税自主権は先送りとなったものの、領事裁判権は撤廃されたのです。
wikipedia:陸奥宗光 より引用
陸奥宗光(むつ むねみつ)1844(天保15)年 – 1897(明治30)年
明治時代の政治家・外交官。紀州藩士。脱藩して坂本竜馬の海援隊に加わり、尊攘運動に参加。維新政府成立後、新政府・和歌山県庁などに出仕。地租改正局長として地租改正を推進するも、薩摩派が大蔵省を握ったため失脚。西南戦争当時土佐派の政府転覆計画に加担した罪を問われ5年の刑に服す。
出獄後、イギリス・オーストリアに留学。帰国後、第二次伊藤内閣の外相として不平等条約改正を成功に導いた。その高度な外交政策は日本外交の原点ともいわれる。
日本を半植民地状態においていた枷(かせ)のひとつが外れたことは、日本にとって大きな収穫でした。条約改正は日本が憲法をはじめ、欧米並みの法整備を完備したことが評価された面があるものの、何より大きかったのは日本が近代化を成し遂げ、列強が認める軍事力を備えたからこそです。
イギリスが条約改正に応じてくれたことは、日本が日清戦争に踏み込む最後の決め手になったとされています。
日清戦争に勝利したことで、不平等条約を交わしていた他の列強も競って改正に応じ、幕末からの悲願の一つを日本は達成しました。
日本の商船がヨーロッパやアメリカ、オーストラリアへ航行することも許され、貿易のすべてを欧米列強に握られる苦境から、ついに解放されたのです。
その2.侵略する側とされる側
日清戦争に敗れた清は、西欧列強の草刈り場と化しました。強ければ敬われ、弱ければ一斉に叩かれるのが帝国主義の時代の非情な定めです。19世紀末には、上海・天津・重慶など28カ所に租界ができました。
中国のケーキ(アンリ・マイヤー画/フランス国立図書館蔵)
日清戦争終結から3年後に、列強が清国を分割したことを表す有名な諷刺画です。図の左からイギリスのヴィクトリア女王・ドイツのヴィルヘルム2世・ロシアのニコライ2世・フランスの象徴である女性像マリアンヌ、そして日本を象徴するサムライ。背後には清国人がなすすべもなく手を上げています。
租界とは中国の領土ではあるものの、中国の行政権や警察権が及ばない地域を指します。つまり事実上の占領地です。1997(平成9)年に中国に155年ぶりに返還された香港も、その間ずっとイギリスの租界でした。日本も台湾沿岸にある福建省の不割譲を清に約束させ、自国の勢力範囲としました。
日清戦争後の列強による中国(清国)分割地図
日本を含めた列強の侵略に対し、1898(明治31)年に中国国内では「扶清滅洋(ふしんめつよう)= 清を扶(たす)け、西洋を滅ぼす」、「代天行道 = 天に代わって正義を実現する」をスローガンに義和団の乱が起こりました。
各地でキリスト教の教会が焼かれ、西洋人の殺害が相次ぎ、ついに義和団は北京を制圧すると公使館区域を包囲しました。天津の租界も包囲され、多くの外国人居留民に危機が迫ったのです。
清はこの機会に乗じて列強に宣戦を布告し、北京の公使館や天津の租界を攻撃し始めました。このままでは、公使館員と居留民が皆殺しあうことは明らかでした。しかし、欧米から援軍を派遣しようにも間に合うはずもありません。
この緊急時に援軍をすぐに送れるのは、地理的に近い日本だけでした。しかし、駐日イギリス公使から何度も出兵要請が出されても、日本は動きませんでした。イギリス政府からの正式な要請が来るのを待ってから日本は出兵しました。
日本軍が外国の軍隊と共に戦ったのは、義和団の乱が初めてです。日本軍を中核とする8カ国連合軍は、北京と天津の清軍と義和団を撃破しました。日本軍の勇敢さと規律の正しさは、世界から絶賛されました。
義和団の乱に参加した連合軍の兵士。左からイギリス・アメリカ・イギリス領オーストラリア・イギリス領インド・ドイツ・フランス・オーストリア=ハンガリー・イタリア・日本。
義和団の乱は帝国主義のもたらす侵略に対する民衆の反抗的暴動であり、日本がそれを鎮圧する側に回ったことは、これまで欧米列強による侵略に怯えていた日本にとって皮肉なことでした。
