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    #22 全満州制覇までの経過と満州国の建国

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    第1部 3章 満州事変(2/5)満州は中国なのか?満州事変までのいきさつ

    4.満州事変はなぜ起きたのか

    4-4.全満州制覇までの経過

    その1.政府による不拡大策

    柳条湖事件の翌日朝までに関東軍は奉天を占領しました。このときの関東軍の総兵力は1万4千人、対する張学良軍は20万人を超える大勢力です。関東軍は参謀本部に対して増援を要請しました。

    満州事変

    図説 写真で見る満州全史』平塚柾緒著(河出書房新社) より引用
    奉天を占領した日本軍

    すでに朝鮮軍司令官から第39旅団を出動させたとの報告がもたらされていましたが、政府は増援を拒否し、朝鮮軍には待機を命じました。

    午前10時から開かれた緊急閣議にて、「政府としては断固たる不拡大策をとり、戦いを収拾させるべき」と方針が定まったためです。その決定には、外務省が得た情報として柳条湖事件は関東軍の謀略の疑いが強いとの、幣原外相の言が大きく影響しています。

    ちょうどその頃、吉林の駐留邦人会から出兵の要請が関東軍に届きます。敵軍が吉林を襲う不穏な動きがあるとして、石原と板垣は本庄関東軍司令官に出兵を迫りました。

    満州事変

    wikipedia:本庄繁 より引用
    本庄繁(ほんじょう しげる)

    明治-昭和時代前期の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。日露戦争に出征して戦傷を負う。参謀本部員として中国関係を担当。中国通として日本軍のシベリア・満州・華北方面への進出と作戦の指導にあたった。関東軍司令官となり、満州事変で指揮をとる。その後、軍事参議官を経て侍従武官長となる。二・二六事件後の粛軍人事で予備役に編入された。敗戦後に自決。

    実は政府が増援部隊の派遣を渋るであろうことは、石原はすでに計画に織り込み済みでした。そのときは吉林の邦人会から出兵要請が届くように、予め工作しておいたのです。

    本庄司令官は柳条湖事件をはじめ、すべてが石原らの謀略であることに薄々気づいていたものの、大きな決断を迫られることになりました。

    ちなみに柳条湖事件は、関東軍が組織だって起こした謀略ではありません。石原と板垣を中心に少数の士官だけで始めた計画です。本庄関東軍司令官でさえ、謀略については知らなかったとされています。

    これまでの関東軍の行動は満鉄附属地内に限定されており、関東軍の管轄内に留まっていました。しかし、吉林は関東軍の管轄外であり、出兵のためには本来であれば天皇の許可が必要です。政府の「不拡大」の方針にも逆らうことになります。

    されどもし、本当に吉林に張学良軍が押し寄せた場合、多くの日本人居留民の命が失われることになります。悩み抜いた末に本庄司令官は20日の深夜、ついに出兵を認めました。

    その2.吉林への戦線拡大

    吉林派兵の打電は待機していた朝鮮軍司令官にも為され、朝鮮軍はついに越境しました。朝鮮軍の越境にも天皇の許可が必要でしたが、それを待たずに勝手に行動を起こしたことは統帥権(軍隊を指揮する権限)の侵害に当たります。

    相当な覚悟を決めて吉林派兵を決断した本庄司令官ですが、政府からは激励の電報が届いたのみで、意外にも派兵に反対する声はまったくありませんでした。

    「不拡大」を支持していたはずの幣原外相も反対の意を示していません。後世から振り返ったとき、歴史家の多くはこのときの閣僚が関東軍を止めなかったことを批判しています。関東軍の暴走を止める最大の機会であったことは間違いないでしょう。

    では、なぜ閣僚達は反対しなかったのか、その理由について田原総一朗著『日本の戦争』には、次のように記されています。

    「昭和維新」の章で紹介したように、秦郁彦(日本大学教授)は「昭和の政治家たちは、結局、軍のテロの恐怖に脅かされながら国の舵取りをせざるを得なかった」と書いている。三一年(昭和六)、満州事変の起きた年には、三月事件、一〇月事件と、軍による二つのクーデター未遂事件が起きた。幣原や若槻たちは、「(軍が)やってしまったこと(出動)まで否定すると、クーデターを喚(よ)び起こすのではないか」と恐れて「既成事実は認め」、しかし不拡大政策は固守するという方針にしたのではないだろうか。

    田原総一朗著『日本の戦争』(小学館)より引用

    実際のところ後年、五・一五事件、二・二六事件が起きています。軍部によるテロの脅威は、閣僚の言動に多大な影響を与えていたようです。

    それでも幣原外相はあくまで自衛の範囲に関東軍の行動を抑えるべく、現状維持を再三念押ししています。

    しかし、すでに暴走をはじめた石原たちは、政府の意向に従う気などありませんでした。石原の真の目的は、満州全土の領有にありました。そのために柳条湖事件を起こしたのです。このまま矛を収めたのでは、満州事変を起こした意味がありません。

    その3.綿州爆撃がもたらしたもの

    満州事変

    日本蛮族論より引用
    満州国の主要地図

    石原は次の目標を綿州に据えました。万里の長城近くに位置する錦州には、奉天を追われた張学良が錦州政権を設立させ、関東軍に対抗する構えを見せていたからです。

    幣原外相は満州事変は自衛のための戦いであると欧米列強に釈明し、このときまでは一定の理解を得ていました。これで満州事変もようやく収まるかと思われた矢先、国際社会に激震が走ります。

