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    #23 国際連盟からの脱退と満州の見果てぬ夢

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    第1部 3章 満州事変(3/5)全満州制覇までの経過と満州国の建国20

    4.満州事変はなぜ起きたのか

    4-8.なぜ国際連盟から脱退したのか

    その1.十字架上の日本

    連盟特別総会においても、チェコが満州国の成立を「既成事実は世界平和の為最も危険なるもの」と訴え、アイルランドやスイス・スペイン代表らが中国側に立つなか、イギリス代表は日中の直接交渉を勧め、英連邦に属するカナダ代表は中国は連盟の加盟に必要な条件である強力な政府をもっているのか、と疑問を呈すなど、どちらかといえば日本側に立った主張をしています。

    結局のところ、小国が理想論から中国を支持し、大国が現実論から日本に配慮する姿勢を見せていました。

    このことは、国際連盟脱退論を強める結果となりました。小国の意向に拘束されがちな連盟を離れ、満州問題は大国間の協議で進めたほうがよいとする論です。

    12月8日、連盟総会で松岡は原稿なしで1時間20分にわたる大演説を行いました。「十字架上の日本」と呼ばれる演説です。

    「たとえ世界の輿論(よろん)が、或る人々の断言するように、日本に絶対反対であったとしても其の世界の輿論たるや、永久に固執されて変化しないものであると諸君は確信出来ようか?

    人類はかつて二千年前ナザレのイエスを十字架に懸けた。しかも今日如何であるか? 我々日本人は、現に試練に遭遇しつつあるのを覚悟している。ヨーロッパやアメリカの或る人々は、今日二十世紀における日本を、十字架に懸けんと欲しているではないか?

    諸君! 日本はまさに十字架に懸けられようとしているのだ。然し我々は信じる。確く確く信じる。僅かに数年ならずして、世界の輿論は変るであろう。而してナザレのイエスが遂に世界に理解された知く、我々も亦、世界に依って理解されるであろう」

    松岡洋右―その人間と外交』三輪公忠著(中央公論新社)

    この演説はキリスト教を引き合いに出しているため、後日、欧米からは大きな批判を浴びせられました。宗教をロジックに利用したことは大失敗でした。ただし、演説直後は会場を興奮に包み、松岡に対する賛辞が飛び交ったと伝えられています。

    松岡の演説の後、「リットン卿一行の満州視察」という満鉄広報課の作成した映画が上映されました。映像で見る満州開発の様は、各国の代表を魅了したようです。日本反対の急先鋒であったチェコ代表でさえ、日本の満州開発を絶賛するほどでした。

    朝鮮や台湾と並び、多大な開発と生活文化振興を目標とする日本の満州開発に見せる姿勢は、欧米列強の植民地支配とは明らかに一線を画すものでした。

    その2.熱河侵攻の衝撃

    満州事変

    満州事変・・兵士たちの勇姿絵葉書 より引用
    関東軍の熱河侵攻「世界戦史上未曾有(みぞう)の追撃戦」と題された絵はがき

    風向きが日本に傾きかけたとき、すべてを一瞬にして崩壊させる出来事が起こりました。内蒙古の中国領熱河省に関東軍が攻め込んだのです。

    これにより、国際連盟の日本に対する空気は一変しました。連盟で熱い議論が交わされている最中に、関東軍が新たな戦いを仕掛けたことにより、参加国は一斉に日本批判へとなびいたのです。

    熱河省の軍閥が張学良軍についたことで、中国がこの地を満州国に対するゲリラ戦の基地にしようと画策していたことはたしかですが、このタイミングで関東軍が攻め込んだことは不可解です。

    満州事変

    ウィキペディア より引用
    満州国の地方行政区画(熱河省は最下段左側)

    これまでとは異なり、関東軍が勝手に攻め込んだわけではありません。1933(昭和8)年1月13日の閣議で斉藤内閣は、熱河限定での作戦を諒承(りょうしょう)しています。熱河を勢力圏にできれば満州国との緩衝地帯にできるため、西と北に隣接する中国とソ連から満州を守りやすくなるためです。

    しかし、一度は諒承したものの斉藤首相は、連盟の手続きが勧告案へと移行したことを知ると、熱河攻撃は内閣として同意できないとし、1月13日の閣議決定を撤回したいと言い出しました。

