第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
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→第1部 3章 日露戦争(3/4)日露戦争の勝利がどれだけ世界に衝撃を与えたのか
第3章.大東亜戦争への道筋 -日露戦争がもたらしたもの-
目次
2-4.日韓併合への道
その1.波紋を呼んだ朝鮮の中立宣言
アジア各国の志ある人々が独立闘争へ向けて日本から学びとろうと努めているなか、朝鮮は日本に併合されるという歴史をたどりました。
日露関係が悪化するなか、1904(明治37)年に朝鮮は突然、中立声明を欧米列強に向けて打電しました。この声明は日本にとって、まさに寝耳に水でした。
朝鮮が中立を貫くとなれば、日本軍が朝鮮内を通って満州へ出ることができなくなります。そうなると満州に出てロシア軍と戦うことができないため、ロシアの朝鮮侵略を防ぐことができません。
さらに日本を驚かせたのは、黄海で不審な動きをする朝鮮の小舟を捕まえたところ、朝鮮人の一人が手紙を携えていたことでした。それは中立宣言を出した大臣自身が、ロシア軍の出動を旅順に要請する手紙だったのです。
親露派と親日派の対立が朝鮮の宮廷内にあることは先に紹介しましたが、日露戦争間近になっても朝鮮政府が密かにロシアと通じようとする動きは絶えませんでした。もっともロシアが勝つに違いないという空気は朝鮮内でも色濃かったため、やむを得ないことといえるでしょう。
日露戦争の最中、やむなく日本は朝鮮との間に日韓議定書を交わし、朝鮮の危機に際して日本は軍事上必要な地点を収用できることとしました。この議定書は朝鮮の主権の一部を侵害するものであり、日韓併合へのはじめの一歩とも指摘されています。
しかし、朝鮮から満州へと兵を進めることができなければロシアとまともに戦うことさえできなかっただけに、この議定書をもって日本に野望ありと断じるのは暴論といえるでしょう。
その2.朝鮮の保護国化
日露戦争が終わり、朝鮮をどうすべきかは日本のみならず欧米列強にとっても大いに関心のあることでした。これまでの経過を振り返るだけでも、朝鮮に自立能力がないことは歴然としています。このまま放置しておけば、朝鮮半島が再び紛争の種になることは誰の目にも明らかでした。
イギリスはインド、アメリカはフィリピンという植民地を守るために、ロシアが再び南下して朝鮮侵略に乗り出すことを恐れていました。
ポーツマス会議を終えた日本全権小村寿太郎に対しルーズヴェルトは伝えています。
「将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ。それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策なるべし」
イギリスのランズダウン外相も「日韓併合はわれわれも強く祈り求めるところである」と述べています。
イギリスもアメリカも朝鮮半島の安定を望んでいました。朝鮮の人々からすれば納得しがたいことでしょうが、朝鮮半島は日本にとってもイギリス・アメリカにとっても戦略上重要な位置にあり、半島の不安定化は常に新たな戦乱をもたらしかねない状況にありました。
日本が日清・日露と国家の存亡をかけた二つの大戦を行わなければいけなかったのも、朝鮮半島を守るためです。もちろん、それは朝鮮の人々への善意から出た行動ではなく、あくまで日本を守るためです。国家が国益を第一に優先して行動するのは、当たり前のことです。
独立国として近代化への道を歩もうとしない朝鮮に対し、これまで日本は深く干渉することを避け、自立への道を助けることを国の方針としてきました。しかし、日清・日露で多くの日本人の血を流してきたことを思えば、もはや同じことを繰り返すわけにはいきません。
日露戦争の勝利によりロシアを満州・朝鮮から追い払うことはできたものの、それは一時的なものに過ぎません。ロシアはけして南下をあきらめたわけではありません。もたもたしていれば再び満州から朝鮮へとロシア軍が押し寄せてくることは明らかです。
1905(明治38)年10月27日、韓国の保護国化をただちに実行すべきであるという閣議決定が行われました。朝鮮が近代化して富国強兵を果たすまでは、日本が外交権を預かるものとしたのです。
(これまで「朝鮮」と表記してきましたが、保護国化以降は「韓国」と表記します)
その3.日韓併合へ
これに対し韓国では、救国を目的とした民衆の武力闘争が各地で起きました。これを「義兵」と呼びます。1907(明治40)年に韓国軍隊が解散されると、
韓国軍は義兵に合流し、反日抗争を繰り広げました。
1907年から1911年までの間に、義兵は14万人を超え、日本軍との交戦回数は2,850回を数え、死亡した義兵は1万4千名以上に上っています。