    満州事変

    満州航空の全貌: 1932~1945大陸を翔けた双貌の翼』前間孝則著(草思社) より引用
    綿州爆撃を敢行した石原莞爾

    10月8日、石原は11機の関東軍飛行隊を指揮し、綿州を突然爆撃したのです。もっとも「爆撃」といっても、実際にはどの飛行機にも爆弾投下装置はなく、窓を開けて爆弾を窓から放り投げただけのことです。不発弾も多く、敵にはまったく被害を及ぼしていません。

    石原は初めから軍事的な効果など狙っていません。爆撃の後、石原は「オレの爆撃の標的は張学良なんかではない。吹っ飛ばしたかったのは政府の不拡大方針と国際連盟理事会だ」と語っています。

    石原の狙いは大成功でした。自衛のための戦いという日本の弁明に理解を示していた英米は、関東軍が綿州を爆撃したことで態度を一変させたのです。

    関東軍の守備範囲から100キロも離れた綿州の爆撃は、誰から見ても自衛の範囲を大きく逸脱しています。たとえそれが「爆撃」とはとても呼べないような幼稚な攻撃であったとしても、爆撃を行ったという既成事実は大きな意味をもちました。

    10月15日、アメリカがオブザーバーとして加わった国際連盟にて、日本に直ちに撤兵を開始するように求める決議案が出され、日本以外の22カ国が賛成しました。全会一致が必要なため成立はしなかったものの、連盟は満州事変を自衛のための戦いではなく、侵略であると裁定したことになります。

    欧米列強と協調することで無難に危機を乗り切ろうとしていた日本政府にとって、このことは大きな痛手でした。政府としても態度をはっきりさせる必要に迫られたのです。これこそが石原の狙いでした。

    即ち、石原をはじめとする関東軍の上層部を厳罰に処し、国際連盟の裁定に従って撤兵するかどうかです。石原の綿州爆撃は柳条湖事件と同じく、関東軍司令官にも断わりなく断行されています。これは天皇大権の侵害であり、本来であれば極刑を言い渡されてもおかしくありません。

    政府は決断を迫られましたが、結局のところ石原たちを罰することはできませんでした。その理由については、再び『日本の戦争』より引用します。

    石原たち関東軍の指導部は、もしも政府が全面撤退の方針を出せば、日本国籍を離脱してでも目的達成のために戦う、と申し合わせ、日本内地に向けても広言していた。

    さらに、政府にとって決定的打撃を与えたのは、錦州爆撃の直後に、橋本欣五郎たちのクーデター(10月事件)計画が露呈したことだ。高橋正衛(昭和史研究家)は『昭和の軍閥』の中で、軍首脳部は、満州の戦線縮小に大反対で、政府を威嚇(いかく)するために、あえてこのタイミングで、クーデター計画を露呈させたのだと書いている。もしも、政府が不拡大政策に固執したら、クーデターで主要閣僚たちを殺し、政府をぶち壊す。いつでもそれが出来るぞ、と示したのだ。この桐喝は効いた。

    日本の戦争』田原総一朗著(小学館)より引用

    満州事変

    wikipedia:橋本欣五郎 より引用
    橋本欣五郎(はしもと きんごろう) 1890(明治23)年 – 1957(昭和32)年

    大正-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍大佐。陸軍中堅将校を中心に桜会を結成、国家改造・軍部独裁政権の樹立を目指して三月事件・十月事件とクーデターを企てるも失敗。ファシスト運動を推進する大日本青年党を結成。日中戦争では砲兵連隊長として応召され、イギリス砲艦レディーバード号砲撃事件を起こした。戦後はA級戦犯として終身禁錮刑に処せられたが、のちに仮出所。

    またもクーデターを恐れたとの論ですが、満州事変前まで幣原外相が軍部を押さえつけていた態度と比べれば明らかに変節が認められることはたしかです。

    政府は石原の暴走を追認しました。10月24日、幣原外相は満州における国民的生存に関する権益は絶対に手放さないと言明し、撤退の意思はないことを内外に向けて告知しました。

    これにより、政府が満州事変にあたり「不拡大」と定めた枷は、もろくも取り払われることになりました。すべての事態は石原の読み通りに展開したのです。一見、無謀と思えることでも緻密に計画して実行し、思い描いたままに現実を変える力を石原はもっていたと言えるでしょう。陸軍きっての天才と呼ばれた由縁です。

    その4.石原はなにを構想していたのか

    満州事変

    図説 写真で見る満州全史』平塚柾緒著(河出書房新社) より引用
    綿州陥落直前、山海関の万里の長城で万歳三唱をする日本軍

    その後、関東軍は綿州を占領し、柳条湖事件からわずか4カ月で全満州を制覇しました。石原が狙った通り、満州から張学良軍を完全に追い出し、満州を中国から切り離すことに成功したのです。

    満州事変を振り返るとき、石原莞爾という一人の若き軍人の描いたシナリオが、その後の日本の運命を大きく変えたことがわかります。それは日本政府も、関東軍や日本陸軍の上層部さえも手玉に取るかのような暴走でした。

    しかし、それまで弱腰外交を続けていた日本が満州の特殊権益を守るために、ついに武力行使に出たことを、日本国民は諸手を挙げて歓迎しました。満州は昭和恐慌から抜け出すための希望の光でした。満州によって、生きていくのがやっとの貧苦のどん底から救われることを、日本国民の大多数は願ったのです。

