第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
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→第1部4章 日米交渉(3/36)開戦まであと319日 民間外交から始まった日米交渉
目次
日米開戦までのカウントダウン
前回は民間外交から始まった日米交渉について見てきました。ハルから届いた日米諒解案は日本にとって願ってもない好条件であったため、日本側を大いに喜ばせました。
ところが……。
日ソ中立条約を成立させ、凱旋帰国した松岡外相の動きが、日米交渉に暗雲をもたらすことになります。
4-2.日米諒解案
その6.伝えられなかったハル四原則
日米諒解案を巡るもうひとつの大きな問題は、ハル四原則が日本側に伝えられなかったことです。
野村大使はハル国務長官から日米諒解案とともに「ハル四原則」を示され、「この四原則を受け入れた上で、さきに日米間で作った非公式の提案(日米諒解案)を日本政府に送り、日本政府がこれを承認してわが方に提案すれば、われわれの交渉開始の基礎ができることになろう」と言い含められ、この四原則を付けて日米諒解案を送るようにと念を押されていました。
ところが、野村は日米諒解案だけを送り、「ハル四原則」については日本側に一切伝えなかったのです。
「ハル四原則」とは次の4つです。
1.すべての国の領土と主権尊重
2.他国への内政不干渉を原則とすること
3.通商上の機会均等を含む平等の原則を守ること
4.平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状維持
この四原則は、アメリカとして譲ることのできない基本的な原則でした。アメリカとしては「ハル四原則」を前提に、日米諒解案を叩き台として日米交渉を始める意向であることを日本側に伝えたかったのです。
しかし、野村は意図的に「ハル四原則」を日本政府に送りませんでした。その理由について野村は5月8日付けの電報にて、話が進まなくなることを恐れて、これを押さえたと説明しています。
この野村の独断は、日米交渉に深刻な悪影響をもたらしました。そもそもハルが当初から意図した通りに「ハル四原則」が日米諒解案とともに日本側に渡ってさえいれば、近衛らが日米諒解案を米国政府案と勘違いすることもなかったはずです。
アメリカは日米交渉を始めるに際して「ハル四原則」を前提に条件を出すことになります。まさか交渉の前提となる「ハル四原則」が日本側に伝わっていないとは思ってもいません。
ところが日本政府は「ハル四原則」の存在そのものを認識していませんでした。これでは交渉が噛み合うはずもありません。「ハル四原則」を野村が日本政府に伝えなかったことは、日米交渉に取り返しのつかない混乱をもたらしたのです。
野村大使はもともと軍人であり、外交に関してはまったくの素人でした。それは、松岡外相が自分の意のままに大使を動かすために、あえて職業外交官を外した結果でした。
しかし、野村は松岡の意のままに動くどころか、交渉相手の主張や要望を正確に日本政府に伝えることを怠りました。外交官としての基本的な職務を遂行しようとしない野村の態度に、後に松岡はぶち切れます。
松岡は近衛に対して「松岡意見書」を出しました。そのなかで松岡は「一言したきは野村大使のやり口なり」と綴り、野村への怒りを露わにしています。
重要なことであるにもかかわらず、自分の判断で勝手に知らせたり知らせなかったりする野村の態度を、中間に立って胡麻をすっているも同然と手厳しく批判しました。
そうした野村の基本的な姿勢は、アメリカ側に対しても同様でした。伝えるようにと言われた日本側の意見を、野村はやはり自分の判断で伝えたり、伝えなかったり、ときには勝手に内容を変えて伝えたりしています。
