第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
前回の記事の続きとなっています。前回の記事はこちらから。
→黄禍論と日本人差別(3/4) 世界で初めて提議した人種平等法案 なぜパリ講和会議で人種差別撤廃案は通らなかったのか
第3章.黄禍論と日本人差別
目次
3-4.日米の駆け引き
その1.オレンジ計画 ー アメリカが始めた対日戦争準備 ー
人種差別に基づく日本人移民の排斥運動と、黄禍論によりアメリカ国内で日本人を敵視・憎悪する世論が高まるにつれ、来たるべき日米開戦に向けての準備がアメリカで早くも始まっています。
1907(明治40)年から、アメリカ海軍大学スタッフによって作成が始まったのが「オレンジ計画」です。
当時のアメリカは仮想敵国に色別のコード・ネームをつけて戦略計画を作成していました。ドイツを仮想敵国にしたのがブラック計画、イギリスはレッド、フランスはゴールド、メキシコはグリーン、そして日本に対してはオレンジです。
つまり「オレンジ計画」とは、日本を仮想敵国とした対日戦争計画書のことです。国家が万が一他国と戦争になったことを考え、予め入念な準備をしておくことは当然のことと言えるでしょう。問題はドイツを仮想敵国としたブラック計画と、日本を仮想敵国としたオレンジ計画だけが、毎年のように中身を改訂しながら、その後もずっと維持されたことです。
そのことはアメリカにとって日本とドイツが、戦争になる可能性が長年にわたって極めて高い仮想敵国であったことを示しています。
オレンジ計画の内容については、エドワード・ミラー著『オレンジ計画─アメリカの対日侵攻50年戦略』(新潮社)に詳しく書かれています。
オレンジ計画に記された戦略の先見性は驚くべきものでした。対日戦争が起きた場合のシュミレーションについて書かれているのですが、あたかも予言の書を紐解くかのように、大東亜戦争で実際に起きたことが細かく記されています。
もちろんオレンジ計画を作成したのはノストラダムスではありません。あまりにも計画通りに事態が進行したため、あたかも予言の書のように映るだけです。アメリカはオレンジ計画をなぞって対日戦争を遂行し、ほぼその計画通りに日本に勝利したのです。
wikipedia:ノストラダムス より引用
ノストラダムス 1503年 – 1566年
ルネサンス期のフランスの医師・占星術師・予言者。リヨンでペストが流行した際、ペスト治療の斬新な処置と薬品の処方で名声を上げた。医学・薬学の知識に占星学を加え「星占いの医師」と呼ばれた。四行詩節を連ねた予言詩『諸世紀』は未来についての予言集とされ、現代に至るまでさまざまな伝説を生んでいる。
たとえばエドワード・ミラーの『オレンジ計画』には、次のような記述があります。
「アメリカの国富が戦争を果てしなく続けさせうることも、従順な日本人が指導者の言うがままにいつまでも戦いつづけることにも、疑問の余地はなかった。一番確信が持てなかったのは、アメリカ国民がどれだけ戦争を辛抱できるか、ということだった。一年間か、いや二年間か、しかもその戦争が目指すものは自国の存亡にかかわるような重大事ではないのだ。
(略)
問題なく長期戦支持の気運を盛り上げる事態があるとすれば、それは合衆国に対する直接の攻撃である。一九一一年マハンは、米国国民の憤激に火をつける恐れのある米本土侵略を試みるほど日本はばかではあるまいと考えた。日本にとりカリフォルニアが遠く手の届かぬ距離にあるのも問題だった。
総会議はこの見解を一九一四年まで支持している。総会議は述べている。ハワイは「本物のアメリカ領土」である。敵の上陸は、いや空襲でさえも、「米国における大きな怒りの心をかきたて……決然として戦争遂行を誓うことになろう」。この言葉はまことに予言的であった。」
『オレンジ計画─アメリカの対日侵攻50年戦略』エドワード・ミラー著(新潮社)より引用
オレンジ計画では対日戦争は日本側の奇襲から始まり、日本軍がフィリピンやグアムをまず抑えるだろうと予測されていました。対して、アメリカは初めは劣勢に立たされるものの、経済力を活かし軍備を整えて逆襲することで勝利をつかめると結論づけています。