帝国主義に抗うために近代化を進めてきた日本は、いつのまにか自らも帝国主義のまっただ中へと取り込まれていたといえるでしょう。
それは日本が生き残るために、やむを得ない選択でした。
その3.日露戦争はなぜ起きたのか
- ロシアの朝鮮侵略の影 -
日清戦争で日本が勝ったことにより清からの独立を果たした朝鮮は、大韓帝国として生まれ変わりました。日本は閣議において朝鮮を「なるべく干渉を止めて自立させる」という方針を決定しています。
しかし、千年以上にわたり中国の属国であった朝鮮の人々は、独立自尊よりも事大主義へと傾いていきました。事大主義とは、強いものに付き従うという考え方のことです。三国干渉で遼東半島をロシアに返還するよりなかった日本とロシアを比べたとき、ロシアの方が強いと多くの朝鮮人は考えました。
そのため、親ロシア派が宮廷内で力を強め、独立派と親日派を次第に排除していく事態となりました。このことは、日本にとって見過ごせない問題でした。
義和団の乱が満州に及ぶと、治安を回復することを口実にロシアは軍を動かし、満州全域を占領しました。そのままロシア軍は満州に居座り、いよいよ朝鮮への侵略を開始したのです。
義和団の乱に際し満州に出兵したロシアは、その鎮圧後も撤兵せずに占領を続けました。
ロシアは北朝鮮の龍岩浦を占領すると朝鮮との間に強引に租借契約を結び、この地をポート・ニコラスと名付けました。この港は黄海に出る重要な拠点であり、これによりロシアは遼東半島沿岸と朝鮮の西海岸付近の制海権を握ることに成功しました。
朝鮮を守ることはおろか、日本本土の防衛においても、これは大きな脅威でした。日本は何度もロシアに抗議しましたが、すべて無視されます。
無理もありません。大国ロシアから見れば、日本など歯牙にかけるまでもない小国です。当時のロシア海軍の艦船の総排水量は約51万トンですが、日本の連合艦隊は26万トンに過ぎません。日本が太刀打ちできる相手でないことは、世界中のどの国から見ても明らかなことでした。
- 世界が驚いた日英同盟 -
それでも当時の日本にとって唯一の救いは、世界があ然とする同盟をイギリスとの間に結べたことでした。
1902(明治35)年、日英同盟が結ばれたことは国際社会を驚かせました。大英帝国は「光栄ある独立」を誇りとしており、ヨーロッパ各国とさえ同盟を結んでいなかったからです。その大英帝国がまさか有色人種の小国と同盟を結ぶとは、誰も予想し得ないことでした。
『ビゴーが見た日本人 諷刺画に描かれた明治』清水勲著(講談社) より引用
フランス人画家ビゴーの風刺画
日清戦争に勝ったことで、いよいよ日本も列強クラブの仲間入り。イギリスに紹介されて登場した日本は洋装に高下駄、目が細くて出っ歯の男として描かれている。初めての東洋人の参加に戸惑ったり、冷ややかな視線を送る列強。
イギリスとて日本とロシアが戦っても、万が一にも日本が勝つことなど期待していません。少しでもロシアのけん制になればよいと、判断していたようです。
ロシアの南下はイギリスにとっても不都合なことであり、日本がそれを食い止めることはイギリスの国益にも適うことでした。実はその頃、イギリスはアフリカで起きたボーア戦争で国力を消耗し、極東まで艦隊を差し向ける余裕がなかったのです。
義和団の乱での日本軍の規律正しい行動がイギリスに伝えられ、イギリス国民の信頼を得たことが同盟への大きな力になったといわれています。
同盟と言ってもイギリスが出兵してくれるわけでも、資金や武器を供与してくれるわけでもありません。しかし、日英同盟があることで日本とロシアがぶつかったとき、ロシアを支援するフランスなどの動きをけん制できることは、日本にとっても大きな国益でした。
ロシアは日英同盟の後に、フランスと露仏同盟を結んでいます。しかし、もし日露戦争の際にフランスが参戦すれば、今度は日英同盟に基づいてイギリスが日本を支援するために参戦します。そうなるとフランスに勝ち目はないため、結果的にフランスは参戦できないと言うことです。
