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    #20 満州は唯一の希望だった

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    黄禍論と日本人差別(4/4)米国の対日戦争準備 オレンジ計画からワシントン会議まで

    4.満州事変はなぜ起きたのか

    4-1.満州事変の背景にあるもの

    ようやく満州事変までたどり着きました。満州事変からは大東亜戦争へと、歴史は一気に流れ込むことになります。

    米国務長官を務めたヘンリー・スティムソンは、1947(昭和22)年に次のように語っています。

    満州事変満州事変

    wikipedia:ヘンリー・スティムソン より引用
    ヘンリー・スティムソン1867年 – 1950年

    アメリカの政治家・外交家・弁護士。陸軍長官、フィリピン総督および国務長官を歴任。日系人の強制収容の推進、また原子爆弾の製造と使用の決断を管理した。原爆投下に対する批判を抑えるために、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と表明。これが原爆使用正当化の定説(いわゆる「原爆神話」)となった。

    もちろんそれは、事実に基づかない神話に過ぎない。

    「第二次世界大戦への道は……奉天近郊の鉄道爆破事件から広島、長崎への原子爆弾投下へとつながっていることが……今日でははっきりと見てとれる」
    満州事変は、かくも大きな意味をもっています。

    満州事変

    ウィキペディアより引用
    満州国の位置

    歴史を振り返るなら、開国以来、満州は日本にとって特別な場所でした。日清戦争での勝利により満州の一部の権益を得たものの、三国干渉によりもぎ取られ、国民は屈辱に震えました。

    日露戦争は朝鮮半島を守るための自衛戦争でしたが、同時に満州まで侵略してきたロシア軍を満州の地で食い止めるための戦いでした。日露戦争により満州の権益をロシアから奪い返し、日本は満州の開発にいそしみました。

    満州の権益を巡って中国と対立するなか、満州事変が起きることで満州国が建国され、そのことが日中戦争を呼び込みました。

    列強の思惑が入り乱れ、日中戦争は長期化します。その最中に大東亜戦争へと発展したのです。

    短期的に見たとき、満州事変こそが大東亜戦争への起点です。ですから満州事変については、様々な角度からじっくりと検討することにします。

    満州事変だけでも相当なボリュームになりますので、ご了承ください。

    満州事変

    ビジュアルワイド図説日本史』(東京書籍株式会社) より引用

    その1.満州事変の真相とは?

    1931(昭和6)年9月18日、のちに満州事変と呼ばれる事件が発生しました。満州事変は当時、次のように報じられました。

    満州事変

    大日本帝国の轍 取材日 より引用
    1931(昭和6)年9月19日付け東京日日新聞

    9月19日付け東京日日新聞の号外より引用します。

    「十八日午後十時半、奉天北郊三マイル(一マイルは一・六キロ)の北大営の北側の満鉄線の柳条湖(りゅうじょう)を爆破し、支那将校の指揮する三、四〇〇名の支那兵が、計画的にわが鉄道守備隊を襲撃したことに端を発し、わが軍これに応戦し、日支兵ついに開戦するにいたった。

    わが軍は、午後十一時ただちに奉天駐屯第二十九連隊および鉄道守備隊に出動準備命令を発し、十九日午前零時四十五分、奉天駐屯大隊は軍事行動を開始し、目下盛んに交戦中である。

    一方、北大営では午前零時その西端を占領し、ひきつづき攻撃し、東端を占領し、北大営は午前一時二十五分完全に占領した」

    柳条湖にて満州鉄道の線路が爆破されたことをきっかけに、鉄道の守備についていた日本軍(関東軍)と中国軍の間で武力衝突が起こり、日本軍はわずか一日のうちに奉天と長春(南満州鉄道の北の終点)を占領しました。

    これが満州事変の始まりです。日本軍と中国軍の武力衝突が繰り返された結果、日本軍は満州全土の制圧に成功します。柳条湖での武力衝突から1932(昭和7)年に満州国が建国されるまでの一連の騒動を「満州事変」と呼びます。

    レキシジン

    ウィキペディア より引用
    事件直後の柳条湖の爆破現場(右側に横たわるのは中国兵の死体)

    満州事変を皮切りに1937(昭和12)年7月には北平(北京)で日中両軍の兵士が衝突する日華事変が起こり、やがて1941(昭和16)年12月の大東亜戦争へと繋がっていきます。

    一般に、第二次世界大戦は満州事変から始まったとされています。日本が起こした満州事変を阻止できなかったことから、イタリアのエチオペア侵略、ナチスによるヨーロッパ侵略を許してしまったという見方が為されているためです。

    そのような解釈はともあれ、満州事変こそが大東亜戦争へと至る大きな道標であったことは間違いありません。満州事変は、その後の日本の運命を大きく変えました。
    いったい、なぜ満州事変は起きたのでしょうか?

    満州事変の発端となった柳条湖の鉄道爆破事件について、当時、日本では中国軍の仕業と報じられていました。しかし、戦後になって様々な疑惑が浮かび上がり「必ずしも中国軍の仕業とは断定できない」とされました。戦後に行われた東京裁判においても、爆破事件の真犯人が誰であったのか結論は出ていません。

    しかし、今日でははっきりしています。鉄道を爆破したのは関東軍だったのです。つまり関東軍は自ら鉄道を爆破し、これを中国軍の仕業であるとして勝手に戦闘を始め、満州から中国軍を追い出したわけです。

    このことは日本政府や軍中央の指示によるものではありませんでした。陸軍の天才と呼ばれていた石原莞爾(かんじ)が綿密な計画を立て、高級参謀の板垣征四郎とともに実行に移したものです。

    満州事変

    wikipedia:石原莞爾 より引用
    石原莞爾(いしわら かんじ)1889(明治22)年 – 1949(昭和24)年

    陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。東亜連盟の指導者。 関東軍作戦参謀として、柳条湖事件から満州事変、及び満州国建設を指揮した。これらは軍中央の意向を無視した暴走であったが、実績が認められ参謀本部作戦部長となる。日中戦争に反対し、後に東條英機との対立から予備役に追いやられた。のち、立命館大学国防学研究所長。病気及び反東條の立場が寄与し戦犯指定を免れた。

