第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
5.日本はなんのために戦ったのか
大東亜戦争について考える際に欠かすことのできない当時の価値観と時代背景について、前回は見てきました。
今回は大東亜戦争について、日本がなぜ一方的に侵略をしたと非難されているのか、そのロジックについて追いかけてみます。
5-2.日本は侵略したのか?
その2.なぜ侵略と言われるのか
- 侵略か「文明化」か? -
当時の価値観や時代背景を確認したところで、大東亜戦争、ことに対米英蘭戦に駒を進めます。
対米英蘭戦については、日本の一方的な侵略戦争と位置づけ、日本が自制さえしていれば戦争にはならなかったと捉える論が幅をきかせています。いわゆる「自虐史観」です。
日本では「自虐的」と揶揄(やゆ)される歴史認識ですが、こうした考え方は欧米を中心に共通して見られるものです。戦後の世界秩序は、日本・ドイツを中心とする枢軸国が侵略国であるとの認識のもとに築かれました。
自虐史観を否定する考え方をもつ者は、欧米では歴史修正主義者として批判の的にされています。
日本が欧米諸国の帝国主義に倣い領土拡大に励んだことは事実であるだけに、侵略性を完全に否定することは難しいでしょう。ですが釈然としないのは、対米英蘭戦争において日本のみが侵略国として断罪されていることです。
欧米諸国が武力をもって成し遂げたアジアの植民地化は侵略とはみなされず、日本のみが侵略したと批判されるのはなぜでしょうか?
歴史はどこを切り取って判断するかによって、認識がまったく違ってきます。大航海時代からの歴史をたどったならば、欧米列強は間違いなく侵略国といえるでしょう。しかし、欧米列強は侵略の事実を認めたことがありません。
そればかりか、鉄の女と称されたイギリスの元首相サッチャーは、自伝にて次のように記しています。
「私の家族も、ほかの多くの家族と同じように、大英帝国を大いに誇りにしていた。われわれが教えなければ、法も、よい行政も、秩序も知らなかったような土地に、これらのものをもたらしたのだと感じていた。私は、遠い国々や大陸、そしてこうした土地にわれわれイギリス人が与えることのできる利益について、すっかり魅せられていた。子供のころ、中央アメリカで未聞の部族と過ごしたメソジストの宣教師から、彼が書き方を教えるまで書くことを知らなかった部族民の話を聞いて、感心したことがある」
『サッチャー 私の半生』マーガレット サッチャー著(日本経済新聞社)より引用
サッチャーは大英帝国が世界各地を征服し、植民地化していったことを「文明化」と捉え、誇りをもっていることがわかります。こうした考え方は大東亜戦争前までの白人社会での常識ですが、人種平等を正義とする価値観に至った現代においても、サッチャーに限らず未だにそれを信じている人々が相当数います。
有色人種が平和に暮らしている地域に聖書と銃を手に乗り込み、繰り返された殺戮と略奪も、欧米諸国からすれば「文明化」なのです。
欧米列強が為したことは文明化として美化され、日本が為したことは侵略と非難されます。どう見ても理不尽と思える線引きですが、実はそこには明確なからくりが隠されています。
wikipedia:マーガレット・サッチャー より引用
【 人物紹介 – マーガレット・サッチャー 】1925年 – 2013年
イギリス初の女性首相。1979年から90年まで約11年間、首相を務めた。保守的かつ強硬なその政治姿勢から「鉄の女(英: Iron Lady)」の異名を取ったことで知られる。不採算の国営企業の民営化など新自由主義的な構造改革を進め、「英国病」と呼ばれるほど停滞した経済の立て直しに成功を収めた。1982年にフォークランド紛争が起きると、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土とは国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命・財産の存在する根拠が失われるという意味)と述べ、直ちに南大西洋に艦隊を派遣し、アルゼンチン軍を撃退した。1988年より教育法の改定に着手。当時のイギリスではイギリスの人種差別や、植民地支配の歴史を批判的に扱う自虐的な教育が為されていた。
サッチャーは教育界の反対を押し切り、自虐史観から脱却することで自国の誇りを植え付ける教育を実現した。その反面、人種差別に基づく数々の発言を残している。サッチャーの教育改革は「偏向自虐歴史教科書を克服した先例」として、日本でも評価する声がある。財政赤字を克服しイギリス経済を立て直した救世主として、英国内外で高く評価されている。
- パリ不戦条約に基づく新たな世界秩序 -
そもそも、なにをもって「侵略」と定義するのかは、極めて難しい問題です。国際法では未だに確とした「侵略」の定義が為されていません。いつまで経っても定義が確定しない理由のひとつに、侵略の定義がなされると欧米列強が過去に行った植民地支配も侵略として断罪される可能性があることをあげられます。
もともと「侵略」という言葉は、第一次大戦でのドイツを懲罰するために作り出された理屈に過ぎません。「戦争の勝者が敗者に対して自らの要求を正当化するために負わせる罪」として考え出されたのが、「侵略」という新たな考え方です。
では第二次世界大戦において、日本やドイツのみが、なぜ侵略国とされたのでしょうか?
