第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
目次
日米開戦までのカウントダウン
File:The USS Arizona (BB-39) burning after the Japanese attack on Pearl Harbor – NARA 195617 – Edit.jpgより引用
日本軍の真珠湾攻撃により炎上する米戦艦アリゾナ
開戦阻止へ向けた最後の試みがすべて失敗に終わり、12月1日の御前会議にて開戦が決定される過程について、前回の記事にて紹介しました。
開戦に向けて日本も英米も着々と準備を進めていました。
日米交渉の最終回となる今回は、天皇宛大統領親電をめぐる日米両国の動きを追いかけながら、開戦か降伏か以外の選択肢があったのかどうかについて探ります。
4-14. そして、開戦へ
その6.天皇宛大統領親電をめぐる駆け引き
- 遅きに失した天皇宛親電 -
この間、マジックによって外交暗号電文が次々に解読されたことで、日本側の動きはアメリカに逐一筒抜けになっていました。
アメリカがことに重要と受け取ったのは、外務省が在米・英・蘭領外交機関に対し、暗号書および暗号機械の処分を命じた二日付電報です。これは国交断絶前には、どの国でも必ず行われることでした。
つまり、アメリカは日本がまもなく武力行使に出ることを、この時点で確信したことになります。
真珠湾という場所まで特定できたかどうかは別としても、日本が開戦の火ぶたを切ることは、もはや疑う余地がないとルーズベルト政権は認識しました。日本が最初の一弾を放つことを、ルーズベルトは息を潜めて待っていたのです。
真珠湾攻撃に至るまでの動きのなかで、ことに注目されるのが12月6日の午後9時に東京のグルー大使に宛てて送信された、ルーズベルトからの天皇宛大統領親書です。
● 開戦まであと2日 = 1941年12月6日
「平和を希望する友好的表現がなされていると同時に対日警告を意味する」天皇宛大統領親書を日本に送ることは、11月28日の会議ですでに決定していました。
その際、ハルは天皇宛親電を送る期日について、「日本の攻撃がほとんど開始される時まで延期するよう」に説いています。
それが実行に移されたのは、ルーズベルトが宣戦布告に等しい13本の日本の覚書をマジック情報として確認した後でした。
天皇宛親電の中身は、日本軍の仏印からの撤兵を求めるものです。日本軍が仏印より撤兵した後にアメリカ軍が侵入する意図はないから、南太平洋の平和のために仏印から撤兵してほしいと訴えていました。
天皇宛親電が発信されたのは、日本時間の7日午前11時過ぎです。その直前、ハルはグルー大使に対して「大統領の陛下宛親電を暗号に組んでいるから、到着しだい大至急に天皇に伝達するよう手配せよ」との「超緊急」の電訓を送っています。
さらにルーズベルトは天皇に向けて親電を打つことを、アメリカの報道機関に事前に公表しました。
このことはアメリカが最後まで平和に向けて努力していた印象を米国民に植え付けることに大きく貢献しています。
米側のプレスを通じて日本側も天皇宛親電が発信されたことを知り、外務省も天皇もその到着を待っていました。
逓信(ていしん)省に親電が届いたのは7日の昼頃です。ところが真珠湾攻撃が間近に迫っていたため、参謀本部からの防諜対策として、外国から届いたすべての電報は5時間から10時間、届けるのを遅らせるようにとの指示が極秘で出されていました。
● 開戦まであと1日 = 1941年12月7日
それでも大統領から天皇に宛てた特別な電報であったため、逓信省より参謀本部通信課にどう処置すべきかを問い合わせています。
参謀本部の答えは「米大使館への配達を10時間遅らせるように」でした。結局、米大使館に配達されたのは夜10時頃、そこから解読と清書が行われ、グルー大使と東郷外相が緊急会見を行ったのが8日の午前1時過ぎです。
東郷外相はすぐに天皇への謁見を希望し、木戸に電話を入れています。木戸は「この重大問題に関しては、陛下は決して深夜の拝謁を御厭(いと)いにならぬと信ずるが、それについてはまず首相に一言相談するがよい」と答えています。
そこで東郷は官邸に赴き、東条に事の次第を告げました。それが午前1時58分のことです。親電を目にした東条は東郷に静かに、次のように告げたとされます。
