前回の記事の続きとなっています。前回の記事はこちらから。
→第1部 2章(6/7)植民地化されたインドネシアとインドの悲劇
西欧列強は日本をどう見ていたのか
その1.スペインによる日本征服の野望
大航海時代以来、覇権国は時代とともに移り変わりながらも、西欧列強によるアジアへの進出は続けられました。フィリピン、インドネシア、インドなど、多くの地域が西欧諸国の勢力圏や植民地支配へと組み込まれていきます。
では、日本はなぜ西欧列強による侵略を受け、植民地にされることなく独立を維持できたのでしょうか?
この話題になると、日本が四方を海に囲まれており、西欧から遠く離れた極東にあったからだとする説をよく見かけます。たしかに距離は重要です。しかし、それだけでは説明できません。16世紀後半にはスペインはフィリピンを拠点とし、ポルトガルもマカオなどを通じて東アジアに交易網を築いていました。日本はすでに西欧勢力の活動圏から完全に外れた国ではなかったのです。
四方を海に囲まれているのはフィリピンもジャワも、スマトラやモルッカ諸島も同じです。それらの地域は16世紀以降、西欧勢力の進出を受けました。つまり「日本は島国だったから」「遠かったから」だけでは、日本が植民地化されなかった理由を説明しきれません。
では、スペインやポルトガルが日本に大軍を送らなかったのは、はじめから日本に関心がなかったからでしょうか?
そうとも言い切れません。スペイン・ポルトガル世界の宣教師や植民地関係者のなかには、日本への軍事介入や、日本兵を利用した明への侵攻を具体的に論じた人物がいました。ただし、「スペイン政府やポルトガル政府が国家として一貫した日本征服計画を正式決定していた」とまでは断定できません。
1540年代、日本に鉄砲が伝わります。一般には1543年、種子島に漂着した船に乗っていたポルトガル人から鉄砲が伝えられたとされていますが、近年では当時の東アジア海域で活動していた倭寇や交易ネットワークを含め、より広い交流のなかで鉄砲伝来を捉える研究も進んでいます。
1549年には、ナバラ王国出身のイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しました。ザビエルはポルトガル王権の支援を受けて東方宣教に従事していましたが、ポルトガル人ではありません。一方、スペインはフィリピンのマニラを拠点として東アジアへ進出し、日本との交易や布教活動にも関わるようになります。

1494年のトルデシリャス条約、1529年のサラゴサ条約によって、スペインとポルトガルは世界各地での進出範囲を分けようとしました。以前の記事では「その境界線がちょうど日本列島を通っていた」としましたが、これは正確ではありません。重要なのは、日本を含む東アジアが両国の交易・布教・勢力拡大の視野に入っていたことです。
1580年にはスペイン王フェリペ2世がポルトガル王位も継承し、スペインとポルトガルは同じ君主を戴く同君連合となりました。
そして、この時代の宣教師たちが残した書簡を見ると、日本人の軍事力をどう見ていたのかがわかります。
1585年 イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョより フィリピン布教長アントニオ・セデーニョ宛て
「日本に早急に兵隊・弾薬・大砲、数隻のフラガータ船を派遣してほしい、キリスト教徒の大名を支援し、服従しようとしない敵に脅威を与えるためである。これで諸侯たちの改宗が進むだろう」
「日本66カ国すべてが改宗すれば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で怜悧(れいり)な兵隊を得て、いっそう容易に明国を征服することができるであろう」
1584年 イエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルより スペイン国王宛て
「明国を征服するために、日本に駐在しているイエズス会のバードレ(神父)たちは容易に2000~3000人の日本人キリスト教徒を送ることができる、彼らはうち続く戦争に従事しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、少しの給料で馳せ参じるだろう」
1588年 アウグスティノ会士フライ・フランシスコ・マンリーケより スペイン国王宛て
「もし陛下が戦争によって明国に攻め入り、そこを占領するつもりなら、陛下に味方するよう日本において王たちにはたらきかけるべきである、キリスト教徒の王は四人にすぎないが、10万以上の兵が赴くことができ、彼らが我が軍を指揮すれば明国を占領することは容易であろう」
「戦国日本と大航海時代」平川新著(中公新書)より「」内引用
こうした書簡からは、一部の宣教師が日本のキリシタン大名を軍事的に支援する構想を持ち、日本人兵士を明攻略へ利用できると考えていたことがわかります。
一方、日本巡察を終えたイエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノは1582年、日本人は勇敢で軍事訓練を積んでいるため、日本を武力で征服することは容易ではないと評価しています。
つまり、西欧側から見ても、日本は単に布教や交易を行うだけの弱小国ではありませんでした。
戦国日本は世界でどれほど強かったのか?