その根拠は 1928年に締結された「パリ不戦条約」に求められます。正式な名称は「戦争放棄に関する条約」です。「パリ不戦条約」によって、国家の政策の手段としての戦争を放棄することが宣言され、国際紛争は武力によることなく平和的に解決すべきことが定められました。
「パリ不戦条約」が画期的だったのは、戦争が違法とされたことです。「パリ不戦条約」が締結される前の世界では、戦争は合法でした。戦争を行うことは、国家の権利として認められていたのです。
戦争がかつて合法だったと聞くと、「そんな馬鹿な!」と思うかもしれません。でも、これには理由があります。戦争に善悪の区別を付けることが難しかったからです。
どんな戦争にも双方に目的があり、双方に正義があります。ときには領土や資源の獲得であったり、ときには宗教であったり、戦争の目的はさまざまです。
その際、相手は「絶対的な悪」であり、自分たちが「絶対的な善」であると考えることが、ごく一般的です。双方がそのように考えるため、放っておくと相手を滅ぼすまで戦うことになります。
そのような無意味な殺傷行為を止め、不必要な残虐行為をなくすために、国際法が生まれました。国際法が目指したのは、無法で残忍極まりない戦争を、「ルールに基づく決闘」に変えることでした。
そのためには、戦争を合法と認める必要があります。合法だけれどもルールを設けることで、戦闘員ではない民間人の殺傷を禁止するなど、戦争による被害をできるだけ食い止めようと定められたのが国際法です。
ところがパリ不戦条約によって、自衛戦争以外の戦争は認められなくなりました。パリ不戦条約は人類の歴史上はじめて戦争を明確に違法と考え、戦争放棄を求める画期的な条約でした。
パリ不戦条約によって世界のルールが変わりました。それは帝国主義の時代の終焉を意味しています。昨日までの、軍事力を背景にした「力こそが正義」の世界は旧い国際秩序になり果て、自衛戦争以外を禁止する新たな世界秩序が誕生したのです。
これで世界が平和になると思われた矢先、突然、平和は打ち破られます。パリ不戦条約に署名したにもかかわらず、条約を無視して、ある国が自衛に基づかない戦争を公然と始めたからです。それが、日本による満州事変です。
日本はパリ不戦条約の意味を読み違えていました。新たな世界秩序に日本が公然と背いたことにより、世界に衝撃が走ります。
パリ不戦条約後にはじめて行われた違法な戦争に対して、世界各国がいかに対応するかが問われました。それはパリ不戦条約後の世界にはじめて課された試金石です。
しかし、当時の国際連盟とパリ不戦条約との不調和もあり、日本の満州事変を咎めるには至っていません。それを見たドイツやイタリアが旧世界秩序に基づく武力による支配に再び乗り出したことによって、第二次世界大戦が起きました。
以上が今日の世界秩序の考え方です。パリ不戦条約の前と後とでは、世界観がまったく異なります。パリ不戦条約前の戦争は、すべて合法です。そのため欧米諸国が過去に為してきた侵略行為も合法です。
ところが、パリ不戦条約によって世界のルールが一変したため、パリ不戦条約後に起きた自衛戦争以外の戦争はすべて違法です。この理屈により、パリ不戦条約後に枢軸国が自衛ではない戦争を起こしたことをもって、「侵略国」とされています。
日本についてはパリ不戦条約署名後の満州事変や日中戦争、対米英蘭戦争のすべてが侵略とされています。さらにはなぜか日清・日露戦争まで遡り、侵略であるとする見解もあります。
- パリ不戦条約に潜む悪意 -
パリ不戦条約が高邁(こうまい)な理念を掲げていることは、たしかです。いつの時代も人が平和な暮らしを求めていることに変わりはありません。戦争が根絶された世界は、人類にとっての理想郷であるに違いありません。
しかし、理想とは裏腹にパリ不戦条約が大きな不正義を抱えていたことも、また事実なのです。もともとパリ不戦条約は、ドイツ再軍備に恐怖を感じるフランスが自国の安全を確保するために、アメリカに対して外交努力を繰り返した一つの帰結に過ぎません。