    満州事変

    図説 写真で見る満州全史』平塚柾緒著(河出書房新社) より引用

    奉天駅で長春方面に出動する日本軍を激励し見送る在留邦人たち。日本人の大半は満州事変を戦う関東軍を支持した。

    そうした切実な日本国民の思いと石原の思いは、けして一致していたわけではありません。石原が満州事変を起こしたのは、帝国自存のために満蒙に完全なる政治的権力を確立することにありました。

    その考え自体は、石原が特別だったわけではありません。日露戦争が起きた頃と、そっくり同じ危機感が軍人の間には広がっていました。

    建国後の混乱で今はさほど動きのないソ連ですが、力を溜めた後に満州に侵攻してくることは目に見えています。内戦を繰り返す中国には、満州を守るだけの力がありません。そうなると満州はソ連の手に落ち、共産化され、日本経済にとっても国防上にとっても、重大な危機を迎えることになります。

    満州が落ちれば朝鮮を守ることも難しく、やがては日本本土の防衛さえできなくなることは、日露戦争開戦前夜とさして事情は変わりません。

    ソ連の南下を防ぐには満州を日本が支配し、軍を駐留させるのがもっとも良いと、多くの軍人が考えていました。

    さらに石原の頭のなかには、日本の行く末が思い描かれていました。石原はいずれ「西洋の代表であるアメリカと東洋の代表である日本が世界最終戦争で雌雄を決することになる」と確信していました。

    日本が東洋の代表になるためには、まずソ連との戦争に勝たなければならず、そのためには満蒙はなくてはならない戦略拠点なのだと、石原は構想していたのです。

    満州を日本で領有するという石原の思いを支えたもう一つの理由は、そのことが満州に暮らす人々にとって良いことだと、純粋に信じていたことです。

    石原は、辛亥革命後に混乱の続く中国を見て、中国人には近代国家を造る能力がないと判断していました。だからこそ、満蒙に暮らす3千万人のためにも、日本が治安を維持することで漢民族の自主的発展を助けることが日本の使命であり、漢民族にとっての幸せなのだと確信していたのです。

    石原の残した手記などをたどると、それが中国人向けのパフオーマンスではなく、心の底から沸き上がる信念であったように見受けられます。

    いずれにせよ石原は力尽くで満州を中国から切り離しました。それにより石原は、日本国民から英雄として絶大な支持を受けたのです。

    4-5.満州事変に対する国際社会の反応

    その1.日本に対する好意的な反応

    柳条湖事件が起きた直後の9月21日には、中国は早くも国際連盟に提訴しています。

    今日では満州事変は、日本の中国に対する侵略行為と国際的には評価されていますが、当時は一概にそうとも言えない状況でした。

    たとえば、11月21日付けのフランスの新聞『ル・タンプ』は、次のように報じています。

    「文明国にして、戦争の際のわれわれの忠実な同盟国である日本は、世界の東方にあって、野蛮な無政府主義に対して社会的秩序と平和を象徴し、守っている唯一の国である。

    またボルシェヴイズムの血なまぐさい波の行く手をさえぎる力を持っている唯一の国である。その日本は、われわれフランス人にとって、われわれのインドシナを守る城壁の一つとなっている」

    満州事変とは何だったのか』クリストファー・ソーン著(草思社)より引用

    「ボルシェヴイズム」とはロシアの共産主義者のことです。1917(大正6)年のロシア革命を経た後、1922(大正11)年にはソビエト社会主義共和国連邦が建国されました。世界初の社会主義国家の誕生です。

    それ以来、資本主義諸国にとってソ連の共産主義は大きな脅威となりました。共産主義が自分たちの国に飛び火することを、どの国も恐れたのです。

    そのソ連を満州で押しとどめる役割を日本は果たしていました。アジアに植民地を有する西欧列強にとって、ソ連の侵略を抑えることは重大な関心事でした。日本の軍事行動が多少度を超えたところで、彼らの有する中国の権益が侵されないのであれば国益には響きません。

    満州事変を積極的に支持することはできないものの、日本がロシアの防波堤となってくれるのであれば、西欧列強にとっては目くじらを立てるほどのことでもなかったのです。

    イギリスの新聞『タイムズ』も、日本軍のとった方法は遺憾(いかん)であるとしながらも、満州に「中国の悪の荒野の中で豊かなオアシスを作った」日本には、当然苦情を申し立てる権利があると記しています。

    イギリスの駐日大使、サー・フランシス・リンドレーは次のように述べています。

    「ウィルソンの民族自決主義や国際連盟の誕生は、新興の国家のみならず、中国やペルシャのような遅れた国々にも、思いのままふるまっても一九一四年以前のような結果を招くことはないという考えを抱かせるようになった。つまり世界は、決闘は違法だとされたものの、国民はまだそれに代わる適当な方法を学んでいない国のような状態にあるのである。日本人はいかに高圧的だとはいえ、少なくとも中国に対して、そのような身勝手なふるまいは依然不愉快な結果をもたらすものだ、ということを教えてやったのだ」

    満州事変とは何だったのか』クリストファー・ソーン著(草思社)より引用

    また、上記の書籍によるとリンドレーが「中国人は大部分が結局は条約上の権利に基づいている日本の立場をたえず弱めようとしてきた」、「満州における日本の行動は、中国におけるイギリスの権益にきっと有利な作用をおよぼすことだろう」と言い残したことも記されています。