アメリカが心配したのは劣勢に立たされている間、アメリカの存亡に関係のない対日戦争を戦い抜くだけの気概がアメリカ国民に続くかどうかでした。近代戦争は国民の支持なくしては成り立ちません。支配層だけがいくら戦争を望んでも、国民の絶対的な支持がなければ戦争継続は望みようもないのです。
そこで、アメリカは対日戦争が長期にわたってもアメリカ国民が一丸となって戦争を継続するためには、日本によるアメリカへの直接攻撃が必要だと言っています。とはいえ、日本軍が遠いアメリカ本土を攻撃してくるとは考えられません。
そこで、最も現実的な目標としてアメリカ領土であるハワイを日本軍が襲えば、アメリカの世論は対日戦争を全面的に支持するに違いないと言っているわけです。
1914(大正3)年の時点でそこまでの計画を立てているとは驚くべきことです。他にも島から島へと逆襲し、制空権と制海権を握ることで日本の輸送船を狙い撃ちして日本本土を海上封鎖すること。沖縄を占領して、あとは日本本土への空襲を繰り返し、日本を無条件降伏に追い込むことなどがオレンジ計画に記されています。
1907年より、アメリカは日本を仮想敵国として綿密に対日戦争のシナリオを立て、そのシナリオ通りに日本をじわじわと追い詰めていったのです。
その2.ワシントン会議に見る幻想としての平和
ー 英米日の世界三大海軍による建艦競争 ー
パリ講和会議にて日本が最大の悲願とした人種平等の理念は否定されたものの、ドイツが中国の山東省にもっていた権益と、赤道以北にドイツが領有していた島の権益は日本が受け継ぐことになりました。第一次世界大戦は結果的に、日本の領土を広げることになったのです。
日本の拡張に危機感を募らせたのはアメリカです。この頃のアメリカはイギリスに代わり、世界一の富強国にのし上がっていました。太平洋を挟んで日米に対立が生まれるのは、人種戦争という要素がまったくなかったとしても、地理的な条件ゆえに必然であったともいえるでしょう。
日露戦争以後、アメリカは日本を敵とみなし「世界の何国にも劣らざる」海軍を目指して軍備増強を急ぎました。1916(大正5)年には150隻以上の建艦を進める三カ年計画を決定しています。
アメリカの軍備増強は日本にとっての脅威でした。日本もアメリカに対抗すべく建艦計画を推し進め、1920(大正9)年には戦艦8隻・巡洋艦8隻を基幹とする八八艦隊計画を立てています。
日米による海軍拡張はイギリスにとっても脅威でした。こうして英米日の3大海軍国による建艦競争が繰り広げられたのです。
しかし、建艦競争は英米日ともに重い財政負担となって国家財政を直撃しました。ことにアメリカでは建艦のための重い税負担から国民の不満が高まり、軍備縮小が世論の強い要求となっていました。
建艦計画を縮小するために、英米日3カ国の交渉開始を求める決議案が議会に提出されると、『ニューヨーク・ワールド』紙による軍縮キャンペーンが展開され、広く民衆の支持を得たのです。
そこで、1921(大正10)年、ハーディング米大統領の呼びかけにより、アメリカ・日本・イギリス・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ポルトガルおよび中国の代表が集まり、軍備制限と極東問題討議のための会議がワシントンで開催されました。
wikipedia:ウォレン・ハーディング より引用
ウォレン・ハーディング 1865年 – 1923年
アメリカの政治家。第29代大統領 (在任 1921~23) 。オハイオ州の連邦上院議員として政界に入る。上院議員となった後、第一次大戦中は孤立主義を唱え、ウィルソンの平和構想に強く反対した。〈平常への復帰〉をスローガンとして大統領選に勝利。ワシントン海軍軍備制限条約を日・英・仏・伊との間に締結した。ワシントン会議を成功させたことで、国内経済をかつてないほどの繁栄へと導いた。遊説旅行中にサンフランシスコで急死。在職中に死去した6人目の大統領。
ー 海軍軍縮をめぐる背景 ー
1921年 ワシントン会議の様子
会議の冒頭でアメリカ全権ヒューズ国務長官は、建造中の主力艦と老齢艦の廃棄、並びに主力艦のトン数を海軍力の基準とし、その比率を米五・英五・日三に抑えることを提議しました。
