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    レキシジン第2部「フィリピン レイテ島の戦い」2章「レイテ沖海戦」#112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」

    #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」

    第2部.レイテ沖海戦から地上戦まで、かく戦えり

    第2章.レイテ沖海戦

    9.米艦隊殲滅まであと一歩 サマール沖海戦

    その1.空母群とのあり得ない会敵

    - サンベルナルジノ海峡に敵影なし -

    このあたりで話を栗田艦隊に戻します。時計の針も少し戻り、25日へと日付が変わったあたりです。

    シブヤン海で再反転を遂げた栗田艦隊は米軍の動きについての情報をなにひとつ知らされることなく、不安を抱えたまま1,000メートル間隔の単縦陣を敷き、サンベルナルジノ海峡を進んでいました。

    その夜はところどころでスコールに見舞われ、視界は15キロがやっとだったと記録されています。

    サンベルナルジノ海峡の出口には、敵の水上艦や潜水艦が待ち受けているものと覚悟していました。ところが栗田艦隊は 0時35分にあっさりとサンベルナルジノ海峡を突破し、太平洋に出ています。

    単縦陣から夜間索敵陣に組み替えた栗田艦隊の乗組員たちは、まるで狐につままれたようだったと綴っています。敵影がまったく見当たらなかったからです。

    ハルゼー機動部隊は全軍をもって小沢機動艦隊を壊滅させるべく北上を遂げていたため、サンベルナルジノ海峡ががら空きになることは当然でしたが、何一つ実のある情報を与えられていない当時の栗田艦隊に、そのような状況がわかるはずもありません。

    米潜水艦部隊にしても海峡は第34任務部隊によって機雷封鎖されているに違いないと思い込んでいたため、1隻も待機していなかったのです。

    この時まさに、天は栗田艦隊に味方をしたといえるでしょう。ハルゼー機動部隊は北上し、第7艦隊はスリガオ海峡にあったため、栗田艦隊とレイテ湾の間には米軍の主力部隊がひとつもないという信じ難い状況が生まれていました。

    西村艦隊による全滅覚悟の突撃、その後に志摩艦隊が続き反転したこと、小沢艦隊によるハルゼー機動部隊の北方への吊り出し、そして栗田艦隊による一時反転と再反転、こうした様様な要素が絡み合い、サンベルナルジノ海峡からレイテ湾への道ががら空きになるという奇跡がもたらされたのです。

    もっとも海峡からレイテ湾に至る進路に、栗田艦隊の障害となる米軍がまったくいなかったわけではありません。

    そのとき、レイテ湾の東方には米第7艦隊に所属する第77任務部隊の護衛空母群が3つの戦隊に分かれて展開していました。「護衛空母」とは商船用の船体をもとに、安価かつ短期間に建造された空母のことです。もともと商船として造られていただけに、船体を覆う鋼鉄板は極めて薄く、いたって華奢(きゃしゃ)な造りでした。武器も乏しく、5インチ砲がひとつあるだけです。

    要するに、まともな「空母」とは呼べない代物でした。足も遅く、最大速力は18ノットに過ぎません。

    護衛空母の識別記号として振り分けられた ”CVE” を乗組員たちは、Combustible(燃えやすく)、Vulnerable(脆弱な)、Expendable(消耗品)の略だと皮肉っていたほどです。

    損傷を受けたとはいえ、水上部隊としては世界トップクラスと目される栗田艦隊にとって、第77任務部隊の護衛空母群が敵でないことは明らかでした。

    栗田艦隊は敵影がまったく見えないことをいぶかりながら、朝6時にはレイテ湾まで60マイル、およそ3時間の地点にまで迫っています。

    - 空母群との会敵 -

    6時45分、マスト頂上にいた大和の見張り員が叫びました。
    「東方水平線上にマスト7本」

    その瞬間、栗田艦隊司令部に衝撃が走りました。この近くに友軍がいるはずもないだけに敵の船団であることは間違いないものの、それがいかなる船団なのか、栗田艦隊にはわかりません。

    その正体を確かめるために、船団に向かって全速で東進しました。やがて甲板が見えたかと思いきや、そこに飛行機が並んでいることを確認し、栗田艦隊のあちらこちらで歓声が上がりました。

    まさに、信じられない事態が起きたのです。水上部隊の射程距離内に空母群が入るなど、海戦の常識において、けしてあり得ないことでした。

    なぜなら空母は艦上機を飛ばすことで水上部隊の位置をいち早く、なおかつ正確に把握できるため、水上部隊との距離を常に適切に保てるからです。

    もともと空母は水上部隊との接近戦を前提に造られてはいません。遠距離から航空機による攻撃を加えられるからこそ空母は強いのであって、水上部隊に射程距離内に入られてしまえばひとたまりもありません。接近戦に極めて弱いのが空母なのです。

    今、眼前に空母群を捉えていることを栗田艦隊司令部は信じられない思いで見つめていました。よもや米海軍が空母群に水上部隊の接近を許すようなヘマをしでかすとは、予想さえしていません。

    栗田艦隊は空母群に対して攻撃を開始しました。

    - あのクソ・ハルゼーめ! -

    一方、護衛空母群を率いるスプレーグ提督は部下の報告に耳を疑いました。
    「これまで見たなかで最大の戦艦に、これまで見たなかで最大の日の丸が翻っているのを見ました」

    スプレーグはしばしの沈黙の後、叫びました。
    「そんなことはありえない、そんなはずはない、そんなはずはない!」

    クリフトン・スプレイグ
    クリフトン・スプレイグ:wikipedia より引用
    【 人物紹介 – クリフトン・スプレイグ 】1896年 – 1955年
    水上機母艦タンジールの艦長のとき、真珠湾攻撃に遭遇した。レイテ沖海戦においては、上陸支援のため第7艦隊から編成された3つの護衛空母艦隊の内の一つ「タフィー3 」の指揮官として、6隻の護衛駆逐艦と護衛の3隻の駆逐艦を率いた。サマール沖海戦では指揮下の航空機部隊と護衛駆逐艦を駆使して日本軍の戦艦及び巡洋艦に対する攻撃を敢行し、戦力的に圧倒的に不利ななか、被害を最小限に留めた。この戦闘の功績により海軍十字章を受章している。戦後は海軍管区司令官を務める。オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートの10番艦、クリフトン・スプレイグ はスプレイグの名前にちなんで命名された。ちなみに「ハルゼー」の名を冠した艦艇は、未だに造られていない。

    スプレーグにしてみれば栗田艦隊が眼前に突如として現れるなど、あり得ないことでした。サンベルナルジノ海峡の出口はハルゼー提督率いる第34任務部隊が守っているはずと、信じて疑わなかったからです。

    そもそも栗田艦隊が再反転を遂げて、こちらに向かっているなどとは聞いていません。上官のキンケードからも、なんら警告を受けていませんでした。

    しかし、どれだけ信じられないと叫んでみたところで、目の前に敵の強力な水上部隊が迫っている事実から目を逸らすことはできません。

    栗田艦隊を視認したスプレーグは、いったい今なにが起きているのかを悟り、思わず悪態をついたとの証言が残されています。

    「あのクソ・ハルゼーめ! 我々を丸腰のまま置き去りにしたな!」

    6時50分、スプレーグは「全機発進させろ!」と下令を飛ばしました。

    攻撃機を発艦させた後に空母群にできることは、全速力で水上部隊から逃げることだけです。

    こうして水上部隊と空母群の近接戦という世界の海戦史でも例を見ない「サマール沖の海戦」が幕を開けました。

    その2.サマール沖海戦

    - 敵の正体を見誤る -

    この空母部隊の正体は、米第7艦隊に属する第77任務部隊の第3群(タフィー3)です。護衛空母6隻、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻からなる部隊でした。

    千載一遇の好機が到来した栗田艦隊ですが、実は致命的な誤りを犯しています。それは、眼前の空母群をハルゼー機動部隊の一部と勘違いしたことです。

    ハルゼーの機動艦隊が全軍を率いて小沢艦隊を追いかけたことを、栗田艦隊司令部は知りません。レイテ湾近くに展開している空母群を、昨日自分たちを襲った機動部隊の一群と捉えたことには無理もない面があります。

    米艦艇の識別に関する情報を、日本海軍はあまりもっていませんでした。栗田艦隊司令部の面々にしても例外ではなく、米軍の護衛空母に関する識別表もなければ、写真さえ見たこともありません。

    正規空母に比べて護衛空母は小ぶりではあるものの、接近できたとはいっても 20マイルほど離れているため、大きさまでは識別できません。その実態は脆弱であっても、形状は正規空母と似たり寄ったりです。