    その2.孤立したスティムソン・ドクトリン

    アメリカの世論にしても「日本の侵略だ」と批判一色で塗りつぶされたわけではありません。日本が中国で直面している問題や人口問題、経済問題について同情する記事も書かれていました。

    アメリカの著名なジャーナリストであるウォルター・リップマンは「ここには『侵略者』『非侵略者』といわれるようなものは存在しない」、「もし侵略者があるとしても、それは、それぞれの状況に押されて満州に進出しつつある中国と日本の両国である」と書き、米国内の世論を変えようとしています。

    満州事変

    wikipedia:ウォルター・リップマン より引用
    ウォルター・リップマン 1889年 – 1974年

    アメリカのジャーナリスト。第一次世界大戦時にウィルソン大統領のブレーンを務める。その後、政界を離れ『ニューヨーク・ワールド』紙に入り、洞察に優れた明晰な論説で健筆をふるい名をあげる。同紙の主筆を務め、ピュリッツァー賞を2度受賞。著書『世論』は、現代におけるメディアの意義を説いた本として、ジャーナリズム論の古典として知られる。

    その一方で、日本の脅威を荒唐無稽に膨らませる傾向は、このときも続いていました。

    「われわれの防備が手薄であれば……日本はためらうことなく襲いかかってくるだろう」、「1921年以来、日本の貪欲な目はマグダレナ湾とカリフォルニア半島に注がれている」など、アメリカの領土が日本に狙われているとする論は相変わらず繰り返されています。

    日本に対する好意的な風向きがはっきり変わったのは、日本軍が綿州を制圧し、全満州を制覇したときです。

    錦州陥落に最も早く反応したのは、アメリカでした。1932(昭和7)年1月7日、「アメリカはワシントン九カ国条約を侵害し、不戦条約に違反したすべての行為・協定を承認しない」と宣言し、対日通牒としました。いわゆるスティムソン・ドクトリンです。

    満州事変

    『朝日新聞に見る日本の歩み』朝日新聞社 より引用
    記事は上海事件の直後に出されたもの

    不戦条約とは、1928(昭和3)年にパリで結ばれた国際条約のことです。戦争放棄をうたった条約であり、日本も署名しています。ただし、不戦条約は自衛権行使による戦争を認めています。また、どこまでが自衛でどこまでが侵略なのかは当事国が決めてよいとしています。侵略に対する制裁についても一切記されていません。

    つまり、条約ではあるものの、ほぼ無意味な空文です。しかし、東京裁判ではスティムソン・ドクトリンのままに、ワシントン九カ国条約と不戦条約に違反したとして日本は裁かれることになりました。

    しかし、それは戦後の話です。スティムソン・ドクトリンが出た時点では、西欧列強はアメリカに追随する姿勢を見せてはいません。

    イギリスはスティムソンの期待を裏切り、アメリカと同様の通牒を日本に発するつもりはないと、言明しています。ドイツも、これに同調しました。

    日本の度を超えた軍事行動を苦々しく感じながらも、自国が中国に有する権益を守るためには日本を徹底的に叩くわけにもいかないという事情を、列強は抱えていました。

    なぜなら、明日は我が身だからです。中国は革命外交の名の下に、列強が中国に有する権益を力尽くで奪おうと動いていました。そのときは列強も軍事力で抗することになるだけに、下手に日本を叩くといずれは自分の首を絞めることになりかねません。

    それゆえに、どの国も日本に対して積極的に制裁を加えようとはしなかったのです。

    4-6.満州国の建国

    その1.に沸き立つ独立を求める声

    満州事変

    Pin by que razaly on Malay 60’s art より引用
    満州国建国の理念となった五族協和を表した絵画と記念切手

    国際連盟に日本の全面撤退を求める提案がなされたものの、日本の反対によって無効となったことは先に紹介しました。日本は国際連盟の常任理事国でした。日本が撤退勧告に従わない以上、国際連盟ではどうにもできません。

    事態の解決を図るために日本は、中立的な調査団の現地派遣を提案しました。この提案は12月10日に連盟の理事会で採択され、5名の委員からなる調査団が極東に派遣されることになりました。リットン調査団です。

    中立的な調査団といっても列強から派遣されることは決まり切っているため、日本にとって不利な報告書が為されるはずがないという読みが、日本政府にはありました。中国における権益を維持することにおいて、日本と列強の利害は一致していたからです。

    リットン調査団には報告書提出のための期間として、連盟規約により6カ月の猶予(ゆうよ)が与えられました。

    このことは、最低でも6ヶ月間は関東軍による満州駐留が認められることを意味します。関東軍はこの期間を利用して、既成事実を作ることに専念しました。

    このまま関東軍が全満州の占領を続けるとなると、さすがに列強の反発を招くことは避けられそうにありません。関東軍が撤退したあと満州をどうすべきかを巡り、日本政府と軍中央、そして現地の関東軍の思惑には、大きなズレがありました。

    日本政府と軍中央は当初、これまで通り満州における中国の主権は残したまま、張学良ではなく誰か他の軍閥に満州を統治させることで、日本の権益を守ろうと考えていました。

    それに対して関東軍は危機感を募らせます。石原たちが満州事変を起こしたのは、満州全土を領有するためです。軍閥の頭をすり替えただけで以前の状態に戻るのであれは、決起した意味がありません。

