第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
第3章.大東亜戦争への道筋 -1.帝国主義の時代-
私たちの父祖がなぜ大東亜戦争を戦ったのかを知るために、前回まで「白人による有色人種殺戮と略奪の500年」について追いかけてきました。今回からは、大東亜戦争へと至った道筋をさかのぼってみます。
そのはじまりは、ペリーの黒船来航による開国でした。ペリーの黒船が初めて浦賀に姿を見せた1853年から大東亜戦争が始まる1941年までの88年間に、いったい何があったのでしょうか?
目次
1-1.なぜ明治維新は起きたのか?
その1.開国はゴールドラッシュとともに
江戸幕府が日本から宣教師をはじめとする白人を締め出し鎖国に入ることができたのは、当時の日本の傑出した軍事力があったからこそでした。そして1854年、ペリーの黒船来航により開国を余儀なくされたのもまた、欧米列強の強大な軍事力に屈したためでした。
wikipedia:マシュー・ペリー より引用
マシュー・ペリー1794年 – 1858年
江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国への交渉を要求したことで知られる。
ペリーがアメリカの国書を日本に手渡す際、白旗二竿を一緒に送ったことはあまり知られていない事実です。白旗には「日本が開国を拒むのであれば日米戦争になる、そうなれば文明国のアメリカが野蛮国の日本に当然勝つから、日本は和睦(わぼく)のためにこの白旗を揚げよ」との説明書きが添えられていました。
砲艦外交と言われる由縁です。
やがて通商条約が欧米列強との間に交わされます。学校の授業でも習う「不平等条約」が、これです。この条約には、3つの不平等が定められていました。
1.貨幣の交換は日本の金銀比率に合わせること
2.外国人が日本で犯罪を犯しても本国の法律で裁かれること(=領事裁判権)、つまり日本人が外国人を日本の法律で裁くことはできない(=治外法権)
3.関税を決める権利(=関税自主権)が日本にないこと
このような不平等条約を結んだのは、欧米列強の軍事的な脅威が背景にあったからとされていますが、数々の歴史書を紐(ひも)解いてみると、国際法を知らない日本人が欧米人にだまされた面が強いようです。
ことに日本の金銀比率と国際的な金銀比率が異なることは、前代未聞のゴールドラッシュをもたらしました。当時、日本の金銀比率は 1:5 でしたが、世界的には 1:15 だったのです。
交換比率の違いは、大きな為替差益を生みました。つまり、銀貨5枚を横浜の両替所で金貨1枚に替え、急いで上海に行って銀貨15枚に両替したあと、再び横浜で金貨3枚に両替する、これだけで元金は3倍に跳ね上がります。
実際には袋いっぱいに詰めた銀貨で両替を行うため、横浜と上海の往復を繰り返すだけで外国人であれば誰でも大金持ちになれたのです。
多くの白人たちがゴールドラッシュを求めて日本に群がりました。まさに当時の日本はマルコ・ポーロが著した「黄金の国」でした。
このときの様子を、イギリスの初代駐日総領事のオールコックは「日本人の金貨はかれらが絶望するほど連日多量に持ち出された」と綴っています。
それでも日本人の律儀さは今も当時も相も変わらず、条約を守り、遠来のお客様のために毎日24時間休むことなく両替所を開いていました。
その間、幕府はなにひとつ有効な手段をとることができませんでした。日本からは大量の金貨が流出し、いよいよ底をついたとき、この事態を見かねたアメリカ領事のハリスは金銀の交換比率を国際標準に上げるようにと、幕府の役人にアドバイスを送ります。
wikipedia:タウンゼント・ハリス より引用
タウンゼント・ハリス1804年 – 1878年
アメリカ合衆国の外交官。初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使。日本の江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。
忠告に従って危機を脱出した当時の幕府は、ハリスに大変感謝をしています。しかし、こうなると知ってて条約に予め罠を仕掛けたのはハリス自身です。また、ハリスも金銀比率の違いを利用して大儲けしたことを日記に綴っています。
性善説を根底に抱える日本人の人の良さは、当時から際立っていたようです。
金の海外流出と日本国内を襲った突然の金銀交換の比率変更は、国内の金融を大混乱に陥れ、日本経済はたちまち危機に瀕しました。食料品は高騰し続け、鎖国時代にはありえなかったほどの貧困と悲惨が国内を包み込んだのです。
その頃、来日していたオランダの軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトは次のように綴っています。
「我々白人に対して、日本人から呪いと罵りの言葉しか聞こえなくても、不思議ではない。一般庶民ほど、我々の罪によって一層深く貧困に沈んでいったのである」
その2.日本はすでに植民地だった!?
