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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1941年 戦争回避のための日米交渉#71 アメリカ参戦の密約〜日本牽制におけるイギリスとの対立〜

    #71 アメリカ参戦の密約〜日本牽制におけるイギリスとの対立〜

    日米開戦までのカウントダウン

    大西洋憲章で示された高邁な理念は白人国家だけに適用されるものであり、有色人種は例外とされていたことを前回にて紹介しました。

    今回は日本がアメリカではなく、イギリスやオランダの植民地に対して武力行使に出た際、ルーズベルトがアメリカ参戦の密約をチャーチルと交わした疑惑について、追いかけてみます。

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    第1部4章 日米交渉(12/36)大西洋憲章の隠された秘密 ルーズベルトとチャーチルの大西洋会談とは

    4-4.日米首脳会談をめぐる駆け引き

    その7. アメリカ参戦の密約

    - 日本を牽制するための手段とは -

    ここまで見てきたように、結果的に戦後世界の在り方を示す羅針盤となった大西洋憲章は、その成立時においては理想だけを並べた米英による宣伝ビラに過ぎないものでした。一皮剥けば、白人の抱える人種差別の根深さが垣間見えてきます。

    内容はともあれ、米英が寄り添って大西洋憲章を世界に示せたことは、チャーチルの政治的勝利を意味していました。参戦するという明確な言葉こそないものの、米英が一体となって大西洋憲章を出すことにより、アメリカの参戦意図は世界の知るところとなったからです。

    まだ参戦もしていないアメリカが枢軸国との戦争目的を示し、戦後世界の在り方にまで口を出すからには、参戦の意志を固めたと見られても仕方ありません。

    チャーチルにとって対独戦にアメリカを引き込むことも重要でしたが、日本軍南進の危機が深まる太平洋での対応について、ルーズベルトと早急に話をつける必要に迫られていました。石油の供給を絶たれた日本が蘭印に侵攻するのは、時間の問題と見られていたためです。

    大西洋会談の初日に米国務次官サムナー・ウェルズと英外務省事務次官アレクサンダー・カドガンとの事前協議がもたれています。

    その席上で両国は対独戦を優先するために、日本との衝突をできるだけ避けることで合意しました。ただし、アメリカとイギリスは日本の牽制の仕方において対立します。

    アメリカは日米交渉を続けることで、日本と戦争できる準備を整えるための時間稼ぎを謀ることを提案しましたが、イギリスはアメリカが強い警告を発することで力によって日本の南進を抑えるべきだと反論しました。

    チャーチルの本音は、ウェルズ国務次官に語った次の言葉に、よく表れています。

    〈何らかのはっきりとした声明が必要だ。アメリカのそのような明確な声明だけが、日本のこれ以上の南方進出を止めることができる。日本が南下すれば、イギリスと日本の衝突を避けることは絶望的となる。これがチャーチルの考えだった。さらに彼は、英日両国の戦いになれば、日本の保有する多数の巡洋艦がインド洋や太平洋にあるイギリス商船を捕獲するか破壊するだろうと述べた。

    アメリカが介入しなければ、イギリス本国と、英連邦の生命線は寸断されよう。チャーチルはこのように述べ、私(ウェルズ)に対して、アメリカが声明を出すよう懇請した。つまり(これ以上の南下は)イギリス、アメリカ、オランダとの戦いになること。ソビエトも参戦の可能性があること。このことをはっきりと謳った声明を望んだのである。もし声明が出ない場合、英国が受ける(日本の攻撃による)衝撃はきわめて厳しいものになろう、と語った。〉

    裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』ハーバート フーバー著(草思社)より引用

    日米交渉 アメリカ参戦の密約2
    wikipedia:ハーバート・フーヴァー より引用
    【 人物紹介 – ハーバート・フーバー 】1874年 – 1964年
    アメリカの政治家。第31代大統領。「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を!」とのスローガンを掲げて圧勝し、大統領となるも、世界恐慌に対して有効な政策が取れず、1932年の大統領選挙で対立候補の民主党ルーズベルトに40州以上で敗北する歴史的大敗を喫し、政界引退。退任後はスタンフォード大学に「フーヴァー研究所」を創設。真珠湾攻撃の際は参戦に賛成したが、後にハル・ノートの存在などを知り、ルーズベルトこそが対米戦争を画策した張本人であるとするルーズベルト陰謀論を唱えた。

