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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1941年 独ソ戦勃発!そのとき日本は?#51 独ソ開戦間近!日本は米英親善へ舵を切るチャンスがあった

    #51 独ソ開戦間近!日本は米英親善へ舵を切るチャンスがあった

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    第1部4章 独ソ戦(4/12)大失敗だった日ソ中立条約。ロシア人にとって「条約は破るもの」

    日本はなんのために戦ったのか

    3.独ソ戦の衝撃がもたらした南進への道

    その4.高まり行く独ソ開戦の危機と日本の対応

    独ソ戦
    https://www.independent.co.uk/news/world/world-history/revealed-the-forgotten-secrets-of-stalingradより引用

    ー 独ソ開戦は日本に何をもたらすか ー

    日ソ中立条約を交わした直後から、独ソ開戦を匂わせる情報が続々と日本側にもたらされるようになりました。

    中立条約調印の3日後にあたる4月16日には、大島駐独大使からドイツが対英戦と並んで対ソ開戦を企画しているとの情報が入っています。ドイツが年内にも対ソ開戦に踏み切る決意を固めているとの情報は、軍部に衝撃を与えました、

    続いて4月18日には「ソ連の戦争準備が整う前にドイツが対ソ戦を仕掛けるつもりだ」と、より具体的な情報が大島独大使からもたらされています。

    これらの情報を素直に読み解けば、対英戦を行っているドイツがまもなく対ソ戦も始め両面戦争に突入することが、ほぼ決定的であるように受け取れます。

    それは日本にとって重大な矛盾に突き当たることを意味していました。軍事同盟を結んでいるドイツと中立条約を結んでいるソ連とが戦争状態に陥るとなると、日本は身動きがとれなくなってしまいます。日ソ中立条約には相互不可侵の条項が含まれているだけに、同盟国であるドイツを助ける自由を奪われたも同然です。

    そもそも日本が日ソ中立条約を結んだのは、三国同盟との連携によってソ連を枢軸国側に引き寄せることにより、日独伊ソ4国の軍事力で英米に対抗しようとしたためです。ソ連が枢軸国側に立てば、ソ連と枢軸国を併せた4国の軍事力と英米の軍事力はほぼ釣り合いがとれます。軍事力において優劣付けがたい状態を保てるからこそ、アメリカを牽制する効果を持ち得るのです。

    ところが独ソ関係が危機的状況に陥っているとなれば、中立条約と三国同盟はもはや連携しません。ソ連を枢軸国側に取り込むどころか、むしろ英米側に押しやることにもなりかねません。

    そうなるともはやアメリカを牽制することも絶望的です。ソ連を英米側に追いやることで、アメリカの態度がますます強気に転じる可能性さえあります。

    独ソ開戦はアメリカを牽制するという日本側の目論見を、その根元から覆すものでした。最悪の事態となる独ソ開戦に備えて日本はどう行動すべきなのか、まさに正念場を迎えていました。

    当時、もっとも過激な論を吐いたのは松岡外相でした。4月25日、松岡は訪独時にドイツに要請されたシンガポール攻撃を主張し、近衛首相からも軍部からも反発を買っています。5月8日には参内し、独ソ開戦かつアメリカ参戦となったときには、日本はまずはシンガポールを撃ったのち、日ソ中立条約を破棄してソ連に攻め込み、シベリアのイルクーツクぐらいまでは進まなければならないと上奏し、天皇を驚かせています。

    松岡は更迭を覚悟で上奏したと述べています。周囲から見たとき、訪欧を終えて帰国してからの松岡は、異常な行動が目立つようになっていました。

    近衛は「松岡の奏上は最悪の場合の一つの構想に過ぎず、統帥部とも相談すべきことである」と上奏して事なきを得ましたが、軍部よりもはるかに過激な論を主張する松岡に、この先も軍部が振り回されることになります。

    ー 独ソ開戦は真か偽か ー

    独ソ開戦となるか否かは、当時の軍部にとって最も大きな関心事でした。情報は続々ともたらされたものの、開戦の危機を伝える情報もあれば、それを否定する情報もあり、予測しがたい状況でした。

    しかし、この頃の軍部の主流となったのは、独ソ開戦はありえないとする見方でした。開戦の危機を伝える情報はイギリスの流したデマに過ぎない、あるいはドイツがイギリス本土への大規模な上陸作戦を予定しており、それを悟られないようにするためのカモフラージュに過ぎないとの憶測が飛び交ったのです。