    満州事変

    ウィキペディア より引用
    板垣征四郎(いたがき せいしろう)1885(明治18)年 – 1948(昭和23)年

    陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行。のちに関東軍総参謀長となり、華北分離工作を推進した。大東亜戦争においては第7方面軍司令官として終戦を迎えた。戦後は東京裁判にてA級戦犯とされ、死刑判決を受け絞首刑となった。

    満州事変は政府の意向を無視して関東軍の独断専行で為された事変であるだけに、いかにも日本の軍部に非があるように映ります。

    教科書では満州事変は、日本軍による中国侵略の第一歩と教えています。ただ残念なことにほとんどの教科書では、満州事変がなぜ起こったのかという説明に紙面が割かれていません。

    満州事変は当時、国民の多くによって熱狂的に歓迎されました。もちろん爆破事件の真相が秘されたことも、世論に影響を与えていたことは否定できません。

    しかし、そうした事情を差し引いてもなお、満州に寄せる国民の熱情は異様な高まりを見せていました。当時の日本人がことさら好戦的であったわけではありません。それでも日本軍による満州制圧を日本人は喜び、軍部を支持しました。

    国民からの圧倒的な支持に押されるように、政府も関東軍の行動を追認しています。

    いったいなぜ日本国民は、満州事変を歓迎したのでしょうか?

    当時の空気感を紐解かなければ、満州事変の真相は見えてきません。満州事変の背景について探ってみます。

    その2.満州は唯一の希望だった

    ー 世界恐慌の荒波 ー

    国家の経済政策は税金・物価・給与などに跳ね返り、私たちの日常生活に大きな影響を及ぼします。20世紀の初め、日本国民の大半が満州事変を歓迎した背景にも、経済が大きな比重を占めています。

    当時の経済政策を理解する上で欠かせないのが「金本位制」です。「金本位制」とは国家がもっている金の量に応じて通貨を発行する制度のことです。

    現在の世界は国家が自分の判断で通貨を発行できる管理通貨制度を採用していますが、20世紀初頭の世界は、金本位制こそが一等国の証と見られていました。つまり世界的に信用されるためには、金本位制を採用することが望ましかったわけです。

    日本は日清戦争で得た賠償金を元手に1897(明治30)年に金本位制に移行していましたが、第一次世界大戦が起こると各国が金本位制を停止したことにならい、足並みを揃えました。

    戦後、欧米各国は金本位制に復帰しましたが、日本は戦後不況と関東大震災後の金融恐慌に襲われていたため、未だ復帰できずにいました。

    そのため為替相場は不安定となり、円の価値は下落していく一方です。

    そこで浜口雄幸内閣は1930(昭和5)年1月に金本位制に復帰しました。金の輸出禁止を解き、金本位制に復帰することを「金解禁」と呼びます。

    満州事変

    wikipedia:浜口雄幸 より引用
    浜口雄幸(はまぐち おさち)1870(明治3)年 – 1931年(昭和6)年

    大正-昭和時代前期の政治家。第27代内閣総理大臣。その風貌と人柄から「ライオン首相」と呼ばれた。緊縮政策と金解禁を断行。ロンドン海軍軍備制限条約に調印するなど協調外交を進めたが、統帥権干犯問題で不満を抱いた右翼青年に東京駅で狙撃され、翌年死亡。

    このとき日本は、当時の円為替相場での解禁ではなく、大戦前のレートである旧平価での解禁に踏み切りました。つまり円を無理して切り上げた、ということです。このことは後ほど大きな意味をもってきますので、覚えておいて下さい。

    結果的に、このときの金解禁は大失敗でした。日本政府は前年にアメリカで起きた金融恐慌を、あまりにも軽視し過ぎたのです。

    1929(昭和4)年10月24日、ニューヨークのウォール街で株式の大暴落が発生しました。この「暗い木曜日」を発端に、資本主義史上最大の恐慌が世界を覆うことになりました。

    ー 昭和恐慌による庶民の困窮化 ー

    日本政府は当初、恐慌によって欧米の金利が低下するため日本からの資金の流出が抑えられ、金解禁には好都合だと楽観していました。

    ところがアメリカから始まった恐慌はたちまちヨーロッパへと波及し、人類が未だ経験したことのない世界大恐慌へと発展していったのです。世界中の物価が猛烈な勢いで下落し、貿易は急激にしぼんでいきました。

    金解禁に伴い円高だったところへ、大幅に下落した海外製品が大量に押し寄せることになりました。そんな状況での金輸出の解禁は「嵐のなかで雨戸をあける」ようなものです。金がどんどん海外に流出する事態となり、日本経済は悲鳴を上げました。

    金輸出の解禁 金本位制の実施とその意味

    満州事変

    ビジュアルワイド図説日本史』(東京書籍株式会社) より引用

    第一次大戦後の不況と輸入超過により日本経済は苦しめられていた。そこで浜口内閣は通貨価格と国際収支の安定を目指して金解禁に踏み切ったが、世界恐慌の煽りを受けて大失敗に終わった。

    世界大恐慌と金解禁による二重の不況に見舞われた昭和恐慌の始まりです。輸出は大きく減少し、株価と物価がいっせいに下落することで企業の倒産が相次ぎ、賃金引き下げと人員整理により失業者が街にあふれました。

    一般大衆の暮らしは、どん底へと突き落とされたのです。当時の新聞を調べてみると、まともに食べることができない庶民の悲惨な暮らしぶりが切々と綴られています。

    二、三日は食べるものを口にできない家庭があちらこちらで見られ、子供たちの多くは栄養不良に陥りました。当時流行ったのが残飯屋です。軍隊や劇場・官庁や病院などで出た残飯を仕入れ、安く提供する残飯屋が大繁盛したと報道されています。

