第2部.レイテ沖海戦から地上戦まで、かく戦えり
第2章.レイテ沖海戦
1943(昭和18)年から始まった米軍の総反攻は、マッカーサー率いる陸軍中心の南西太平洋軍がオーストラリアを起点にニューギニア北岸を西に向かい、ニミッツ提督率いる海軍中心の太平洋軍が中部太平洋を島伝いに西に向かう二方面作戦で展開されました。
いわゆる「カートホイール」(車輪)作戦です。
目次
2.米軍の上陸地点はどこか?
その1.フィリピンか台湾か?
米軍によるカートホイール作戦の侵攻図
70<カートホイール作戦>より引用
あたかもクルマの両輪にたとえた両部隊を競わせることで、日本軍への反攻を加速させることが、その狙いです。
wikipedia:ダグラス・マッカーサー より引用
【 人物紹介 – ダグラス・マッカーサー 】1880年 – 1964年
アメリカの軍人。最終階級は陸軍元帥。第一次大戦に参加し活躍。帰国後はウェストポイント校長、陸軍参謀総長などを歴任。いずれも最年少記録を塗り替えた。その後、フィリピン国民軍を創設。一度は退官するも1941年7月にルーズベルトの要請を受け、現役に復帰。在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となった。圧倒的に優位な軍事力を擁していたにもかかわらず、開戦まもなく日本軍の侵攻に敗退を重ねる。人種差別的発想の持ち主であったことから日本人を見下し、油断したことが敗因とされる。自軍機が日本軍機に撃墜されても「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と信じ、その旨を報告し、適確な対策を怠ったとされる。コモンウェルス(独立準備政府)初代大統領のケソンを脱出させる際、軍事顧問就任時に約束した秘密の報酬の支払いを要求し、フィリピンの国庫より50万ドルを受け取る。自らもフィリピンを脱出することになり、その際 “I shall return.” (私は必ず帰る) の言葉を残した。1944年の反攻作戦によりフィリピン奪還。戦後は日本占領連合軍最高司令官として日本の民主化を進め、国際法に違反して新憲法をもたらす。統治中は昭和天皇を東京裁判の訴追から外すことに尽力したこと、及びマスコミの好意的な報道により日本人からの人気は高かった。その後、大統領選への出馬を表明するも本選にてトルーマンに敗れる。朝鮮戦争勃発時に国連軍総司令官となるが、トルーマン大統領の政策に反対し、解任される。帰国のため車で東京国際空港に向かった際には、沿道に見送りの日本人が約20万人も押し寄せた。 退任にあたり「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と述べたことは有名。
チェスター・ニミッツ:wikipedia より引用
【 人物紹介 – チェスター・ニミッツ 】1885年 – 1966年
アメリカの軍人。最終階級は海軍元帥。士官候補時代に東京湾に寄港、日本海海戦の戦勝祝賀会に招待され、東郷平八郎と接し感銘を受ける。それ以来、生涯を通して海軍軍人として東郷を敬愛し続けた。東郷の国葬にも参列している。合衆国艦隊戦艦戦隊司令官・海軍省航海局長を歴任し頭角を現す。真珠湾攻撃後、ルーズベルトに請われ太平洋艦隊司令長官となる。序列28番目の少将から抜擢されたのは異例のことだった。
就任後、「真珠湾の悪夢は誰の身にも起こり得た事だ」として必要以上の処罰拡大を避け、幕僚陣はほぼ丸々引き継いだ。この処置は真珠湾攻撃で意気消沈した将兵を奮い立たせるのに役立った。多くの将官が戦艦による砲撃戦が海戦の主役と考えるなか、真珠湾攻撃によって多数の航空機の集中攻撃は大艦巨砲よりもはるかに打撃力と機動力に富むことが証明されたとし、率先して空母と航空機の増強を図るようになる。このことは米海軍の勝利に大きく貢献した。ミッドウェイ海戦を指揮し、連合艦隊に勝利。米軍逆襲の礎を築いた。
