前回は甲案をめぐる日米交渉の経過について紹介しました。甲案が拒絶されたことを受け、いよいよ本命と目されていた乙案による交渉が始まろうとしていた矢先、野村大使は本省の了解を取ることなく新たな私案をハルに対して示しました。
今回は野村私案の功罪について追いかけてみます。
第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
日米開戦までのカウントダウン
◆日米交渉・ハルノート・ニイタカヤマノボレ一二〇八より引用
野村大使に加え、特派大使として来栖三郎が新たに日米交渉に当たった
4-11. 乙案による日米交渉
その1.来栖大使の派遣
乙案の交渉に先立つ11月16日の夜、野村大使の補佐役となるべく特使として東郷外相が派遣した来栖三郎がワシントンに到着しました。
● 開戦まであと22日 = 1941年11月16日
来栖はキャリアを積んだベテラン外交官です。すでに野村大使がいるのに、あえて第二のアメリカ大使として派遣されること自体、異例のことでした。
wikipedia:来栖三郎 より引用
【 人物紹介 – 来栖三郎(くるす さぶろう) 】1886(明治19)年 – 1954(昭和29)年
明治-昭和期の外交官。ペルー公使・外務省通商局長・ベルギー大使を経てドイツ大使に就任。日米関係の改善と安定を第1と考えていたため、日本の対独接近には批判的であったが、日独伊三国同盟に調印することになった。1941年、特派大使としてアメリカに派遣され、野村駐米大使とともに太平洋戦争開戦まで対米交渉に当たった。アメリカは来栖を対米強硬派とみなし不信感を抱いていた。戦後は公職追放となる。解除後まもなく68歳没。
野村大使はこれまで独断で本省の指示に従わなかったり、意図的かそうでないかは別としてもアメリカ側が本省に伝えるようにと依頼したことを無視する行動を繰り返していたため、本省との信頼関係を損なっていました。
来栖をアメリカ大使として送ったのは、野村では頼りにならないと本省が見限ったからです。ベテラン外交官を派遣することで、なんとか日本の提案をアメリカに受諾させようと藁にもすがる思いでした。
それならばいっそのこと野村大使を更迭したらよいではないかと疑問に思うかもしれませんが、野村大使はアメリカ側の信頼を得ていました。
英語力に問題があったことはたしかですが、野村の誠実さや日米和平に真摯に取り組んでいる姿勢はハルたちから歓迎されており、いま更迭したのでは日米交渉にマイナスになると判断されたのです。
ただし、来栖を新たに派遣したからといって、なんらかの新しい提案をもたせたわけではありません。グルー駐日米大使はそのことを知り、大いに落胆したと伝えられています。
東郷外相としても新たな提案を来栖に預けたい思いはあったでしょうが、乙案にしても陸軍の猛烈な反対を押し切って無理やり認めさせただけに、もはやこれ以上の譲歩を陸軍に求める状況にはありませんでした。
そこで東郷は乙案よりさらに譲歩した案を来栖にもたせることはできなかったものの、乙案を最大限活かすことで、日本側の譲歩をアメリカに印象づける工夫をしました。
それが、乙案のすべてを初めから野村大使に伝達するのではなく、あえて小出しにするという演出です。
その2.東郷外相の苦肉の策
乙案の最大の目玉は南部仏印からの撤兵です。このことをいかに効果的にアメリカに伝えるかが問題でした。
来栖は『日米外交秘話』のなかで、特派大使である自分とルーズベルト大統領との第一回会見のような瞬間に新提案として「南部仏印からの撤兵」を提出することが、もっとも効果的だったはずと綴っています。東郷外相にしても、そのような劇的な演出を狙ったものと考えられています。
東郷外相が乙案を効果的に演出するために、もうひとつ取り組んだことがあります。本来、乙案では南部仏印からの撤兵は備考として付加されている項目でした。備考として表記されていたのでは、せっかくの目玉である南部仏印からの撤兵のインパクトが薄められてしまいます。
そこで東郷外相は南部仏印からの撤兵を備考ではなく、条文に格上げすることを狙いました。しかし、素直に備考から条文へと格上げしたのでは陸軍の横槍が入ることは間違いありません。