    たとえば、1932(昭和7)年6月18日の『名古屋新聞』には次のような記事が掲載されています。

    特に夜の分は顔をさだかに見別け難いのを幸い、一残飯商店に二百名乃至(ないし)三百名が列をなして押かけ、むしろ凄惨(せいさん)の気をみなぎらしている。……なかには相当の服装をしている者が子供を乳母車に乗せて通うなど、その現場は極度に窮乏化した最下級生活者の縮図をここに展げ、残飯商人は時ならぬ好景気に恵まれている。……豊橋の市街地に現れた疲弊困窮の姿は末世の感漸(ようや)く深きものがある。

    食費に事欠くため、多くの庶民は残飯にさえ群がり、かろうじて生命をつないでいたことがうかがえます。

    ー 悲惨を極めた農村地帯 ー

    それでも都会はまだましでした。悲惨を極めたのは農村です。ことに東北地方の困窮ははなはだしく、東海道より西はやや緩和されるものの、山陰地方がまた惨状を呈しました。

    さらに1931(昭和6)年に東北・北海道が冷害による大凶作に見舞われたことで、岩手県3万人、青森県15万人、秋田県1万5千人、北海道25万人など、計約45万人が餓死線上をさまよったと記されています。

    昭和の時代にもかかわらず、農村では米を食べることもできないまま粟(あわ)や稗(ひえ)を常食とするよりありませんでした。

    満州事変

    凶作による飢饉で大根をかじる東北地方の子供たち 1934(昭和9)年『毎日新聞』 より引用

    農村をこれほどまでに悲惨な状況に追い込んだ最大の原因となったのは、1930(昭和5)年に生糸の輸出額が大幅に低下したことです。

    『女工哀史』で知られる養蚕(ようさん)業は、日本の農民の生活を支えていました。日本が開国して以来、数百万の農民にとって養蚕は欠かすことのできない副収入でした。

    養蚕に従事したのは農家の婦女子です。農家が養蚕で得られる収入は、わずかな額に過ぎません。それでも、そのわずかな収入を農民たちは地代と税に充て、かろうじて生計を成り立たせていたのです。

    満州事変

    農民の生活を支えた養蚕業 より引用
    生糸はそのほとんどが輸出に充てられていました。20世紀の初めには、日本の生糸の質と価格は中国を上回り、生糸に関しては世界最大の輸出大国になっていました。

    最大の輸出国はアメリカです。日本の生糸の98%はアメリカが輸入していました。1926(昭和元)年から1935(昭和10)年までの間、対米輸出の83%近くを生糸が占めています。

    ところがアメリカで始まった世界恐慌は、順調だった生糸の輸出を急激に鈍らせます。1920年代には生糸は日本の輸出総額の36%を締めていました。ところが30年代には急速に低下し、35年には15.5%、37年には12.8%にまで落ち込んでいます。20年代と比べれば三分の一に縮小したことになります。

    さらに追い打ちをかけたのは、1932(昭和7)年にニューヨーク取引市場で生糸の取引価格が大幅に下落したことでした。品質によって下落率は異なるものの、繭(まゆ)の市価が生産コストの6割にしか達しないという、空前絶後の大暴落でした。

    1932(昭和7)年の秋までに、養蚕を主な生業としていた農家は大打撃を被りました。日本の農民の40%にあたる1300万人の農民を直撃し、破産者が続出しました。折からの干ばつも加わり、農民の所得は不況が始まる3年前の半額以下に落ち込み、自殺をする者も後を絶ちませんでした。

    生糸の生産量と輸出量の変化

    満州事変

    http://www.silk.or.jp/kaiko/kaiko_yousan.html より引用
    1929(昭和4)年の世界恐慌以降、生糸は売れなくなっていった

    朝日新聞には1932(昭和7)年の秋、長野県では約20万人の小学児童が昼の弁当を学校に持って来られなかったと報道されています。

    生活に困窮した農村地帯では、子女の身売りが相次ぎました。たとえば青森県においては、1931(昭和6)年に2420名、32(昭和7)年5月末日までに1503名の身売りがあったと具体的な数字が上げられています。

    満州事変

    http://www.asyura2.com/0601/ishihara10/msg/470.html より引用
    身売りされる子供たち

    「これら子女の前借(身売り)により目前の負債の重圧を逃れんとする農家の苦境は真に想像するに余りありというべし」と、新聞記事は結んでいます。

    「身売り」とは、身代金と交換に約束した期間を遊女や娼婦として身を売って勤めることをいいます。当時の農民や漁民の多くは、まともに働いても食べていくことができないため、家族の食費を稼ぐために泣く泣く娘の身売りをするよりなかったのです。

    都市の工場労働者の多くが職を失ったために農村に帰るよりなく、農村の貧困ぶりをさらに悪化させました。労働争議や小作争議も激増し、日本は不穏な空気に包まれました。

    ー ブロック経済化する世界 ー

    日本は明治以来、欧米列強の植民地にされることを恐れ、必死に軍備の増強に励んできました。その結果、昭和初期の日本は世界でも屈指の軍事大国に成長しました。しかし、経済においては未だ発展途上国です。

    欧米各国に追いつこうと努力していたものの、日本の産業は軽工業が中心であり、重化学工業はまだまだ根付いていません。それでも発展途上国の強みである人件費の安さを武器に、日本は工業製品の輸出に精を出しました。

    しかし、世界大恐慌により世界規模で貿易が縮小するなか輸出は滞り、日本は大きなダメージを受けることになりました。

    さらに輪をかけて日本を苦しめたのは、世界大恐慌の最中、欧米各国が日本の輸出物に対して高い関税をかけたことです。

    世界大恐慌に喘ぐ欧米各国は、自国の産業を守るために一斉に保護貿易へと走りました。こうした仕打ちは日本から見ると、欧米各国があたかも歩調を合わせたかのように映りました。

    その発端になったのは、1930(昭和5)年にアメリカで施行されたホーリー・スムート関税法です。

    ホーリー・スムート関税法とは、アメリカの産業を守り失業者を減少させるため、農作物など2万品目の輸入関税を平均40パーセントも引き上げるという法律です。フーバー大統領は経済学者からの警告を無視して、この法律に署名しました。