「いずれにしても、もう何の役にも立たない。海軍の飛行機は、今ごろは母艦を発進して、真珠湾の上空に迫っているはずだ」
空母赤城と加賀より真珠湾攻撃の第一次攻撃隊183機が飛び立ったのは、日本時間の午前1時45分です。もはや親電にはなんの意味もありませんでした。
真珠湾攻撃について初めて聞かされた東郷は、倒れんばかりに驚いたと伝えられています。外相にまで伏せられるほど、真珠湾攻撃は秘匿されていたのです。
天皇が実際に親書を手にしたのは午前3時でした。真珠湾攻撃が開始される30分前です。もはや遅きに失したことは明らかです。
- 天皇宛親電はなぜ出されたのか -
とはいえ、たとえ参謀本部の妨害がなく、もっと早く親書が届けられたとしても、事態は何も変わらなかっただろうと見られています。
天皇も次のように綴っています。
幸か不幸か、この親電は非常に事務的なもので、首相か外相に宛てた様な内容のものであっ〔た〕から、黙殺出来たのは、不幸中の幸であったと思ふ。
『昭和天皇独白録』寺崎英成著(文藝春秋)より引用
この親書を事務的と見るかどうかは議論が分かれるところですが、アメリカは単に仏印からの撤兵を求めるのみで、日本の生存を左右する通商問題についてはひと言もふれていません。実りある提案が何もなく、ただ仏印からの一方的な撤兵を求められても、開戦手前の日本が応じられるはずもないことは明らかです。
これでは日本が応じられないことを見越して、あえて厳しい内容にしたとみられても仕方ありません。実際、天皇宛親書の作成過程をたどると、不可解さが増します。
この親書の原案を作ったのはハルです。ハルが起草した親書のなかには、日中の90日間停戦や太平洋関係諸国の軍隊移動の禁止、在仏印日本軍の7月26日現在への縮小、日中両国の平和交渉の開始などが盛り込まれていました。
それはハルが直前に断念した暫定協定案を復活させたような内容でした。このことからハルがなお、暫定協定案にこだわっていたことが推察されます。
ところがルーズベルトは、この案を採用することなく、単に仏印撤退を求めるだけの素っ気ない親書を送っています。あたかも、日本が開戦の一歩手前で翻意し、武力行使を断念しては困るとでもいうかのように……。
こうした事実から、天皇宛親電についてはアメリカが真に平和を求めたわけではなく、平和を求めて親書を出したという記録を留めることで、米国の世論を引きつけ、後世からの誹りを免れようと画策したのだと、一般的には考えられています。
4-15. 開戦は避けられたか
その1.開戦か降伏以外の選択肢とは
- 交渉妥結のチャンス -
およそ8ヶ月に及ぶ日米交渉を振り返ったとき、交渉が妥結し、日米間に和平が結ばれるチャンスが幾度かあったことはたしかです。
交渉が始まってまもなく日米諒解案が提出された折、松岡外相が意地を張ることなく、国益を第一に和平を推進していれば、早期に交渉がまとまる可能性は高かったと見られています。
▶ 関連リンク:2.日米諒解案 – その14.日米交渉の潮目を変えた独ソ開戦
次に、日本の南部仏印進駐にあわせてルーズベルト大統領による「仏印の中立化提案」が為されたときも、絶好の機会でした。
▶ 関連リンク:3.南部仏印進駐と日米交渉 – 2.日米諒解案 – その4.宙に浮いた仏印中立化案
日米交渉の終盤では日米ともに暫定案を検討していました。そうであるならば米側の「仏印の中立化提案」をもっと真剣に受け止め、南部仏印からの撤兵に応じることで事態の沈静化を早期に図る選択もあり得たでしょう。
最後の機会となったのは、日本側が乙案を提出する前に野村大使が私案を独断でアメリカ側に手渡したときのことです。その内容はルーズベルトの「仏印の中立化提案」に近く、ワシントンは日米和平を歓迎する空気に満ちていました。
▶ 関連リンク:11. 乙案による日米交渉- その3.野村の独断による新提案
東郷外相がアメリカ側の空気を読み、野村私案を認める方向で軍部との折衝に望めば、活路が開けた可能性もあったと考えられています。
しかし、日本側はいずれの機会も活かすことができないまま見送り、交渉妥結には至っていません。
交渉決裂によって日本は米英蘭を相手に、大東亜戦争を起こすことになります。
- フィッシュの後悔 -
では、当時の日本に戦争以外の選択肢は、ほんとうになかったのでしょうか?
