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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1941年 戦争回避のための日米交渉#67 アメリカから日本に石油が一滴も入ってこなくなった謎に迫る

    #67 アメリカから日本に石油が一滴も入ってこなくなった謎に迫る

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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    第1部4章 日米交渉(8/36)まだ戦争は避けれた!ルーズベルトの仏印中立化案と台無しにした野村大使

    日米開戦までのカウントダウン

    前回は仏印中立化案をめぐる日米の動きについて紹介しました。今回はアメリカから日本に石油が一滴も入ってこなくなった謎について、追いかけてみます。

    4-3.南部仏印進駐と日米交渉

    その5.対日石油全面禁輸の謎

    - 米政府は石油の対日全面禁輸を発動していない -

    日本側の見解では南部仏印進駐に対する経済制裁としてアメリカが石油の対日全面禁輸に踏み切ったことにより、日本はアメリカと戦争をせざるを得なかったと捉えることが一般的です。

    しかし、この見解はアメリカでは通用しないことがあります。なぜならアメリカ側は、石油の対日全面禁輸など行っていないと主張できるからです。

    このことは、多くの日本人が抱いている認識とはかなり異なります。日本では南部仏印進駐に対する制裁として、8月1日にアメリカが対日石油全面禁輸を発動させたと捉えます。実際、当時の日本の新聞には「石油全面禁輸」とセンセーショナルな文字が大きく掲載されています。

    ところが実際のところ、本章の冒頭でもふれましたが、8月1日にアメリカは対日石油輸出制限を強化することを発表しましたが、全面禁輸にするとはひと言も告げていません。

    ● 開戦まであと129日 = 1941年8月1日

    アメリカが行ったのは、7月18日の閣議にて決定したことを実行に移すだけに留まっています。すなわち「石油については平常の量に制限すること」、具体的には1935年~1936年度に購入した際と同量までの原油・低質ガソリンなどについて、輸出許可証および凍結資金解除証を発行すること、及び潤滑油と航空機用ガソリンを輸出禁止にすることでした。

    つまり、ここで導入されたのは石油の輸出管理に過ぎず、石油の全面禁輸ではなかったのです。

    原油や、軍事目的ではなく日常生活に使う「さほど良質ではない」ガソリンについては、日中戦争が始まる前の年度に日本が輸入していた総量を超えない限り、ライセンスが発行される手順になっていました。発行されたライセンスに基づき、凍結されている日本資産からその金額分が解除されて決済に充てられる手はずでした。

    日本の新聞にしても「石油全面禁輸」と見出しを掲げたものの、その内容をよく読めばライセンス発行による「許可制」に移行しただけであることが読み取れます。

    そもそもルーズベルト大統領にしてもハル国務長官にしても、この時点で日本への石油の輸出をすべて止めてしまえば、日本が戦争に訴える可能性が高いことを十分に理解していました。

    アメリカ側の多くの証言からは、8月1日の時点でルーズベルトやハルに対日石油全面禁輸に踏み切る考えがなかったことが浮かび上がってきます。

    - ルーズベルトもハルも米海軍も石油の全面禁輸を望まなかった -

    アセチン国務次官補による『アチソン回顧録』には、日本への経済制裁が俎上に上った。
    7月18日の閣議において、「大統領は、石油禁輸は日本を駆ってインドネシアに向かわせる惧れありとしてこれに反対することをくり返した」と記されています。

    イッキーズ内務長官兼国防石油調整局長のダイアリーによれば、24日の閣議でルーズベルトは国務省と海軍省に対し、資産凍結が全面禁輸をもたらさないことを確約したと綴られています。そのことはルーズベルトが、日本への石油輸出を継続するよう指示したことを意味しています。

    フランスのヴィシー政権は22日には日本軍の南部仏印進駐の要求を受諾しています。ということは 24日の時点でルーズベルトには、南部仏印進駐に対する制裁として石油の全面禁輸に踏み切る考えはなかったことになります。

    ハル国務長官にしてもルーズベルトと同じ考えでした。先に「彼ら(日本)を止めることのできるのは軍事力をおいて他にない。重要なのはヨーロッパにおける軍事問題に結論がでるまで、その状況をうまく扱うことのできる期間である」と語るハルの言葉を紹介しました。そこからも汲み取れるように、当面は日本との武力衝突を避けることがハルの戦略でした。

    日本とすぐにでも戦争になりそうな「石油禁輸」というリスクの高い経済制裁を行う気など、ハルには端からなかったのです。ハミルトン東亜局長に対しても、日本との戦争に巻き込まれない限度で制裁を行うことを指示しています。

