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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1941年 戦争回避のための日米交渉#73 日本の開戦決意 なぜ陸軍は戦争を決意したのか?

    #73 日本の開戦決意 なぜ陸軍は戦争を決意したのか?

    前回まで日本側が米政府に申し込んだ日米首脳会談をめぐる両国の動きについて紹介しました。

    アメリカとの和平を見出せないまま、日本国内では次第に開戦を支持する声が強まっていきました。日本の開戦決意が固まっていく過程を、今回は追いかけてみます。

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら

    日米開戦までのカウントダウン

    4-5.日本の開戦決意

    その1.非戦派の退場と主戦派の台頭

    戦争を避けるために政府がアメリカとの和平の道を懸命に探るなか、軍部による戦争準備も同時に進められました。

    首脳会談に応じようとしないアメリカの態度は、国内に残っていた、あくまで戦争を避けるべきとする非戦派を窮地に追い込みました。

    ルーズベルトは日米首脳会談の前提条件として事前の合意にこだわっただけにとどまらず、合意については日米だけで話し合うのではなく、太平洋地域に利害のあるイギリスやオランダ、中国とも協議しなければならないと日本側に伝えていました。

    日米首脳会談の開催のために英蘭中との意見調整が必要とされたのでは、事前協議が延々と続くことを避けられそうにありません。このことは、非戦派を絶望の淵に追い落としました。

    事前協議では軍部の意向を無視できないため、日本側が一方的に譲歩することは不可能です。そうなれば日米英蘭中の五カ国の国益が衝突する諸問題をどれだけ協議したところで、合意に達するはずもありません。

    まとまる見込みのない協議を悪戯に続けることは、日本にとって自らの首を絞めるも同然でした。時間が経てばたつほど、石油禁輸のもたらす悪影響は、日本を破滅へと誘います。

    しかし、非戦派にはもはや打つ手がなく、事態の推移を黙って見守るのみという現実が重くのしかかりました。その一方で台頭してきたのは、軍部の主戦派です。

    日米交渉が長引けば長引くほど、石油の備蓄量は目に見えて減っていくばかりです。それでも交渉を続けることで光明を見出せるのであればまだしも、首脳会談が望めない今となっては、交渉のみに日本の命運を預けるわけにもいきません。

    あきらめることなく交渉を続ける一方で、交渉が決裂した際に、生き残りを賭けた一戦を交えるための備えを怠りなく進めることは、軍部として当然のことでした。

    非戦派が退き、主戦派が表舞台に躍り出ることは、グルーやクレイギーが予測した通りです。

    このままジリ貧に陥ったままでは、近い将来に日本の石油は枯渇し、もはや戦うことさえできなくなります。切迫する時間のなか、軍部としては戦争決意を固める方向に動くよりなかったのです。

    戦わずして屈することはできないとする軍人精神が、当時の日本を覆い尽くしていました。

    その2.陸軍の戦争決意

    対米決戦へと国論が傾くなか、陸軍参謀本部が中心となって進めていた北進の動きはあっさりと放棄されました。8月9日に北方武力行使の延期が決定されると、参謀本部は対米戦勃発を視野に入れた南進へ向けて動き出したのです。

    ただし、陸軍も闇雲に戦争へ向けて走り出したわけではありません。参謀本部の田中が即時戦争決意論を主張すれば、軍務局の武藤は外交重視論を主張し、またも両者は対立しています。

    二人の役回りは一定しています。田中が性急な武闘派であるのに対し、武藤は慎重なハト派です。田中が日本を対米戦へと急かせば、武藤が待ったをかけて和平を模索する道へと引き戻します。武藤はあくまで対米戦反対論者でした。

    ところが、戦後に待っていた二人の運命は、あまりにも対象的です。対米戦をもっとも強硬に主張した一人である田中は、なんらの咎めもなく天寿を全うしたことに対して、対米戦に反対し続け、最後まで戦争回避に尽力した武藤はA級戦犯として死刑に処されています。そこに二人の運命の皮肉さを感じずにはいられません。