これまで数年にわたり韓国と繋がりをもっていたにもかかわらず、韓国の人々の心をつかむことができなかったことにおいては、日本側にも非があります。心が離れた背景のひとつとして、軍人よりも日本人商人の韓国人との接し方に問題があったこともたしかです。
政局が安定しない韓国に対して、このまま保護国として様子を見るのか、それともいっそのこと合併によってひとつの国にするのか、日本国内で意見が割れました。
日本と韓国がひとつの国になればよいという思想は、政治思想家の樽井藤吉による「大東合邦論」がひとつのルーツです。韓国が侵略されれば日本も危険にさらされるのだから、日本と韓国は利害関係が一致している、それならば日本人と韓国人が対等の立場で歩み寄り、日本という国名も韓国という国名も捨てて、「大東」というひとつの国を新たに造ればよい、とする思想が「大東合邦論」です。
韓国は今は貧しいけれど、その領土は日本の半分ほどもあるのだから、合併することで両国とも発展できるのだと樽井は説きました。「大東合邦論」は「大東」が成ったあとは中国とも同盟し、日中韓の三国が手を合わせて欧米列強の侵略に立ち向かうべきだと主張しました。
「大東合邦論」は韓国人の中にも支持者を生み、日本よりむしろ韓国内の方で有名になっています。中国でも梁啓超によって「大東合邦論」の書籍十万部が発行されるなど、国家という枠を超えて広く支持されました。
wikipedia:梁啓超 より引用
梁啓超(りょう けいちょう)1873年 – ]1929年
清末〜民国初期の中国の啓蒙思想家・政治家。康有為に師事し、戊戌(ぼじゅつ)の改革に参加したが、失敗して日本に亡命。辛亥革命後に帰国して袁世凱政権に加わるが、袁の帝政運動に反対。のち清華大教授・北京図書館長。
そんなとき、1909(明治42)年、日韓双方にとって悲劇となる事件が起きました。韓国統監を辞したばかりの伊藤博文が朝鮮人・安重根に暗殺されたのです。
wikipedia:安重根 より引用
安重根(あん じゅうこん、朝鮮語読み: アン・ジュングン)1879年 – 1910年
朝鮮の独立運動家。義兵運動を展開し、前韓国統監伊藤博文をハルビン駅頭にて射殺。翌年死刑。日本から見ればテロリスト。朝鮮では義士と讃えられ、韓国ではもっとも人気のある国民的英雄の一人。
wikipedia:伊藤博文 より引用
伊藤博文(いとう ひろぶみ)1841(天保12) – 1909(明治42)年
明治時代の政治家。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣。長州藩の下級武士として松下村塾で吉田松陰に学び、尊王攘夷運動に参加。イギリスに留学後、倒幕運動に身を投じる。倒幕後は新政府のもとで改革に取り組み、初代総理大臣に就任。その後、枢密院議長となり 1889年に大日本帝国憲法発布。
新政府の重職を務めたのち初代韓国統監に任命される。日韓併合に反対していたが、ハルビン駅で安重根に暗殺された。
実は伊藤は、反併合派のリーダーのような存在でした。だからといって伊藤は、韓国の人々のことを第一に考えていたわけではありません。併合となると韓国の防衛から含めなにもかも日本本土から持ち出しとなるため、日本の負担が増えることになります。そうした状況は日本にとって不利益と考え、伊藤は併合に反対したのです。
朝鮮統監府に向かう伊藤博文
ところが反併合派の伊藤が暗殺されたために、日韓併合派の方が発言力を強めることになりました。伊藤を暗殺してしまった負い目もあってか韓国側からも日韓併合を望む声が起こり、1910(明治43)年に日韓併合があっという間に実現します。
イギリスやアメリカの新聞も、東アジアの安定のために日韓併合を支持するとの論調で埋まりました。
今日の日韓関係の確執を思えば、このときの日韓併合は結果的に失敗だったといえるでしょう。しかし、当時の状況を冷静に見たならば、ロシアの侵略を防ぐだけの力がなかった韓国は、ロシアか日本いずれかの支配下に入る定めを避けられなかったことも、また事実です。
日韓併合後もさまざまな問題が生じましたが、もし韓国がロシアの植民地になっていたならば、今日のような繁栄した韓国は望みようがなかったことも、多くの歴史家が指摘するところです。
なお、日韓併合の手続きについては国際的に見てもまったく非の打ち所がなかったとされています。
その4.関税自主権の回復
日韓併合の後、不平等条約として最後まで残っていた関税自主権の回復について欧米列強に打診したところ、ついに扉は開かれました。
1911(明治44)年、幕末以来の悲願であった不平等条約すべての改正に、日本は成功しました。日本を長年にわたって苦しめていた5%付帯条項は、ようやく廃止されたのです。
日韓併合は欧米列強にとって、日本もまた植民地をもつ国へと進化を遂げたことを意味しました。日露戦争の勝利と日韓併合により、日本は欧米列強に並ぶ一等国として迎え入れられたのです。
欧米列強と対等になれた原動力は、欧米列強も認めざるを得なかった日本の強大な軍事力でした。
日露戦争については以上です。