その2.16世紀末の日本は世界でどれほど強かったのか?

元の記事では「当時の日本は世界最大の軍事大国だった」としました。しかし、ここは少し修正する必要があります。
16世紀末には、スペイン帝国、オスマン帝国、明、ムガル帝国など巨大な軍事国家が存在しました。それぞれ海軍力、常備軍、砲兵、騎兵、人口、兵站能力など強みが異なるため、単純に「世界1位」と順位を決めることはできません。
しかし、能力別に見ていくと、日本が一部の分野では世界最高クラスの軍事力を持っていたことが見えてきます。
※このTierは学界の公式ランキングではなく、同時代の軍事能力を比較するための本記事独自の整理です。Sを最高評価としています。
総合軍事力で見れば、スペイン、オスマン、明、ムガルなど巨大帝国には、日本より優れた分野が多くあります。しかし、「一つの戦域へ巨大な軍勢を集中する能力」「火縄銃歩兵の大量運用」「短期間での突破力」といった分野では、豊臣日本は最高Tier級だったと考えてよいでしょう。
その3.鉄砲伝来から十数年で「鉄炮衆」が生まれた

元の記事では、日本がヨーロッパ全体より多くの鉄砲を所有していた可能性や、日本製鉄砲の性能がヨーロッパ製を大きく上回っていたとしました。しかし、日本全国の鉄砲総数を正確に比較できる史料はなく、「世界一の鉄砲所有国」と断定するのは避けた方が安全です。
それでも、日本の鉄砲史は十分に驚くべきものです。国立歴史民俗博物館によれば、鉄砲が伝来した後、炮術師が各地へ技術を広め、伝来から十数年ほどで戦国大名が「鉄炮衆」を組織し、鉄砲が主要兵器として定着していきました。
つまり、外国から珍しい新兵器が入ってきたと思ったら、十数年後には専門部隊が編成されるところまで進んでいたのです。日本では鉄砲の国産化も急速に進み、各地に生産拠点が形成されていきました。
元記事で紹介した龍造寺隆信軍とイングランド軍備調査の比較も、「日本には相当数の鉄砲兵がいた」ことを考える材料にはなります。しかし、時代・調査条件・軍の性格が異なるため、これだけで「日本全体がヨーロッパ全体より多く鉄砲を持っていた」と結論づけることはできません。
重要なのは鉄砲の総数ではなく、日本が新しい軍事技術を短期間で吸収し、国産化し、専門部隊を作り、実際の戦場で大量運用するところまで進んだことです。
その4.20万人を動かした秀吉―そして約16万人が海を渡った
日本の軍事力を具体的に示す数字があります。1590年の小田原征伐です。小田原市の解説では、後北条氏側がおよそ5万6千人を動員したのに対し、秀吉側は21万〜22万人規模の軍勢を関東へ動かしたとされています。
重要なのは、日本国内にそれだけ兵士がいたということではありません。
一つの政治目的、一つの戦域へ、20万人を超える軍勢を集中させることができた。
これが豊臣政権の軍事力です。
さらに、そのわずか2年後の1592年、秀吉は朝鮮半島への遠征を開始します。国立国会図書館が紹介する豊臣秀吉朱印状の資料解説では、約16万の兵力を九つの軍に編成して侵攻を開始したとされています。
20万人を国内で集めることと、十数万人を海の向こうへ送り込むことはまったく違います。船を用意し、食料、火薬、弾薬、武器、人員を継続的に送り続けなければなりません。豊臣政権は、それを実際に実行しました。