    日米交渉 日本の開戦決意イメージ2
    wikipedia:武藤章 より引用
    【 人物紹介 – 武藤章(むとう あきら) 】1892(明治25)年 – 1948(昭和23)年
    大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件では参謀本部作戦課長として拡大論を主張し、不拡大派の石原莞爾を中央から追った。中支方面軍参謀副長になり南京攻略を指導。軍務局長となり東條英機の腹心として活動。対米開戦の回避に尽くした。開戦後は戦争の早期終結を主張し、東条らと対立。太平洋戦争中はスマトラ・フィリピンで指揮をとる。終戦後、A 級戦犯として死刑。
    日米交渉 日本の開戦決意イメージ3
    wikipedia:田中新一 より引用
    【 人物紹介 – 田中新一(たなか しんいち) 】1893(明治26)年 – 1976(昭和51)年
    大正-昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校では武藤章と同期。ソ連・ポーランドに駐在後、関東軍参謀に就く。盧溝橋事件発生に当たり、武藤と連携して不拡大を唱える石原を押し切り5個師団10万人規模の北支増派を決定させた。駐蒙軍参謀長を経て参謀本部第1部長に就任。対米関係が悪化するや交渉の中止と開戦を強硬に主張し、慎重派の武藤と対立。戦時中はガダルカナル戦で東条陸相の撤退論と対立、第1部長を解任された。プノンペン付近で飛行機事故のため重傷を負い敗戦を迎える。戦後、朝鮮戦争にて作戦のエキスパートとして米軍に協力、日本再軍備計画に参画した。天寿を全うし、83歳没。

    田中と武藤で意見が対立するなか、陸軍としては外交による対米国交調整に望みをつなぐも、目処となる一定の時期を設け、その時点で交渉が不調に終われば開戦せざるを得ないとの結論に達しました。

    8月13日には「南方作戦構想陸軍案」がまとめられています。そこには12月初旬に開戦すること、翌年5月までにマレー半島やシンガポールほかの英領植民地、米領フィリピン、蘭領蘭印の攻略を終えることなど、南進についての具体的な方針が定められています。

    また8月25日には、10月下旬までに戦争のための準備を整えること、この間も米英との外交を行い、経済封鎖が解かれるように努めること、9月下旬に至っても要求が受け入れられないときは直ちにアメリカ・イギリス・オランダとの開戦を決意することが確認されました。

    一連のタイムテーブルは、石油備蓄の状況、日米の海軍戦力比率、南進の季節的な条件などを総合的に検討して導かれています。

    海軍戦力比率として比較されたのは、日米のもつ艦艇比率です。1941(昭和16)年における日本の艦艇比率は対米七割五分です。しかし、アメリカでは大規模な海軍拡張計画が決まっており、1942(昭和17)年には対米六割五分、1943(昭和18)年には対米五割、1944(昭和19)年には対米三割ほどまでに差が開くと見られていました。

    日米に横たわる経済力の大きな差は、艦艇の生産力にもはっきりと影を落としています。

    海軍ではアメリカと戦うためには、最低でも対米7割が必要と判断していました。つまり、海軍がまともに米艦隊と渡り合えるチャンスは、年内しかないということです。

    石油の備蓄量から考えても、年内に開戦する必要があると考えられました。参謀本部は戦うのであれば開戦の時期を11月初めと想定し、遅くとも12月上旬には戦争を始めるべきとの方針を打ち出したのです。

    その3.海軍の妥協

    戦争決意を固める陸軍の動きに対して、海軍でも方針が示されています。「戦争ヲ決意スルコトナク戦争準備ヲ進メ此ノ間外交ヲ行イ打開ノ途ナキニ於テハ実力ヲ発動ス……」と8月16日の『機密日誌』に綴られています。

    外交によって局面の打開ができないときは実力を行使するとの海軍の方針は、陸軍とさほどの違いはありません。

    しかし、陸海軍の間にはなおも温度差が存在していました。陸軍が「国策」にアメリカとの戦争決意を明記し、日米交渉の達成目標を明確に盛り込もうとする動きに出ると、あわてたのが海軍です。

    決戦にはやる陸軍の性急な動きを、海軍は引き戻しにかかります。海軍は戦争決意ばかりか戦争準備の文言さえも削除し、「援蔣補給遮断作戦」(昆明占領作戦)に変更する案を8月26日に陸軍に提示しました。

    対米開戦となったときに矢面になって戦うのは、もちろん海軍です。その海軍が腰を引いた態度を見せたことは、陸軍の顰蹙(ひんしゅく)をかいました。

    陸軍は海軍案を黙殺し、「国策」に戦争決意と外交に期限を設けることを主張しました。一方、海軍は戦争決意を入れることに断固反対し、外交が失敗したとしても直ちに開戦するのではなく、欧州情勢(独ソ戦の行方)を見てから判断すべきと苦言を呈しました。