やがて一冊の本が日本語訳されて出版されました。アメリカの著名な法律家ヘンリー・ホイートンの著した『万国公法』という書籍です。これを読んで日本人はがく然としました。
領事裁判権を認めたり、関税自主権を放棄することが国際的なルールなのだの教えられたことが、真っ赤な嘘に過ぎないとわかったからです。すべては正反対でした。欧米の間では領事裁判権など認められておらず、関税自主権も各国ごとにしっかり握られていたのです。
だまされていたのだと初めて知り地団駄踏んだものの、後の祭りです。一度結んだ条約を改正する気など、欧米にはまったくありませんでした。
そもそも領事裁判権の原則は、欧米各国と植民地の間でのみ適用されるものでした。このことは要するに欧米にとって日本は、植民地として扱われたことを意味しています。
ゴールドラッシュで日本に押し寄せて来る白人たちにしても、植民地となった他のアジア諸国と同様に、自分たちこそが日本人のご主人様であるように振る舞いました。
フランス人医師は綴っています。
「我々は日本人の尊敬を全く失ってしまった。洗練されたマナーや高貴な道徳ばかりでなく、人間としての最低限の要件まで失ってしまった。最も品位に欠けたヨーロッパ人が来るようになってから、日本人の心の平和と幸せはめちゃめちゃにされてしまった。白人のいるところには、いつも危険と恐怖があった。
酔っ払って大暴れする、私と同じ人種の黄金の亡者たちのやることは、悪行ばかりだった。彼らはわめき声をあげながら町を歩き回り、店に押し入り、略奪した。止めようとする者は蹴られ、殴られ、刺し殺され、あるいは撃ち殺された。我が同胞たちは、通りで婦女を強姦した。寺の柱に小便をかけ、金箔の祭壇と仏像を強奪した」
横浜でも江戸でも、同じような略奪と殺人・暴行が相次ぎました。しかし、白人には領事裁判権が認められていたため、日本の法律で裁くことはできなかったのです。
白人たちは本国の法律で裁かれましたが、そこに正義はありませんでした。数人を殺した白人を現行犯逮捕し、詳細な報告書を作成して領事の監督下に引き渡しても、証拠不十分により不起訴になるばかりです。
そればかりか逮捕された白人たちは、日本当局による逮捕は自由の剥奪行為であると訴え、銃器を取り上げられたことは窃盗であると主張し、慰謝料や損害賠償を要求してくる始末です。その場合、日本は損害賠償を支払うことで事を収めました。
西欧列強の植民地となった他のアジア諸国と同様に、白人が有色人種である日本人を殺しても暴行を加えても、罰せられることはなかったのです。
一方、白人に対する犯罪は極刑をもって罰せられました。無法を働く白人を殺傷した日本人は、幕府によって情け容赦なく首をはねられました。どうしても犯人が見つからない場合もありましたが、西欧列強は犯人の処罰を要求してくるため、証拠がなくても容疑者の
誰かを処刑するよりありませんでした。
西欧列強がこれを口実に日本に対して軍事力を行使してくることを、幕府は心底恐れたのです。当時の日本は鎖国に踏み切った頃とは違い、欧米に対抗できるほどの軍事力など持ち合わせていません。
力がない以上、欧米列強のやることがどれだけ不正義であっても、抗うことはできません。このように不平等条約の本質は、欧米列強から見て日本を半植民地状態においたことにあります。
その3.日本人は白人に抗う道を選んだ
欧米人から見ると、当時の日本人は他の有色人種と同じく劣等民族でした。イギリスの駐日総領事のオールコックは記しています。
「彼らは偶像崇拝者であり、異教徒であり、畜生のように神を信じることなく死ぬ。呪われ永劫の罰を受ける者たちである。畜生も信仰は持たず、死後のより良い暮らしへの希望もなく、くたばっていくのだ。詩人と、思想家と、政治家と、才能に恵まれた芸術家からなる民族の一員である我々と比べて、日本人は劣等民族である」
wikipedia:ラザフォード・オールコック より引用
ラザフォード・オールコック1809年 – 1897年
イギリスの医師、外交官。初代駐日総領事、同公使を務めた。
このような人種差別は、なにもオールコックが熱心なキリスト教徒で特別だったからではありません。白人が日本人を含め有色人種を劣等民族と見なすのは、大航海時代から続くごく当たり前の感覚でした。
何度もふれていますが、今日とはまったく異なる価値観の世界が広がっていたことに注意して下さい。
ところで、左翼史観に染まった歴史書を読んでいると、この頃の日本がすでに大国として描かれていることがよくあります。それは正しい歴史とはいえません。
明治が始まったばかりの日本は、経済力も軍事力も欧米列強とは比較にならないほど弱小の小国に過ぎませんでした。
図らずも欧米列強の前に膝を屈した状態におかれた日本がとれる選択肢は、限られていました。このまま欧米列強の白人をご主人様と慕い隷従するか、それとも欧米列強に抗えるだけの国力をつけるかの二者択一です。
世界は帝国主義のまっただ中にありました。そこに広がっていたのは、弱肉強食の世界のみです。文明国である欧米列強が非文明国である有色人種の国を自由に踏みにじり隷従させ、植民地として搾取を続けていた時代です。
帝国主義とは?
