第3回 オルモックの激戦地を訪ねて
前回はリモン峠周辺の慰霊碑をめぐりました。最終回となる今回は再びオルモックへと引き返し、立石大隊が任務を完璧に果たして全滅を遂げたコンクリートハウスから始めます。
8.コンクリートハウス
次に向かったのは有名なコンクリートハウスです。原爆ドームを思わせる廃墟と化したコンクリートハウスは、現在も稼働している工場の一角にたたずんでいます。
コンクリートハウスの三階建て部分は、特に砲弾による損壊の跡が激しい。風化がかなり進んでおり、この先も往時のままの姿を保つことは難しくなりつつある。
このコンクリートハウスは、およそ75年前の日米両軍の死闘の跡をその当時となんら変わることなく今に伝えています。土地を所有するフィリピンの方の全面的な好意によるものですが、なんの資産価値もない朽ち果てた建物が現代でも残されていることは、奇跡といってよいでしょう。
コンクリートハウスの壁が崩れ、所々に大きな穴が空いているのは、米軍による激しい砲撃の跡です。かつてここには、第26師団に所属する今堀支隊の第三大隊がたてこもっていました。立石利曽一少佐を隊長とする250名の兵です。
オルモックへの米軍の上陸は、日本軍の想定していないことでした。奇襲を受けた日本軍は総兵数においても装備においても米軍の敵ではなく、後退するよりありませんでした。
後退を続ける日本軍を追って北上する米軍の前に、果敢に立ちはだかったのが第26師団の残存兵たちです。司令部以下の日本軍が無事に後方退却できるように、米軍を少しでも足止めすることが第26師団に課された任務でした。
オルモックには波止場の倉庫以外はコンクリートの邸宅が少なく、市街地では地元選出の国会議員の邸宅があるのみです。石造二階建てで一部が三階建てになっているこの邸宅を日本軍は補強し、オルモック防衛の本拠としました。
それが、コンクリートハウスです。
コンクリートハウスの横からの全景。当時はこの周囲に壕が張り巡らされていた。
コンクリートハウスにたてこもった立石大隊を中心に、寄せ集めの兵を併せて1200人ほどの日本兵がアンティラオ河原を制圧し、米軍の進出を阻止すべく陣を張りました。そのなかには、勇名を馳せた高千穂降下隊150人も含まれています。
ちなみに日本軍が主に使っていた銃が日露戦争の頃に作られた三八式銃であったことは先に紹介しましたが、それは日本の技術力が低かったために、優れた銃の開発ができなかったからではありません。
たとえば高千穂隊の持つ最新式の自動小銃である 8ミリ100式改短機関銃は、米軍のいかなる銃よりも優れ、1分間に900発という驚異的な破壊力を誇りました。米軍は高千穂隊の自動小銃を見ると、一目散に逃げ出したと言われています。
優れた兵器を作り出す技術力はあっても、悲しいことに日本にはそれを大量生産できるだけの経済力と工業力がなかったのです。
12月13日、米軍は日中から夜にかけ、日本軍の陣地を砲撃し続けました。あまりにも激しい砲撃に日本軍は次々と撃破され、コンクリートハウスの周辺の部隊だけが、かろうじて持ちこたえていました。
コンクリートハウスの損壊は、この13日の砲撃によるものです。これほど凄まじい砲撃を受けても、なお建物の中では立石大隊の砲兵が息を潜めて、米軍が近づくのをじっと待っていたのです。
支援砲火を受けた米軍が十分に接近してくると、日本兵は一斉に反撃を開始しました。コンクリートハウスの200メートル四方に5メートル間隔で掘られた壕からも、射撃が繰り返されます。
この壕は現在は埋められ、跡形もありません。
立石大隊と米軍のコンクリートハウスをめぐる戦いは、オルモック周辺での最大の激戦といわれています。
米軍がコンクリートハウス周辺に襲いかかると、日本兵は銃剣で対抗し、至るところで白兵戦が繰り広げられました。米軍はブルドーザーで日本軍の壕をひとつひとつ潰していく作戦をとり、日本兵は生き埋めにされたり、露出した壕に手榴弾を投げ込まれて絶命しました。
14日の12時40分、コンクリートハウスの残骸はついに米軍の占領するところとなりました。
その夜、米軍が占領するコンクリートハウスに日本兵の斬り込み隊が2回、襲いかかっています。おそらくは立石大隊の残存兵だと思われます。
米軍を足止めする任務を見事に果たし、立石大隊を中心とする日本軍は全滅して果てたのです。