    このあたりの迷走ぶりには、目を覆いたくなります。斉藤首相が撤回したいと言っても、すでに閣議の決定を追認する天皇の言葉をいただいていたため、すでに関東軍は動き出しています。

    天皇は「統帥最高命令に依り之を中止せしめ得ざるや」と、熱河への侵攻を止めようとしましたが、侍従武官長が「国策上害あることなれば閣議において熱河作戦を中止せしめ得ざる道理なし、国策の決定は内閣の仕事にして閣外にて彼是れ指導することは不可能のことなれば、熱河作戦の中止も内閣にてなさざるべからず」と、あくまで内閣が閣議決定を修正すべきと答えています。

    斉藤内閣は熱河作戦を撤回できませんでした。こうして連盟の決議の最中に熱河作戦が始まり、連盟は日本への批判一色で塗りつぶされたのです。

    その3.国際連盟からの脱退

    満州事変

    https://ameblo.jp/bogih/entry-12381013791.html より引用
    国連を立ち去る松岡洋右

    2月24日、松岡は最終演説にて次のように述べました。

    「日本はこれまで秩序と安定のために尽くしてきた、今、中国の混沌(こんとん)とソヴィエトの脅威を目の前にし、われわれの将来に暗雲がただよい、われわれの前には微光すら目にすることができない。

    南京の責任ある政府という虚構の下に、はびこっている無政府状態に対して、国際連盟はなにを提案したか?
    日本の生存に絶対必要な満州に対し、国際的な監督が提案された、だがアメリカ国民はパナマ運河地帯をそのような管理下におくことを同意するだろうか?
    イギリス国民はエジプトに対するそのような管理を許すだろうか?」

    満州事変とは何だったのか 下巻』クリストファー・ソーン著(草思社)より引用

    上記の松岡の発言に出てきたエジプトとパナマ運河について捕捉しておきます。

    エジプトはイギリスの保護国とされた後、1922(大正11)年に独立を勝ち取ったものの、イギリス軍はスエズ運河地帯とエジプトの南に隣接するスーダンへの駐留を続けることで、エジプトの完全な独立を阻んでいました。

    アメリカは1914(大正3)年にパナマ運河を完成させると、後に軍隊を駐屯(ちゅうとん)させることでパナマを事実上支配し、世界戦略の要としていました。

    つまり、満州に日本軍が駐留していることは、米英がスエズ運河とパナマ運河を守るために軍を駐留させていることと、本質的な違いは何もないと主張しているわけです。

    それにもかかわらず、満州だけは日本軍の駐留を認めず、国際的な管理下に置くことは解せない、と堂々とした論陣を張っています。日本国内でも盛んに同じ論調で、米英に対する反発の声が上がっていました。

    されど、大切な採決の場で米英をはじめとする植民地を有する大国を真っ向から批判したのでは、同意を得られるはずもありません。

    45カ国の代表が出席するなか、リットン調査団の勧告に対する採決が行われました。賛成42、反対は日本だけの1、棄権はタイ国だけの1、チリは投票に参加しませんでした。

    この結果を受け、松岡は再び立ち上がると短い演説を行い「日本は世界平和の維持のために国際連盟に協力するのにやぶさかではないが、遺憾(いかん)ながら日本としては中国との関係に関してはもはや協力することはできない」と決然と言い放ち、日本代表団を手許に呼ぶと、突然会場を去って行きました。


    *YouTube動画

    【カラー】 松岡洋右 国際連盟脱退前の演説シーン 1933年(昭和8年)2月24日
    このときの様子を、その場にいた佐藤尚武ベルギー大使は、次のように綴っています。

    「ここにおいて日本代表松岡は決然として立ち、日本は総会の決議に対して、深甚(しんじん)なる遺憾と失望を禁じえない。日本は極東の平和維持のためにあたう限りの努力を尽くしてきたのであるが、いまや平和の維持上、日本は他の連盟加盟国との聞に甚大なる見解の相違あることを認めざるをえない。