松岡は、このような状態で重大な交渉が成り立つものではないとし、野村の態度は「実に言語道断なり」とばっさり斬り捨てています。
野村としては、なんとか日米交渉をまとめようと懸命に立ち回ったにすぎません。しかし、交渉の当事者としての役割を優先するあまり、交渉の仲介者としての役割を果たすことができなかったといえるでしょう。
野村の勝手な判断による外交交渉と強気一辺倒な松岡外交とが混じり合い、日米交渉はますます複雑化の一途をたどることになります。
その7.アメリカから日米交渉を持ちかけてきた理由とは
日米諒解案を受け取った4月18日の夜、ただちに連絡懇談会が首相官邸で催されました。近衛から民間外交による経過を初めて打ち明けられ、日米諒解案の中身を知らされたことで、その場に居合わせた全員が望外の好条件に驚喜したと記されています。
実のところ、アメリカとの和解は日本政府にしても軍部にしても熱望していたことでした。輸出入に頼らなければ国家の存続ができない日本にとって、最大の貿易国アメリカとの間に通商条約が交わされていない今の状況は、けして好ましいものではありません。アメリカとの貿易が正常に行われることは、日本にとっての悲願でした。
しかし、日本とアメリカでは国力に違いがありすぎるため、まともな交渉ができない状態でした。
一般的に見て、双方にとって利益が見込めるからこそ、初めて交渉が始まります。相手の国力があまりに低すぎると影響力が小さく、自国の益にまったく繋がらないため、相手が交渉をもちかけてきても無視するだけです。
だからこそ、日米諒解案を手に大国アメリカの方から歩み寄りを見せてくれたことは、日本にとって願ってもない好機の到来を意味していました。
それは詰まるところ、アメリカが日本の力を認めたことを意味すると日本側は捉えました。では、なぜアメリカは日本の力を見直すようになったのかと言えば、三国同盟のおかげであると、日本側は解釈しました。
日米交渉に直接当たった岩畔は、次のように述べています。
岩畔は言う。「工業的、科学的」な日米の差は一対二〇である。アメリカは日本など「歯牙にかけていない」。岩畔はつづける。「ところが三国同盟に入ったので力が出て来たから話が出来た。それまでは話が出ても話に乗るだけの価値がないように思っていた。そういう状態から考えてあれには大きな真理があったと思う」。
『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』 井上寿一著(講談社)より引用
また、『昭和天皇実録』の4月21日の分には天皇は木戸内大臣に対して「米国大統領が今回の如く極めて具体的な提案を申し越したことはむしろ意外ともいうべきも、かかる事態の到来は我が国が独伊両国と同盟を結んだことに基因するともいうべく、すべては忍耐、我慢である」と語ったと記されています。
米英と離反する危険を冒してまで三国同盟の締結を優先したのは、アメリカと対等な立場で交渉をしたかったからこそです。その意味では、強国アメリカから日米交渉の打診を引き出せたことにおいて、三国同盟の意味を見出すことができます。
wikipedia:木戸幸一 より引用
【 人物紹介 – 木戸幸一(きど こういち) 】1889(明治22)年 – 1977(昭和52)年
昭和時代の政治家。明治の元勲木戸孝允の孫。農務省入りの後、貴族院議員となる。第一次近衛内閣の文相兼厚相として政治の表舞台に登場。内大臣就任後、天皇側近として国政の実権を握る。大戦末期には和平工作に尽力。戦後A級戦犯として終身禁固刑に処せられるも、のち仮釈放を経て赦免となる。宮中グループと軍部の抗争などを克明に記録した『木戸幸一日記』を残した。
その8.日米諒解案を受け取った直後の軍部の動き
日米諒解案を巡り夜更けまで続けられた会議では、ただちに受諾して外交交渉を開始すべしとの方針で一致しました。なお松岡外相は独ソ訪問中のため、この会議には出席していません。