    満州事変

    ウィキペディア より引用
    ハーバート・フーヴァー 1874年 – 1964年

    アメリカの政治家・鉱山技術者。第31代大統領。世界恐慌に対して有効な政策が取れず、大統領選挙で対立候補のフランクリン・ルーズベルトに40州以上で敗北する歴史的大敗を喫した。第二次世界大戦の過程を詳細に検証した回顧録『裏切られた自由』にて、従来の見方とは真っ向から対立する歴史観を示し世界に衝撃を与えた。コロンビア大学から、トーマス・エジソンと並んで「アメリカ史上2人の偉大な技術者」として表彰されている。

    ところが、アメリカの思惑通りには事は運びませんでした。そもそも西欧各国からすれば、高関税をかけられたために自分たちの製品がアメリカで売れなくなります。そうなると第一次世界大戦の債務をアメリカに払い続けていた西欧諸国は、たちまち返済が困難となり、アメリカの製品を買う余裕などなくなってしまったのです。

    アメリカの高関税政策への報復として、25カ国がアメリカ製品の輸入に際してアメリカ同様の高関税をかけました。そのため、アメリカの輸出は大きく落ち込み、世界経済はますます不況の波に呑み込まれることになったのです。

    1932(昭和7)年7月、インフレに苦しめられていたイギリスは、カナダのオタワにてカナダ連邦・オーストラリア連邦・ニュージーランド・南アフリカ連邦・アイルランド自由国などの自治領とインドと南ローデシアの植民地が参加する会議を開き、参加国の間でイギリス帝国特恵関税を結びました。

    「帝国特恵関税」とは、外国製品には高い関税をかけ、帝国内の商品に対しては無税、あるいは低関税を課す制度のことです。つまり、典型的な保護貿易です。

    このように、帝国主義の国が本国と植民地の間で帝国内の関税を優遇する保護貿易政策を採ることを「ブロック経済」と呼びます。

    ブロック経済

    満州事変

    世界恐慌と景気循環論 より引用

    ブロック経済圏を作ると、そのなかでの貿易は活発になりますが、ブロック経済圏から外れた国に対しては高い関税が課されるため、物の流通が抑えられます。

    イギリスを皮切りに、アメリカもフランスもブロック経済圏をつくりました。オタワ会議を境に、それまでの世界経済を動かしていた自由貿易は失われたのです。欧米各国が保護貿易へと一斉に舵を切ることで、世界はブロック経済化せざるを得ませんでした

    これまで自由に貿易していた世界各国が次々に高い関税障壁を築いていく様を、日本は脅えながら黙って見つめているよりなかったのです。

    ー 貿易は日本人が生きるために必要だった ー

    日本にとって不幸だったことは、アジアのほとんどが欧米列強の植民地になっていることでした。それまでは普通に貿易を行っていたフィリピンもインドもハワイも、欧米各国のブロック経済圏に取り込まれ、日本の輸出額はみるみるうちに減少していきました。

    輸出が次第に落ち込んでいくことは、日本にとって国家の存亡を左右するほどの脅威でした。

    当時の日本にとっての最大の課題は、増える一方の人口をどうやって養うかです。

    日清戦争の頃には三千万だった人口は、その30年後には六千万に増えていました。年に百万近い人口増加です。江戸時代までの日本では自給自足の経済が成り立っていましたが、多くの人口を抱えたことで、もはやそれは不可能でした。

    国土が狭く、火山性地質のために耕地面積が狭い日本では、農耕でどれだけ工夫をしたところで食糧の自給体制を取ることができなかったのです。

    日本人が生きていくためには輸入に頼るよりありませんでした。食糧だけではありません。日本は近代国家になる過程で、国家としての自給自足体制を失いました。生活していく上で必要なもののほぼすべては、輸入で手に入れる必要がありました。

    輸入のためには外貨を稼がなければいけません。それは輸出によってもたらされました。日本は輸出しなければ、多くの人が食べていくことも生活することもできなかったのです。

    しかし、輸出といっても日本には資源がありません。生糸は唯一の例外ですが、それ以外に輸出できる資源はほとんどありませんでした。そこで日本は原料を海外から輸入し、それを加工して輸出することに活路を見出しました。

    つまり日本は食糧だけでなく、加工製品の原料を輸入するためにも輸出を滞らせるわけにはいかなかったのです。

    日本は常に輸入超過でした。輸入せざるを得ないものがあまりに多すぎたため、売っても売っても貿易赤字が増える一方でした。1870年以降、日本が貿易で黒字だったのは、わずか6年程度です。

    貿易赤字を埋めるためには、自転車操業の如く輸出入を繰り返すよりありません。日本は繊維製品などの生産を拡大し、イギリスやオランダ・フランスの植民地で売りまくりました。

    人件費の安い日本の製品は価格が安かったため、貧しい人々が多い植民地市場で飛ぶように売れました。そのことが、西欧諸国の恨みを買うことになります。

    それでも日本は生きるために海外で売り続けるよりありませんでした。欧米諸国と決定的に異なるのは、日本人は生活の質を上げたり、贅沢をするために輸出をしていたわけではないことです。日本人はただ生きることを求めて、必死になって輸出にすがるよりなかったのです。

    しかし、その輸出が世界のブロック経済化により阻まれ、日本は途方に暮れました。ただでさえ昭和恐慌のただ中で庶民の暮らしは困窮を極めていただけに、絶望感だけが黒い暗雲となって日本全土を覆いました。

    ー 世界にたったひとつの発展途上国 ー

    さらに日本を苦しめたのは、日本政府が不公正競争を仕掛けていると欧米列強から非難されたことです。不公正競争と指摘されたのは、主にふたつの事柄です。

    ひとつは日本の実質賃金が安すぎること、もうひとつは日本政府が円安に誘導することで為替ダンピングをしていると疑われたことです。

    日本の賃金が安いのは、まだ発展途上国に過ぎなかったためです。軍事大国として世界の5強国に数えられながらも、経済の面では日本は発展途上国でした。

    発展途上国の賃金が低いのは、今日であれば当たり前すぎるほどの常識です。少し前に世界中の企業が競って中国に工場を出したのは、中国経済がまだ発展途上であり、中国人の賃金が安かったからこそです。

