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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1941年 戦争回避のための日米交渉#60 ルーズベルト陰謀論とコミュニケーション・ギャップ

    #60 ルーズベルト陰謀論とコミュニケーション・ギャップ

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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    第1部4章 日米交渉(1/36)ペリーの開国から日米戦争へ至る百年余の歳月のあらすじ

    日米開戦までのカウントダウン

    日米交渉
    海外「日本は嵌められたんだ」 米国は真珠湾攻撃を事前に知っていたのか?より引用
    ルーズベルト陰謀論は本当にあったのか!?

    前回は日米交渉のおおよその流れを確認するとともに、日米交渉には未だに解明されていない大きな謎が2つあることを紹介しました。

    今回は「日米交渉に横たわる闇」の第2回目として、日米交渉をめぐる陰謀論と日米双方の抱えたコミュニケーション・ギャップについて追いかけてみます。

    4-1. 日米交渉に横たわる闇

    その6.日米交渉をめぐる陰謀論

    日米交渉の過程に恣意的な力が及んでいたとする説は、戦後になっていくつか出されています。なかでも有名なのは、ルーズベルト陰謀説とコミンテルン陰謀説の2つです。

    「ルーズベルト陰謀説」には広義と狭義の2つがあります。狭義の「ルーズベルト陰謀説」は、真珠湾攻撃を巡る陰謀論のことです。日本軍の真珠湾攻撃をルーズベルトは事前に知っていたにもかかわらず、そのことをあえてハワイの米海軍に知らせなかったとするものです。

    広義の「ルーズベルト陰謀説」は、ルーズベルトが日米間で戦争を起こすことを画策し、日本を挑発し続けたことで日米開戦に至ったとする論です。

    「コミンテルン陰謀説」はアメリカの政府機関に複数存在していたコミンテルンのスパイ、あるいは協力者がコミンテルンの指令を受け、日米が戦争になるように画策したとする論です。

    コミンテルン陰謀論の最大の論拠となっているのは、ハル・ノートの原案を作成した米財務長官補佐官ハリー・デクスター・ホワイトがコミンテルンのスパイである疑いが強いことです。

    日米交渉
    wikipedia:ハリー・デクスター・ホワイト より引用
    【 人物紹介 – ハリー・デクスター・ホワイト 】1892年 – 1948年

    アメリカの官僚。ルーズベルト政権のヘンリー・モーゲンソー財務長官のもとで財務次官補を務めた。ハル・ノートの原案である「ホワイト試案」を作ったことで知られる。戦後に公開されたベノナ文書に名前が載っていたことから、ソ連軍情報部の協力者であった疑いが濃厚とされるが、諸説あり。須藤眞志著『ハル・ノートを書いた男』では、スパイ説が否定されている。

    「ルーズベルト陰謀説」にしても「コミンテルン陰謀説」にしても、それらの陰謀に日本が乗せられたために日米開戦へ至ったとしています。どちらも発信元はアメリカであって日本ではありません。陰謀論の真偽については未だに論争が続いているものの、どちらも確とした証拠は見つかっていません。

    コミンテルン陰謀説の支持者は少数派に留まっていますが、ルーズベルト陰謀説についての研究書は多数出されており、未だに根強く支持されています。ただし、学会の主流派は否定しています。

    よく聞く「歴史修正主義者」という言葉は、もともとはルーズベルト陰謀説を支持する研究者に向けられたものです。

    日本では度々これらの陰謀論が取り上げられ、日米開戦へ至った責任は日本ではなくアメリカ、あるいはソ連にあったとする主張に使われています。

    そのような主張が起こるのは、自虐史観に対するアンチテーゼとしてです。自虐史観によれば日米開戦へと至ったのはアジア侵略を繰り返した日本にのみ責任があり、軍部が国民を騙して対米戦争へと日本を引きずり込んだとされています。

    自虐史観に見られる、そのような一面的なものの見方が反発を呼び、陰謀論を支えていると言えるでしょう。

    しかし、陰謀論にしても自虐史観にしても、それのみを原因として日米開戦へと至ったとするのは、あまりにも浅薄すぎます。

    日米開戦への過程を追いかけてみると、様々な要素が複雑に交錯することで相互に影響を及ぼし合い、多くの原因をもとに戦争へと至ったことがわかります。

    日米開戦へと至った理由を日本のみに求めることも、アメリカのみに求めることも、どちらも正しくはなさそうです。日米共に譲ることのできない大義があり、それがやがて武力衝突せざるを得ない状況を作り出してしまったのです。