こうなると俄然注目されたのは陸軍の動きでした。諒解案には中国からの全面撤兵や南方への武力行使をしないとの項目が含まれていたからです。それは、これまで日中戦争を継続してきた陸軍の動きにブレーキをかけるも同然でした。陸軍の抵抗は、当然予想されることです。
陸軍では4月21日に陸軍省と参謀本部の首脳者連合会議が開かれ、日米諒解案について討論されました。その結果、陸軍としては原則として受諾する方針が固められたのです。<注釈-2-4>
ただし、陸軍省と参謀本部では結論は同じでも、考え方に大きな違いがありました。陸軍省の武藤軍務局長は諒解案を手放しで歓迎しました。武藤は『比島から巣鴨へ』のなかで「この案には種々総括的なことや経済問題やがあるが、陸軍として最も関心を持つ点、即ち日支事変の解決援助、満洲の承認、日本軍の撤兵は、日支間の協定による等、甚だ満足すべきものであった。私はこれで日本は救われたと思った。」と記しています。
一方、参謀本部の田中作戦部長は諒解案を、アメリカが対独参戦を果たすための時間稼ぎに過ぎないと見なしていました。しかし、諒解案の線で進めることで日中戦争の早期解決を得られるならば、これを利用しない手はないと考えました。
日中戦争を日本の対面が傷つくことなく終わらせることで国防力の充実に努め、三国同盟を利用しながら大東亜共栄圏の建設を推し進めることこそが、日本の国益にとって有益であると判断したのです。
● 開戦まであと231日 = 1941年4月21日
日米諒解案を受け入れるにあたって、最大の抵抗勢力になると思われていた陸軍があっさりと受諾したことは周囲を驚かせました。このときの陸軍は一枚岩となることで武力行使を捨て、和平を求めようとしていたのです。
同日、開かれた政府大本営連絡会議では「日米諒解案の成立は三国同盟の関係を多少冷却する感あるも、これを忍んで交渉を進め、速やかに妥結を図るべし」と決しました。陸軍が折れた以上、もはや誰の目にも諒解案受諾の障害となるものは何一つないように映りました。ところが……。
受諾の流れを断ち切ったのは、訪欧から帰国したばかりの松岡外相でした。
その9.日米諒解案をめぐる松岡の思惑
連絡会議では、ただちに野村大使に訓電して諒解案の受諾を報せ、日米交渉を開かせたほうがよいとの意見が大多数を占めました。しかし、近衛首相は松岡外相の顔を立て、対米回答は松岡の帰国を待ってから為されることに決しています。松岡は明日には帰国する予定だったのです。
このときの決定は、結果的に日本の運命を大きく狂わせることになりました。もし、このとき、松岡の帰国を待つことなくすぐに日米交渉に入ってさえいれば、日本に有利な条件で和平が成立した可能性が高かったと、多くの歴史学者が指摘しています。
この当時のアメリカは単なる時間稼ぎではなく、真剣に日本との和平を求めていたと思われるからです。
ところが一両日、松岡を待つとした近衛の決断は、結局のところ対米回答を三週間も遅らせることになり、日本に有利な風が吹いていた絶好の機会を逸する結果を招いたのです。
松岡の帰国を待ち、大本営政府連絡懇談会が開かれました。この会議にて松岡は、日米諒解案に対して露骨に不快感を示しています。
もともと松岡は外相就任の際、外交を一手に引き受けることを条件にしていました。各国の大使や公使に就任していた職業外交官を更迭し、素人外交官と交代させたのも、外交のすべてを自分一人で支配しようとした結果です。軍部を挑発したのも、外交の一元化を図ったからこそです。
そんな松岡にとって、自分が関知しないところで勝手にまとめられた日米諒解案は、その内容に関わらず許せないものでした。
松岡以外の全員が、諒解案の承諾をアメリカに伝え、速やかに日米交渉を始めることを希望しましたが、松岡は「二週間か、一ヵ月、二ヵ月位慎重に考え」たいと述べるや、会議を投げ出し、さっさと帰宅の途につきました。