2026年にCambridge University Pressから公開された研究では、1592〜1598年の文禄・慶長の役は、16世紀後半の世界でも最大規模の武力紛争として位置づけられています。参加した戦闘員数で見れば、16世紀最大の戦争と評価されています。
文禄・慶長の役は、日本史の片隅にある海外出兵ではなく、当時の世界でも最大級の戦争だったのです。
その5.1590年前後の世界軍事Tier
では、豊臣日本を当時の主要国と並べると、どの程度の位置にいたのでしょうか。
※Tierは本記事独自の整理であり、実際に戦えば必ずこの順位になるという意味ではありません。
総合的な軍事システムで見れば、日本より上に置ける巨大帝国があります。スペインには世界各地へ兵士や物資を送り続ける海軍・植民地ネットワークがあり、オスマンには中央直属の常備軍、砲兵、騎兵があり、明には巨大な人口・国土・人的予備がありました。
しかし、一点への陸軍集中という能力で見れば、豊臣日本はS Tierに入ってきます。
ここで当然、一つの疑問が浮かびます。
そんなに強かった日本が、なぜ朝鮮・明への遠征では目的を達成できなかったのでしょうか?
なぜ最強クラスの日本は朝鮮遠征で失敗したのか?
その6.なぜTier上位の日本は朝鮮遠征で失敗したのか?

朝鮮遠征の失敗を、「日本軍が弱かったから」と説明するのは正確ではありません。1592年の緒戦では、日本軍は釜山へ上陸すると急速に北上し、漢城を占領し、さらに平壌方面まで進みました。日本軍の短期的な攻撃力は、実際に非常に高かったのです。
問題は、戦争そのものが日本軍の得意な形ではなくなっていったことでした。
豊臣日本の軍事力を武器にたとえるなら、巨大な重量で面全体を押し潰すハンマーというより、鋭い刀に近かったのかもしれません。一点に巨大な力を集中し、敵の中枢へ一気に切り込む。戦国100年のあいだ、日本はこの能力を徹底的に磨いてきました。
1592年の緒戦で、その切れ味は発揮されました。しかし、釜山から漢城、平壌、さらに遼東方面へ進もうとすれば、前へ進むほど日本から遠くなります。食料、火薬、弾薬、人員を運ぶ距離は伸び、港や街道、占領した城にも兵を残さなければなりません。16万人の軍隊がいたとしても、16万人全員を最前線に集中させ続けることはできないのです。
刃先は前へ進む。しかし刀身が長くなるほど、柄から力が伝わりにくくなる。
さらに明が本格参戦したことで、戦争は豊臣政権対朝鮮王朝から、豊臣政権対「朝鮮王朝+明帝国」という巨大戦争へ変わりました。
日本が瞬間火力の高い「高ATK型」なら、明は巨大な人口と国土を背景に戦争を長期化できる「高HP型」だったと考えるとわかりやすいでしょう。
もう一つ重要なのが指揮の問題です。秀吉自身は朝鮮へ渡らず、肥前名護屋から戦争を指揮しました。前線で状況が変われば、日本へ報告を送り、秀吉が判断し、その軍令が再び海を渡って朝鮮へ届きます。
中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』では、前線の諸大名の決定権が限定され、日本にいる秀吉から送られる軍令と、その「時差」が戦局へ与えた影響が分析されています。
刃先は朝鮮にある。しかし、柄を握る手は海の向こうにある。
これもまた、海外戦争を続けるうえで大きな弱点でした。
その7.秀吉は「世界征服」を目指していたのか?