    当時の日本も同じです。ところが20世紀のはじめは、こうした常識が通用しませんでした。欧米の企業は労使ともに、日本の賃金が不当に安いために日本製品から不公正な競争を仕掛けられている、と主張しました。

    対してウィル・クレイトン米国務次官は、次のように企業をいさめています。

    関税基準に生産コスト論を入れるのは、だいたい、ばかげている。まず第一に、アメリカ人の才能は一人当たりの生産性を絶えず引き上げており、高い賃金を払っても外国の低賃金・重労働工場を恐れる必要のないところまできている。
    日本の労働者が低賃金でこつこつ電球をつくっているときに、ウェスティングハウスとゼネラル・エレクトリックは機械の指を開発して、汗だくだくの連中よりずっと安い電球をつくっているのである。

    アメリカの鏡・日本 完全版』ヘレン・ミアーズ著(角川学芸出版)より引用

    賃金が安いために製品のコストが下がり、結果的に販売価格が低くなることは当然です。賃金が安いのは発展途上国のたどる正常な発展過程であって、競争に有利になるようにあえて賃金を抑えているわけではありません。

    日本にとって不幸だったことは、この時代に発展途上国が日本以外は皆無だったことです。西欧列強は経済にかけては、みな先進国です。他はことごとくが列強の植民地となっているため、列強の背中を追いかけているのは日本だけでした。

    発展途上の国は日本しかなかったため、途上国同士が結託して先進国に立ち向かうこともできません。日本は貿易摩擦においては、常に孤独な戦いを強いられたのです。

    ー 為替ダンピングの真相 ー

    日本製品が不当に安いと非難されたもうひとつの理由は為替ダンピングです。為替ダンピングとは、外国為替相場の下落ないしは切下げによって輸出品の値下げをはかり、輸出を促進しようとすることをいいます。

    高橋是清蔵相になってからは、低金利政策により円安に誘導したことはたしかです。円安の恩恵を受けて日本製品はますます安くなり、競争力を高めました。

    満州事変

    wikipedia:高橋是清 より引用
    高橋是清(たかはし これきよ) 1854(嘉永7)年 – 1936(昭和11)年

    明治・大正・昭和時代初期の官僚・政治家。第20代内閣総理大臣。愛称は「ダルマさん」。日銀副総裁として日露戦争の際に英国からの戦費調達に成功した。大蔵大臣として手腕を発揮し、昭和恐慌から日本経済を回復させるなど、財政家としての評価が高い。満州移民に強硬に反対。軍事費抑制をめぐり軍部と対立し、二・二六事件にて暗殺される。享年82歳。

    円安に振れたのは、1931(昭和6)年12月13日に蔵相に就任するとともに高橋が金輸出再禁止を行い、金本位制を停止したからです。高橋蔵相は積極財政を推し進め、昭和恐慌に悩む日本経済を建て直しました。

    だからといって為替ダンピングをしていたわけではありません。金本位制に移行する際に日本は、無理をして為替を切り上げてからこれを行いました。そのあと高橋蔵相になってから再び金本位制を禁止したことで、円安へと振れました。

    つまり結果的に、円高に誘導してから円安へと一気に転じたため、その下落率が大きくなってしまったのです。

    日本にとって不利となったのは、当時の国際連盟統計が1929年を基準年とし、1935年における各国の為替の下落率を算出していることでした。

    1929年といえば金本位制を復活させる前年にあたり、ちょうど日本が円高だった頃です。1935年は金本位制を禁止したことで円安が進行していた時期です。
    そのため統計上、円は66%も切り下げたように見えたのです。

    基準年が少しずれただけで、下落率はまったく違いました。たとえば1925年を基準年とすれば、円の下落率はわずか30%に過ぎません。30%と66%とでは大違いです。

    基準年がずれてさえいれば、為替ダンピングをしていると批判されることもなく、日本を襲った貿易上の不幸は起きなかったことでしょう。
    しかし、悲劇は起きたのです。

    ー 日本をつぶせ! 対日経済封鎖 ー

    欧米各国は日本が為替ダンピングをしていると断じ、ペナルティとして日本製品に対して輸入禁止に近いほどの高関税をかけました。

    アメリカでは日本製品のほとんどに対して100%を超える関税率が課されました。たとえば魔法瓶192%、セルロイド製歯ブラシ139%、セルロイド製おもちゃ129%、鉛筆255%、乾燥豆類163%等々です。

    こうした日本製品に対する関税障壁は、ワシントンからの直接指示で課されることも多々ありました。ルーズベルト政権は日本製品の輸入を最小限に抑え込む姿勢を明確にしていました。

    日本製品のアメリカへの輸出は、どんどん減っていきました。1926(昭和元)年には日本の輸出の42%がアメリカ向けでした。ところが1932(昭和7)年には31%、1934(昭和9)年には18%にまで落ち込んでいます。

    ホーリー・スムート法によりアメリカの輸出も減っていたため、その後関税率の軽減や数量制限の緩和が実行されました。しかし、日本は例外でした。アメリカは日本製品に対し、1933(昭和8)年の3月から新たな経済措置を講じ、関税はさらに高く設定されたのです。

    さらに日本はアメリカとの「貿易摩擦」を避けるために、輸出の自主規制に応じなければいけないこともありました。

    こうした日本製品をことさら締め出そうとするアメリカの仕打ちの数々が、日本から見てあまりにも理不尽に映ったことは無理もないことです。

    中国に関しては門戸開放・通商の機会均等を声高に叫ぶアメリカが、日本製品に対してはあからさまな高関税をかけることで、アメリカに入ってこないように門戸を閉ざしたのです。

    先に「貿易摩擦」という表現を使いましたが、日本の貿易黒字が膨らむ近年の貿易摩擦とは異なり、当時の日本はアメリカに輸出するよりもはるかに多い額をアメリカから輸入していました。