当時の日本の軍事費は歳出の49%にも達しており、その財源は大増税と巨額の公債の発行に頼っていました。1920(大正9)年3月以降の激しい戦後恐慌に見まわれるなか、これ以上建艦競争を果てしなく続けるならば、国家財政の破滅は避けられない状況でした。
日本の財政が苦境に陥った原因として、日露戦争で勝ったにもかかわらずロシアからは賠償金がまったくとれなかったことも影響しています。
ポーツマスでの講和会議の席上で、ロシアは賠償金の支払いを拒否したからです。だからといって当時の日本には、ロシアとの戦争を続けるだけの余力はもはや残っていませんでした。賠償金をとれなかったために日露戦争での経済的負担が重くのしかかり、その後の日本経済を苦しめることになりました。
日本側は建艦の比率として対米7割を主張しましたが、英米が譲らないため、やむなく米五・英五・日三に同意しました。
加藤友三郎全権は次のように述べています。
真に国力を充実するのでなければ、いかに軍備を充実しても活用することができない。
第一次大戦でロシア・ドイツが退場した結果、日本が戦争するかもしれないのはアメリカのみであるが、かりに軍備で対抗できる力があると仮定しても、日露戦争のときのような少額の金では戦争はできない。
ではその金はどこから手に入れるかといえば、「米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当らず」。そのアメリカが敵であるとすれば、日本は自力で軍資をつくり出さねばならないが、それは不可能である。
国防は軍人の専有物ではない。建艦競争をつづけるならば、財政上の困難から日米の海軍力の差は増加する一方となるだろう。アメリカの提案は「不満足なるも Bit if この軍備制限案完成せざる場合を想像すれば、むしろ10・10・6で我慢するを結果において得策」とする。
『大系 日本の歴史〈14〉二つの大戦』江口圭一著(小学館)より引用
wikipedia:加藤友三郎 より引用
加藤友三郎 1861(文久元)年 – 1923(大正12)年
明治-大正時代の軍人・政治家。海軍大将・元帥。第21代内閣総理大臣。日露戦争では連合艦隊参謀長として日本海海戦を指揮した。ワシントン会議に首席全権として出席し、海軍軍縮条約に調印。翌年首相となり、軍縮とシベリア撤兵を成し遂げた。現職中に病没。
ー 軍縮がもたらしたもの ー
この海軍軍縮会議により英米日で海軍力に差が付いたことはたしかですが、日本にとって一概に不利であったとは言えない面があります。イギリスは世界中に植民地をもつだけに海軍を分散せざるを得ず、アメリカも太平洋と大西洋に分けて艦隊を配することになります。
ところが日本は東アジアに戦力を集中できるだけに、比率ほどの不利な取り決めではなかったと言えるでしょう。
日本国内でも平和と軍縮を求める声は強く、日本の妥協は積極的に支持されました。
日本にとって不利となったのは、主力艦の比率よりむしろ、太平洋諸島の海軍基地や要塞(ようさい)を現状のまま凍結し、新たな海軍基地の建設や既存の基地の強化を禁止することに同意したことです。
なぜならそこには例外が設けられていたからです。アメリカについてはハワイ、イギリスについてはシンガポールが、この制限の外に置かれ、自由に防備を強化できるとされたのです。
これによってハワイの真珠湾は米軍の前線基地として防備が強化され、イギリスはシンガポールを東洋最大の要塞に仕立て上げました。
そのため大東亜戦争が起きた際、日本軍は真っ先に真珠湾とシンガポールの基地を攻撃せざるを得なかったのです。
海軍軍縮会議は世界平和の名の下に行われ、日本側も経済的な事情があったとはいえ、これに同調しました。その結果、アメリカは政治力により世界一の海軍を労せずして手に入れることに成功したのです。
ー 日英同盟の廃止 ー
大東亜戦争へと至る道筋を振り返ったとき、ワシントン会議は極めて大きな分岐点であったことがわかります。なかでも日本の国益を長い間支えてきた日英同盟が廃止へと至ったことは、日本が大東亜戦争へと突き進む原因のひとつとなりました。
日英同盟の目的は第一にロシア、第二にドイツに対抗するためでした。しかし、ロシアは革命により消滅し、ドイツは第一次大戦で敗れ、その目的は達していました。そこでアメリカは、日英同盟の廃止を画策しました。