秀吉が明への侵攻を構想していたこと自体は史料から確認できます。しかし、現在の感覚でいう「地球全体の世界征服」を目指していたと考えるのは行き過ぎでしょう。
秀吉は朝鮮、明、琉球、フィリピンなどを視野に入れた、大規模な対外膨張構想を持っていたとみられます。
そして、この発想そのものが当時の日本では異例でした。戦国大名が経験してきたのは、日本国内で敵軍を破り、城を落とし、大名を服属させ、領地を再配分する戦争です。海を越えて外国領土を占領し、異なる社会を長期間統治し、その支配を利益へ変換する「海外帝国経営」の経験はほとんどありませんでした。
秀吉は日本統一によって、戦争に勝つ方法を極限まで磨き上げました。
しかし、戦争に勝つことと、帝国を維持することは別の能力だったのです。
朝鮮・明への挑戦によって、日本はその違いに直面したともいえます。
日本の奴隷・キリスト教政策は西洋と何が違ったのか
その8.日本に奴隷なんていなかった……と思っていませんか?
ここで、西欧との違いを考えるうえでもう一つ重要な問題があります。日本には厳しい身分差別がありました。しかし、「差別はあっても、日本に奴隷や人身売買なんてなかった」と思っている人もいるかもしれません。
実は、バリバリありました。
戦国時代の日本では、人身売買、身売り、戦争で人を捕らえる「人取り」、拉致などが行われていました。日本人同士の売買だけでなく、戦乱や倭寇活動などを通じ、中国人・朝鮮人が拉致・売買された事例も研究されています。ポルトガル商人の来航以降、日本人が海外へ売られる事例も発生しました。
つまり、日本社会も決して奴隷や人身売買と無縁ではありません。
ただし、ここからが重要です。
日本の人身売買と、その後の大西洋世界で形成された奴隷制度は同じものではありません。大西洋世界では、特定の出自・人種と奴隷身分が強く結び付き、その子孫まで奴隷身分とされる制度が形成され、大規模なプランテーション、鉱山、植民地貿易の仕組みに組み込まれていきました。
日本にも人身売買はありました。しかし、日本の中世・戦国期に存在した人身売買や隷属関係は、こうした大西洋奴隷制とは規模も制度も構造も異なります。
その9.秀吉は人身売買を「停止」しようとした
1587年7月23日(天正15年6月18日)付の11か条の「覚」には、日本人を海外へ売ることを禁じる内容とともに、次の一文があります。
「日本ニおゐて人の売買停止」
つまり、「外国人に日本人を奴隷として売るな」というだけではありません。
日本国内で行われていた人身売買そのものも停止せよ、と記されているのです。
もちろん、これを現代的人権思想と同じものとして評価するべきではありません。秀吉自身も身分制社会の支配者であり、この命令によって日本から差別や隷属的な関係が消えたわけでもありません。
しかし、日本にも人身売買が存在したうえで、秀吉政権がそれを拡大するのではなく停止する方向へ動いたことは重要です。
その10.バテレン追放令と人身売買禁止は別の史料

ここは混同されやすいため、注意が必要です。人身売買停止が記された11か条の「覚」は1587年7月23日(天正15年6月18日)付。一般に「バテレン追放令」と呼ばれる5か条の命令は、その翌日の7月24日(旧暦6月19日)です。
秀吉は宣教師に国外退去を求めましたが、南蛮貿易そのものまで全面禁止したわけではありません。
宗教・外国勢力の政治的影響は制限する。しかし貿易は利用する。
という切り分けが見えます。
元の記事では「キリスト教の布教そのものが日本侵略の第一歩だった」と強く書きましたが、ここは少し慎重にする必要があります。宣教、交易、軍事構想が結びついた事例は確かにありました。しかし、すべての宣教師による布教活動を、そのままスペイン国家の侵略工作と同一視することはできません。
その一方で、秀吉がキリスト教の急速な拡大を政治問題・外交問題として警戒していたことや、日本人の海外売買を問題視していたことは重要です。
その11.スペインの王、我が言を軽視すべからず!
