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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1941年 戦争回避のための日米交渉#72 遠のく首脳会談 ハルが終始反対の立場をとり続けた理由

    #72 遠のく首脳会談 ハルが終始反対の立場をとり続けた理由

    大西洋会談は戦後の秩序を決定付けるとともに、日本を牽制するための手段について話し合われ、アメリカ参戦の密約が為されたことにおいて、日米開戦に向けた大きな転換点となりました。このあたりの事情については前回、紹介しました。

    今回は大西洋会談後の、日米首脳会談をめぐる両国の駆け引きについて追いかけてみます。

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    日米開戦までのカウントダウン

    4-4.日米首脳会談をめぐる駆け引き

    その9.遠のく首脳会談

    - 対立するグルーとハル -

    近衛首相は首脳会談を実現するために、さらなる大統領宛メッセージと日本政府声明を8月28日にアメリカに送っています。

    ● 開戦まであと102日 = 1941年8月28日

    両首脳が直接会談を行うことで、これまでの経緯にとらわれることなく日米間の重要問題を討議し合い、最悪の事態を避けたいのだと、近衛首相は会談実現に向けて真摯(しんし)な思いを強く訴えました。

    まずは首脳間で合意に達することが大切であり、細かな問題については会談後に、事務当局が交渉することを提案しています。

    この時期、日本側はなんとしても首脳会談を実現させるべく、米政府に何度も働きかけています。近衛はグルー駐日米大使とも会談を重ね、首脳会談の意図を懸命に説いています。

    しかし、米政府は首脳会談に応じようとはしませんでした。このあたりの経過については、グルーが米政府に具申した意見書によく表れています。

    近衛首相らの首脳会談に賭ける並々ならぬ熱意にほだされたグルーは、日本側の思いを見事に代弁しています。

    大使は、何とか彼自身の権能の範囲の中で、日本とアメリカが戦うような無益なことを回避させたいと願っている。両国の戦いの可能性は日に日に高まっている。日本の提案〔訳注:首脳会談〕については放っておくようなことをせず、十分な(前向きな)検討がなされるべきだと訴える。近衛公とルーズベルト大統領の会談が生むだろう効果は計り知れないものがある。その好機が訪れている。高潔な政治家として(戦争を回避できる)行動が取れる機会である。太平洋方面の和平実現に立ちはだかる障壁を乗り越えられるかもしれないのである。

    裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』ハーバート フーバー著(草思社)より引用

    首脳会談が実現すれば太平洋に平和が訪れる可能性が高いことを、グルーは切々と訴えています。

    こうしたグルーの意見書が、米政府内で重要視されることはありませんでした。ハル国務長官は回顧録にて綴っています。

    近衛の政府が、我々が了承できる条件を呑むとは到底考えられない。近衛も豊田も野村も、首脳会談の開催を極秘にしたいと言っている。もしこのことが漏れると、反近衛勢力が会談の妨害に出てくることを恐れているからだ。

    我々は、近衛自身に日本外交の舵を切って真の和平を実現できるような合意の用意があるとは聞いていない。

    この数週間、東京からは、何度もルーズベルト・近衛会談を望む声が届いている。グルー大使もそれを訴えている。確かにグルーは日本の情勢を驚くほどよく把握している。しかし彼には、ワシントンにいる我々ほどには世界全体を見渡しての判断はできていない。

    裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』ハーバート フーバー著(草思社)より引用

    - 中国をめぐる駆け引き -

    ハルは首脳会談については終始、反対の立場をとり続けました。ハルが指摘した「世界全体を見渡しての判断」が何を指すのかは不明ですが、首脳会談によってABCD包囲網を敷いた米英蘭中四カ国の結束が乱れることを、ハルが恐れていたこともたしかです。

    ことにアメリカにとって、中国の動きは不安要素の一つでした。蒋介石がアメリカの動きに対して疑心を募らせているとの情報が、米政府にもたらされていたからです。

    大西洋会談の直後にアメリカと日本が首脳会談について話し合っていると知った中国では、アメリカが中国の頭越しに日本と和平を結ぶのではないかと恐れました。太平洋での一時的な平和を築くために、アメリカが中国を売るのではないかと懸念したためです。

    蒋介石にとって面白くないことは、大西洋憲章が発表された直後、ソ連のスターリンに対しては米英共同宣言が送られたにもかかわらず、自分は完全に無視されたことでした。

    大西洋憲章が白人国家のみを対象としていたことを考えれば、有色人種の国家である中国が無視されたことは辻褄が合いますが、ABCD連合国として日本と戦っているつもりの中国としては、面目が潰(つぶ)されるも同然の仕打ちでした。