    日本はすでに連盟との協力のために最後の努力を払ったのであるが、今後ともあたう限り極東平和の維持、世界平和への寄与を尽くすであろうとのべ、最後に過去十七カ月にわたる議長、理事会、および総会参加国代表の努力を謝し、静かに議場を去って行くのであった。長岡と私がこれに続き、他の日本代表部一同もともに議場をあとにした」

    軍国日本の興亡―日清戦争から日中戦争へ』猪木正道著(中央公論社)より引用

    満州事変

    wikipedia:佐藤尚武 より引用
    佐藤尚武(さとう なおたけ)

    大正-昭和時代の外交官・政治家。ロシア駐在を振出しにハルビン総領事・ポーランド公使・ベルギー大使を歴任。「満州国」否認決議に際しては全権松岡洋右とともに抗議の退場をした。林内閣の外相を務め、大戦中はソ連大使として日ソ交渉に尽力。戦後は参議院議員・参議院議長。フリーメイソンのメンバーであったと記録に残っている。

    3月28日、日本政府は正式に国際連盟脱退を通告しました。それは熱河侵攻を止められないと判断したときからの、政府の方針でした。熱河侵攻は満州事変とは切り離された新たな武力侵略と見なされる可能性が高いため、連盟による制裁、あるいは連盟から除名される不名誉を避けるために、連盟脱退止むなしと政府は腹を固めていたのです。

    その4.国民は連盟脱退を歓迎した

    松岡は国際連盟からの脱退に至ったことを失敗と認め、傷心のうちに4月に帰国しました。「松岡は大見得を切って連盟を脱退したものの、帰路アメリカで、こんなことをしてしまって日本に帰れないと意気消沈していた」と松岡と行動を共にした知人が書き残しています。

    ところが松岡を待っていたのは、国民からの思いがけない歓迎でした。横浜港には松岡を歓呼の声で迎える国民があふれ、松岡はあたかも凱旋(がいせん)将軍のようであったと新聞は伝えています。

    連盟脱退を批判する新聞はなく、松岡に賛辞を寄せる記事が紙面を埋め尽くしました。一例として東京日日新聞の記事を紹介します。

    「国際会議に特派された代表者が既定の案を携行し、その案を成立させて帰って来ることが、使命であるとすれば、松岡全権は完全に失敗したのだ……、それにも拘わらず、松岡氏の人気は昂騰(こうとう)する一方であった。

    それはいうまでもなく、かれが英語に堪能で……従来のわが国の外交官のように、歯に衣を着せることに過ぎて、兎角(とかく)遠慮がちであった型を破って、いうべきことを率直放胆に堂々といってのけたところに、まずわが国民の溜飲(りゅういん)をさげさせたことを忘れてはならない……」

    「かくして松岡全権は凱旋将軍になったのであるが……松岡全権といへども、帝国政府が連盟脱退の方針を決定しなければ、かりに自ら処決して自分だけ潔くし得るとしても、今日のように人気のあがるはずがない……そしてわが政府の方針は、実に国民の情操にぴったり合っていたのだ。

    否、国民の意思が政府をしてこの方針を決せしめたとも言える。故に松岡全権の功労は、国民的使命を鮮やかに、そして手際よく遂行したということに帰着する。そしてその功労に対して、かれは国民的歓迎に百%価する」

    松岡洋右―その人間と外交』三輪公忠著(中央公論新社)より引用

    日本中が松岡賛辞で染まるなか、意外にも軍人のなかには冷静な論が交わされていました。朝鮮総督であった宇恒一成は日記に次のように書き残しています。

    「軍部一部の短見者流の横車に引き摺られて青年将校でも述べそうなことをお先棒となりて高唱し、何等の策も術もなく、押しの一手一点張り、無策外交の極致」

    レキシジン
    wikipedia:宇恒一成 より引用
    宇恒一成(うがき かずしげ) 1868(慶応4)年 – 1956(昭和31)年

    明治-昭和時代の軍人・政治家。最終階級は陸軍大将。参謀本部総務部長・陸軍次官などを歴任。陸相として4個師団の廃止を中心とした軍縮を成功させ、軍の近代化に尽力。三月事件の後、朝鮮総督として朝鮮の軍需工業の育成と農村振興にあたり実績を残す。広田内閣総辞職後に組閣の大命を受けたが、石原莞爾ら陸軍が反対し軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣を出さなかったため失敗に終わった。近衛内閣の外相として中国の国民政府と和平成立寸前まで漕ぎ着けたが、陸軍と対立して辞任。戦後、公職追放となるが、解除ののち参議院選に出馬。全国区最高点で当選を果たす。

