甲案提出後の日米交渉の行方について、前回は主にアメリカ側の動きを中心に紹介しました。
今回は米英の対日戦争決意が固められる経過を追いながら、甲案が拒絶された背景について探ります。
第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
日米開戦までのカウントダウン
4-10. 甲案による日米交渉の行方
その3.日本とアメリカで食い違う思い
- 一瞬の楽観モード -
様々な誤解をはらんだマジック情報を目にし、日本に対する不信感を募らせたハルのもとに野村大使が甲案を手渡したのは11月7日です。
● 開戦まであと31日 = 1941年11月7日
すでに甲案の内容について熟知しているハルは、甲案についてさしたる関心を示しませんでした。本来であれば中国の駐兵に関しても「所要期間駐兵を続ける」の意味するところを野村大使に質問して当然ですが、すでに25年という期間を知っているため、質問さえしていません。
さらにハルは中国最高権威者である蒋介石が日本に対し、日中友好関係の回復を希望することを望んでいるならば、日本はどう思うかといった趣旨のことを、野村に話したと記録されています。
日本ではこれを、ハルが日中の直接交渉を斡旋することをほのめかしたのではないかと受け取り、大いに盛り上がりました。
しかし、事前に米中間に何らかの了解があった形跡はないため、アメリカが時間稼ぎのために、そのような話をしたのではないかと推測されています。
野村によるとハルは、条件次第で日中間の橋渡しも可能と漏らしたとされます。三国同盟にしても中国駐兵にしても何等意向を示さなかったと野村が報告したため、アメリカの同意を得られたものと日本は受け取りました。甲案で交渉妥結が可能かもしれないと、外務省は明るい希望で満たされました。
逆に陸軍参謀本部は交渉が妥結してしまうのではないかと、不安を募らせています。
- 公式な交渉にあらず -
ところがまもなく、野村大使の報告をもとにする日本側の認識と、アメリカ側が野村大使との会談によって受けた認識との間に、大きなズレがあることが発覚します。
それがわかったのは、7日に行われた野村・ハル会談の米側の記録をグルー大使の好意により見せてもらったからでした。
米側の記録によると、駐兵の割合を尋ねたハルに対し、野村ははっきりしたことを答えなかったとされています。アメリカ側はそのことに不満をもっており、日本側が駐兵について譲歩したとの印象をもっていないことが記録から明らかとなりました。
さらにアメリカは三国同盟について、日本による具体的な声明を求めたとされます。このことは外務省をあわてさせました。野村大使の報告から、三国同盟についてはすでにアメリカの了解を取り付けたものと思い込んでいたためです。
しかし、それ以上に日本側を失意のどん底に突き落とす事実が判明しています。アメリカは現在、日米間で行われている折衝(せっしょう)を、正式な交渉の前段階である予備的非公式会談に過ぎないと認識していたのです。日本が自らの命運を賭けて臨んだ日米交渉を、アメリカは正式な交渉とさえ認めていないことに、日本側は大きな衝撃を受けました。
日本側はあわてて、現在の折衝が正式な交渉の段階にあることをアメリカに伝えるようにとワシントンに指示を送っています。
これを受けて若杉公使がバランタイン国務省極東部次長に面会し、確認しています。その際、バランタインは現在の会談は非公式なものにすぎない、イギリスやオランダと相談する段階になって初めて公式な交渉に位置づけられると説明しています。
アメリカとしては日本の南部仏印進駐によって正式な日米交渉は終わったのだから、それ以降の日米の交渉はあくまで非公式なものと位置づけていたものと考えられます。
一時はアメリカが日中の橋渡しを引き受けてくれるのではないかと沸いた楽観モードは、一気に吹き飛びました。
アメリカが日本との交渉に距離を置こうとしていることが明らかとなり、絶望感が日本側を覆いました。
その4.米英の対日戦争決意
開戦決意を固めたのは、なにも日本ばかりではありません。アメリカにしてもイギリスにしても、日本と戦争になることを覚悟し、戦争への準備を進めています。
ここでは、アメリカとイギリスの対日戦争決意について見ていきます。
- ルーズベルトによる六ヵ月停戦案 -
日本側がはっきりとした期限を設定していることがルーズベルトに伝えられたのは、11月5日のことでした。
注目すべきはルーズベルトが翌6日にスティムソン陸軍長官に六ヵ月停戦案を打診していることです。
六ヵ月停戦案はアメリカがマジックにて入手した日本の乙案を意識して構想された案です。具体的には6ヶ月の間、日米でいかなる兵力の移動も防備もしないことを約束し、その間に日中間の和平が成立することに期待をかけようとする案です。