    広島への原爆投下を強く非難し、「トルーマン大統領が人道に反して、日本に対して、原爆を投下するように命じたことは、アメリカの政治家の質を、疑わせるものである。日本は繰り返し和平を求める意向を、示していた。これはアメリカの歴史において、未曾有の残虐行為だった。アメリカ国民の良心を、永遠に責むものである」と綴っている。占領下の日本を視察した際、マッカーサーとの会談においてルーズベルトを指して、太平洋戦争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」と指摘した。開戦前の1941年7月に行われた在米日本資産の凍結などの経済制裁については、「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語ったエピソードは有名。大統領としての評価は低いものの、多くの大統領の下で閣僚として辣腕を振るったことから、歴代大統領はそろってフーバーを高く評価している。

    こうした米英の見解の相違は、11日に行われた首脳会談においても繰り返されました。同席していたウェルズ国務次官は、次のような会話が為されたと明かしています。

    〈「交渉の引き延ばしは三カ月くらいでどうだろう」との(ルーズベルトの)言葉にチャーチルは同意した。しかしチャーチルは、英米両国がすぐにでも共同行動(警告)を起こさなければ、対日交渉がずるずると長引くことになると心配した。

    「任せておいてくれ。三カ月程度日本をあしらっておくのは簡単なことだ」とルーズベルトはチャーチルを安心させた。〉

    裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』ハーバート フーバー著(草思社)より引用

    日本がすぐに南進に打って出ないように、日米交渉を引き延ばすことで3ヶ月ほど時間稼ぎをすると、ルーズベルトが約束しています。この言葉は「ルーズベルト陰謀論」で頻繁に引用されています。

    それでもチャーチルは日本を牽制するために、アメリカが強い警告を発信することを望み、最終的にはルーズベルトが折れています。

    すなわち、日本がタイや蘭印に侵攻した場合は、アメリカ・イギリス・オランダの三国連合軍は日本に対して武力攻撃をするとの警告です。つまり、「日本軍が南進すれば戦争になるぞ」との威嚇(いかく)に他なりません。アメリカの戦争覚悟を強く打ち出すだけに、場合によっては日本側に最後通告とも受け取られかねない過激な内容です。

    しかし、カドガンが中心となって起草したこの対日警告文が、そのまま日本に渡されることはありませんでした。

    ハル国務長官が「極東問題の専門家らと入念に検討したが、文面は危険なほど厳しいもので、表現を弱める必要がある。日本が米国からの挑戦と受け止めるかもしれないし、(日本の)軍部が逆に国民を戦争に駆り立てる恐れがある」として、強く反対したためです。

    8月17日に行われたルーズベルトと野村大使の会談において日本への警告が為されますが、当初よりもかなりトーンダウンした内容となっています。これについては、後にふれます。

    - アメリカ参戦の密約 -

    チャーチルが切望したアメリカから日本に向けての強い警告は実現しなかったものの、大西洋会談によって対日戦争にアメリカを引き込む公算が強まったことは、イギリスにとっての大きな成果でした。

    日米開戦後の1942(昭和17)年1月27日、チャーチルは英下院での演説で次のように述べています。

    「大西洋会談以来、たとへ米国自身が攻撃されなくても、米国は極東で戦争に入り、最後の勝利を確実にするであらうといふ公算が、これらの不安(英国が単独で日本に対処することについての)の一部を軽減するやうに思はれた。時が経つにつれて、もし日本が太平洋で暴れたら、我々は単独で戦ふことにはならないとの確信を益々強めたのである」

    公算だけではなく実際にルーズベルトがアメリカの参戦をチャーチルに約束していたことは、チャーチルが英議会にて「アメリカはイギリスとオランダを支援するために参戦することで実は合意していた」と明かしたことからも、事実であったと推察されています。

    ここで重要なことは、イギリスとオランダの植民地に対して日本が攻撃を行った場合、アメリカが日本に対して武力を行使するとの非公式な言質をルーズベルトから引き出すことに、チャーチルが成功したことです。<注釈- 4-4-2>

    <注釈- 4-4-2>
    イギリス・アメリカ・オランダは、これまで歩調を合わせて日本を経済封鎖に追い込んでいました。アメリカが資産凍結と対日貿易制限に踏み切ると、イギリス・オランダもそれに追随しています。

    しかし、アメリカに盲目的に追随するということは、イギリスとオランダにとって極めて危ない橋を渡るも同然の行為でした。

    当時でも行き過ぎた経済制裁が武力を伴わない戦争行為であるとの認識は、世界各国で共有されています。制裁を不当とみなした日本軍が、イギリスとオランダの植民地に侵攻してくるかもしれない不安に、両国は常に苛まれました。