折しも1911(明治44)年に結ばれた第三次日英同盟の期限が、1921(大正10)年の7月に迫っていました。
アメリカにとって日英同盟は邪魔な存在でした。ロシアとドイツが消えた今、日英同盟が継続するのはアメリカを封じ込めるためではないかと、アメリカ側は反発しました。
また、日英同盟が継続するとなると、日本の中国進出をアメリカが阻むことが難しくなります。なぜなら日英同盟がある限り、アメリカは日本と戦争を起こすことができないからです。
この頃は軍縮による世界平和が声高に叫ばれた時代ですが、アメリカが対日戦争に備えて着々と準備を進めていたことは前述の通りです。いつか開戦となるであろう対日戦争を進める上で、日英同盟はアメリカからすれば百害あって一利なしの存在でした。
日本もイギリスも日英同盟の継続を希望していましたが、アメリカの意向を無視するわけにもいかない状況でした。
日英同盟を継続するか否かをめぐり各国からも様々な意見が飛び交いましたが、継続に賛成したオーストラリアのヒューズ首相の弁が、その後の世界のすう勢を見事に予見しています。
「私はあらゆる観念からして日本との条約を更新したほうがよいと思う。われわれ豪州は、日本の敵としてよりも、極東の大国日本の同盟国としてのほうが、極東政策により大いなる威力を揮(ふる)いうる地位に立ちうるのではないか。もし日本が西ヨーロッパの諸大国のグループから排斥されるならば、日本は孤立するに至り、日本の国民的自負はそのもっとも痛い場所において傷つけられる。
英国が日英同盟に背中を向けることは、必ずや日本を排斥することになることを注意するべきである。日英同盟を更新することは、日本に対して、英国のごとき他の文明国と結ぶ条約と不可分なある種の抑制を課すことになる。日英同盟を更新することは世界平和のため、中国のため、英国文明圏のためによいことである」
『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦著(PHP研究所)より引用
イギリス政府内では、カーゾン外相やチャーチル植民地相など同盟継続への賛成が大勢を占めました。
wikipedia:ジョージ・カーゾン より引用
ジョージ・カーゾン 1859年 – 1925年
イギリスの政治家・旅行家。少年時代から東洋の神秘に強くひかれ、アジア地域を中心に数多く旅行し、多数の著書を残す。インド総督に就任後、ベンガル分割や民族運動抑圧など帝国主義的政策を強力に遂行し、激しい反英民族運動を招いた。オックスフォード大学総長・枢密院議長などを歴任し、外務大臣となる。個人としては日本に理解を示し日英同盟の継続を主張したが、外務省内の意見に押されて事実上の破棄へと至った。
熱心な帝国主義者であり「大英帝国は神の摂理のもと、世界が目にした最も偉大な善を成す道具である。世界の歴史上においてこれより偉大な物は他に存在したことがない」と自負した。
wikipedia:ウィンストン・チャーチル より引用
ウィンストン・チャーチル 1874年 – 1965年
イギリスの政治家・軍人・作家。首相。陸軍士官学校のエリートコースを歩み、インドや南アフリカで軍人生活を送る。下院議員となり政治活動を始め、商務大臣・内相・海軍大臣を歴任。第一次大戦後に植民地相として実績を残す。1940年に首相となり、第二次大戦の戦争指導に当たった。大戦にアメリカを参戦させるため、ルーズヴェルトに対して様々な策を弄した。日米開戦の原因を作った人物として知られるが、なぜか日本では人気が高い。文筆家としても優れ、在職中にノーベル文学賞を受賞。
ところが肝心の日本は、同盟の継続を強く主張しませんでした。日英同盟に代わって日・英・米・仏の4カ国条約で太平洋の現状維持を約すことに、あっさりと同意してしまいます。
こうして 1923(大正12)年8月をもって、21年間にわたって日本外交の柱となってきた日英同盟は消滅したのです。
同盟は二国間だけで結ばれるものが最も絆が強く、多くの国が参加するほどに絆は薄まります。実際のところ、4カ国条約がその後の歴史になんらの影響も及ぼしていないことは明らかです。「我々はウィスキーを捨てて水を受取った」と嘆いた外交官の言葉は、まさにその通りでした。