    それは、独ソ不可侵条約から日独伊三国同盟へと至り、日ソ中立条約を結ぶことでソ連を味方に付けたと思っていた日本側にとっての、希望的観測に基づく見解でした。

    5月13日に坂西駐独武官から「独ソ開戦必至」を伝える電報が届いてからも、その状況は変わりませんでした。

    武藤軍務局長は著書『比島から巣鴨へ』のなかで「私は独逸の対英戦争が中途半端にある今日、ヒットラーが気でも狂わん限り、対ソ戦争を始むる気遣い無用と判断していた。」と
    綴っています。

    石井秋穂軍務課員も「両面戦争を自ら求めて始めるということは腑に落ちない。真偽のほど疑わしい。もっとも絶無と断定するは軽率。ここはしばらく今後の成り行きを見守るべきだ」と、武藤と同じ見解を示しています。

    独ソ戦
    NHK特集 御前会議 紹介(1) より引用
    【 人物紹介 – 石井秋穂(いしい あきほ) 】1900(明治33)年 – 1996(平成8)年
    昭和時代前期の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。第16師団参謀・北支那方面軍参謀などを経て陸軍省軍務局高級課員となる。陸軍側の担当者として日米開戦前の多くの国策の立案に関わった。陸軍きっての理性派として知られ対米戦を避けるべく尽くしたが、日米交渉の失敗により戦争政策を進めることになる。終戦時は陸大教官。戦後は故郷の山口で晴耕雨読の静かな生活を貫いた。石井の残した日記や回想録、証言は、開戦当時の国策決定の内側を知る上で貴重な資料となっている。

    いかに軍事力に優れたナチス・ドイツといえども、軍事の常識から見てイギリスとソ連を相手に二正面戦争に踏み切る愚は冒すまいと判断していたことがわかります。

    こうした見方は日本ばかりではなくアメリカも同様でした。情報戦に長けているアメリカは日本よりも早く正確に独ソ開戦の情報を得ていますが、これまで外交において失敗したことがないヒトラーが、まさか対英・対ソ戦に好んで足を踏み入れるとは最後まで信じがたい思いでいたことが、当時の文献から浮かび上がってきます。

    坂西駐独武官から「独ソ開戦必至」の情報が伝わると、軍部の動きとは裏腹に政府の動きは慌ただしくなってきました。松岡は真偽を確かめるためにリッベントロップに対して「現下のわが国をめぐる国際情勢およびわが国内事情にかんがみ、本大臣としては、ドイツ政府がこの際能うかぎりソ連との武力衝突を避けらるるよう希望する」とのメッセージを送っています。

    このメッセージを受けたドイツから6月3日、大島駐独大使はペルヒテスガーデンの山荘に招致されました。そこに待っていたのはヒトラーとリッべントロップです。このとき大島は独ソ開戦がもはや避けられない状況にあることを告げられました。

    「最近に至り独ソ関係は特に悪化し、戦争となる可能性甚だ増大せり、尤(もっと)も必ず戦争になるべしとは言えぬ。只(ただ)前にも申上げたる通り、一度戦端開始せらるれば、二~三カ月にて作戦を終結し得べき確信を有す。之に関しては自分がポーランド戦開始以来貴大使に申上げたることは、尽(ことどと)くその通りになりし事実に鑑み、自分の言に信を置かれたし」とリッべントロップは語り、ヒトラーもまた「独ソ戦争は恐らく不可避と考えあり」と述べました。

    「共産ソ連を除くことは自分の年来の信念にして、今日迄之を忘れたることはなく、之を実行することは全世界人類に対する大なる貢献と考え居れり」と語るヒトラーを見れば、まもなく独ソ開戦となることは疑いようがありません。

    6月4日、坂西駐独武官から「独ソ戦は確実なり。国策決定にぬかるなかれ」の電報が届き、翌5日には大島駐独大使より松岡宛に次の電報が入りました。

    「独ソ開戦は今や必至なりと見るが至当なるべし。……短時日の中に之を決行するものと判断せらる。……対英攻撃の実施を容易ならしむると共に、ヒ年来の信念たる共産運動ソ聯の打倒を実施するが真の目的にして、ソ聯に対し或る要求を突き付け、ソ聯が之を承諾すれば戦争に訴えざるがごとき生易しき態度にあらず」