フィリピン人労働者が足繁く行き交う工場の一角に、そこだけ時が止まったまま佇むコンクリートハウスは、あたかも「戦争と平和」の象徴であるように感じられました。
9.その後のレイテの戦い
レイテの戦いの、その後について簡単に紹介しておきます。
オルモックを米軍に奪われ、苦境に陥った日本軍を救うために、フィリピンの戦い全体を統轄する第14方面軍の山下司令官は、カリガラ湾に新たに二個大隊を上陸させる決定を下しました。
ところがこの決定はすぐに取り消されます。レイテ湾を出発した米軍が、ミンドロ島のサンセホに上陸したためです。これにより、米軍の大規模な輸送船団が、すぐにもルソン島上陸をうかがう情勢となり、軍上層部の軸足はルソン島の防衛へと移ったのです。
それは事実上、レイテの戦いが終焉を迎えたことを意味していました。もっと直接的な物言いをするならば、レイテは見捨てられたのです。
そうしてレイテ島に残存する日本兵たちに下った命令が、冒頭で紹介した「自戦自活永久抗戦」です。
12月24日、山下司令官はレイテの戦いを指揮した35軍司令官である鈴木中将に「第三十五軍ニ与ウル訓示」を送っています。
「軍需の補給意に任せず「レイテ」島幾万の将兵に対し万斛(ばんこく=計り知れないほど多い分量)の涙あるのみ(二字欠)更に至難なる新任務を課す、本職の心境を賢察せよ、夫(そ)れ死は易く生は難し、将兵良く隱忍持久、生の難きに耐えかちて永久抗戦し、悠久皇運を扶翼し奉り、従容(しょうよう)として皇国の人柱たれ、右訓示す」
「死は易く生は難し」の文言に、山下司令官の万感の思いが込められています。
思えば山下は、フィリピンでの決戦の場をレイテとすることに終始反対していました。本来はルソン島で米軍と決戦する手はずになっていたものを、大本営の命令により急きょ有無を言わさずにレイテ決戦を強いられたのです。
山下にしてみれば、制空権も制海権ももたない日本軍がマニラからレイテへと部隊を動かすとなれば、その輸送途上を米軍に狙われるのは自明の理でした。
そして事態は山下の危惧した通りに進みました。かろうじて生きてレイテの土を踏んだ日本兵のほとんどが満足な武器弾薬も与えられず、食料の補給も閉ざされたまま、レイテの土へと還っていったのです。
ことに第26師団の上陸は悲惨でした。真っ先に上陸した第1師団は、幸運にもほとんど損害を受けずに揚陸しています(その時点ではまだわずかな航空戦力が残っていたため)が、26師団を含め、それ以降の日本軍は海中から米潜水艦による魚雷攻撃と空から米航空機による爆撃を受け、輸送船の多くを沈められています。
まともな護衛艦をつけることもできず、航空機による援護も行えない状況下では、米軍による輸送船攻撃を防ぐ手立てがなかったのです。
第26師団がオルモックに上陸した際も、運んできた武器弾薬と食料のほとんどが海中に没しました。兵たちに残されたのは一週間分の食料と三八式の銃、そして一人当たり百数十発の弾薬だけです。その程度の弾薬では実際に戦闘が始まれば、すぐに尽きてしまいます。
そうなるともはや銃剣による白兵戦で戦うしか術がありません。限界を知らない米軍の圧倒的な火力を前に、日本軍は極めて貧相な武装で戦い抜いたのです。まさに、肉弾を武器にせざるを得ない悲壮な戦いでした。
山下はその後ルソンの戦いを指揮し、安易に玉砕することなく、ついに終戦の日まで米軍を釘付けにする死闘を繰り広げました。山下もまた、「死は易く生は難し」を実践してみせたのです。
終戦後、山下はフィリピン人捕虜を虐待した罪により戦犯とされ、絞首刑に処せられています。それはあたかも、シンガポールを陥落させた英雄として「マレーの虎(wiki)」と賞賛された山下への屈辱を晴らす米英による報復であるかのようでした。
一方、山下にレイテ決戦を命じた南方総軍司令官の寺内元帥は、レイテの戦いが不利と見るや、マニラにあった司令部を安全なサイゴンへと移し、さっさとフィリピンを離れています。
総軍司令官である寺内は、米軍でいえばマッカーサーに匹敵します。前線で指揮をとったマッカーサーと、戦線からいち早く脱出を図った寺内とを比べれば、その姿勢の違いは明らかです。
日本軍の兵士は優秀でしたが、指揮官に目を移せば玉石混交の感を拭えません。
そもそも決戦の場をレイテではなく、山下が主張したようにルソンにしておけば、これほど多くの兵の命が失われることもなかったことでしょう。