    こうした中国の不満は、米英にとってのアキレス腱でした。中国がアメリカと日本で勝手に和平が結ばれ、自分たちが見捨てられるのではないかと恐れたように、米英もまた、中国と日本で勝手に和平が結ばれ、自分たちに刃向かってくるのではないかと疑心を募らせたのです。

    なにせ欧米には伝統的に黄禍論の脅威が染みついています。日本と中国が一体となり、アジアの有色人種が一斉に白人に対して牙をむくことを、欧米では古くから恐れてきました。

    中国を日本側に追いやることだけは、米英にとって避けたい悪夢だったのです。

    イギリスのリチャード・ロ-外務事務次官は顧維均中国大使に対して8月末に「アメリカが中国を裏切ることはあり得ない」と伝えています。「かりに公式の同盟が存在しなくとも、蘭印・オーストラリア・米国、そして中国は同一の敵と戦っている」と、中国との一体感を強調しました。

    ハルとしては中国がこれ以上の疎外感を抱かないためにも、日米首脳会談の実現を避けたい思いがあったのです。

    ルーズベルトは首脳会談を行うことで時間稼ぎになると考えていました。しかし、ハルからABCD陣営の結束を固めるためにも慎重に対処すべきだと諭され、首脳会談には安易に応じない決断を下しています。

    - アメリカの出した答えとは -

    9月3日、首脳会談についてのアメリカの回答が示されました。それは日本側が期待していた回答とは程遠いものでした。

    ● 開戦まであと96日 = 1941年9月3日

    結論から言えば首脳会談は趣旨としては賛成ながら、会談の前に懸案事項について事前に合意が必要だとし、「速カナル予備的討議ノ開始」を求めるものでした。

    つまり、先に事前協議を重ね、合意に達してから首脳会談を開く、ということです。

    その際、合意事項としてあげられたのが、4月に日米諒解案が提示された際にハル国務長官から示された「ハル四原則」です。

    「ハル四原則」とは①各国の領土保全と主権尊重②他国への内政不干渉③通商上の機会均等を含む平等の原則④太平洋の現状を変革しないこと、の4つの原則です。

    突然、「ハル四原則」が持ち出されたことに、日本側は当惑します。野村大使が当初「ハル四原則」について日本側に伝えていなかったため、この時点まで日本側は、アメリカの日米交渉における拠り所が「ハル四原則」であることを認識していなかったためです。

    日米交渉の前提となる「ハル四原則」が顧みられることなく、ここまで交渉が続けられていたこと自体、驚きです。

    軍部にしても驚きを隠せません。「ハル四原則」についてはじめて知った武藤軍務局長は、「これは問題になるぞ、研究しておけ」と部下にあわてて指示しています。

    「ハル四原則」が日本に要求していることは明快です。①は日本軍の中国からの撤兵を意味しています。②は日本が承認していた中国の汪政権の否認を、③は日本が中国に有する特殊権益のすべてを否定し、④は日本軍の武力南進を否定しています。また、②は満州国そのものの否定とも受け取れます。

    「ハル四原則」から、アメリカが日本に何を求めているかが浮かび上がってきます。さらにハルは野村大使に、首脳会談の前に「特定の根本問題」についての合意が必要であると伝えています。

    「特定の根本問題」としてあげられたのは、中国撤兵問題、三国同盟問題、通商無差別原則の問題などでした。

    先に紹介したように、近衛首相には首脳会談によって日本側が大幅に譲歩することで、これらの懸案について一気に解決しようとする腹づもりがありました。

    もともと近衛が首脳会談を提案したのは、中国からの撤兵問題にしても、三国同盟の問題にしても軍部の反対が強く、このままではアメリカの要求を受け入れることができなかったからこそです。

    通常の連絡会議を通してでは日本側が譲歩した和平案をまとめることができないため、首脳会談によって近衛が譲歩案を提示し、ルーズベルトの合意を取り付けた後、直ちに天皇が裁可することで、トップダウンによって強引に反対派を押さえつけようとしたのです。

    ところがアメリカは、そうした日本側の事情を斟酌(しんしゃく)することなく、先に事前協議が必要だと突っぱねて譲りません。

    これでは埒(らち)があかないことは明らかでした。事前協議では軍部の反対が強いため、日本側の譲歩案を示せないからです。

    こうなっては近衛としては落胆するよりありません。アメリカのかたくなな態度により、事実上、早期の首脳会談開催の見通しは葬られることになり、近衛首相らの懸命な働きかけは水泡に帰したのです。