    そのため栗田艦隊では眼前の敵をハルゼー機動艦隊と判断したのです。米軍の最新鋭空母ともなれば30ノット以上での移動が可能です。早めに攻撃に移らなければ、逃げられる恐れがありました。

    昨日の戦闘で大和の艦首には複数の穴が空いており、最高速力は26ノットに落ちています。もっと足の遅い戦艦も抱えているだけに、隊列を整える余裕が栗田艦隊にはありませんでした。

    逃げる敵を捕捉するためには一刻を争うと判断した栗田長官は、現在の陣形のまま総攻撃を号しました。このため各艦は手当たり次第に敵艦のどれかに襲いかかりました。そのため結果的に艦隊としての統制がとれないばらばらの攻撃になったことは、残念なことでした。

    現在の陣形との関係もあり、戦艦と巡洋艦隊に進撃を命じ、駆逐艦隊にはその後に続行せよと下令することになりました。このことは戦後になってから、世界の軍事研究家の多くから批判されることになります。

    敵が30ノットの速力を有するハルゼー機動艦隊と誤認したがゆえのミスでした。戦後、栗田艦隊がばらばらに攻撃するのではなく、駆逐艦部隊を先頭に艦隊行動をとって整然と追撃していれば、駆逐艦の魚雷によって護衛空母の多くが沈んだだろうと指摘されています。

    もし、敵が足の遅い護衛空母群とわかってさえいれば、栗田長官も駆逐艦部隊から突進させたことは間違いありません。惜しむらくは、護衛空母を正規空母と錯覚したことです。

    - 戦艦大和の主砲、轟く -

    reite rekisi 15 #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」
    「サマール沖海戦」における日米艦隊の動き
    レイテ―連合艦隊の最期・カミカゼ出撃 (第二次世界大戦ブックス〈5〉』ドナルド・マッキンタイヤー著(サンケイ新聞社出版局)より引用

    すでにサマール沖では戦闘が始まっていました。栗田長官が戦艦大和の主砲を放つべく、「撃ち方はじめ」と下令したのは6時58分のことでした。

    そのとき、戦艦大和からは万感の思いを込めて18インチ主砲が火を噴きました。思えば大和が建造されて以来、世界最大のその主砲が敵艦に向けて放たれるのは、これがはじめてのことです。

    大艦巨砲主義のもと、連合艦隊が国運を賭して建艦したのが大和や武蔵です。来たるべき海戦において世界一の巨砲が必ず勝敗を決するときが来ると信じ、国民の血税から捻出した巨費を注いで造り上げた戦艦でした。

    しかし、先にも記した通り、大東亜戦争では従来のような艦隊同士の決戦は姿を消し、航空機を主役とする時代へと移り変わっていました。大和にしても武蔵にしても、その自慢の主砲を敵艦に向けて放つ機会など一度たりとも訪れなかったのです。武蔵はついに敵艦に対して1発の主砲を浴びせることなく、シブヤン海に沈みました。

    不遇だった武蔵の無念の思いを晴らすかのように、時代遅れとなった大艦巨砲主義の真価を今こそ試すべく、戦艦大和は米空母に向けて1発で1トン半を超える重い砲弾を解き放ちました。雷鳴の如き砲声が、サマール沖を震わせたのです。

    大和が敵艦に対して主砲を放つのは、これが最初であり、そして最後でした。このとき大和の18インチ砲から解き放たれた砲弾こそは、去りゆく大艦巨砲主義への弔銃であったといえるでしょう。

    戦艦大和
    戦艦大和が世界に誇った18インチ主砲
    間宮 (給糧艦):wikipediaより引用

    諸説ありますが、32キロ先の敵空母に大和の放った砲弾が命中すると、空母の船尾はガックリと沈み込み、右に大きく傾いたとの証言が残されています。敵空母の周囲の水面には、緑色の水柱が上がりました。

    当時はどの戦艦から放たれた砲弾かを識別するために、艦艇ごとに着色弾が用いられていました。たとえば大和は緑色、長門は赤色です。

    そのため砲戦になると、海上には色とりどりの水柱が立ち上がるとともに、海面を染めていきました。その光景は米軍から見ても、異様に美しかったと記されています。

    - 米軍、スコールに逃げ込む -

    予期せぬまま突如として栗田艦隊と出くわし、圧倒的に不利な戦いの渦中に放り込まれた第77任務部隊の護衛空母群(タフィ3)ですが、幸運だったことは東方近距離に巨大なスコールがあったことでした。

    護衛空母はスコールに逃げ込もうと、全速力で駆け出します。栗田艦隊の戦艦隊は盛んに砲撃を繰り返しながら、その後を追いました。

    この海戦において米海軍は戦史に残る奮闘をみせます。その核となったのは護衛空母の直衛部隊として付いていた駆逐艦3隻、護衛駆逐艦3隻からなる部隊です。

    駆逐艦ジョンストンは護衛空母群を守るために、単独で栗田艦隊の戦艦隊に向かって前進してきました。さらにスプレーグの号令のもと、米駆逐艦隊は危険を顧みることなく、魚雷を撃つために戦艦隊の前に突進してきました。

    米護衛空母も駆逐艦も一斉に煙幕を吐き出し、栗田艦隊の視界をさえぎります。7時15分、護衛空母隊は激しいスコールの中にかき消えました。

    660px Destroyers laying smoke screen during Battle of Samar 1944 #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」
    煙幕を張り、必死に栗田艦隊を妨害するアメリカ駆逐艦群
    レイテ沖海戦:wikipedia より引用

    栗田艦隊は目標を見失い、砲撃を一時中止するよりありませんでした。栗田艦隊は米軍とは異なり、射撃用レーダーを装備していません。光学測距儀と双眼鏡によって目標を目で確認できなければ、砲撃できなかったのです。

    スコールは米軍にとって、まさに天の恵みでした。栗田艦隊の猛攻から束の間の休息を得て、態勢を建て直す貴重な時間を稼げたからです。

    - キンケードの悲鳴 -

    スプレーグは7時35分、ハルゼーに対して「当隊は敵戦艦、巡洋艦の攻撃を受けつつある」と悲鳴にも近い緊急電を入れています。

    第7艦隊のキンケードもまた、スプレーグよりも先に、救援を求める電報をハルゼーに送っています。暗号解読の時間を省くために、あえて平文で発信したことに、キンケードの焦る気持ちがにじみ出ています。

    キンケードにしてみれば、事態は絶望的でした。栗田艦隊の戦力からすれば、護衛空母群の全滅は免れない状況です。

    キンケードは第7艦隊のことはもちろん、レイテ湾にある輸送船と地上部隊のことを懸念しました。栗田艦隊はすでにレイテ湾まで3時間ほどの位置にあるだけに、レイテ湾を守る術はなにもないように思えたのです。

    キンケードにできることはハルゼーに救援の依頼を繰り返すことと、スリガオ海峡にいるオルデンドルフ隊を大急ぎでレイテ湾に呼び戻すことだけでした。

    損傷した志摩艦隊を追撃していたオルデンドルフ隊に向けて「損傷艦の追跡をやめ、急いで北上せよ」と、キンケードは命じています。

    それでも、キンケードの不安が払拭されたわけではありません。栗田艦隊が護衛空母群の追撃を早々に切り上げ、レイテ湾を目指すならば、オルデンドルフ隊が間に合う見込みはなかったからです。

    オルデンドルフ隊はタフィ3から約65マイル離れており、全速力で飛ばしても駆けつけるまでに3時間はかかると見られていました。

    オルデンドルフ隊の弾薬が残りわずかなことも、燃料補給を必要としていることも気がかりでした。

    - 空母を守れ、駆逐艦と航空機による突撃 -

    空母群はスコールに隠れても、米駆逐艦隊は勇敢に栗田艦隊の行く手を阻みました。ジョンストンの放った魚雷は先頭を走っていた重巡熊野に吸い込まれ、艦首がもぎ取られています。熊野は戦列を離れ、単独でブルネイに向かいました。

    ジョンストンへは当然ながら栗田艦隊の砲撃が集中します。ジョンストンは火災を起こしながらスコールに逃れました。

    後に「狼たち」と呼ばれる米護衛駆逐艦隊も栗田艦隊に向かって突進してきました。我が身を捨てても他者を活かそうとする精神は、日本軍だけの専売特許ではなかったようです。