当時は外務省からワシントンに宛てた訓電はすべて陸軍省に届けられ、チェックされていました。陸軍の目を盗んで乙案に改編を加えることはできない状況にあったのです。
では東郷外相はどうやって、この難題に取り組んだのかと言えば、野村大使に送る乙案に巧妙に手を加えて何度も修正を入れることでした。
野村大使に初めて乙案を送った際、あえて南部仏印からの撤退の部分をそっくり削除したのが、その手始めです。
南部仏印からの撤退を約束する備考が削られたため、乙案は一方的に貿易の正常化をアメリカに迫る内容にすり替わってしまいます。つまり、日本の譲歩を見せた乙案よりも、より強硬な提案へと変わったことになります。そのことは陸軍にとって喜ばしいことであり、文句の付けようがありません。
さらに来栖がワシントンに到着する直前の13日と14日にも、東郷外相は乙案に変更を加えて送っています。だめ押しは15日の朝に届くように打電された変更でした。
矢継ぎ早に、しかも本省から意味不明の変更が次々と届いたワシントンでは、本省の意図がわからず右往左往するばかりです。陸軍にしても同様でした。はじめに油断を誘ったこともあり、陸軍としても状況を把握できずにいました。
東郷外相は依然として南部仏印からの撤兵については、まだ野村大使に伝えていません。
こうして東郷外相としては、乙案をできるだけ効果的に演出するための手はずを整えました。
乙案の内容が目まぐるしく変わったため、野村大使としてもこれまでのように勝手に交渉を進めることもできず、乙案についてアメリカには未だに伝えられていません。
来栖の到着を待って、アメリカに渡す乙案について本国から最終的な指示が送られることになっていました。
ところが東郷外相が緻密に組み立てていた乙案の演出は、結局は空振りに終わることになります。野村大使の独断が、またも日米交渉にミスリードをもたらしたのです。
その3.野村の独断による新提案
- 来栖の到着と大統領との会談 -
来栖が到着した16日は日曜日であったため、来栖と野村はじっくりと打ち合わせを行うことができました。まだ野村には南部仏印からの撤兵について本省から知らされていませんが、来栖は当然知っています。来栖の口から野村は初めて南部仏印からの撤兵の詳細について聞かされたものと推測されています。
来栖は翌17日にルーズベルト大統領と2時間の会談を行いました。しかし、その時点ではまだ本省の指示がないため、乙案についてはふれていません。
● 開戦まであと21日 = 1941年11月17日
一方、ルーズベルトはマジック情報を受け取っていたため、乙案の内容についてはすでに正確に把握していました。ルーズベルトとしては、わざわざ来栖が派遣されてきただけに、何か新たな提案を携えているかと期待していたのかもしれません。
ですが、そのような土産をもっていないことは、すでに記述した通りです。
ルーズベルトと来栖の会談は終始和やかに進行しました。ルーズベルトは「友人の間には最後の言葉というものはない」と、交渉の継続を望む言葉を残しています。
日本としては、この会談に好印象を抱きましたが、アメリカとしては体よく日本をあやしたつもりであったようです。
ハル回顧録によれば、三国同盟問題にしても日本の現状説明にしても来栖の弁明をルーズベルトは軽く受け流しただけで、会談の成果はなかったと冷淡に記しています。
- 野村による新提案 -
まだ本省より乙案を開示する指示が出ていないなか、11月18日、野村大使は独断により思い切った新たな提案をハル国務長官にぶつけました。
● 開戦まであと20日 = 1941年11月18日
それは日本で激しい議論を経てようやくまとまった乙案よりも、さらに日本側が譲歩した案でした。
野村案は日米間の緊張を緩和するために、在米日本資産の凍結令実施前の状態に復帰することを目指すものです。具体的には日本の南部仏印からの撤兵と資産凍結の解除を、交換条件として同時に行うこととする案でした。
乙案と似ていますが、明らかに異なるのは資産凍結解除の他に「米国政府は日中両国の和平に関する努力に支障を与えるような行動に出ない」との条件が課されていないことです。
