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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1940年 強烈なアメリカの経済制裁#44 アメリカから見た国際情勢。欧州をドイツが、アジアを日本が支配する悪夢

    #44 アメリカから見た国際情勢。欧州をドイツが、アジアを日本が支配する悪夢

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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    第1部 4章 北部仏印進駐(4/7)本当に侵略なのか!?仏印進駐後のアメリカの反応

    日本はなんのために戦ったのか

    2.北部仏印進駐の余波

    その7.ビルマ・ルー卜の再開

    北部仏印進駐
    wikipedia:援蒋ルートより引用
    山脈を越えるビルマ・ルートの空撮画像

    仏印ルートに次いで多くの援助物資を蒋介石政権に届けていたビルマ・ルートについても、記しておきます。

    ビルマとは現在のミャンマーです。19世紀後半、3次に渡るイギリス=ビルマ戦争に敗れてビルマ王国は滅亡し、イギリス領インドに編入されました。

    ビルマルートとは、ビルマから中国の雲南省に達する道路のことです。漢の時代から東西交流の幹線として活用されていましたが、その後廃れたものを蒋政権が1939(昭和14)年にラングーンからラシオ・昆明を経て重慶まで全長三千四百キロの道路として復旧させたものです。

    仏印ルートの閉鎖をフランス政府に求めていたことと同様に、ビルマルートの閉鎖についても日本はイギリス政府に求めていました。

    ドイツの快進撃により危機感を募らせたイギリスは、1940(昭和15)年6月より日本との交渉に応じるようになり、7月17日、ビルマ・ルート3ヶ月間停止のための協定が日英間に結ぼれました。

    イギリスとしてはドイツのイギリス上陸を阻むために全力であたるよりなく、日本軍との揉(も)め事は避けたいことでした。

    しかし、ビルマ・ルートの一時的な閉鎖は蒋政権にダメージを与えるとともに日本の勢力拡大を許すだけに、イギリスにとっては大きな痛手でした。イギリスが恐れたのは日本軍の南進によってシンガポールが危険にさらされることです。

    イギリスが国家の威信をかけて築き上げた要塞であるシンガポールを失うことは、英領マレーを失うことを意味していました。そうなるとやがてはイギリス領インド帝国さえも日本に奪われかねません。

    そのためチャーチルはビルマ・ルートの閉鎖に追い込まれたことを機に、アメリカに日本の脅威を訴えることで、なんとかアメリカを極東情勢に介入させようと画策することになります。

    アジアにおけるイギリスの植民地を守るためには、アメリカの力が不可欠だったのです。

    ビルマ・ルートの一時的閉鎖を受けて、アメリカのハル国務長官は、これは世界貿易に対する不当な妨害であると批判の声を上げました。昭和15年9月25日の『大阪毎日新聞』には「ビルマルート閉鎖に対する米国の態度は不変である。即ち米国は如何なる通商路の破壊、閉鎖にも不快を抱くものである」とハル国務長官の言葉が紹介されています。

    しかし、通商の自由を盾に中立義務違反にも等しい援蒋行為を正当化することには、無理があると言えるでしょう。援蒋行為そのものが国際法の見地からすればルール違反であることは、先に紹介した通りです。

    一時は譲歩したイギリスですが、日本軍の北部仏印進駐と三国同盟の締結を受け、期限であった3ヶ月を過ぎると協定の更新を拒否しました。10月18日よりは公然とビルマ・ルートによる援蒋輸送を再開したのです。

    日本側はその報復としてビルマ・ルートの爆撃へと踏み切っています。ただし、険しい山地に阻まれ、爆撃の効果はほとんどありませんでした。

    その8.アメリカから見た国際情勢

    ー イギリス存続とアメリカの安全保障 ー

    北部仏印進駐
    World War II Political Cartoonsより引用
    1940年の風刺画:アメリカから見てナチス・ドイツの快進撃は、脅威以外のなにものでもなかった

    ここまで三国同盟締結と北部仏印進駐までを日本側の視点を中心に追いかけてきました。ここでは視点を変えて、アメリカから見て当時の国際情勢がどのように映っていたのかを駆け足で追いかけてみましょう。

    欧州大戦でのドイツの快進撃はアメリカにとっても脅威でした。フランスがすでにドイツの軍門に降り、唯一土俵際でこらえているのはイギリスのみといった心細い状況です。

    当時はドイツの勢いからして、まもなくドイツ軍がイギリス上陸を果たし、イギリスが降伏に追い込まれるのではないかと悲観的な予想をする人々が、アメリカでも大半を占めていました。