    - 意外に高い近衛の評価 -

    国内における近衛文麿の評価は総じて低く、「無能な宰相」あるいは「途中で政権を放り出した無責任な首相」といった悪い評価が目立っています。

    ことにドイツ駐中国大使オスカー・トラウトマンの調停工作によって日中戦争が終結しようとしていたとき、参謀本部が諫(いさ)めたにもかかわらず聞くことなく、「国民政府は対手(あいて)にせず」との近衛声明を発し、日中戦争を泥沼化させたことは、近衛の評価を著しく落としています。

    さらに、ゾルゲ事件に際してスパイとして処刑された、元朝日新聞記者の尾崎秀実をブレーンに加えていたこと、近衛自身が学生時代に共産主義思想に染まっていたことなども、評価を下げる原因になっています。

    日米交渉 遠のく首脳会談1
    wikipedia:リヒャルト・ゾルゲ より引用
    【 人物紹介 – リヒャルト・ゾルゲ 】1895年 ‐ 1944年
    ドイツの新聞記者・共産主義者。父はドイツ人、母はロシア人。第一次世界大戦が勃発するとドイツ陸軍に志願。西部戦線で両足に重傷を負う。ベルリン大学卒業後、ロシア革命に衝撃を受け、ドイツ共産党に入党。モスクワへ派遣され軍事諜報部門に配属される。上海でのスパイ活動を経て、コミンテルンの命をうけて「フランクフルターツァイツング」紙特派員として来日。

    日本の対ソ侵略防止と日ソ平和の維持を目的としてゾルゲ諜報団を組織し、日本の政治・外交・軍事情報をさぐる。ドイツ駐日大使の私的顧問として大使親展の機密情報を盗み、ドイツのソ連侵攻作戦の正確な開始日時を事前にモスクワに報告したが無視される。日本がソ連侵攻をあきらめ南進を決定した重要情報をモスクワに伝え、ソ連の勝利に貢献した。1941年尾崎秀実らとともに逮捕され、のち死刑に処される。一連のスパイ活動はゾルゲ事件として日本を震撼させた。1964年「ソ連邦英雄勲章」が授与される。

    日米交渉 遠のく首脳会談3
    wikipedia:尾崎秀実 より引用
    【 人物紹介 – 尾崎秀実(おざき ほつみ) 】1901(明治34)年 – 1944(昭和19)年
    昭和時代前期の新聞記者・中国問題評論家・社会主義者。東京大学卒業後、東京朝日新聞社に入社。特派員として上海に赴く。中国問題に詳しく、日本の軍事行動を中国侵略として批判した。上海時代にゾルゲと知り合い、ゾルゲの中国における情報工作に協力。帰国後、1934年にゾルゲと再会してゾルゲ諜報機関に参加。西安事件の評論によって注目され、以後傑出した中国評論家として独自の東亜協同体論を展開した。朝日退社後、第1次近衛内閣では満鉄調査室の嘱託を務め、中国の現状を科学的に分析することで近衛文麿のブレーンとなった。ゾルゲ事件発覚によって逮捕され、ゾルゲとともに刑死。

    周囲の意見に流される優柔不断さも、宰相時代を通して一貫して見られる近衛の短所でした。

    しかし、国際的な評価となると別です。特に修正主義史観に立つ学者や政治家の間では、近衛は高く評価されています。

    その理由はひとえに、近衛が推し進めた日米首脳会談構想こそが、戦争回避を目指した試みとして賞賛されているからです。

    当時、そのような視点をもつ人物は少なかったものの、日本をよく知るグルー駐日米大使やクレイギー駐日英大使は、いずれも近衛を高く評価しています。

    たとえばグルーは、9月6日に近衛と会談した後、次のような電信をハルに送っています。

    米日関係を改善できるのは彼(近衛)だけです。彼がそれをできない場合、彼の後を襲う首相にそれができる可能性はありません。少なくとも近衛が生きている間にそんなことができる者はいないでしょう。そのため、近衛公は、彼に反対する勢力があっても、いかなる努力も惜しまず関係改善を目指すと固く決意しています。

    (首相は)現今の日本の国内情勢を鑑みれば、大統領との会談を一刻の遅滞もなく、できるだけ早い時期に実現したいと考えています。近衛首相は、両国間のすべての懸案は、その会談で両者が満足できる処理が可能になるとの強い信念を持っています。彼は私との会談の最後に、自らの政治生命を犠牲にし、あるいは身の危険を冒してでも日米関係の再構築をやり遂げると言明しています。

    裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』ハーバート フーバー著(草思社)より引用

    さらに、グレーは9月29日にもルーズベルトとハルに向けて親書を送っています。少し長くなりますが、引用します。

    日本に対してどのような態度で臨むにしろ、リスクが存在します。それでも本官が願う大統領と首相の会談が実現すれば、極東情勢がこれ以上悪化するのを防ぐことになると信じます。いまが好機です。会談を実施したからといって戦争になるとか、戦争のリスクを高めるといった恐れはありません。むしろこの機会を逃してしまえば、日本との戦争のリスクを一気に高めてしまうことになると危惧するものです。

    日本人の心理は西洋のいかなる国の人種のそれとも異なっています。日本人を西洋人の尺度で判断することはできません。現在直面している課題を勘案しながら、彼らの心理を理解しようとしなくてはなりません。

    日本が(会談の実現前に)、原則においても具体的な実行の方途についても、しっかり説明し、それが我が国の満足のいくものであることをはっきりさせなくてはならないとする主張があります。そのような態度は、時間を弄んでいることに他なりません。その間に重大事件が起き、近衛内閣の評判が大きく毀損することもあり得るのです。なんとかアメリカとの間で妥協点を見出したいと考える勢力も、このことを憂慮しているのです。憂慮すべき方向に事態が進んでしまえば、非合理的なことも起こり得るのです。つまり対米戦争です。近衛内閣が崩壊し、軍国主義的独裁者が政権に就けば、その政権は、我が国との衝突を避けようとする態度は見せないでしょう。

    『裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』ハーバート フーバー著(草思社)より引用

    グルーは繰り返し近衛内閣こそが日米和平の希望であることを訴え、首脳会談によって太平洋に平和が訪れるだろうことを示唆し、会談の開催を切望しています。

    クレイギー駐日英大使もグルーに同調しています。9月29日・30日の公電にてクレイギーは本国に訴えています。

    彼(松岡洋右前外相)が閣内から去ったことで、日本の政治状況に大きな変化が起きています。枢軸べったりだった外交から、より穏健な勢力が盛り返しています。

    その勢力は急いで外交の舵を切りたいと考えています。しかし、公には漠然とした物言いしかできません。それにもかかわらず、アメリカはとにかく細かな点についてまで、どうしようとするつもりなのか、はっきりさせるように日本に要求しています。それはアメリカの時間稼ぎのように感じられます。アメリカの要求が、日本人の心理をまったく斟酌していないこと、そして日本国内の政治状況を理解していないことは明白です。日本の状況は、(首脳会談を)遅らせるわけにはいかないのです。アメリカがいまのような要求を続ければ、極東問題をうまく解決できる絶好の機会をみすみす逃すことになるでしょう。私が日本に赴任してから初めて訪れた好機なのです。

    (中略)(近衛)首相は、対米関係改善に動くことに彼の政治生命をかけています。そのことは天皇の支持を得ています。もし首脳会談ができず、あるいは開催のための交渉が無闇に長引くようなことがあれば、近衛もその内閣も崩壊するでしょう。

    アメリカ大使館の同僚も本官も、この好機を逃すのは愚かなことだという意見で一致しています。確かに近衛の動きを警戒することは大事ですが、そうかといってその動きを冷笑するようなことがあってはなりません。いまの悪い状況を改善することはできず、停滞を生むだけです。

    言わずもがなですが、日本に対する経済的制裁は、日本が明らかな方針変更を実行するまでは継続してかまわないのです。

    裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』ハーバート フーバー著(草思社)より引用

    グルーもクレイギーも近衛を高く評価していることに変わりありません。日米首脳会談が実現しなければ近衛内閣が倒れ、もはや戦争を避けられなくなることを、切々と訴えています。

    国内での評価は低い近衛ですが、日米首脳会談によって太平を築こうとした努力によって世界的に評価され、日本が戦争ではなく和平を望んだ証左となっていることは、大きな功績といえるでしょう。