    空母を守ろうと、米駆逐艦隊は空母と栗田艦隊の間に割って入り、果敢に魚雷攻撃を繰り返しました。まさに決死の突撃です。そのため、栗田艦隊でも思わぬ損傷を受けています。

    CVE 71 launching FM 2s Samar 25Oct1944 #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」
    迎撃機の発進を急ぐ護送空母キトカン・ベイ。後方で日本軍艦艇の砲撃にさらされているのは護衛空母ホワイト・プレインズ
    レイテ沖海戦:wikipedia より引用

    空母から飛び立った艦載機による突進も激しくなってきました。護衛空母には一隻あたり10機ほどの戦闘機と、同じ数ぐらいの爆撃機が搭載されています。

    それでもシブヤン海の戦いとは異なり、栗田艦隊の受けたダメージはそれほどでもありません。なぜなら護衛空母の艦載機が積んでいたのは、100ポンド爆弾だったからです。

    護衛空母の任務は海岸一帯に展開する地上部隊を機銃掃射することでした。そのため対人用の100ポンド爆弾を積んでいたのです。

    守備能力に優れた軍艦に損傷を与えるためには100ポンド爆弾では明らかに役不足です。その程度の爆弾では、軍艦のぶ厚い装甲板に跳ね返されるだけです。

    軍艦に打撃を与えるためには500ポンド、あるいは2000ポンド爆弾を積んでいる必要がありましたが、端から護衛空母群にそのような備えはありません。もともと華奢な造りをしているだけに、護衛空母は外洋にて艦隊行動をすることなど想定されていなかったためです。まして敵艦隊と交戦するなど、想定外もいいところでした。

    しかし、曇り空だったこともあり、栗田艦隊からは米爆撃機の積んでいる爆弾の種類などわかりません。攻撃機が襲ってくれば回避せざるを得ませんでした。

    実はこのとき、あわてて空母から飛び立ったため、実際には爆弾を積んでいない航空機もありました。それでも艦隊の見張員には敵機が爆弾をもっているかどうかさえ、判別できなかったと記録されています。

    米攻撃機は神風特攻隊のように艦艇に体当たりまではしないものの、撃墜されることを恐れることなく、突撃してきました。爆弾を落とした後も引き返すことなく、突撃を繰り返してきます。いわゆる模擬攻撃です。

    爆弾がなく、実際には攻撃できないものの、空母を守るために模擬攻撃を繰り返すことで栗田艦隊を牽制したのです。

    栗田艦隊としては攻撃機が突進してくれば回避するよりなく、その間は空母への砲撃ができません。隊形も乱れるため、どうしても追撃が遅れがちでした。

    このとき、栗田艦隊は水上部隊と航空機の両方を相手に同時に戦っています。世界の海戦史を紐解いても、こんなことは極めて珍しい例です。水上部隊と空母との近接戦に加え、水上部隊と航空機と同時に戦うというあり得ない戦闘が繰り広げられたのが、サマール沖の海戦なのです。

    - 大和は止めを刺さず、護衛空母ガンビア・ベイ撃沈 -

    米護衛空母ガンビア・ベイ
    栗田艦隊の砲撃によって黒煙を上げる米護衛空母ガンビア・ベイ、この後まもなく沈没した
    『レイテ―連合艦隊の最期・カミカゼ出撃 (第二次世界大戦ブックス〈5〉』ドナルド・マッキンタイヤー著(サンケイ新聞社出版局)より引用

    米攻撃機をかわしながら目標を駆逐艦に定め、副砲と高射砲を放っていた大和が、こちらに向かってくる6本の魚雷を発見したのは7時54分ことです。米駆逐艦から重巡羽黒に向けて放たれた7本の魚雷のうちの6本が、たまたま大和に向かってきたのです。

    栗田長官の指示のもと、大和は取舵をとって6本の魚雷の隙間に船体を潜り込ませることで事なきを得ています。魚雷を避けるために、大和は戦場に背を向ける方向へと向きを変えざるを得ませんでした。ところが大和は、右に4本、左に2本の魚雷に挟まれるように追尾される格好になってしまったのです。

    大和は艦の方向を一切変えることができないまま前進を続けるよりなく、次第に戦場から離れていきました。

    戦場に背を向けているため、こうなっては戦いの様子がまったくわかりません。やむなく栗田長官は8時に「全軍突撃」を下令しました。

    状況が把握できないなか、好機をみすみす逃すことを恐れての下令でした。心ならずとはいえ指揮官が戦場から離脱するなか「全軍突撃」を命じるのは、なんとも不可思議な光景です。

    それでも、この下令によって戦艦隊の後ろに押し込められていた駆逐艦隊がようやく独自に敵艦を攻撃できるようになったことはたしかです。

    10分ほど大和を追尾していた魚雷は、燃料が切れてようやく沈没しました。大和が反転したときには、他の艦からはるか後方に引き離されていました。

    その間も米駆逐艦は煙幕に見え隠れしながら、果敢な魚雷攻撃を栗田艦隊に繰り返しています。すでに駆逐艦1隻を除いては全艦が魚雷を撃ち尽くしていました。

    しかし、栗田艦隊の猛攻に耐えかねたスプレーグの下令に従い、魚雷を撃ち尽くしてもなお駆逐艦は護衛空母の盾となるために日本の巡洋艦隊の前に立ちふさがります。日米ともに必死の攻防戦が展開されました。

    その結果、栗田艦隊は駆逐艦ホーエルとサミュエル・B・ロバーツ、護衛空母ガンビア・ベイを大破しています。これらの艦の沈没は、もはや免れない状況でした。

    大和がようやく戦列に戻ったとき、ガンビア・ベイは大きく傾き、すでに炎上していました。ここで大和が伝説の主砲をガンビア・ベイに撃ち込みことで止めを刺したならば、空母を砲撃によって沈めた戦艦として、世界の海戦史にその功名が刻まれたことは間違いありません。

    大和の乗組員のなかには「なぜ大和は発砲しないのだろう」と疑問に思ったとの証言も残されています。

    しかし、栗田長官は主砲を撃てとの下令を飛ばしませんでした。主砲を放つことで、より多くの乗員を殺すことを懸念したからだと言われています。無益な殺生を好まないのは、栗田長官の信条でした。

    駆逐艦ホーエルは 8時55分に、護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦サミュエル・B・ロバーツは 9時10分にそれぞれ沈没しています。

    砲撃で沈められた空母は、ガンビア・ベイが史上初です。現在に至るも、ガンビア・ベイ以外で砲撃によって撃沈された空母はひとつもありません。

    - 勇敢な戦いぶりに対する敬意 -

    500px Yamato battle off Samar #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」
    サマール沖海戦にて米艦を追撃する戦艦大和
    レイテ沖海戦:wikipedia より引用

    ここまで米駆逐艦のなかで最も勇敢な戦いぶりを見せていたのは、先に重巡熊野に損傷を与えた駆逐艦ジョンストンです。ジョンストンはすでに魚雷を撃ち尽くしていましたが、護衛空母を守るために捨て身の突撃を仕掛けてきました。

    米駆逐艦ジョンストン
    勇敢な戦いぶりを讃えられた米駆逐艦ジョンストン、このあと栗田艦隊に撃沈された
    ジョンストン (DD-557):wikipedia より引用

    軽巡矢矧(やはぎ)と駆逐艦隊が高角砲による集中攻撃を加え、すでに満身創痍だった駆逐艦ジョンストンは航行不能となり、遂に10時10分に転覆し、海中に沈みました。エヴァンズ艦長も艦と運命をともにしています。

    ジョンストンから海上に逃れた乗組員たちは、近づいてくる日本の駆逐艦を恐怖の目で見つめていました。駆逐艦による機銃掃射か爆雷が投下されるに違いないと身構えたのです。

    ところが機銃掃射や爆雷投下の代わりに、駆逐艦から日本兵の何人かが投げてきたのは食べ物の缶詰でした。

    そのとき、漂流者の多くは信じられない光景を目にしています。駆逐艦から士官の一人が右手を帽子のひさしにあてて敬礼していたのです。先ほどまでの仇敵が敬意を表してくれたことは生涯忘れられない光景になったと、生存者は語っています。

    たとえ敵であろうと勇敢な戦いぶりを示した者に対して敬意を忘れないのは、武士道の名残であったのかもしれません。

    ただし、日本軍の行動がすべて美談で語られるわけではありません。なかには漂流者に機銃掃射を浴びせ、士官があわてて止めさせたとの証言も残されています。

    ジョンストンを筆頭に、米駆逐艦隊の戦いぶりは米国内でも高く評価され、第二次大戦中における最も勇敢な英雄的行為であったと讃えられています。

    reite rekisi 21 #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」
    タフィ3隊指揮官スプレーグ少将はサマール沖海戦での功績が認められ、海軍十字勲章を受けた
    『レイテ―連合艦隊の最期・カミカゼ出撃 (第二次世界大戦ブックス〈5〉』ドナルド・マッキンタイヤー著(サンケイ新聞社出版局)より引用

