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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1941年 戦争回避のための日米交渉#82 日本の運命を託した甲案と乙案とは。南部仏印撤兵をめぐる大激論

    #82 日本の運命を託した甲案と乙案とは。南部仏印撤兵をめぐる大激論

    前回は嶋田海相が突如、開戦容認へと転じたことにより、日本の国策が開戦に向けて一気に動き出したことを紹介しました。

    今回は東郷外相と賀屋蔵相が避戦に向けて最後の抵抗を示したことから筆を起こし、日本が自らの運命を託してアメリカに提案した甲案と乙案について追いかけてみます。
    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    日米開戦までのカウントダウン

    4-9. 開戦決議への道のり

    その4.東郷外相と賀屋蔵相の最後の抵抗

    あとは出席者全員がサインをすることで合意成立となります。ところが東郷外相と賀屋蔵相はさらに熟考したいと述べ、サインを拒んだまま退出しました。

    東郷と賀屋は日米交渉が成立しなかったとしても、なお戦争は避け、臥薪嘗胆すべきとの信念を曲げていませんでした。第三案に同意すると言うことは、外交期限までに交渉が成立しなければ開戦が決まるため、彼らの意に反して日本を戦争へと走らせることになります。

    その責任の重さを考えると、サインをためらったことも理解できます。サインさえしなければ、開戦を拒否する権限が彼らにはまだ残されていました。

    連絡会議で決まった国策は、その後の御前会議の決議を経ることで正式に決定されます。

    御前会議にあげるためには、連絡会議にて全会一致となることが原則でした。東郷か賀屋の一人でも第三案に同意しなければ全員一致とはならないため、御前会議にあげることができません。

    連絡会議は出席者全員が対等の立場であり、議論が割れても首相には裁定する権限がありませんでした。全会一致に至らず連絡会議が決裂すれば、内閣は辞職するより他になかったのです。

    混迷した政局に陥ることが日本にとって良いことなのかどうかは別としても、閣僚の罷免権がない戦前においては、閣僚には大きな影響力がありました。

    もし、東郷か賀屋が自らの信念に基づき、あくまで第三案への合意を拒んだならば、その後の日本の歴史は変わっていたかもしれません。

    しかし、東郷も賀屋も周囲の説得を受け入れ、最終的には同意に至っています。東郷を説得したのは外務畑の先輩に当たる広田弘毅元首相でした。

    広田は、ここで辞職したとしても戦争を支持する他の外相が就くだけで事態は何も変わらない、それよりも外相の職に留まり、交渉の成立に全力を尽くすべきだと東郷を説諭しています。

    東郷は2日の正午に東条首相のもとを訪ね、連絡会議の決定に同意する旨を伝えました。賀屋は一足早く、すでに同意していました。

    ただし東郷は甲案、あるいは乙案での交渉が進み、アメリカが乗り気になってくれた場合には、さらにある程度の譲歩をすることを同意の際の条件にしています。

    これにより、ようやく1日の連絡会議の決定が確定し、2日の連絡会議にて新たな「帝国国策遂行要領」案が定められました。

    ● 開戦まであと36日 = 1941年11月2日

    その内容は、下記の通りです。

    1.帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完了し、大東亜の新秩序を建設するため、この際対米英蘭戦争を決意し、左記処置を採る
    (1).武力発動の時期を12月初旬と定め、陸海軍は作戦準備を完整する
    (2).対米交渉は別紙(甲案、乙案)により之を行う
    (3).独伊との提携強化を図る
    (4).武力発動の直前、タイとの間に軍事的緊密関係を樹立する

    2.対米交渉が12月1日午前零時までに成功すれば、武力発動を中止する

    つまり、12月1日午前零時までに日米交渉が成立しなければ、米英蘭を相手に戦争に踏み切る、ということです。日本も甲案・乙案で当時としては最大限の譲歩をしています。ここでアメリカが妥協してくれない限りは開戦が決まります。