    そこで石原たちは満州を国家として独立させる決意を固めます。それは予め石原が思い描いていた計画にはない考えでしたが、他に方策がない以上やむなしと判断し、満州国の樹立へと舵を切りました。

    ただし、満州国の建国が関東軍の謀略のみで為されたわけではありません。柳条湖事件からわずか数日後には、満州各地で現地住民による独立宣言が為されています。たとえば9月24日に遼寧(りょうねい)省地方維持委員会による独立宣言は次のように為されました。

    「わが東北民衆は、軍閥の暴政下にあること十数年、いまやこれらの悪勢力を一蹴すべき千載一遇の機会に到達した。……新独立政権の建設を計らざるを得ざるに至った。これがために、本会は張学良と関係ある錦州政府ならびに軍閥の禍首蒋介石らの声明議動を否定することを決議した……」

    満州国は日本の植民地ではなかった』黃文雄著(ワック)より引用

    さらに26日には吉林省、29日には熱河省、10月1日には挑南で、それぞれ独立宣言が為されています。

    戦後の東京裁判においても、日本がこれらの独立宣言に関与したことは否定されています。独立の意思は満州に在住する中国人の間で自発的に起こったものといえるでしょう。

    その背景には、張作霖から張学良へと受け継がれた軍閥への反発があります。張作霖は北京に出ては度々戦争を行っていたため、莫大な軍事費を要しました。その財源に充てられたのは税金です。もっとも通常の税金だけでは足りないため、張作霖父子は満州に暮らす人々に対して5年先までの税金を先取りしていたのです。

    加えて満州では通貨の統一さえできていませんでした。満州の各省ごとに軍閥や支配者が勝手に紙幣を発行しましたが、その紙幣を他の省で使うことはできなかったのです。軍事費が足りないために紙幣は乱発され、激しいインフラに襲われました。

    張父子の軍閥による悪政と重税に喘いだ満州の住民たちは、張学良軍が満州から追い払われたことを喜び、この機会を利用して独立を宣言したのです。

    その2.ラストエンペラー溥儀の擁立

    満州事変

    HuffPost News より引用
    1932年3月、満州国の執政に就任した溥儀(中央)。溥儀は多くの中国人の歓喜の声に迎えられた。

    関東軍にとって満州の住民が独立を希望していることは好都合でした。あとは満州国の建国が国際的に認められるための、一工夫が必要です。

    関東軍が目を付けたのは清朝のラストエンペラー簿儀でした。辛亥革命が起きたために溥儀は皇帝の座を退くよりありませんでしたが、退位の条件として、そのまま紫禁城で暮らすことが保証されていました。

    満州事変

    wikipedia:愛新覚羅溥儀 より引用
    愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ) 1906年 – 1967年

    3歳にならずして第12代皇帝に即位、宣統帝と称した。辛亥革命で退位したことにより、清朝最後の皇帝となる。クーデターによって紫禁城を追われ、天津の日本租界に閑居。満州事変が起ると日本軍特務機関に誘い出されて満州に移り、32年執政、34年満州国皇帝となった。日本の敗戦に際しソ連軍に逮捕され、戦犯として中国側に引渡された後、特赦となる。釈放後は一市民として余生を送った。

    ところが1924(大正13)年に国民党政府内でクーデターが起きたことをきっかけに、溥儀は紫禁城から追い出されます。そのとき、溥儀が逃げ込んだのが日本公使館でした。

    もっとも日本政府が溥儀を招待したわけではありません。日本公使館がもっとも安全だと聞いた溥儀が自ら、日本に救済を求めたのです。

    日本政府にとって、溥儀をかくまったことは頭痛の種でした。当時は中国との協調を重んじていたため、溥儀に対して「日本を訪問するとか、満洲の日本租借地に行くようなことは絶対に困る」と告げていたほどです。

    関東軍は溥儀と接触すると密かに満州に招き入れ、溥儀を皇帝とする満州国の建国を計りました。

    東京裁判にて溥儀は、「満洲国建国の意思は自分になく、日本軍に命じられて否応なく皇帝になったのだ」と証言していますが、これは明らかな嘘と考えられています。敗戦後に溥儀はソ連に囚われていたからです。

    溥儀が清朝発祥の地である満州に帰ることを決めたのは、1928(昭和3)年に清朝の歴代の皇帝が眠る墳墓に埋められた財宝を狙い、国民政府の兵によってダイナマイトで爆破された事件が起きてからと言われています。先祖の遺体をばらばらに吹き飛ばされた屈辱は、溥儀にとって耐えがたいものでした。

    満州族の地に正統の皇帝である溥儀が即位することは、満州の人々にとって異存があるはずもなく、諸手を挙げて歓迎されました。

    関東軍が動くまでもなく、清朝の廃帝である溥儀を再び皇帝にしようとする満州民族の運動はすでにありました。これを「復辟(ふくへき)運動」と呼びます。

    こうして1932(昭和7)年3月1日、溥儀を執政とする満州国の建国が宣言されたのです。

    満州事変

    図説 写真で見る満州全史』平塚柾緒著(河出書房新社) より引用
    建国宣言が行われた順天広場の郊祭儀上までの沿道は、溥儀を迎える人々で埋め尽くされた。日満国旗を振る子供たち。