ハル・ノートによって日本は開戦か降伏かの二者択一を迫られたと、当時の政策決定者らが考えたことは既述の通りです。
しかし、その他の選択肢をあげる識者もいます。たとえば、ハル・ノートを公開することで米議会や米世論に訴える方法です。
ルーズベルト政権はハル・ノートという最後通牒を日本に対して発したことを、米議会にも国民にも隠しました。
当時、米下院議員を務めていたハミルトン・フィッシュは、これについて次のように述べています。
私たちは、日本が和平交渉の真っ最中にわが国を攻撃したものだと思い込んでいた。一九四一年十一月二十六日の午後、国務省で日本の野村大使に最後通牒が手交された。それはハル国務長官が手渡したものである。ワシントンの議員の誰一人としてそのことを知らなかった。民主党の議員も共和党の議員もそれを知らされていない。これは戦争を始めたくてしかたがないFDR政権の巧妙な陰謀にほかならない。
『ルーズベルトの開戦責任』ハミルトン・フィッシュ著(草思社)より引用
フィッシュはルーズベルト陰謀論を主張する一人です。陰謀が実際にあったのかどうかはともかくとして、ルーズベルトが米議会にも国民にもハル・ノートについて隠したことは事実です。
真珠湾攻撃が行われた直後、フィッシュはルーズベルトの対日宣戦布告を支持する演説を行っています。その要旨は次の通りです。
日本海軍と航空部隊は、不当で、悪辣で、恥知らずで、卑劣な攻撃を仕掛けてきた。日本との外交交渉は継続中であった。大統領は、日本の天皇に対してメッセージを発し、ぎりぎりの交渉が続いていた。日本の攻撃はその最中に行なわれたのである。このことによって対日宣戦布告は不可避となった、いや必要になったのである。
参戦の是非をめぐる議論の時は終わった。行動する時が来てしまった。
干渉主義者もそうでない者も、互いを非難することをやめるときが来た。今こそ一致団結して、大統領と、そして合衆国政府を支えなければならない。一丸となって戦争遂行に邁進しなければならない。日本の(信義を裏切る)不誠実なわが国への攻撃に対する回答はただ一つ。完全なる勝利だけである。われわれは血も涙も流さねばならないだろうし、戦費も莫大になろう。しかし、日本による一方的なわが国領土への攻撃に対しては戦争によって対処するしかなくなった。
『ルーズベルトの開戦責任』ハミルトン・フィッシュ著(草思社)より引用
このときのフィッシュの怒りは、多くの米国民に共通する思いであったことでしょう。日米交渉が行われている最中に、なんの前触れもなく、日本が突然軍事攻撃を仕掛けてきたと思い込まされていた米国民は、日本人に対する激しい憎悪に駆られ、それが東京大空襲などをはじめとする民間人の殺傷を狙った報復を呼び込み、やがては原爆投下へとつながっています。
ところが、フィッシュは後年、このときの演説を大いに後悔することになります。ルーズベルトの死後、日米交渉の経過についての詳細やマジックによる外交暗号解読の実態が、次第に明らかにされたためです。
ハル・ノートの内容がはじめて公開されたのも、このときです。形式上はどうであれ、ハル・ノートが日本に対する最後通牒であると、フィッシュは判断しました。その結果、小国日本が大国アメリカに我が身の危険を省みることなく襲いかからなければならなかった切実な理由を、フィッシュははじめて知ります。
はじめの一弾を撃たせるために、ルーズベルト政権が日本を挑発し続けたことを知ったフィッシュは、ルーズベルトを支持する演説を行ったことを深く恥じ、『ルーズベルトの開戦責任』を著すことで、その正否を世に問うたのです。
- 米国世論への働きかけ -
日米交渉において日本から甲案と乙案が提案されていたことさえ、米議会も国民も一切知らされていませんでした。
甲案と乙案が公開されたことで、中国からの撤兵についても仏印からの撤兵についても日本に譲歩する用意があったことを、議会も国民もはじめて知ったのです。
日本側が大きく歩み寄っていたと後に知ったことで、ルーズベルト政権の対応によっては戦うことなく和平が得られたと考える識者はアメリカにも多数います。
そのことによってアメリカではルーズベルトの開戦責任を問う人々も多く、今日に至るまでルーズベルト陰謀論が絶えることなくささやかれています。
こうした事実から、もし日本がハル・ノートを受け取った後に、その内容や日米交渉の経過についてすべてを公開し、米議会や世論に訴えていたならば、ルーズベルト政権が窮地に立たされた可能性を否定できません。