    その3.栗田長官の追撃中止命令

    - 空母群撃沈まで、あと一歩 -

    reite rekisi 16 #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」
    サマール沖海戦が繰り広げられていた10月25日8時30分時点での日米艦隊の動き
    レイテ沖海戦』半藤一利著(PHP研究所)より引用

    8時30分を過ぎたあたりから、米攻撃機による魚雷攻撃も激しさを増してきました。タフィ3の窮状を知り、近くにいたタフィ2が救援に駆けつけたからです。タフィ第3戦隊の攻撃機が対艦用の爆弾を積んでいないことは先にふれましたが、タフィ第2戦隊の艦載機はスリガオ海峡を北上する日本艦隊に備えるために、昨夜のうちに魚雷と対艦用の爆弾を積んでいたのです。

    タフィ2からは合計103機の攻撃機が飛び立ち、栗田艦隊に襲いかかっています。しかし、栗田艦隊に及ぼした損傷は軽微に止まっています。タフィ2が投下した魚雷49本のうち、命中したのは1本だけでした。栗田艦隊は13機を撃墜しています。

    タフィ2も栗田艦隊が狙う新たな獲物となりました。タフィ2も護衛空母群であり、タフィ3同様に戦闘能力の低い部隊に過ぎません。護衛空母6隻、駆逐艦7隻からなる部隊でした。

    9時を少し過ぎたあたりになると、タフィ3の護衛空母群は危機的状況に陥っていました。栗田艦隊は確実にタフィ3に肉薄しています。今やタフィ3の左には栗田艦隊の重巡隊、右には駆逐艦隊、後方には戦艦隊がつき、空母数隻を沈めるのも時間の問題と見られていました。

    ことに利根と羽黒の重巡2隻は、空母まで数千メートルの距離にいたとされています。護衛空母群は友軍に助けを求めるため、レイテ湾目指して逃走しました。そのため、護衛空母群を夢中になって追いかけているうちに、重巡隊は期せずしてレイテ湾目前にまで迫っていました。利根からはレイテ湾に停泊している船舶の姿が見えた、との証言も残されています。

    利根の通信士は艦長の命令を受け緊急平文電報を大和に向けて打電しました。
    「レイテ湾内に敵艦、輸送船、病院船多数あり、絶好の攻撃の機と認む」

    しかし、この電文は大和に届かなかったとされています。

    レイテ湾に逃げ込もうとする敵空母撃沈まで、あともう少し!

    ところが……。耳を疑うような命令が大和から届きます。

    「まさか……」
    「馬鹿野郎、なぜなんだ!」

    利根の司令部からは怒号が渦巻きました。

    - 米海軍に訪れた奇跡 -

    絶望的な思いにとらわれていた米海軍にとって、それは奇跡の瞬間でした。

    スプレーグ提督の旗艦ファンショ-・ベイのブリッジから一斉に叫び声が上がりました。
    「おい見ろよ、やつらが引き揚げていくぞ!」

    それまで空母群を追いかけていた日本の艦艇が一斉に反転し、みるみる遠ざかっていったのです。

    スプレーグは戦後、このときのことを次のように語っています。
    「9時25分、私は敵艦隊の魚雷をどう回避するかでいっぱいだったが、そのとき艦橋の近くで信号員が『ジャップの奴らが、逃げてゆくぞ』と大声で叫ぶのを聞いた。私は自分の目を信じられなかった。だが事実、日本艦隊は退却しているように見えた。私がそのことを間違いないと思うようになったのは、上空の味方機から次々と報告が入ってきたからだ。それでも私は、いま何が起きているのかを理解するのに、さらに時間を要した。私はこの時まで、(空母の沈没によって)海を泳ぐことになると覚悟していたのだ。」

    もはや撃沈されるのは避けようもないと覚悟を決めていたにもかかわらず、突然栗田艦隊が反転していく様を、スプレーグたちが驚きをもって見守ったことが伝わってきます。

    反転の理由はわからないまでも、タフィ3の将兵にしてみれば命拾いをしたことに変わりありません。まさに神はアメリカに味方をしたといえるでしょう。

    - 追撃中止の理由とは -

    護衛空母群を追い詰めていた栗田艦隊が獲物を目前にして踵(きびす)を返したのは、9時11分に栗田長官が追撃を中止し、「集まれ」と令したからです。

    空母群に迫っていた艦艇にしてみれば信じられない命令ですが、命令された以上は従うよりありません。

    利根の艦橋では「一発でもいいから、魚雷を射たせて下さい」と士官が艦長に詰め寄りましたが、適うことはありませんでした。

    利根と羽黒の乗組員は地団駄踏んでくやしがりながら、目の前に迫った好餌に背を向け、涙を呑んで撤退したのです。

    追撃の中止は、栗田長官が戦況を把握できなかったからだと指摘されています。栗田艦隊の通信状況は相変わらず悪く、空母群を追撃していた最前線から状況を知らせる電信のことごとくは届かなかったとされています。

    そのため、利根や羽黒がもう少しで空母を撃沈できる状況にあることを、栗田艦隊司令部は知りませんでした。

    ここでも敵空母をハルゼーの機動艦隊の一部と思い込んでいたことが、マイナスに作用しています。護衛空母群は必死に逃げましたが、その速度は遅く、最高でも18ノット程度です。

    26ノットは出せる栗田艦隊が追いかければ、確実に仕留められる相手でした。

    ところが米攻撃機と駆逐艦隊を避けながら追いかけていたため、なかなか追いつけません。そんな状況が栗田艦隊司令部に、米空母が30ノットで逃げているような錯覚を植え付けました。ハルゼー機動部隊の空母であれば、30ノットは十分に出せるからです。

    敵が30ノットの全速力で逃げているからには、このまま追撃を続けても永久に追いつけない、と司令部は判断しました。

    燃料の残りにも不安がありました。補給の術がないため、現在の燃料を使い切ってしまえば、もはや動くこともままなりません。

    この海戦で大量の燃料を消費したことは明らかです。これ以上追撃を続けると、主目的であるレイテ湾突入に支障を来すとの判断も働きました。

    その結果が、追撃中止の命令となったのです。

    最前線の状況がわからなかっただけにやむを得ない面はあるものの、もし追撃中止を令していなければ、護衛空母の何隻かを沈め、米海軍に甚大な被害を与えることができただろうと言われています。

    結果的に栗田艦隊は、米海軍に一泡吹かせる好機をみすみす逃すことになりました。栗田長官の追撃中止命令によって、サマール沖の海戦は終わりを告げたのです。

    栗田艦隊は敵に与えた損害について連合艦隊司令部に次のように報告しています。
    「航空母艦三乃至四隻、重巡二隻、駆逐艦数隻を撃沈」

    この報告に大本営や連合艦隊司令部は喜びに沸き返りました。米機動艦隊の1部隊を水上部隊単独で撃滅するとは、まさに快挙です。連合艦隊が信じてやまなかった大艦巨砲主義の正しさが証明されたと喜んだのです。

    しかし、実際には撃沈した空母はガンビア・ベイ1隻のみ、あとは駆逐艦のホールとジョンストン、護衛駆逐艦のロバーツを沈めるに止まっています。

    速力と火力において圧倒的に優勢だったにもかかわらず、その割りに米軍の被害が限定的だったのは、スコールという天の恵みが米軍に味方したこと、米駆逐艦隊が決死の覚悟で空母群を守り抜いたこと、米攻撃機が模擬攻撃をしてまで栗田艦隊を牽制したことなどがあげられますが、栗田艦隊が徹甲弾を使用したことも護衛空母群を救ったと指摘されています。

    護衛空母の装甲板は薄いため、徹甲弾が炸裂する前に船体を突き抜け海中に没したからです。そのため護衛空母は船体に穴を空けられたものの、致命的な損傷を受けずに済んでいます。

