第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
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→日米交渉(11/36)日米首脳会談をめぐる駆け引き。命を賭けた近衛の悲壮な決意
日米開戦までのカウントダウン
大西洋憲章 – Atlantic Charterより引用
大西洋会談で会見をするルーズベルト米大統領とチャーチル英首相
アメリカによる石油の全面禁輸という予期せぬ経済制裁に直面した日本は、日米首脳会談に活路を見出そうとします。そのあたりの背景については、前回紹介しました。
今回は日米交渉におけるアメリカ側の転換点となった大西洋会談について追いかけてみます。
4-4.日米首脳会談をめぐる駆け引き
その6.大西洋会談が変えた潮流
野村大使が日米首脳会談の申し入れを米政府に行った翌日の8月9日から12日まで、カナダのニューファンドランド島沖の洋上において、ルーズベルト大統領とチャーチル英首相による大西洋会談が行われています。
この会談の結果、イギリスが世界に誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上にて、大西洋憲章が調印されました。
大西洋憲章はナチス・ドイツを打倒するための戦争目的を明らかにするために起草されたものです。しかし、それは単に戦争目的を明確にしただけにとどまらず、戦後の国際社会の秩序を支える理念となり、今日の世界を築く礎となっています。
大西洋憲章には民主主義や民族自決、自由貿易の保証や国際機構の設立などが記されています。それらは当時の多くの地域で実現していなかったものです。そして今日においては、世界の多くの地域で当たり前のように享受しているものです。
その意味では、大西洋憲章が今日の世界秩序を形成する上での起点になっているといえるでしょう。
ただし、それは今日から振り返った際に与えられる評価に過ぎません。大西洋憲章に踊っている美辞麗句は、当時の時代背景から紐解けば、けして額面通りに受け取れるものではなく、欺瞞(ぎまん)に満ちたものでした。
こうした時代背景は日米交渉にも微妙な陰を与えています。
さらに重要なことは、南進に打って出ようとする日本に対して、米英が連帯して阻止することが大西洋会談において確認されたことです。
大西洋会談を境に、アメリカの対日宥和(ゆうわ)政策は完全に放棄され、武力を背景とした強硬策へと移行することになりました。
今回は日米交渉の転換点となった大西洋会談について、追いかけてみます。
- 領土不拡大の背景にあるもの -
大西洋憲章で真っ先に掲げられているのは「領土拡大意図の否定」です。これはイギリスを除くヨーロッパ全土に領土を広げているドイツを牽制するために記された理想主義的な項目でした。
ドイツと違って米英は、今期の大戦で領土を広げる野望は一切ないと宣言しています。この宣言が単なるプロバガンダに過ぎなかったことは、4年後に米英ソの戦勝国が密約を交わしたヤルタ会談の内容を見れば、明らかです。ヤルタ会談は戦勝国による戦後の世界を見据えた利害調整の場でした。その実態は敗戦国の領土をめぐる奪い合いです。
敗戦国である日本の北方領土が参戦を約束したソ連の領有と決まったのも、このヤルタ会談によってです。
ヤルタ会談とは別ですが、日本が委任統治していた南洋諸島は戦後、アメリカへと引き継がれました。その後、アメリカは南洋諸島のビキニ環礁において原水爆実験を強行し、現地の人々を苦しめることになります。
こうした事実は、大西洋憲章で謳われた領土不拡大の言葉が単なる空念仏に過ぎなかったことを示しています。
ちなみに世界各国が領土拡大の意図を捨て去ることは平和を築くために必要なことであり、非の打ち所のない正しいことのように思えますが、その意味するところが「現状維持」であることには注意が必要です。
すでに世界の分割があらかた終わり、多くの領土や植民地を有している国にとって「現状維持」ほど都合のよい言葉はありません。
「大英帝国」と聞いても現在の私たちからすれば、ピンときません。ですが当時の大英帝国と言えば、世界各地に植民地を有する大帝国でした。全世界の陸地面積の三分の一は、アメリカとイギリスの二カ国が保有していたのです。
その領土のほとんどは本来は別の民族が平和に暮らし、それぞれの国家が統治していたものです。帝国主義に基づく侵略と征服によって、過去数世紀の間にイギリスは巨大な領土を有する帝国へとのし上がりました。
自国領だけでも広大なアメリカや十分な領土を保有したイギリスにとって、世界各国に現状維持を押しつけることは、自分たちの領土の保全につながります。「現状維持」こそが正義だと主張することで、彼らが奪い取ったものを他国に奪われたり、もともとその地に住んでいた人々に奪い返される危険を阻止できるからです。