    この11月2日は日本の開戦意思が確定した日として、長く記憶されることになりました。

    その日の午後5時、東条首相は杉山・永野両総長とともに参内し、連絡会議の決議について天皇に上奏しています。

    その際、天皇は「事態がこのようになれば、作戦準備を進めるのはやむをえないとしても、何とか極力、日米交渉の打開をはかってもらいたい」と、なお和平を希望する旨を伝えています。

    その声を聞いた東条は、戦争回避にある天皇の意を適えることができなかった責任を感じ、子供のように号泣したと記録されています。

    その5.甲案と乙案

    ここでは、11月2日に定められた「帝国国策遂行要領」案にある甲案と乙案について見ていきます。

    日米交渉を成立させるためには、従来とは異なる思い切った譲歩案が必要でした。12月1日午前零時と期限が設けられたため、これが事実上の日本側の最終提案になることは明らかです。

    甲案と乙案に、日本の運命が託されました。

    甲案と乙案は、連絡会議で厳しく検討された末に決定されたものです。まずは甲案から見ていきましょう。

    - 甲案でもめた駐兵期間 -

    アメリカとの最大の争点となっていた中国駐兵に関しては、休戦成立後、蒙疆・華北・海南島のみに駐兵し、それ以外の軍は二年以内に撤兵することとされました。蒙疆・華北・海南島への駐兵は、25年間までとしています。

    当初、東郷外相は全面撤兵を主張し、一定の期限を付けることで特定地域のみの駐兵を認める案を出しましたが、陸軍参謀本部は期限付きの駐兵は容認できないと強硬に反対しました。

    それでも東郷は譲らず、期限付き駐兵が認めらないのであれば辞職する決意があると毅然とした態度を示し、大激論となっています。

    そこで東条首相が「永久に近い言い表し方」として提議したのが、25年の期限を設けることでした。参謀本部もやむなく25年の期限を受け入れています。

    東郷としては25年という長期の期限を付けることは不本意でしたが、アメリカ側が緩和を求めた際には改めて対処できると判断し、同意に至っています。

    - 「通商無差別の原則」に対する日本側の譲歩 -

    アメリカがハル四原則として求める通商無差別の原則については、全世界への適用を条件に太平洋及び中国について受け入れることとしました。その際日本は地理的な特殊関係に基づく重要国防資源開発など、日中経済提携を主張しないことが確認されています。

    そのことは日本が中国に築いてきた権益や特殊地位を、すべて放棄することを意味しています。

    日本と中国は地理的に近いために特殊な関係にあり、様々な問題を抱えてきました。日本は日露戦争以来、血と汗を流し、中国大陸に既得権益を培ってきました。日中戦争においては、さらに多大な犠牲とともに利権を獲得してきました。

    そうした事情を一切汲み取ることなく、アメリカが無差別に原則に従うことを求めてきたのが、これまでの日米交渉でした。それに対して日本は、アメリカが過去にモンロー主義を掲げて近隣諸国との利害を調整していたことを指摘し、日本も同じことをしているだけなのだから日本の事情を理解してほしいと懇願してきました。

    それでもアメリカの原則論を適用する姿勢は変わらないため、日本はやむなく中国における既得権益を手放すことを決めたのです。

    ただし、全世界への適用を条件として掲げていることには注意が必要です。当時の世界情勢から見て全世界に通商無差別の原則を適用することは、事実上不可能だからです。

    中国での既得権益の放棄は画期的な譲歩であっただけに、あえて実現不可能な条件を付したことは悔やまれます。

    当初、通商無差別の原則を受け入れることを陸軍参謀本部は強く反対しました。譲歩に至ったのは永野軍令部総長が「(通商無差別の原則ぐらい)太っ腹を見せたらどうか」と外務省に助太刀したからです。これについてはもう一歩踏み込めば、全世界適用の条件を取り払う余地もあったと解されています。

    - 「三国同盟」をめぐる駆け引き -

    アメリカがこだわる三国同盟については従来からの姿勢を貫き、参戦決定は自主的に行うこととされました。

    ドイツにアメリカから先制攻撃を仕掛けたとしても、それを自衛のためとみなし、日本が参戦しないことをアメリカは求めていました。しかし、日本も独立国家である以上、国際条約である三国同盟に明らかに反することを条件とすることはできません。