    もし栗田艦隊が通常爆弾を使っていれば、より多くの空母を沈めることができただろうと言われています。ここでも相手空母を正式空母と誤認したミスが、響いています。

    艦艇の識別を誤ったことはサマール沖海戦全般にわたって祟り、訪れた好機を栗田艦隊が掴み損ねる結果をもたらしたといえます。

    なお、タフィ3を指揮したスプレーグは後にこの戦いを次のように振り返っています。

    「敵が当隊の撃滅に失敗したのは、適切な煙幕を張ったこと、駆逐艦クラスの魚雷攻撃による反撃、艦上機が爆撃、雷撃、機銃掃射で絶え間なく敵を悩ましたこと、タイムリーな運動、そして神のご加護によってである」

    勝機は一瞬にして失われ、1944年10月25日、サマール沖にてその真価を発揮しかけた世界一の巨砲は、華々しい戦果を上げることなく、その砲門を閉じました。その瞬間、大艦巨砲主義の時代は世界の海戦史において永久に終止符を打ったのです。

    その4.小沢長官、ハルゼーを北方に吊り上げる

    ここで栗田艦隊からはしばし離れ、25日早朝からの小沢艦隊の動きを追いかけてみます。囮とは気づかず、ハルゼーは機動艦隊全軍をあげて小沢艦隊を追いかけ北上しました。そのハルゼーのもとに、キンケイドから救援を求める声が何度も届きます。

    そのとき、果たしてハルゼーは……。

    reite rekisi 1 #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」
    エンガノ岬沖海戦での小沢機動艦隊とハルゼー機動艦隊の動き
    レイテ―連合艦隊の最期・カミカゼ出撃 (第二次世界大戦ブックス〈5〉』ドナルド・マッキンタイヤー著(サンケイ新聞社出版局)より引用

    栗田艦隊の反転を知り、退却したと判断した小沢長官は、ハルゼー機動艦隊とは反対方向の北に向かって航行していました。この時点ではまだハルゼー機動艦隊の吊り出しに成功したとは、わかっていません。ましてハルゼーがまさか全軍を率いて北上していたとは、戦後になるまで知りようもないことでした。

    ハルゼーを吊り出すために決死の覚悟で南下していた前衛部隊は栗田艦隊が反転したことを受けて引き返し、6時34分に小沢本隊と合流しています。

    その後、小沢長官がハルゼー率いる米機動艦隊が間近に迫っていると気がついたのは、米偵察機を発見した7時12分のことです。

    どうやら当初の目的であったハルゼー機動艦隊の吊り出しに成功したらしいと確信した小沢長官は、囮としての任務を果たすためにさらに北上を続けました。その際、艦隊を守るために残していた戦闘機18機を除き、攻撃機10機を陸上の航空基地へと退避させています。搭乗員の技量が未熟であるため、戦力になはらないと判断したためです。ハルゼーとの決戦を前に人命を尊重した配慮を為したことに、小沢長官の人柄が表れています。

    小沢長官は関係各部隊に向けて、米機動艦隊の艦上機による攻撃を受けつつある旨を打電しました。しかし、栗田艦隊にはこの電信は届いていません。

    ここでも、もし電信が届いてさえいれば、との思いがよぎります。この電信が届いてさえいれば、ハルゼー機動艦隊が北上したことを栗田艦隊は知ることができました。ハルゼー機動艦隊の所在は、栗田艦隊がもっとも欲していた情報です。

    この情報を取得していれば、その後の栗田長官の判断に大きな影響を与えたことでしょう。

    一方、小沢艦隊はサマール沖で栗田艦隊が米機動部隊を見つけ、攻撃を開始したことを告げる無電を受け取っています。この無電によって小沢長官は、栗田艦隊が再びレイテ湾を目指していることを知ったのです。

    8時15分、ハルゼー機動艦隊から飛び立った180機が小沢艦隊に襲いかかりました。小沢長官は現在地を示す暗号とともに「敵艦上機約80機来襲我と交戦中」と打電しています。

    ところが、この電信はどこにも届いていません。

    この第一次空襲によって小沢艦隊の受けた被害は甚大でした。「機動艦隊」としての体裁は整えているものの、艦隊を守る艦上機はわずか18機に過ぎません。18機の戦闘機は米機と果敢な空中戦を展開しましたが、多勢に無勢です。

    艦上機をもたない機動艦隊の末路は、悲惨の一語に尽きます。制空権を完全に奪われた小沢艦隊は、米機の一方的な攻撃にさらされるよりありませんでした。

    この第一次空襲による小沢艦隊の損傷は以下の通りです。

    ・空母瑞鳳が被弾し、一時は航行不能となる
    ・旗艦空母瑞鶴が魚雷を受け、速力低下、通信不能となる
    ・駆逐艦秋月が沈没(米軍は潜水艦により撃沈との見解をとっているが、秋月艦長は日本艦の砲弾の破片が予備の魚雷に当たり誘爆したと証言している)
    ・空母千歳が5発の直撃弾を受け沈没、艦長以下468名が戦死
    ・軽巡多摩が魚雷を受け航行不能

    駆逐艦「秋月」
    大爆発を起こし、駆逐艦「秋月」は沈没した
    レイテ沖海戦:wikipedia より引用

    艦上機をもたない小沢機動艦隊がハルゼー機動艦隊を吊り上げた後、一方的な攻撃を受けることで全滅に至ることは十分に予想されたこととはいえ、あまりにも悲惨な成り行きです。

    捷号作戦のままに潔く殉じようと、小沢長官は覚悟を決めていました。

    その5.「全世界は知らんと欲す」、ハルゼーの怒りと絶望

    - キンケードからの救援要請 -

    その頃、ハルゼーは小沢機動艦隊をついに追い詰めたことを確信し、まもなく手にするはずの勝利の美酒に酔いしれていました。

    日本の機動艦隊を艦隊決戦にて壊滅させることは、ハルゼーにとっての長年の夢です。その夢の実現まで、あと一歩に迫り、ハルゼーは興奮を抑えられずにいたのです。

    真珠湾攻撃以来の鬱憤(うっぷん)を晴らし、この世界から憎き日本の機動艦隊を消し去ることは、ハルゼーの軍歴にとって最高の栄誉となるに違いありません。

    そんなハルゼーのもとに、高揚した気分に水を差すような電信が届いたのは、午前8時22分のことでした。レイテ湾にいる第7艦隊司令長官キンケイドから、「サマール沖にいるタフィ3が後方15マイルに位置する日本の戦艦隊と巡洋艦隊から砲撃を受けている」ことを知らせる電信でした。

    急を知らせる電信であることは明らかですが、キンケイドが発信した 7時7分から1時間以上も遅れて届いています。先に説明した通り、直接電信を交わすのではなく、あえて遠く離れたマヌス島を経由するがゆえの弊害です。

    ハルゼーはその電信を受け取った段階では、たいした心配はしなかったと後に語っています。栗田艦隊が大きな損傷を負っているものと信じ切っていたからです。タフィには全部で16隻の護衛空母があるだけに、第7艦隊のオルデンドルフ戦艦隊が救援に駆けつけるまで、敵を寄せ付けないだろうと高を括っていたのです。

    その後もキンケイドからの電信が、次から次へともたらされました。9時には「敵部隊が我が護衛空母隊を攻撃中。(第34任務部隊の)リー少将が最大速力でレイテ湾をカバーし、高速空母部隊が直ちに(栗田艦隊を)攻撃するように要請する」との電信が入っています。

    それはキンケイドの悲鳴と言ってもよい切羽詰まったメッセージでした。それでもハルゼーはまだ、キンケイドの救援要請を大げさだと感じていたようです。

    8時47分に、合流するためにこちらに向かっている第38任務部隊の第1群をキンケード支援のために最大速力でレイテ湾に向かうように指示を出したものの、キンケードが要請した高速空母部隊については無視しています。

    第1群にしてもレイテ湾からは遠く離れているため、今からでは護衛空母救援に間に合わないことは明らかでした。

    それでも 9時22分に届いたキンケイドからの電信を見て、ハルゼーはようやく深刻な事態に陥っていることに気がつきます。電信には次のように綴られていました。

    「当隊の戦艦隊は弾薬欠乏」

    ハルゼーは回顧録のなかで、このときのことを次のように記しています。

    「弾薬が足りないだと! あまりに驚いたため、私はなかなかその事実を受け入れられなかった。キンケイドはどうして私に、この事実を先に連絡してこなかったのか?」

    ここでいう戦艦隊とはオルデンドルフ隊のことです。西村艦隊を壊滅させるために大量の弾薬を使い果たしたオルデンドルフ隊は、戦いたくても肝心の弾薬が不足するという事態に見舞われていました。このことだけを見ても、西村艦隊の全滅がけして無駄でなかったことがわかります。