    なにやら大きな歴史の歯車に巻き込まれていくように、日米は衝突しました。日本はなんのために戦ったのかという根本的な問いについては、次章にて取り上げます。

    本章では自虐史観からも陰謀論からも距離を置き、日米交渉の過程を客観的に追いかけ、開戦へと至る動きを見ていくことにします。

    その7.ルーズベルト陰謀説の背景にあるもの

    本シリーズではルーズベルト陰謀説を拠り所とはしないものの、その背景にあるアメリカの事情については汲み取る必要があります。

    狭義の陰謀説では「なぜルーズベルトは真珠湾攻撃があることを知っていたにもかかわらず、なにも手を打たなかったのか?」、広義の陰謀説では「なぜルーズベルトは日本との戦争を望んだのか?」が問題となります。

    実はどちらも根は一緒です。その答えは、イギリスを助けるために対独戦に参戦することをルーズベルト政権が望んだからです。

    前章にて独ソ開戦について追いかけてきましたが、時計の針を日米諒解案が出される少し前に戻します。松岡が日ソ中立条約を締結する、ちょっと前当たりです。

    当時はドイツ軍がイギリス軍を追い詰め、イギリスが国家存亡の危機に瀕していました。すでにフランスがドイツの軍門に降り、ヨーロッパの大半はドイツの手に落ちています。ヨーロッパで残るはイギリスのみという心許ない状況でした。

    イギリスがドイツに敗れるとなるとアメリカは孤立するよりなく、それはアメリカの安全保障上の大きなリスクでした。いかに大国アメリカといえども、ヨーロッパをドイツに抑えられ、アジアを日本に抑えられるとなるとアメリカ大陸に押し込められるよりなく、手も足も出ない状況に陥ります。

    そこでルーズベルト政権はイギリスを助けるために武器の援助を行っていましたが、それだけでは不十分でした。対独戦にアメリカも参戦し、英米連合軍でドイツと戦うことが、イギリスを救うためのもっとも確実な手段だったのです。しかし、そうできない事情をアメリカは抱えていました。

    アメリカの世論は、アメリカが戦争に巻き込まれることを極度に嫌っていたからです。ルーズベルトは「絶対に参戦しない」という公約を掲げて大統領に三選を果たしていたため、身動きできない状況に陥っていました。

    防衛力の強化には理解を示しものの、「アメリカ自身が攻撃されない限り、ヨーロッパの戦いにアメリカの若者を送ってはならない」とする世論が全米を覆っていました。

    反戦の旗振り役を務めた飛行冒険家チャールズ・リンドバーグは、ニューヨークのマジソンスクエアガーデンに集まった数万の聴衆を前に語りかけています。

    「われわれはこれまで英仏両国が支配するヨーロッパと付き合ってきた。ドイツが戦いに勝利すれば、今度は、ドイツの支配するヨーロッパと付き合えばよいだけの話である。」

    平和主義に凝り固まる世論があまりにも強く、ルーズベルト政権が対独戦に参戦できる可能性は、限りなくゼロに近い状況でした。

    この閉塞した状況をひっくり返して参戦を可能にするには、ドイツによる明らかな反米行為が必要でした。

    そこでルーズベルトは、ドイツから仕掛けてくるようにあからさまな挑発を行っています。「ドイツ潜水艦に対して攻撃命令が出されている」とノックス海軍長官が認めたことは、アメリカ議会に衝撃を与えました。そのことはすでにアメリカによる戦争行為を意味していたからです。

    しかし、ヒトラーはルーズベルトの仕掛けた罠を見抜き、挑発に乗りませんでした。

    ここまでは歴史的な事実です。陰謀論の正否にかかわらず、ルーズベルト政権が対独戦への参戦を計ってドイツを挑発し、ことごとく失敗に終わったことは歴史が証明しています。