日英同盟は日本にとっての大きなお守りでした。
- 日露開戦へ -
それでも、日本はぎりぎりまでロシアとの戦争を避けるべく外交上の手段を尽くしました。満州のロシア支配を認め、その代わりにロシアの朝鮮への侵略を断念させる交渉を行いましたが、ロシアは回答しませんでした。
ロシア軍は満州から兵を引かないだけに、いつ朝鮮になだれ込んできてもおかしくない状況です。三国干渉以来、「ロシア討つべし」の声は日本中に巻き起こり、世論はロシアとの開戦を望んでいました。
日露戦争を描いたビゴーの風刺画。左からロシア・日本・イギリス・アメリカを表している。イギリスに背中を押され、及び腰でロシアと戦う日本。その後ろで見物を決め込むアメリカ。
日本とロシアの国力の差を比べたとき、面積60倍、人口2.6倍、国家歳入8倍、陸軍総兵力11倍、海軍総トン数1.7倍、鉄鋼生産高30倍です。国力のあまりの差は歴然としています。
軍事においても、ロシア海軍はイギリスに次ぐ世界第二位、陸軍は世界一の強さを誇っていました。ドイツ帝国でさえロシア陸軍を恐れ、戦いを避けていたほどです。どう考えても日本に勝ち目のない戦いでした。
しかし、朝鮮を守ることは日本の独立自尊を守ることであり、どうしても避けては通れない戦いだったのです。
1904(明治37)年、明治政府はロシアとの国交断絶を決定し、日露戦争へと突入しました。やがて日露戦争は、世界の歴史を大きく変えることになります。
その4.日露戦争、かく戦えり
- 203高地と奉天の戦い ー
日露戦争が起きたことが国際社会に流れると、正気の沙汰ではないとどの国のマスメディアにも驚かれました。大国ロシアは日本のような小国が全面戦争を仕掛けられるような相手ではないからです。
ところがいざ始まってみると、日本軍は各所の戦いでロシア軍を圧倒しました。乃木希典の指揮する第三軍は、旅順要塞の攻略で多大な戦死者を出しながらも、203高地をついに陥落させ、頂上から旅順港内に停泊していた旅順艦隊を砲撃し、これを完全に壊滅しました。
wikipedia:乃木希典 より引用
乃木希典(のぎ まれすけ)1849(嘉永2)年 – 1912(大正元)年
明治時代の軍人。陸軍大将。長州藩士。ドイツに留学し軍制・戦術を研究。台湾総督を経て日露戦争には第三軍司令官として旅順攻略を指揮。難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃し、やがて203高地を占領した。
旅順陥落までの戦闘で2子が戦死し、悲劇の将軍として国民的敬愛を集めた。旅順要塞司令官ステッセル中将の降伏申し入れを受け、水師営にて会見。のちに学習院院長を務める。明治天皇の死に際し大喪の日に東京赤坂の自宅で割腹して殉死、夫人もその後を追った。
日露戦争の経過
日露戦争で最大の陸戦となったのは奉天の戦いです。両国の兵力は合わせて約60万にも及び、戦線は50里の長きに及びました。
世界最強と目されるコサック騎兵と相対したのは、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で一躍有名になった秋山好古です。秋山の戦略はコサック騎兵に対して騎兵で対抗するのではなく、馬から降りて機関銃で狙い撃ちする、というものでした。
wikipedia:秋山好古 より引用
秋山好古(あきやま よしふる)1859(安政6)年 – 1930(昭和5)年
明治-大正時代の軍人。陸軍大将。秋山真之の兄。大阪師範学校を卒業後、小学校の教員となるが、西南戦争に刺激を受け教鞭を捨て軍人の道に進んだ。フランス留学からの帰国後、騎兵の育成に努め「日本騎兵の父」と呼ばれる。日露戦争では騎兵第1旅団長を率いて多くの勲功をたてた。その後朝鮮軍司令官、教育総監などを歴任し、予備役となってからは故郷の愛媛県で中学校校長として晩年を送る。