    日本軍が侵攻してきた場合、それを防ぐ手立てはありません。アメリカが参戦してくれなければ、アジアに築いた植民地を日本に奪われることは明白でした。

    されど、三国の間になんらかの軍事同盟が為されているわけでもないだけに、アメリカがイギリスとオランダを助けるために参戦してくれる保証はどこにもありません。

    アメリカが攻撃されたわけでもないのに、イギリスとオランダの有する植民地を守るためにアメリカが軍を送ってくれるかどうかは、両国にとっての最大の懸念でした。

    アメリカ議会の手前、ルーズベルトが公式に参戦を約束することは無理としても、アメリカ参戦の密約を交わせたことは、チャーチルを安堵させました。

    イギリスの背後にはアメリカがいるのだと世界に向けてアピールできたことにおいて、大西洋会談は大きな意義をもちます。

    大西洋会談を境に、アメリカが日本に見せる態度は確実に変わりました。交渉は続けるものの、もはやアメリカには対日経済制裁を緩める気はなく、日本の動きを抑えることで時間稼ぎをすることが、日米交渉の主要な目的とされたのです。

    このような状況下で日米首脳会談が実現する可能性は、極めて薄かったといえるでしょう。

    大西洋会談後の日米交渉は、なんとか譲歩して戦争を避けようとあがく日本と、一切歩み寄ることなく原則論に終始するアメリカといった対立軸が、露わになっていきます。

    - アメリカと日本での受け止め方 -

    今日では戦後の成り行き上の辻褄(つじつま)を合わせるためにも、大西洋憲章は美化され、高く評価されています。現代の教科書や歴史書で大西洋憲章を批判するものは、ほぼ皆無と言えるでしょう。

    しかし、当時のアメリカの世論はけして芳しいものではありませんでした。大西洋憲章は8月14日にワシントン上院で議論されています。

    八月十四日、声明はワシントン上院で議論された。パット・マッカラン上院議員〔訳注:民主党、ネバダ州〕は、これでは「我が国は宣戦布告したのも同然だ」と憤った。デイヴィッド・I・ウォルシュ上院議員〔訳注:民主党、マサチューセッツ州〕は、「憲法で認められた大統領権限を大きく逸脱する」と非難した。D・ワース・クラーク上院議員〔訳注:民主党、アイダホ州〕も、ロバート・R・レイノルズ上院議員〔訳注:民主党、ノースカロライナ州〕もその非難に加わった。

    裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』ハーバート フーバー著(草思社)より引用

    原則として、米大統領には宣戦布告を行う権限もなければ、軍隊を募集し編制する権限もありません。それらは米議会に与えられた権限です。

    交戦国でもないアメリカが宣戦布告とも受け取れる大西洋憲章を出すと言うことは、ルーズベルト大統領が議会を無視してアメリカ参戦の意思表示を行ったも同然です。

    つまりルーズベルト大統領は、大統領の権限として認められた範囲を大きく逸脱したことになります。米議会のなかに、そのことを危険視する議員がいたことは当然と言えるでしょう。

    一方、日本のマスコミは大西洋会談を「血は水よりも濃い」と評しました。

    大西洋憲章に対する日本の反応は、たとえば十六日『朝日』社説「英米の共同宣言」が「要するに英米の共通的利益である現状維持という古看板を担ぎ出したもの……自己の利益擁護を目的とする主張を……世界的共通真理であるかのごとくに断じ……これを他国に押付けんとするもの」と述べたように、非常に敵対的な論調であった。また約一ヵ月後の九月十三日に行われた中野正剛の日比谷公会堂での演説「ルーズベルト、チャーチルに答え、日本国民に告ぐ」は、そのタイトルどおり、大西洋会談に対する反発であったが、聴衆は場外にまであふれたという。

    日米開戦への道 避戦への九つの選択肢』大杉一雄著(講談社)より引用

    この時点ではまだ、大西洋会談にて対日参戦の密約が為されたことは報道されていません。
    それでも大西洋憲章に見られる欺瞞は、日本では厳しく追及されました。

    日米交渉 アメリカ参戦の密約1
    wikipedia:中野正剛 より引用
    【 人物紹介 – 中野正剛(なかの せいごう) 】1886(明治19)年 – 1943(昭和18)年
    大正-昭和初期の政治家・ジャーナリスト。早稲田大学卒業後ジャーナリストとなり、はじめ東京朝日新聞、次いで東方時論誌主筆となり、健筆をふるう。のち衆議院議員となり、憲政会・立憲民政党を経て、国民同盟を結成。満州事変のころから国家社会主義に傾倒した。東方会を政治結社に改組した後、大政翼賛会常任総務となるも、同会に失望し、まもなく辞任。戦時中は東条英機首相と激しく対立。早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を行った。正剛の呼びかけに、学生たちは起立し、校歌「都の西北」を合唱してこたえた。