いつの時代も、すでに持てる国にとっては「現状維持」こそが国益なのです。
アジアやアフリカの植民地が独立を遂げたあとの現代と、植民地ばかりが目立つ当時では、「領土不拡大」の意味するところが、まったく異なります。
「領土不拡大」は一見すると公正に見えますが、当時の時代背景からすれば、実は不公正なものであったといえるでしょう。
米英の推し進める「現状維持」によってもっとも不利益を被るのは、侵略によって無理やり植民地にされ、白人の支配に苦しむアジアやアフリカの人々でした。
- 民族自決は、なぜ盛り込まれたのか -
大西洋憲章では「領土変更における関係国の人民の意思の尊重」と「政府形態を選択する人民の権利」が謳われています。これらは「民族自決」を認めた文言として評価されています。
民族自決とは「各民族が自らの意志によってその運命を決定する」という政治原則です。
大西洋憲章に掲げられた「民族自決」をわかりやすく表現すれば、「いかなる国民も自分の政府を選ぶ権利を持ち、奪われた主権は回復されるべきだ」ということになります。
つまり、「民族自決」を素直に解釈すれば、欧米列強の植民地となっているアジアとアフリカの民族は植民地から脱する権利をもっているのだから、彼らが望めば独立国として認められる、だから列強は彼らに国を返し、出ていかなければならない、ということです。
「大東亜戦争がアジア諸国を植民地から独立国へと導いた」とする論への反論として、よく引き合いに出されるのが、この大西洋憲章に掲げられた民族自決です。
「日米開戦前に調印された大西洋憲章において、すでに民族自決の原則が打ち立てられていた。戦後はそれが実行に移されただけのこと。したがって大東亜戦争とアジア諸国の独立とはなんの関係もない」との論です。
果たして、ほんとうでしょうか?
大英帝国が民族自決を認めたことは、世界に驚きを与えました。当時のイギリスの繁栄を支えているものが、植民地からの搾取であることは明らかだったからです。世界に冠たる大英帝国から植民地が失われたとなれば、小さな島国に過ぎないイギリスが没落することは、誰にでも簡単に見通せることでした。
実際のところ、戦後の歴史はそのように動き、イギリスの植民地だった国は次々と独立を果たしました。今日のイギリスには大戦前の大英帝国が誇ったような栄華は微塵(みじん)もありません。第二次世界大戦でもっとも大きな損失を被ったのは、実は戦勝国のイギリスです。
イギリスの国益を大きく損なう民族自決をチャーチルがなぜ認めたのかと言えば、アメリカの圧力があったからです。
当時のイギリスにとって最大の国益は、第二次大戦にアメリカを参戦させることでした。アメリカの参戦がなければ、フランスと同様にイギリスがドイツの軍門に降るのは時間の問題と見られていました。
そんなときに独ソ開戦となり、イギリスに有利な風が吹いていました。あとはアメリカが参戦してくれさえすれば、イギリスの勝利はほぼ確定します。
チャーチルとしてはルーズベルトから、なんとしてもアメリカ参戦の確約をとる必要に迫られていました。
そこでルーズベルトが交渉の条件としたのが、民族自決や自由貿易の拡大です。アメリカが民族自決を前面に押し出したのは、なにも人道主義に基づいてのことではありません。植民地の解放はアメリカにとっての国益につながるからこそです。
帝国主義に乗り遅れたアメリカは、イギリスやフランスに比べるとわずかな植民地しか有していません。しかも植民地経営は出費が多い割に見返りが少なく、メリットが見出せない状況でした。
そもそもアメリカは自国だけで広大な領土を有し、資源にも恵まれているだけに、英仏のように植民地に頼る必要がありません。
戦後はイギリスに代わって世界の覇権を握ろうと目論むアメリカにとって、植民地がなくなった方が競合国の国力が弱まるため、好都合だったのです。
さらに自由貿易が広がれば、多くの産業で世界をリードするアメリカの繁栄が約束されたも同然です。実際に戦後のアメリカはグローバリズムを盾に自由貿易を各国に迫り、世界一の経済大国に成長しました。<注釈- 4-4-1> ルーズベルトから民族自決と自由貿易を迫られたチャーチルは「大英帝国はインドやアフリカにおける英国の地位を捨てる気はありません」と応えたものの、アメリカを参戦させるためには妥協するよりなく、最終的に大西洋憲章に盛り込むことを認めたのです。 - 民族自決は白人国家だけのもの -
大西洋憲章に掲げられた「民族自決」について、アメリカの雑誌『ニュー・リパブリック』の8月25日号には次のような記事が載りました。
「被占領地の諸国民は、二大民主主義国の指導者が、侵略者を非武装化し各国の主権を回復することを保証したことに勇気づけられるであろう」
ここで言う「侵略者」とは、ドイツであり日本です。しかし「被占領地の諸国民」のなかに、インドやビルマなど大英帝国やフランス・オランダなどの植民地として支配されている人々は、含まれていないのでしょうか?