    その一方、小沢艦隊への攻撃は、着実に進められていました。9時58分には第2次空襲が行われています。この空襲で空母千代田が大炎上し、沈没しました。ハルゼーは小沢艦隊を確実に追い詰めつつありました。

    さらに午前10時には、より危機感を伴う電信がキンケードから届いています。

    「当隊は深刻な状況にある。敵が我が護衛空母隊を撃滅してレイテ湾に進入するのを阻むために、高速戦艦と高速空母の派遣を乞う」

    日本の機動艦隊を葬り去ることで、生涯で最も輝かしい栄誉に浴する一日になるはずと思い込んでいたハルゼーにとって、レイテ湾で進行している事態は受け入れがたいものでした。

    もし栗田艦隊がレイテ湾に突入したとなれば、今次の大戦における最悪の被害が生じることは確実です。その原因がサンベルナルジノ海峡をがら空きにして北上したハルゼーに向けられることだけは、なんとしても避けなければなりません。

    栄光の日を恥辱の日としないためには、自分の判断は間違っていなかったと信じる以外になかったのかもしれません。ハルゼーは生涯にわたって、小沢艦隊に騙されて吊り出されたという事実を認めようとしませんでした。サンベルナルジノ海峡をがら空きにしたことについても、自分に非はなかったと死ぬまで主張し続けています。

    「第七艦隊を守ることは私の仕事ではなかった。私の仕事は第三艦隊をして攻勢作戦をとることであり、キンケイドと私の部隊のみならず太平洋戦略全体にとって重大な脅威になる敵部隊を阻止すべく急行中だったのだ」

    あくまで正当性を訴えるハルゼーの主張は、米軍にとって最悪の事態が起こらなかったからこそ許されたものといえるでしょう。キンケードが危惧したことが現実になっていたならば、ハルゼーといえども軍歴に大きな汚点を残したはずです。

    - ニミッツの電信、怒れるハルゼーを南に走らせる -

    reite rekisi 2 #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」
    ニミッツとハルゼー
    レイテ沖海戦1944 日米四人の指揮官と艦隊決戦』エヴァン トーマス著(白水社)より引用

    そんなとき、1本の電信がハルゼーに届きました。パールハーバーのニミッツ提督から届いたメッセージは、小沢機動艦隊を追い詰めながらもレイテ湾で起きている事態に一抹の不安を感じていたであろうハルゼーを、絶望の淵に突き落とすことになります。

    ハルゼーが受け取ったメッセージには次のように記されていました。
    「第34任務部隊は何処(いずこ)にありや、何処にありや。全世界は知らんと欲す」

    最後の「全世界は知らんと欲す」のメッセージにハルゼーは、ニミッツ提督の怒りと嘲(あざけ)りを感じ取り、思い切り馬鹿にされたのだと感じました。

    ハルゼーの回顧録によれば、この電文を記した用紙をもつハルゼーの手は、怒りのあまりわなわなと震えたそうです。

    ハルゼーは帽子を脱ぐと、電文をデッキに叩き付け悪態をわめき散らしました。「まるで顔面を一発殴られたような驚きだった」と、ハルゼーは記しています。

    次の瞬間、ハルゼーの周囲にいた幕僚や下士官は息を呑みました。ハルゼーが突然、子供のように激しく泣きはじめたのです。

    まだ電文を見ていない幕僚たちには何があったのか、さっぱりわかりません。
    「いったい、どうしたというのですか?」
    気遣う幕僚たちにハルゼーは、ニミッツ提督からの電文を渡しました。

    それを見た幕僚の一人は、「まったく信じられなかった。ニミッツ提督がこれほど侮辱的な文書を送りつけてくるなんて!」と語っています。

    幕僚の手から電文を奪い返したハルゼーは、それを再び床に叩き付け、何度も何度も踏みつけました。

    「どうして、こんなメッセージをニミッツ提督から受け取らなくてはならないんだ?」

    ハルゼーは誰にでもなく問いかけると、そのまま私室へ引き揚げてしまいました。それから1時間後、ハルゼーは苦渋の決断を下します。

    ハルゼーが「全世界は知らんと欲す」の一文に怒りを覚えたのは、それが19世紀のイギリスの詩人アルフレッド・テニスンの書いた「騎兵旅団突撃の歌」の一節だからです。アメリカ人の子供であれば、学校で必ずと言ってよいほど暗誦させられる有名な一節でした。

    「騎兵旅団突撃の歌」はクリミア戦争における「バラクラヴァの戦い」を描写したものです。この戦争で生じた軽騎兵旅団による突撃は、勇敢ではあるものの無謀と評価されていることを、アメリカ人なら誰でも知っています。

    そのためハルゼーは「全世界は知らんと欲す」の一文を見て、全軍を率いて北上した自分の行動を、ニミッツ提督から「あまりに無謀である」と皮肉られたと感じたのです。

    ところが、この「全世界は知らんと欲す」の一文については、ニミッツ提督は実はまったく関与していませんでした。

    ハルゼーに届いた電文の原文は、こうでした。
    TURKEY TROTS TO WATER CC WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS.

    米太平洋艦隊では短い電文を伝達する場合は、本文の前後に意味のない一文を入れることが規則で定められていました。敵が解読するのを妨げるためです。

    この作業にニミッツは関わっていません。ニミッツが指示するのは本文のみです。前後に挿入する文は、文章を暗号化する過程で通信士が行います。

    この場合、本文の前にある “TURKEY TROTS TO WATER”(七面鳥が水辺のほうに歩いている)と 本文の後ろにある “THE WORLD WONDERS”(全世界は知らんと欲す)が、意味のない一文です。

    通信士はただパッとひらめいたままに “THE WORLD WONDERS”の一文を挿入したに過ぎません。しかし、これが大きな波紋を呼ぶことになります。

    さらにハルゼーの部隊の通信士にも間違いがありました。通常であれば通信士は暗号を解読して平文に直す過程で、前後の意味のない文は削り、本文のみを司令部に届けます。

    しかし、通信士は “THE WORLD WONDERS”の一文にも意味があると勘違いし、そのまま削ることなくハルゼーに届けてしまったのです。

    そうとは知らずにハルゼーは、上官であるニミッツ提督にきつく叱られたと思い込み、悔し涙に暮れました。

    ただし、本文の「第34任務部隊は何処にありや、何処にありや」の一文にしても異例のことであったことはたしかです。

    日本海軍とは異なり、米海軍では海上にいる指揮官に対して、陸上にある海軍本部からあれこれと細かい指示をしてはいけない習わしになっていたからです。

    当時は通信環境が今とは異なるため、現場で指揮をとる指揮官の判断に任せた方がよいと考えられていました。そのため、海上の指揮官に対して指示を与えるような言動は避けるのが一般的でした。

    それでも今、レイテ湾で起きている事態はあまりに異常でした。キンケイドの支援要請に対して本腰で応じようとしないハルゼーの行動に対して、戦況の行方を固唾(かたず)を呑んで見守っている米海軍本部でも批判の声が上がっていました。

    海軍本部としても黙って見過ごすわけにもいかず、とりあえず指示とは受け取られない程度に「第34任務部隊は何処にありや」と状況を確認する電文を打ったのです。

    ニミッツとしても、まさか「全世界は知らんと欲す」と自分の与(あずか)り知らないところで挿入された一文が、第二次世界大戦を通してもっとも有名なエピソードのひとつとして後世に語り継がれることになろうとは、予期していないことでした。

    しかし、この一文は、自らの手で日本に残った最後の機動艦隊を壊滅させようと意気込んでいたハルゼーの決意を変えさせることになります。

    - ハルゼー、涙の反転 -

    私室に籠もってから1時間後、ハルゼーは司令部に戻ると、艦隊に反転を命じました。そのときのことをハルゼーは「わが16インチ砲の砲口から正味42マイル」のところに小沢艦隊がいたのだと、悔しげに語っています。

    あと2時間もすれば追いつき、小沢艦隊を完膚なきまでに叩きのめすことができたのです。

    私室に籠もった1時間は、ハルゼー率いる艦隊による砲撃戦によって日本最後の機動艦隊を葬り去るという、世界の海軍史に永久にその名を残す栄誉に浴する瞬間をあきらめるために必要な時間だったのでしょう。

    「士官候補生時代から夢見てきた生涯のチャンスに背を向けたのだ」とハルゼーは語っています。渇望していた栄光は、ハルゼーの手からこぼれ落ちました。

    ハルゼーとしてはニミッツ提督の不興を買ったと思い込んでいただけに、やむを得ない決断でしたが、このときのことをハルゼーは生涯にわたって後悔し続けました。

    結果的にハルゼーの南下は、無駄に終わったからです。レイテ湾からかなり離れているだけに、ここで戻ったからといって栗田艦隊のレイテ湾突入を阻止できる見込みは、はなからありません。

