アメリカ側の暫定協定案をめぐる動きについては、前回にて紹介しました。しかし、暫定協定案は結局、日本側に渡されませんでした。
いったいなぜ、暫定協定案は突然、放棄されたのでしょうか?
そこには日米交渉における大きな謎が横たわっています。
第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
目次
日米開戦までのカウントダウン
4-12. なぜ米側暫定案は破棄されたのか
その4.暫定案を放棄したのは誰か
一夜にしてなぜハルの決意が変わったのか、これまで様々な原因が指摘されていますが、未だに決定打はありません。
そもそも暫定協定案を日本に渡さないように決めたのが、本当にハルなのかについても異論が出ています。
ハル自身は中国が暫定案に反対し続けたため、ついに日本に手渡すことを断念したと後に回想しています。蒋介石は日本とアメリカを戦わせることによって中国を救う戦略を立てていただけに、日米間に暫定案が妥結することを恐れていました。そのため、暫定案に対して執拗(しつよう)に反対を唱えていたことは、たしかです。
しかし、ハルが中国の反対について、これまでさほど気にかけていなかったことも事実です。ハルの中国に対する態度は、これまで見てきたように、どちらかといえば冷淡でした。そんなハルが一夜にして考えを改め、中国に理解を示すとは不自然です。
ハルは軍部から時間を稼ぐことを要望されていました。これまで、その方針で日米交渉に当たっていたことは、大西洋会談後の対日警告において日本を刺激しないようにトーンダウンを指示したことからも明らかです。
それにもかかわらず、暫定協定案を渡さないという選択を独断で下すとは考えにくいものがあります。暫定案を渡さないことは、すぐに戦争になることを意味していたからです。
先に攻撃を仕掛けたのは日本ですが、戦争か戦争回避かのキャスティングボートを握っていたのはアメリカです。
国家の行く末を大きく左右することになる開戦の決断を、ハル一人が為したとは到底考えられません。
25日の夜まで暫定案を日本に渡すつもりでいたハルが、翌日の朝、突然暫定案を断念したからには、ハルに翻意を迫れるだけの誰かの力が行使されたと考える方が自然です。
多くの研究者が指摘しているのは25日の夜、国務省の部下を召集して会議している最中、外部からかかってきた電話の呼び出しを受け、ハルが何度も中座していることです。
会議に出席していた国務省の国際経済問題顧問ファイスは、この電話があった後、暫定案を推し進めることに対してハルが弱気を示すようになったと著書『真珠湾への道』にて証言しています。
誰からかかってきた電話なのかは、わかっていません。もちろん、その内容も不明です。ですが状況から見て、その電話こそがハルの決意を変えた直接の原因と推察されています。
ハルの決意を変えるほどの影響力を持った人物と言えば、常識的に見て誰しもルーズベルト大統領を思い浮かべることでしょう。
このことを裏付ける証拠もいくつかあがっています。ハルが記した26日付け大統領宛メモには「中国政府の反対および英蘭豪政府の冷淡な支持または事実上の反対に鑑み、暫定協定案の撤回を勧告する」とありますが、そのあとに「対抗する諸国すべてにとり暫定協定が、賢明かつ有利なりとする私の見解を捨てはしないが」と記されています。
つまりハルとしては暫定案を渡さないことを、不本意と考えていることがわかります。不本意ながらもやむをえず、誰かの指示に従ったとするニュアンスが読み取れます。
また、大統領に呼ばれてホワイトハウスから帰ってきたハルが「暫定協定を破棄すれば戦争になるということが、なぜあの連中に分からないのだ」と興奮して語ったとする証言がハルの側近者から為された、とするアメリカの研究書もあります。
さらに不可思議なのは、暫定案を渡さないというハルの勧告に、ルーズベルトが誰にも相談することなく、すぐに従ったことです。
何度も指摘しているように暫定案を渡さないということは、日本との戦争が始まることを意味していました。ルーズベルトもハルも、軍部首脳も、マジック情報によってそのことを十分に認識していました。
そうであれば極めて重要な決定となるだけに、せめて統帥部の意見を聞くぐらいのことがあって然るべきです。しかし、ルーズベルトはさっさとハルの勧告に従い、暫定案を渡さないことを確定させています。
閣議にかけることもなければ、関係諸国の意見を聞くことも行われていません。この対応についてはアメリカの研究者の間でも疑問が呈されています。