    陸海軍で意見が対立するなか、8月30日、陸海軍部局長会議が開かれ、議論が交わされました。

    その結果、「帝国国策遂行要領」陸海軍案がまとまり、9月2日に陸海軍で正式に決定されるに至ります。

    その内容は、陸軍案がほぼ反映されたものでした。

    一、自存自衛のため、対米英蘭戦争を辞せざる決意のもとに、10月下旬を目途として戦争準備を整える。
    二、これと並行して米英に対し外交手段を尽くして要求貫徹に努める。
    三、10月上旬頃に至っても要求が貫徹できない場合は、ただちに対米英蘭開戦を決意する。

    戦争決意の明記と外交に期限を設けることに反対していた海軍が、なぜ妥協に転じたのかは謎です。

    その謎を解く鍵は、会議の前日にもたらされた野村大使からの情報にあったとも言われています。近衛メッセージを読んだルーズベルト大統領が、それを大いに賞賛し、首脳会談に前向きな姿勢を見せたとする情報です。

    アメリカから首脳会談を事実上拒否する回答を受けていない8月末の段階では、首脳会談への望みがまだ残されていました。

    野村大使の情報からは、あきらめかけていた日米首脳会談が実現に向けて動き出したかのような印象を受けます。

    この情報を受け取った陸軍と海軍では、反応が分かれました。陸軍は首脳会談が行われれば日本側が大幅な譲歩を行うことが目に見えているだけに、危機感を覚え、より強硬的な態度を示しました。

    対して海軍は首脳会談実現に向けて動き出したことに安堵し、事態を楽観視しました。

    こうした陸軍と海軍の温度差が、海軍の妥協を呼び込んだのではないかと推測されています。

    その4.海軍が謀った「遂行要領」の骨抜き

    9月3日、大本営政府連絡会議が開かれ、「帝国国策遂行要領」陸海軍案をもとに御前会議に提案する国策の原案について議論されました。

    陸海軍部局長会議が開かれた8月30日と、この日では、事態が大きく変わっています。その日、アメリカから現状のままでの首脳会談を拒否する回答が届いていたからです。

    首脳会談が実現するものと楽観していた海軍にとっては大きな誤算でした。さりとて先に「帝国国策遂行要領」陸海軍案に同意した手前、今さら戦争決意や外交期限を撤回することも適いません。

    そこで大本営政府連絡会議にて及川古志郎海相は、陸海軍案にある「要求が貫徹できない場合」の文言を「要求を貫徹する目途のない場合」に変更することを提案しています。

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    wikipedia:及川古志郎 より引用
    【 人物紹介 – 及川古志郎(おいかわ こしろう) 】1883(明治16)年 – 1958(昭和33)年
    大正・昭和期の海軍軍人。最終階級は海軍大将。日露戦争に「千代田」乗組で参戦。各艦の艦長を歴任後、海軍兵学校長・航空本部長などを経て第2次近衛文麿内閣の海相となり、三国同盟条約締結に踏み切った。対英米開戦の路線を進めた後、辞任。大戦中は軍令部総長としてレイテ沖海戦などを敢行したが、戦況を好転するには至らなかった。軍令部総長時代に神風特攻隊による攻撃が始まっている。戦後、公職追放となるも後に解除。75歳にて病没。

    「目途」を加えたところで、どんな違いが生じるのかわかりにくいものの、実は雲泥の差があります。

    前者の場合、期限までに要求が通っていなければ即座に開戦へと進むことになります。ところが、ここにあえて「目途」という言葉を加えるだけで、期限までに要求が通っていなくても、将来的に要求が通る見込みがあるかないかの判断を下す猶予を得られます。

    つまり戦争の決意は、「目途」の判定後に先送りされることになります。これは「遂行要領」の骨抜きを目指す海軍の苦肉の策でした。

    ただし、海軍は単に戦うことから逃げていたわけではありません。海軍は9月1日には「国策決定をまたず、陸軍、政府に連絡なしに艦隊の本年度全面戦時体制を実施、艦隊編成上、開戦前の最終措置を完了」しています。