    アメリカがことさら日本製品を排除しなければいけない状況には、当時はなかったのです。アメリカの対日輸出量は全体の8%に過ぎません。しかし、日本にとってアメリカとの貿易は死活問題でした。

    アメリカが門戸を閉ざそうと、なんとか必死に食い下がって対米貿易を継続することは、日本人が生きていくためには絶対に必要なことでした。

    日本に制裁を課してきたのはアメリカだけではありません。オランダは日本がインドネシアの現地住民に繊維製品や靴を売りたいのであれば、同じだけの量の石油やスズなどのインドネシア産品を買えと通告してきました。

    イギリス連邦も日本製品の輸入を減らすために、日本製品を狙い撃ちして高い関税をかけたり、輸入割当制限のようなさまざまな規制措置をとりました。イギリスに対しても、イギリスの植民地だったインドやマレー、スリランカに対しても、日本製品の輸出は急激に減っていきました。

    日本は欧米列強の理不尽な制裁に耐えながら、新たな市場の開拓に努めました。立ち止まるわけにはいきませんでした。輸出ができなければ輸入もできなくなり、日本国民の多くが飢えて死ぬよりなかったからです。

    日本は新たに中南米に進出し輸出を行いました。しかし、日本の輸出が伸びてくるとすぐにアメリカの企業が騒ぎ立て、日本は批判にさらされました。

    これもまた、日本には理解できないことでした。対外輸出が多かった1934年の対中南米輸出総額を見ても2千40万ドル程度です。ところがイギリスはアルゼンチン1カ国だけでも6792万5千ドルも輸出しています。アルゼンチンだけで、中南米すべてを併せた日本の輸出額の3倍を越えているのです。

    しかし、イギリスが批判されることはありません。それなのに、ほんのわずかな額を輸出しただけで、なぜ日本だけが叩かれるのか、日本人にはさっぱりわかりませんでした。

    こうした世界の状況は日本から見て、欧米各国が示し合わせたかのように「日本をつぶせ!」とばかりに対日経済封鎖を敷いているようにしか見えませんでした。

    日本人はここにも人種差別を感じました。日本製品だけが不当に高い関税を課せられ、数量制限を課せられ、世界中の市場から締め出されようとしているのは、人種差別以外のなにものでもないと感じたのです。

    歴史を振り返ると当時の世界経済の状況は、急成長する発展途上国となんとか逃げ切ろうとする先進国との間で起きた摩擦と考えられます。しかし、当時は先進国はみな白人の国であり、発展途上国は有色人種の国である日本だけでした。

    日本人がそこに人種差別を感じたのは、無理からぬことであったといえるでしょう。

    欧米列強のブロック経済により、ただでさえ輸出総額が減っていくなか、さらに日本にとっては言いがかりにしか思えない制裁を受け、日本の輸出額は減少の一途をたどりました。

    列強による経済封鎖のなかで、日本は喘ぐよりありませんでした。世界から自由貿易が失われた今、自由貿易を前提とした従来のやり方では、もはや日本人は生きていくことができないことだけは、はっきりしていました。

    ー 満蒙は日本の生命線 ー

    そうした暗い世相のなか、多くの日本人を魅了したのは「満蒙(まんもう)は日本の生命線」というスローガンでした。満州には当時の日本がおかれた危機的状況を救うすべてが揃っているように見えました。

    満州には広大な領土が広がり、農地も確保できそうです。資源は未開発ながら、開発を進めることで綿や石炭・鉄などを入手できる目処も立っています。

    実際、対日経済封鎖によって輸出先に困っていた日本を救ったのは、満州事変によって成立した満州国でした。

    1937(昭和12)年までに日本は、欧米諸国とその植民地や属領に対して輸出を伸ばすことは許されなくなっていました。

    池田美智子著『対日経済封鎖―日本を追いつめた12年』によると、まだブロック経済が始まっていない1926(昭和元)年を基準とした場合、1937年には対中国本土への輸出は26%、アメリカも同じく26%へと激減しています。

    カナダとオーストラリア向け輸出は、1932(昭和7)年に各々20%、42%へと減少しています。フランスや英領インド向け輸出にしても32年には低下し、37年には持ち直してはいるものの、いずれも29年のレベルよりも低下しています。

    1926年に比べて1937年の輸出状況は、絶望しかないほど悲惨でした。ところが、実際にはどうであったかといえば、1937年の総輸出を指数で見てみると、1926年当時の95%にまで回復していたのです。

    いったい、なぜでしょうか?

    下の表を見れば、その答えがわかります。

    満州事変

    対日経済封鎖―日本を追いつめた12年』池田美智子著(日本経済新聞社)より引用

    上記の表は、日本の輸出の国別シェアの推移を表しています。

    3つのグループに分けて1926年から1937年までの推移が示されています。「小計」の欄を見てもらえばわかるように、1937年の輸出を支えていたのは「グループB」です。

    グループBの顔ぶれを見ると、新たに開拓されたアフリカ諸国も無視できないものの、最大のシェアを占めているのは関東州と満州であることがわかります。

    欧米各国や中国への輸出額が激減するなか、日本の輸出総額を1926年とほぼ同じ水準にまで引き上げた原動力となったのは、満蒙です。

    満州事変

    山川 詳説日本史図録』詳説日本史図録編集委員会編集(山川出版社) より引用

    こちらの表からもブロック経済の進展によって、満州と関東州など対日本勢力圏への貿易が激増していることがわかります。

    満州と関東州向け輸出が日本の輸出総額を支え、日本人が飢えることを防ぎました。まさに「満蒙は日本の生命線」だったのです。

    ー 満州は日本人唯一の希望の象徴だった ー

    さらに満州の人口はまだ少なく、日本の過剰な人口を受け入れる余地が残されていました。当時の日本人は人口が増えすぎたために、移民として受け入れてくれる国を必要としていました。