ただし、もともと暫定案を出すことにはルーズベルト自身も積極的でした。自らの意思で作成した暫定協定案を、ハルを通して葬ったとするならば、そこにも「なぜ」という疑問がついて回ります。
ルーズベルトが関与した疑いは強いものの、未だに決定的な証拠はないため、暫定案を引っ込めた責任は今日までのところ、あくまでハルに課されています。
ハルが大統領に暫定案を渡さないことを勧告したとされる会談において、いったい何が話されたのかが重要な鍵を握っています。ところがハルは「どんな会話を交わしたか、その詳細は何も思い出せない」と語り、証言を避けています。
これほど重要なことを覚えていないとは、考えにくいことです。ハルがルーズベルトをかばっていると考える方が自然かもしれません。
暫定案を断念したのがハルではなくルーズベルトであるとする説は、歴史修正派ばかりでなく、正統派の研究者からも指摘されています。
その5.謎が多いスティムソンの誤情報
ルーズベルトとハルのどちらが初めに暫定案の断念を決めたのかはともかく、なぜアメリカが暫定案を日本に渡すことをやめたのか、については諸説あります。
有名な説としては、スティムソン陸軍長官の誤情報説があります。25日の午後、スティムソンは日本の大船団が台湾近くで南下中との情報を受け取ったとされています。スティムソンはあわてて、そのことをハルに電話で伝え、ルーズベルトにも情報のコピーを送っています。
ところがスティムソンは入手した情報に偏見を加え、日本軍の5個師団が30~50隻の船に乗り込み南下していると、もとの情報よりも規模を大きくして伝えました。
ルーズベルトやハルが、この情報を真に受けたとすれば、乙案の回答を待っているはずの日本が兵力を集中させることで、南方武力行使に踏み切ろうとしていると考えても不思議はありません。このことで日本に対する不信感が増し、交渉の打ち切りを決めたのかもしれません。
実際、スティムソンの日記には 26日にルーズベルトに電話をかけた際の反応について記されています。ルーズベルトは25日にスティムソンが送った情報をまだ、見ていなかったとされます。
スティムソンの電話によって初めて日本軍の大船団が南下中と聞いたルーズベルトは、すっかり興奮し、烈火の如く立腹したと綴られています。日本は中国から全面撤兵を含む休戦の交渉をしていながら、他方ではインドシナに向かって遠征軍を送ろうとしている、これは日本が全然信用できない何よりの証拠であると述べ、「今や情勢はすっかり変わってしまった」と嘆いたと……。
『スティムソン日記』が真実であれば、大兵団の移動をルーズベルトが知ったのは、暫定案がすでに断念された後のことになります。ただし、これについてはスティムソン日記の記述に疑惑の目を向ける研究者もいます。
この誤情報でさらに不思議なのは、もともとの情報には諜報部の複数の担当将校によって
「我等に於いて他の情報に接していなければ、右は概ね通常の行動にして、即ち、先のヴィシー政府に対する申入れに論理的に伴なう事象であると判断しております。」と記されていることです。
つまり、日本の船団の移動は特に新しい動きを示すものではなく、通常見られる程度の動きに過ぎないと、分析しています。
この船団の正体は、上海から海南島に移動していた16隻の船団で、1万7200人の規模に過ぎないものでした。通常、よく見られる程度の移動に過ぎません。
少なくともスティムソンがさも大発見をしたかのように大げさに取り上げるような情報ではありませんでした。
その程度の情報を、なぜスティムソンはあえて船や人員の数を大幅に水増しして報告したのか、これも謎です。
謎は多いものの、このスティムソンの誤情報が暫定案を断念する直接の動機となったとする説は、多くの研究者によって支持されています。
その6.なぜ暫定案は放棄されたのか
暫定案が葬られた理由については諸説あるものの、本当のところは未だわかっていません。中国の反対が強かったことが、現在のところ、もっとも有力視されています。
暫定案が放棄された後、ハルがハリファックス英駐米大使に「英米の外交が中国の事情で決定されてはならない」と語っていることから、ハル個人としては中国の強い反対にアメリカが配慮したことに不快感を抱いていることがわかります。
やはり、ハルとしては暫定案放棄に納得できない思いがあったのでしょう。
では、なぜアメリカは中国に配慮したのでしょうか?