    松岡洋右に対する評価は、今日では批判的な論が主流です。

    世界から日本が孤立したことの危機感はほとんどなく、国内は大満州ブームで沸き返りました。

    その5.外交の失敗が孤立化をもたらした

    日本政府にそれほどの悲壮感がなかったのは、国際連盟から脱退しても大国同士で事態の収束を図れるとの楽観論が強かったためです。
    千葉大学の坂野潤治教授は次のように指摘しています。

    「連盟脱退など大したことじゃなかったのです。国際連盟は、一九カ国という小さな正義の声があるから脱退してしまう、と。そうすると、イギリス、フランス、アメリカなどの列強と、小さな国の正義や、民族自決の話を忘れて取引できるから、かえってよかったのですよ」

    日本の戦争』田原総一朗著(小学館)より引用

    この時点でもまだ日本政府には、大国同士で協調を図る余地があったことになります。ところが、政府はささいなことからその好機を自ら手放していきます。

    ソ連からは日露不可侵条約を結ぼうとの提案がありましたが、日本側はソ連への不信感をぬぐい去ることができないため、これを拒否します。

    1935(昭和10)年にはイギリスとアメリカが中国の貨幣制度改革を行っていますが、その際イギリスは日本に対しても共同して出資することを求め、見返りとして中国に満州国を黙認させると持ちかけました。しかし、日本は拒否しています。

    欧米と協調できるチャンスは何回かあったものの、日本はますます孤立化を深めていったのです。

    こうして柳条湖事件から満州国建国までの満州事変を詳細に振り返ったとき、教科書の記述とは異なり、満州事変そのものが日本の中国への侵略であるとの国際認識は、必ずしも形成されていなかったことがわかります。

    国際連盟は日本を批判したものの、少なくとも大国間には日本に理解を示す空気はたしかにあり、その後の日本政府の舵取り如何によっては、満州国が存続できる可能性も残されていたといえるでしょう。

    国際連盟からの脱退が、直ちに日本を孤立させたわけではありません。はじめから国際連盟に参加していないアメリカと同じ立場になっただけのことです。

    つまり日本の孤立化は、国際連盟脱退によって直ちにもたらされたわけではなく、その後の外交の稚拙さによってもたらされたことになります。

    国際連盟脱退の詔勅にて天皇は次のように語っています。ヘレン・ミアーズ著『アメリカの鏡・日本 完全版』(KADOKAWA/角川学芸出版)にわかりやすい現代語が掲載されていますので紹介します。

    「……平和の進展はわれわれが永久に望むものである。平和の大事に対するわれわれの態度は何ら変わることはない。

    わが帝国は国際連盟を脱退し、独自の道を歩むことになるが、このことは極東においてひとり超然たろうとするものでも、各国との友愛関係から自らを隔絶しようとするものでもない。

    わが帝国と他のすべての国々との相互信頼を深め、わが国の大義の正しさを世界に知らしめるのが、われわれの願いである。」

    国際連盟脱退後の日本外交を見る限り、詔勅に見られる友愛の精神とはかけ離れた外交が行われたといえるでしょう。

    満州事変が大きな転換点になったことは間違いないとしても、その後の日本外交の失敗こそが大東亜戦争へと繋がったのです。

    4-9.満州の見果てぬ夢

    その1.満州国は日本の傀儡国家か?