    こうした歴史的な事実と、確とした証拠が提出されていない陰謀論との間には大きな溝があることを、しっかりと確認しておきたいものです。

    陰謀論では、ここからさらに一歩踏み込みます。ドイツが挑発に乗らないことに焦ったルーズベルトが方針を変え、まず太平洋で日米戦争が起こるように仕向けたとするのが、陰謀論の起点です。

    そうなるように仕向けたのはチャーチルの策謀だったとされています。アメリカの対独戦への参戦は、イギリス生存の鍵を握っていました。アメリカが参戦するとなればドイツ戦での勝利が見込めますが、このまま参戦できない状況が続けば、やがてはイギリスがドイツに降伏する可能性が高いと見られていたのです。

    日米交渉
    wikipedia:ウィンストン・チャーチル より引用
    【 人物紹介 – ウィンストン・チャーチル 】1874年 – 1965年

    イギリスの政治家・軍人・作家。首相。陸軍士官学校のエリートコースを歩み、インドや南アフリカで軍人生活を送る。下院議員となり政治活動を始め、商務大臣・内相・海軍大臣を歴任。第一次大戦後に植民地相として実績を残す。1940年に首相となり、第二次大戦の戦争指導に当たった。大戦にアメリカを参戦させるため、ルーズヴェルトに対して様々な策を弄した。日米開戦の原因を作った人物として知られるが、なぜか日本では人気が高い。文筆家としても優れ、在職中にノーベル文学賞を受賞。

    そこで瀬戸際に立たされたチャーチルは日本とアメリカを戦争させることで、日本と三国同盟を結んでいるドイツとアメリカが自動的に戦争になるように謀ったとされています。

    ルーズベルト政権上層部にもチャーチルと同じように考える者がおり、ルーズベルトを筆頭に彼らは日本とアメリカが戦争になるように様々な策謀を実行に移しました。

    アメリカが日本と戦争を起こす方法はただ一つ、日本の方から先にアメリカに攻撃させることでした。裏口からの参戦を狙い、彼らは日本を挑発し続けたのです。

    その果てに堪忍袋の緒が切れた日本が、ついに真珠湾攻撃を行うに至りました。予期しない卑怯な不意打ちを食らい、アメリカの世論は一夜にして日本との戦争を支持する声にあふれました。

    「リメンバー・パールハーバー」を合い言葉にアメリカは結束し、日本への憎悪を募らせ、ここに日米戦の幕が切って落とされることになったのです。

    ドイツがまもなく三国同盟に基づいてアメリカに宣戦を布告したため、ルーズベルト政権は念願の対独戦への参戦切符を手に入れることに成功しました。

    以上が、ルーズベルト陰謀論の骨子です。ルーズベルト陰謀論はジョン・T・フリンが「ルーズベルトが日本を意図的に追い詰め戦争を始めさせた」と主張して以来、多くの研究書が続き、日米ともに少なからぬ識者に支持されています。

    一方、陰謀論を否定する研究書もあまた出版されています。ことにジョセフ・パーシコの主張はルーズベルト陰謀論に真っ向から疑義を唱えています。

    パーシコはアメリカが日本と戦争に突入したからといって、自動的にドイツと戦争になるわけではないと指摘しました。三国同盟に基づく軍事同盟が発動されるのは、日独伊があくまで他国から戦争を仕掛けられたときであり、こちらから戦いを挑んだときには各国が独自に判断して参戦を決めることになっていたからです。

    つまり、アメリカが日本に対して戦いを仕掛けた際には独伊に参戦の義務が生じますが、日本がアメリカに対して戦いを挑んだ際には、参戦するか否かは独伊の独自の判断に任せられていたのです。

    したがって、日本が真珠湾攻撃を行っても、ドイツにはアメリカとの戦争を避ける選択もできたということです。

    真珠湾攻撃の後、ヒトラーはアメリカに宣戦布告をしたことでドイツとアメリカも戦争状態に入りましたが、それはあくまで結果論に過ぎません。

    ドイツに参戦の義務がなかった以上、裏口からの参戦を狙ったとされるルーズベルト陰謀論は合理性に欠け成り立たないと、パーシコは主張しました。

    この主張に対する有効な反論は、まだ為されていません。

    ただし、必ずしも裏口からの参戦が適うわけではなかったものの、ルーズベルトが見せた日米交渉での不可解な言動の数々からは、広義の陰謀論を完全には排除できない怪しさが潜んでいます。