    日本と戦争になると矢面に立たされる米海軍にしても、石油禁輸に反対していたことは先に紹介した通りです。ターナー米海軍戦争計画部長は18日の閣議の翌日にはスターク海軍作戦部長に対し、「対日貿易は目下のところ停止すべきではない」との意見書を提出しています。その際、スターク海軍作戦部長もターナーに同意しています。

    大東亜戦争 日米交渉 リッチモンド
    wikipedia:リッチモンド・K・ターナー より引用
    【 人物紹介 – リッチモンド・K・ターナー 】1885年 – 1961年
    アメリカ海軍の軍人、最終階級は大将。開戦時は海軍作戦部長ハロルド・スターク大将の下で戦争計画部長を務める。絶大な権力を持ち、上官を差し置いて実質的に作戦部を仕切っていた。真珠湾攻撃の際に、合衆国艦隊兼太平洋艦隊司令長官だったキンメル大将に意図的に情報を伝えなかった疑惑がもたれている。真珠湾攻撃にまつわるルーズベルト陰謀論において、重要な役割を果たした人物とされる。

    大戦中はソロモン諸島の戦いから沖縄戦にいたる主だった上陸作戦の指揮を執った。アルコール依存症とも言うべき酒好きで知られており、酒乱により数々の事件を起こした。

    大東亜戦争 日米交渉 石油全面禁止
    wikipedia:ハロルド・スターク より引用
    【 人物紹介 – ハロルド・スターク 】1880年 – 1972年
    アメリカ海軍の軍人、最終階級は大将。海軍作戦部長に就任後、海軍戦力の大拡張案を提案した。この計画により建造された艦艇が太平洋戦線で大きな役割を果たすことになった。大戦中に海軍の指揮権を巡って合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング大将と対立。ルーズベルト大統領の命令により作戦部長を更迭された。その後、ヨーロッパ方面における全アメリカ海軍の司令官に任じられた。

    つまり、ルーズベルトもハルも米海軍も対日石油全面禁輸については慎重な姿勢を保っており、それを実行する気などなかったことになります。ルーズベルトにとって対日輸出制限の強化は警告的な措置に過ぎず、明らかに軍需として使われる可能性の高い潤滑油と航空機用ガソリンこそ輸出禁止にしたものの、それ以外の石油類については日中戦争前のレベルまでは日本への輸出を認めるつもりでいたのです。

    ところが実際には8月1日以降、日本には一滴の石油もアメリカから入ってこなくなりました。米大統領が容認していたにも関わらず、なぜ石油は事実上の全面禁輸状態に陥ったのでしょうか?

    - なぜ石油は一滴も入ってこなくなったのか -

    結論から言えば「なぜ日本に石油が入ってこなくなったのか」という問いに対する明確な答えは、未だに為されていません。日米の研究者によって、その仕組みや誰が命じたのかなどの探求が行われていますが、決定的な答えは出ていません。真相は未だ闇のなかにあります。

    どのような仕組みで石油の全面禁輸がなされたのか、森山優著『日米開戦と情報戦』(講談社)を参考に大まかに追いかけてみます。

    日本に対する輸出管理が決定されたのは7月18日です。その決定に基づき、ウェルズ国務次官から各省の官僚たちに対して、政策を実行に移すためのプランの立案が命じられました。

    輸出管理への移行という大枠が決まっても、それを実行に移すためにはシステムの構築が必要です。そうした細かい作業を詰めるのは、どこの国でも官僚の務めです。

    大がかりなシステムの構築にあたっては、一つの省庁だけで完結することは、まずありません。国務省や財務省など異なる省庁間での取り決めも必要となり、複雑な確認作業が交錯します。

    こうした過程を経て、日本に対する輸出管理のためのシステムが完成しました。在米日本資産を凍結すること、石油や綿、その他の輸出品を許可制に改めること、認められた量に関しては輸出ライセンスが発行されること等々の手順やシステムが決定されました。

    システムが完成した段階でも、石油は日本に輸出される手はずになっていました。ところが実際には、システム通りに輸出ライセンスが発行されたにも関わらず、石油は日本に輸出されなかったのです。

    なぜならば石油取引のために欠かすことのできない代金の支払い許可が下りなかったためです。日本側が支払いたくても、米国内にある日本の資産は凍結されているため物理的に支払うことができません。