帝国主義(ていこくしゅぎ、英語: imperialism)とは、一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、あるいは新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策。引用wikipedia:帝国主義
欧米列強の飽くなき野望は 1800年頃には地球の陸地の35%を支配するに至り、第1次世界大戦が始まった1914年には、ついに84%にまで達しています。
こうした歴史の流れを見ていけば、日本がこのまま座してじっとしているならば、欧米列強のいずれかの植民地となるのは火を見るより明らかでした。
私たちの父祖が選んだのは、後者でした。日本人は一丸となって西欧列強の白人に抗う道を選び、近代化への道を歩き始めました。
そのためには、西欧と同じく国民国家を建設する必要がありました。そうなると旧態依然とした幕府は邪魔なだけの存在です。こうして改革の機運は日本中に広がり、明治維新へと繋がっていったのです。
1-2.国是は独立自尊、目指したのは不平等条約の改正
その1.すべては日本を守るために・・・
日本にとって不平等条約は屈辱でしたが、その一方で不平等条約を結んだことが欧米の日本侵略に対する防波堤になったことも事実です。なぜなら通商条約を結ぶということは、主権国家として認められたことを意味するからです。
「白人による有色人種殺戮と略奪の500年」のなかで、欧米列強による侵略の根拠となった「先占の権限」について紹介しました。先占の権限によって、その地にどんな文明が栄えていようとも欧米列強が無主地と見なすと、無条件に侵略する権利が与えられました。
開国時の日本は半文明国と見られてはいたものの、条約締結によって西欧列強から主権国家であることが認められたため、一方的に侵略される危険からは救われたのです。
各国と不平等条約を結ぶことで、貿易上の利益を有する欧米列強が相互に日本を監視し合うことになりました。もちろん、だからといって侵略されるリスクがゼロになったわけではありません。
中国やインドのような大国でさえも、列強の圧倒的な暴力の前に膝を屈しています。まだ小国に過ぎない日本は、自らの生存をかけて1日も早く近代国家へと生まれ変わる必要がありました。
ただし改革は必要でも、それに伴う大きな内乱を抑えることが求められました。大国であったインドのムガル帝国がイギリスの侵略を許したのも、インドで起きた内乱を利用されたからです。
明治維新の最中においても、欧米列強による侵略の魔手は確実に伸びていました。
イギリスは薩長連合に、フランスは幕府に接近し、日本で大きな内乱が起こるチャンスをうかがっていたのです。官軍と幕府で事態がこじれれば、日本を舞台に英仏戦争が起こる可能性さえありました。
そうした最悪の事態を避けることができたのは、薩摩藩の西郷隆盛と幕府側の勝海舟が話し合いで実現させた江戸城無血開城でした。
wikipedia:西郷隆盛 より引用
西郷隆盛(さいごう たかもり)1828(文政10)年 – 1877(明治10)年
江戸後期-明治時代の武士・政治家。薩摩藩出身の志士。討幕・明治維新の指導者として、薩長同盟・戊辰戦争を成し遂げ、維新の三傑の一人と称される。新政府の参議・陸軍大将となるも征韓論に敗れて下野。西南戦争に敗れ、城山で自殺を遂げた。
wikipedia:勝海舟 より引用
勝海舟(かつ かいしゅう) 1823(文政6)年〉 – 1899(明治32)年
幕末・明治の幕臣・政治家。咸臨丸の艦長として太平洋を横断。帰国後、軍艦奉行となる。戊辰戦争では幕府側代表として江戸無血開城を実現した。新政府の海軍大輔・参議兼海軍卿・元老院議員を歴任。余生は旧幕府の歴史の著述に努め、『氷川清話』や『海舟座談』などを著した。
また、官軍と幕府軍による戊辰(ぼしん)戦争の際、鳥羽・伏見の戦いにおいて徳川慶喜が兵を捨てて逃げたことも、大がかりな内戦になることを防ぎました。名君の誉れ高かった慶喜が、卑怯者となじられても日本を救うためにあえて退却したのではないかと推測する説もあります。
wikipedia:徳川慶喜舟 より引用