機関銃は当時の最新兵器です。しかし、日露戦争が始まるまでは戦場で実際に使われたことがなかったため、誰もその効果の程はわかっていませんでした。秋山の採用した作戦は、襲い来るコサック騎兵を端からなぎ倒しました。秋山の騎兵の活躍もあり、日本軍は奉天を占領することに成功したのです。奉天の会戦での日本軍の死傷者は、7万28人(ロシア軍は9万人)に及んでいます。
- 皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ ー
劣勢に立たされたロシア軍が起死回生を狙って投入したのが、バルチック艦隊です。ロシアの誇るバルチック艦隊出動の知らせを聞いたとき、世界中の多くの人は「可愛そうに、これで日本ももう終わりだ」と思ったことが様々な書籍で伝えられています。
遠征してくるバルチック艦隊を日本海で迎え撃つために、連合艦隊も出動しました。この海戦には日本の命運がかかっていました。もし、連合艦隊が敗れるとなると、制海権はロシアに握られます。そうなると満州にいる日本軍は補給を立たれ、全滅を余儀なくされます。
満州・朝鮮はロシアの植民地となり、やがてロシア軍は日本本土に上陸し、日本は為す術もなく占領されることになったでしょう。それは、有色人種の国が世界からほとんどなくなることを意味しています。
5月27日、対馬海峡でバルチック艦隊と遭遇した連合艦隊司令長官・東郷平八郎は旗艦三笠のマストにZ旗を掲揚し、「皇国ノ興廃此(こ)ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」と全軍に打電しました。
wikipedia:東郷平八郎 より引用
東郷平八郎(とうごう へいはちろう)1848(弘化4)年 – 1934(昭和9)年
明治・大正期の軍人。海軍大将・元帥。薩摩藩士。イギリスに長期留学後、もっぱら海上勤務に従事。ハワイ政変に際しては浪速艦長として居留民保護に急行した。1895年以降、連合艦隊司令長官となり日本海海戦を指揮。
ロシアのバルチック艦隊を全滅させ、名将として一躍世界的名声を得、国民的英雄になるとともに「東洋のネルソン」と称された。のち、軍令部長・東宮御学問所総裁を歴任。昭和天皇の教育に尽力した。
日本とロシアの艦隊が相対した日本海海戦は、当時としては世界最大規模の海戦です。世界中が注目するなか、連合艦隊は秋山真之の献策による敵の面前でUターンするという型破りな戦略をもってバルチック艦隊を撃破しました。一昼夜の海戦でバルチック艦隊38隻のうち16隻を撃沈、5隻を撃破・自沈、6隻を拿捕(だほ)するという海戦史上例を見ないほどの完全勝利でした。
日本側の損害は、水雷艇が三隻沈んだのみです。しかも沈められたのではなく、高波をかぶったことによる転覆に過ぎません。
wikipedia:秋山真之 より引用
秋山真之(あきやま さねゆき)1868(慶応4)年 – 1918(大正7)年
明治・大正時代の海軍軍人。中将。秋山好古の実弟。日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、第1艦隊旗艦「三笠」に乗艦。ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献、日露戦争における日本の政略上の勝利を決定付けた。
日本海海戦での名電文「本日晴朗ナレドモ波高シ」は戦略家・名文家としての名を高めた。参謀としての真之の功績は長らく東郷の影に隠れ、広く一般に知られていなかったが、司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』で主人公として描かれたことで、一気に国民的な知名度を得た。
この海戦で日本が勝てた要因のひとつは、下瀬火薬と呼ばれる日本オリジナルの新式火薬が投入されたからです。下瀬火薬の威力は凄まじく、ロシア軍の火力をはるかに上回っていました。日本の技術力の勝利ともいえます。