    同日付の奉天発至急報として、日本電報通信社(電通)は「満洲国政府は本日、満州新国家樹立を中外に宣布し、ここに東北四省(奉天・吉林・熱河・黒龍江)を打って一丸とした新国家満州国は大同元年三月一日をもって完全に成立した。同国の面積は七万七一三四方里、人口約三四○○万人である」と、配信しています。

    満州の面積は、現在の日本の約3倍です。

    建国宣言では「王道楽土」と「五族共和」の理念が高らかに歌い上げられています。「王道楽土」とは、武力ではなく東洋の徳をもって統治することを意味します。

    満州事変

    ウィキペディア より引用
    満州国の国旗

    「五族共和」は満州国の国旗にも反映されています。左上のラインの赤は日本人、青は朝鮮人、白は満州人、黒はモンゴル人、背景の黄色は中国人を表しています。満州国の国旗には、それぞれの民族が平等に協力しあって国づくりをしていこうとする人種平等の理念が描かれています。

    人種差別が当たり前の時代にあって、人種平等を掲げた満州国の建国宣言は画期的でした。

    その3.日本政府による満州国の承認

    満州国の建国は関東軍が推し進めたものです。もし日本政府が予め欧米列強に根回しをした上で正規の手続きを経て建国に至ったならば、その後の歴史が変わっていたかもしれません。関東軍が政府の意向を無視して強行したため、さまざまな行き違いを生むことになりました。

    軍と政府は、けして一枚岩ではありませんでした。日本政府のなかには、満州国の建国に反対する論が当初より強くあったのです。幣原外相も反対派の一人です。中国の宗主権を完全に排除することは日中の溝を永遠に深めることになると危惧し、溥儀を皇帝に担ぎ出したことは時代錯誤であり、日本の満州経営に大きな障害になると怒りを露わにしています。

    満州建国時の首相であった犬養毅は、満州国の承認は九カ国条約や不戦条約の面からも認められないとの方針をとりました。宗主権は中国に与え、その代わり経済面で日中協力の下に新政権を作ることを目指したのです。

    満州事変

    wikipedia:犬養毅 より引用
    犬養毅(いぬかい つよし) 1855(安政2)年 – 1932(昭和7)年

    明治-昭和時代前期の政治家。第29代内閣総理大臣。大正期の憲政擁護運動で活躍し、藩閥打倒を主張して立憲国民党を結成、憲政擁護運動の先頭に立った。尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれる。五・一五事件で暗殺された。

    ところが1932(昭和7)年5月15日、海軍青年士官らによって犬養首相が官邸で暗殺される事件が発生しました。五・一五事件です。

    満州事変

    ウィキペディア より引用
    五・一五事件を伝える大阪朝日新聞

    青年将校たちがテロに走った原因として、貧困にあえぐ国民がいる一方で、大資本家が経済搾取を行なっている不公平な社会を生み出している政党政治に対する不満があげられています。さらに、満州国を承認しようとしないことへの不満も凶行に至った原因の一つです。

    満州事変が始まった頃から幣原外相らが抱いていた軍部によるテロの恐怖が、現実になった瞬間です。

    事件の首謀者には死刑が求刑されましたが、裁判の過程で身売りが後を絶たない農村の切々たる窮状が明かされると国民から同情の声が集まり、判決は禁鋼15年に減刑されました。この寛大な処分が、のちの二・二六事件を呼び込むことになります。

    犬養内閣の後に成立したのは、海軍大将の斎藤実内閣でした。斉藤内閣の成立をもって、慣習的に続けられてきた政党内閣は、終止符を打つことになりました。

    満州事変

    wikipedia:斎藤実 より引用
    斎藤実(さいとう まこと)

    明治から昭和初期の軍人・海軍大将・政治家。五・一五事件のあとの第30代内閣総理大臣。朝鮮総督として、いわゆる文治主義によって三・一独立運動後の朝鮮植民地支配を行った。組閣後は満州国承認、国際連盟脱退を行ったが、帝人事件で総辞職。二・二六事件にて暗殺された。

    斉藤内閣となったことで満州国の承認は一気に進みました。6月14日の衆議院本会議にて満州国承認決議は全会一致で可決されます。

    電通は15日新京発記事として、満州国は「日本政府の正式承認を受け、名実共に一独立国として世界地図を染め直し、世界最新国として国際場裡(じょうり)に乗り出すこととなった」と伝えています。

    内田外相は議会の外交演説にて、次のように主張しました。

    「昨年九月十八日(柳条湖事件)以後の日本軍の行動は自衛であり、不戦条約は自衛権の行使を制限しない。満州国の成立は中国内部の分離運動であって、日本の満州国承認は九カ国条約の違反にならない。中国の一地方住民の自発的独立国家建設は禁止されるべきものではなく、日本は不戦条約にも九カ国条約にも違反していない」

    さらに最後に、有名な台詞を残しています。

    「たとえ国を焦土と化すとも、満州国独立を擁護せん」

    満州事変

    wikipedia:内田康哉 より引用
    内田康哉(うちだ こうさい)

    明治・大正・昭和期の外交官。3時代の外相として、外務省の中枢に居続けた。満州国承認、国際連盟脱退を断行。幣原協調外交に対して、焦土外交とよばれる強硬な外交政策を推進した。

    もちろん、本気で日本が焦土と化しても構わないと思ったわけではないでしょう。しかし、この言葉は後に現実になります。大東亜戦争にて東京や大阪をはじめとする主要都市は米軍による空襲を受け、広島・長崎に原爆が投下され、まさに日本は焦土と化したのです。