近衛内閣が何度も首脳会談の開催について呼びかけていたにもかかわらず、ルーズベルトがそれを拒否し続けたことを知れば、アメリカの世論が対日戦争回避に向けて動いたかもしれません。
ルーズベルトが一貫して対日戦争における米国世論の行方を気にかけていたことからも明らかなように、ルーズベルト政権にとってのアキレス腱は米国の世論でした。
日本が米国の世論に直接働きかけるような行動を起こしていれば、開戦という最悪の事態を回避できた可能性が残されていたと言えそうです。
その2.帰着点としての開戦
日米交渉を振り返ったとき、日本側のたどたどしい外交ぶりが嫌でも浮かび上がってきます。首相も外相も大使も軍部もバラバラに動いている様は、内部の不統一ぶりを露呈しています。
日本に国家としての一貫して定まった方針がなかったことは、南部仏印進駐が決定された過程を追いかけてみるだけでも明らかです。
▶ 関連リンク:3.独ソ戦の衝撃がもたらした南進への道 – その5.武力行使も辞さない南部仏印進駐への道
このような状態の日本が日米交渉においてアメリカの手のひらの上で踊らされる状況を招いたことは、無理からぬ事であったと言えるでしょう。
これまで見てきたように、アメリカが日米交渉をもった一番の目的は、アメリカ側の戦争準備が整うまでの時間稼ぎにあったことは明らかです。
実際のところ、もし日米交渉がまったくもたれることなく、日本がもう6ヶ月早く開戦に踏み切っていたならば、実際にたどった歴史とはかなり様相が異なる展開となっていたことは、多くの識者や研究者によって指摘されています。
半年早ければ、まだ米英蘭の防備が固まっていないだけに、日本にとって極めて有利であったことは想像に難くありません。
日米交渉に費やした8ヶ月は、米英にとって戦争準備を整えるための貴重な時間になったといえるでしょう。もっとも、それだけの時間を稼いでも、緒戦における日本の快進撃に世界は驚愕せざるを得なかったのですが……。
日米交渉では、けして日米が平等な立場で折衝を重ねたわけではありません。外交には常に軍事力や経済力などの総合国力が大きな影響を及ぼします。
日米交渉を通して日本の生殺与奪の権利を握っていたのは、明らかにアメリカでした。
日本としては独立国としての体面を保ちつつ、生存を確保できる落としどころを見つけようと譲歩を重ねてきましたが、アメリカが理想とする原則論は現実的に横たわる諸問題を考慮することなく、一切の妥協を拒みました。
ときにはその背景に、人種的な偏見に基づく悪意が介在していたことも事実です。
結局、日本は開戦を選びました。
もし、あのとき、現実的には戦わずして降伏することに等しかったとしても、それでも臥薪嘗胆を選んでいれば、今とは違った歴史が紡がれていたことは間違いありません。
国家間の外交には両国の認識のずれが常につきまとうものですが、日米交渉では最初から最後まで、相互に芽生えた誤解をほどくことができませんでした。そうした国家間の認識のずれが幾層にも折り重なることで相互に不信感を募らせ、日米交渉は日米開戦という帰着点へ向かわざるを得なかったのです。
真珠湾攻撃の一報がラジオを通して国民に知らされたのは、12月8日の午前7時の時報の直後でした。
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます」
アナウンサーの興奮した声がラジオから響きました。
「大本営陸海軍部十二月八日午前六時発表──帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
ついに日本は対米英蘭戦争の口火を切ったのです。<注釈 - 14-2>
一般的に真珠湾攻撃から開戦したと思いがちですが、それは対米戦に限ってのことです。対英米蘭戦については、真珠湾攻撃に先立つ1時間ほど前にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルへの上陸を敢行した日本軍が、海岸線で英印軍と交戦しています。
対英米蘭戦の戦端が開かれたのは、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲を行った、このときのことです。
なお、イギリスではアメリカと異なり、宣戦布告前の開戦を問題とする世論はありません。20世紀に行われた戦争を見ても、宣戦布告をしてから開戦に至るケースは、実際には極めてレアなことがわかります。