    太平洋戦争への道-開戦外交史 別巻 資料編』稲葉正夫,島田 俊彦 , 小林龍夫, 角田順著(朝日新聞社)

    上記中の「ヒ」とは、ヒトラーのことです。この大島駐独大使の電報を受け、ようやく独ソ戦は必至と認識されるようになりました。ただし松岡はこの期に及んでも独ソ開戦の可能性を六分と見なしています。

    これより政府・陸海軍ともに、確実となった独ソ開戦に備えるための対応に忙殺されることになります。

    ー 三国同盟維持か対米英親善への国策転換か ー

    独ソ戦
    Similar to (page 5) – JapaneseClass.jpより引用
    日本は三国同盟維持の方針を固めた

    まさか実現しまいと思っていた独ソ開戦が最早避けられないと知ったことで、これまで日本の掲げていた戦略について根本から見直さざるを得なくなりました。独ソ開戦により、日本が追いかけてきたソ連を交えた軍事同盟は夢と消えることになります。そうなるとソ連が米英の側に立つことは間違いなく、日独伊の枢軸国と米英ソの軍事力を比べれば、秤(はかり)は大きく米英側に傾きます。

    その事態が日本にとって極めて不都合であることは論をまちません。このままでは米英ソの軍事的圧力の前に、大東亜共栄圏の構想が葬られることは確実でした。

    そこで日本としては、国家の命運にかかる選択に直面することになりました。即ち、これまで通り三国同盟を維持して枢軸国側に留まるか、それとも従来までの国策を改め対米英親善へと舵を切り直すかの二択です。

    後者を選ぶ場合は、三国同盟から離脱することになります。今回の場合は離脱することに正当性があるため、そのことをもって国際的な非難を受ける可能性は低いとみられていました。独ソ不可侵条約を前提に三国同盟が締結されている以上、それを一方的に破る独ソ開戦については、ドイツに重大な背反行為があるといえるからです。

    思えば日独防共協定が結ばれているにもかかわらず、日本側に事前になんの通告もなしに交わされた独ソ不可侵条約は、日本に対するドイツの明らかな裏切り行為でした。独ソ開戦はそれに続く、日本に対するドイツの2回目の裏切り行為です。

    独ソ開戦は三国同盟から日本が離脱する最大の、そして最後の好機でした。

    この問題について陸軍参謀本部作戦部長の田中新一は次のように語っています。

    「三国枢軸か対米英親善への国策転換か。実は今日日本はこの根本問題に直面している。
     日本が若し枢軸を脱して英米と親善関係を結ぶことになれば、おそらく日支和平は成立し、遂に独伊の屈服もしくは世界大持久戦争の展開を見るに至るだろうが、その結果として日本が改めて米英ソ支の挟撃に会う危険は決して杞憂ではない。

     そこで、如何にしても枢軸より米英陣営に移る危険を冒すことに賛成することは出来ない。又日本の中立政策への還元も空想と謂わざるを得ない。結局枢軸陣営において国策を遂行するの外はない。」(田中「大東亜戦争への道程」)

    昭和陸軍全史』川田稔著(講談社)より引用

    田中は対米英親善へと舵を切り直せば、日中戦争から日本が撤退することになり平和は訪れるものの、独伊が敗れた後は今度は日本が標的とされ、最早アメリカに対抗できなくなると考えました。

    そうなると日本は米英の前に頭を垂れるよりなく、中国大陸で得たものをすべて放棄させられ、満州事変以前に戻るよりなくなると悲観したのです。

    したがって日本は三国同盟を手放すべきではない、それが田中の下した結論でした。

    独ソ戦
    wikipedia:田中新一 より引用
    【 人物紹介 – 田中新一(たなか しんいち) 】1893(明治26)年 – 1976(昭和51)年
    大正-昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校では武藤章と同期。ソ連・ポーランドに駐在後、関東軍参謀に就く。盧溝橋事件発生に当たり、武藤と連携して不拡大を唱える石原を押し切り5個師団10万人規模の北支増派を決定させた。

    駐蒙軍参謀長を経て参謀本部第1部長に就任。対米関係が悪化するや交渉の中止と開戦を強硬に主張し、慎重派の武藤と対立。ガダルカナル戦で東条英機陸相の撤退論と対立、第1部長を解任された。プノンペン付近で飛行機事故のため重傷を負い敗戦を迎える。