そのまま松岡は健康上の理由を盾に自邸に引き籠もってしまいます。近衛や武藤軍務局長、岡海軍軍務局長が何度も松岡邸を訪ね説得に尽くしましたが、松岡は応じようとしませんでした。
陸軍は日中戦争を終結させるために、海軍は日米戦争を避けるために、陸海軍が歩調を合わせて松岡への説得を繰り返しました。その間も無駄に日数が過ぎていきます。松岡の私憤が、日本にとっての追い風を逃す結果となったのです。
その10.松岡が押し切った日本側の修正案
5月3日になり、ようやく連絡懇談会が再開されました。この席上で松岡は突然、日米中立条約の締結を提議しています。松岡としては自分が蚊帳の外に置かれた日米諒解案ではなく、松岡自身が主導する日米中立条約という新たなルートから日米交渉を始めたかったのでしょう。しかし、あまりにも唐突な提案であったため、誰からも賛同を得られませんでした。
● 開戦まであと219日 = 1941年5月3日
懇談会にて松岡は、日米諒解案に陸海軍の意向を反映させるとともに、外務省としての意見を加え、日本側修正案を提案しています。
しかし、その内容は諒解案の趣旨とは大きく食い違うものでした。5月3日の『機密日誌』には、「陸海軍案ヨリ更ニ強硬」と記されています。
その要旨は、アメリカが求める三国同盟の無効化の否定、日中和平におけるアメリカの干渉を拒否、南方武力行使の放棄はしない、日米首脳会談の拒否でした。詳細については注釈を参照してください。<注釈-2-5>
主な修正箇所は次の4つです。
1.三国同盟の軍事援助義務について
諒解案ではドイツが米国から「積極的に攻撃された場合のみ」、日本に参戦する義務が生じると限定されていましたが、その部分が削除されました。そうすることで「積極的」であるか否かを問わず、アメリカがいかなる理由でドイツを攻撃しようとも、日本に参戦義務が生じることになります。
これは三国同盟を無効化したいアメリカの思惑に、真っ向から反抗するものでした。
2.米大統領から中国への和平勧告について
諒解案には日米が条件を呑むことで米大統領が蒋介石政権に対して和平を勧告することになっていましたが、それらの項目はすべて削除されました。
その理由は日中の和平条件にアメリカが干渉することを松岡が嫌ったためです。松岡は近衛三原則や日中間の取り決めに則ってアメリカが和平の勧告をするように求めたのです。
松岡らしい強気の要求ですが、少なくとも日中戦争を自力では解決できずに困っている側が出す条件でないことは明らかです。
3.南方武力行使について
アメリカが求めた日本軍による南方武力行使をしないことを約す条項から、「日本ノ南西太平洋方面ニ於ケル発展ハ武力ニ訴エルコトナク、平和的手段ニ依ル」の条項が削除されました。
その理由については、国際情勢の変動により万が一にも挑発された際に備えて、武力行使の余地を残しておきたいためとされました。
しかし、「日本が南方武力行使をしない」という約束は、アメリカが譲歩してでもなんとしてでも取り付けたかった核心でした。これを嫌がったのでは、日米交渉そのものが成り立ちません。
4.日米首脳会談について
諒解案の最後の項目に掲げられていた日米首脳会談が、そっくり削除されました。首脳会談が不調に終わったときのリスクを考えると、今は避けた方がよいと松岡は主張したのです。
現代では国のトップ同士の会談は普通のことですが、当時としては画期的なことでした。日米首脳会談は岩畔たちが苦労の末に諒解案に盛り込んだ項目でした。
ことに日米首脳会談を拒否したことは、後々まで日本を苦しめることになりました。
もともとアメリカとしては日米首脳会談を行うための下準備として諒解案をもとに交渉を提案していただけに、肝心の首脳会談そのものをなくしてしまったのでは、交渉の根本が崩れてしまいます。
このとき日本側が日米首脳会談を積極的に望んだならば、かなり高い確率で実現したことでしょう。しかし、松岡は日米首脳会談を拒否しました。