戦後、東郷の旗艦「三笠」が進駐軍のダンスホールに使われていることを知って激怒し、海兵隊を歩哨に立たせて荒廃が進む事を阻止した。三笠の復興に尽力し、米海軍を動かして揚陸艦の廃艦一隻を日本に寄付させ、そのスクラップの廃材代約三千万円を充てさせるなど、復興工費の捻出に貢献した。「三笠」の復元完成開艦式が行われた際アメリカ海軍代表のトーリー少将は、「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」と書かれたニミッツの肖像写真を持参し、三笠公園の一角に月桂樹をニミッツの名前で植樹している。米軍の空襲で全焼した東郷神社の再建にも自著の印税を充てるなど大きく貢献した。
ニミッツの太平洋軍がサイパンを陥落させたことにより、両軍はついに合流することになりました。
米軍にとっての次の課題は、いつどこに侵攻するかです。陸軍と海軍で意見は真っ二つに割れました。
キング合衆国艦隊司令官とニミッツ提督ら海軍は台湾を、マーシャル参謀総長とマッカーサー南西太平洋軍司令官ら陸軍はフィリピンを、それぞれ主張したのです。
アーネスト・キング:wikipedia より引用
【 人物紹介 – アーネスト・キング 】1878年 – 1956年
アメリカの軍人。最終階級は海軍元帥。下士官のとき、浦賀に入港して鎌倉の大仏を見学するために汽車に乗った際に財布を盗まれる。その際の駅員の対応と日露戦争での勝利を受け、日本に対して悪印象をもったとされる。「カマクラの体験は、私に日本人の二つの特性を教えてくれた。
ひとつは、財布をうばうのに暴力よりはスキをねらう技術を重視するということであり、もうひとつは、駅員の態度が象徴している如く、相手の不利に容赦しないということだ。この二つの特性が軍事面に発揮されれば、日本の戦争のやり方が、奇襲とあらゆる方向への前進基地推進を基本にすることは、容易に想像できるはずだ」と自身の体験から日本の奇襲戦略を予測。真珠湾攻撃にて、その正しさが証明されたとされる。
第二次大戦中は海軍制服軍人のトップである合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長(ニミッツ提督の上官)として戦略指導を行った。「ヨーロッパ第一主義」に傾きがちな陸海軍参謀長会議にて対日戦での勝利の重要さを説き、日本本土攻略作戦を進めた。以前は反対していた日本本土攻略作戦に賛成した理由をニミッツに聞かれ、「40年前に盗まれた財布をとりかえせるかと思ってね」と語ったことは有名。
wikipedia:ジョージ・マーシャル より引用
【 人物紹介 – ジョージ・マーシャル 】1880年 – 1959年
アメリカの軍人・政治家。最終階級は元帥。第1次大戦時にヨーロッパ派遣第一軍参謀長・参謀本部作戦部長を務める。第2次大戦の勃発により、対日戦争計画推進に積極的に関わり、陸軍参謀総長に就任。ドイツに止めを刺すためのヨーロッパ侵攻作戦の作戦計画を指導した。終戦間際、マッカーサーやニミッツとは異なり、日本本土侵攻やソビエト連邦参戦の必要性を唱えた。戦後は軍を退き、政治家に転身。中国における全権特使に任命されるも、蒋介石が内戦を起こしたため、本国に召喚された。
1947年、国務長官に就任。「マーシャル・プラン」として知られるヨーロッパ復興計画の任に当たった。その後、アメリカ赤十字社総裁・国防長官を経て引退。マーシャル・プランの立案・実行により、1953年にはノーベル平和賞を受賞。享年78。
キングは日本本土を戦略的に爆撃するには中国沿岸に飛行場群を設ける必要があり、そのための足がかりとして台湾を占領し、南シナ海の制海権を確保するべきだと述べています。
さらに、フィリピンを攻略するとなると時間がかかる上に多くの兵を犠牲にすることになると警鐘を鳴らしています。
一方マッカーサーは大東亜戦争がアメリカの正義に基づくことを知らしめるためにも、フィリピンに侵攻しなければならないと説きました。フィリピン人を日本軍の圧政から解放する道義的責任がアメリカにはある、と主張しています。
フィリピンにしても台湾にしても、占領することで南方から日本への石油やその他の資源の輸送を遮断できることにおいて変わりありません。日本により近い台湾を占領した方が、軍事的観点からは有利でした。
陸海軍の意見が対立したまま7月27日、ハワイにルーズベルト大統領・マッカーサー・ニミッツが一堂に会し、日本への侵攻ルートについて話し合いが行われています。