    演説会場には東条の命を受けた憲兵隊が多数おり、中野の演説を途中制止しようと計画していたが、中野の雄弁と聴衆の興奮熱気はあまりにすさまじく、制止どころではなくなってしまったとされる。朝日新聞に東条を暗に批判する「戦時宰相論」を寄稿し、東条を激怒させた。東条内閣の倒閣を図ったとされる東方同志会事件で逮捕され、釈放後、日本刀で切腹自殺を遂げた。自殺の原因はいまも謎とされている。雄弁家で知られ、日本を憂う演説により多くの聴衆を魅了した。国士として今も人気が高い。

    大西洋憲章は「英米流の世界観にもとづく世界支配」を表わすものだと、朝日新聞は第一面を裂いて批判しています。

    結局のところ日本は、大西洋憲章で打ち出されたような米英が主導する平和に服するか、それとも枢軸国との提携を守り英米と対決するかの二者択一を迫られていると、マスコミは断じました。

    米英が主導する平和とは、白人優位の価値観に基づく平和に他なりません。明治以降の日本は、白人優位の価値観を覆そうと必死に抗ってきました。多くの苦難を跳ね返し、曲がりなりにも強国の一端に名を連ねたものの、強大な国力を誇るアメリカとの差はいかんともしがたく、活路を見出せない状況でした。今は膝を屈し、臥薪嘗胆を期すのもひとつの戦略です。

    近衛首相が推し進めようとしている日米首脳会談による日本側の大幅な譲歩は、こうした臥薪嘗胆のための一歩です。

    我慢に我慢を重ねる対米和解か、それとも対米戦争かをめぐり、日本では政府においても軍部においても、激しい議論が連日繰り返されました。

    対米和解のために日本がすがった蜘蛛の糸が、日米首脳会談です。しかし、アメリカが日米首脳会談に応ずる気配はなく、対米和解の見込みが遠のくなか、対米戦争より選べない状況へと日本は次第に追い詰められていきます。

    - 大西洋憲章と憲法第九条 -

    余談ですが、大西洋憲章と戦争放棄を掲げた現在の憲法第九条とは密接なつながりをもっています。

    大西洋憲章の第八条には「世界のあらゆる国民は武力行使を放棄せねばならない。広範囲にわたる恒久的な安全機構が確立されるまでのあいだは、好戦国の軍備撤廃が肝要である」旨が記されています。

    ここでいう「好戦国」とは、日独伊の枢軸国です。「好戦国」の対義語としておかれたのは「平和愛好国」であり、米英を中心とする連合国を指します。

    つまり大西洋憲章の第八条では、連合国が好戦国に勝利したあかつきには、その好戦国の軍備を廃止することが肝要だと、宣言していることになります。

    このことから憲法第九条の戦争の放棄・戦力の不所持・交戦権の否認は、まさに大西洋憲章第八条に基づいて適用されていることがわかります。

    憲法第九条に平和の理念や国際平和の理想を見出すことも可能ですが、もともとは戦勝国が敗戦国に課す一方的な懲罰に過ぎなかったという事実は、抑えておいた方がよいでしょう。

    その8.野村-ルーズベルト対談

    - 緩和された警告文 -

    大西洋会談から帰国した直後の8月17日、ルーズベルトはチャーチルに約束した対日警告を行うために野村大使と会談しました。

    ● 開戦まであと113日 = 1941年8月17日

    しかし、大西洋会談にて起草された警告文は白紙に戻され、当初よりもかなり表現を緩和した警告文が野村大使に手渡されたことは前述の通りです。

    その警告文は次のような内容です。

    「日本軍がこれ以上の軍事行動を起こしたり、軍事的脅威を各国に与えたりするようなら、米国政府は米国民と米国自身の合法的かつ正当な権利と権益を保護するため、直ちに必要と思われる手段を取らざるをえなくなる」