元の記事で紹介した、秀吉とスペイン領フィリピンの関係も残しておきたい重要な部分です。
1590年代、秀吉はスペイン支配下のルソンに対して服属を求める強硬な書簡を送っています。1592年にはフィリピン総督に対し、服従が遅れるのであれば軍事行動もあり得るという趣旨の書簡を送りました。
平川新氏が紹介する1593年の書簡では、秀吉はさらにスペイン国王に自らの意向を伝えるよう求めています。
「スペインの王、遠方にあるといえども予が言を軽視すべからず」
当時のスペインは世界的な大国です。秀吉がその存在をまったく知らなかったわけではありません。それでも秀吉は、スペイン支配下のフィリピンに対して対等どころか、上位に立つような強い姿勢を示していました。
これをもって「日本の軍事力はスペイン全体より上だった」と断定することはできません。スペインには大西洋、地中海、アメリカ、フィリピンなど複数の戦域に軍事力を展開する能力があり、日本とは強さの種類が違います。
しかし、マニラ側が日本からの軍事行動を現実的な危険として警戒し、防衛体制の強化を検討していたことは重要です。
日本はスペインを征服できる世界帝国ではありませんでした。しかしスペイン側から見ても、豊臣政権は無視できる小国ではなかったのです。
1598年、秀吉が死去すると、日本軍は朝鮮半島から撤退します。朝鮮・明への侵攻という秀吉の大構想は最終的に実現しませんでした。
ただし、これは単純に「日本軍が弱かった」という話ではありません。日本軍の強みと、日本という国家が海外で長期的な帝国を経営する能力との間に、大きな差があったのです。
結局、日本はなぜ植民地化されなかったのか?
その12.日本が植民地化されなかった理由は「軍事力だけ」ではない
ここまで見てくると、日本が植民地化されなかった理由を一つに絞ることはできません。
つまり、日本が植民地化されなかった理由は「軍事力が世界一だったから」でも、「島国だから」でも、「鎖国したから」でもありません。これらの条件が重なった結果です。
しかし、そのなかでも忘れてはいけないのが、16世紀末までに日本そのものが、欧州勢力が少数の遠征兵で容易に征服できる国ではなくなっていたことです。
1590年には20万人を超える軍勢を一つの戦域へ集中させ、1592年には約16万人を海の向こうへ送り込む。各地には戦国時代を生き抜いた大名、武将、兵士が存在し、城があり、鉄砲があり、それらを全国政権がまとめ上げていました。
これを外国から征服するのであれば、海を渡って兵士、大砲、火薬、食料を送り続け、多数の城を落とし、各地の軍勢を破り、その後も占領軍を維持し続けなければなりません。
16世紀末までに、日本は「征服するにはあまりにもコストの高い国」になっていたのです。
その13.徳川政権は外国との関係を「断った」のではなく「管理した」
秀吉の死後、徳川政権は対外関係をさらに強く統制していきます。1612年には幕府直轄領で禁教政策が進められ、1614年には全国へ拡大しました。1624年にはスペイン船の来航を禁止し、1639年にはポルトガル船の来航も禁止します。
一方、キリスト教布教を行わないことを受け入れたオランダとの交易は、長崎を中心に幕府の管理下で継続されました。
これを単純な「外国嫌い」「鎖国」とだけ見ると、本質を見失います。
外国との関係を断ったというより、外国との関係を幕府が管理できる形へ作り替えていった。
という方が実態に近いでしょう。
諸大名が外国勢力と独自に結び付く余地を狭め、貿易・外交・宗教を中央政権の管理下へ置く。これもまた、外国勢力が日本国内へ政治的な影響力を広げにくくした要因の一つです。
元の記事では、「日本が鎖国できたのは圧倒的な軍事力があったから」と強く書きました。しかし、ここも軍事力だけで説明するのは十分ではありません。軍事力、統一政権の成立、国内政治の安定、外国貿易の管理、キリスト教政策、そして外国側の事情が複合的に働いています。
その14.日本は鉄砲を「捨てた」のか?