    ハルゼー機動艦隊がレイテ湾に到着するのは、早くても翌朝の8時を大きく過ぎると見られていました。それでは栗田艦隊との決戦に間に合いません。レイテ湾近くまで栗田艦隊の侵入を許してしまったハルゼーにできることは、もはやなにもなかったのです。

    小沢艦隊に最後の引導を渡すことをあきらめ、どうせ間に合う見込みのない任務のために急いで南下する愚かさに、ハルゼーは耐えられませんでした。

    「圧力に屈して南下を令したことは、レイテ戦において私が犯した最大の誤りだった」とハルゼーは語っています。

    小沢艦隊に吊られて全軍で北上したことよりも、このときの南下こそが最大の誤りだったと言い切っていることに、ハルゼーの意地がにじみ出ています。

    ともあれハルゼーの突然の南下によって、小沢艦隊が救われたことは事実です。ニミッツ提督からの電文が入らなければ、ハルゼーは確実に小沢艦隊を射程距離内に捉え、全滅させていたであろうことは疑う余地がありません。

    小沢艦隊にはハルゼー機動艦隊の攻撃を避ける術など、なにひとつありませんでした。

    とはいえ、ハルゼーは全軍を率いて南下したわけではありません。ハルゼーが率いて南下したのは、戦艦4隻と1個空母群です。小沢艦隊の追撃を続けるために、戦艦2隻と2個空母群は残しています。

    このあと行われた空襲によって小沢艦隊は空母瑞鶴・瑞鳳・千代田を撃沈され、4隻すべての空母を失うことになりました。他に軽巡多摩、駆逐艦秋月と初月を喪失しています。

    空母「瑞鶴」
    空母「瑞鶴」の軍艦旗降下に敬礼する乗組員たち、このあと総員退去が行われ、瑞鶴は海中に没した
    レイテ沖海戦:wikipedia より引用

    それでも全滅を免れないと見られていた小沢艦隊が、小沢長官以下10隻を率いて帰投を果たせたのは、ハルゼーの南下のお陰であることは論を俟(ま)ちません。

    ハルゼーの南下は日本の将兵の多くの生還につながったのです。

    その6.「我、特攻に成功せり」、神風特攻隊出撃

    - 神風特攻隊はなぜ誕生したのか -

    reite rekisi 3 #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」
    昭和19年10月下旬、ルソン島マバラカット飛行場にて。右端が敷島対指揮官関行男大尉。
    レイテ沖海戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 9)』(学研プラス)より引用

    栗田艦隊が護衛空母群であるタフィ3撃滅まであと一歩に迫りながら、突然攻撃を中止して反転を遂げた直後の10時45分、虎口を脱したと一息ついたタフィ3に襲いかかる一群がありました。

    関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊敷島隊です。敷島隊の爆装5機は護衛戦闘機4機に見守られながら、タフィ3の空母群に向かって敢然と体当たり攻撃を行いました。ちなみに「神風」の正式な読み方は「かみかぜ」ではなく「じんぷう」です。

    関行男
    関行男:wikipedia より引用
    【 人物紹介 – 関行男(せき ゆきお) 】1921(大正10)年 – 1944(昭和19)年
    昭和期の軍人。最終階級は海軍中佐。霞ケ浦航空隊付教官を経て、昭和19年5月に結婚式を執り行った後、台南海軍航空隊の教官に着任。フィリピン201空分隊長(戦闘301飛行隊長)となる。大西滝治郎第1航空艦隊司令長官の決断によって神風特攻隊が編成されることになると自ら隊員に志願し、敷島隊隊長となる。指名を受けた晩に父母・妻・教え子に向けて遺書をしたためる。レイテ沖海戦にて特攻攻撃を成功させ、米護衛空母セント・ローを撃沈する功を立てた。諸般の事情により「特攻第1号」とされる。死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰された。実家近くの楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立され、今も毎年10月25日には、関が敵空母に突入した午前10時に海上自衛隊徳島航空基地、あるいは小松島航空基地の航空機5機編隊が、慰霊のための編隊飛行を楢本神社上空で行なっている。靖国神社には関の遺影が祀られている。

    関大尉は神風特攻隊の第1号として、現在にまでその名を残しています。その影に「神風特攻隊ゼロ号の男」である久納中尉の存在もあります。神風特攻隊誕生の経緯や久納中尉に関する記事は、『セブ慰霊の旅(第1回)セブ事件がもたらした神風特攻隊の誕生秘話』にまとめてあります。興味がある方は、お読みください。

    久納好孚
    久納好孚:wikipedia より引用
    【 人物紹介 – 久納好孚(くのう こうふ) 】1921(大正10)年 – 1944(昭和19)年
    昭和期の軍人・最終階級は海軍少佐。法政大学卒業後、第11期飛行予備学生となる。フィリピン201空に配属されると、神風特攻隊に志願し、大和隊隊長となる。ピアノが堪能なことで知られ、出撃前夜も食堂でベートーヴェンのピアノソナタ「月光」を奏で、多くの将兵の涙を誘った。昭和19年10月21日、セブ基地から出撃直前に米機の空襲を受け、3機のみで特攻攻撃に飛び立つ。他の2機はエンジンの故障などにより帰還したが、久納機はそのまま消息を絶った。「僕は明日出撃したら絶対に戻ってこない。特攻できない時はレイテ湾へ行く」と周囲に語っていたこともあり、連合艦隊司令部では久納の死を「特攻戦死」として全軍布告した。そのため、久納こそが「初めての特攻機」とする関係者も多い。関大尉が「特攻第1号」とされることから、久納は「特攻ゼロ号の男」と呼ばれている。

    神風特攻隊が編制されたのは、栗田艦隊のレイテ湾突入を助けるためでした。レイテ沖海戦の始まる直前、マバラカット飛行場にあった第一航空艦隊の可動機数は、わずか30機に止まっています。

    新たに第一航空艦隊司令長官に任命された大西瀧治郎中将は、隊に残された30機のみで栗田艦隊のレイテ湾突入を支援しなければなりませんでした。

    当然ながら、わずか30機で通常攻撃を行ったところで戦果が上がるはずもありません。苦慮の末に大西長官は、以前から海軍内でささやかれていた体当たり攻撃を実行するよりないと決断します。

    この決断の背景については、大西長官が搭乗員を前に語ったとされる言葉を引用するのが、もっとも適確と思われます。少々長くなりますが、以下に引用します。

    「栗田艦隊のレイテ突入を、是が非でも成功させてやらねばならぬ。そのためには、この比
    島周辺に出没する敵の機動部隊、わけても敵空母を叩き潰すよりほかにないのだ。

    そうしなければ、世界に誇るわが大戦艦群は、レイテに近づく前に、これら機動部隊の艦
    上から飛び立つ敵機のために全滅してしまうことは明白だ。ではどうしたらよいのか。

    策は一つ、わが陸上基地にある航空隊が、敵の空母を叩いて、無事に栗田艦隊をレイテ湾
    内に送り込めば形勢は逆転するというのが大本営の企図である。

    うまく湾内に侵入した『大和』『武蔵』などの、世界最大の巨砲が、比島の一角に蝟集(いしゅう=一か所に群がり集まること)する敵の水上艦艇を蹂躙(じゅうりん)し、さらに上陸したばかりの敵に艦砲射撃の雨を降らせる。

    敵空母から飛行機が飛び出しさえしなければ、七つの海を圧してその威容をほこる『大和」『武蔵」の世界最大の巨砲が、レイテ湾内に火を吐き、ここ比島の一角にむらがる敵水上艦艇を、徹底的に粉砕してしまうであろう」

    (略)

    「現在日本には、もはや敵と太刀打ちできるほどの新鋭空母はなくなってしまった。したが
    ってこの捷号作戦に成功しなければ、それこそ由々しい大事になる」

    (略)

    「敵飛行甲板に、最小限、一週間以上使用不可能の打撃をあたえる。さすれば栗田艦隊は予定どおり突入してゆけるに違いない。ギリギリの問題は、この敵側空母を一週間以上、使用不可能にしてやることに絞られる。そのためには……」

    長官はちょっと言葉を切って、改めてみんなの顔を見回した。

    「その成功のためには、今までのように零戦に六十キロ爆弾を積んで空から攻撃させていた
    のでは間にあわない。これに二百五十キロ爆弾を抱かせて、体当たりをやるほかに確実な攻
    撃法はないとワシは考えたのだが、みなはどうだ。お国のために了解してもらえるか」