    戦後、朝鮮戦争にて作戦のエキスパートとして米軍に協力、日本再軍備計画に参画した。日米開戦を避けようと尽力した武藤が戦犯として死刑となり、対米戦を主導した田中が天寿を全うしたことには、運命の皮肉さを感じられる。

    一方、武藤軍務局長はまったく逆の考え方をしました。日本がこのまま三国同盟を維持すれば早晩、対米戦になってしまう、そうなれば日本が滅びてしまうと武藤は危機感を募らせました。

    次節で詳説しますが、当時アメリカは日米交渉に際して日本に三国同盟からの離脱を求めていました。独ソ開戦によってドイツとの軍事同盟は戦略的にほぼ無意味になったのだから、多少妥協してもアメリカとの関係を修復すべきだと武藤は考えました。今、目の前にある危機をまずは避けるべきだとする論です。

    田中と武藤で見解は真逆でしたが、陸軍内で多数派を占めたのは田中の見解です。その理由は田中のように先を見越したわけではなく、独ソ開戦となればドイツがソ連に勝利するだろうと予測されていたためです。

    当時のドイツの強さは際立っていました。冷静に戦力を分析すればドイツの一方的な勝利とは予測しがたいものの、戦勝の流れに乗るドイツ軍の勢いがソ連軍を上回ると信じられていたのです。

    陸軍の多くの軍人は「ドイツが勝つだろうから、このまま三国同盟を維持すればよい」と、さして疑問も抱かず現状維持へと流れました。

    国際条約のもつ法的な拘束力や重み、ドイツに対する信義以上に、ドイツが勝つという揺るぎない信頼こそが、三国同盟破棄の論を封じた最大の理由です。

    陸軍がこのような状態であったため、三国同盟維持か破棄かという極めて重要なこのテーマについて真剣に議論する場はほとんど設けられませんでした。

    近衛の戦時中の談話として「企画院総裁鈴木貞一と情報局総裁伊藤述史とは、日独同盟の破棄を進言し、余はこれを五相会議の議に付したり」と記録されている程度です。

    独ソ戦
    wikipedia:鈴木貞一 より引用
    【 人物紹介 – 鈴木貞一(すずき ていいち) 】1888(明治21)年 – 1989(平成元)年
    大正-昭和時代の軍人・政治家。通称「背広を着た軍人」。中国駐在武官補佐官・陸軍省軍務局支那班長などを経て内閣調査局調査官に就任。戦時体制への移行を政策的に先導した。興亜院政務部長を務めた後、予備役となる。第2次・第3次近衛内閣と東条内閣で国務大臣企画院総裁として、第二次大戦終結直前まで戦時統制経済をすすめ、戦時総動員体制確立に大きな役割を果した。

    戦後はA級戦犯として終身刑を宣告されるも、のち赦免。自民党からの度重なる出馬要請を断り、佐藤栄作のブレインほか、岸信介や福田赳夫・三木武夫など自民党の実力者から保守派の御意見番として慕われ、戦後日本の政財界に多大な影響を与えた。晩年は世間と一切の交流を断つ静かな余生を送り、100歳で没した。A級戦犯に指定されたことのある人物としては、唯一平成まで存命した最後の生き残りであった。

    東条英機は東京裁判にて、近衛から同盟破棄の話を受けたことを認めています。その際、東条は国際信義を口にして、これを退けたとされています。

    もう一人のキーパーソンとも言える松岡が、この問題についてどのように考えていたのかは判然としていません。ドイツにべったり付き従っていた松岡は三国同盟の破棄など考えもしなかったと指摘する書もあれば、松岡には同盟を破棄する考えがあったが、軍部に阻まれたと弁明する書もあります。

    戦後は責任転嫁に走った軍人や政治家の手記も多いため、実際にどうであったのかは不明です。先に引用した『欺かれた歴史 – 松岡洋右と三国同盟の裏面』には、三国同盟破棄を松岡が考えていたことが紹介されていますが、あくまで松岡の側近側による記述です。

    松岡の真意については推測の域を出ませんが、事実としてわかっていることは、独ソ開戦後は連日のように大本営政府連絡懇談会が開かれたにもかかわらず、三国同盟破棄の意見は松岡からも、他の誰からも出なかった、ということです。

    日本の命運を司った三国同盟を維持するという合意は、あえて議論を要することなく定まったのです。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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