この決断が間違いであったことは、後に日本の側から日米首脳会談をアメリカに懇願するに至ることからも明らかです。
日米双方の思惑の違いからボタンを掛け違えることは、日米交渉を通して何度も起きています。
その11.修正案はなぜ可決されたのか
松岡による修正案のほとんどは陸海軍の意向というよりも外務省、つまりは松岡独自の判断によるものです。
諒解案に比べると、松岡の修正案ははるかに非協力的なものでした。さすがにこの案はまずいのではないかといった主張も聞かれましたが、連絡会議では松岡案が受け入れられ、これを元にアメリカ側に修正提案を行うことに決したのです。
松岡以外の全員が諒解案をほぼそのまま受け入れることに同意していたにもかかわらず、なぜ松岡案に対して強い反対の声が上がらなかったのか、不思議といえば不思議です。
そもそも石油などの重要物資がアメリカの協力によって日本に入ってくるのであれば、日本が武力をもって南進する必要などありません。素直に日米諒解案を認めることが、日本にとっての国益に適っていたはずです。
それにもかかわらず、松岡の主張するままの強硬な修正案が可決されたのです。
松岡が自宅に引き籠もることで日数を稼いだために、近衛や軍部の指導者たちが焦っていたことが、その理由として上げられています。一日も早く日米交渉が始まることを彼らは望みました。
ここで揉めてさらに日数をかけるよりも、いざ交渉が始まりさえすれば落ち着くべきところに落ち着くのだからよいではないかと、安易に考えたのかもしれません。
日米交渉の過程を追いかけてみると、このときの日本側修正案が日本にとっての大失敗であったことがわかります。日本にとっての大きなチャンスが到来していたにも関わらず、日本は欲張った修正案を返すことでアメリカの不信を買い、結局好機をつかみ損なったのです。
その12.遅きに失した返信
日本側修正案の提出が決まったのは5月3日ですが、修正案が完成しても松岡はすぐに野村大使に送ろうとはしませんでした。
なぜなら松岡は修正案を野村大使に伝える前に日米諒解案を独伊に送り、その承認を待っていたためです。
先の会議にて松岡は三国同盟の趣旨に鑑み、日米諒解案について独伊の了解を求めることを提案しました。松岡以外の全員がこれに反対を唱えましたが、松岡は強引に押し切り、独伊に日米諒解案を送っていたのです。
『軍閥興亡史3』には修正案を早くアメリカに伝え日米交渉を開始したいと焦る軍部と松岡とのやり取りが、次のように記されています。
5月8日の会議において東条陸相はなにゆえに外相は修正案を野村大使に訓電せずに保留しているのか、交渉開始の一刻も速やかなることをわれわれ全部が熱望しているのに、すでに五昼夜も遅延しているではないか、と質したのに対し、松岡は「リッベントロップから修正意見が来ればまた修正せねばならン。もう少し落ちついて待ち給え。きのうも外務次官から催促があったが、外交の太刀打ちについては御前らは黙っておれ、と言うておいた。第一、アメリカの哨戒や護送はまさに参戦に等しく、ヒットラーはあるいは起つかも知れん。そうなれば日米諒解なぞは一日で吹ッ飛んでしまうではないか」という返事だ。
さらに語を継いで、
「そうなっても困るから、アメリカをして参戦せしめず、またアメリカをして支那から手を
引かせるというのが、目下わが輩が考案中の外交なのだ。マア急がずに見ておってくれ」
と、ハンケチを出して口をふいた。これには東条も手のつけようがない。『軍閥興亡史〈3〉日米開戦に至るまで』伊藤正徳著(光文社)より引用
政府や軍部が一日も早く日米交渉が始まることを期待して焦るなか、松岡はあえて時間稼ぎを行っているかのようでした。
ようやく修正案が野村大使に訓電されたのは5月12日のことです。
● 開戦まであと210日 = 1941年5月12日