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)1867(慶応2)年 ‐ 1868(慶応3)年
江戸幕府15代将軍。一橋家を相続。英明と評され、尊攘・幕政改革派に擁され家茂と将軍継嗣を争ったが、そのときは実現しなかった。家茂の後見職として公武合体策を推進。将軍となってのち、幕政改革をはかった。大政を奉還し、江戸幕府最後の将軍となった。のちに公爵に列す。
慶喜の真意は今となってはわかりませんが、当時の支配階級であった武士が外国から日本を守りたいという一念から、既得権益を自ら放棄したことはたしかです。
当時の日本人は自分の利益よりも国益を第一に考え、欧米列強の侵略を許さない国造りに身を投じたのです。
混乱を避けるために王政復古の大号令がなされ、それまでの支配者をすべて入れ替えることで、天皇を中心とする明治新政府が組織されました。
その2.独立自尊の旗の下に
明治に入り、日本の近代化は急速に進められました。当時の日本人が必死に追い求めたものは、日本を欧米列強の植民地にされないこと、日本の独立をなんとしても守ることでした。
明治期に盛んに口にされた「独立自尊」とは、「独力で自立して、自ら尊厳を守ること」を意味します。つまり、第一に欧米列強に侵略されることなく独立を守ること、次に欧米列強と対等な立場の国家になること、それこそが日本の国是でした。
欧米と対等になるために、日本を事実上の半植民地状態においている不平等条約を改正することが急がれました。
1871年(明治4年)、岩倉具視を正使として伊藤博文・大久保利通・木戸孝允らは岩倉使節団として、およそ2年をかけて日本が条約を結んでいる欧米各国を訪れ、不平等条約を改正するための第一歩を踏み出します。
wikipedia:伊藤博文 より引用
伊藤博文(いとう ひろぶみ)1841(天保12) – 1909(明治42)年
明治時代の政治家。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣。長州藩の下級武士として松下村塾で吉田松陰に学び、尊王攘夷運動に参加。イギリスに留学後、倒幕運動に身を投じる。
倒幕後は新政府のもとで改革に取り組み、初代総理大臣に就任。その後、枢密院議長となり 1889年に大日本帝国憲法発布。新政府の重職を務めたのち初代韓国統監に任命される。日韓併合に反対していたが、ハルビン駅で安重根に暗殺された。
wikipedia:岩倉具視 より引用
岩倉具視(いわくら ともみ)1825(文政8)年 – 1883(明治16)年
幕末・明治時代の公卿・政治家。公爵。幕末に公武合体を説き、のち王政復古の実現に参画。明治維新後は参与・大納言等を歴任し廃藩置県を断行。特命全権大使となり岩倉使節団を率いて欧米各国を歴訪。帰国後征韓派を退け、内治優先・天皇制確立の政策を遂行。
明治憲法の制定に尽力。
wikipedia:大久保利通 より引用
大久保利通(おおくぼ としみち)
幕末-明治時代の政治家。維新の三傑の一人。薩摩藩士。西郷隆盛・岩倉具視と結んで討幕運動の中心となり、明治政府を樹立。参議となり版籍奉還・廃藩置県を行う。岩倉使節団の副使として随行し、帰国後は内治優先を主張して征韓派を辞職に追込んだ。内務卿として事実上政府の実権を握り、地租改正事業・殖産興業政策を行うことで資本主義発展に努め、絶対主義的天皇制の布石を敷いた。紀尾井坂の変で暗殺された。
wikipedia:木戸孝允 より引用
木戸孝允(きど たかよし)/ 桂 小五郎 (かつら こごろう)
幕末・明治時代の政治家。初め桂小五郎と称し、のち木戸姓となる。維新の三傑の一人。長州藩士として吉田松陰に学び、討幕の志士として活躍。明治維新後、五箇条の御誓文の起草・版籍奉還・廃藩置県などを主導。岩倉使節団の副使として外遊後は内治優先を唱える。台湾出兵に反対し、独裁を強める大久保利通と対立して下野。西南戦争中に京都にて病没。
日本は行く先々で国際条約を盾に、不平等条約の改正ができないものかと食い下がりましたが、まともに取り合ってくれる国はひとつもありませんでした。国際法に照らし合わせるならば、正義は日本の側にありました。