    そのすべてが満州から端を発していることは、歴史的な事実です。

    9月15日、日満議定書が調印され、日本政府は満州国を承認しました。

    日本に続いて中南米のエルサルバドルやローマ教皇庁が承認し、1937(昭和12)年にはイタリア・スペイン・ドイツが承認しています。満州国が消える前に承認した国は18カ国に上ります。

    4-7.リットン調査団の報告書とは

    その1.上海事件による悪影響

    リットン調査団はイギリスのリットン伯爵を委員長に、英米仏独伊の5カ国から選定されたメンバーからなります。中国での権益維持という利害を共有するだけに、日本に有利な裁定が下るだろうと楽観していた日本の思惑を狂わせたのは、1932(昭和7)年1月28日に起きた上海事変です。

    日中両軍は上海共同租界の近くで衝突し、戦闘状態に入りました。上海事変により中国側で1万4326名、日本側で3091名の死傷者が出ています。

    上海で激しい排日運動が行われていたのはたしかですが、上海事変の発端となった日本人僧侶襲撃事件は、戦後になって日本軍による謀略であったことがわかっています。柳条湖事件と似たような謀略がなされたことには、問題があります。

    満州事変

    図説 写真で見る満州全史』平塚柾緒著(河出書房新社) より引用
    第一次上海事変 – 上海北停車場方面第一線における日本軍装甲自動車隊の応戦

    柳条湖事件は積み重なった事象の結果としての側面がありましたが、上海事変は切羽詰まった危険があったとも言えないだけに、日本側に非があると言えるでしょう。

    上海事変は上海租界という列強の権益が絡むだけに、国際的に批判を浴びることになりました。

    満州事変

    ウィキペディア より引用
    上海事変の工作に関わったとされる川島芳子

    粛親王善耆の第十四王女(清朝の王女)として生まれ、「男装の麗人」と称された。長野県松本市の松本高等女学校(現在の松本蟻ヶ崎高)で学んだ後に溥儀に接見。満州国建国の陰で数々の工作に関わり、「東洋のマタ・ハリ」「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれた。日本敗戦後、中国国民党軍に逮捕され、漢奸として銃殺刑に処された。日中ともに今でも人気が高く、生存説が度々流れている。

    それでも、幕引きは見事でした。参謀本部からの追撃の指令を受けても、天皇より「決して長追いしてはならない。3月3日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしい。私はこれまでいくたびか裏切られた。お前なら守ってくれるであろうと思っている」との言葉を受けて着任した白川義則司令官は、司令官の権限をもって停戦を断行しました。

    満州事変

    wikipedia:白川義則 より引用
    白川義則(しらかわ よしのり) 1869(明治元)年 – 1932年(昭和7)年

    明治-昭和時代前期の軍人・陸軍大将・元帥。司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも取り上げられている。上海派遣軍司令官として停戦を断行。爆弾テロにより重傷を負い、1か月後死去。

    その直後の4月29日、上海天長節爆弾事件が起こり、白川は全身に108の傷を負いつつも収拾の指揮にあたり、およそ1ヶ月後に亡くなっています。

    上海事件を受けて中国は、国際連盟に対して満州事変を含めた日中紛争全体を、連盟理事会の紛争審査にて提訴し直しました。このことは日本政府にとって痛手でした。

    全会一致でなければ決議に至らない理事会における手続きとは異なり、紛争審査の場合は理事会の過半数の表決によって報告書が作成できるようになるからです。これによってリットン調査団の報告書が日本に不利であった場合も、報告書に従って勧告が為されることになります。

    中国の提訴は認められ、リットン調査団の報告書の実行については 19人委員会と総会があたることとされました。上海事変は日本の国益を大きく損ねたのです。

    満州事変

    wikipedia:ヴィクター・ブルワー=リットン より引用
    ヴィクター・ブルワー=リットン 1876年 – 1947年

    イギリスの政治家・インドの総督。日本では、満州事変の調査のため国際連盟が派遣したリットン調査団の団長を務めた「リットン卿」として知られる。

    満州の建国とリットン調査団による調査は、同じ頃に行われました。満州国が建国されたのは、リットン調査団が調査のために満州入りした直後のことでした。関東軍はリットン調査団の査察が入る前に既成事実を作ろうと、満州建国を急いだのです。

    日本政府による満州国の承認も、リットン調査団の報告書が提出される前のことでした。これは国際連盟を無視したも同然の挑発的な行為でした。

    その2.リットン調査団の報告書には何が書かれていたのか

    満州事変

    産経ニュース より引用
    満州事変のきっかけとなった柳条湖での南満州鉄道線路爆破現場を調べる、国際連盟のリットン調査団=1932年

    国際連盟理事会へのリットン報告書は1932(昭和7)年10月1日に提出されました。報告書は英文で148ページ、日本語で18万字にも及ぶ長文です。

    一般的にリットン調査団の報告書は日本にとって不利な内容であったとされていますが、予想以上に日本に好意的であったとする見方もあります。

    報告書の内容は本質を鋭く突いている箇所も多々あり、「四分の一世紀間、満洲に於ける国際政戦は主として鉄道政戦なりき」と満州事変の大きな原因が鉄道を巡る争いであったことが示されています。