    韓国と台湾は日本の一部になっていたものの、日本統治下で死亡率が下がったため人口が急増しており、日本人移民を受け入れる余裕はありません。

    たとえば日本が韓国を保護国にした1906(明治39)年、韓国の人口は900万人でした。以来、日本は鉄道を作り、道路を整備し、学校や病院を建て、給水場と上下水道を整備しました。巨大な灌漑設備を作り、広大な荒れ地を開墾するとともに、種痘を強制的に実施しました。反日闘争により多くの韓国人が犠牲になったことは確かですが、対外戦争もなく、治安が保たれ、飢餓も洪水もなく、疫病も減少しました。

    その結果、韓国人の人口は大幅に増え、日本統治から20年を越えた1930(昭和5)年には2千万人を超えています。

    欧米諸国は日本人を含めた黄色人種の移民を認めませんでした。欧米諸国の植民地であるアジア・太平洋地域からも締め出され、日本人が移民できるのは近場では中国しかありませんでした(1908年からはブラジルへの移民が始まっています)。

    しかし、中国は先に利権を確保した西欧諸国に占められるとともに、中国人による反日感情は日増しに高まり、日本人が排斥される動きが強まるばかりです。

    そんな中、満州は唯一の希望でした。満州には日本人移民を受け入れてくれる広大な領土がありました。

    こうして貧しさに喘ぐ多くの日本人は、満州に希望を託しました。日本人が生きていくための糧が、満州にはあったのです。

    このあと触れますが、日露戦争で多大な犠牲の上に得た満州が中国軍に奪われるかもしれないという危機感にさらされるなか、満州事変が起こるや、日本人の大半はこれに喝采を送りました。

    日本人が生きるための希望の象徴であった満州を、たとえ軍事力に頼ってでも守り抜くことを日本国民は是としたのです。

    その3.ブロック経済が満州事変を起こした

    満州事変へと至った原因として、戦後、重光葵や近衛文麿は手記を残しています。少々長くなりますが、手記には当時の状況と世情が克明に記されているため紹介します。

    ー 近衛文麿の弁 ー

    近衛文麿(後の総理大臣)

    「思ふに満洲事変の有無に拘らず、日本の周辺には列国の経済ブロックによる経済封鎖の態勢がすでに動きつつあったのである。英帝国中心のブロック、米ブロック、ソ連ブロック等で、世界の購買力の大半は日本に対して封鎖の状態にならんとしてゐた。人口からいへば英帝国の四億五千万、米国一億二千万、ソ連一億六千万、合計七億以上であるから世界総人口の三分の一である。

    しかもこれは文化の最も発達した国々を含んで居るから、その購買力たる三分一に止らず、恐らく半分以上或は三分の二以上にも上るだらう。これだけのものが満洲事変の有無に拘(かかわ)らず、また国際連盟脱退の如何(いかん)に拘らず、日本に対して閉ざされんとする情勢にあった。

    かく列国の経済ブロックの暗雲が、次第に日本の周辺を蔽(おお)はんとしつつある時に、この暗雲を貫く稲妻の如く起ったのが満洲事変である。たとへ満洲事変があの時あの形で起らなくとも、晩かれ速かれこの暗雲を払ひのけて、日本の運命の道を切り拓かんとする何等かの企ては、必ず試みられたに違ひない。

    満洲事変に続く支那事変が遂に、大東亜共栄圏にまで発展せねばならなかったのも、同じ運命の軌道を辿ってゐたのである。」

    近衛文麿 上巻』矢部貞治著(弘文堂)より引用)

    満州事変

    wikipedia:近衛文麿 より引用
    近衛文麿(このえ ふみまろ) 1891(明治24)年 – 1945(昭和20)年

    大正-昭和時代前期の政治家。第34・38・39代内閣総理大臣。五摂家の筆頭の家柄に生まれる。パリ講和会議には西園寺公望らの全権随員として参加。貴族院議長を経て以後三度組閣。第一次内閣にて日中戦争中に「国民政府を相手にせず」の近衛声明を発表し和平の道を閉ざした。東亜新秩序声明を出す。第二次内閣では武力南進方針を採用し、日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会の創立を行う。第三次内閣で日米交渉に当たるも東条英機と対立して総辞職。敗戦後に国務相として入閣、憲法改正などにあたった。戦犯に指名され、服毒自殺を遂げた。

    ー 重光葵の弁 ー

    満州事変

    wikipedia:重光葵 より引用
    重光葵(しげみつ まもる) 1887(明治20)年 – 1957(昭和32)年

    第二次世界大戦期の日本の外交官(外相)・政治家。満州事変当時は駐華公使。1943年11月の大東亜会議を開くために奔走した功績は高く評価されている。敗戦後は日本政府の全権として降伏文書に署名した。東京裁判ではA級戦犯として起訴され、禁固7年の有罪判決を受ける。釈放後は外相として日本の国連加盟を成功させた。
    重光葵(後の外相、満州事変当時は駐華公使)

    「当時日本人は国家及び民族の将来に対して非常に神経質になってゐた。日本は一小島国として農耕地の狭小なるはもちろん、その他の鉱物資源も云ふに足るものはない。日清戦争時代に三千万余りを数へた人口は、その後三十年にして六千万に倍加し、年に百万近い人口増加がある。この莫大なる人口を如何にして養ふかが、日本国策の基底を揺り動かす問題である。

    海外移民の不可能なる事情の下に、日本は朝鮮及び台湾を極度に開発し、更に満洲における経済活動によりこの問題を解決せんとし、また解決しつつあった。もとより、海外貿易はこの点で欠くべからざるものであったが、これは相手あってのことで、さう思ふやうには行かぬ。満洲問題は、日本人の生活上、日に日に重要性を加へて行った。日本人の勤勉は、単に生きんがためであって、生活水準を引き上げるためではなかった。

    国際連盟は戦争を否認し、各国の軍備の縮少を実現せんとした。しかし、人類生活の根本たる食糧問題を解決すべき経済問題については、単に自由主義を空論するのみで、世界は、欧洲各国を中心として事実上閉鎖経済に逆転してしまった。