    そこで日本側は日本からドル紙幣を持ちこんで支払うことや金を輸送することで支払うことなどを提案しましたが、アメリカ側は回答を先延ばしにしたまま応えようとしませんでした。三省合同外国資金管理委員会は 「米国にある手持ちドル、現金のみで決済を受付ける」と主張するばかりです。

    そのため、輸出管理局がいくら石油の輸出許可を与えても資産凍結の解除証が発行されないため、実際に石油の買い付けができなかったのです。

    日本側は何度も抗議をしましたが、「手続中」「検討中」を言い逃れに、ついに解除証は発行されませんでした。

    日本に石油を渡すという大統領令を無視して、結果的に日本への石油の輸出は全面的に止まることになったのです。問題は、いったい誰が、どのような指揮系統で対日石油全面禁輸を為したのかにあります。

    これについては諸説あります。それぞれの説については、<注釈- 4-3-1>を参照してください。

    注釈- 4-3-1
    - ファイス説 -

    アメリカの歴史学者ハーバート・ファイスは、その著書『真珠湾への道』のなかで、資産凍結措置が発表された後の世論の後押しこそが、実際に禁輸に至った原因としています。

    ファイスによれば、アメリカの新聞が日本の在米資産凍結を全面禁輸に等しいと伝えたところ世論がそれを支持したため、民意を受けた米政府が禁輸を選んだとの説です。

    ルーズベルトやハルが石油の全面禁輸に反対していたことは事実ですが、その意思がはっきりと下に伝わっていなかったことが誤解を生んだとしています。

    - アンダーソン説 -

    ファイスの説に異を唱えたのが石油問題に詳しい歴史学者として知られるアーヴィン・アンダーソンです。アンダーソンはその著書にて禁輸は世論への配慮から為されたわけではなく、米官僚制の「もつれ」の結果であるとしています。

    アメリカは日本が石油を輸入するに際して三つの関門を設けました。一つ目が輸出ライセンスを国務省から発行してもらうこと、二つ目が在米資産凍結を受けているため支払いのための資金使用の許可を財務省より得ること、三つ目がウォレス副大統領が管理する経済防衛会議の承認を得ること、以上の三つの関門をすべてクリアしなければ日本に石油は入ってきません。

    つまり、国務省・財務省・経済防衛会議のそれぞれの実務を担当する官僚の承認がなければ、石油は日本に輸出できないということです。

    実際に日本に石油が一滴も入ってこなくなった事実に照らし合わせれば、最終的にどこかの部署の承認が得られなかったことがわかります。実際、二つ目の関門である財務省は、資産凍結の解除に応じていません。

    日本に石油を渡すための管理システムが周到に設計されていたにも関わらず、それを実際に動かす官僚たちの不作為によって、システムは正常に機能しなかったのです。

    では、なぜ官僚たちは動かなかったのかと言えば、アーヴィンはマジック情報を知った官僚たちが対日強硬論に傾いたからだと指摘しています。前述のようにマジック情報からは、日本がいかにも好戦的で、なおかつ侵略の意図を隠し持っているという邪悪なイメージが浮かび上がってきます。

    それは誤訳によってもたらされた虚像に過ぎないイメージでしたが、マジック情報に接した大半のアメリカ人は、それが真実であると受け止めました。官僚たちが日本に向ける憎悪の感情は、日本に石油を渡さないことこそが正義だとする思いを育みました。

    そのために、事実上の石油禁輸という事態が引き起こされたのだとアンダーソンは考えたのです。

    - アトリー説 -

    アンダーソンの説を発展させたのが『アメリカの対日戦略』を表したジョナサン・アトリーです。アンダーソンが「官僚制のもつれ」に禁輸に至った原因を求めたことに対して、アトリーは特定の人物に的を絞っています。アトリーが犯人として名前をあげたのは、ディーン・アチソン国務次官補です。

    アチソンは三省合同外国資金管理委員会の長を務め、日本が輸入に必要な資金に限り、在米日本資産の凍結を解除する権限を握っていました。タカ派のアチソンは日本に石油を渡すことを憎々しく思っていた人物です。

    アチソンが独断で日本資産の凍結解除の措置をとらなかったため、事実上の禁輸が引き起こされたとアトリーは結論づけています。

    アチソンは日本についての知識が乏しく、禁輸という強攻策に出ても日本がアメリカに刃向かうことはないと信じ切っていたと、アトリーは述べています。

    このことについてはアチソン自身が回想記を残していますが、そこにはウェルズ国務次官による指導があったと記されています。ただし、アトリーは信憑性に欠けるとしてアチソン単独説を主張しています。

