前回は独断で為された野村私案について紹介しました。野村私案にアメリカ側は前向きな姿勢を見せていただけに、日米交渉が妥結する最後のチャンスであったといえるでしょう。
しかし、日本は野村私案を葬り、暫定案である乙案にすべての望みを託すことになったのです。
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第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
日米開戦までのカウントダウン
4-11. 乙案による日米交渉
その4.乙案による交渉開始
野村私案が立ち消えとなり、11月20日、野村と来栖は新たに乙案をハルに手渡しました。しかし、その乙案は東郷外相が指示した通りの内容ではありませんでした。
東郷の叱責を受けた直後だけに条文そのものには手をほとんど付けなかったものの、さらに乙案を魅力的に見せるために、独断によって変更を加えたのです。
その変更とは、第5項にあった南部仏印からの撤退の条文を第2項に移動させることで、より目立たせることでした。
その結果、アメリカに渡された最終的な乙案は以下のようになりました。
(1)日米両国政府は、南部仏印以外に武力進出しないことを確約する。
(2)日本政府は、日中平和回復あるいは太平洋の平和確立後、仏印駐留の日本軍を撤退することを確約する。
この間、日本政府は、現在の取り決めが妥結すれば、南部仏印駐留日本軍を北部に移転させる用意がある。
(3)日米両国政府は、必要な蘭印物資の取得に相互協力する。
(4)日米両国政府は、通商関係を資産凍結前に復帰する。
米国政府は、日本に所要の石油を供給する。
(5)米国政府は、日中両国間の平和を解決する努力に支障を与える行動に出ないことを確約する。『日米開戦への道 避戦への九つの選択肢』大杉一雄著(講談社)より引用(改行は筆者)
南部仏印からの撤退を2項に移動することで、より大きなインパクトを期待していることがわかります。
さらに来栖は、乙案成立の見込みが付くまで秘密にするようにと指示されていた三国同盟に関する妥協案についても、独断によってハルに説明しています。
具体的には、三国同盟の解釈はドイツに拘束されることなく、日本が自主的に行うこと、また三国同盟には何らの秘密協定も存在しないことを文書化し、ハルに示しました。
その意味するところは、三国同盟の死文化です。三国同盟ではドイツがアメリカから先に攻撃された場合には、日本に参戦義務が生じます。しかし、アメリカが先制攻撃を仕掛けたかどうかを判断するのはドイツではなく日本であるため、解釈によっては参戦義務が生じません。
つまり、いかなる形で米独戦が始まろうとも、三国同盟にかかわらず、日本は参戦しない用意があると伝えたも同然です。
図らずも三国同盟についての言質も与え、日本としてはできる限りの譲歩をアメリカに伝えました。
日本としては最後の切り札である乙案を出し終え、あとはアメリカの応諾を待つばかりです。
その5.乙案による交渉の行方
- 乙案に対するハルの反応 -
来栖は三国同盟についての文書を差し入れた際、ハルが極めて友好的な態度で接してくれたことから、乙案について手応えを感じたと綴っています。
ところがハルの回顧録によると、その会談の様相は正反対です。ハルは乙案を一瞥(いちべつ)した後、即座に却下したと記しています。
ただし、ハルの回顧録でのこの日の記述については、真珠湾攻撃から10日以上も経過してから記録課に提出されているため、不自然さを拭えません。提出が遅れたのは、なんらかの改ざんを為したからではないか、と日米の研究者の間で指摘されています。
改ざんが本当であれば、この会談の何かをハルが隠したことを意味していますが、それが何かは謎のままです。
回想ではハルは「日本の提案(乙案)を受諾することによって、米国の負う義務はまったくもって降伏に等しいものであった」と綴っていますが、これについてはアメリカの研究者の間でも異論が提起されています。