第一次世界大戦の後、米ウィルソン大統領の14ヶ条の提案にも「民族自決」は掲げられていました。ただし、このときの「民族自決」が適用されたのは、白人国家のみです。有色人種には、民族自決は許されませんでした。そこにあったのは、明らかな人種差別です。
wikipedia:ウッドロウ・ウィルソン より引用
【 人物紹介 – ウッドロウ・ウィルソン 】1856年 – 1924年
アメリカの政治家。民主党から出馬し、セオドア=ローズヴェルト(革新党)を破って当選し第28代大統領(在職1913~1921年)となった。第一次世界大戦が始まると当初は中立を宣言し交戦国間の調停を模索したが、後にドイツに対する宣戦布告をおこなった。民族自決を旨とする14カ条の原則を発表し、戦争の終結と戦後世界の構想に向けての大きな指針となった。しかし、独立を認められたのは白人である東欧の諸民族だけに限定され、非白人であるアジア諸民族の独立の要求は認められなかった。国際連盟の創設を提唱するも、議会で否決されたためアメリカの加盟は見送られる。大統領就任中に病に倒れ、2年に渡り妻が国政を見ていたことが死後に明らかとなり、波紋を呼んだ。
1919(大正8)年、パリ講和会議にて日本が提起した人種的差別撤廃提案をウィルソン議長が否決したことは、すでに紹介した通りです。
では、大西洋憲章で高らかに宣言された「民族自決」は、どうだったのでしょうか?
大西洋憲章が世界中で報道されたことにより、白人国家の植民地とされ、奴隷同然の境遇に喘ぐアジアの大地に暮らす人々の間に希望の灯がともりました。人々の関心は「民族自決」が大西洋ばかりでなく、太平洋にも適用されるのかどうかでした。
太平洋にまで及ぶのであれば、アジアの人々は民族自決によって解放され、いずれ独立できることになります。
しかし、ささやかな希望の灯を吹き消したのは、チャーチルとルーズベルト自身でした。
イギリスに戻ったチャーチルを待っていたのは、議会からの厳しい責め立てです。イギリスが抱える植民地、なかでもインドの民族自決を認めることは大英帝国の没落を招くだけに、議会が「民族自決」に同意したチャーチルの責任を問うのは当然でした。
チャーチルは早速、演説をぶちます。「大西洋憲章はその名が示す通り、大西洋沿岸の地域、つまりヨーロッパにのみ適用されるものであり、その他の地域には認められない、大英帝国は断じてインドの自主独立を認めるつもりはない」と。
つまり、大西洋憲章の「民族自決」も白人のみに適用される原則であって、有色人種には適用されないと表明したのです。
その言葉からは、「白人が栄華を貪るためには有色人種を奴隷として搾取しても構わない」とする剥き出しの悪意が、色濃く感じられます。
結局のところ、イギリスはインドやマレーの植民地支配を止める気などなく、フランスもベトナムを、オランダはインドネシアを手放す気など毛頭ありませんでした。
それらアジアやアフリカの国々が戦後に独立を果たせたのは、現地の人々が武器を取って立ち上がり、白人を追い出したからこそです。
こうした事実を振り返ると、大西洋憲章に記されている「民族自決」がいかに欺瞞に満ちたものであるかがわかります。
過酷な植民地支配に喘ぐアジアの人々は、大西洋憲章が白人のみに適用されるとのあからさまな民族差別に対して怒りの声をあげました。
インドでは、アジアの民族を除外した大西洋憲章を「アジアの奴隷に対する新たな契約」に過ぎないと糾弾する声が高まり、同じくイギリスの統治下にあるビルマでも、怒りが民衆の間に広がっていきました。
大東亜戦争中、日本によるビルマ統治下で独立を果たし、国家元首に就任したバー・モウは、その著書「ビルマの夜明け」のなかで次のように綴っています。
「それは、白人のための憲章であって、すべての白人国家が自由で主権を持たなければならないということを意味した。植民地に対しては、あらゆるものを保証された者たち(白人)以上に戦争に挺身するよう呼びかけながら、何の明確な約束もなかったのである。」
バー・モウの言葉にあるように、第二次大戦中にビルマ兵やインド兵はイギリスのために戦場に駆り出されました。