    そんなことをすれば、国際的な信用を失うことは明らかです。日本はあくまで、参戦の可否は自主的に行うことを主張しました。ただし、日本としては案文にはあからさまに書けないものの、行間の真意を読み取ってほしいとまでアメリカに伝えています。

    つまり「実際には日本は参戦しないが、それを案文に表記することはできないから理解してほしい」と言っているも同然です。日本としては体面上、そこまでが精一杯の譲歩でした。

    - 東郷外相の交渉戦略と乙案 -

    以上が甲案の骨子です。甲案は米国案に対する一般的な回答といえる内容でした。それでも9月20日に決定された「日米了解案」と比べれば、日本側が大幅に譲歩していることは明らかです。

    頑な態度一辺倒であった軍部が折れた背景には、東郷外相の非凡な努力がありました。東郷外相はときに軍部寄りの強硬論を吐き、軍部の信頼を勝ち取りながらも、結果的に譲歩を引き出しています。

    東郷外相の回想録に目を通せば、そこに並々ならぬ高度な交渉戦略が尽くされていたことがわかります。

    されど甲案をアメリカがそのまま受け入れるとは、東郷外相も期待していません。

    東郷外相が外交期限を設けることに同意したのは、実はもうひとつの対米交渉案に期待を寄せているからこそでした。それが乙案です。

    東郷外相が切り札とした乙案は、11月1日の午後11時過ぎに連絡会議の場に突如として持ち出されました。

    - 不意打ちを計った乙案の提出 -

    甲案はアメリカの掲げる原則論に対して、日本としても最大限の譲歩を示した案です。しかし、中国問題でアメリカの要求をすべて受け入れているわけではないため、すぐに合意に至ることは難しいと見られていました。

    そこで東郷外相が用意したのは、暫定案として位置づけられる乙案です。乙案は中国問題での合意をひとまず後の課題として残すも、他の部分で譲歩することで日米関係を修復しようと図った案です。

    乙案を発案したのは、かつて平和外交を展開した幣原喜重郎元外相です。その内容は、険悪化した日米関係をいったん南部仏印進駐前、ひいては対日全面禁輸以前の状態に戻し、日米の緊張関係をほどこうとするものです。

    日米交渉24近幣原喜重郎
    wikipedia:幣原喜重郎 より引用
    【 人物紹介 – 近幣原喜重郎(しではら きじゅうろう) 】1872(明治5)年 – 1951(昭和26)年
    大正・昭和期の外交官・政治家。第1次世界大戦後のワシントン体制のもとで外相を歴任し、国際協調主義的な政策を推し進め「幣原外交」と呼ばれた。第2次大戦後2代目の内閣総理大臣に就任し、天皇の「人間宣言」をみずから起草。マッカーサーの指示のもとに憲法改定にあたる。第九条を発案して日本国憲法に加えたとされている(これについては疑問視する見解もあり)。衆議院議長に就任し、在職のまま没す。

    具体的には日本は仏印以外への武力侵攻を控えることを約束する、日米は蘭印で協力し合い、必要な資源を開発する。アメリカは日本資産の凍結を解除し、石油の供給をはじめとする対日貿易を再開する。これらの条件の下に合意が得られるならば、日本は南部仏印から撤兵し、最終的には仏印全土から撤兵する、との提示案です。

    このような重大な案を、陸海軍との事前協議なしでいきなり連絡会議の場で提案するのは、異例のことでした。

    戦前も今も、政治に根回しが必要なことに変わりはありません。南部仏印はおろか仏印全土からの撤兵を唐突に突きつけられた参謀本部が、猛烈に反発したのは当然といえるでしょう。

    もちろん、このような不意打ちに出たのは東郷外相の戦略です。事前に協議したのでは陸軍が横槍を入れてくることは間違いなく、そうなれば乙案とはまったく異なる妥協案にすり替わることは必至です。