遠回しな表現ですが、この条件はアメリカが援蒋行為をやめることを意味しています。乙案の承諾にあたり、陸軍参謀本部の強硬な抵抗によって追加された条件です。
ところが野村案では、資産凍結の解除を約束してくれるなら南部仏印から撤退するとされ、援蒋行為についてはふれられていません。乙案よりも日本側の条件が明らかに緩和しています。
これまでアメリカと交渉を続けてきた経験があるだけに、野村はどうすればアメリカが暫定案に乗ってくるかを熟知していました。
野村が本省になんの相談もなく先走ったのは、なんとか日米和平案を妥結させ、戦争を避けたいとの思いからであることは、疑う余地がありません。
しかし、国家の運命を決定する重大事を国策を無視して一外交官が勝手に提案する行為は、明白な越権行為でした。
この野村の新提案には、派遣されたばかりの来栖大使も一枚噛んでいます。本来、来栖は本省の意向を受け、野村大使の勝手な行動を許さないお目付役としての役割を負っていました。
ところが来栖は現地の情勢が煮詰まっていることを野村から聞かされ、本省の指示を忠実に実施していたのでは交渉妥結には至らないと判断し、野村案に同調したのです。東郷外相からすれば、まさにミイラ捕りがミイラになったことになります。
- 野村新提案に対するアメリカの反応 -
新提案は野村と来栖の越権行為ではあったものの、ハルの関心を引いたことはたしかです。ハルとしてはマジック情報によって日本側の出してくる提案は事前にすべて知っていただけに、マジックから漏れている野村の新提案は新鮮に映ったようです。
新提案は野村の独断によって為されたため、本省の確認もとっていません。もともと外交電文になっていないのだから、マジックに載るはずもありません。
来栖大使が新たに派遣されたのは、この新提案をもたすためだったのかとアメリカ側は受け取りました。
野村と来栖は日米間にわだかまる危機感を解消することが現在の最優先の課題だと説き、新提案への同意をハルに求めました。二人の熱意に押されたのか、ハルはついに「もし日本政府が公式に平和政策の遂行を声明するならば、それを契機として、英・蘭を説いて、資産凍結以前の状態に復帰することを考慮しよう」とまで口にしています。
そのことを、ハルがいつものように時間稼ぎのためだけに好意的な言葉を残した、と断じるわけにはいきません。その夜、ハルはイギリス・オランダ・中国の大公使を招き、日本が平和政策に転じることで南方侵略を中止する場合の通商復活の是非を、問い質しているからです。
英蘭中の代表は、日本にその意思があるのであれば資産凍結を解除することで戦争の危機を取り払うことに歓迎の姿勢を示し、本国政府の意見を聞くことを約束しました。
このとき、日米交渉が行われているワシントンの現場は、久しぶりに和やかな空気に包まれたとされます。
11月19日の朝、日米諒解案の作成に功のあったウォルシュ司教が大使館を訪れ、来栖に対し「アメリカが昨日の野村の提案(日本軍の南部仏印撤兵と米国の凍結令解除の協定)を受諾する腹であることを、確実なる筋から聞いた」と告げ、祝辞を述べたとされます。
● 開戦まであと19日 = 1941年11月19日
また、同じく日米諒解案に深く関わったフランク・ウォーカー郵政長官が19日の夜に野村と来栖を招き、ルーズベルト大統領が「まず戦争気分を一掃したうえで早急に平和協議に入りたいと考えるようになった」との朗報を伝えています。
アメリカ側がどこまで本気で野村新提案を受諾する気であったのかは不明ですが、このとき、交渉妥結の可能性が高まったことはたしかといえるでしょう。
日米関係が急激に冷え込んだのは、日本軍の南部仏印への進駐からです。野村の新提案により南部仏印からの撤退と資産凍結の解除が為されることで、太平洋が緊張をはらむ前の時点へと時計の針がゆるやかに戻ろうとしていました。
- 東郷外相の叱責 -
野村はすぐに新提案に際しての経緯を東郷外相に打電しています。その際、野村は「この際新内閣の何等但書なき平和政策の声明」を発するように要請しています。
ハルが求めたのは日本政府による平和の呼びかけです。日米交渉がはじまって以来、日本はアメリカやイギリスとの対決姿勢を強めるあまり、平和を求める声明から遠ざかっていました。