    また、「本紛争は一国が国際連盟規約の提供する調停の機会を予め十分に利用し尽すことなくして他の一国に宣戦を布告せるが如き事件にあらず。また一国の国境が隣接国の武装軍隊により侵略せられたるが知き簡単なる事件にもあらず。何となれば満洲に於ては世界の他の部分に於て正確なる類例の存せざる幾多の特殊事態あるを以てなり」と、他に例を見ないほどの満州事変の複雑さ、歴史的な背景の深さを言い表しています。

    この文言からもわかるように、報告書は満州事変を連盟規約や九カ国条約、不戦条約に違反しているとは断じていません。

    日本のとった行動を弁護することはできないものの、「その奥にある内容を見れば、正義の秤は日本側に傾いている」とし、満州事変に対してなんらかの制裁を日本に加えることは問題外だとしています。

    「日本は本章において記述せられたる無法律状態に依り他の何れの国よりも一層多く苦しみたり」と日本に同情を寄せている下りもあります。

    ただし、満州事変は自衛権の発動であるとする日本の主張は退けられ、「同夜における叙上日本軍の軍事行動は、合法なる自衛の措置と認むることを得ず」とされ、満州国の建国を民族自決であると説明した日本側の主張に対しては、「満洲国は地元住民の自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている」と結論づけています。

    それでも「事変前の状態に戻ることは現実的でない」として、日本の満州国における特殊権益を認めていることは、日本に対する配慮を示しているといえるでしょう。

    さらに報告書は紛争解決に向けた提言として、満洲には中国の主権の下に自治政府を樹立すること、満洲は非武装地帯として国際連盟による特別警察機構が治安の維持を担うこと、日中両国、あるいはソ連を加えて不可侵条約と通商条約を結ぶことなどがあげられていました。

    提言については受け入れがたいとしても、内容自体は日本の満州における権益を認める形でまとめられているため、首相をはじめとして閣僚たちの多くは「なかなかよい線をいっている」と感心したと伝えられています。

    しかし、翌日の新聞は怒りで染まりました。自衛権と民族自決が認められなかったことを憤慨する記事が大勢を占め、国民もまたリットン調査団の報告書に失望するとともに、激しい怒りが日本中を包み込みました。

    その3.報告書をめぐる内外の動き

    報告書を審議するための国際連盟理事会が11月21日に開会され、日本代表として松岡洋右が派遣されています。日本にとって厄介だったのは、上海事変によって19人委員会を相手にしなければならなかったことでした。

    満州事変

    wikipedia:松岡洋右 より引用
    松岡洋右(まつおか ようすけ)

    明治-昭和時代前期の外交官・政治家。国際連盟特別総会に首席全権として出席し、連盟の満州国批判決議に抗議して退場。連盟脱退の英雄となる。満鉄総裁を経て、第二次近衛内閣の外相となり、日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結。戦後、A級戦犯として起訴されたが裁判中に病没。

    当初の5人の委員会であれば、いずれも植民地を有する大国であったため、日本の利害と多くの点で一致します。日本に対する風当たりも、それほど強いものではありませんでした。

    ところが19人委員会となると小国も加わってくるため、とかく理想論が先行する傾向にあります。日本にとっては不利な状況でした。

    この間、イギリスのサイモン外相からはいくつかの妥協案が提示され、松岡は賛成の意を示しましたが内田外相はこれをすべて拒否しました。国際連盟脱退もやむなしとする内田外相に対し、松岡は脱退は日本のためにならないと述べ、内田外相を懸命に説得したことが加藤陽子著『満州事変から日中戦争へ』に書かれています。

    満州事変

    wikipedia:ジョン・サイモン より引用
    ジョン・サイモン 1873年 – 1954年

    イギリスの政治家・法律家。検事長・検事総長・内相を歴任。保護貿易主義を信条とした。マクドナルド挙国一致内閣とその後の保守党政権で内相・財相・大法官(貴族院議長)など重要閣僚職を担った。

    「日本側の主張が受け入れられなかった以上は国際連盟を脱退すべし」との論は、次第に世論を支配していきました。日本国民は熱に浮かされたように、満州国に希望を託していたのです。

    満州国が認められることは、耐えがたい貧困から救われる唯一の道であり、生きていくための糧でした。

    脱退を辞せずと息巻く風潮が広がるなか、政治家のなかには冷静な論が展開されていました。宮内省や外務省の法律顧問であった国際法学者の立作太郎は、脱退論を沈静化するために次のような論を述べています。

    脱退を急ぐ俗論は、満州事変と上海事変(第一次)が連動したことで、連盟規約第一五条で提訴された以上、第一六条の制裁の可能性が生じ、その適用を避けるために脱退すべきだと説くものが多かった。しかし、と立はいう。

    紛争当事国の日中代表者を除いて、連盟理事会あるいは総会代表全部の同意を得た報告書による勧告を受けたとしても、それは元来調停の手続きに属するものだから、勧告そのものは法律上の拘束力はなく、それに従わなくとも法律上の義務違反となることはない、よって日本は単にこれを受諾しない、との立場をとればよいと述べていた。

    満州事変から日中戦争へ』加藤陽子著(岩波書店) より引用

    つまり、リットン調査団の報告書に従って勧告が為されたとしても、それを受け入れないことを表明するだけで事が足り、なんの制裁を受ける心配もないとの論です。

    内田外相も連盟脱退の心配はないと天皇に述べており、日本政府はあくまで冷静に対処しようとしていたことがうかがえます。

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    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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