受諾することがアメリカの降伏を意味するような要素は、乙案のどこにもないからです。ハルの物言いは明らかに大げさです。
諸説ありますが、乙案が日本による譲歩を意味していただけに、それを無視するに際してハルが苦しい弁明をしたと推測する論もあります。
乙案での妥結がなれば、日本が南進を断念したことを意味します。諸外国から見て、そのことが日本の大きな譲歩と映ることは避けられそうにありません。ハルとしては日本が大幅に譲歩したにもかかわらず、アメリカが譲歩案を蹴ったとの印象を世界に与えるわけにはいかなかったのでしょう。
だからこそ、乙案の受諾はアメリカにとっての降伏だと、世界に向けてアピールする必要があったのかもしれません。
乙案でハルがこだわったのは、第5項でアメリカの援蒋行為が禁じられていることでした。この項目さえなければ、日本軍の南部仏印からの撤退が行われることで資産凍結の解除と石油の供給が行われ、日米ともに南部仏印進駐以前の状態に復帰することを意味します。
そうであれば、暫定案としては妥当な落としどころと言えるでしょう。
ところが援蒋行為の禁止が条件に入るとなると、以前よりも日本に有利な状況が生じることになります。石油を止められて困っているにもかかわらず、以前よりも有利な状況を望む日本の態度は、あまりにも不遜(ふそん)であるとアメリカ側は受け取りました。
- 日本を覆う反米英の世論 -
さらにアメリカの不興を買ったのは、日本の政治家・マスコミによって連日のように対米強硬論が発信されることでした。
野村私案に際してハルが日本側の平和声明を求めたことは先にふれましたが、日本国内にそのような空気はなく、世論はアメリカとの対決姿勢を強めるばかりでした。アメリカとイギリスをこらしめろとばかりに米英膺懲(ようちょう)論が盛んに叫ばれています。
国内には物騒な雰囲気がわだかまっていました。東郷外相が指摘したように、単に資産凍結が解かれたからといって、それだけで南部仏印からの撤退を許すような状況ではなかったのです。
なかでも国策完遂決議案が提出された11月18日の議会において、各派を代表して登壇した島田俊雄の雄弁な演説は、米英膺懲論を象徴するものです。
「国民は、政府当局にして一度大盤石の決心を以て前進一歩するならば、電光石火瞬時にしてこれに呼応して邁進(まいしん)するの覚悟をしていることが判っておられるか。ここまで来ればもはや遣(や)るよりほかはないというのが全国民の気持である」
島田は激烈な口調で続けています。
「近衛メッセージには太平洋の癌という言葉が用いられたそうだが、その癌たるや、じつは太平洋にあるのではなくして、アメリカ現在の指導者の心の裡にあるのだ。この癌に対しては、断乎(だんこ)として一大メスを入れる必要がある。これ肇国(ちょうこく=国を建てること)の昔より永遠の将来にわたる大日本帝国のその現在を負担するわれわれの最重大なる責任である。政府は、果たしてわれわれをしていつ、そのメスを振わしむるか」
政友会の老領袖(りょうしゅう)の叫びは満場を魅了し、万雷の拍手に包まれたとされます。島田の演説には、当時の日本国民の思いが色濃く反映されていました。討米を待ち望む声こそが世論を染めていたのです。
wikipedia:島田俊雄 より引用
【 人物紹介 – 島田俊雄(しまだ としお) 】1877(明治10)年 – 1947(昭和22年)年
大正-昭和時代前期の政治家。衆議院議員として政友会幹事長を務める。広田・米内内閣の農相、小磯内閣の農商相を歴任。雄弁な政党政治家として名を馳せる。終戦時は衆議院議長を務めていた。戦後は公職追放され、70歳で没した。
こうした世論を作り出したのは、当時の新聞です。戦時下でもあり、新聞が軍部の意向を受けて記事を作っていたことは否定できません。そのことは、軍部による世論操作が為されたことを意味します。
しかし、これまでの日米間の歴史に人種差別をめぐる確執が横たわっていたことも事実であり、イギリスやオランダの植民地支配が日本人の怒りを呼び起こしていたことも間違いありません。