レイテに限らず、実戦を知ることなく机上の知識だけを詰め込んだエリート将校たちの立てた無謀な作戦が、多くの日本兵を死地に追いやったことは否定できません。
ことに軍事の基本である、前線に武器弾薬や食糧を補給する兵站(へいたん)を大本営が軽視したことこそが、戦死者を餓死・病死者が上回るという悲劇を招いた元凶です。
10.岐阜県の平和之碑
クルマは今回予定している最後の慰霊碑があるカロータ・ヒルに向かいました。車中で石田さんは、静かに語りかけます。
「人は生まれる時代を選ぶことができません。どの時代に生を受けるか、くじを引くようなものです。レイテで死んでいった日本兵たちは、悪いくじを引いてしまったのでしょうね。戦争のない時代に生まれた私たちは、運が良かったんですよ。もし、あの時代に生まれていたのであれば、私たちも戦場に送られるよりなかったのですから……。」
当時と今では価値観が大いに異なります。しかし、レイテで死んでいった日本兵たちと今の私たちといったい何が違うのかと思いを馳せるならば、決定的な違いは「時代」以外に求めることはできないように思えます。
たしかに、あの時代に私たちが生まれていたならば、日本兵の一人として南方の島のどこかに送られたことは間違いありません。たとえ私たちがどれだけ平和を求めたところで、兵士一人ひとりの思惑などなんの力もなく、国家の意思のままに時代に翻弄されるよりなかったことでしょう。
その先に待っていたのは、突撃による死であったのか、あるいは密林の中をさまよった果ての餓死であったのか、病死であったのか、それとも自決であったのか……。
もう少し生まれる時代が早ければ、レイテ島で死んでいったのは私たち自身であったのかもしれません。
そのとき、私たちは何を思って息絶えたのでしょうか。
おそらくは死ぬために戦う兵士など、一人もいなかったことでしょう。誰もが家族のもとへ帰還することを願い、生きるために必死に戦ったに違いありません。
しかし、戦死・餓死・病死・自決など死に様はさまざまであったとしても、結果的に日本軍の多くは全滅して果てたのです。
そんなことを思っているうちに、クルマは慰霊の旅とは場違いな高級ビレッジのゲートに到着しました。ビレッジのなかは、見るからに高級そうな豪邸が並びます。フィリピンの有力政治家や有名な俳優・女優の邸宅があるとのことです。
そんな高級ビレッジの一角を岐阜県が買い取り、豪邸の代わりに「平和の碑」と題する巨大な慰霊碑を建立しています。
オルモック市街を見下ろせる眺望は一見の価値あり。中央の窪みにマリア像が安置されている。
小高い丘にある高級ビレッジだけに、オルモック市街を一望の下に見渡せる眺望には素晴らしいものがあります。
オルモックに上陸した米軍と戦った第26師団の独立歩兵第12連隊は岐阜県で編成された部隊でした。その関係で岐阜県慰霊碑建立奉賛会によって、戦場となったオルモック市街を見渡せる場所に建立されたのが、この「平和の碑」です。
碑の内部にはマリア像が安置されており、日本兵ばかりでなく、戦争の犠牲になったフィリピン人の方々に向けた慰霊碑でもあることが、説明文として刻まれています。
レイテの戦いを含め、フィリピンを戦場にした戦いの果てに犠牲となったのは日本兵や米兵ばかりではありません。現地で生活を営むフィリピン人も戦争の巻き添えとなり、フィリピン全土で100万人が亡くなったと言われています。
そのあたりの実状は、次回の「セブ島慰霊の旅」にて紹介する予定です。
今回のレイテの慰霊碑をめぐる旅の締めくくりとして、石田さんの唱える般若心経が静かに響きます。その読経の声はカロータ・ヒルの丘からオルモック市街すべてを、優しく包み込むように感じられました。

レイテ慰霊の旅を終えて。左からセスナ機パイロットの櫻井哲也氏・ガイドと慰霊を行っていただいた石田武司氏・「マナビジン」代表の斉藤淳氏。
11.レイテの雨
すべての慰霊を終え、クルマに戻った瞬間、突然激しい雨が降ってきました。まるで私たちの慰霊が終わる時を待っていてくれたかのような絶妙のタイミングです。
そういえば脊梁山脈の東側の密林は年間を通じて雨が多く、オルモックやカンギポットが晴れていても、雨が木々の梢を鳴らしたそうです。
泥にぬかるんだ密林のなかを、重い足取りでさまよう日本兵の胸中に去来したのは、望郷への絶ちがたき思いであったことでしょう。