    アメリカの世論がヨーロッパには関心が高いものの、遠いアジアにある日本についてはさして関心がなかったという事情を差し引いたとしても、日本側から首脳会談の提案があったことも、日本が南部仏印からの撤退を掲げたことも、そして最後通牒となるハル・ノートを日本側に手渡したことも、ルーズベルト政権は一切国民に隠し続けました。

    国民ばかりでなく議会にさえ、ハル・ノートについては一切知らされていなかったのです。

    このことだけに着目してみても、ルーズベルト政権がアメリカ国民を騙して戦争へ導いたかのような疑惑が生じます。

    確とした証拠がないものの陰謀論がひしめくのは、日米交渉の過程においてルーズベルト政権が下した選択の数々に、不可解さが垣間見えるからと言えるでしょう。

    このような背景があることを確認した上で、日米交渉を追いかけてみます。

    その8.日米交渉に横たわるコミュニケーション・ギャップ

    - 極めて低かった野村の英語力 -

    なお、日米交渉を巡っては数々のコミュニケーション・ギャップが生じています。

    日米間のコミュニケーション・ギャップ、あるいはパーセプション・ギャップと呼ばれるものは、日米間の意思の疎通におけるすれ違いを指します。

    通常はアメリカの為した経済制裁をめぐる日米両国のすれ違いや、南部仏印進駐をめぐる日米間の解釈の違いを指して用いられますが、もっと直接的なコミュニケーション・ギャップも、日米交渉を失敗に導いた大きな原因です。

    そのようなコミュニケーション・ギャップは、日本語と英語という言語の違いによってもたらされました。

    なかでもワシントンで日米交渉にあたっていた野村吉三郎大使とハル国務長官との間のコミュニケーション・ギャップは、交渉の成否に深刻な影響を及ぼしました。

    日米交渉
    wikipedia:野村吉三郎 より引用
    【 人物紹介 – 野村吉三郎(のむら きちさぶろう) 】1877年(明治10年) – 1964年(昭和39年)

    明治-昭和時代の軍人・外交官・政治家。最終階級は海軍大将。第1次世界大戦中アメリカ大使館付武官としてルーズベルトらと親交を結ぶ。第3艦隊司令長官として1932年の上海事変にあたり、爆弾で片目を失う。予備役に編入された後、学習院院長を経て、阿部内閣の外相を務める。

    第二次近衛内閣にて1941年より駐米特命全権大使として米国務長官ハルと対米戦争開戦までの日米交渉に当たった。戦後は公職追放となり、同郷の松下幸之助に請われ、松下電器産業の資本傘下となった日本ビクターの社長に就任。後に追放解除とともに、参議院議員となる。鳩山内閣・岸内閣で防衛庁長官への起用が取り沙汰されたが、日本国憲法における文民統制の観点から見送りになった。86歳没。

    野村大使の英語力が極めて低かったことは多くの史書で指摘されています。言語による意思の疎通を円滑に図れなかったことは、日米交渉の大きな足かせになったのです。

    英語力に自信がなくても通訳を介せば問題ないと思いがちですが、違います。両国の命運を分ける重要な交渉に関しては情報が漏れることを恐れ、野村大使とハル国務長官の二人だけで膝を突き合わせることが多々ありました。

    野村本人も英語が不得意だと自認していました。相手に意志が通じるまで、同じことを何回か繰り返さなければならなかったと、述懐しています。

    ハルもまた回顧録にて、野村の英語があまりにたどたどしく、何を言っているのかわからなかったと記しています。

    日米の運命がかかった事実上のトップ会談が、そのようなあやふや状況で行われたとはにわかに信じがたいことですが、事実です。

    ハルは綴っています。
    「野村の英語はひどかったので、私はしばしば彼がこちらの話していることが本当に分かっているのかどうか疑問に思った」

    そのため、ハルはできるだけゆっくりと、同じことを繰り返して話すように努めたと記しています。

    相手の話している英語がわからないとき、わかったふりをしてその場をやり過ごした経験を持つ人は多いことでしょう。適当に相づちを入れたり、笑顔でごまかしたり……。

    野村とハルの交渉においても、そのようなことがあったのかもしれません。ハルは野村が「陰気にくすくす笑い、お辞儀をするばかりだった」とも記しています。

    野村はハルやルーズベルトとの会談において、日本政府に伝達するようにと頼まれたことをしばしば伝えていません。それらは野村の判断によるとされていますが、英語による意思疎通に支障を来していた可能性も捨てきれません。