    アトリー説が真実であれば、本来は国家の外交政策に関与できるはずもない一役人が、大統領の意に反して全面禁輸を実行し、日米間の戦争を招いたことになります。釈然としない説であることはたしかです。

    日本に置き換えてみれば、その異常さが際立ちます。もし日本政府の決めたことに対して、その手続きを実際に行う官僚が恣意的に許認可を操り、結果的に政府の決定と真逆のことを為すのであれば、もはや国家としての体を為していません。

    数百万の人命が失われた日米戦争が、国家の意思を離れた一官僚の悪意のみによって引き起こされたのだとしたら、あまりにも悲劇的です。

    - ハインリックス説 -

    一方、これらの説を否定し、すべてはルーズベルト大統領の指導の下で行われたことだと主張するのがウォルド・ハインリックスです。

    アチソンが禁輸に大きな影響を及ぼしたことはアトリ-説と同じですが、ハインリックスはアチソン単独説に異を唱えています。

    ハインリックスによれば、アチソンのキャリアからして独断でこれほどの大事を為すとは考えにくいとしています。実はアチソンにはルーズベルトから首を言い渡された過去がありました。三省合同外国資金管理委員会の長というポストは、アチソンが再度つかんだチャンスでした。そんなアセチンがトップからの信用を失いかねない独断を下すとは考えにくい、とハインリックスは指摘しています。

    ここまで来ると、なにやらミステリー小説を読むかのような趣に満ちています。表向きの発言はどうあれ、ルーズベルト自身が対日石油全面禁輸を決断し、そうなるように仕向けたとするのがハインリックス説です。この見解は明らかにルーズベルト陰謀論の一端を為しています。

    では、石油禁輸が日本と戦争になるリスクが高いと判断していたはずのルーズベルトが、なぜ石油禁輸へと舵を切り替えたのでしょうか?

    ハインリックスは最大の原因として、日本軍の北進を牽制したかったからだと主張しています。これについては「4-2. 独ソ戦の衝撃がもたらした南進への道 - その9.もし対ソ戦を始めていたら…… ー 日本の北進を阻止せよ! ー」にて詳しくまとめています。興味がある方は参照してください。

    ハインリックス説が真実であるならば、なぜルーズベルトは公式に石油禁輸を発動せずに、このような遠回しの方法をとったのか、疑問が残ります。

    ただし、これについては今日の状況を見れば、ある程度の推測が可能です。

    石油禁輸は明確な挑発行為とも受け取れます。実際、日本は石油の禁輸を受けて対米開戦を決意しました。そうなると国際社会からは、日米戦争の責任の一端はアメリカにあると解釈される余地があります。

    ところが米政府は石油禁輸など行っていないと主張することで、免罪符を得ることができます。結果的に石油禁輸が実行されたことはたしかですが、それは米政府の意思に反して起きたことだと言い逃れることができるのです。

    それはまさに、現にアメリカが主張していること、そのままです。

    - 三輪説 -

    日本側で石油禁輸の謎を突き詰めた書籍はほとんどありませんが、三輪宗弘著『太平洋戦争と石油』にて掘り下げられています。三輪は米側の関係史料を精査した結果として、ヘンリー・モーゲンソー長官を筆頭とする財務省の影響力を指摘しています。

    財務省が中心となり、アチソン国務次官補などの強硬派の官僚や世論、議会の圧力が相まみえて石油の輸出再開がずるずると引き延ばされ、結果的に禁輸になってしまったとの論です。

    日本に石油が入ってこなくなった理由について、いずれが真実であるのか未だわからない状況です。ルーズベルトが陰で糸を引いていたのかどうかも、わかっていません。

    たしかなのは 8月1日以降、日本に石油が一滴も入ってこなくなったという事実のみです。<注釈- 4-3-2>

    注釈- 4-3-2
    正確には1941年8月4日、サンフランシスコを出航した日本郵船の「龍田丸」に積まれた潤滑油1079トンが最後でした。8月2日夜12時までに米国の港に入港した船舶については出港が保障されたためです。