すでに銃は捨て去り、飯ごうだけを抱えて何か口に入れられる物を探して幽鬼のごとくさまよっていたにもかかわらず、それでも日本兵には降伏して米軍の捕虜となる選択は許されていませんでした。
当時の日本兵を呪縛したのは、1941(昭和16)年1月に東条英機陸相が全陸軍に通達した「戦陣訓」です。
そこには「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」という有名な文言が記されています。
つまり、生きて捕虜となるよりも潔く死んで果てよ、という意味です。
戦争は究極的には人と人との殺し合いですが、国際法や国際条例により、捕虜を保護する義務が交戦国には課されています。生きて本国に帰還するうえでもっとも有効な方法は、降伏をして武装放棄し、交戦国の捕虜となることでした。
実際のところ、レイテの戦いから日本に帰還を果たした数少ない生存兵のなかには、米軍の捕虜となった兵たちが数多く含まれています。ただし、自主的に捕虜となる道を選んだ日本兵は、ごくわずかです。
捕虜の身となった大半は、もはや戦うことも自決する力もなく倒れていたところを米軍に救出され、収容されて捕虜となったに過ぎません。
そのことは米英の兵とは、あまりにも対照的でした。アメリカやイギリスでは一兵卒に至るまで、降伏して捕虜となれば保護されることを熟知していました。国家が説明責任を果たしていたからです。
そのため米英の軍は全滅する前に降伏するのが常でした。たとえば 1942(昭和17)年の4月に日本軍がバターン半島を占領した際、米比軍は早々に降伏し、実に7万6000人もの捕虜が出ました。日本軍の予想を大きく上回る捕虜の数に食糧の配給もままならず、やむなく食料があるところまで捕虜を強制的に移動させるよりなく、その過程で起きたのが「バターン死の行進(wiki)」です。
7万6000人が自主的に捕虜となった米軍と、捕虜となることを拒絶し、レイテにて8万を超える死者を出した日本軍との違いは明らかです。
「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓は単なる訓話に過ぎず、法律のような強制力はありません。戦陣訓の内容そのものをよく知らなかったとの元日本兵の方々の証言も、多く寄せられています。
それでも日本兵のことごとくが結果的に戦陣訓の教えを踏襲したのは、当時の日本に捕虜となることを「恥」とする空気が醸成されていたためです。
潔く戦死を遂げれば「英雄」、いかなる理由にせよ捕虜となれば「非国民」呼ばわりされるのが、当時の空気感でした。
「非国民」は今日では耳慣れない言葉ですが、「国民に非ざる振る舞いをする」人物の意味をもつ蔑称(べっしょう)です。
そのため、意に反して米軍の捕虜となった日本の将兵は、その大半が実名を明かしませんでした。実名が本国に伝わると郷土において「非国民」と蔑(さげす)まれ、非国民を出した家として家族が迫害にあうことが多かったためです。
一度、「非国民を出した家」の烙印を押されると、郷土においては日常生活を営めないほどの差別や嫌がらせを受けることも珍しくありませんでした。
「生きて虜囚」となることを「恥」と捉える文化は、明治以降、無理に無理を重ねて富国強兵に国家の興亡を賭けてきた日本の歴史によって育まれてきたものいえるでしょう。
そのことは日本軍の強さに結びついています。米軍のように圧倒的な物量をもって押しつぶすのではなく、戦力的に比較して劣っているにもかかわらず、日本軍が各地で連戦連勝を重ねられたのは、常に背水の陣で戦ったからこそです。
敗れても捕虜となればよいと考えている軍と、敗れたら死ぬしかないと覚悟を決めている軍のどちらの士気が高いのかと言えば、答えは明らかです。
その一方で、いかなる状況でも降伏を許さないという理不尽な要求は、日本兵に死ぬまで米兵と戦うことを義務づけました。出征時、華々しく郷土から送り出された日本兵には、それ以外の選択肢がなかったのです。
帰郷を夢見た日本兵が、郷土に残してきた家族を守るためにこそ、レイテ島に散華しなければならなかったのだとしたら、こんなに悲しいことはありません。
雨脚はさらに激しくなり、車窓の向こうを霞がかかったようにぼやけさせます。レイテに降り注ぐ雨は、75年前に散華した日本兵の涙なのかもしれません。
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