繰り返されたのは大東亜共栄圏の確立や国民に覚悟を求める声明ばかりです。このことをアメリカが、日本が平和に背を向けて戦いばかりを望んでいると見なすことには、仕方のない面があります。
ただし、当時の「平和」はアメリカやイギリスが支配する世界秩序への従属を意味していました。日本がそれに抗うためには、戦いを求めるよりなかったことも事実です。
野村は19日電において、満州事変と日中戦争4年を経て国力が疲弊した今、さらに大戦争に突入すべきではない、一時的にでも休戦して他日の雄飛を図るべきだと切々と本省に訴えました。
19日にも野村・来栖とハルは会談しています。野村らが東京からの訓電を待っていることを告げると、ハルの対応も好意的であったと綴られています。
首を長くして待っていた東京からの訓電は、20日に届きました。しかし、その内容は野村と来栖が期待したものではありませんでした。
● 開戦まであと18日 = 1941年11月20日
急電798号には東郷外相の怒りが迸っています。それは、本省の意向を無視して勝手に新たな提案を行った野村を叱責する内容でした。
「国内の機微なる事情に顧み遺憾」であると、怒りを露わにしています。「単に凍結前の状態に復帰するだけの保証にては現下の危局を収拾し得ず」と伝え、軍部の抵抗が激しい日本の現状からして、野村の私案を日本の公式な案として認めることはできないと突っぱねています。
東郷にしても援蒋行為の中止を交換条件に掲げることには反対でしたが、これを認めなければ陸軍が乙案自体を拒否する成り行きであっただけに、やむを得ない選択でした。
野村私案を日本の公式な提案としたくても、できない事情があったのです。
さらに東郷の怒りの背景には、せっかく綿密な計算のもとに乙案の演出を図ったにもかかわらず、野村私案によってすべてが水泡に帰してしまったとの絶望感もありました。
野村私案が先に示されたからには、その後に提出する乙案にどれだけ演出を施したとしても、色あせて見えることを防げないからです。
それでも野村私案を葬り、改めて乙案をアメリカに提示するよりありません。
- 乙案の修正 -
東郷外相は乙案に修正を加え、改めて乙案による交渉開始を指示しました。東郷が修正したのは、備考として記されていた南部仏印からの撤退を第5項の条文に格上げすることです。
先にも記したように、このことは東郷が陸軍に咎められないように細心の注意を払って施した演出です。南部仏印からの撤退が条文に格上げされたことで、より目立ち、読み手にインパクトを与えることを狙っています。
東郷の苦労の甲斐あって、陸軍はこれについてクレームを付けていません。度重なる変更が目くらましとなり、陸軍はこれに反対する声を上げることができなかったのです。
しかし、野村私案が示された後では、備考から条文に格上げされたところでインパクトを期待できるはずもありません。
乙案では野村私案以上に、日本側の譲歩が後退していることは明らかです。
東郷は乙案が日本の最後案であることを野村・来栖両大使に伝え、これで妥結がならなければ交渉決裂もやむなしと打電しています。
日本の命運を託した乙案は、その交渉の開始からして日本側の不手際が目立ち、暗雲が立ちこめていました。
- もしも、野村私案が…… -
野村私案については戦後、これを推し進めることで交渉妥結を図る道はなかったか、といった自省の声が度々上がっています。
野村私案が東郷の思惑をすべて吹き飛ばしたことはたしかですが、これによって戦争回避の可能性がもっとも高まっていたことも事実です。
もし、日本が野村私案によってアメリカとの交渉妥結を図ったならば、その後の歴史は大きく変わっていたことでしょう。
陸軍の抵抗が予想されるだけに一筋縄では行かないものの、近衛が日米首脳会談による天皇の裁可に望みをかけたように、交渉妥結の綾は残されていました。
されど、一時的に開戦が避けられたとしても、アメリカはもちろん、イギリスやオランダ、中国と日本との懸案が解決したわけでもないだけに、近い将来に再び衝突した可能性も濃厚だったといえそうです。
野村私案が東郷外相に否定されたことにより、日本は改めて暫定案である乙案をアメリカに提示し、最後の日米交渉に和平への望みを託すことになりました。この続きは次回にて紹介します。