アメリカが六ヵ月停戦案を構想した目的が時間稼ぎであることは明らかです。ルーズベルトの真意は不明ですが、案の趣旨からして、日中間で直接和平交渉が行われることを容認したものといえるでしょう。
しかし、スティムソンは六ヵ月停戦案に反対します。その日の日記にスティムソンは次のように綴っています。
「私はこのような方法で時をかせぐことには反対した。フィリピンへの兵員移動は中止すべきでないし、中国を手放しで日本と折衝させるべきではない。それに中国は大統領が考えたような提案には決して乗ってこないだろう。」
『日米開戦 (太平洋戦争への道―開戦外交史)』日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部 編集(朝日新聞社)より引用
アメリカが日本と六ヵ月停戦案を結べば、中国は自分たちが斬り捨てられたと思うに違いない、日中二カ国のみで交渉を行えば中国が不利に陥るとわかっているだけに、中国は日本との交渉に乗ってこないと、スティムソンは見ていました。
結局、六ヵ月停戦案は政策決定の場で議論されることもありませんでした。ルーズベルト政権の対日姿勢は「座して待つ」で固定されたままです。
- アメリカの対日戦争決意 -
7日にも閣議がもたれ、ハル国務長官は「事態は極めて重大であり、日本はいつ攻撃を開始するかわからない状態である」と閣僚一同に告げています。ハルの言葉に、その場は静まりかえったと記録されています。
閣議では「現在の政策をそのまま続行し、攻撃に出るなり後退するなりの決断は、日本にまかせる」と、アメリカはあくまで日本の対応をじっと待つ方針を再確認するに留まりました。
日本が甲案を出そうと乙案を出そうとアメリカは座して待つ姿勢を貫く、という意味です。
この閣議でルーズベルトは閣僚一人ひとりに向かい、日本が英領マレーか蘭印を攻撃した場合、アメリカが日本に攻撃を加えたならば、アメリカ国民は政府を支持するだろうか、と問いただしました。
全体で討論するのではなく、閣僚一人ごとに問いかけ、全員に意見を言わせているのがルーズベルトの工夫です。この手法はリンカーンのやり方を真似たものです。リンカーンは全閣僚が反対している案件にどうやって全員の賛成を得ることができるか、という問いにこの手法で応えました。
その効果は抜群でした。全閣僚が「支持するだろう」と答えています。
こうしてアメリカは日本が英領か蘭領の植民地を攻撃した場合は武力をもって介入することを、満場一致で決定したのです。
ただし、閣議で決定したからといって実際に介入できるかどうかは別問題です。国民の多くが対日戦争に同意しない限り、民主国家であるアメリカが戦争を始めることはできません。
国民の理解を得るため、アメリカでは太平洋に危機が迫っていることを告げ、警戒を呼びかける演説が行われています。
休戦記念日に当たる11月11日、ノックス米海軍長官は「米国の権益を侵害する日本の行動を黙視し得ない。決意の時は来た」と群衆を鼓舞しています。
多くの国民が支持するように対日戦争に踏み切ることが、アメリカにとっての相変わらずの課題でした。
- イギリスの対日戦争決意 -
日米の対決が間近に迫っているとの認識は、イギリスも共有していました。クレイギー駐日英大使は10月31日に本国へ長い電報を送っています。
その際クレイギーは日米関係が危機に瀕していることを伝え、日本の政策が米政府が望むよう急激に変化することはあり得ないとし、日米の衝突がいつ起こっても不思議はない、そうなれば当然ながら日本が英領マレーに侵攻することは避けられない、と警告しています。
そこでクレイギーは英米による対日防備強化と経済圧迫以外の方法として、日本に対して武力に訴えるよりも良い道が開かれていることを示すために、イギリスとして対日外交を積極的に行うように提言しています。
しかし、イギリスがクレイギーの言に耳を貸すことはありませんでした。イギリスは日本との戦争を回避するよりも、アメリカに追従していくほうが安全保障の観点から有利と見ていました。
当時のイギリスに欠けていたのは、日本の軍事力を正当に評価することでした。チャーチルは日本の軍事力をあなどっていました。その油断が、開戦まもなくイギリスの誇る不沈戦艦プリンス・オブ・ウェ-ルズ号を日本軍に撃沈され、難攻不落と謳われたシンガポールをわずか10日で陥落される悲劇を呼び込むことになります。
11月10日、チャーチルは「アメリカが日本との戦争に巻き込まれた場合、イギリスは一時間以内に対日宣戦布告をするだろう」と力強く演説しました。
イギリスによる明確な対日戦争決意の表明です。
その結果、イギリスはアジアにもっていた植民地のすべてを失い、それとともに大英帝国は崩壊するに至りました。