イギリスの外相グレイは、日本は日英同盟を不当に利用したことは一度もなかったと讃え、「日本のような人口問題を抱へる西欧のいかなる国が、日本ほどの自制心を以てかかる機会を利用したであらうか」と、日英同盟の終焉を惜しみました。
wikipedia:エドワード・グレイ より引用
エドワード・グレイ 1862年 – 1933年
イギリスの政治家・鳥類学者。第一次大戦開戦時の外務大臣として、イギリスを参戦に導く役割を担った。眼を患っており、大戦終結時にはほぼ視力を失っていた。外相辞任後は国際連盟協会会長などを務めた。
対してハーディング米大統領は、こう言い残しています。「日英同盟終了は最大の満悦」であると……。
日英同盟という盾をなくしたことで、日本はこれ以後、次第に国際的孤立へと追い込まれていくことになります。
歴史に「if」は許されないものの、もしこのとき日本が日英同盟の継続にこだわっていたならば、あるいは大東亜戦争に至らなかったかもしれません。
人種戦争という潮流はあったものの、日英同盟は日本と白人社会をつなぐ架け橋としての役割を果たしていました。アメリカの横槍により、この橋がもろくも崩れたことで、満州事変へ向けて歴史は動き出すのです。
ー 日本の手足を縛った九ヵ国条約 ー
ワシントン会議最終日において、日本・アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・ベルギー・中国・オランダ・ポルトガルの9カ国の間で、中国に関する九ヵ国条約が結ばれました。
この条約は、アメリカがこだわっていた門戸開放・機会均等を条約化し、ある国が中国において他国を排除するような利権を有することを9カ国で相互に否定したものです。
ここでいう「ある国」が、日本を想定したものであることは明白です。ロシアとドイツが消え去り、イギリスとフランスが第一次大戦の処理に追われるなか、中国での権益を広げられる可能性がもっとも高かったのは日本です。
アメリカは日本が中国での権益を拡大させることを望みませんでした。ペルーの黒船来航以来、アメリカが狙っていたのは中国の膨大な市場です。
しかし、帝国主義に出遅れたアメリカは西欧列強とは異なり、中国に権益をもつことができませんでした。そのため、アメリカは事あるごとに中国の門戸開放と機会均等を主張してきたのです。
アメリカよりも遅れて頭角を現してきた日本が、地理の利を活かして中国での権益を次第に広げる様を、アメリカほど苦々しい思いで見つめていた国はありません。
さらにいえば、日本が中国を呑み込むことは中国の抱える膨大な人口と日本の軍事力が合体することを意味しており、それはアメリカにとって伝統的な悪夢である日中同盟による黄禍が現実になるも同然でした。
世界平和の美名のもとに九ヵ国条約によって、日本の中国での権益を抑え込むことこそがアメリカの目指したところです。その際、アメリカは各国の賛同を得るために、各国がすでに中国で獲得している権益については、なにも影響を受けないことを言明しています。
中国での権益の奪い合いを止めようというアメリカの提案は、日本にとっては複雑な意味合いをもっていました。欧米各国にとって中国での権益は、主として経済活動における国益が絡むだけですが、日本にとって中国は地理的にも近く、朝鮮や台湾を含め日本の防衛上においても、政治・経済においても、極めて大きな国益を握っています。
この温度差は、これ以後の中国大陸をめぐる日本と欧米列強との対立の溝を深めていくことになります。
中国での既得権益については承認されたものの、日本だけは例外でした。結局日本は、ドイツから引き継いだ山東省に獲得していた権益を手放すことになります。他国は一切権益を手放していないのに対して、日本だけが譲歩して権益を手放すことになったことは、日清戦争後の三国干渉を思い出させます。
それでも日本は素直に山東省を譲歩することで、満州の権益は各国に承認されたものと考えたのです。山東省は譲っても、満州だけは朝鮮半島を守る上で欠かせない要地であり、権益を手放すわけにはいきませんでした。
青島のある半島が山東省