    日米開戦に決定的な原因を与えた石油禁輸が、実際には誰がどのようにして実行したのかが判明していないとは、なんとも不思議なことです。

    - ルーズベルトが石油禁輸を追認した理由とは -

    石油禁輸の謎は尽きないものの、ルーズベルトやハルがそのことを後から知り、結果的に追認したことは間違いありません。

    アメリカの研究者によれば、ルーズヴェルトにしてもハルにしても、日本に石油がまったく渡っていないことを9月に入るまで知らなかったとされています。

    ルーズヴェルトが 8月1日に日本に対する輸出管理を発表した直後から、イギリスのチャーチル首相と会談するために大西洋に出向いていたこと、及びハルが転地療養中であったこともたしかです。なにかと忙事に追われていたことも事実でしょうが、戦争に発展する可能性さえある重大事を一国の大統領や、日本の外務大臣に相当する国務長官がまったく知らなかったとは、にわかには信じがたいことです。<注釈- 4-3-3>

    注釈- 4-3-3
    アトリーらはハルが療養中につきワシントンを離れていたため、担当者であるアチソン国務次官補が大統領の命令をどのように処理していたのかを、まったくチェックしていなかったとしています。

    本来であればアチソンには、凍結された口座が解除されないために日本に石油がまったく輸出されていない事実を、ウェルズ国務次官に報告する義務があります。ところがアセチンは意図的に報告を怠ったため、ハルはまったく知らずにいたとアトリーは主張しています。

    ハルが事態を知ったのは、9月4日、野村大使から「アメリカが日本に石油を輸出しないために日本で深刻な石油危機が起きている」と聞いたときでした。そのことは9月6日にルーズベルトにも知らされました。

    当初は石油の全面禁輸は日本の南進を招くとして反対していたルーズベルトとハルですが、9月上旬の時点ではアメリカの体面を保つためにも禁輸を解くことはできず、やむなく追認したのだと解釈されています。<注釈- 4-3-4>

    注釈- 4-3-4
    ハルもルーズベルトも思いもしない事態の成り行きに驚いたものの、石油の禁輸が1ヶ月も続いた後で今さら石油の禁輸を解くことができなかったのだと、アトリーは指摘しています。何の見返りもない状態で石油の輸出を再開してしまうと、アメリカの対日軟化を意図せずして印象づける結果となり国益に反すると、ハルやルーズベルトが考えたためです。

    さらに独ソ戦の推移が、石油禁輸の追認を促しました。<注釈- 4-3-5>

    注釈- 4-3-5
    9月の時点で、独ソ戦はドイツが優性のまま推移していました。ソ連の崩壊は時間の問題だと見られていたのです。

    この時期のアメリカがもっとも恐れたのは、息も絶え絶えのソ連に対して日本軍が攻め込むことでした。いわゆる「北進」です。日本が北進について準備を進めていることは米情報部もつかんでいました。

    日本が北進すればソ連の崩壊を招くとアメリカは恐れました。ソ連が降伏すればドイツの敵はイギリスのみとなるだけに、ドイツがいよいよ全力を持ってイギリス上陸を計ることは目に見えていました。

    また日本もソ連という重石がとれることで、アジアにあるイギリスの植民地を奪うために南進に打って出るリスクも高まります。アジアの植民地を失えば、イギリスがドイツとの戦争を続けられないことは明白です。

    イギリスを存続させるためには、石油禁輸によって日本の北進を牽制する必要があったのです。<注釈- 4-3-6>

    注釈- 4-3-6
    日米戦争には中国市場の争奪を巡る戦争としての面もありますが、アメリカにとってそれ以上に大きかったのは、イギリスを存続させるという一事です。ことにルーズベルト政権の行動は、イギリスの存続を常に念頭において行われていました。

    アメリカによる中国支援も、元を正せばイギリスを守るためという意味合いがあります。中国を支援するために日本に対する様々な制裁をアメリカが発動し始めたのは、ドイツがイギリスに攻め入った1940年からです。

    日本の南進によってアジアにおけるイギリスの植民地が失われる恐れは、常にありました。日本の南進を防ぐためにも、アメリカは日本軍を日中戦争に貼り付けておく必要があったのです。

    だからこそアメリカは重慶の蒋政権を援助して借款を与え、対日経済制裁を次第に強めて日本の動きを牽制しました。

    イギリスの存続はアメリカが存続するためにも絶対に必要なことでした。もしイギリスがなくなればアメリカの孤立は決定的となり、いかに大国アメリカといえども徐々に国力を剥ぎ取られていく結果を招きます。

    石油禁輸によって日本との戦争のリスクが増すとしても、イギリスを存続させるために日本の北進を阻むことこそが、アメリカにとって背に腹は代えられない重大事だったのです。

    今回は対日石油全面禁輸にまつわる謎について、さまざまな角度から追いかけてみました。次回は「石油の禁輸が日本にどのような深刻な影響をもたらしたのか」について見ていきます。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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