    イギリスがドイツに敗れるとなると、大西洋の制海権はドイツに奪われます。大西洋と接するアメリカにとって、それは安全保障上で重大な影響を及ぼす大問題と見られていました。

    アメリカが最も恐れたのはナチスドイツが全欧州を支配する悪夢です。もし悪夢が現実となれば、ナチスドイツの影響力は確実に南米にも及び、アメリカを直接脅かすことになります。

    更なる懸念はドイツがイギリスを占領することで、イギリスの工業力とともに世界中の海に広がる大英帝国の強力な海軍が、そっくりドイツの手に渡ることでした。そうなればナチスドイツの軍事的脅威には、最早歯止めがかけられなくなります。

    アメリカ政府はイギリスがドイツに屈するという最悪の事態を想定して、南北アメリカとその周辺海域を防衛する戦略を策定しました。アメリカの陸海軍はイギリスがドイツの猛攻に耐えられるとは見ていなかったのです。

    しかし、米大統領ルーズベルトは異なる見解をもっていました。イギリスにはドイツの攻撃を跳ね返すだけの底力があり、アメリカはイギリスを支援すべきだという信念をもっていました。

    北部仏印進駐
    wikipedia:フランクリン・ルーズベルト より引用

    【 人物紹介 – フランクリン・ルーズベルト 】1882年 – 1945年

    アメリカの政治家。第32代大統領(1933年 – 1945年)。第26代大統領のセオドア・ルーズベルトは従兄に当たる。名前のイニシャルをとってFDRと呼ばれることも多い。アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領であり、アメリカ政治史上で唯一4選された大統領。

    ウィルソン大統領のもとで海軍次官となり、アメリカ海軍の拡張に尽力。ニューヨーク州知事を経て大統領就任。世界恐慌に際してニューディール政策を敢行し、アメリカ経済を建て直す。「中国びいき」で知られ、日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行った。シカゴにて「隔離演説」を行う。一方、日本に対しては敵がい心を剥き出しにした徹底した対日強硬策をとり、対日政策として石油を売らない経済制裁を実施、対日開戦の直接のきっかけとなるハルノートを突きつけた。

    日本の真珠湾攻撃を契機に第二次大戦に参加。史上最大の軍拡・軍需経済・戦時経済の著しい増大によってアメリカ経済を完全に回復させた。大戦中は日系アメリカ人強制収容を行う。チャーチル・スターリンとのヤルタ会談では、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に日ソ中立条約の一方的破棄によるソ連の参戦を促した。第二次世界大戦の勝利を目前に脳卒中で倒れ死亡。

    歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。しかし、日米開戦に至る陰謀論や人種差別者であったこと、及びソ連共産党への友好的な態度には批判が絶えない。

    ルーズベルトの信念を形に表したのが、9月2日に発表された米英「駆逐艦・基地交換協定」です。

    これは、英海軍の補強の一環として米海軍の旧式駆逐艦50隻をイギリスが借り受け、その見返りにカリブ海に点在する英領諸島とカナダ・ニューファンドランドとにある英海軍基地の使用権を米国が獲得する、といった内容の協定です。

    この協定はイギリスにとって、政治的勝利を意味するものでした。なぜならアメリカは欧州大戦については中立を守っているものの、軍事基地の使用権と交換に駆逐艦を提供するという行為は、諸外国からすれば、あたかもイギリスとアメリカの間に軍事的同盟関係があるように見えたからです。

    このことはアメリカを欧州大戦に参戦させたいイギリスにとって好都合でした。

    世界はルーズベルト政権が欧州大戦に参加したい意向を持っていることを、この一事をもって確信したのです。

    ー アメリカにとって三国同盟が意味すること ー

    北部仏印進駐
    Signing Of Tripartite Alliance Between Germanより引用

    この頃にはアメリカの基本的な戦略もはっきりしてきました。アメリカは「戦争の第一の脅威と軍需品の主たる需要は、大西洋にある」と見ていました。そのため「太平洋作戦は大西洋作戦に対して第二義とする政策をとるべき」との戦略を決定していました。アメリカは明らかに、太平洋よりも大西洋を重視していたのです。

    このような状況の下で1940(昭和15)年9月27日に日独伊三国同盟が締結されました。この当時、アメリカはすでに日本の暗号通信を解読していたため、三国同盟が結ばれる過程はアメリカに筒抜けでした。