そうした日本の思惑とは裏腹に、九ヵ国条約はその後の日本の動きを事あるごとに牽制(けんせい)することになりました。大東亜戦争後に行われた極東国際軍事裁判で、日本の国際条約違反が指摘されましたが、その条約の一つが9ヵ国条約です。
これ以降の日本の中国大陸での政策は、九ヵ国条約違反として世界中から批判されることになるのです。
ー 日本の完敗に終わった日米の決闘 ー
第一次世界大戦後と新たな世界秩序
実は九ヵ国条約にはふたつの重大な矛盾がありました。そのひとつは、中国の主権と列強の中国での権益を守ることの矛盾です。
中国からしてみれば九ヵ国条約とは現状維持を認めることに他ならず、それは中国にとって大いに国益を損なうことでした。当時の中国は明治期の日本と同様の不平等条約を列強(日本も含む)と交わしていました。さらに中国の多くの地が列強によって事実上の植民地状態におかれていました。
九ヵ国条約を結ぶと言うことは中国にとって、中国に主権がないことを認め、列強による植民地支配を認めることを意味していました。列強の権益を損なう行為を一切しないことを、中国も約束することになるからです。
そもそも、九ヵ国条約の目的は中国の主権と平和を維持することにありましたが、そのために列強の中国における権益を守ることが約されました。
ところが、列強のもつ中国に対する権益そのものが、中国の主権を奪うという大きな矛盾を抱えていたのです。
もうひとつの矛盾は、条約の前提条件にあります。この条約は、もう少しすれば中国に安定政権が生まれ、近代国家として統一されるであろうとの予測に基づいて結ばれたものです。
ワシントン会議の最中、フランス代表が「中国とはなにか」と発言しています。なぜなら当時、中国大陸には国家と呼べるような存在がなかったからです。
1911(明治44)年に起きた辛亥(しんがい)革命により清国は滅亡し、革命派は南京に臨時政府を樹立すると孫文を臨時大統領として、アジアにおいて史上初となる共和制国家・中華民国を誕生させました。
しかし、その実態はとても国家と呼べるものではありませんでした。軍事集団である軍閥(ぐんばつ)が抗争を繰り返し、各軍閥に支えられた政権が次々と北京で政権を握るなど、中国全土は大いに乱れ、事実上の無政府状態におかれていたのです。
さらにこの後、共産主義が入り込むことによって中国はますます混迷を深め、そもそも九ヵ国条約が前提とした中国という近代国家は、いつまで待っても誕生しなかったのです。
このような矛盾を抱えていたのでは、九ヵ国条約がまったく機能しなかったことにはやむを得ない面がありました。
当時は北京と広東に二つの政府がありましたが、ワシントン会議に招かれたのは北京政府だけです。広東政府も参加を表明しましたが、拒否されています。
ところが、1928(昭和3)年に中国を統一した蒋介石は、広東政府の出身でした。そのため中国政府は、ワシントン会議で定められた条約を公然と違反することになるのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3 より引用
蒋介石(しょう かいせき)1887年 – 1975年
中華民国の政治家・軍人。日本留学後、孫文の革命運動に加わり、中国国民党の軍事指導者として頭角を現す。革命軍を養成して北伐を成功させた。その後、国民政府主席となり、反共政策を推進。あと一歩の状況まで中国共産党を追い詰めるも、抗日戦争では国共合作により共産党と協力した。戦後、国共内戦に敗れ、1949年台湾に退き、死ぬまで中華民国総統を務めた。
九ヵ国条約が前提とした条件と現実との間に大きな差があったにもかかわらず、九ヵ国条約は日本を国際条約違反と名指しで批判し、日本を孤立へと追い込むことになるのです。
しかし、その実態は日本を抑えることでアメリカの中国進出に道を開いた会議でした。外交史家のグリスウォルドは、ワシントン会議を「米国の伝統的極東政策の神格化」であったと総括しています。
その後の歴史を見れば明らかなように、ワシントン会議は日米の政治的な決闘の場であり、外交ベタな日本は完敗を喫することになったのです。
この完敗のツケは大きく、大東亜戦争へと向けて歯車は確実に動き出しました。
黄禍論と日本人差別についてはこれで最後です。