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    レキシジン第2部「フィリピン レイテ島の戦い」2章「レイテ沖海戦」#104 瀬戸際の捷(しょう)号作戦。米上陸軍と輸送船団を全滅せよ!

    #104 瀬戸際の捷(しょう)号作戦。米上陸軍と輸送船団を全滅せよ!

    第2部.レイテ沖海戦から地上戦まで、かく戦えり

    第2章.レイテ沖海戦

    小磯内閣成立後の7月26日、日本本土を守るための瀬戸際の作戦として定められたのが「捷号作戦」です。「捷(しょう)」という字には「勝ち戦」の意味があります。「捷号作戦」という名称には「絶対に勝つための作戦である」との願いが込められています。

    この時点ではまだ、サイパンの次に米軍がどこに侵攻してくるのか、はっきりとはわかっていません。そこで日本は、米軍がどこから襲いかかってきても機敏に対応できるように、捷一号から四号までの作戦を立てました。

    1. 瀬戸際の捷(しょう)号作戦

    その1.航空兵力決戦への傾倒

    米軍がフィリピン方面に侵攻してきたときは捷一号作戦、台湾及び沖縄に侵攻してきたときは捷二号作戦、直接日本本土を狙ってきたときは捷三号作戦、北海道及び千島列島から襲いかかってきたときは捷四号作戦を、それぞれ発動する手はずになっていました。

    このなかでもっとも有力視されていたのが、捷一号作戦です。前回も紹介したように、日本にとってフィリピンは南方資源を本土に送るために、絶対に防衛しなければならない最重要拠点でした。

    日本軍は残されたすべての戦力を投入してでも、フィリピンを死守する決意を固めていました。

    捷号作戦が目指したのは、米上陸軍と輸送船団を全滅させることです。その主役として想定されたのは航空兵力でした。

    捷一号作戦の骨子は、米上陸部隊がフィリピンに侵攻してきた際には奇襲兵力をもって米機動艦隊を漸減(ぜんげん)させるとともに、フィリピン各地に築いた飛行場から発進した航空兵力をもって昼夜にわたり間断なく米上陸部隊と輸送船団への攻撃を繰り返し、最後の仕上げとして戦艦や巡洋艦を主体とする遊撃部隊が米軍を一掃する、というものです。

    捷一号作戦に色濃く表れているものは、「航空決戦主義」です。作戦は米軍上陸時に航空戦力の総力を結集して一気に決着を付けることを目指しており、地上軍に頼る事態は想定していません。

    フィリピン各地に航空基地を作り、フィリピン全土を不沈空母と化すことで米上陸部隊と輸送船団の殲滅を期したのです。そのために海軍と陸軍が協力し合い、航空部隊の統一運用に関する協定がはじめて成立しています。陸軍の三個飛行連隊が海軍の作戦指揮下に入ったのです。

    開戦から3年以上が過ぎているにもかかわらず、陸海軍の航空部隊がひとつになって戦うのは今回がはじめてということに驚くかもしれませんが、事実です。陸海軍の対立が根深く、連携して戦うことが極めて少なかったことは、日本軍が敗れた原因の一つです。

    航空兵力に期待が寄せられるなか、陸軍は南方総軍司令官寺内元帥が司令部をシンガポールからマニラに移し、フィリピンの防衛強化に乗り出しました。

    寺内は「フィリピンこそ天王山!」と叫び、米軍がフィリピンのどこから上陸を図っても迎撃できるように、ルソン島ばかりでなくミンダナオ島やレイテ島などの主要な島々に師団を配しました。

    それでも大本営が定めた航空決戦主義に変わりはありません。各地に配された部隊に優先して課されたのは、飛行場造りでした。

    これに異を唱えたのは、フィリピン守備隊の中核となる第十四方面軍司令官の黒田重徳中将です。

    黒田重徳
    黒田重徳:JapaneseClass.jp より引用
    【 人物紹介 – 黒田重徳(くろだ しげのり) 】1887(明治20)年 – 1954(昭和29)年
    明治~昭和初期の軍人。最終階級は陸軍中将。歩兵第57連隊大隊長・歩兵第59連隊長・第26師団長を歴任。シンガポール陥落の後、南方軍(総軍)の総参謀長・幕僚長を経て第14軍司令官となる。フィリピン独立の準備を進め、有力者の協力のもとフィリピンの憲法をつくり、ホセ・ラウレルを大統領にするとともに日本による軍政を撤廃、1943年10月14日のフィリピン独立に貢献した。第14方面軍司令官に昇格するも、航空決戦に傾倒する大本営を公然と批判したことで罷免され、予備役となる。戦後はA級戦犯として逮捕された後、フィリピン共和国に連行され、司令官時代のフィリピンにおける部下の残虐行為の罪を問われ、B級戦犯としてマニラ軍事裁判で終身刑の判決を受けた。後にキリノ大統領の恩赦を受け、帰国を果たす。

    黒田は地上部隊の主任務は地上戦闘であり、それらの任務を放棄してまで航空基地の整備に没頭していてはフィリピンを守ることなどできない、と主張し、公然と大本営を批判しました。