奇跡的な勝利に日本中が沸きました。日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅させたことにより、日露戦争での日本の勝利が決定したのです。
ちなみに、あまり知られていませんが、日露戦争での日本の勝利には明石元二郎による明石機関の活動が大きく貢献しています。明石機関の任務目的は、ヨーロッパに亡命していたロシアの革命勢力を援助することでした。
wikipedia:明石元二郎 より引用
明石元二郎(あかし もとじろう)1864(元治元)年 – 1919(大正8)年
明治-大正時代の軍人。陸軍大将。ドイツ留学後、近衛師団参謀として台湾に出征。日露戦争中は西ヨーロッパからロシア国内の革命派を援助する謀略工作を行い、勝利に貢献した。日韓併合後の支配の基礎となった憲兵警察制度の原型をつくったことでも知られる。
その後、第7代台湾総督に就任。台湾電力を設立し、水力発電事業を推進した。日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正し、台湾人にも帝国大学進学への道を開く。「余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」との遺言によって、遺骸は台湾に埋葬された。
明石機関による活動の結果、ロシア各地で反政府暴動が度々発生し、ロシア政府による戦争遂行を妨げたのです。
日露戦争における明石機関の働きは「数個師団に匹敵した」と言われています。「日露戦争の勝因の一つは明石大佐であった」と讃えられました。
アメリカの斡旋(あっせん)により、米国内ポーツマスで日露講和条約が締結されました。これにより日本は朝鮮と満州をロシアから救い出すとともに、日本の独立と安全を守り抜いたのです。
最初から興味深く、読ませていただいています。学校では学ばなかったことが多く、「日の丸が島々を席巻した日々」を読んだ時のような衝撃があり、大変勉強になります。書籍化の予定はありますか?
ロロ様
コメントありがとうございます、山本です。大変励みになります。
書籍化についてですが、キンドル化は検討はしておりますが、まだメインテーマまでたどり着いていないので、フィリピンの戦いがある程度完成した段階でまとめたいと考えております。
今後も俺のセブ島留学内で、週に1回は更新出来る予定ですので、引き続きお楽しみ頂けると幸いです。
参考文献を教えて欲しいです。
コメント頂きありがとうございます。
参考文献については、章の終わりにまとめて掲載していたのですが、コメントを頂き、章ごとに確認できるように変更致しました。
https://seijikeizai.jp/88893/
各記事の最後に参考文献のリンクを記載しております。そちらからご確認いただければと思います。
よろしくお願いします。
ありがとうございます!
10月27日じゃないよ、5月27です
コメントをいただき、ありがとうございます。たしかに記載ミスです。ご指摘いただき、ありがとうございます。のちほど訂正させていただきますね。
ペリーが来航し日本の漁船を見て「日本はすぐに一等国の工業国になる」と本国にに報告していて、よくそんな短期間に日本の能力を見抜けたとペリーに感心していました。この本を読んで何のことはない、秀吉の時代からスペイン・ポルトガルは日本の工業力と武家社会の体制をよく知っていたからから侵略と植民地化を諦めたことが分かりました。ペリーは日本の国を実際に見て改めて近々一流の工業国になると再認識したまでだということが分かりました。
しかしジョン万次郎の帰国の最大の目的は万次郎が訪ねた太平洋・大西洋の島々が植民地化されているのを見て、日本もいつまでも鎖国をして他国からの通商に耳を貸さなければ、いずれはこの島々と同じ運命になる、その前に帰国しなくてはと考え帰国を決断したと思っておりました。
この本のお蔭で私の解釈を改める機会になり、お礼を申し上げたいです。
ありがとうございました。