    その言葉の語尾はやさしい音色になったが、眼光は畑々と光を放って、みんなの面にそそ
    がれていた。
    みんなはハツとして全身を固くした。

    激闘レイテ沖海戦―提督ブル・ハルゼーと栗田健男』江戸雄介著(光人社)より引用(カッコ内は筆者注)

    一機一艦への体当たり攻撃の意味するものは、搭乗員は方向を定めるだけの人間爆弾になれ、ということです。

    このような生還の望みがまったくない攻撃は、いくら交戦中とはいえ人道的に許されるものではありません。しかし、劣勢に追い込まれた日本軍には、もはや捨て身の攻撃以外の方途がない状況でした。

    自らの死をもって他を生かそうとする精神は、すでに南方の島々で行われた斬り込み隊やバンザイ突撃などの玉砕に表れています。航空部隊にも、いよいよそうした理念が当てはめられる段階に至ったといえるでしょう。

    レイテ沖海戦に参戦した4つの海上部隊にしても、口には出さないまでも生還の望みが薄い特攻攻撃であることは明らかです。

    大西長官の悲壮な決意に、関行男大尉以下の隊員24名は自ら進んで特攻隊に志願しています。史上はじめてとなる神風特攻隊が結成されたのは、レイテ沖海戦直前にあたる10月20日のことでした。

    彼らは敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名された4隊に分かれ、栗田艦隊のレイテ湾進入を阻もうと出てきた米機動艦隊に対し、必殺の突撃を行う任務を負ったのです。「必殺」とはいかないまでも、少なくとも一週間程度は艦上機が離発着できないだけの損害を与えることが使命でした。

    - 大戦果はなにをもたらしたのか -

    reite rekisi 7 #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」
    特攻機の襲来を脅えながら見上げる米兵
    レイテ沖海戦 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol. 9)』(学研プラス)より引用

    神風特攻隊は栗田艦隊がレイテ湾に近づく前から、幾度も基地を飛び立っています。22日、23日、24日と敵艦への突撃を果たすために飛び立ったものの、悪天候と厚い雲に阻まれ、ついに敵艦隊を発見できないまま空しく戻ることを繰り返しました。

    その間も栗田艦隊がシブヤン海で米機動艦隊の艦上機に襲われ、戦艦武蔵が撃沈するなどの大きな被害を受けていることが伝えられ、神風特攻隊としても早く敵空母に突撃せねばといった空気が生まれていました。

    その機会がようやくめぐってきたのは25日です。朝日・山桜・菊水の3隊は6時30分にダバオを発進しましたが、そのなかの菊水隊が 7時40分に護衛空母群のなかで最も南に位置していたタフィ1を発見し、攻撃を行っています。

    そのとき、タフィ1は栗田艦隊に襲われたタフィ3を援護するために艦上機を発進させようと準備を行っていました。そのためレーダーには多数の友軍機の機影が映っており、来襲した4機のゼロ戦に気づくのが遅れました。

    一機目のゼロ戦は上空 2,500mから護衛空母サンティを目がけて急降下し、飛行甲板を貫通して大炎上。42m²の大穴を飛行甲板に開け、艦上機の発着を不可能にする殊勲を立てています。

    2機目と3機目のゼロ戦は対空砲火で撃墜されたものの、4機目は護衛空母スワニーの後部エレベーター付近に突き刺さり、爆弾が炸裂しました。

    菊水隊は2隻の護衛空母に損傷を与える戦果を上げましたが、連合艦隊司令部への報告が遅れたため、特攻第1号の栄誉は関大尉率いる敷島隊のものとされました。朝日隊と山桜隊は敵を発見できないまま帰還しています。

    7時25分、マバラカット飛行場を後にした敷島隊は 10時50分に空母群を発見します。この空母群こそは、栗田艦隊の追撃を逃れたばかりのタフィ3です。敷島隊の爆装ゼロ戦5機は、空母群目がけて突撃しました。

    一機目が突っ込んだのは護衛空母キトカンベイです。タフィ3はあわてて対空砲火を浴びせますが、ゼロ戦は砲火をくぐって急上昇を遂げると翼を翻し、機銃掃射を撃ちながらキトカンベイの艦橋に激突しました。ゼロ戦は勢い余って海上に滑り落ちたものの、突入の際に炸裂した爆弾によってキトカンベイは炎上しました。

    護衛空母ホワイト・プレインズを狙った二機のうちの一機は、目標を変えて護衛空母セント・ローの飛行甲板中央に突入。セント・ローは魚雷と爆弾の誘爆を起こし、11時25分に沈没しています。セント・ローを沈めたゼロ戦こそは、関行男大尉の操縦していたゼロ戦でした。

    500px St. Lo First Kamikaze attack sl1a #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」
    関大尉を乗せたゼロ戦による突入により轟沈しつつあるアメリカ護衛空母セント・ロー
    レイテ沖海戦:wikipedia より引用

    さらに二機は護衛空母カリニンベイに突っ込み、大破に成功しています。

    直後の11時10分、第二波となる神風特攻隊がタフィ3に襲いかかりました。9時に出撃した大和隊と見られていますが、詳細は不明です。

    一機は護衛空母キトカンベイに若干の損傷を与えましたが、護衛空母ファンシーショーベイに向かった二機は撃墜されています。タフィ3の空母群のなかで無傷だったのは、このファンシーショーベイのみでした。

    大西長官は敷島隊の護衛機からの報告を受け、このときの戦果を次のように発表しています。
    「神風特別攻撃隊敷島隊は、十時四十五分、スルアン島の北東三十カイリにて、空母四を基幹とする敵機動部隊に対し奇襲に成功、空母一に二機命中、撃沈確実、空母一に一機命中、大火災、巡洋艦一隻命中轟沈」

    神風特攻隊の上げた戦果に、連合艦隊司令部は沸き返りました。

    結局のところ、敷島隊の特攻機5機のみでキトカンベイ・ホワイトプレインズ・カリニンベイの3隻の護衛空母に損傷を与え、護衛空母セント・ローを撃沈する戦果を上げたことになります。

    これまで日本の航空兵力があげた戦果と比べても、傑出した大戦果でした。

    福留繁長官が率いる第二航空艦隊 350機の大兵力がフィリピン・ルソン島のクラーク飛行場群に進出してきたのは 10月23日です。

    それ以来、第二航空艦隊は連日米機動艦隊を求めて出撃を繰り返していますが、軽空母プリンストンを沈めた以外の戦果はほとんど上がっていません。

    24日と25日の両日にわたって行われた航空攻撃において、第二航空艦隊は延べ 250機を飛ばしましたが、巡洋艦2隻と駆逐艦3隻に損害を与えるに止まっています。

    一方、神風特攻隊は敷島隊の5機のみで空母1隻撃沈、3隻大破、巡洋艦1隻撃沈、菊水隊の4機で空母2隻に損傷を与える大戦果を上げたことになります。

    reite rekisi 10 #112 サマール沖海戦「そんなはずはない、そんなはずはない!」
    神風特別攻撃隊敷島隊。左、関行男大尉、右、上段左より谷暢夫一飛曹、中野磐雄一飛曹、右下段左より大黒繁男上飛曹、永峰飛曹長
    正説レイテ沖の栗田艦隊』大岡次郎著(新風書房)より引用

    このため日本海軍は、通常攻撃では数百機で攻撃しても戦果はわずかに過ぎないものの、特攻攻撃ではわずか数機で敵空母を沈めるほどの効果があると結論づけました。

    ただし、この時点で海軍は重大なことを誤認しています。神風特攻隊が撃沈したり大破したのは護衛空母に過ぎない、という事実です。先にも記したように、日本軍は戦後になるまで相手が護衛空母だったことには気がつかず、正式空母だとばかり思い込んでいたのです。

    この誤認が神風特攻隊に対する過大な期待を生じさせる原因となりました。航空機の数が少なく、もはや藁にもすがりたい日本軍にとって、神風特攻隊はまさに一発逆転への布石でした。

    本来、神風特攻隊は栗田艦隊のレイテ湾突入を支援するためだけに行われる緊急措置と位置づけられていました。

    ところが敷島隊の上げた戦果は、第二、第三の神風特攻隊を呼び込み、やがては全軍特攻が企画されるに至ります。

    レイテ沖海戦に端を発する神風特攻隊は、その後も幾度も編成されては出撃を繰り返し、祖国を思う多くの若者を死地へと追いやることになります。

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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