以来、イギリスでは自らに問いかけています。日本において「なぜ日本は、あのような無謀な戦争をはじめたのか」と問題提起されているように、イギリスでは「なぜイギリスは敗れたのか、なぜ日本の勝利はかくも鮮やかだったのか」「なぜ大英帝国は滅びたのか」との問いかけが今日まで続いています。
イギリスが対日戦争を決意したときから、世界に冠たる大英帝国の崩壊は始まったといえるでしょう。
その5.甲案の拒否
- 裏口からの参戦 -
アメリカは日本の提案した甲案に対して明確な回答を与えないまま、のらりくらりと時間稼ぎを図っているかのようでした。
野村大使は14日電で「米国の信条たる政治的根本原則を譲り妥協する位ならば、寧(むし)ろ戦争を辞せざる覚悟」であると、交渉についての情勢報告を本省に入れています。
● 開戦まであと24日 = 1941年11月14日
そのなかで野村はアメリカがドイツと戦いたいがゆえに、日本を通して裏口参戦を狙っていると、次のように注目すべき警告を行っています。
「寧ろ米政府は、国内問題よりして対独戦争に対しては、今猶若干の異論あるに対し、今日にては太平洋戦に輿論の反対少きに観て、此の方面より参戦することも充分あり得べしと見込み置くを要す」
ドイツがあからさまに欧州侵略を実行しているにもかかわらず、アメリカの世論はドイツとアメリカが戦争になることを嫌っていました。欧州大戦に参戦するよりも、太平洋で日本と事を構える方が、多くの支持者を得ていたのです。
そのため、アメリカが対日戦争に踏み切ることで対独戦に参戦する可能性があると、野村は警告しています。日本という裏口からの参戦をアメリカが密かに狙っているとの見方は、当時はけして珍しい視点ではありません。
アメリカは大西洋にて執拗にドイツを挑発していましたが、ヒトラーはアメリカの思惑を見抜き、そうした挑発行為に乗ることを自重したため、アメリカは対独戦に参戦する糸口をつかめずに焦っていました。
当時のアメリカが本当に戦争をしたかった国はドイツです。裏口からの参戦がアメリカにとって魅力的なプランであったことは、たしかです。
最後に野村は日本国内の状況が逼迫(ひっぱく)しており、国民が堪忍袋の緒を切りつつあることはわかっているが、国内情勢が許すならば一、二ヶ月の期間を設けるのではなく、もうしばらく世界情勢を見守り、前途がはっきりするまで我慢した方が良い、と進言しています。
対して東郷外相は「世界戦争全局の見透し判明する迄、隠忍自制することは、諸般の事情より遺憾乍(なが)ら不可能にして」と、苦しい胸の内を明かしています。国策として確定した以上、今さら期限を延長することは適わないことでした。
- 日米の溝は埋まらず -
甲案に対するアメリカの態度が日本側に伝えられたのは11月15日のことでした。ハルは無差別通商問題について日本が条件として掲げた「全世界における適用」の撤廃を求めました。
● 開戦まであと23日 = 1941年11月15日
ハルは日米中の経済政策に関する非公式提案も行っています。ハルが目指したのは、中国自身による経済・財政・通貨に関する支配権の完全な回復です。そうなると現在の日本が有している中国での経済的利権のすべてが失われます。
さらにハルは、日米は自国の安全と自衛のために必要な物資については、輸出に制限を加えることができるとの文言を加えることを主張しました。
それは日本がもっとも避けたい状況でした。ハルの提案は、中国にある既得権を日本がすべて放棄させられるにもかかわらず、アメリカによる対日経済制裁が緩むことなく続けられることを意味していたからです。
陸軍にとっても、ハルの提案は受け入れがたいものでした。多大な兵の犠牲の果てに日中戦争を戦ったにもかかわらず、その戦果をすべて無償で取り上げられ、アメリカの中国市場への割り込みを助けるのでは、納得できるはずもありません。
東条首相としても、さすがにこの案を受け入れるわけにはいきませんでした。東郷外相は17日に「我方四年半に亘戦果を全然無視せんとする提案」として、これを批判しています。
またハルは三国同盟についても、再三にわたって死文化を求めました。日米の協定が成立すれば三国同盟は必要ないだろうとの主張ですが、日本も独立国である以上は繕わなければならない対面があります。
ついに日本側は「日本が三国同盟より脱退せざる限り日米間の妥結は不可能」なのかと問い質すと、ハルは回答を避けました。
結局のところ、日本が甲案によって見せた譲歩をアメリカは完全に無視し、原則論に基づく要求を繰り返すのみでした。そこにアメリカ側の譲歩の姿勢は、まったく見られません。
原則論を持ち出されては交渉決裂を避けられません。アメリカ側の拒否によって甲案は葬られたのです。
当初からの予定通り、今後は原則論から距離を置いた暫定案である乙案をもとに交渉が行われることになりました。
日米交渉妥結によって戦争を回避する最後の望みは、乙案に託されたのです。
この続きは次回にて紹介します。