wikipedia:バー・モウ より引用
【 人物紹介 – バー・モウ 】1893年 – 1977年
ビルマ(現ミャンマー)の独立運動家・政治家。ビルマ国元首。名門の家に生まれ、フランス留学。帰国後、弁護士として政治に身を投じる。第二次大戦が始まると、ビルマがイギリス軍の一員として参戦することに反対し、民衆扇動の罪で逮捕された。同志のアウン・サンらとバンコクに「ビルマ独立義勇軍」を創設。日本軍と共にイギリス軍と戦い、ビルマからイギリス軍を駆逐することに成功。日本の支援を受けてビルマ国の独立を宣言。国家元首に就任した。東京で開かれた大東亜会議にビルマ国代表として参加。ビルマ国崩壊後は日本へ亡命。ビルマ独立後に一時政界に復帰した。
ビルマの植民地政府首相ウ・ソーは、この年の11月にロンドンを訪ねています。その時の様子を高山正之著『白い人が仕掛けた黒い罠ーアジアを解放した日本兵は偉かった』をもとに紹介します。
世界史吟遊詩人 on Twitter より引用
【 人物紹介 – ウー・ソオ 】1900年 – 1945
ビルマの政治家。イギリスの植民地だったビルマの裕福な地主の家庭に生まれる。イギリス領ビルマ植民地自治政府のバー・モウ政権を攻撃して、下院の不信任決議を主導した。それに代ったウー・プ政権に農相として入閣したが、1940年、閣僚でありながら不信任案を通過させ、自らが植民地政府首相となった。日本に民族自決の協力を求めようとしたことから英政府に逮捕され、抑留された。戦後に解放され、愛国党党員に行政参事会を襲撃させ、アウンサンを暗殺。直後に逮捕され、死刑に処される。
ロンドン滞在中にウ・ソーは英新聞タイムズに寄稿し、ビルマ人の思いを語りました。
「ビルマが知りたいのは、我々は世界の自由のために多くの国々とともに戦っているが、それはビルマの自由のためでもあるのか、ということだ」
ウ・ソーはチャーチル英首相に会い、ビルマは多くのビルマ兵をイギリスのために戦場に送り出すのだから、戦後は独立を与えてほしいと懇願しました。
チャーチルはウ・ソーの申し出を即座に拒否しています。会見の後、英植民地相エイメリに対し、チャーチルはこう述べています。
「彼らに必要なのは独立ではなく鞭だ」
それでもウ・ソーはビルマ独立の夢をあきらめることなく、今度は大西洋を渡り、ルーズベルト米大統領を訪ねました。
大西洋憲章で民族自決を掲げたアメリカであれば、ビルマ独立を支援してくれるに違いないと信じたからです。
しかし、ルーズベルトはウ・ソーとの会見にさえ応じようとはしませんでした。その理由についてルーズベルトは側近に次のように語っています。
「大西洋憲章は有色人種のためのものではない。ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べたものだ」
ルーズベルトやチャーチルの言葉には、大西洋憲章の本質が赤裸々に示されています。
大西洋憲章で謳われている美辞麗句は白人国家について述べた原則に過ぎず、有色人種にまで適用する気など、彼らにははじめからなかったということです。
日米開戦前、有色人種を「人間」とは認めない白人至上主義が、未だに世界を覆っていました。
人種差別を当たり前と捉える戦前と、悪と捉える戦後とでは、世界の在り方が大きく変わったといえるでしょう。
その狭間に大東亜戦争があることは、否定することのできない歴史的な事実です。
そこから何を読み取るかは人それぞれですが、大西洋憲章にある「民族自決」は有色人種には適用されないという事実は、しっかりと抑えておきたいものです。
大西洋会談では日本を牽制するための手段についても話し合われました。そこでの合意は、日本に多大な影響を及ぼすことになります。この続きは次回にて。
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注釈- 4-4-1
たとえばイギリスは英連邦諸国内だけの閉鎖的な最恵国待遇を定めたオタワ協定により、ブロック経済圏を形成していました。アメリカから見れば、それは貿易差別です。差別を撤廃して自由貿易を成し遂げることで、アメリカ経済は潤います。