軍部による世論操作だけが米英膺懲論を生み出したわけではありません。
島田議員の演説は、アメリカの多くの新聞に掲載されました。アメリカにとって、議会において各党が一致して送り出した島田議員がアメリカとの対決姿勢を前面に押し出してみせたことの意味は絶大でした。議会制民主主義の国であるアメリカが、そこに日本国民の総意を見ることは、ごく自然なことです。
すでにアメリカでは、日本の世論に対する批判が高まっていました。「アングロサクソン亡びずんば大和民族の活くる途なし」の声が全国に響き渡り、大新聞の言論が反米英の論調で埋まっていることは、ワシントンでも問題視されていました。
まして、ワシントンでは日本政府による平和を求める声明を期待して議会での言動が注目されていただけに、島田の演説は最悪のタイミングで為されたといえるでしょう。
野村私案によって一時は和平に向けて空気が和んだものの、日本に漂う反米英の世論はハルたちの対日不信を高めることになりました。
- 新たな暫定案 -
22日には東郷から野村に訓令が届いています。25日とされた最終期限が29日に延長されたこと、これ以上の変更は絶対にできないこと、期限が過ぎたならばその後の情勢は自動的に進展するよりないことが伝えられました。
● 開戦まであと16日 = 1941年11月22日
この訓令もすぐにアメリカに解読され、アメリカの対日不信をさらに煽る結果となりました。
その日、野村と来栖は乙案への回答を求め、ハルを訪ねました。その際、ハルが批判の矛先を向けたのは日本の世論でした。
日本は特使まで派遣して平和を唱えているが、日本の政治家の言論や新聞の論調は戦争を煽っているではないか、と不信感を露わにしています。
ハルは直接には乙案を拒否する回答を避けたものの、援蒋行為打ち切りの約束はできないことを述べ、「日本の平和的意図が明確になれば、通商問題は急転回するだろう」と回答しています。
その上で現在、イギリス・オランダ・オーストラリアなどの関係諸国と協議しており、24日までには結論を出して回答すると告げました。
アメリカの思惑とは裏腹に、関係諸国は暫定案である乙案での妥結に前向きでした。日本軍の侵攻にさらされる英蘭豪にとっては、時間を稼ぐことが最優先の課題とされたからです。
英蘭豪はまだ、日本軍の侵攻に耐えられるだけの軍備を整えられずにいました。乙案妥結によって三ヶ月でも時間を稼ぐことができれば今よりも防備を固めることができるため、彼らにとっては状況が有利になります。
英蘭豪にとっての不安は彼らの植民地が日本軍の攻撃にさらされたとき、本当にアメリカが助けてくれるかどうかでした。アメリカは英蘭豪に対して助けるとの確約を、相変わらず何も与えていません。
ルーズベルト政権に参戦する気が満々であったとしても、米議会の承認を得られない可能性もあるだけに、先を見通すことなどできません。そうであれば、決戦が伸びた方がありがたいと思うことは当然です。
アメリカにしても日本が提案した乙案にそのまま乗ることはできないものの、暫定案によって衝突を先に延ばすプランには魅力を感じていました。
すでに乙案の内容をマジックによって把握して以来、実はアメリカでも暫定案の作成が始まっています。
アメリカとしては乙案に返答するのではなく、日本の甲案に当たる包括的な協定案と同時に、乙案に当たる暫定的な協定案をセットにして日本に提示する方針を固めていました。
22日にハルはイギリス・オランダ・オーストラリア・中国の大使や公使を集め、米国務省が作成した暫定協定案を示し、この案を日本に提示するに際して本国の許可を得られるかどうか聞いてほしい、と依頼しています。
その際ハルは「この暫定案を日本側が受け入れる可能性は三分の一もないだろう」と述べました。
交渉妥結の可能性は低いものの日米ともに、暫定案によって一時的な停戦にもっていくことで現在の緊張関係を緩和するより戦争を避ける方法はない、との見解で一致していたのです。
ところが……。この続きは次回にて。