元の記事では、江戸時代の日本が鉄砲を捨て、刀剣の時代へ戻ったとしました。しかし、この表現も修正が必要です。
江戸時代にも火縄銃は製造・保有され、各藩にも鉄砲隊や砲術は残っています。日本が鉄砲という技術そのものを捨てたわけではありません。
ただし、戦国時代のように大名同士が大量の鉄砲を実戦投入し続ける必要がなくなり、軍事技術を急速に進化させる圧力が低下したことは重要です。
西欧では17〜19世紀にかけて国家間戦争が続き、銃器、砲兵、軍艦などの軍事技術が猛烈な速度で進化していきます。一方、日本では大規模な国内戦争が長期間起きませんでした。
日本は鉄砲を捨てたのではなく、軍事技術を急速に進化させ続ける必要が小さくなった。
と考える方が正確でしょう。
その15.そして開国へ
徳川時代、日本は200年以上にわたって国内の大規模戦争を避けることに成功しました。しかし、その間にも欧米諸国では国家間戦争と軍事技術の競争が続いています。帆船から蒸気船へ、火縄銃からより新しい銃器へ、大砲も軍事組織も進化していきました。
1853年、ペリー率いるアメリカ艦隊が来航したとき、日本と欧米列強の軍事技術には大きな差が生まれていました。
それでも日本は、その後驚くほど短期間のうちに近代国家・近代軍隊を形成していきます。この急速な近代化を「それまで日本が何も持っていなかったのに、突然西欧文明を取り入れて成功した」と理解するのも正確ではありません。
江戸時代には全国的な商業網、交通網、教育の広がり、都市経済、職人技術など、近代化を受け入れる社会的な基盤がすでに形成されていました。
日本は世界を支配するノウハウを持っていませんでした。秀吉はその軍事力を初めて大陸へ向けましたが、そこで「戦争に勝つ能力」と「帝国を維持する能力」はまったく別物であることが露呈しました。
しかし、その逆もまた事実です。
日本は世界を簡単に征服できるほど万能ではなかった。しかし、外国から簡単に支配されるほど弱くもなかった。
戦国100年が、日本を一本の恐ろしく鋭い刀へと鍛え上げました。その刀は海を越え、朝鮮半島を深く切り進みました。しかし、その刃をどこまでも伸ばし続けることはできませんでした。
戦う国家にはなっていた。だが、世界帝国を維持する国家にはまだなっていなかった。
そして、その鋭い刀を持つ国を海の向こうから征服し、長期間支配することもまた、決して容易ではなかったのです。
これこそが、16世紀末から17世紀初頭の日本が、西欧列強の植民地になることを免れた理由を考えるうえで重要な視点です。
主な参考資料・出典
・平川新『戦国日本と大航海時代―秀吉・家康・政宗の外交戦略』中央公論新社
・中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館
・国立歴史民俗博物館「歴史のなかの鉄炮伝来」
・小田原市「後北条氏と小田原合戦」
・国立国会図書館「豊臣秀吉朱印状」関連資料
・Joshua Batts & Barend Noordam, “Legacies of the Imjin War (1592–1598) in and beyond East Asia”
・渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社
・神田千里「伴天連追放令に関する一考察―ルイス・フロイス文書を中心に―」東洋大学
・外務省外交史料館「日本とスペイン―外交史料に見る交流史」
















面白いお伽話でした。とても飽きる事なく読めました。引用した資料がごく僅かのが気にはなった程度です。
鉄砲を禁止し、刀に変えた鎖国時代、
庶民の識字率で分かる教育レベルの高さ、
ブランディ酒「エンペラドール」の意味が、江戸幕府将軍の「皇帝」・・・など、
とても面白く拝読させていただきました。
残念ながら今、コロナ禍でフィリピンに行けません。
しかし、来年は必ず行きます。
機会があれば、直接に山本さんとお会いして、いろいろお話を伺えれば幸いです。
歴史についてあまり詳しくない者ですが、とても面白く読ませていただきました。
日本の戦国時代の軍事力の高さや鎖国に至る経緯など、驚きながらも少年漫画を読んでいるかのような熱い気持ちになりながら読みすすめていました。秀吉…かっこいい…!
この記事を書いてくださりありがとうございます。続きもたくさん読んでみます。
いろいろな文献なども参考にして自分で調べるなどもしてみたいです。