しかし、国際法は欧米の間に適用されるルールに過ぎず、半植民地扱いされた日本には適用されなかったのです。
結局のところ、半植民地状態から抜け出すためには欧米列強から文明国として認めてもらうよりありませんでした。それには西欧の真似をするのが一番良いだろうと、鹿鳴館(ろくめいかん)では毎晩のように舞踏会が開かれ、西洋のものであればなんでもよいからと政治・経済体制はもとより国民の風俗に至るまで、多くのものが西洋化されました。
なかでも初代文部大臣となった森有礼は、日本語を廃止して英語を日本の国語に定めようとまでしました。こうしたことが国粋主義者の怒りを買い、森は暗殺されました。
wikipedia:森有礼 より引用
森有礼(もり ありのり)1847(弘化4)年 – 1889(明治22)年
明治時代の外交官・政治家。薩摩藩士。藩命で英米に留学後、新政府につかえたが廃刀案を否決され辞職。再び政府に迎えられ、初代文部大臣として日本近代学校制度の骨格を造った。国粋主義者により暗殺された。
急速な西欧化と日本の伝統を守ろうとする2つの勢力がせめぎ合ったのが明治初期です。そこで、西洋からの優れた学問・知識・技術などを取り入れて活用しながらも、日本古来の精神を大切にしながら両者を調和・発展させていこうとする「和魂洋才」が唱えられるようになりました。
独立自尊の旗の下に力を一つにしながらも和魂洋才を忘れることなく、日本は近代化への道をひたすら突き進んでいきました。
その3.明治憲法こそは文明国の証
近代国家の要となる議会制と憲法の制定も急がれました。ことに憲法制定にあたっては「有色人種である日本人のような半文明国の民に、高度な西欧文明が生んだ憲法の如き高尚なものを運用できるはずがない」とする欧米の冷ややかな視線が注がれていました。
実際、有色人種であるトルコ人が治めるオスマン・トルコ帝国では 1876年に憲法を施行しながらも、その2年後には憲法を停止し、皇帝専制に逆戻りしています。
オスマン帝国でさえ失敗した憲法を日本に根付かせることは、欧米列強に日本が文明国であると認めさせるための重要な試金石でした。
憲法制定にあたり伊藤博文は、単に欧米列強の憲法を真似るのではなく、日本古来の伝統に根差した憲法を作り上げました。1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法は公布されました。
現在では明治憲法は民主的ではないと否定的に捉えられることが多いものの、当時は世界的に高く評価されました。そこに明記されている国民の権利は、同時代の欧米の憲法と比較しても一歩進んだ内容でした。
「ここまで国民に権利を与えて大丈夫なのか?」と、欧米の憲法学者が心配するほどに進歩的だったのです。イギリスの社会学者スペンサーは「自由を大盤振る舞いした」と、驚いています。
ただし、後の時代が証明するように欠陥があったこともたしかです。「陸海軍は天皇に直属する」と明記されているにもかかわらず、内閣や首相についてひと言もふれていないことは致命的でした。
このことについて渡部昇一は次のように綴っています。
憲法に首相も内閣もなく、したがって条文上、軍のことに政府が口出しできないと分かったとき、”昭和の悲劇”は始まった。これ以来、日本政府は軍部の意向に逆らうことはできなくなった。その結果、シナ大陸での戦争は止めどなく拡大し、挙げ句の果てには、日米開戦に突入することになったのである
「かくて昭和史は甦る」渡部昇一著(クレスト選書)
明治憲法に内閣や首相についての規定がないのは、天皇の権限が縮小されないように配慮したためと言われています。
wikipedia:明治天皇 より引用
明治天皇(めいじてんのう)1852(嘉永5)年- 1912年(明治45)年
第122代天皇。在位1867~1912。日本最初の立憲君主。御名は睦仁(むつひと)。天皇親政の下に王政復古を実現、明治新政府を成立させる。五箇条の御誓文を宣布、東京に遷都。軍人勅諭・大日本帝国憲法・教育勅語の発布などをとおして近代天皇制国家を確立した。
在位期間中に日清・日露戦争の戦勝で国力は伸長し、英明をうたわれ、〈大帝〉と讃えられた。陵墓は京都市伏見区の伏見桃山陵。