この答えについては、『昭和陸軍全史』にて川田稔が説得力ある見解を示しています。川田も暫定案放棄はルーズベルト大統領主導で行われたと考える一人です。川田説を中心に、以下にわかりやすく紹介します。
中国は激しいロビー活動によって、暫定案がまとまることで日本に対する経済封鎖が解除されれば中国国民の士気が衰える、暫定案は中国を犠牲にするものだと訴えていました。
さらに中国の主張にチャーチルが同情を寄せたことが、ルーズベルトの決意に影響を与えたとされます。
チャーチル英首相は、一一月二六日付(ロンドン時間)のルーズベルト宛の親書で、暫定協定案について次のように述べている。
「この問題をどう扱うかはあなたの仕事です。……ただ一つだけ気になることは蔣介石がどうなるかということです。彼は本当に干上がってしまうのではないでしょうか。中国が心配です。もし中国が崩壊すれば、われわれ両国にとっての危険はさらに大きなものになりましょう。私は米国がその行動を決める時に中国の主張に対して十分配慮がなされるものと確信しております。」
『昭和陸軍全史 3 太平洋戦争』川田稔著(講談社)より引用
暫定案によって一時的な和平が日米間に結ばれれば、中国やその他の諸外国にアメリカが中国を斬り捨てたかのように受けとられるリスクがあることは、アメリカもわかっています。
それでもアメリカが暫定案によって開戦を先延ばしにすることには、軍備を整える時間稼ぎができるという大きな魅力がありました。そのためには中国に多少の犠牲を強いてもやむを得ないと判断されていたからこそ、暫定案が作成されたのです。
アメリカは中国に対して武器や資金面での援助を与えたものの、日中戦争に際して「中国を武力で援助するようなことはしない」と、中国に何度も伝えていました。もともとアメリカには、中国のために日本と戦争をするつもりなどありません。
ところが、暫定協定案が妥結したとなると、中国と並んで大きな影響を受ける国があることがわかってきました。
それは、ソ連です。
独ソ戦の戦況は、ソ連側に危機的な状況が迫っていることを告げていました。首都モスクワにドイツ軍が近づきつつあるなか米英がもっとも恐れたのは、ソ連がドイツに屈し、単独講和を行うことでした。
そのことは米英にとって、まさに悪夢でした。独ソ戦がドイツの勝利に終われば、ドイツの全軍が向かう先はイギリスです。ソ連の降伏によって後顧の憂いをなくしたドイツ軍が上陸作戦を展開するとなると、イギリスが持ちこたえることは、まず不可能です。
ソ連の脅威がなくなれば、日本軍が全力で南進してくることも必至です。そうなるとイギリスの崩壊は避けられそうにありません。
イギリスが消えると、残るはアメリカのみです。地理的にも国際的にも孤立したアメリカの国力が、次第に低下の一途をたどることは当然です。そのことはやがて、アメリカの降伏を呼び込むことになります。
ソ連がドイツとの戦いをあきらめ、単独講和に踏み切る事態だけは、米英としてなんとしても避ける必要がありました。
ところがアメリカが暫定案によって中国を犠牲にしたとなると、ソ連もまた疑念を抱くかもしれないと危惧されました。中国のように米英の都合によって斬り捨てられるかもしれない、とソ連に考えられては一大事です。
独ソ戦の戦況が不利に陥ってもソ連を米英側に繋ぎとめておくためには、米英とソ連の間に信頼感という太いパイプを通しておくことが何より大切でした。
ルーズベルトにとってソ連の対独単独講和締結を避けることは、日本との開戦を先延ばしするよりも重要なことだったのです。
アメリカが中国を斬り捨てたとソ連に思われないようにすることが、アメリカにとっての国益でした。
だからこそアメリカは暫定案を放棄したのです。
つまりルーズベルトは中国というよりも、本当はソ連に配慮して暫定協定案を放棄したことになります。当時の世界情勢から見て、この論にはそれなりの説得力があるように感じられます。
その7.もし暫定案が日本に渡されていたなら……
もしアメリカの暫定協定案が当初の予定通り日本に手交されていたならば、日本が暫定案を受諾したのかどうかは気になるところです。歴史の if をたしかめる術はないものの、戦後に行われた東京裁判では、このことに関して訊問が為されています。
キーナン検事の訊問に対して東条英機は「もし米国側の暫定協定案が日本に手交されていたならば、日本側の乙案とは要点においてちがっているが、事態は大変に異なっていただろう」と証言しています。
wikipedia:ジョセフ・キーナン より引用
【 人物紹介 – ジョセフ・キーナン 】1888年 – 1954年
アメリカの法律家・弁護士。オハイオ州検事総長補佐官を経て連邦検事総長補佐官。極東国際軍事裁判ではアメリカ合衆国主席検察官兼連合国主席検察官を務めた。日本の戦争行為を〈文明に対する挑戦〉と糾弾したが、昭和天皇に関してはマッカーサーの意向を受けて免責を実現した。後に国連パレスチナ調査委員会アメリカ代表。
証言のあと、軍務課長の佐藤賢了が「あれは本当ですか」と尋ねたところ、東条は「君らには言わなかったが、あのとおり考えていたのだ」と答えています。
戦後の証言でもあり、当時の東条がほんとうにそのように考えていたのかどうかは不明ですが、佐藤は回想録にこう綴っています。