欧米列強がパリ不戦条約を認めたのは、そうすることで自国の安全が確保されるからこそです。パリ不戦条約では自衛のための戦争は合法とされました。さらに「自衛」の範囲は、植民地にも及ぶとされました。
当時、植民地を十分に囲い終えた欧米列強にとって最大の脅威となっていたのは、強力な軍事力を擁しながらも植民地獲得競争に出遅れた日本やドイツでした。日本とドイツの軍事力は侮りがたく、武力で対抗するには限界がありました。
そこで画策されたのがパリ不戦条約です。凄惨(せいさん)を極めた第一次世界大戦の反動として、平和を求める機運が世界的に高まっていたことも事実です。パリ不戦条約は戦争放棄の声が沸き起こった末に到達した高みと言ってもよいでしょう。
しかしながら、理想から離れて現実に目を移せば、欧米列強にとって極めて都合の良い条約でもありました。
なぜなら、「自衛」の範囲が植民地にも及ぶことにより、パリ不戦条約を守る限り列強の植民地は固定され、永遠に奪われないことを意味するからです。
植民地を自衛するための戦争は認められ、他国の抱える植民地への武力行使は基本的に違法とされたのです。植民地とは、その地にあった国や民族を征服し、奪い取ることによって誕生します。つまり、自ら奪い取っておきながら、自分の物になった以上は他者が奪うことを禁じていることになります。
このことはパリ不戦条約がある限り、そして欧米列強が植民地を自ら手放さない限り、アジアは永遠に欧米列強の植民地のままであることを意味します。当時はアメリカを抜かせば、列強が植民地を自主的に返して民族自決を認めるような状況にはありませんでした。
パリ不戦条約には欧米諸国の悪意が込められていたとも言えるでしょう。日本としては署名をしたものの、そうした悪意に素直に従うわけにはいきませんでした。
世界大恐慌によるブロック経済で苦しめられるなか、日本が生き残るためには、そしてアジアを植民地から解き放ち、アジアの諸民族の手に取り戻すためには、パリ不戦条約の枠に縛られるわけにはいかなかったのです。
ただし、日本がパリ不戦条約に署名したことをもって早計だったと批判することも、当を得ていません。
- どこまでが「自衛」なのか -
パリ不戦条約で定めるところの「自衛」は、領土の防衛だけに限られていませんでした。どこまでが自衛でどこからが自衛ではないのか、その定義は為されていません。一般に、直接的な武力行使を受けていなくても、自国の国防または国家に危険を及ぼす可能性がある事態を防ぐために、必要と信じる処置をとることも「自衛」です。
自衛かどうかを判断できるのは、自衛のための措置をとる国のみです。早い話、いかなる状況で始まった戦争であろうとも当事国が「自衛」と主張すれば、それは自衛戦争であり、完全に合法なのです。
そのことはパリ不戦条約が空文に過ぎず、それを根拠に「侵略」と責められる謂われなど、本来はないことを意味します。ちなみにパリ不戦条約においても、侵略の定義は為されていません。
東京裁判では日本がパリ不戦条約に背いたことをもって「侵略国」のレッテルを貼られ、「平和に対する罪」という新たに設けられた法によって裁かれました。
されど、ロジックからすれば満州事変も日中戦争も自衛権の発動であると日本が主張している以上は合法であり、侵略ではないことになります。対米英蘭戦も然りです。
東京裁判においても、日本側の弁護人はそのような主張をしています。
「罪」という言葉は道義的に用いるのか、法的に用いるのかによって、解釈は大きく異なります。「侵略」も同じで道義的に用いるのか、法的に用いるのかによって、使い分ける必要があります。
道義的な見地に立てば、欧米諸国が過去に為してきた残虐な侵略ほどではないにしても、満州事変以降の日本の戦争に侵略性があることは否定できないでしょう。しかし、法的な見地に立てば、日本を侵略国と決めつけるには相当な無理が必要です。
こうした事実を踏まえた上で、日本が侵略を行ったのか否かを個々で判断することになります。
次回は日本が大東亜戦争を行った理由について、国益・恐怖・大義の3つの観点から追いかけます。