    日米交渉 遠のく首脳会談2
    wikipedia:ロバート・クレイギー より引用
    【 人物紹介 – ロバート・クレイギー 】1883年 – 1959年
    イギリスの外交官。1937年9月3日(-1941年)駐日大使として着任。駐日大使の任務を総括した最終報告書の中で、太平洋戦争は必ずしも不可避では無かった事を示唆し、英国政府を批判した。最終報告書は、1971年にイギリスの戦時中の文書が30年ルールにより一括公開されるまで歴史家の目に触れる事はなかった。これを読んだイギリスの外交史家ドナルド・キャメロン・ワットは「チャーチルはアメリカを戦争に引き入れるべく、極東で戦争を意図的に引き起こそうとしたのではなかったのかとの疑念を提起し、イギリスが戦争によってアジアで支払った高価な代償は、チャーチルの政策の誤りを立証するものである」と、暗にチェンバレンの宥和政策を肯定し、チャーチルを批判した。

    - 戦争回避の努力を怠ったのはどちらか -

    グルーにしてもクレイギーにしても、首脳会談に応じようとしないルーズベルト政権に対して批判的な眼差しを向けていることは、先の電文からも感じ取れます。

    事前の合意を要求するアメリカの態度を批判し、「時間稼ぎ」に過ぎないとクレイギーが断じるあたりは、あたかも日本の思いを代弁しているかのようです。

    首脳会談についてグルーは、後日、次のようにも回顧しています。

    ワシントンの政権は、とにかく日本政府側の「前向きな行動(positive action)」を期待しているだけで、アメリカ政府側は近衛の動きの助けとなるようなことは何ひとつしようとしなかったことがわかる。近衛は、政権を瓦解させることなく、アメリカが期待する「前向きな行動」を何とか起こしたかったのである。

    日本の首相がアメリカ大統領に会って、何とかアメリカ側が満足できる条件を提示できるかもしれないと言っているにもかかわらず、我が政府はその要請をすげなく断わった。前述の電信での返信内容、あるいは(野村大使が進める)ワシントンの交渉が何の進捗もみせない事実、あるいは近衛の訪米による首脳会談の要請を(すぐに)実現させようとしなかった事実などに鑑みれば、近衛の政府がもたなくなるというのは誰にでもわかることであった。

    裏切られた自由 上: フーバー大統領が語る第二次世界大戦の隠された歴史とその後遺症』ハーバート フーバー著(草思社)より引用

    日本の望む首脳会談に対してアメリカが事実上の拒否を貫いたことは、グルーやクレイギーが感じたように、当時の状況から推し量っても疑問符が残ることでした。

    首脳会談をすることでアメリカが不利益を被るような状況になかったことは、間違いありません。

    前述のように中国にとっては面白くない展開かもしれませんが、首脳会談によって日本軍の中国からの撤兵が決したならば、中国にとっても望外の吉事であったはずです。日本軍がいなくなれば、日本の傀儡政権であった汪政権が消滅することも明らかです。

    首脳会談が実現していれば日米間に横たわる懸案が合意に達し、中国からの撤退、仏印からの撤兵、三国同盟の無効化、武力南進の放棄などが決まる可能性が高く、アメリカは戦わずして目的を達成できたと見られています。

    アメリカにとっても、けして損のない取引であったはずです。

    もちろん、首脳会談が実現したからといって、本当に日本がそれだけ大きな譲歩に踏み切れたか否かは、実際にはわかりません。

    優柔不断という近衛のもつ資質が、いざというときに発揮されないとも限りません。「命を賭ける」と公言することと、実際に命を賭けて事をなすことができるかは、まったく別のことです。

    ただ一ついえることは、首脳会談が失敗に終わり、たとえ和平が成らなかったとしても、アメリカが失うものはほとんどなかったという事実です。

    全面禁輸という経済制裁を受けた日本の首相が、自ら助けを求めて太平洋を越えてルーズベルトに会いに行くという一大イベントは、それ自体が日本の屈服を世界に対して印象づけることにつながります。

    交渉決裂でもアメリカにとっては十分プラスになったと考えられます。

    しかし、アメリカはその後も頑として首脳会談に応じようとはしませんでした。

    なぜアメリカは首脳会談を拒否し続けたのか、そこにも日米交渉の謎が潜んでいます。

    グルーやクレイギーが本国宛に首脳会談の開催を促した電信からは、戦争回避の努力を怠ったのはアメリカ側であるとの印象を拭えません。

    結局のところアメリカには日本との和平を望む気など端からなく、日本をひたすら追い詰めることだけを画策したようにも見受けられます。

    その真否はともかく、こうした背景がルーズベルト陰謀論を支える骨子になっています。

    今回はアメリカが日米首脳会談を拒絶する過程について紹介しました。望みをつないだ首脳会談の芽を摘まれ、アメリカとの和平が実現する手がかりをつかめないまま、日本の開戦決意は次第に強まることになります。この続きは次回にて。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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