ワシントンから日米諒解案が発電されてから、すでに三週間以上が経過していました。日米諒解案を全面的に受け入れすぐに返事を出すつもりが、松岡の帰国を待ったことで三週間も遅れ、なおかつ日米諒解案に託したアメリカの要望を無視するにも等しい修正案を返すに至ったのです。
日米交渉はその始まりからして、日本に暗雲が忍び寄っていることを十分に予感させるものでした。
その13.日本側修正案を受け取ったアメリカの反応
5月12日に受け取った日本側修正案をアメリカが日本の正式提案として受け止めたことにより、ここに公式の場における日米交渉の幕が切って落とされることになりました。
日本側修正案がアメリカで不評を買ったことは指摘するまでもありません。ことに三国同盟の無効化を拒否し、武力行使による南進の放棄も言明しないことは、アメリカにとって受け入れがたいことでした。
日本側修正案に目を通しながらハル国務長官は、「南進に関する保障はなにもないようなものだ」とつぶやいたとされます。
しかし、アメリカにとって重大なことは日米交渉が正式にスタートしたことでした。翌13日、アメリカは日本の南進に備えて留保していた太平洋艦隊の一部を大西洋に移す決定を早速下しています。日米交渉が端緒についた以上、日本の武力南進はないと判断したからです。
つまりアメリカとしては日米交渉がまとまるか否かに関わらず、日米交渉自体が日本の動きを牽制できると見ていたことになります。
日米交渉を通じてなんとか折り合いを付けて和解したいと必死に望む日本と、交渉を無為に引き延ばそうと図るアメリカの姿勢が、この時点ですでに透けて見えています。
一方、松岡は5月13日に独断により、ハルにアメリカが対独戦に参戦しないように求めるメッセージを送っています。<注釈-2-6>
「日本が日米会談に応ずるのは、米国が参戦しないことおよび蒋介石に対日和平開始を勧告することの二条件を前提とする」との通告でした。
松岡がこのような重大なメッセージを日本政府の承認もなしに独断で送ったのは、ドイツからの電報を受け取ったからとされています。
その頃、ドイツは大西洋上にてアメリカ海軍によるイギリス艦船の哨戒、および護送という挑発行為を受け、対応に窮していました。そこでドイツは松岡宛ての電報にて、アメリカが哨戒および護送のごとき参戦行為を続ければ日本は参戦のほかなきに至ること、及びアメリカがその行為を中止した後に日米交渉に応ずる意思を表明するようにと伝えてきました。
このメッセージは松岡がドイツの意を汲み、送ったとされます。松岡の心の内までは不明ですが、これが真実であれば日本の外相があたかもドイツのエージェントのように動いたことになり、その行動はあまりに不可解です。
アメリカが松岡を親独反英米の大物政治家と見なすのも、無理からぬことといえるでしょう。松岡が日米交渉の障害になると見たアメリカは、これより松岡排除へと動くことになります。
ハルは野村大使に向けて 5月13日に日本側提案に対する非公式所見を示し、16日には松岡案を批判するオーラル・ステートメント(口頭文書)を、5月31日には非公式の米国修正案を示しています。しかし、野村はオーラル・ステートメントと米国修正案については、本省へ伝達していません。
日米交渉を円滑に進めるためには、日本側を刺激するオーラル・ステートメントや非公式の米国修正案を安易に送らない方がよいとの野村の判断が働いたためと推測されていますが、大使としての役割を考慮するのであれば、松岡に次いで野村の行動も不可解です。
これ以降もアメリカ側が伝えたと思っていることが野村によって遮られるため、日本政府の与り知らぬこととなり、日米双方の思惑がすれ違うことが度々繰り返されることになります。
今回は松岡外相の動きを中心に、日米諒解案をめぐる日本側の駆け引きについて紹介しました。次回は日本に対して宥和的な態度を見せていたアメリカが、突如強気に転じる経過について追いかけます。
アメリカの姿勢が豹変したのは、独ソ開戦の直後でした。