    チャーチルが要望したのは、イギリスとオランダが有するアジアの領土を日本が攻撃したならば、アメリカが参戦するとの明確な警告です。

    ところが実際に日本に手渡された警告文には、そのような文章はどこにも見当たりません。あくまで遠回しな表現にとどまっています。

    参戦については「それが戦争になろうとも対抗手段を取らざるをえないだろう」と、ルーズベルトが口頭で伝えたのみです。

    それでもルーズベルトはチャーチルに電報を打ち、「(野村に)伝えた声明は、われわれが一致した内容よりいくらか激烈さを欠いたものになったが、本質的には同じだった」と、苦しい言い訳をしています。

    ハル国務長官やウェルズ国務次官が強い警告文を発することに反対したことはたしかですが、なによりルーズベルト自身が、まだ日本を最終的に追い詰める時期ではないと考えていたことが、警告文をトーンダウンさせた最たる理由です。

    いかに軍事大国アメリカといえども、対独戦に備えて大西洋に戦力を集中している今、太平洋の守りは手薄になっています。戦う準備が整うまで、アメリカとしてはなんとしても時間稼ぎをする必要に迫られていました。近い将来に日本が戦端を開くような事態だけは避けたかったのです。

    だからといって日本に譲歩する気など、アメリカにはありません。当時のアメリカの対日指針は日本に対して強硬な立場を維持しつつも、早急な開戦を避けることでした。

    戦争になることを避けたい一方で経済制裁によって手綱を締め続けることは、一見すると矛盾した方向性のようにも思えますが、大国アメリカがあくまで強硬な姿勢を誇示すれば、日本の性急な南進を抑えることができると、ルーズベルトらは信じていたようです。

    力で他国をねじ伏せることは、アメリカがこれまで幾度となく繰り返してきた王道ともいえる手法です。

    資源のない日本が経済制裁に耐えられるはずもなく、まもなく屈服するに違いないとアメリカの首脳陣の多くが安易に考えていました。

    こうした考え方を根本的に間違っているとばっさり斬り捨てたのが、グルー駐日米大使です。グルーは8月19日に次のような意見をワシントンに寄せています。

    日本政府は経済制裁によってその力が限界に達してしまった。我が国との戦いなどできるはずもない。だからこそ日本政府は前例にない提案〔編者注:近衛・ルーズベルト会談〕を望んでいる。このように考えるかもしれないが、そうではない。むしろ逆である。日本は(アメリカと戦うことになれば)とんでもなく悲惨なことになるかもしれない。しかし、日本政府が、そうなることをも覚悟して、外国政府の圧力に屈するよりも戦うほうがましだと考えることは十分に考えられるのである。

    裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』ハーバート フーバー著(草思社)より引用

    歴史の経過を見れば、ワシントンの予測とグルーの見解のどちらが正解であったかは明らかです。

    これ以降、日本をよく知るグルーは、日米首脳会談にアメリカが応じるようにと何度も何度もワシントンに懇願します。

    しかし、グルーの叫びがルーズベルトを動かすことは、ついにありませんでした。

    - ルーズベルトの好意的な反応 -

    対日警告文を受け取った8月17日、野村大使は改めてルーズベルト大統領に日米首脳会談についての申し入れを行っています。
    「近衛文麿首相は、日米関係の保持を真剣かつ熱心に考えており、地理的に日米の中間地点で首脳会談を行い、平和的精神で諸問題の解決を図りたいと考えています」

    この申し入れに対するルーズベルトの態度は好意的であったと野村は語っています。

    「ホノルルは無理だがアラスカのジュノーなら首脳会談に出席できるかもしれない」とルーズベルトは答えたとされています。

    会談に向けて具体的な提案も為され、ジュノーであれば日本から軍艦で十日もあれば着くこと、時期は9月21日から25日の間、外務省・陸海軍・在ワシントン日本大使館から総計20人が随行すること、軍人が随行するのは合意事項を軍が責任を持って遵守させるためであることが確認されました。

    野村は三国同盟は名目的なものに過ぎず、日本がドイツを支援するためにアメリカと戦争するつもりなどないことも、ルーズベルトに伝えています。

    こうした具体的な事まで踏み込んで話し合われたことから推察すると、ルーズベルトも当初は首脳会談に前向きであったのかもしれません。

    しかし、ホーンベック国務省顧問ら対日強硬派の論が次第に日米首脳会談を阻んでいきます。
    「我が政府は日本が軍事作戦を中止し、秩序と正義に基づく平和を念願している証拠を示す場合にのみ、この提案に好意的考慮を払うことが出来る」

    マジック情報によって日本に悪意があると信じるホーンベックらは、日本に対する厳しい態度を改めることなく、あくまで首脳会談に反対したのです。

    難航する日米首脳会談の結果については、次回にて紹介します。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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