    「激しい航空戦が繰り返されたのち、日米空軍の数から云って、必ずアメリカがX(エックス)、日本は0(ゼロ)という日が到来するに違いない。そこで米軍が大挙上陸して来た場合にどうするのか? 飛行場造りもよいが、それよりもさらに大切なのは地上決戦の場合に備えて戦闘訓練と防塞の用意をしておくことだ。航空決戦一本槍は危険きわまりない考え方と云うべきだ」

    黒田は日米の航空機の生産数に天と地ほどの開きがあることから、大本営が航空決戦主義にばかり傾くことの愚を指弾しました。航空戦力に重きをおき消耗戦を続けていれば、日本の航空機がいつかはゼロになる日が来ることは自明の理です。地上決戦に備えようとしない大本営の作戦指導に、黒田は危機感を募らせました。

    さらに、こうも言っています。
    「いったい、ダバオやタクロバンなどに夢中で飛行場を造ってどうするのだ。なるほど島の飛行場は不沈空母かも知れん。だが、沈まぬ空母が敵の手に渡ったらどういう結果になってゆくのだ。結局これはアメリカ軍のためにせっせと造ってやっているようなものだぞ」

    黒田の不安は後日、現実のものとなります。歴史を振り返るなら、黒田の着眼は正確に先を見通していたといえるでしょう。

    その2.早くも崩れた目論み

    大本営が航空兵力に期待を寄せたのは、陸海軍が協力することで併せて約二千機の航空機を捷一号作戦に動員できるからでした。

    米軍がフィリピン上陸にあたって用意する航空機は三千機と予想されていました。そうなると日米の比率は3対2となり、これまでのどの戦場よりも日本に有利な比率で戦うことができます。

    米軍の航空機は空母から発着する艦載機ですが、日本の航空機は基地から発着できるため、爆弾の換装など格段と有利です。

    フィリピンでの決戦は日本の勝利に違いないと、大本営は高をくくっていました。

    しかし、9月に入るとマニラやセブ島などフィリピン各地の航空基地が米機の空襲を受けるようになり、日本の航空機は急速に失われていきました。

    ことに9月12日のセブ空襲では一挙に80機近くが撃破され、そのことが神風特攻隊の設立に大きく関わってきます。

    米機による度重なる空襲は、日本軍の所持している航空機の数と実際に稼働できる航空機数との間に大きな乖離(かいり)をもたらしました。

    滑走路が破壊されたために、航空機の離発着ができなくなったためです。滑走路の修復作業はすぐに為されましたが、修復した直後に空爆されるため、再び使用不能になる悪循環が続きました。

    このような状況で航空決戦に期待を寄せることには相当な無理がありますが、大本営としても振り上げた拳を下ろすわけにもいかなかったようです。

    航空決戦に活路を求める大本営にとって、第十四方面軍司令官である黒田が航空決戦を批判することは許し難い行為でした。まさに黒田の危惧した通りに事態は進んでいるだけに、なおさらです。

    大本営はフィリピン空襲の責任を押しつけるかのように、9月26日付けで黒田を罷免しています。

    大本営が新たな第十四方面軍司令官として満州から呼び寄せたのは、「マレーの虎」こと山下奉文大将でした。

    山下奉文
    山下奉文:wikipedia より引用
    【 人物紹介 – 山下奉文(やました ともゆき) 】1885(明治18)年 – 1946(昭和21)年
    大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍大将。北支那方面軍参謀長・航空総監を歴任後、第25軍司令官として難攻不落と言われていたシンガポールを攻略し、陥落させた。イギリス軍司令官 A.パーシバルに「イエスか、ノーか」と無条件降伏を迫った逸話は有名。その功により「マレーの虎」の異名をもつ。東条首相との仲が悪く、中枢から遠ざけられ満州の第1方面軍司令官に任ぜられる。レイテの戦い直前に第14方面軍司令官に転じ、米軍上陸阻止作戦を指揮した。あくまでルソン島での決戦を主張するも退けられ、レイテでの決戦を余儀なくされる。ルソン島に戦いの場が移ると、民間人の被害を抑えるためにマニラをオープンシティにしようと尽力するも海軍と大本営の反対を受け適わなかった。バギオに籠もり、不利な兵力ながら持ちこたえ、終戦まで米軍を苦しめる。戦後は戦犯としてマニラにて軍事裁判にかけられ、死刑判決を受けた後、ロスバニョス刑務所にて絞首刑に処せられた。享年62。

    名将で知られる山下がフィリピン防衛の司令官となったことは、現地の将兵の士気を高めたものの、米軍が押し寄せてくる直前の司令官交代は、少なからぬ混乱を現地軍にもたらしました。

    大本営としては、フィリピン決戦はあくまで航空兵力を主役として臨むことを、それに反対する司令官を更迭することでフィリピン全軍に知らしめたのです。

    米機の度重なる空襲によって日本軍の航空機の実数は減ったものの、本土・九州・台湾・支那の各基地から比島に来援する航空兵力があるだけに、米上陸軍に打撃を与えることができると大本営は考えていました。

    こうしてフィリピン防衛についての日本軍の作戦は固まりました。

    しかし、この時点では米軍がフィリピンに上陸するかどうかは、まだわかっていません。日本軍が手ぐすね引いて待ち受けるフィリピンをあえて素通りして、台湾へ上陸することも十分に考えられるからです。

    マリアナ沖海戦後のアメリカの動きについても、軽くふれておきます。

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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