    野村の言動は松岡外相や後の東郷外相の怒りを買いましたが、そこに言語間のコミュニケーション・ギャップが介在していたとなれば、もはや悲劇を通り越して喜劇ですらあります。

    結局のところハルは、野村の人柄の良さを認めながらも、交渉においては「野村自身が深刻なお荷物であった」と厳しい批判を浴びせています。

    英語力が高いからといって、それだけで交渉がまとまるわけではないものの、野村の英語力の低さが交渉のお荷物であったと知ると、戦争か平和かが決まる重大な交渉の場において、もし駐米大使の英語力が堪能であったならばと思わずにはいられません。

    - 英語力の貧困さが国益を損なう -

    他国の大使であれば当たり前のことですが、せめてまともな交渉ができるだけの英語力を野村が持ち合わせていたならば、日米双方に生じた誤解の多くは未然に防げていたかもしれないのです。

    日米双方には不信感がわだかまっていました。それを解消するのが日米交渉の役割であったはずです。ところが、その日米交渉で言語の違いによる新たなギャップが生じていたのでは話になりません。

    駐米大使を選任するにあたり、英語力を疎かにしたことは日本にとっての痛恨事でした。

    1940(昭和15)年8月、松岡外相は多数の在外大公使を一度に更迭しました。大使や公使に至るまで自分の思い通りに動かすことを望んだ松岡旋風により、職業外交官が続々と帰国させられ、その代わりに軍人など外交の素人が新たに大使・公使として送り込まれたのです。

    元海軍大将の野村吉三郎を駐米大使に任命したのは松岡でした。ただし、野村は阿部政権下で外相を経験しているだけに、大物外交官であったことは間違いありません。それでも、英語力という要素を重視しなかったことは、日本の国益を大きく損ねることになりました。

    そのことはなにも戦前や戦中に限ったことではありません。日本人特有の言語的障壁があることを、日本人はなぜか軽視しがちです。その傾向は戦後も、今も、続いています。

    外務省をはじめ、日本政府の英語力の貧困さは、今日でも相変わらず問題とされています。英語力の低さと、それに伴うコミュニケーション能力の不足は、今この瞬間も日本の国益を損ねているといえるでしょう。

    - アメリカ側のコミュニケーション・ギャップ -

    一方、アメリカ側にも言語の違いに伴うコミュニケーション・ギャップが生じていました。その多くは、日本の外交暗号の解読において発生しています。

    日本の外交暗号は、すでにアメリカによって解読されていました。解読によって得られた情報をアメリカはマジック (Magic) と呼び、限られた政府高官だけに配付していたのです。

    ところが解読によって表れた日本語を英語に翻訳する際に、信じられないような誤訳や文章の勝手な削除などが行われたていたことが、戦後になって明らかにされています。

    詳しくは後にふれますが、なかには意図的としか思えない悪意ある飜訳も含まれていました。原文とは意図していることが真逆になっている飜訳もあります。

    ハルは日米交渉そのものよりも、マジックにこそ日本側の本当の意図が隠されていると考えていました。そのため、マジックに書かれていることを前提として日米交渉に臨んでいたのです。

    ところが、ハルが依拠したマジックそのものに翻訳者の誤訳や悪意が介在しているため、日本側の意図がねじ曲げられて解釈されることが度々生じていました。

    このように日米ともに抱えたコミュニケーション・ギャップが、相互不信のなかで始まった日米交渉に輪をかけるように悪影響を及ぼし、交渉決裂から開戦へと両国を追い込む原因の一つになったのです。

    あまり知られていない事実ですが、互いの語学力が国家の運命を司ったという一面が、日米交渉には横たわっているのです。

    このことも念頭におきながら、次から日米交渉の過程を追いかけてみます。

    第1部4章 日米交渉(3/36)開戦まであと319日 民間外交から始まった日米交渉

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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