    かくの知くして、第一次大戦後の極端なる国家主義時代における列国の政策は、全然貿易自由の原則とは相去ること遠きものとなった。国際連盟の趣旨とする経済自由の原則なぞは、全く忘れられてゐた。日本は増加する人口を養ふためには、その汗水の働きによる海外貿易の発展に依頼することが出来なくなって、遂に生活水準の引下げを強要せらるるやうになった。(略)

    日本の権益は支那本土においてのみならず、満洲においても張学良の手によって甚(はなはだ)しく迫害せられる運命におかれた。日本がこれらの権益を排日の嵐の中で、現地に於て防衛することは、もとより容易の業ではない。しかも日本が、経済的に支那本土より排斥せられるのみならず、更に満洲より駆逐せられることは、日本人自身の生活そのものが脅かされる次第であった」

    昭和の動乱』重光葵著(中央公論新社)より引用

    ー 東郷茂徳の弁 ー

    満州事変

    wikipedia:東郷茂徳 より引用
    東郷茂徳 1882(明治15)年 – 1950(昭和25)年

    外交官・政治家。大東亜戦争開戦時および終戦時の日本の外務大臣。平和主義者・和平派として知られ、終戦の実現に尽力した。東京裁判では「真珠湾の騙し討ちの責任者」として訴追され、禁錮20年の判決を下された。
    東郷茂徳(後の外相)

    「世上よく日本が日清日露以来殊に満洲事変以来、軍国主義的侵略の途を一図に突進したやうに考へ又説くものがあるが、日本内部の動きもしかく単純ではなく、右五相会議に見るが如く、日本の国策を正常化せむとするに努めたことは非常に多い。日本の例に反し英米は常に正義の権化として戦争回避に努めたるが知く唱導するものがあるが、これもまた正確なる見方とは云へない。

    即ち日本に於ても戦争回避を企てて居る聞に一九三二年オタワに於て英連邦は各邦相互間の特恵関税制度を協定し、外部特に日本を目指して高率関税を賦課して輸入の防圧を図った。

    これ、一九二九年以来の世界経済恐慌に伴ひ、また安価な日本品に対抗するための自衛方法とも云ひ得るのであるが、英連邦以外の諸国に於てもこれに倣ふものが頻出したので、工業原料の大部分を輸入に仰ぎ、生産の三〇パーセント以上を輸出して居た日本は大きなる打撃を受け、失業者は激増し、農産物は暴落し、圏内の不安著しく増大した。

    その結果、原料と圏外市場を確保する必要を痛感し、先づ満洲に着目したのであるから、日本側から見ればオタワ協定の如き関税防壁が満洲事変その他を惹起(じゃっき)する原因になったと云ひ得るのである」

    時代の一面―大戦外交の手記』東郷茂徳著(響林社)より引用

    3人のいずれの手記も、ブロック経済による対日経済封鎖こそが、満州事変へと至った最大の理由であると指摘していることは重要です。

    日本人が生存していくためには、満州を手放すわけにはいかなかったのです。そのことは東京裁判に異を唱えたパール判事も指摘しています。

    ー パール判事の弁 ー

    「最後に、1926年という年自体にロシア共産党の支援を受けた中国の国民党の勃興(ぼっこう)があった。この動きの第1段階では国民党は自身を揚子江流域の支配者にしつつあったが、その攻撃の矛先はイギリスであって、1925年、1926年を通じてイギリスが不人気であったために日本の対中貿易は増大した。

    それでも長期的観点からは、中国における状況展開はイギリスよりも日本にとって不吉な前兆となった。仮に中国におけるイギリスの権益がすべて消滅しても、イギリス自身は世界の偉大なる商業・政治の列強国として生き残ることができたであろう。

    しかし、イギリスが欧州大陸に縛り付けられているのと同様に、日本は変更不能な地理上の偶然からその本土が極東地域に縛り付けられており、もしも好戦的な国民党の中国がロシアの支援によりソビエト連邦と再び手を握り、彼ら両国が日本に対して共同戦線を張るようになれば、日本は苦労して入手したその大国たる地位を維持できる望みはほとんど無くなることとなろう。

    日本は鉱物資源に恵まれていないため、日本の満州における経済権益は余剰贅沢品などではなく、その国民生活のための死活的な必需品であったのだ。」

    東京裁判 全訳 パール判決書』都築陽太郎著(幻冬舎メディアコンサルティング)より引用

    満州事変

    wikipedia:ラダ・ビノード・パール より引用
    ラダ・ビノード・パール 1886年 – 1967年

    インドの法学者・裁判官。コルカタ大学教授・国際連合国際法委員長を歴任。極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人。日本では「パール判事」と呼ばれることが多い。国際法の専門家としての立場から被告人全員の無罪を主張した「パール判決書」は、よく知られている。米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであると主張した。

    ブロック経済と対日経済制裁によって真綿で首を絞められつつあった日本にとって、満州だけが唯一の救いでした。多くの日本人は昭和恐慌という食べるものさえ満足に口にできない貧困のなかで、満州というはかない希望にすがることで、かろうじて明日に命を繋ぐことができたのです。

    しかし、だからといって「渇しても盗泉の水は飲まず」という故事があるように、他国の領土を奪ってまで自国民の生存を計っても許されるのか? といった疑問は残ります。

    帝国主義の時代は、自国民が生存するためであればもちろん、単により良い暮らし、贅沢をしたいだけでも、軍事的に強い国が弱い国を侵略することが当たり前とされました。倫理や道徳よりも、力こそがすべてでした。弱肉強食こそが、適者生存を支える正義の秩序だったのです。

    日本は開国以来、そうした欧米列強の無慈悲な論理に異を唱え、抗ってきました。アジアはひとつという大義を掲げ、一丸となって欧米列強の暴力に立ち向かおうとしてきました。

    そんな日本が中国の領土である満州の権益を主張することに、大義はあるのでしょうか?

    満州についての大義を語る上で、避けては通れないことがあります。それは、そもそも満州は中国の領土なのか? といった根本的な疑問です。

    そこで、次に満州はいったい誰のものなのかを知るために、満州の歴史について掘り下げてみましょう。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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