    熱河省は1933(昭和8)年5月に塘沽(とうこ)停戦協定が結ばれ、満州国に併合されました。これによって万里の長城を境に、中華民国と満州国は領土を接することになったのです。

    その後の満州の発展ぶりについて記します。

    満州国は一般に日本の「傀儡(かいらい)国家」と見なされています。「傀儡国家」とは、名目上は独立国でありながら、実質的には他国の意思に従って統治を行う国家のことです。つまり「操り人形のような国家」という意味です。

    リットン調査団の報告書では次のように記されています。

    「『満州国政府』においては、日本人官吏は枢要な地位を占め、且つ日本人顧問は総ての重要なる部局に属す。国務総理及び其の大臣は総て支那人なりと雖(いえど)も新国家の組織において最大の実権を行使する各総務部の長は日本人なり」

    指摘のように総理や大臣には中国人があてられていたものの、各総務部の長が日本人で占められていたことはたしかです。日本から優秀な官僚が派遣され、彼らは「内面指導」の下に総理や大臣を動かしました。実質的に満州の政治を司っていたのは、日本人官僚です。

    もちろん、日本人が満州の政治を動かす以上、日本の国益に反することを行うはずもなく、その意味では満州国は日本の傀儡国家であったといえるでしょう。

    ただし、満州国は単に日本の国益のためだけに存在していたわけではありません。高橋是清大蔵大臣は官僚を送り出す際に訓示を与えています。
    「真に満州のためをはかっていかなけばならない、日本の利益を第一としてはいけない、満州国人の身になって、満州国人の真の幸福をはからなければならない」

    果たしてそれは、体面を繕うだけの言葉だったのでしょうか?

    その答えは、満州がどのように発展したのかをたどれば、自ずと見えてきます。

    その2.成し遂げた通貨統一

    満州国が建国された当時、欧米諸国はどうせ日本はすぐに経済的に行き詰まるだろうと予想していました。国家を造り運営するとなると、莫大な資金が必要になります。当時の日本の経済力は、欧米列強とは比べものにならないほどに貧弱でした。そんな日本が満州国に資金を注ぎ込むには限界があり、すぐに破綻(はたん)するだろうと見られていたのです。

    ところが欧米諸国の予想を裏切り、満州国は発展の一途を遂げ、日本と満州の経済は大きく成長しました。不毛の荒野が広がっていた満州の地に、日本が人的にも経済的にも資源を投入した結果、奇跡にも近い近代的国家が誕生したのです。

    満州国が東アジアで一番はじめに近代産業を発展させることができたのは、日本が主導した金融政策があったからこそです。

    当時、満州では百種類前後の通貨が使用されていました。先にも紹介した通り、軍閥が軍票を乱発行したことが、その主な原因です。そこで満州国の成立後は、貨幣の統一と新貨幣の発行が行われました。

    満州事変

    野崎コイン より引用
    満州中央銀行券 乙号百円札

    それはけして簡単なことではありませんでした。満州国ができる前は、地方政府の発行紙幣は安定せず、大暴落を繰り返していました。紙幣が紙くず同然となったことも度々あり、中国人は通貨そのものを信用していません。満州中央銀行は中国で採用されていた銀本位制のもとに、旧通貨の回収を推し進めるとともに通貨価値の安定に努めました。

    その結果、旧紙幣の回収率は実に97.2%を記録しています。世界史上でも特筆すべき快挙でした。中央銀行はわずか2年で満州の通貨統一を成し遂げています。

    通貨が信用されることは、なによりも民心の安定に繋がります。中央銀行による統一通貨がいかに信用されていたのかは、日本の敗戦により満州国が消滅し、中央銀行が解体されてからもなお2年以上にわたり、紙幣が市民の間に流通していたという事実が示しています。

    その3.大陸特急「あじあ号」と「のぞみ」「ひかり」

    満州事変

    ウィキペディア より引用
    満鉄のシンボルだった特急「あじあ」号

    満州の経済発展を語る上で欠かせないのが鉄道です。満州の鉄道には世界トップレベルを誇った日本の鉄道技術が惜しみなく注がれました。

    1934(昭和9)年には世界を魅了した大陸特急「あじあ号」の運行が大連-新京間で始まっています。最高時速110キロという速さは、当時の世界トップクラスでした。日本国内の特急「つばめ」の最高時速95キロを上回っています。

    釜山-新京間に急行「ひかり」、釜山-奉天聞に急行「のぞみ」が運行されています。「ひかり・のぞみ」の名が現在の新幹線にそのまま引き継がれていることに、鉄道技師たちの満州に寄せる郷愁が感じられます。