    後にルーズベルトは「半ば予期していたが、かくも早く三国同盟が成立するとは思はなかった」と回想しています。アメリカの多くの識者は日本がこうも簡単に三国同盟に踏み切るとは予期していなかったことが、各種の資料から浮かび上がってきます。アメリカとしては自国の国益に反する日本の行動に対して何度も警告を発していただけに、日本がもっと自制してくれるだろうと読んでいたようです。

    さらにアメリカに対して火に油を注ぐ結果になったのは、10月4日京都ホテルにおいて近衛首相が記者団に語った次の言葉でした。

    「アメリカが日独伊の立場を理解せず、どこまでも三国同盟を敵対行為と見なし、これに対抗して来るならば、三国は敢然これに戦うということになるわけである」

    アメリカは近衛首相の弁を、明らかな挑発として受け止めました。アメリカの報道機関も一斉に反発しています。

    三国同盟がアメリカを仮想敵国としていることは明らかでした。欧州をドイツが支配するという悪夢に加え、アメリカはアジアを日本が支配するという更なる悪夢と向かい合わなければなりませんでした。

    日本によるアジア支配はアメリカの植民地であるフィリピンを失うことを意味します。さらに地理的にアジアに近いハワイやグアムも失いかねません。

    それにもましてアメリカが恐れたのは、ナチスドイツが全欧州、日本がアジアを支配することにより、南北アメリカ大陸が欧州とアジアから切り離され、完全に孤立することでした。

    あり余る資源と豊かな経済力を背景に傑出した軍事力を誇るアメリカですが、孤立無援のなかに取り残されるとなると、事は重大です。長期戦に入れば、絶望的な未来が待っていることは明らかでした。

    こうした最悪の事態を避けるために、まずは大西洋第一主義をとり、ドイツの侵攻を食い止めてから日本と対峙しようとアメリカは考えました。

    大西洋と太平洋の戦いを切り離して考えていたアメリカにとって、三国同盟の締結はふたつの海での戦いが連動することを意味するだけに、見過ごすわけにはいかなかったのです。

    それでもアメリカは従来の方針を変えることなく、大西洋では攻撃的に振る舞い、太平洋では防衛を優先することを確認しています。

    ー 民主主義の大兵器廠とならん ー

    北部仏印進駐
    wikipedia:レンドリース法より引用
    武器貸与法に署名をするルーズベルト大統領

    ルーズベルトは三選を果たした1940(昭和15)年12月29日にラジオ放送を通して、アメリカの外交政策について国民に語りかける有名な演説を残しています。

    「われわれは民主主義の大兵器廠(へいきしょう)とならねばならない」と訴える炉辺談話が、これです。ルーズベルトは三国同盟の締結によってアメリカが新たな危機に直面していることを強調し、このまま放置すれば枢軸諸国が欧州大陸・アジア・アフリカ・豪州および公海を支配するだろうと述べ、そうなれば我々は彼らの銃口のもとで生活することになると、国民に切々と語りかけました。

    そして、直接参戦することは否定しつつも、我が国と国民を戦争から遠ざけるために枢軸国より多くの艦船・銃器・航空機などを持たなければならないと、訴えたのです。

    また、安全保障の観点からイギリスの存続を望んでいることを明らかにし、イギリスに対して大規模な武器・物資援助を与える方針であることを示しました。

    これよりアメリカは国内の民間産業の総力をあげて、武器や軍需品の生産に突き進むことになります。

    いつの時代も、戦争は経済を活性化させます。アメリカの軍需生産能力は急速に拡大することとなり、アメリカの軍事力をより高めることになりました。

    「民主主義の大兵器廠」になる方針に則り、1941(昭和16)年3月には武器貸与法が成立しました。武器貸与法とは「その国の防衛が合衆国の防衛にとって重要であると大統領が考えるような国に対して、あらゆる軍需物資を、売却し、譲渡し、交換し、貸与し、賃貸し、あるいは処分する」ことを認める法律です。

    北部仏印進駐
    Chapter V
    Lend-Lease: An Assessment of a Government Bureaucracy
    より引用
    武器貸与法によってアメリカから多くの武器がイギリスやソ連に渡された

    アメリカの中立法にはそぐわない法律ですが、アメリカ国民の大多数が参戦を望まない状況下にあっては、アメリカにできる限界ぎりぎりの政策と言えるでしょう。

    ルーズベルトは武器貸与法について「このプログラムは火事を消すために隣人にホースを貸すようなものである」と説明しています。

    この法律によってアメリカはイギリスに対し、大量の武器・物資の無償供与を開始しました。さらに6月には中国に対しても武器貸与法が適用されています。

    自ら参戦しないまでも、アメリカは日独伊の枢軸国との対決姿勢を鮮明に打ち出したのです。 

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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