「東条の胸中を推察して残念でたまらなかった。ハルの変心を心から憎んだ。永久にこの憎しみは忘れない」
「暫定協定案とハル・ノートを取り換えたハルは実に戦争の悪魔にとりつかれたのだ。暫定協定案を日本に手交していれば、太平洋戦争は避けられ、日本は武力行使の機を逸し、米国は戦わずしてその極東政策を遂行し得たであろう」
佐藤の言葉は戦後になってからの言い訳とも受け取れますが、戦後になって暫定協定案が一夜にして破棄された事実をはじめて知った日本の政策担当者の多くが、同じような感想を抱いたことは事実です。
wikipedia:佐藤賢了 より引用
【 人物紹介 – 佐藤賢了(さとう けんりょう) 】1895(明治28)年 – 1975(昭和50)年
大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍省軍務局員のとき国家総動員法案を審議中の衆議院委員会にて「だまれ」と議員を一喝し問題となった。戦後のインタビューで「国防に任ずる者は、たえず強靱な備えのない平和というものはないと考えておる。そんな備えなき平和なんてもんは幻想にすぎん(汝平和を欲さば、戦への備えをせよ)。その備えを固めるためにはあの総動員法が必要であったのだ」と語った。南支那方面軍参謀副長として北部仏印進駐を進めた後に軍務局長となり、東条の側近として知られた。戦後は最年少のA級戦犯となり、極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けて服役。釈放後は東急管財社長を務め、ベトナム戦争反対運動に参加した。開戦時の陸軍中枢においてアジアの植民地解放に最も熱心であり、死の直前まで面談者には大東亜戦争は聖戦だったと主張していた。
実際に暫定協定案が日本に提示されていたならどうなったのか、それは「神のみぞ知る世界」です。
ちなみに暫定協定案を突然、放棄したとされるハルは戦後の1945(昭和20)年に日米交渉における努力を中心にした平和外交の推進が評価され、ノーベル平和賞を受賞しています。
そのことに多くの日本人が納得できない思いを抱いたことは、説明するまでもないでしょう。
ー 暫定案放棄に対する各国の反応 -
アメリカが関係各国に事前に通告していた暫定協定案が唐突に破棄されたことは、関係国を驚かせました。
26日の夜、ハルから電話で事情を聞いたハリファックス英国大使は、翌27日にウェルズ次官に対し「昨夜ハル長官から日本の大使に渡した文書内容の概略説明を受けた。議論してきた暫定協定案が提示されずに、なぜこのような急な変更を行ったのか理解できない」と抗議しています。
これに対してウェルズ次官は、理由のひとつはイギリス政府から繰り返された(中国を擁護する)質問であるとし、イギリスにも責任の一端があると答えています。
ハリファックスは「理解できない、英国政府は完全に支持するとハル長官と話し合ってきたではないか」と応じると、ウェルズは「昨日の大統領宛チャーチルのメッセージは『完全なる支持』と言えるようなものではなく、むしろ提案内容に関する重大な疑問の提起であった」と述べました。
このやり取りからすると、イギリス側にもコミュニケーションギャップが生じていたのかもしれません。
あるいはイギリスが開戦責任から逃れるために、暫定案破棄についてアメリカにわざとらしく抗議したと見る論もあります。
チャーチルにしても、日米交渉が期限までに妥結に至らなければ日本が開戦に踏み切る情報をつかんでいました。暫定案破棄は事実上、開戦を促すことを意味していました。
チャーチルとしてはイギリスの横槍が入ったことでアメリカが暫定協定案を破棄したとの印象を、米国民にもたれることを嫌ったのかもしれません。著書においてチャーチルは「イギリスがアメリカを戦争に引きずり込んだ、との印象を孤立主義の米国民に与えたくなかった」と述べています。
オーストラリアのケーシー公使も27日の夕方にハルと会談を行い、暫定協定案の望みはもうないのかと、質問を投げかけています。そこでもハルはチャーチルやイーデン外相からのメッセージに暫定案に対する賛意は見られなかったと言っています。
ケーシーは29日にオーストラリアが日米間の調停に入ることをハルに提案していますが、断られています。その際、ハルは「外交でどうにかなるという段階は終わった、外交交渉で得られるものは(もはや)ない」と答えたことが回顧録に記されています。
暫定案破棄の報せに喜んだのは中国です。中国では感謝を込めた覚書をハルに提出しています。
関係各国のなかで暫定協定案破棄に手放しで賛同したのは中国のみでした。イギリスに二面性があることは否定できませんが、中国以外の関係各国は暫定案破棄に疑問を呈していたのです。
暫定協定案が放棄されたため、日本側には基礎協定案のみが手渡されました。いわゆる「ハル・ノート」です。
日米交渉もいよいよ大詰めです。次回より、「ハル・ノート」について徹底的に掘り下げていきます。
初めまして、レキシジン様
昨年より学び直しの昭和史を始めて、やっと日米交渉まで来た8月に71歳なる
若い時分に何も勉強をせずに来た老人です。
この1週間ほど30/36~34/36がとても参考になりめのメモの取りました。ありがとうございます。
これから、全ての記事を拝読させていただきます。