    日本の鉄道といえば運行時間が世界一正確であることが知られていますが、すでにこの当時から1分の狂いもなく運行されていました。

    その4.巨大ダムの建設と電力確保

    満州事変

    中国韓国東アジアニュース より引用

    建設当時、“東洋最高のダム”と呼ばれた中国・吉林省吉林市の豊満ダム。今も水力発電所として機能し続けている。

    建国後、満州では国家的規模の総合的インフラ整備と国土開発がすすめられました。それまでの満州は満鉄が管理していた地域を除いて、国土開発計画どころかインフラ整備さえまったく行われていませんでした。

    張学良時代に建設されたのは、奉天・北平・天津にある数軒のダンスホールに過ぎなかったといわれています。張学良は財政予算の8割近くを軍備や内戦のために用いたため、満州に暮らす民衆のためのインフラ整備は放置されたままでした。

    満州国建国前に満州を実質的に支配していた軍閥は国民略奪に明け暮れ、建国後の満州は国民の幸福のために国土開発計画に専念したのです。

    たとえば河川治水計画です。満州の河川は雨季になると氾濫し、大洪水が度々起きていました。建国後にはじめて黒竜江・遼河・鴨緑江の三大水系の治水工事が調査、着工されています。これにより満州に暮らす人々は、洪水の被害から解放されることになりました。

    黒竜江支流の松花江の流域面積だけでも日本の本州の二倍もの広さがあるだけに、けして楽な治水工事ではありません。上流にダムを建設し、広大な地域に干拓を施し、下流沿岸には防水堤や遊水池がつくられました。

    ダムは水力発電にも利用されました。1936(昭和11)年には満州国産業開発五カ年計画が始まり、総電力257万キロワットが目標に据えられましたが、その大半を担ったのは水力発電です。

    日本の技術でつくられた鴨緑江水豊ダム・鏡泊湖発電所・松花江豊満ダムの3つのダムだけでも、総発電量は80万キロワットに達しています。

    1928(昭和3)年の中国全国の総発電量は38万キロワットに過ぎません。20年後の1947(昭和22)年には100万7700キロワットに急増していますが、そのほとんどは満州の遺産でした。

    豊満ダム完成後にフィリピン外相が見学に訪れ、「フィリピンはスペイン植民地として三百五十年、アメリカの支配下に四〇年を経過している。だが、住民の生活向上に大きく役立つものは一つも作っていない。満州は建国僅か一〇年にしてこのような建設をしたのか」と感嘆したことが、松井仁夫著『語り部の満洲』に綴られています。

    その5.世界を驚かせた満州の発展ぶり

    満州事変

    http://busan.chu.jp/china/old/postcard/sinkyo/index.html より引用
    新京の最も繁華なる日本橋通り

    近代都市の建設も、着々と進められました。日本人建築技師により技術の粋を結集した近代都市が、満州の荒野に次々と生まれました。長春は満州国の首都として新京と改められ、1942(昭和17)年には100万人都市計画が着手されています。電気や上下水道が整備され、東洋初の水洗便所が設けられています。
    日本から優秀な人材が集められ、新国家建設の情熱を傾けて作られた都市群は、その建設にかかわった多くの人々にとって、まさに理想郷でした。

    わずか数年で満州各地に出現した近代都市の発展ぶりは、満州国を訪れる外国人を驚かせました。満州を実際に見た多くの人々が、その驚異的な発展ぶりに賛辞を送っています。

    1933(昭和8)年9月にロンドンタイムズ紙の記者が満州を取材に訪れ、「独立後二カ年の満州国」に関する報道記事を掲載しています。

    「外来の訪客は過去一カ年における満州国の財政上の迅速な進歩に驚くであろう。通貨は安定した。一文の値打ちのない旧軍閥の不換紙幣の洪水に悩まされていた満州国にとって、これだけでも計り知れぬ恩恵だ。

    満州国における在留外人は外国商権の将来に関して懸念を抱いていることは無論だが、大体日本人の施設に対して好感を抱いている。やろうと云うことを実際にやる実践的な日本人を相手とすることとなって助かったと云うのだ。三十年も前から支那人が直ぐ始めようと云っていた各般の計画が今や着々と実施されるに至った……」