    国策としての対米開戦の決定を可能な限り先送りしながらも、いつ開戦になっても困らないように海軍は準備を整えていました。

    連絡会議にて海軍の修正案が認められ、9月5日に閣議決定となっています。

    これによって「三、10月上旬頃に至っても要求を貫徹し得る目途なき場合は、直ちに対米英蘭開戦を決意する」と書き改められました。

    ● 開戦まであと94日 = 1941年9月5日

    こうして日米開戦決意が示された「帝国国策遂行要領」が翌9月6日の御前会議にて諮(はか)られることとなったのです。

    その5.天皇と杉山元の問答

    ここまで見てきたように南部仏印進駐から米英欄による経済制裁を受け、日米交渉に望みをつなぐ一方で日米開戦決意を国策に掲げるに至る日本の目まぐるしい動きは、わずか一か月ほどの短期間に為されたものです。

    国策の急激な変化に戸惑いを隠せないのは昭和天皇にしても同じでした。近衛首相から日米開戦決意について御前会議に諮ることになったと報告を受けた天皇は驚き、陸海軍の総長を呼び、長い時間にわたって問答を行ったと記録されています。天皇がそのような行動に出るのは、異例のことです。

    近衛の手記には、その際の問答の様子が綴られています。なかでも有名なのは、杉山元参謀総長との問答です。

    「もし日米開戦となった場合、どのくらいで作戦を完遂する見込みか?」と対米戦争の成算を昭和天皇に問われた参謀総長の杉山は「太平洋方面は3ヶ月で作戦を終了する見込みでございます」と楽観的な回答をする。

    これに対して天皇は「汝は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき事変は2ヶ月程度で片付くと私にむかって申したのに、支那事変は4年たった今になっても終わっていないではないか」と語気荒く問いつめた。

    答えに窮した杉山が「支那は奥地が広うございまして、予定通り作戦がいかなかったのであります」と言い訳すると、天皇は「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか。いったいいかなる成算があって3ヵ月と言うのか?」と一喝し、杉山は言葉を失ったという。

    杉山元:wikipedia より引用

    さらに、天皇から「絶対に勝てるか?」と聞かれた杉山は、次のように奉答しています。

    「絶対とは申しかねます。しかし、勝てる算のあることだけは申し上げられます。必ず勝つとは申し上げかねます」

    このエピソードには当時の陸軍がアメリカとの戦争をどのように見ていたのかが、よく表れています。

    天皇との問答において杉山が図らずも露呈したのは、希望的観測や根拠のない楽観論に基づいて導かれた短期必勝という妄信でした。

    そうした甘い見通しが日本を悲劇に追い込んだことは、歴史が証明する通りです。

    対米開戦に至る経緯についてはやむを得ない面も多々あるものの、戦い方については後世からさまざまな批判が寄せられています。

    負けた以上は誰かが責任を負うべき宿命にあることは、致し方ありません。

    終戦後、陸軍第1総軍の復員の任にあたった杉山は、復員完了を見届けたあとに自決を遂げました。

    その遺書には「数百万の将兵を損じ、巨億の国帑(こくど=国家の財貨)を費し、家を焼き、家財を失い、皇国開闢(かいびゃく)以来、未だかつて見ざる難局に際し、国体の護持、また容易ならざるものありて、痛く宸襟(しんきん=天子の心)を悩まし奉り、恐惶恐懼(きょうこうきょうく)なすところを知らず、その罪万死するも及ばず」としたためられています。

    最後に記された「その罪万死するも及ばず」の言葉に、杉山の万感の思いを汲み取れます。

    杉山夫人も夫の死を確認した直後に、自決を遂げました。

    あまたの悲劇を飲み込みながら、今日へと歴史はつながっています。

    日米交渉 日本の開戦決意イメージ1
    wikipedia:杉山元 より引用
    【 人物紹介 – 杉山元(すぎやま げん/はじめ) 】
    明治-昭和時代の軍人。最終階級は元帥陸軍大将。満州事変勃発の際は陸軍次官、のち参謀次長・教育総監を歴任。日中戦争では陸軍大臣として短期終結の見通しから拡大論を唱え、日中全面戦争化を推し進めた。その後、参謀総長に就任、大東亜戦争の開戦から44年まで陸軍全般の作戦指導にあたった。本土決戦に備え第一総軍司令官となるが終戦を迎え、昭和20年9月12日に自決した。

    開戦を支持する声が次第に強まるなか、日本の今後の方針を定めるための御前会議が9月6日に行われました。この会議の行方については、次回にて紹介します。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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