    陸軍の妨害を防ぐために、「帝国国策遂行要領」案が定まる11月1日の連絡会議にて、東郷外相は突如乙案を提案したのです。

    - 南部仏印撤兵をめぐる大激論 -

    杉山参謀総長と塚田参謀次官の猛反対により、東郷外相との間に大論争が起きています。
    争点となったのは南部仏印からの撤兵でした。

    塚田は仏印から撤兵してしまえば完全にアメリカの思い通りになってしまう、いつでもアメリカによる妨害を受けることになると主張し、アメリカによる援蒋活動の再開を危惧しました。

    対して東郷は、まず南方問題を片付けることが大事であって、ここで中国問題にふれてしまえばアメリカを無用に刺激することになると反論しています。

    中国問題に真っ向から答えているのが甲案です。中国問題にふれるとアメリカが原則論を振りかざすことで合意の目処が立たずに困るからこそ、あえて中国問題にふれない乙案を出しているのだから、乙案でも中国問題にふれてしまっては本末転倒です。

    しかし、参謀本部の反対があまりに激しいため、東郷はやむなく譲歩し、「米国政府は日中両国の和平に関する努力に支障を与えるような行動に出ない」との条件を追加するに至りました。

    中国問題を条件の一つに加えたことは、参謀本部にとって毒を仕込んだも同然でした。後に乙案を目にしたハル国務長官は、この条件に難色を示し、交渉成立の大きな妨げになっています。

    中国問題を条件に加えても、なお参謀本部は南部仏印からの撤兵に同意しませんでした。
    対して東郷も一歩も引くことなく、次のように言い張っています。

    「第四項に支那事変解決を妨害せずと加え、而も南部仏印からの撤兵を省く条件であるならば、外交は出来ぬ、之では駄目だ。外交はやれぬ。戦争はやれぬ。戦争はやらぬ方宜し」

    声を荒げた論争は尽きることなく、しばしの休憩に入りました。そのとき、参謀本部に説得に入ったのは武藤軍務局長と東条首相です。

    武藤は参謀本部があくまで乙案を拒否するならば、東郷が外相を辞任するかもしれないと警告しています。辞任を口にはしないものの、東郷がその覚悟で乙案を提示していることは周囲の誰もが気づいていました。

    東郷外相辞任となると政変につながる可能性が高く、東条内閣が倒閣されたあとには非戦内閣が組閣される公算が強い、そうなると開戦決意まで更に日数を要することになると、武藤は参謀本部に乙案の受け入れを迫りました。

    せっかく陸軍から出た東条内閣が倒れたら困るのは、なんといっても陸軍です。武藤の説得に応じ、参謀本部は渋々乙案を受け入れることを決めました。

    その際、参謀本部としては「日中戦争の解決を妨害しない」との条件を追加したことにより、アメリカは乙案を呑まないだろう、したがって南部仏印からの撤兵を認めてもよい、との協議が為されています。

    東郷外相の必死の食い下がりにより、連絡会議にて甲案と並び乙案もアメリカ側に提示することが正式に決まりました。

    中国を含むアジアと太平洋全般にわたる包括案としての甲案と、中国問題にはできるだけふれることなく日米の和解を目指した暫定案としての乙案の二段構えです。まずは甲案で交渉し、それが受けられなければ乙案で交渉する予定でした。

    もはや残された時間はわずかであるため、これが事実上の日本側の最終案となることは明らかです。

    ただし日本としては、これ以上は一切譲歩できないと主張しているわけではありません。東郷外相は2日の正午に東条首相を訪ね、連絡会議の決議に同意を与える際、アメリカが甲案または乙案に歩み寄りを見せた際には、日本側としてさらにある程度の譲歩をすることを約束させています。

    東条首相が同意したからこそ、東郷外相も連絡会議の決議にサインをしたのです。

    こうして甲案と乙案が決まり、日本の運命は両案に対するアメリカ側の反応に委ねられることになりました。

    次回は連絡会議後の陸海軍の反応を追いかけながら、開戦に向けて国策が決定された11月5日の御前会議について紹介します。

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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