    「満州国は既成事実だと云わねばならぬ。二カ年前における日本の行動の是非は、極東の現状ないし将来に対して最早関連のない事柄だ。満州は今や『啓蒙的開発』というのが最も適切な過程を経過している。
    啓蒙的な一番いい証拠は、三千万人の民衆がこの過程から恩恵を受けていることだ。無論彼等は日本人ほど利益を享けぬだろう。然し日本人は仕事の大半を引き受けており、利益に関して獅子の分け前を主張するのが当然だ」

    大東亜戦争への道』中村粲著(展転社)より引用

    その翌年には貿易と投資の可能性を調査するため、イギリス産業連盟の使節団が満州を訪れ、次のような調査報告をしています。

    「満州国住民は治安対策の向上と秩序ある政府を与えられている。軍(軍閥)による略奪と搾取はなくなった。課税制度は妥当なもので、公正に運営されている。住民は安定通貨をもつことができた。

    輸送、通信、沿岸航行、河川管理、公衆衛生、診療施設、医療訓練、そしてこれまで不足していた学校施設などの整備計画が立てられ、実施されている。こうしたことから、満州国の工業製品市場としての規模と将来性は容易に想像することができる。
    近代国家が建設されつつある。将来に横たわる困難はあるが、これらは克服され、満州国と他の国々の利益のために、経済繁栄が徐々に達成されるものと期待される」

    アメリカの鏡・日本 完全版』ヘレン・ミアーズ著(角川学芸出版)より引用()内は筆者追記

    満州の急激な発展は、中国人をも大いに刺激しました。重光葵は次のように書き記しています。

    「支那は……驚異の眼を見張った。日本の冒険はただちに国家の破産を招来するであろうという列国の予言に反して、日本はますます強大となる威力を示した。

    支那革命は、この威力ある日本を研究し、見習わなければならぬ、という気持ちになった。その気持ちは、ちょうど日清戦争後の支那識者の心理に酷似するものがあった。このために、支那から多くの留学生や見学者が続々と来日し、政治家、外交官の日本渡来も急に増加した」

    昭和の動乱』重光葵著(中央公論新社)より引用

    満州建国以来の目覚ましい発展は、まさに東アジアの奇跡であり、世界中を驚嘆せしめたといえるでしょう。

    その6.満州に興った重工業

    満州事変
    ウィキペディア より引用
    満州重工業の要だった昭和製鋼所は、戦争による製鉄の需要に応えて溶鉱炉を次々に増設していった

    建国後は重工業の発展に向けて資本が投入されました。日露戦争の頃までの満州の産業といえば、農業以外では家内工業程度です。
    日露戦争後は日本が取得した関東州の租借地と満鉄附属地の開発が一挙に進み、近代産業地帯となっていました。しかし、エリア外の満州は荒れ地のままでした。

    関東軍が管理したエリアは、満州に暮らす人々にとっての駆け込み寺でした。総人口は132万人にも膨れあがりましたが、そのうち日本人は22万人程度です。

    満州国が建国されたことで、旧エリア外も次々に産業開発が推し進めれることになりました。第一次五カ年計画での初期の投資総額は25億円にも達しています。同年の日本の一般会計歳出総額は24億円です。ほぼ同じだけの資本が満州に投下されたのです。

    1937(昭和12)年にはさらに計画が修正され、49億6千万円が投資されています。そのうち鉱工業部門には38億円、全体の78%が振り分けられました。

    その結果、満州の鉱工業は飛躍的に発展しました。1943(昭和18)年の満州国における工業・鉱業・交通産業投資の統計資料によれば、それらの発展を支えたのは97%を占める日本の民間投資であったことがわかります。

    満州の地に、驚異的な速度で日本は世界が驚愕(きょうがく)する近代国家を誕生させたのです。しかし、日本の敗戦により満州国はわずか13年半で消滅しました。もし、今も満州国が存在していたならば、日本を超える経済大国に成長していただろうともいわれています。

    満州国の遺産は中国に受け継がれ、中国の経済成長に計り知れない貢献をしました。毛沢東が第7回党大会にて、「たとえ、われわれがすべての根拠地を喪失したとしても、東北(満洲)さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と述べたのは有名な話です。

    日本人が満州に思い描いた夢は、最後まで見終えることなくついえました。

    満州に漂う見果てぬ夢をさえぎったのは、大東亜戦争へと向かう軍靴(ぐんか)の響きでした。

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    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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