wikipedia:フランクリン・ルーズベルト より引用
【 人物紹介 – フランクリン・ルーズベルト 】1882年 – 1945年
アメリカの政治家。第32代大統領(1933年 – 1945年)。第26代大統領のセオドア・ルーズベルトは従兄に当たる。名前のイニシャルをとってFDRと呼ばれることも多い。アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領であり、アメリカ政治史上で唯一4選された大統領。ウィルソン大統領のもとで海軍次官となり、アメリカ海軍の拡張に尽力。ニューヨーク州知事を経て大統領就任。世界恐慌に際してニューディール政策を敢行し、アメリカ経済を建て直す。「中国びいき」で知られ、日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行った。シカゴにて「隔離演説」を行う。一方、日本に対しては敵がい心を剥き出しにした徹底した対日強硬策をとり、対日政策として石油を売らない経済制裁を実施、対日開戦の直接のきっかけとなるハルノートを突きつけた。日本の真珠湾攻撃を契機に第二次大戦に参加。史上最大の軍拡・軍需経済・戦時経済の著しい増大によってアメリカ経済を完全に回復させた。大戦中は日系アメリカ人強制収容を行う。チャーチル・スターリンとのヤルタ会談では、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に日ソ中立条約の一方的破棄によるソ連の参戦を促した。第二次世界大戦の勝利を目前に脳卒中で倒れ死亡。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。しかし、日米開戦に至る陰謀論や人種差別者であったこと、及びソ連共産党への友好的な態度には批判が絶えない。
ルーズベルトはフィリピン占領のために耐えられないほどの死傷者が出るという予測を恐れ、フィリピンは避けて台湾へ侵攻する海軍案を支持しましたが、マッカーサーはフィリピン侵攻を強硬に主張して譲りません。
結論が出なかったため、ルーズベルトとマッカーサーの二人だけで密談が行われました。その際の議事録が残っているはずもなく、何が話されたのかは謎ですが、アメリカの歴史家は関係者の証言をもとに、次期大統領選をめぐる駆け引きが行われたと推測しています。
マッカーサーは次期大統領選に出馬する準備を進めていました。大統領四選を目指すルーズベルトにとって、マッカーサーは強力な対抗馬でした。
そこでマッカーサーは次期大統領選への出馬を見送るかわりに、ルーズベルトに台湾ではなくフィリピン侵攻を認めさせたとされています。
真実かどうかは不明ですが、フィリピンへの侵攻が決まった過程において、不透明感が拭えないことは事実です。
その2.マッカーサーがフィリピンのこだわった理由とは
では、なぜマッカーサーは自らの進退をかけてまでフィリピンに固執したのでしょうか?
そこにはフィリピンとマッカーサーの特別なつながりが潜んでいます。3年前、アメリカ極東陸軍の司令官であったマッカーサーは、日本軍に完敗してフィリピンを脱出する際、”I shall return” という有名な言葉を残しています。
当時、その言葉はマッカーサーを揶揄(やゆ)する言葉として用いられていました。日本軍とまともに戦うことをせず、兵を置き去りにしたまま敵前逃亡したマッカーサーは「10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者」として、アメリカ中の笑いものになっていたのです。
これまで挫折を知らなかったマッカーサーにとって、このことは耐え難い屈辱でした。”I shall return” の約束を果たし、フィリピンに凱旋(がいせん)を果たすことは、マッカーサーにとっての悲願でした。軍人としての誇りをかけたマッカーサーの情念こそが、フィリピン侵攻にこだわった原動力だったのです。
しかし、それだけではありません。父の代から長年にわたってフィリピンで権力を握ってきたマッカーサーは、フィリピンの財界とアメリカ資本の権益に深く関わっていました。