だからといって、明治憲法が天皇に権力を集中させたのだと解釈することは間違っています。
第3条には「天皇は神聖にして犯すべからず」という有名な条文が掲げられていますが、これは「天皇は神聖な理念の体現者として現実の政治には関わらないため、政治的責任は追及できない」という意味です。
つまり、昭和憲法の象徴天皇制と同じ考え方です。昭和の時代とは異なり、明治憲法下では天皇に陸海軍を指揮監督する権利である統帥(とうすい)権が認められていましたが、天皇の権限は憲法に定められた内容だけに限られていました。
少なくとも戦後教育を受けた私たちが考えるほどには、天皇に権限は集中していなかったのです。
高く評価されたものの、どうせ日本人もオスマン帝国のように憲法をすぐに停止するだろうと予想されるなか、日本は憲法を守り抜きました。昭和憲法に取って代わられるまで、大東亜戦争の最中であっても、日本は一度たりとも明治憲法を停止させることはありませんでした。
憲法を守り抜くことで「我らは文明国である」という気骨を、欧米列強に対して証明してみせたのです。
とても為になる…というより真実の話を聞かせて頂き、ありがとうございます。
日本の歴史をその視点からのみで見るのと、世界の流れと照らし合わせながら見るのは、いろいろと納得いくものです。
今の時代のものは、終戦記念日に近まれば、日本が戦争をしたのを否定するかのように、戦争はいけない、もぅ二度とこのような…とか決まったように言いますが、当時の世界事情や人種差別の現実を知った上で言っている大人や学生たちはいるんですかね?
もし知った上で言ってなかったら、歯がゆいものですが、多分知らないだろうと思います(笑)。
もし日本が立ち上がらなかったら…これこそ恐ろしい事はないです、それでも戦争はいけないと言い切れますかね、今の日本人は。残念ですね。
自分は今第三章まで読んできましたが、どうしても知りたい事あって、ネットでも調べれなかった事ですが、何故家康は秀吉の侵略危機の対抗処置と言いますか、そういうのを見てきてるはずなのに、鎖国して平和な時代を作りあげました、何故そうしながらも国防として、日本軍を作ったりして、国を強くしようとしなかったのですかね。
ぶっちゃけ江戸時代に怠けた分、ペリー来航により慌てて国力をつくらなければならなくなったんじゃないですかね。
いろんな文化とか、素晴らしい時代とは思いますが、海の向こうは地獄絵図。この250年もの時間は勿体なく思えます。
コメントをいただき、ありがとうございます。筆者のドン山本です。
近代についての歴史は学校教育でもおざなりにされることが多いため、案外知られていないように思います。戦勝国史観だけに染まるのではなく、多様な観点があることを提示できたらと思い、このシリーズを書き進めています。
家康が諸外国からの国防を重視しなかったことについては、私見では次のように推察しています。
最大の理由は当時の状況では、日本に攻め込んでくるような外国勢力を想定できなかったからだと思います。銃の数や性能、兵の数や鍛錬度から見ても、当時の日本の軍事力は世界一と見られています。もちろん家康が世界各国と日本の軍事力を比べられたはずもなく、そのような自覚はなかったことでしょう。しかし、直接的な脅威がなかっただけに、外国からの侵攻を心配する状況にはありませんでした。
それよりも国内で幕府に抗う勢力が出てこないように、システムを整備することが重視されたのだと思います。銃の製造に歯止めがかけられ、次第に減少していったのも、そのためですね。
他国を侵略する意思がなかったことも、軍備を縮小した理由のひとつです。
250年の太平が平和ボケを生んだ面は否定できませんが、その平和の250年の間に日本は教育レベルを引き上げ、道路などのインフラを整備し、町民が主役となる高度な文明社会を築きました。その蓄積があったからこそ明治維新がなされ、わずか数十年のうちに世界の5強国へと駆け上がることができたのかもしれませんね。
今後ともよろしくお願いします。
返信ありがとうこざいます!
このような歴史資料を元に詳しくわかりやすいブログ、ありがたいです。
ぼちぼちですが、しっかり読ませて頂きます!