将来、大統領の座を狙うマッカーサーにとって経済的基盤は必要不可欠なものです。フィリピンの統治権を再びアメリカに戻すことは、アメリカ資本を大いに潤します。マッカーサーがその恩恵に浴することは当然でした。
キングはフィリピンを迂回して台湾を占領すれば日本本土への進行が早まり、日本の降伏とともにフィリピンも開放されるのだから、アメリカがフィリピンを見捨てたことにはならないと主張しました。
たしかにその通りですが、アメリカが力尽くで直接フィリピンを開放するメリットには計り知れないものがありました。なにより戦後のフィリピンに対するアメリカの影響力は、格段と違ってきます。
実際のところ、解放後のフィリピンは再びアメリカ資本にがっちり吸収され、独立を果たした後も長いことアメリカ資本の支配下で喘ぐことになりました。現在もその支配を断ち切ったとは、とてもいえない状況です。
マッカーサーのフィリピン侵攻は、アメリカの資本家たちの懐を大いに潤わせたのです。マッカーサーは彼らの代弁者としての役割を果たしたといえるでしょう。
その3.米軍の立てた陽動作戦
ルーズベルトがフィリピン侵攻にゴーサインを与えたため、米軍の次の目標はフィリピンに決まりました。
米統合参謀本部は海軍に対し、フィリピンでマッカーサーを援護したあと、台湾を迂回して沖縄を攻略することを命じています。
マッカーサーの計画では11月15日にミンダナオに上陸し、12月20日にレイテに上陸する手はずになっていました。
しかし、米第三艦隊を率いるハルゼーは9月にフィリピン各地を空襲した際の手応えとして、もはや日本機はわずかしか残されていないと判断し、ミンダナオ上陸を飛ばして一気にレイテに上陸する案を提案しました。しかも、予定を早め、レイテ上陸を10月20日にするように勧告しています。
wikipedia:ウィリアム・ハルゼー・ジュニア より引用
【 人物紹介 – ウィリアム・ハルゼー・ジュニア 】1882年 – 1959年
アメリカの軍人。最終階級は海軍元帥。太平洋艦隊空母部隊を指揮していたが、真珠湾攻撃の際には空母エンタープライズとともにパールハーバーを離れており、難を逃れた。1942年に空母から発進した艦載機によって初めて日本本土空襲を行う。のち第3艦隊の司令官となり史上最大の海戦となったレイテ沖海戦にて日本連合艦隊を撃破した。その際、囮役となった小沢機動艦隊に吊られて全軍で北上したことの是非は、今も繰り返されている。自分が騙されたこと、および過失があることは、ついに死ぬまで認めなかった。沖縄戦の途中から指揮官となり、日本の降伏まで第一線艦隊の司令長官を務めた。猪突猛進の性格から「猛牛」のニックネームをもつ。
この勧告に対してマッカーサーとニミッツはすぐに同意し、ハルゼーの勧告からわずか90分後には、10月20日レイテ上陸が決しました。これほどの重大事項がトップの同意のみで短時間に決するとは、日本の大本営では考えられないことです。
米軍はレイテ上陸に際して日本軍がとるであろう行動について予測を立てています。レイテの防備はけして強固ではなく、わずか 2万の兵しか置いていないことから、日本軍がレイテで頑強に抵抗するとは考えにくいことでした。
そのため、米軍のレイテ上陸に際して日本軍が空母を核とする機動艦隊などの主力艦隊を投入することはないだろう、と見積もっています。
フィリピン防衛のために日本の連合艦隊が出動することはありそうにない、とマッカーサーも判断していたのです。
それでも米軍は、万が一の事態を恐れました。米上陸軍が海上を移動している最中に日本の艦隊や航空兵力に襲われたのでは、思わぬ被害を喫するかもしれません。なにせ戦闘艦艇157隻、輸送船420隻、特務艦船157隻、兵力は20万名以上を擁する合計734隻の大船団です。
無事にレイテ上陸を果たすためには、日本軍の目をレイテから逸らす必要がありました。いわゆる陽動作戦です。
米軍が上陸を狙っているのはフィリピンではなく台湾や沖縄だと、日本軍に錯覚させることができれば大成功です。その隙を突いて、レイテ上陸を隠密のうちに果たすことを米軍は目論みました。
この作戦に基づきレイテ上陸直前の10月10日より米軍は、沖縄と台湾に対して激しい空襲を仕掛けました。